>>76
>現実には王に等しい独裁者を擁してしまった共和制は、決して珍しくはない。

「王に等しい」とはキミの個人的勝つ主観的な評価でしかなく、
しかもキミの評する「総書記」を据えるいわゆる共産主義国は、現時点ではわずか数ヵ国である

>即ち、独裁の開始はそう珍しい話ではなく、

それすなわち、施政者側の私欲によって「王様に等しい存在」が台頭してしまうというパターンである
「独裁的共和制は国民の選択に含めるべからず」というキミの基準から言っても、
その「王様に等しい存在」の出現は「民が望んだ君主制」の実例にはまったくならないのである
国民自らが望んで「あんた、今日から立憲君主になって」という事例はほとんど無いというのが実情である
つまり、「民は君主を望んでいない」のである

>立憲君主国をいきなり始めた事例がない以上、↑の国を参考にするしかないのもまた道理だ。

まったく異端で立憲君主ともほど遠い代物を、他に無いからと言って立憲君主のコストと同値であるとしてしまうのはまことに非論理的

>「コスト不明。下手すりゃ北朝鮮・ソ連・中国・リビア・ウガンダ」のコストを支払ってまで君主制をするか否かを迫られただけに過ぎない

それはつまり「大統領にはコストをかけるが君主にはかけない」であり、「君主は要らん」に他ならない

>どこまでが昼、どこからが夜かの明確な線引きがなければ、午後1時が昼か夜かはわからなくなるだろうか。
>どこまでが赤、どこからが青かの明確な線引きがなければ、郵便ポストの色はわからなくなるだろうか。

・・・と言えば、「キミの基準(もしあるなら)」が正しいということにできると思っているのなら大間違いである

「午後1時は昼だと言ってよいだろう」が妥当だからと言って、キミの基準による「○○国は失敗例だ」が妥当だという根拠にはならない