森田療法で症状の改善を目指すスレ23
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森田療法で症状の改善を目指すにあたり、有益な情報を交換するスレです。
同じような質問を繰り返し行なう等のスレに故意に迷惑をかけることは禁止です。
根拠のない誹謗中傷、罵言雑言等々は、これも当然対象外です。
森田療法の否定を主とした発言や仏教を主とした発言は禁止します。
森田療法で症状の改善を目指すスレですので、評論よりも、今苦しんでいる人のために
何が有益なのかを意識した発言をするよう、心がけましょう。
質問歓迎です。又、それに回答する軽癒者、全治者の積極的な参加をお願い致します。
前スレ
森田療法で症状の改善を目指すスレ22
http://mevius.5ch.net/test/read.cgi/utu/1506276113/ 青木さんが書いてる「何でも気になる心配性を直す本」は森田本の中でも随一オススメだけど、
結局、森田療法は近年の安易薬物療法に敗れたんだよね(今や精神科で森田療法しとるとこない)。
それはなぜかと言うと、結局みんな「幸せな『気分』で出社/登校」したいんだよ。
薬だと幸せを作ってから、楽しく出勤できる。
森田療法ではその気分本意を捨てる恐怖突入。
結構無理なんよ。気分をそのままに足を動かす、ということが。
当時は薬物療法などなかったので「森田」しかなかった。
自分はそう思う。何十年か森田療法を試みてやはり駄目だった。
極論を言うと森田療法では「気分の解決」に最初からさじを投げるんよね。
だけどみんなが求めているのは「気分を先にいじりたい」んだ。
このインスタントな時代、頭痛があれば頭痛薬、咳止めがあれば咳止め薬、痛みがあれば痛み止め、
皆、そうしてる。それが常識になってしまっている。
修行僧のような森田療法を実践できる人は少ない。
と私は考える。 >>526
これが今の薬じゃ治るんだよ。驚くことに。調べてごらん。
できれば使用してごらん。
「気になる」とか「疲れる」とか「視線恐怖」、全て治るんだよ。 >>527
治りません。一時的に症状の程度を弱くしてくれるだけです。
やがて、どんどん増量する必要が出て来て最後には体も心も壊れて行きます。
薬が何か良いものに思えるのは最初だけです。「悪魔の薬」なのです。 森田療法にこだわる人はまず「薬」を否定するんよ。
そして最新の薬も調べない。
「身体に悪い」、とする(実際恐らく非常に悪い)。
しかし人と会うのもできない、挨拶もできない精神状態の時にも、中枢神経刺激薬等で現に「おはよう!」
「今日も仕事頑張ろう!」などとシャキシャキできるんだよ。
性格が変わってしまうんだよね。
又、薬の欠陥も当然あって、副作用、心身へのダメージ、飲み続けなければならない、依存症、
などの面が多々あり、この観点からすると、森田療法で治癒、
あるいは「あるがままの気分本位で無い行動」がとれる自己の確立の方がはるかに優れる、とは言える。
ただいったように森田療法は仏教の修行のようなところがあって、ここにインスタントな現代人はついていかないんだよ。
頭痛があれば頭痛薬、吐き気があれば吐き気止め、腹痛があれば腹痛止め....はっきりいって
そんなことが身体にいいわけない。とくに精神においてはいいわけはない。
しかし現実は皆そうする、そういう時代なんよ。 精神病は動けない。心が強迫観念に固定されていて、その対話に忙しいからだ。
健康な心には強迫観念がないから、体が大変軽く、簡単に動ける。
神経症者が、動けば治るとばかり動き始めると大抵30分で停止してしまう。
動きを、神経症の治りと取引しているからである。この辺が難しい所。
だから、条件なしに一切の治療努力の完全停止をしないとならない。 ところが強迫観念がでなくなる薬もあっちゃうんだよね。
とにかく後天的な副作用も考えずどんどん新薬つくっちゃって儲けに走ってしまっているんだよ。 もしも森田療法が最も効果的なら、医療界は、これをもっと全然残留させているはずなんだけど、
インスタントを求める現代、クライアントも森田療法のような「修行」は受け入れないし、
医療業界、製薬業界も儲けと患者のニーズに走ってしまっているんだ。 太ったら、食事制限や運動などの苦行をするのが「当然」なんだけど、マライヤキャリーじゃないけど、
現代人は「胃を切る」を選ぶんだよね。
それだから森田療法が邪道ではなく、もはや邪道が主流となっている、といった方がいいかな。
そして森田療法は食事制限や運動などの苦行。
そして森田療法はインスタントな現代人に「容易な精神療法」ではない。
ここが森田療法が流行らない理由でもある。 >>530
そういうのはあんただけなのw
誰かが心が強迫観念に固定されているかとか、
それと対話(?)しているとか
そんなことで他人がどうなのか知りようがないでしょ?
いくら人ごとのようにしたくたってやってるのは
あんた自身の自己観察と自己描写なの!
