堤康二朗がが軽井沢を目指したいうのが現代じゃ定説になってるけど
小田急が箱根を目指した。いうて、通常の鉄道線がたどり着いたのは箱根湯本だったいうのと一緒で
必ずしも鉄道線が軽井沢を目指したかどうかはわからんっていうことに気づかないとあかんよ。
令和の世になったからといって大涌谷や湖畔の関所跡にロマンスカーが横付けされるわけじゃない。
秩父から小鹿野町やらエッチラホッチラ鉄道線を山岳路線としてヒーコラ敷いて
手前の10キロくらいの極端な標高差はロープウェイでとか牽線トロッコでようやく軽井沢入りとかの
可能性も含めての、「目標軽井沢」だったのかもしれんよ。

いまじゃ上野から60分で軽井沢なわけで、まあ当時からしたらもはやドラえもんのどこでもドアに近い
ことなってはいるけれど。