以下のサイトで『人権の哲学』が自然法論的な立場で、人権の本質を上手く切り込んでいますね。
https://kenpokaisei.jimdo.com/%E4%BA%BA%E6%A8%A9%E3%81%AE%E6%A0%B9%E6%8B%A0/%E4%BA%BA%E6%A8%A9%E3%81%AE%E5%93%B2%E5%AD%A6/

人権とはあると思う人達による不断の努力の成果であり、その結果に答えた物が憲法であると。
そして、人権の本質というもの、実存主義的哲学に依存し、その理解に従えば人間の本質はもともと決まっていない。
決めるのは、これから行動するあなた方自身で掴みとる問題であり、実際に人権も自由のもとで摘み取ったものでしょうと。

さて、実際にそうでしょうか
人間は、何かを考えるときに言語を必要とする。人間はその言語を知る同時に、社会におけるニュアンスも理解する。
(例:人権と言えば、みんなが大切に思ってるようだ)
そうしたニュアンスに従って、論理構造も組み立てられる。
つまり、掴み取ったというよりも、その社会で認められる認識を改めて述べるような物にすぎないわけです。

では、その社会で認められる『知』を規範付けることになったのはなんでしょうか?
それは権力です。そうしたニュアンスを含めた『知』を踏まえることで、より良く生きることができる社会を作り上げることで、
言語を通じて、人間の内面性も深く切り込むことになってるわけです。
こうした論争は、構造主義vs実存主義のような形で行われ、その後、実存主義的な考えは廃れるようになりました。

つまり、人権とは国民が権力を手に入れた事実とは無関係ではなく、その権力を通じて社会の知を支配し、
その優位性が壊されることが無いように、そのように意識し努力することは大切だよね!といったもので、
自由のもとで掴み取ったいったものではないわけです。わかりやすく単純にいえば、
国民全体によって牛耳ることになった権力を通じた洗脳だということです。

但し、人間はそのような恣意性を抱える言語を通じてでしか物事は考えられない。
何かしらの色眼鏡を通じてでしか、考えることしかできない存在でもあるわけですが、
そうした背景を知る事によって、知らない人よりは、より自由に考えることができる意識付けにもなるでしょう。