精神病は動けないじゃなくてあんたは動けない(動けなかった)、
神経症者が、じゃなくてあんんたが。
一切の治療努力がどうたらで治った気になってるのはあんただけw
おわかり? >>533
その辺は自分でググって調べてごらん。必ず見つかるから。 これかな?
↓
薬物療法
社会不安障害の治療には、主にSSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害薬)を使用します。SSRIは第3世代の抗うつ薬で、脳内のセロトニンのバランスを整えます。服用後、効果が現れるまでには個人差があり、約2週間から8週間で徐々に症状が緩和されます。
また、即効性が高いベンゾジアゼピン系抗不安薬をSSRIの効果が現れるまでの補助薬として使用したり、降圧薬のβ遮断薬を震えや動悸、発汗などを抑制するために使用したりする場合もあります。 自分は森田療法を大分修練したし、理論的にも、あるいはある程度、体験もしたけど、
こりゃあ、これを「確かに自分のものとして会得するのは無理」と10年くらいやってそう思った。
無論できる人、実現する人もいるかもしれない。
あと、又、森田療法を習得した人ならば、森田療法の正当化作業なんていらないんじゃないかな。
批判されても鼻で笑えるんじゃないかな。
反論されてムキになる必要なんて全くないんじゃないかな。
その人はもう「心のあるがままを得ている」のだから。他人がどうけなそうと「あるがまま」にいれるんじゃないかな。
と自分は考える。 SRRIはパキシルやルボックスの時代から色々試したけど効かなかったな。対人恐怖には。 森田療法の真髄を習得し得て、病気も克服したひとなら、
「ああ森田療法はスゴイのに。みんな気の毒に。こんなすばらしい精神療法をやらないなんて可愛そうだな」
となると思う。
もしそういう気持ちにならないとするなら、それは未だその人が「森田療法を会得していない」、
という証明になってしまう、自分はそう思う。 ssriやプロザック、ルボックス、ゾロフトなどはもう随分大昔の薬で単なる抗うつ剤。対人に効果があるとは
自分も試したけど全くなかった気がする。
今は、新薬がでまくりなんだよ。もう覚せい剤のようなものから、あへんのようなものから、
つまりほぼ合法的な「麻薬レベルのもの」が、どうどうと、厚生労働省を通過している。
だから効くに決まっているんだよね(副作用はひどいけど)。 覚せい剤は文字通り覚せい剤だから動けない人が動ける、に決まっているんだよ。
無論、ホンモノは逮捕だけど、分子構造を変えたりして新薬としてゴマカしている。 森田療法は例えるならこの現代に「冷暖房なしで1年過ごせ」的な現代人にはかなり無理な苦行的面がある、
というのが自分の森田療法の位置づけです。
しかし昔の人はできた(森田療法の厳しい修練をクリアできた)、という。
そんな感じ。 覚せい剤に近いコンサータやリタリンといったところ? 森田療法を広めたいなら森田療法以外の両方の反論と批判ではなく、自分の体験談と、森田療法のここはこういう風に工夫して、
自分は実践した。森田療法のここが難しい困難なところと思うから、そこはこういう風に自分はクリアした、
などの話をドシドシ展開すると良いと思う。
野次や罵りなどをいちいち相手にせずに。 ここまで説明して、未だ「対森田療法の穴」を探そうとする、という方向性のあなたなら、
恐らくあなたの説く話に誰もついてこない、と思う。 >>538
「アンチ森田に対抗」と書いたの自分だけだからレスるけど、
森田療法は明確に技術と呼べるものではないので習得って変じゃない?
正当化作業というのは嘘をごまかすなど内心不利を認めていることがらに対して使う言葉でしょ?
何かの価値を信じている人が信じてるままを述べることを正当化とは言わなくないか?
「それ違うだろ!」と突っ込んだ覚えはあるけど反論されてムキになったわけじゃない。
曖昧な点をできるだけ残らなくなるまでレスしたい性分なだけよ?
>その人はもう「心のあるがままを得ている」のだから。他人がどうけなそうと「あるがまま」にいれるんじゃないかな。
何を言ってるのだかまったくと言っていいほどわからないw
心のあるがままを得ているとは?
あるがままを得ていると「あるがまま」にいれる、というのは、
「反論されてムキにならない」ということになるらしいけど、
なぜそのような関連付けが成り立つのかさっぱりわからないw
「反論されてムキにならない」ということになるらしいけど、
なぜそのような関連付けが成り立つのかさっぱりわからないw >>546
>>547
批判ではなく肯定の説明をするのがいいというのはその通りだと思う。
けれどあなたの言ってること、
完全にブーメランになってるよ。
(薬物療法と森田療法への言葉を逆にする) 528--- そうですよ。 対人関係で飲む薬とゆうのはみな寿命を縮めるそうです。
体に非常に悪いものばかり。
ユダヤ系の大富豪たちは絶対医者にかからず、薬も飲まないそうですよ?
