ここで今、さっき思ったことを適当に買い解こうと思った。

まず思ったのは、古代に決められた設定の一つだ。
ダウン症と、知的障害の場合を考えたところ、これは、古代に決められた設定が裏目に出ていると思われた。

おそらく、身体的に優れている、精神的に優れている設定だったのだろう。それが、後世に設定された平等的な条件が重なることによって、押しつぶされるように今の状態になっているのではないか。

こうずっと考えていたが、それら条件はいつできたのだろう、と思った。そうするとあることに思いあたった。

まづ、ダウン症と、知的障害の場合、並列する種々の、人の特徴、の設定があるだろう。これはあまりはっきりと見つけていないけど、短気な人とか?それの可能性があるね。

今思ったがじゃあ、気長な人も設定であるかもね。

こうしてみると、これはかなり豪快に、いわば思いついたように、てきとうに決められているような印象があるな。なんか緻密な裏付けがあるわけではなく前後左右ぐらいの感覚が見いだせる。印象として。

まあ、そういう感じで決めつけられているかもしれない、もう少し別な見方ができるかもしれないが・・・・。

さてこれを豪快に決めつけるような力としよう。 そこまで考えて思い浮かんだのは、今の社会で豪快に決めつけている人たちがいる。ということだ。

中国の例として、華僑を考えた場合、今のような形で華僑があるが、あれは、中国の内部で、「自分たちが周辺諸国を支配するのだ」と豪快に決めつけた結果、あのような形になっているのだ。
ヨーロッパの場合も、「白人は・・・である」というレベルの、同種の決めつけがある。日本人は、そうでないサイドから、それを見ているが、よくわかる。
アメリカにもあるし、日本にもある。
決めつけは影響を与えている。

ここで気が付いた。古代あるいは歴史に認定されていない超古代において、人のタイプが決めつけられた。その種の力は、その後、別な、集団、あるいは何かの領域にある人々に預けられた。
一部の人々が、決めつける力を持つ設定がなされたわけだ。そして、その力が少ない側に、神を含む多数の人々が置かれた。
このような条件が設定されたわけだ。