>>932
>A:「自分は『誰しもが自然には『YESともNOとも言えない』と発想するはず』とは言ってない!」と抗弁する
>=《どこからが具体的な数字や前例、統計がなければ客観的事実ではないとするかは人それぞれ》だということを理解している。

同時に、「具体的な数字や前例、統計もなしに『キャッカンテキジジツダ!』と喚くのはガキの我が儘と同じだ」とも言っている

>B:《どこからが具体的な数字や前例、統計がなければ客観的事実ではないとするかは人それぞれ》だということを理解していない。

「人それぞれだ」ということを理解すると言うことと、
具体的な数字や前例、統計もなしに『キャッカンテキジジツダ!』と喚く人々をどう評価するかはということは別の話である


>A:《選択理由によって「多くが選択したから合理的」の正誤が分岐する》と理解している

それは「選択理由に関する考察」から論をスタートさせた場合の話であり、こちらの本来の論とは関係ない

>B:《選択理由によって「多くが選択したから合理的」の正誤が分岐する》と理解していない。

何度も言うが、それは「選択理由に関する考察」から論をスタートさせた場合の話であり、こちらの本来の論とは関係ない
「合理的であると考えられる」とは結論部分であり、それを論述の過程に紛れ込ませるのは循環論法なのである

キミのそのレス
前半部分は「客観的根拠が無いが故に持論がツブされていくことに対する愚痴」にしか見えぬのだが
後半部分は「『選択理由は合理性か』という自分の望む土俵にどう頑張っても相手を上げられないことに対する愚痴」にしか見えぬのだが