奴等がゆうには、あんなもの飲んだら殺される、と。
じゃ、どうやって病kを直すのか? ホメおぱちーで直すらしい。
スピリチュアルね?
ユダヤは薬売りつけて大儲けしてんだけどね、?
自分らはゼッタ飲まない、って芸人か?? www 薬で治るという人が頑張ってるみたいだけど
森田の診療やってるところがないとか
間違いを平気で書いてるみたいで信用できないな
それにそんなに効くんなら検索しろとか
そこだけ急に寡黙にならないではっきり薬名を書けばいい
俺も森田にはかなりの苦行面があって薬を飲むだけで治るのなら
こんなにいいことはないと思うよ
でも現実にはそんな人を見たことはない
SSRIみたいの飲んで自分では全治気分で
迷惑がられてるのに気づかない人なら見たことあるけど
普通は大量の薬を飲みながらなおかつ治らないと困っている
実際薬を飲んでる人はずっと同じところで止まってる感じで
まるで治らないように薬を飲んでいるようにさえ見える
でも薬をやめると苦しい
また苦しいだけで100%治るかどうか分からない
まあ自分で選べばいいよな
俺は精神交互作用で症状がでいているいわゆる森田神経質なら
薬はやめて森田療法で治る可能性がかなり高いと思うのでおすすめだ ちゃんと読んでもらえばわかると思うけど、本文は「薬では(飲んでる間しか)治らない」と書いているんです(笑)。
寿命も縮まり、副作用も得体も知れない、と書いているんです。
医療業界の金儲けのためと書いているんです。
現代人の即席安易な方向性のことを書いているんです。
すなわち薬物療法の全ての「穴」を書いているんです。
正当化というのは森田の書籍をほぼ読んだ上で、まず全ての本で森田先生の教祖化のような面が見られたからです。
森田療法を否定されて怒るのはその怒りの想いが浮かぶままにその心を「あるがまま」にしておきながら、
その怒りを文章にあらわし不快をあらわに表現しない、という意味です。それでは気分本位になってしまうから。
薬物名などを詳しくこちらが書かないのは、現に、自身で調べて考え読む作業をして欲しいからです。
そして自分の書いているのは薬物療法が良い、素晴らしいというのではなく、ただ単に、
現代の精神医療の主流の現状を書いているだけです。
また批判としては「薬物療法は『効かない』」に対して、それは「効く」よ、と事実を書いています。
習得とかの言葉についての使用法は、流れから「こいつはこういうことを言いたいんだな」くらいにとどめ、
その言葉の使用法のおかしさをどうのこうのつついてもあまり意味は無い、と思います。
それで森田療法については多分、ここにいる人より随分読んでますね。
森田博士の本だけでも何冊か、岩井さんから青木さんの本、他。
そのうえで、この療法で確かにある程度いける、いや多分、「気分のあるがままに目的本位でいきられるようになる」
とすら思います。
しかしここでひとつは、
「これでは苦行は避けられない」という点、「(悪い/苦しい)気分」についてはそのままにしなければならないという点、
ここは一つ、この先の「じゃあ直接気分にアクセスして気分を先に解決する方法は無いのか」、
という点にたどりついたのです。
そしてそれを決して薬物でなく、それをできないか?あるいはもしかしたら助長として薬物をうまく併用できるのか?
これが自分の立っている場所です。 森田博士は「自覚と悟りへの道」という素晴らしい本を書いておられますが、
読んでみると「これが悟りです」と勝手に(森田療法を極めた人の到達する境地が悟りなどと)自論を、
書いています。
しかし実際の仏教経典を読むと、それは全くのデタラメだと知りました。
そういうわけで、じゃあ仏教でいいじゃん、と考え、私は森田療法を捨て、そちらに向かうことを考えはじめています。
即ち森田療法では単に精神が普通に治癒するだけで、治った人の手記を読むと、
治癒後も何度も何度も「気分が治ったり悪くなったりしながらそれでもちゃんと生活」の位置にしかいません。
自分は、いや、それじゃあ駄目だ、気分はなるべくずっといい方がいいに決まってる、
と思ってその辺を研究しているのです。
森田療法は高校くらいから10年以上、実践したり読書したりしていましたし、当然役にも大いに立ちました。
また、精神病や神経質の治療にはキチンと実践すれば、有効でしょう。しかし自分の求めているものはこれでは無い、と思ったのです。
無論仏道修行も森田療法以上の苦行です。しかし、経典を読むと、森田療法の最終到達点、
治癒後も何度も何度も「気分が治ったり悪くなったりしながらそれでもちゃんと生活」、なんてところじゃないんです。
その場所を越えた継続する「平安」が説かれています。 ちなみに自分は高校時代など「うん、これは素晴らしい、生活発見の会に入ろう」(笑)と思っていたほどですし、
今の会社の入社試験(小論文)は「森田療法のすばらしさの体験と解説」を書いて合格したくらいですから、
