考えるリニア着工 なぜ決まったCルート(上)
2020年8月6日 05時00分   中日新聞
https://www.chunichi.co.jp/article/100507?rct=h_tokai_news
>二〇二七年開業は風前のともしびとなっているリニア中央新幹線。
大井川の水資源問題をはじめ、今日まで解決の糸口が見えない数々の問題を抱える
Cルート(南アルプスルート)は、なぜ、どう決まったのか。問題の原点を検証する。
「話が違うじゃないか」。一一年六月六日、長野県諏訪市役所の一室で長机を隔て、
目の前に座るJR東海の宇野護・東海道新幹線21世紀対策本部長(現副社長)に対し、
山田勝文・諏訪市長(69)=当時=は怒りをにじませた。
諏訪にリニアが来る−。JRを信じて二十年近く機運醸成に奔走してきたが、
突如、連絡もなく別ルートの採択が決定。地域に動揺が広がっていた。
雲行きが怪しくなったのは二〇〇〇年代に入ってから。
JRが勉強会への講師派遣を取りやめ、パンフレット配布の中止を求めるようになった。
決定打は〇七年、日本の土木史上に残る難工事とされた東海北陸自動車道「飛騨トンネル」
(岐阜県)の貫通だった。最大土被(かぶ)り(地表からトンネルまでの深さ)
千メートル超えや大量湧水を克服したことが伝えられると、JRは、南アルプスを貫通する
Cルートの掘削可能性の本格調査に着手。わずか一年で、同じく千メートル超の土被り、
大量湧水が待ち構えるトンネルの掘削は「可能」との報告をまとめた。
国も、JRが主張するCルート案の「最低コスト」「最短距離」「最大需要」を歓迎し、
一一年にCルートを追認。三十年以上も本命視されていたBルートに代わって、
Cルートが国策の大本命に躍り出た。
「やるべきことはやり尽くした」と語り、四期務めた諏訪市長を一五年に退いた山田さんは
JRの誠意不足をいまも憤る。「JRはわれわれをあおっておいて、連絡なく、はしごを外した。
人が代わっても、われわれは覚えている」<
続く