○ 自由主義社会における象徴、そこで認められる天皇の存在。

屋上に行くとひときわ高い鉄塔が見える。自分はそこに行ったことはないがそれがスカイツリーだと知ってる。
あれがスカイツリーであるというこは、自分には客観的な事実のように思える。
なぜなら過去何度も同じ姿をした建物が、自分が見ている場所に建設された事を様々なメディアを通じて知ってるからだ。

象徴だとされる対象も一緒で、主観でありながらそこには日常生活での経験や、
自分が触れることになった歴史的経験を介して得ることになった意味が、
象徴という記号に差し込まれ、自分なりの客観的な意味として昇華される。

特に天皇制の場合は、天皇が重要なアクターとして度々登場する日本史を全国民が学ぶことになってるし、
国事行為における認証式などにしても、総理大臣を初めとする振る舞いは天皇を仰ぎみる存在として、
厳粛な雰囲気の中で行われ、現在でも天皇はどのような存在であるかについて補強される状況になってる。

但し、日本は義務教育で学ぶ日本史とは別に、朝鮮人学校のように異なる歴史物語を教えることもあるし、
様々な出版物があふれる中にあっては、日本国民でも様々な歴史認識が生じることになる。
結果として、天皇に向けられた眼差しの後に生じる意識についても、人それぞれである事は致し方がないと言えるし、
画一的な答えを求めて、そのように理解しろ的な発想は押し付け以外のなにものでもないという事になる。