つまり森田療法には人生において滅茶苦茶お世話になったんです。
というわけで自分はアンチというわけでは無いんです。そこんとこ宜しくご理解願います(笑)。 >>558
たぶん誰に向けての意見かとかをアンカーつけないから
ごちゃごちゃになってるんだと思う。文章がやたら長いし。
単に自分の考えを理解されなくてもいいから吐き出してしまいたいだけ
というんならそれでもいいだろうけど。
似たようなアンチ、嵐の人が多いから伝わらないかもだ。 >>557
森田療法がきっかけで仏教に関心を持つようになった人は少なくありませんね。
私が知っている人の中には、心臓神経症で水谷啓二氏の啓心会診療所に入院して
いた時に水谷氏の知己であった仏教学者のことを知り、退院後はその仏教学者の
弟子となって仏教を学び続けて、晩年にはその仏教学者と共著で仏教の専門書を
出版するまでになった人もおられます。(その過程で心臓神経症も消えてしまった
ようです。) >>558
いくつか書きます。まず何を言いたいのか分からない。
森田をやったがダメで副作用覚悟で薬でいくということか。
あるいは正馬が治癒が悟りと言ってるが間違いで
だったら仏教を直接やろう(論理がめちゃくちゃですが)ということか。
いずれにしても10年もやってそう思うのならあなたの選択は間違ってもいないと思います。
それと気になったのは森田療法を苦行と言っていて、それは私も肯定しているのですが、
それは主に神経症の生活から抜け出る期間を指しています。
楽なものだと思われると続かないと思うのでいつも書かないのですが、
当たり前ですが、普通の生活に慣れ、同時に森田療法的概念が体得されてくると、
苦行というような状態ではなくなり、また逆に楽しさも増えてきます。
あと、あなたの症状は精神交互作用でできていましたか?
根本的にこれでできた神経症でないと、森田療法はあまり効果的ではないし、
また当人も意味がわからないと思います。すべては、というと極端かもしれませんが、
その循環を行動により消そうというのがこの療法だからわけがわからなくなると思うからです。
なぜそう思うかというとあなたの気分の捉え方が、間違っているように思うからです。 森田から100年、精神交互作用なんて言わないで、現在の自分の言葉で言うべきだ。
何の進歩もなかったと告白しているみたいなものではないか。 何で
森田イズムに相当影響受けてるくせに森田アンチなの?
っていう問いに逃げないで答えられたら進歩だね。 >>562
ある感情に意識が集中して
それを取り去ろうとすることで
さらに意識がそこに固着されるという精神の循環現象
無駄に長いだろう
それとこの人間の精神的現象についての表現は
十万年ぐらいも経てば別の人類になっているかもしれないので
役に立たなくなるかもしれないが百年ぐらいだと一瞬で同じだな
さらに各人が別個に自分の表現で語り出したら
議論も無駄にややこしくなる
「ああそれは精神交互作用のことですね」
という無駄な過程を経る必要が出てくる
だいたいこういう事だろうけど
こういう事いうのも無駄な過程ではあるな ・・・・≪【「こういう事いうのも無駄な過程ではあるな」と書くことも無駄な過程であるな】
と書くことも無駄な過程であるな≫と書くことも無駄な過程ではあるな・・・・ ヒポコンドリーなんて言ってないで、インターネットの時代なのだから”hypochondriac”
と入れて、英語の世界に勇躍すべきだ。そこには現代の意味が沢山書かれている。
何故100年前の英語を読んだかどうか分からない森田に、質問しないとならないのか。 何で
森田イズムに相当影響受けてるくせに森田アンチなの?
っていう問いに逃げないで答えることで勇躍すべきだ。 今月の自助会の生活の発見の会誌に我々対人恐怖のために
書かれた名文発掘があったので転載します。入院療法の水谷啓二先生の言葉。
目上の前や会議や朝礼の緊張に応用して。
「...対人恐怖の人は、目上の人の前での平気でいられるようになることを治ること
だと思っているが、とんでもないことである。目上の前でビクビクするのは当然の
人情であってその気持ちがあってこそ目うの人からも迷惑がられず、好意を寄せられ、
引き立てられるのである。古語に「君子は親しんで狎れず」というのである。」 ↑
今日、新人が店長とミーティングをしていたが、やはり対人恐怖で無い健康な人でも
緊張しているように見えた。対人恐怖が治るとは緊張しなくなることではない、
むしろ緊張を当たり前として反抗しないことが治りだ。 >>572 それ違う。対人恐怖は精神障害の一種で決して心理的一般的症状ではない。
対人恐怖とは、強迫観念が暴走してその人の人生を崩壊させる深刻な病気なのです。 では、この名分で治っちゃう自分は元々、対人恐怖でなかったのかな?
