>>301
>《人間は、自分の乗った車両が車線変更・加速したという事実を、背中やお尻の皮膚の触感や聴覚で認識できること》と説明済み

まず、「小さな加速度でも誰でもいつでもできるはずだ」とはキミが勝手にそう言っているだけであり、特に論拠のある話ではない
「ボクチャンはそう思います」などというのは「説明」などではなく勝手な決め付けである
次に、速度の推定には加速度と加速時間の「両方」を「正確」に計測する必要があり、生身の人間にそんな計測ができるという道理も無し
最後に、「車線変更=速度超過」ではないし、「加速=速度超過」でもないゆえ、
「加速度や車線変更を認識できた=速度違反を認識していた蓋然性が高い」には結びつかぬ

>加速の必要性:《都内の幹線道路はそもそも法定速度ギリギリorちょっとオーバーが常=追い越すにはさらなる加速がいる》と説明済み

法定速度60km/hの道路で80km/hの速度で走っていた場合、100m前方に法定速度で走っている車を発見したとき、
追いつくまで18秒、その間の走行距離は400mであり、信号が2つ3つ連続すれば余計な加速無しで、余裕を持って追い越しができる
法定速度の20km超えは、取り締まりの対象に充分になり得る速度超過であり、「ギリギリorちょっとオーバー論」はこれにて崩壊

>(+ちょっとでも挙げるとエンジン音変わるよ)

エンジン音から推測できるのは「加速したらしい」であり、「速度超過」ではない

>超過認識の可能性:《都内の幹線道路は(略)を、都内の大学に通う大学生が知らない蓋然性は低い》と説明済み

そんなことは、彼の生活範囲や彼の生活様式を知らぬ者には言えることなど何も無く、「蓋然性は高いとも低いとも言えない」のである
これがつまり「勝手な決め付け」であり、「彼のための舞台構築」なのであり、「悪意ある貶め」と評される理由なのである
仮にキミの主張を認めても、「幹線道路の法定速度を知らない蓋然性は低い」であり、
「加速度やエンジン音、車線変更から速度超過を認識できた蓋然性」については言えることは何も無いのである