そこで持ち出されるのが、〈租税の不払いに対して課される罰(刑務所行きもある)を避けるために、納税者は政府の通貨を手に入れる必要がある〉という理屈です。
好きなモノを買ったり貯金したりする〈通貨の利用法はすべて二次的なものであり、租税の支払いにおいて自らの通貨を受け取るという政府の意思から派生したもの〉だというのです。
つまり、〈国家が租税債務を課し、強制する権限を有していれば、その通貨に対する需要を確保できる〉という論理展開なのです。
 つまりMMTでは、通貨の裏付けを「信頼」や「期待」ではなく、「義務」や「罰の回避」だと主張しているわけです。
本書を読んだあなたは、この前提に同意できるでしょうか?
 私は同意できませんでした。
MMTでは無限後退を避けるために、いきなり政府による租税という義務を前提として持ち出しているわけです。
しかし、それでは通貨を裏付けるために、租税の不払いを見逃さず、適切な罰則を下せる政府をすでに前提してしまっているわけです。
そんな政府が、しっかりした通貨の運用をしていないとは考えづらいでしょう。
つまりMMTでは、通貨を裏付けるために、通貨がすでにしっかり運用できているような政府を前提においてしまっているのです。
 本書の中の記述からも、この前提のおかしさを指摘できます。
まず「第1章」の「【コラム】 会計の恒等式に対する異論」で、二人で構成されている経済の話が出てきます。ここでドル建ての債務証書と債務証書で取引がなされていますが、
別に租税は必要とされていません。
 また驚くべきことに、第2章には〈民間の支払いにおいて外貨が使われ、節税や脱税が広がると、人々は政府の通貨をあまり欲しがらないかもしれない〉という説明があるのです。
本書内ですでに、租税を前提とする理論が破綻しているように私には見えます。