それとも軽症だったか。 >>575
そうでしょう。そんなことで治るのなら対人恐怖症だったとは言えませんね。
「あがり症、緊張癖のある人」という範疇ですね。 >>574
君がかなりの精神障害かもしれないということは
ここのスレの人の多くはすでに十分わかっていると思うので
わざわざ書かなくてもOK
ただ道ずれにしようとするなよ
君だけがということだな 治れば上がり症だと決めつけるのは、アガリ症と対人恐怖を厳密に分けないと都合の悪い理由があるからだね??
それは、森田式の理論が崩壊してしまう恐怖から逃げようとしてるだけ。
大変だねえーーーー ww 変な理論にすがって生きてくって。
その理論がいつ崩れ去るかわからない恐怖とも戦わないといけないんだからねえ〜〜〜〜〜〜〜〜
ソイだったらいっそのこと、はじめからどこの馬の骨かわかんな―――ーイ森田なんかやらないほうがいいよ。
それで、自分の頭で考えてどうやってアガりを克服しようか考えたほうが男らしいよ。
、自分自身を頼るんだから変な人に金魚のうんこみたいについて行かなくていいし、スッキリしていい。
大体マトモナとユーーーーか、ふつーーーーの人はみんなそうやって自分で考えて対策を見つけてんだからねえ〜〜〜〜〜〜〜〜〜
大抵子供の頃のことだけど。 で、結局紆余曲折あって答え見付けてほっとして元気に人生歩き出したわけだよ。 >対人恐怖が治るとは緊張しなくなることではない、
>むしろ緊張を当たり前として反抗しないことが治りだ。
上がり、緊張というのは人間の自然な現象だが、また、図太いニンゲンはなかなかそうならない ように見える。
でも彼ら内心については霊能者ではないのでわからない。
ただ、上がってもそれに負けるものか、という強い心で立ち向かっていると、恐怖心や上がりの症状は弱くなっていくものである。
これはケンカjの時にも言える。 怖いと思っても立ち向かって殴りつけると、恐怖心はどんどん薄れていくし、逆に恐れて黙り込んでいると恐怖心は強くなってくるものである。
また上がりの症状はそれと関係なく起きるときは起きる。
だから起きたら戦えばいいだけだ。 それを森田の様に、戦うとかえって怖くなったからみなさん戦ってはいけないなどと、あほなことを宣伝するバカがいるからいけない。 >目上の前でビクビクするのは当然の人情であって、その気持ちがあってこそ目上の人からも迷惑がられず、好意を寄せられ
堂々として勇敢に発言するものを見て、迷惑だと思う人が居たら、それは精神がゆがんでいるということである。
人情というなら、勇ましいものを見たら人間は、いいなあ、、自分もああなりたいものだと思うものであり、迷惑だ、いやな奴だ、などと思うのはよほどひねくれた人間だけである。
貴方はひねくれた、心の曲がった人間だ。
そういうひねくれた人間はひねくれた理論について行くのだ。
森田式は心の曲がったものに受け入れられる理論なのである。
創価学会に入る者が心が曲がった、罪のある者だというのと同じ。
入らない者も曲がってる者はいるが、それはまた別の形で罰を受けるとゆーーーーーー事。 >>574
精神障害のお前は皆さんの神経症を
治させないようにする気か? >>580
137 :名無し:2001/05/16(水) 11:56
いいえ、GLAは危険です。
教祖がキリスト、モーゼ、釈迦の生まれ変わり
という説は麻原に大きな影響を与えたでしょう。
平気でこんなことを言う高橋信次は危険です。 >>582
24神も仏も名無しさん2017/12/20(水) 13:41:31.09ID:PahCjs8J>>26
>高橋信次先生は、銀河系の最高責任者で、「真のメシヤ」とも呼ばれる方です。
教団ぐるみの主観に過ぎない。
他方から呼ばれた例は皆無。
「太陽系で一番偉いんだ」というとかいう幼きころの回想録は笑止。
小さな枠内で手前勝手な権威を振り翳している構図しか見えてこない。
結局そこにはカリスマによる主観主導のもと判断された
善悪の分別を否応なしに受け入れている精神奴隷型社会しか存在していない。
疑問は悪とされ地獄行きと認定される。
カリスマが白と判断すれば信者は無理やりにでも白なのだ。
しかも常時必要以上に有難がって感謝するようマイコンまでされている。
一体どこの国の話なのだろうか。 何かグダグダ長い文章が羅列されていて、これは何も書いてないのと一緒だ。
対人恐怖、異性恐怖は心理の問題でなく、脳が暴走した深刻な精神病なのです。
治療と言う飴玉、麻薬を追い続けていると、廃人と言う結果が待っている。
治療と言う麻薬を今この瞬間に断固否定して停止する勇気がないと、
そのまま人生の最後まで神経症は続く。
繰り返すが、神経症とはタバコの禁煙に似ている。これが最後だからと森田の
甘言を聞いていると、そのまま地獄に直行します。 >>586
脳の暴走、治療の飴玉で麻薬、などという通常の感覚から
激しく逸脱している深刻な表現、断固とし過ぎている決意の調子は、
統合失調症あるいは異常人格に由来する著しく病的妄想を思わせる。
適切な森田療法を停止してしまうのは神経症者にとって損失でしかない。
森田で治れば森田自体からも自由になれ忘れたに等しくもなれる。
この自由と森田の治りで得た活力は天国とでもいうしかない。
停止してしまった者の結果がそのような強迫観念の地獄だ。
神経症と森田療法への固執から離れられない限り
あんたの地獄は人生の最後まで続く。 >>586
素人の無為療法、斉藤正弘。
お前のその自分の言葉のを鵜呑みに
した神経症の患者さん達は治らなくなり
路頭に迷う。素人、しかも精神病のお前は
責任がとれるのか???
実に恐怖だ。 神経症の基本である恐怖症さえ治せないくせに
無為療法の斉藤は専門医の森田療法関係の医者達、宇佐院長まで否定、バカにしたりお前は一体自分を何様だと思っているんだ。 >治療と言う麻薬を今この瞬間に断固否定して停止する勇気がないと、 、そのまま人生の最後まで神経症は続く。
そ、そーーーだよね〜〜〜〜〜〜〜〜〜??
治すなんてマトモなことしちたtら、元気な健康人になっちゃうもんねえーーーー??
ここわやっぱし、「そのままそのまま」、無責任にほっといて、風の吹くまま気の向くまま、、カラダお動かしていればきも紛れていいよね?
いい方法なんか無視して生きてれば神の罰で地獄に落ちれるからシヤワシだよ ,>>586
対人恐怖、異性恐怖は心理の問題でなく、脳が暴走した深刻な精神病なのです。
⬆
これを鵜呑みにすると、治らなくなるって
言ってんだ。バカたれ。 > 「いいえ、GLAは危険です。
教祖がキリスト、モーゼ、釈迦の生まれ変わり
という説は麻原に大きな影響を与えたでしょう。
平気でこんなことを言う高橋信次は危険です。 」
高橋氏の本何冊も持ってるが、どこ読んでもそんなことは書いてないぞ??
唯一、キリストが背後霊としてついていたとはゆってるがな
本から判断して、異常なことは一切ゆっていない
それどころか、増上慢を叱り、自己の幼い感情に走らず、愛をもって人を指導し天上界への道を説いている。
逆に、、文句つけているものこそ、森田を信奉していたり、創価学会を支持してたりの怪しい人物ばかり。
どっちが間違いかすぐわかる。 www >>594
株では儲けてる?中古家屋何軒も持っているんだって?
家の売買を何十回もしているらしいけど不動産関連の資格かなんか持ってるのかな?
それとも自分で不動産会社を経営しているの?
特許を保有しているって本当?どの分野の特許?
特許明細書は自分で書き起こしたの?弁理士はどういうふうに探してる?
株で200万くらいを1億にしたって?
保有資産が億の二桁にせまる勢いなんだって?
すっごいね〜 森田どころじゃなんじゃない?
高橋は講演もしてるし本以外にもあちこちいろいろ書いてるし
身内、側近信者にも本の内容以外にいろいろ語ってるらしいしね。 >>595
固定資産税やら所得税やらで出るものがすごいことになるでしょう。
長文いくつも貼っつけてる場合じゃないんじゃない?
じつは上に書いたのぜんぶ高橋式の空想なんじゃないか?w
>増上慢を叱り、自己の幼い感情に走らず、愛をもって人を指導し天上界への道を説いている。
増上慢、幼い感情、指導(的外れの罵倒にしかなってない
そしてだれも本気にしていない)、全然教え通りじゃないな。
創価学会?そんなものとは一度たりとも関わったことないが? 創価学会は三代目の池田大作になってから堕落・劣化がひどくなったが、
二代目の戸田城聖という人物は非常に骨のある優れた人物だった。
彼は治安維持法で刑務所に入っていた時に法華経三昧の生活をして、
非常に深い宗教体験を持っている。その体験は神経症の人にも役に立つ
ような内容だ。
しかし、今の創価学会は誰も法華経など読んでおらず、人の魂を救う力
の全くない凡俗集団になっている。創価学会に入るぐらいなら、自分で
法華経を味読する方がはるかに為になる。
また、今でもオウムに入会する哀れな若者がいることは大きな問題だ。
創価学会は一応仏教であるが、オウムはオカルト教であって仏教ではない。
麻原は金剛乗(ヴァジラヤーナ)などと言っていたが、実質は小乗仏教の
腐敗形態とも言うべきもので、学べば学ぶほで頭も心も狂っていくような教義
になっている。
過去には神経症が苦しくてオウムに救いを求めた若者達もいたようであるから、
神経症スレにおいても随時注意を促す必要があるだろう。 48歳の晩に神経症から脱したという方、
その日になにをしたのでしょうか?
前からおっしゃっているとおり、一切の治療行為を辞めたということですか?
参考にさせてもらいたいんですが読解力がなくてすみません。 >>598 一切の治療行為の停止と雑用の開始です。
だってじっとしていたらおかしいでしょう。 >>601
それは正確に言うと
症状を【直接】治そうとする治療行為の停止と
別のレベルでの雑用という治療行為の開始だな
間違ってはいないと思う
ただその場合の雑用はそれ自体への捉われになる可能性が俺には感じられる
鈴木知準のところの「動き」ってのも同じようなものだろうが
どちらも入院向きではないのかな
かなり細かいことなのでそれへのフォローも細かくないと
難しい気がする >>602
そこを一々説明する必要がないのです。貴方の周りの人を見なさい。誰もじっとしていないでしょう。
自分が何をどういう目的でするなんて説明しない。ただやる。これが健康世界なのです。 >>603
言ってる意味があまりわからないけど、
あなたの周りの人達はみんな朝から晩まで動き回っているように見えますか。
それはかなり奇妙なSF的世界でしょう。
たぶん症状に捉われて動き出せない状態を批判したいのだろうけど
人は目的があって動き止まり生活しているのでね
もちろん「私はスッキリしたいので顔を洗いたい」と宣言して
顔を洗う人は、滅多にいないけどね。
なんか君に答えようとするとアホみたいな答えになるな。
わざとじゃないんだけどね。 >>603
斎藤さんは治りも口に筆に表現しないほうがいい。 >>602
>鈴木知準のところの「動き」ってのも同じようなものだろうが
「動き」が治療手段となって囚われとならないようには
しっかり注意が払われていたように思います。
もちろん要フォローなので指導がフォローそのものでした。 「動き」を重視していた鈴木診療所では対人恐怖の治癒率は低かったのです。
「動き」は雑念恐怖・読書恐怖のような非対人の強迫観念には大きな効果がありますが、対人恐怖には大した効果はありません。
(鈴木は自分自身は対人恐怖の経験がなかったので、対人恐怖に対する理解は浅かったと言えます。) >>608 効果を求めているようでは神経症は一生になる。
動くとは生きる事であり、神経症とは関係がない。 >>608
対人恐怖の「予期恐怖、はからい、事後にあれこれ気に病む」
がなくなった状態は対人恐怖の全治ともみなせると思います。
ただ、気おくれなくなく人付き合いができたり楽しめたりようになるためには
森田療法とは別のアプローチが必要でしょうね。
私の場合、対人関係の成功体験のほかに、
家族環境の分析、自身に固有の人からよく思われたい心理の分析と克服、
対人恐怖の悩みが小さく思えてしまうほどの読書体験、
みたいのは欠かせなかったです。
「人間観の根本的な変容」とは具体的にどんなことがありましたか?
ここで書ける範囲のことであれば教えてください。 >>611
>「人間観の根本的な変容」とは具体的にどんなことがありましたか?
対人恐怖だった時は、「人は一人一人が別々の存在」だと思っていました。ところが、そのような
「個性(体格、性格、容姿、能力、人格・・)」というものは衣服のようなものに過ぎず、
「人の本体」は自分も他人も同じ一つの意識だったことがわかるようになったのです。そうなると、
対人恐怖は起こりようがなくなります。(自分が自分に緊張する必要はないからです。)
「誰々は偉い」「誰々は馬鹿だ」などと言っても、それは各個人の衣服を褒めたりけなしたりして
いるだけのことで、人の本体というものはみんな同じものだったということに気付くと、対人恐怖や
社交不安障害は幻(まぼろし)だったとわかるようになります。
一般の多くの人々も「人は一人一人が別々の存在」だと思って生きています。そのような考え方が
人間関係のストレスの根本原因ですが、神経系が安定している人は精神障害にはなりません。
神経症になる人は神経系が弱いので(不安定なので)ストレスが続くと簡単に精神障害を発症して
しまいます。そうなると、治す方法は「神経を図太く強くする」か「人間観が根本的に変わる」かの
どちらかしかありません。もともと神経系が弱かった人が神経を図太くするのは至難の技なので
前者の方法は難しいですが、後者は少し深い洞察があれば誰でも得られるもので、私も後者の方法で
神経症から自由になったのです。
お気づきの人もいると思いますが、後者の方法とは「仏教の教え」を学ぶことです。( → ) ( → )
仏教の教えがわかるようになると、森田療法の考え方が正しいこともよくわかるようになります。
「自分の本体」が症状を持っているのなら消さなければなりませんが、症状が起きているのは
「個性(衣服)」の部分であって「自分の本体」ではないので、症状はほっておいてよい訳です。
「あるがまま」でよいということです。
「個性」を「自分の本体」だと思っている間は、症状と自分が同一化されているので苦痛を感じるもの
ですが、「個性」と「自分の本体」が別であることがわかるようになれば、症状は意味を失って消えて
いきます。
仏教思想を「医学」に持ち込むことは現代では無理でしょうから、対人恐怖・社交不安障害に悩んでいる
人は自分で森田療法と仏教を並行して学んでいくのがよいと私は思います。
こんなことを書くと、私が仏教で悟っていると勘違いする人がいるかも知れませんが、私は悟ってなど
いません。仏教のほんの入口の部分を体験しただけの者です。ただ、ほんの入口の部分を体験するだけ
でも神経症から自由になることができるので、神経症から自由になる為の一つの良い方法として、時々
皆さんに紹介しているのです。 >>612
個々の無意識が地下水脈でつながっているという
ようなイメージでよろしいでしょうか? >>612
詳細なレスありがとうございます。
>自分も他人も同じ一つの意識だった
というのがわかると
>対人恐怖は起こりようがなくなります。
となるのはすごくよくわかります。
私も対人恐怖が治ってからは、
以前は苦手だった職場のパートのおばちゃんや、
治る前は絶対に話せなかった女子高生、男子中学生、
たちと談笑したりもできるようになりました。そして
そういうときには「自分も他人も似たようなもんだな〜」としみじみし、
なんでこうまで他人が怖かったんだろうと不思議な思いになります。
仏教がそこへの近道とは知りませんでした。
そうなのですね。参考になりました。
(こういう気付きは部屋の中だけの生活では
絶対に体験できないことですね!
対人ストレスがなければ治ったと勘違いするしかない) >>615 談笑したりも出来るようになったではなくて、そんな事忘れていることが多くなった
でないとならない。 >>614
私も(ユングの影響を受けて)体験前はそのようなイメージを持っていましたが、
体験してみると少し違っていました。比喩は難しいのですが、喩えとして表現すれば、
人間というのは、「まったく同じ水」が(大きさ・形・色・材質の違う)さまざまな容器に
入っているというイメージに近いです。
(地下で「つながっている」というよりも、「そのままで同じもの」という感覚が強いです。)
人の本質は「水」であるのに、「容器が自分であり他人である」と錯覚することが苦しみの
始まりだと言えます。
>>615
そうなのです。仏教は最良の近道だと私は思っています。 ネット検索で阿頼耶識という言葉がひっかかりました。 >>616
むろんふだんそんなことは意識してませんよ?
レスを書く都合から触れたまで。
ここで「忘れてなければいけない」なんて持ち出してくるのって
とてもノイローゼ的だよね?
鈴木の紙の上の説明の世界そのままな感じ。 >>618
「阿頼耶識」は唯識派による説明の一つですね。
「阿頼耶識」という概念を全く使わないで「悟り」を説明する派もいくつかあります。
私の師匠の一人は「阿頼耶識」のさらに奥にある「阿摩羅識(あまらしき)」を肯定する人
でしたが、体験があれば特定の概念による説明にこだわる必要はなくなっていくようです。
(ここではスレ違いの話になってしまいますから、この辺で。) なんか仏教の流れになってるけど
要は仏教で治る対人恐怖もあるんだろうとしか言えないな
そう言う人がいるんだからそうなんでしょう
ただその人たちが森田では対人は治らないと言い出すと
それは間違いだと言うしか無いな
もともと森田療法は正馬が、現在のDSMでも当時の見方でも
関係ないと思われていた普通神経質 強迫観念症 不安神経症
に共通する原因を見つけ、逆にそれらは「神経質」と言う同じものが
違った形で現れているだけで、同じ方法で治せると発見
あるいは主張したところから始まっている。
だから治せると主張するのは「神経質」であって、
神経症やノイローゼ全てではないんだ。
どの程度か知らないがあくまで部分なんだろう。
軽い強迫観念が治るとか、対人は治らないとかじゃなくて、
神経質ではない普通神経質とか不安神経症も、少なくとも対象じゃないんだ。 これはのちの人にも引き継がれていて、
高良が森田神経質、鈴木知準も神経質タイプ神経症と記している。
どうしてもやりたい人は断らないだろうけど、基本明確に対象を限定してるんだね。
ではそうした森田療法が対象とする「神経質」の共通性質の主なるものは何かと言うと精神交互作用だ。
これは症状を治そうとすること自体が
症状を形成する原因となっていると言うもので、
この段階では仏教でもキリスト教でも、治そうとする目的で
行うあらゆるものは同じように症状を形成する原因にしかならない。
これはたぶん森田療法で効果のあった人はたいてい経験しているのではないかな。
神経症になるぐらいの人だから元々宗教とかにも興味があっただろうし、
症状に陥った時最初に宗教的なものに近づきガッカリしたんじゃないかな。
しかしこれで治ったと言う人もいるのでそう言うのもあるのだろうが、
興味としてそう言う人に精神交互作用があったかどうかを聞きたい。
それがないタイプの神経症だったとしか思えないんだ。
だからこそ治療法として直接症状を治すことをやめる・諦める=なすべき行動をなす
と言うのが出てくる。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています