トホホのWindows 第8節
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____ ____(^o^)ノ__ < 朝だ | { V } | |\⌒⌒⌒ \ \| ⌒⌒⌒⌒|  ̄ ̄ ̄ ̄ ______________ | (^o^)ノ | |\⌒⌒⌒ \ \|⌒⌒⌒⌒|  ̄ ̄ ̄ ̄ ____ ____(^o^)ノ__ < やっぱ、起きるか | { V } | |\⌒⌒⌒ \ \| ⌒⌒⌒⌒|  ̄ ̄ ̄ ̄ http://www.antiatom.org/page/index.php?id=334 トップページ >>> 被爆者との連帯【広島・長崎】 >>> 沈黙の閃光/ セツコ・サーロー 被爆者との連帯【広島・長崎】 沈黙の閃光/ セツコ・サーロー いまから40年前の1945年8月6日、アメリカは広島に原爆を投下しました。当時、私は広 島女学院に通う13歳の生徒でした。この一発の爆弾でおよそ14万の人々が命を失いました。 私は生き残った者のひとりです。その後の人生の大半を、あのとき目の当たりにした恐怖 と被害を二度とくり返させないために生きてきました。廃墟から這い出てきた私たちは、 いま世界を脅かしている核の破局を垣間見ました。私のことをお話しするのは同情を得る ためではありません。警告なのです。 被爆以前の私の生活は、日本の若い女の子としては例外的なものでした。家族は武士階 級の家系でした。侍といっても、封建的な特権はずっと以前になくなっていたのですが、 それでも武士の家系にははっきりとした社会的な格式が残っていました。私たちの住む広 島の大きな家の門には、武士の家系であることを示す家紋が刻まれていました。 西洋の知識という点でも私たちは例外でした。戦前、私の父はドイツ人のパートナーと 「西部フルーツ会社」を起こし、カリフォルニアで果実の商売を営んでいました。6人の 兄弟姉妹のうち何人かはそこで生まれました。家族は、ゴルフとかスキーとか、西洋の中 流の人たちが楽しむ娯楽にも親しんでいました。ほとんどの日本人にとって、習いたいと は思っていたかも知れませんが、何の知識ももっていないような活動でした。 私は、1932年1月3日、中村節子として広島に生まれました。兄弟姉妹のほとんどはすで に成人年齢に達していました。だから私は大人の世界で一人っ子のようにおませで、甘や かされて育ったわけです。たくさんの楽しい時間がありました。けれど戦争はいつも影を 落としていました。ラジオで日米開戦の報道を聞いたことも覚えています。9歳のときで した。勇ましい軍歌に続いて、陸や海戦での勝利が伝えられました。しかし太平洋戦争の なかで年とともに音楽は暗いものへと変わっていきました。大きな敗戦の報道が続くよう になり、天皇陛下への忠誠が強調されました。状況は悪化の一途をたどりました。なにも かも配給に変わりました。着るものも、とりわけ食べるものも。ごはんに押し麦や、さら には食べられるものなら何でも混ぜるようになりました。砂糖はほとんど手に入らなくな りました。 私は、1932年1月3日、中村節子として広島に生まれました。兄弟姉妹のほとんどはすで に成人年齢に達していました。だから私は大人の世界で一人っ子のようにおませで、甘や かされて育ったわけです。たくさんの楽しい時間がありました。けれど戦争はいつも影を 落としていました。ラジオで日米開戦の報道を聞いたことも覚えています。9歳のときで した。勇ましい軍歌に続いて、陸や海戦での勝利が伝えられました。しかし太平洋戦争の なかで年とともに音楽は暗いものへと変わっていきました。大きな敗戦の報道が続くよう になり、天皇陛下への忠誠が強調されました。状況は悪化の一途をたどりました。なにも かも配給に変わりました。着るものも、とりわけ食べるものも。ごはんに押し麦や、さら には食べられるものなら何でも混ぜるようになりました。砂糖はほとんど手に入らなくな りました。 終戦間際のある日のことです。二階に行くと父がテーブルの前に座って、なにか外国の 本を読んでいました。「それなに?」と聴くと、「英語の文法の本だよ」とのこと。驚き ました。父は、「やがてこれが必要となる」と言いました。当時は、まだそれがどういう ことなのかよくわかりませんでした。いまから思えば、父は日本の敗戦が近づいていたこ とを知っていたのです。米国に住んだことがあり、アメリカのすごい力をよく知っていた のですから。 その年の春から夏にかけて、米軍はサイパン、テニアン、硫黄島の空港を相次いで落と し、日本の都市を攻撃できるようになりました。広島を爆撃する前、米軍は東京はじめ、 大きな都市を次々と爆撃しました。広島が攻撃されるのも時間の問題でした。37万人の人 口と優れた港をもち、そこから軍人を船で太平洋の戦場に送り出していた広島は、主要な 攻撃目標だったのです。 私たちも、備えを固めようとしました。市全体が班に分けられ、それぞれが民間防衛体 制の責任者である班長の下に置かれました。女性のスカートやハイヒールは禁止です。実 際、非常時に自由に動けるように、もんぺとよばれる機能的なだぶだぶのズボンをはいた わけです。外出するときは救急セットが入った布のバッグと炒った豆の袋とを持ち歩きま した。もし取り残されても飢えることがないようにです。夜は敵機が家を標的にするのを 防ぐため、窓という窓に覆いをつけました。毎晩、空襲警報で眠りを中断されました。い つでも防空壕に逃げ込めるよう、寝るときも服は着たままでした。 ふだんの授業は停止され、生徒たちには動員がかかりました。原爆が爆発したとき、7 年生、8年生の生徒のほとんどにあたる6000人以上の生徒が市の中心付近で、建物疎開に あたっていました。爆撃の後、火災が広がるのを防ぐため防火帯をつくる作業です。その ためには家々を引き倒さなければなりません。志願していた大人に助けられながら、生徒 たちは木材や瓦の片付けにあたったわけです。 私自身は、建物疎開の作業はしませんでした。同じ学校から行った30人くらいの女子生 徒と、前線から届いたメッセージの暗号を解読する特別の訓練を受けていたのです。すば やく足し算、引き算をし、暗号表と照らし合わせなければならない複雑な作業です。成績 が上位の生徒だけがこの仕事に撰びだされました。そんな重大な情報に13歳の女子生徒を あたらせるくらいですから、日本がどれほど絶望的な状態にあったかがよくわかります。 夏が盛りになっても、懸念された広島の空襲はありませんでした。人々は次第にいらだ って、アメリカは何か特別な計画をもっているのではないかと疑いはじめていました。 私の、正規の暗号解読助手としての第一日は、1945年8月6日月曜日、朝8時にはじまろ うとしていました。市の上空で原爆が破裂した時間の正確に15分前です。前の晩、31歳の 姉綾子と姉の4歳の子ども英治が田舎から広島に出てきました。医者に行ってものもらい を見てもらい、ついでに美容院でパーマをかけてもらおうと、出かけてきたのです。綾子 の夫は戦地に出ており、彼女は、子どもを空襲から守るため広島を出て、田舎に疎開して いました。 その晩はいつものように空襲警報が鳴り、よく眠れませんでした。しかし翌朝は警報解 除が鳴り、人々はいつもの仕事を始めようとしていました。美しい夏の日で、青空がいっ ぱいに広がっていました。6時30分に布団から出て朝食をとりました。綾子と英治は医者 と美容院へと出かけました。7時45分頃、私も家を出て、生徒たちのグループといっしょ になるために駅へと歩きました。私が班長でした。隊列を組み、市の中心から1.8キロ メートルのところにある第二総軍司令部へとむかいました。「歩調をとれ!」「かしら、 右!」と、私の号令で入り口の歩哨に敬礼した隊員たちを、暗号作戦の責任者であった柳 井少佐が待っていました。少佐は、二階の大きな部屋に集まった私たちを前に演説し、元 気で、天皇陛下のために一生懸命に働くよう話しました。ちょうど、私らが「わかりまし た。最善を尽くします」と言ったときでした。窓全体が青白い閃光でいっぱいになったの です。 爆発音は聞きませんでした。市から何キロもはなれたところでは、落雷のような轟音が はっきりと聞こえました。しかし私たちは、爆心近くにいたほかのすべての被爆者と同じ ように何も耳にしなかったのです。静かな閃光だけがあったのです。それを見た瞬間、机 の下に潜り込もうとしました。けれどなにか浮かび上がるような感じがしました。建物と ともに、私の身体は落ちていったのです。 気がつくと、辺りは静かで真っ暗でした。瓦礫の下敷きになっていました。爆弾が頭上 に落ちたのだと思いました。市民の誰もがそういう感じを持ったようです。 瓦礫の中に横になり、動くこともできず、このまま死ぬんだなと思いました。不思議な ことに怯えはありませんでした。しばらくして、級友の声が聞こえてきました。弱々しい 声で神様を呼んでいました。「神様、たすけて!」「おかあさん、たすけて!」 そのと き、だれかの手が私の左の肩に触れました。私の近くに埋まっているだれかでした。それ から、その手が私の周りの木片を緩め始めました。真っ暗な中で男子の声がしました。 「いいか、あきらめるな。押し続けるんだ。動かし続けるんだ。いま助けるから。見え る? 陽の光が差しているだろ」。左側に光がちらちらと差し込んでいました。その人は、 「動くんだ。隙間から這い出るんだ!」と言います。私には彼が見えませんでしたが、こ うして二人で闇の中から這い出したのです。そのとき、火はすでにその瓦礫となった建物 にもまわりはじめていました。 私が着ていた服はぼろぼろになり、血に染まっていました。体中、傷だらけでしたが、 手足を失うことはありませんでした。朝だったのに空は暗く、まるで夕暮れのようでした。 そのとき、市の中心の方から、人々が足を引きずりながら歩いてくるのが見えました。体 の一部を失った人、目が溶け出してしまった人、黒ずんだ皮膚、骨からはがれ、リボンの ように垂れ下がった肉片、あたりを満たすひどい臭い、焼けた人の身体の悪臭。それは説 明しようのない臭いでした。あえて言えば、魚を焼いたような臭いです。 一番不思議だったのは、あのときの静けさです。それは、私が感じたもっとも忘れるこ とのできない記憶のひとつです。みなさんは、人々がパニックに襲われ、走り、叫びまわ ると思うかもしれません。ですが広島では、そうではなかったのです。無声映画の絵姿の ようにゆっくりと動き、埃と煙の中を足を引き摺りながら歩いていたのです。何千人もの 人が、「水、水をください」といってあえいでいました。多くの人がそうして崩れ落ち、 死んでいったのです。 這い出すことができた2、3人の級友と一緒に、幽霊のような人の列に加わりました。 1マイル(約1.6キロメートル)くらい歩いたでしょうか。非常の場合はそこへ逃げろとい われていた丘の斜面の方向です。何もかもが炎に包まれ、黒い煙と埃が空を覆い、ますま す暗くなっていました。 丘のふもとには練兵場がありました。地面はすべて死体と瀕死の人々でいっぱいでした。 歩ける人は近づいて助けようとしました。だれもが水を欲しがっていました。熱と脱水症 状による最悪の苦しみにあえいでいたのです。けれど、コップもなければ水を運ぶ水筒も ありません。近くの小川に行き、ブラウスを脱いで水につけました。そうして急いで戻り、 ぬれた布を死んでいく人たちの口にあてがったのです。人々は必死になって水分を吸おう としました。それが、私たちができた精一杯のことでした。 一日中、その仕事に追われました。夜が来て、私たちは丘に腰を下ろし、火が市全体を なめ尽くしているのを茫然と眺めていました。朝には、広島はまったいらになっていまし た。ふつうならずっと遠くに見えていたはずの市の背後の山が、すぐ近くに見えていまし た。私たちを襲ったものが通常爆弾以外のなにかであったことはあきらかでした。まるで 突然、青空から地獄が降ってきたようでした。 被爆者が「原爆」という言葉を聞いたのはずっと後になってのことです。けれど、私は その言葉を、その日のうちに、丘の中腹に腰を下ろし市が焼けるのを見ているときに耳に したのです。暗号解読本部で私たちのボスであった柳井少佐が傍らに立っていました。眼 下に広がる破壊の跡を見下ろしながら彼は、「これは、アメリカが開発してきた新型爆弾 に違いない。原子爆弾だ」といったのです。暗号解読の専門家として、彼は秘密情報を知 っていました。彼の言葉は、もちろん、当時の私には何のことかわかりませんでした。10 日ほどして、「広島は新型爆弾によって壊滅した」と書かれたポスターが電柱に張り出さ れはじめました。それには、初歩的な科学の解説が書かれていました。そこには「高度曳 光性新型爆弾」という言葉が使われていました。 σ < なんだかなぁなんだかなぁなんだかなぁ {V} U 原爆が落ちたとき、父は瀬戸内海で、好きだった釣りをしていました。広島からほぼ10 キロメートルほどのところで、ボートの上からきのこ雲が市を覆うのを見たといいます。 すぐに岸にとって返し,急いで市内に歩いて戻りました。母は、爆発のとき、朝食の後の 食器を洗っていました。つぶれた家の下敷きになりましたが、火がまわる前にのがれるこ とができました。 家族の間では、もし何か起こったら、親戚が住む広島郊外の府中に逃げることになって いました。母はただちにそこに向かいましたが、父は別の郊外にある親戚の別荘のほうに 行きました。綾子と英治が生き延びたと聞き、そこへ行ったのです。両親がどうやってふ たたび落ち合ったのか判りません。たぶん翌朝、別荘で落ち合ったのでしょう。同じ朝、 父は私を探しに出ました。私が働いていた陸軍本部の人たちは丘に逃げたと聞いていたの です。兵隊さんが、「中村節子!」と、私の名前をよぶので、「はい、ここです」と答え ました。そこに父が居たのです。父はひとこと「よかった!」といいました。「ありがた い、おまえは生きていた!」という意味です。その後しばらく、言うべき言葉もありませ んでした。 父と私は、母、綾子、英治と別荘で一緒になりました。姉と英治は生きてはいましたが ひどい状態でした。 σ < なんだかなぁ \/V__.__/ |ξ|ノ| ̄| 爆発のとき、ふたりは医師のところへ行こうと橋をわたっていました。爆心では摂氏60 00度にものぼった、焼き尽くすような熱線を遮蔽するものは何もありませんでした。多く の人々がただ、ただ、蒸発したといいます。姉と子どもは爆心地よりは離れていましたが、 ひどいやけどを負いました。綾子はどうにか、息子を背負って、崩れ落ちた私たちの家ま でたどり着きました。隣の人は、姉が廃墟を掘り起こしているのを見たといいます。そこ から彼女は食用油を掘り出していました。やけどに塗って和らげようとしたのでしょう。 姉は隣の人に、親戚の別荘へ連れて行ってくれるよう、助けを求めました。隣の人は、瀕 死の英治を運び、姉は腕に食用油を抱え、這うようにして来たのです。翌朝会ったとき、 二人の身体は二倍もの大きさに腫れ上がっていました。皮膚は溶け、火ぶくれが覆ってい ました。 10日ほどその家にいる間、姉と彼女の子どもは薬もないまま、じわじわと死にむかっ て苦しみがつづいていました。なにも食べられず、小さな子どもが「おばーちゃん、英治 にブーブーをちょうだい」というのです。「ブーブー」というのは水のことです。でも、 私たちは二人に水をあげることができませんでした。兵隊さんから「水をやると、死を早 める」と言われていたからです。 σ < ナンダカナァ \/V__.__/ |ξ|ノ| ̄| 敵機はなお、広島上空を飛び、破壊の様子を調べていました。飛行機が来るたびに防空 壕に逃げ込まなければなりませんでした。私は容易に駆け込めたのですが、綾子と英治に は、何をしてやることができたでしょう。二人はもはや歩くこともできず、触るだけで肉 が剥げ落ちるのです。父は部屋で寝ている姉を残して防空壕に行くことができず、彼女も 運ぼうとしました。姉は痛みで悲鳴をあげました。恐ろしい声でしたが、それでも父の心 は姉をそこに残すことを許さなかったのです。 10日後、綾子と英治は息を引き取りました。二人の焼けて膨れた体が溝の中で無造作に 焼かれるのを見つめました。兵隊さんが二人にガソリンをかけ、マッチで火をつけ、焼い ていきました。よく焼けるように、竹の棒で遺体をひっくり返さなければなりませんでし た。彼らは作業しながら、「腹はまだ半分しか焼けてないぞ」とか「脳みそがよく焼けて ないぞ」などといっていました。泣くこともできませんでした。この記憶はその後もずっ と、私を苦しめ続けました。同じような経験は他の被爆者のみなさんからも報告されてい ます。級友のひとりは、家があったところに戻ったら、家族すべての焼かれた死体があっ た。あまりのことに泣くこともできなかったといっていました。 ずっとあとになって、原爆の心理学的影響について研究をはじめ、私たちが感じた感情 の麻痺についてわかるようになりました。アメリカの精神科医ロバート・ジェイ・リフトン が書いた広島の被爆者についての本「生のなかの死」(Death in Life 岩波の訳は「広島 を生き抜く」)によって、私は、彼のいう「精神の閉鎖」について学びました。過度にお ぞましい刺激が意識に入り込むのを防ぐための心の麻痺についてです。私のなじんだ家庭、 友だち、学校、町そのものなど、すべてが一瞬にして消え去った悪夢の世界でなお、私が 行動することを可能にしたもの、それがこの心の麻痺であったと信じています。 ____ ____(^o^)____ < トッホッホ | レ{ V }し | |\⌒⌒⌒ \ \| ⌒⌒⌒⌒|  ̄ ̄ ̄ ̄ 8月15日、被爆から9日後、兵隊さんたちが、正午にラジオで重大放送があるとメガフォ ンで伝えてまわりました。私たちは、特別放送があるから近くの丘の中腹まで来るように いわれました。父と私が行きました。木の枝にかけられた拡声器から天皇の声が流れてき ました。音質はひどく聞き取りにくく、おまけに私たちは天皇の公式の宮廷用語に慣れて いませんでした。けれど彼が、降伏を決定したことについて伝えていることは判りました。 彼は、広島と長崎(広島から3日後に爆撃された)の破壊についても述べました。これら 二つの都市の運命が降伏の決定に関わっていると言っているようでした。天皇は、臣下が 「耐えがたきを耐え」るよう言って、演説を終えました。数人の兵隊が泣き出しましたが、 ほとんどの人はただ、呆然として立ち尽くしていました。 敗戦の翌日、私たちは郊外にある伯父の家に移りました。伯父の妻と二人の娘は広島か ら戻りませんでした。幸いなことに伯父のところには私たちの分の食糧や衣類があり、彼 が所有する貸家に住まわせてくれたのです。生き残ることだけが問題でした。 当時の私たちがおこなった一番の仕事のひとつは、義理の姉を探すことでした。彼女は 被爆のとき市の中心に居ました。数日間、私たちは瓦礫を調べ、焼けた死体を裏返しまし た。家があったところにも行きましたが、灰と砕けた瓦以外、何もありませんでした。湯 のみとご飯茶碗が溶けて、ひとつにくっついていましたが、鋳物の鉄枠がついた飾り時計 を拾い出すことができました。(それは今でも私がもっています)。9月もずっと探しま したが、彼女を見つけることはついにできませんでした。 ____ ___〈(^o^)〉__ < なんだかなぁ | { V } | |\⌒⌒⌒ \ \| ⌒⌒⌒⌒|  ̄ ̄ ̄ ̄ 去年の夏、彼女の息子と話をしました。彼は、被爆のとき市の外にある家に居ました。 いまは広島工業大学で電子工学の教授をしています。母親が帰らなかったことについてど う感じているか尋ねたのにたいして彼は、そのことと向かい合えるまで本当に長いときが かかったといっていました。被爆当時、彼はちょうど5歳でした。母親は亡くなったとい われていたのですが、それでも毎日駅に行き、母親が広島での仕事を終えて帰ってくるの を待っていた、何カ月もそうしていたとのことでした。 9月の半ば、原爆が落ちてから5週間後、台風が広島を直撃しました。家に帰りながら雨 に降られ、ごみや糞が流れている中をひざまで水に浸かって歩かなければなりませんでし た。原爆にあって以後はじめて、泣き崩れ、号泣しました。びしょぬれになり、疲れ果て て家に着いたとき、父に惨めな気持ちをぶつけました。父は、「お互いに命があり、ひと つ屋根の下に暮らせているのに、お前はなんの権利があって不満を言うのか!」と、私を 叱り付けました。 はじめは、父の言葉に打ちのめされました。しかし、結局、父の言ったことはそのとお りでした。生活の現実と折り合いを付けていかざるを得なかったのです。私の両親は典型 的な模範でした。一度も不満を漏らしたことはありませんでした。すべてを失いながら、 なお打ちひしがれませんでした。たぶん、それが侍の息子や娘の矜持だったのでしょう。 私にはわかりませんが、父のその言葉が私にふたたび生活をはじめ、立ち直る力を与えた のは確かです。その日は、私の感情的な麻痺に終わりを告げる日となりました。ひどい窮 乏と惨めさという事実に向かい合って生き続ける決意を固めたのです。 10月頃、学校が再開しました。市内の元の校舎は灰燼となりましたが、市外の山に土地 をもっていて、仮の施設をつくったのです。波型のブリキの屋根を載せた粗末な小屋でし た。雨が降るたびに、先生の声が聞こえなくなるほどひどい音がしました。窓もなく、風 が直接入ってくるので凍えるような寒さでした。でも、気になりませんでした。級友と一 緒になれ、以前の生活が戻ってきたようでうれしかったのです。 生き残ったことを喜びあったのですが、長くは続きませんでした。被爆に続いて、生き 残った人たちに不思議な症状が表れてきました。他の多くの人たちと同じように、私も内 出血や下痢、歯茎の出血に襲われました。脱毛もありました。私の場合はそれほどでもな かったのですが、なかには全部抜け落ちてしまった女の子もいました。そういう生徒たち は防空頭巾をかぶって登校していました。それが、なんの外傷もない人たちまで、静かに 死んでいくようになったのです。最初は、身体に細かい紫斑が表れ、生徒たちが次第に学 校に来なくなりました。先生が、「今日は、だれとだれが休みかな」というようになり、 まもなく、その子が亡くなったと知らされます。それが紫斑と関わっていることは判って いました。毎朝、紫斑が出ているか調べました。もしあれば、死が待っていたのです。 私が大好きだった叔父と叔母もそうして亡くなりました。二人とも爆心から離れた、市 のはずれにいたのに症状が表れました。私の両親は、二人が亡くなるまで世話をしました。 母の話だと、二人の内臓や組織は、腐り、溶け、黒い水のような液体になって流れ出てい くようだったとのことでした。ふたりともオムツをつけなければなりませんでした。母は あるものなら何でも使いました。しばらくの間は、古い着物を使っていましたが、それが なくなると新聞紙を使いました。けっきょく、叔母も叔父も、他のたくさんの人たちと同 じように亡くなりました。原爆症について知ったのは、後々のことでした。ゆっくりとし た、不可解な放射線による死、それは広島に引き起こされたたくさんのおぞましい出来事 のひとつでした。核兵器を認める人たちは、生きた人間に対するこの恐ろしい、野蛮な影 響を考えようとしません。彼らが考えるのは戦略と統計だけです。 その後2、3カ月の間、人々は次第に市内に戻り始めました。他の人たちと同様、戦地 から帰った兄も焼け跡をきれいにし、小屋を建て、妻と娘と一緒に住むようになりました。 私と両親はその後も市外に住み続けました。学校は数年後、丘の上の仮施設から市の中心 に近い立派な建物に移りました。私は広島で高校へ、そして大学へと進みました。 広島は見かけ上、再建されていきましたが、犠牲者の心の傷が癒えていくにはなお、多 くのときが必要でした。米占領下の7年間、アメリカは原爆が人間にもたらした悲惨さに 関するすべての情報の報道を禁止しました。占領軍は、反米感情の噴出を抑えるためだと いいましたが、多くの日本人は、世界に核戦争の恐ろしさを知らせないようにするためだ と思っていました。ほぼ12年、日本政府も被爆者に医療援助や金銭上の支援をしませんで した。最後に、被爆者団体の運動で、そうせざるを得なくなりました。被爆者は自分の国 の政府にも見捨てられ、孤独と悲哀の中で暮していました。1952年に占領が終わり、私た ちはようやく人前で自分たちが経験したことを話せるようになりました。広島と長崎につ いて、たくさんの情報が手に入るようになりました。次第に人々は感情の麻痺から抜け出 すようになり、回想や論文を書くようになりました。記憶にあるものを描写し、絵にする ようになりました。演説をしたり政治の活動にも加わるようになりました。そうすること で被爆者はみずからが心理的に立ち直っていっただけでなく、核兵器の危険について世界 中に警告し始めたのです。 私は、1974年に広島で開かれたある原水爆禁止の会議に参加して、活動に積極的に加わ るようになりました。そこで私は、自分自身に起こった個人的な悲劇を超えて平和のため に身をささげている勇気ある被爆者のみなさんと出会ったのです。それ以前も平和と軍縮 は私にとって重要な問題でしたが、いまやそれが人生の中心的な問題になったことがはっ きりと判りました。自分の人生で優先させるべき目標の再整理は心を解放し力を与えてく れました。それは、多くの点で宗教上の転向にも似ています。 1974年以前も、私は核兵器の問題について完全に沈黙していたわけではありません。19 54年に広島の大学を卒業してから、アメリカで勉強するために奨学金を受けるようになり ました。バージニアのリンチバーグ大学で1年間社会学を学びました。アメリカに着いた とき、新聞記者の人たちから広島のことや1950年代の水爆実験についてどう感じるかにつ いてインタビューを受けました。日本からアメリカに行く5カ月ほど前に、ビキニ環礁で のアメリカの核実験による降下物が日本の漁船員ひとりの命を奪い、他の乗組員を病気に し、大切な漁業水域を汚染したのです。日本中で怒りが沸騰しました。私が何を感じてい るかを尋ねられ、広島と長崎は、核実験の始まりではなく、終わりであるべきだったので す、と答えました。このインタビューが掲載されると、「日本へ帰れ!」「真珠湾を忘れ るな!」などと書かれた手紙が届きました。殺すぞという脅迫状もありました。ひどく驚 いて、一時はもう二度と話すまい、とも思いました。ですが、この事件は、結局は私の決 意を強めただけでした。 バージニアでの1年を経て、日本を出る前に知り合ったカナダ人と結婚しました。(夫 は当時、西宮市の関西学院で英語の教師をしていました)。1955年に彼が日本から戻り、 ワシントンDCで結婚しました。(バージニアには異人種間の結婚を禁じた法律があり、 カナダにはごく近しい家族や親戚を除いてアジア人の移民を禁じた法律がありました)。 私たちはトロントに移り、私自身はトロント大学に移り、そこで社会福祉事業の修士号を 取りました。 カナダでもマスコミから核戦争について見解を聞きたいと言ってきました。カナダ人の 中ではそれほど敵意は感じませんでしたが、むしろ無関心や知識のなさが問題でした。た くさんのカナダ人、中でもマスコミ関係者は私の広島での体験を格好の、興味本位の話と いう以上に深く見ようとしませんでした。彼らは核兵器を自分たちの問題として捉えたり、 普遍的な問題として捉えたりしたがりませんでした。 アメリカが原爆をつくるのにカナダのウランを使ったことや、マッケンジー・キング首 相が「原爆がヨーロッパの白人でなく、日本人の上に落とされてよかった」と言ったこと をすっかり忘れ、原爆を日本の問題だとかアメリカの問題だと見ることは簡単です。演説 やインタビューを頼まれたときはいつも、カナダ人に伝えるためにできる限りのことをし てきました。けれど、平和運動に積極的に参加するきっかけとなったのは1974年の広島で の会議でした。受身に待つのでなく、積極的に機会を探そうと決意しました。 トロントに戻り、さまざまな仕事についている信頼できる友人に集まってもらいました。 牧師さん、科学者、法律家、社会学者、作家、広島出身の他の被爆者などです。みんなで 一緒に、広島市や長崎市から贈ってもらった被爆写真パネルの展示など、世論を喚起する ための計画をつくり、実行しました。それ以来、アメリカでも日本でもイギリスでも、被 爆体験に基づく反核の思いを語りました。 何度か、マサチューセッツのローエルで平和活動家を弁護するために証言するよう頼ま れましたが、判事は許可しませんでした。広島のことはずっと以前に起こったことで、無 関係だ、というのです。そのとき、私の心には、姉と甥、叔父と叔母、義姉、いとこ、学 友たち、そして広島で苦しみ、死んでいった何千何万という人々の姿が浮かび上がってき ました。私ができるただひとつの道義的な反応は、判事に対して怒りを込めて、「ですが、 人々はいまも命を奪われているのです」と叫ぶことでした。法廷から退去させられ、法廷 侮辱罪で告発されることを覚悟しました。ところが次に起こったことは、元海兵隊大尉で、 検事の経歴も持つ被告の一人が私に腕をまわし、「ウィ・シャル・ノット・ビ・ムーブド (我々は、立ち退かないぞ)」と歌いだしたのです。他の被告も加わりました。判事は法 廷を収拾できなくなり、休廷を宣言せざるを得ませんでした。 私は、広島の出来事から完全に立ち直ったのでしょうか? それとも、いまなお苛まれ ているのでしょうか? いまは充実し、精神的にも豊かな生活を送っています。それに感 謝しています。自分では一人前のカナダ市民だと感じています。社会福祉活動もしていま す。二人の息子も立派に育て上げました。社会的に役立っていると思いますし、そうあら ねばならないといつも思ってきました。しかし、私は、ある程度まで、二重の生活を送る ことは必要なことだと思います。私のような被爆者だけでなく、世界のだれもがです。私 たちは、明日があるという仮定にたってこれからの計画を立てます。同時に、私たちや私 たちにつながるほかの人が、今日のうちにも灰にされてしまう危険もあります。 広島の平和公園には慰霊碑があり、そこには「安らかに眠ってください、過ちは繰返し ませんから」と書かれています。これが被爆者の誓いになりました。そうしてこそ愛する 人たちの正視に堪えない死も無駄死でなかったことになるのです。そうあってこそはじめ て、私たちが生き残ってきたことも意義を持つのです。 原文: A Silent Flash of Light Your Voice and Mine 2 (Holt, Rinehart and Winston of Canada, Limited 刊) に所収 1987 Holt, Rinehart and Winston of Canada Limited For use in high schools 訳:たかくさき・ひろし、校閲:セツコ・サーロー σ < コーヒーはまだかな !/V_.__/ | ̄|ノ| ̄| >For use in high schools カナダの高校生はこれを教材として学んでいる。 肝心の日本でこんな文章が教材になるか? どうせ、親米右翼どもの反対で潰されるだろう。 これが民度の違いだ。 >>237 コピペ、パクリ、無断転載、どこまでが違法なのか。知らないと怖い著作権の常識 https://www.excite.co.jp/News/reviewbook/20150514/E1431536258534.html >引用として認められるには、次の要素全てに注意しなければならない。 >(1)他人の著作物を引用する必然性があること。 >(2)かぎ括弧をつけるなど,自分の著作物と引用部分とが区別されていること。 >(3)自分の著作物と引用する著作物との主従関係が明確であること(自分の著作物が主体)。 >(4)出所の明示がなされていること。(第48条) >(出典:文化庁『著作物が自由に使える場合』) 一応『無断転載』って事で日本原水協にはメールしておいたから 後はスレから文章削除された辺りで、何なりと準備しとけよ σ < コーヒータイムですぉ !/V_.__/ >>これが民度の違いだ。 | ̄|ノ| ̄| マリファナパーティーを開いているような高校生がごろごろいるんだから 民度の差は歴然だろう、わわわわわ まぁ馬鹿が調子乗ってこんな事するのは結構あることで 早めに自分からごめんなさいして助かった例もあるとだけ言っとくw σ < 一分につき一発のプロキシサーバーを経由した (V) スクリプト爆弾だにゃ || Win板ではここだけ 前もって仕掛けている必要があるから 出入り常連が犯人www >一分につき一発のプロキシサーバーを経由したスクリプト爆弾 シッタカw 埼玉北部の馬鹿が手動でやってるに決まってるだろバーカw わずか20レス程度でスクリプト?w じゃ何で投稿時間に揺らぎがあるんだ??w 串通してるのがどうしてお前に判るんだ???w なんかもうね・・・ 知ってる言葉並べて喋るのやめろよw >マリファナパーティーを開いているような高校生がごろごろいる 最近は電気点けないと昼でも暗い家が多いとか↑とか お前統計学って知ってるか?w何見て語ってんだよw σ < ワロタ、ワロタ (V) サーバーがトランザクションの時刻どおりに || 受理できる訳がなかろうが でも、ほぼ、一分おきにレスが受け付けられている 手動ならば、もっと、乱れがあるはず 手動なら再読み込み間隔の設定もあるだろうし 書き込み後のブラウザのレスポンスの待ち時間もある 一頃ほどではないけど >>248 最後のレスは6分以上ズレてるよ、シッタカ屁理屈ジジイw 馬鹿ってなんでこんなに突飛な事ばっか言うんだろう?w σ < ワロタテーノーですね (V) おまいアホかwww || >>253 お前のレスって最近ずっとそんな調子だよなw σ < ワロテ (V) テーノーミニモンはこれだからwww || >>マリファナパーティーを開いているような高校生がごろごろいる ハイハイ、全部で何人居てごろごろなんですか?w >>255 なぁ木下よ 串通してるってどこで判断するの?w σ < ごろごろいないのか知らんかった (V) 韓国人もかなり入り込んでいるようだから || 留学先で一緒になると難儀だな 間違った歴史認識を正してやると 正さなくてはならない連中がしゃしゃり出るからなぁ、わわわわわ >>261 あー知らずに語ってたのか! わかったわかったw 十日オスロで行われた核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN(アイキャン))への ノーベル平和賞授賞式で被爆者サーロー節子さんが行った演説は次の通り。 ◇ 両陛下。ノルウェー・ノーベル賞委員会の高名なメンバーの皆さま。ここにいる、そし て世界中にいる運動家の仲間たち。淑女、紳士の皆さま。 ICANの運動を形づくる傑出した全ての人々に成り代わってベアトリス(・フィン事 務局長)と共にこの賞を受け取ることは大変な栄誉です。私たちは核兵器の時代を終わら せることができる、終わらせるのだという、かくも大きな希望を皆さま一人一人が私に与 えてくれます。 ▼座視しない 被爆者は、奇跡のような偶然によって広島と長崎の原爆を生き延びました。私は被爆者 の一人としてお話しします。七十年以上にわたって私たちは核兵器の廃絶に取り組んでき ました。 私たちは、この恐ろしい兵器の開発と実験から危害を被った世界中の人々と連帯してき ました。(核実験が行われた)ムルロア、エケル、セミパラチンスク、マラリンガ、ビキ ニといった長く忘れられた地の人々。土地と海を放射線にさらされ、人体実験に使われ、 文化を永遠に破壊された人々と連帯してきました。 >>261 あんまり知らないのに雰囲気で語るのお前の癖だもんなwww 私たちは、この恐ろしい兵器の開発と実験から危害を被った世界中の人々と連帯してき ました。(核実験が行われた)ムルロア、エケル、セミパラチンスク、マラリンガ、ビキ ニといった長く忘れられた地の人々。土地と海を放射線にさらされ、人体実験に使われ、 文化を永遠に破壊された人々と連帯してきました。 私たちは犠牲者であることに甘んじることはありませんでした。灼熱(しゃくねつ)の 終末を即座に迎えることや、世界がゆっくりと汚染されていくことに対し、手をこまねい ていることは拒否しました。いわゆる大国が、無謀にも私たちを核のたそがれから核の闇 夜の間際へと送り込むことを、恐怖の中で座視することは拒否しました。私たちは立ち上 がりました。生き延びた体験を分かち合いました。人類と核兵器は共存できないのだと声 にしました。 ▼叫び声聞こえた きょう、この会場で皆さまには、広島と長崎で死を遂げた全ての人々の存在を感じてほ しいと思います。雲霞(うんか)のような二十数万の魂を身の回りに感じていただきたい のです。一人一人に名前があったのです。誰かから愛されていたのです。彼らの死は、無 駄ではなかったと確認しましょう。 米国が最初の原爆を私が住んでいた都市、広島に投下した時、私はまだ十三歳でした。 私は今もあの朝を鮮明に覚えています。八時十五分、窓からの青みを帯びた白い閃光(せ んこう)に目がくらみました。体が宙に浮かぶ感覚を覚えています。 静かな闇の中で意識を取り戻すと、倒壊した建物の中で身動きできないことに気付きま した。級友たちの弱々しい叫び声が聞こえてきました。「お母さん、助けて。神さま、助 けて」 そして突然、私の左肩に手が触れるのを感じました。「諦めるな。頑張れ。助けてやる。 あの隙間から光が差すのが見えるか。あそこまでできるだけ速くはっていくんだ」。誰か がこう言うのが聞こえました。はい出ると、倒壊した建物には火が付いていました。あの 建物にいた級友のほとんどは生きたまま焼かれ、死にました。そこら中が途方もなく完全 に破壊されているのを目にしました。 幽霊のような人影が行列をつくり、足を引きずりながら通り過ぎていきました。人々は 異様なまでに傷を負っていました。血を流し、やけどを負い、黒く焦げて、腫れ上がって いました。体の一部を失っていました。肉と皮膚が骨からぶら下がっていました。飛び出 た眼球を手に受け止めている人もいました。おなかが裂けて開き、腸が外に垂れ下がって いる人もいました。人間の肉体が焼けた時の嫌な悪臭が立ち込めていました。 このようにして、私の愛する都市は一発の爆弾によって消滅したのです。住民のほとん どは非戦闘員でした。彼らは燃やされ、焼き尽くされ、炭になりました。その中には私の 家族と三百五十一人の級友が含まれています。 ▼愚行を許さない その後の数週間、数カ月間、数年間にわたって、放射線の後遺症により予測もつかない ような不可解な形で何千もの人々が亡くなりました。今日に至ってもなお、放射線は人々 の命を奪っています。 広島を思い出すとき、最初に目に浮かぶのは四歳だった私のおい、英治の姿です。小さ な体は溶けて、肉の塊に変わり、見分けがつかないほどでした。死によって苦しみから解 放されるまで弱々しい声で水が欲しいと言い続けました。 今この瞬間も、世界中で罪のない子どもたちが核兵器の脅威にさらされています。おい は私にとって、こうした世界の子どもたちを代表する存在となりました。核兵器はいつど んなときも、私たちが愛する全ての人々、いとおしく思う全てを危険にさらしています。 私たちはこの愚行をこれ以上許してはなりません。 苦しみと生き延びるためのいちずな闘いを通じて、そして廃虚から復興するための苦闘 を通じて私たち被爆者は確信に至りました。破局をもたらすこうした兵器について、私た ちは世界に警告しなければならないのです。繰り返し私たちは証言してきました。 しかし、広島と長崎(への原爆投下)を残虐行為、戦争犯罪と見なすことをなお拒絶す る人たちもいたのです。「正義の戦争」を終わらせた「良い爆弾」だったとするプロパガ ンダを受け入れたわけです。こうした作り話が破滅的な核軍拡競争をもたらしました。今 日に至るまで核軍拡競争は続いています。 今も九つの国が都市を灰にし、地球上の生命を破壊し、私たちの美しい世界を未来の世 代が住めないようにすると脅しています。核兵器の開発は、国家が偉大さの高みに上るこ とを意味しません。むしろ、この上なく暗い邪悪の深みに転落することを意味するのです。 こうした兵器は必要悪ではありません。絶対悪なのです。 ▼終わりの始まり 今年七月七日、世界の大多数の国々が核兵器禁止条約の採択に賛成した時、私は喜びで いっぱいになりました。私はかつて人類の最悪な側面を目撃しましたが、その日は最良の 側面を目撃したのです。私たち被爆者は七十二年の間(核兵器が)禁止されることを待ち 続けてきました。これを核兵器の終わりの始まりにしようではありませんか。 責任ある指導者であれば、必ずやこの条約に署名するに違いありません。署名を拒否す れば歴史の厳しい審判を受けることになるでしょう。彼らのふるまいは大量虐殺につなが るのだという現実を抽象的な理論が覆い隠すことはもはやありません。「抑止力」とは、 軍縮を抑止するものなのだということはもはや明らかです。私たちはもはや恐怖のキノコ 雲の下で暮らすことはありません。 核武装した国々の当局者と、いわゆる「核の傘」の下にいる共犯者たちに言います。私 たちの証言を聞きなさい。私たちの警告を心に刻みなさい。そして、自らの行為の重みを 知りなさい。あなたたちはそれぞれ、人類を危険にさらす暴力の体系を構成する不可欠な 要素となっているのです。私たちは悪の陳腐さを警戒しましょう。 世界のあらゆる国の、全ての大統領と首相に懇願します。この条約に参加してください。 核による滅亡の脅威を永久になくしてください。 ▼光に向かって 私は十三歳の時、くすぶるがれきの中に閉じ込められても、頑張り続けました。光に向 かって進み続けました。そして生き残りました。いま私たちにとって、核禁止条約が光で す。この会場にいる皆さんに、世界中で聞いている皆さんに、広島の倒壊した建物の中で 耳にした呼び掛けの言葉を繰り返します。「諦めるな。頑張れ。光が見えるか。それに向 かってはっていくんだ」 今夜、燃え立つたいまつを持ってオスロの通りを行進し、核の恐怖という暗い夜から抜 け出しましょう。どんな障害に直面しようとも、私たちは進み続け、頑張り、他の人たち とこの光を分かち合い続けます。この光は、かけがえのない世界を存続させるために私た ちが傾ける情熱であり、誓いなのです。 (オスロ・共同)=ノーベル財団公表の公式テ キストによる σ < 未成年者の大麻使用、薬物関連の犯罪 (V) カナダ人親の悩みは深いのう || 象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば(平成28年8月8日) <英文>へ 戦後70年という大きな節目を過ぎ、2年後には、平成30年を迎えます。 私も80を越え、体力の面などから様々な制約を覚えることもあり、ここ数年、天皇とし ての自らの歩みを振り返るとともに、この先の自分の在り方や務めにつき、思いを致すよ うになりました。 本日は、社会の高齢化が進む中、天皇もまた高齢となった場合、どのような在り方が望 ましいか、天皇という立場上、現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら、私が 個人として、これまでに考えて来たことを話したいと思います。 即位以来、私は国事行為を行うと共に、日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望 ましい在り方を、日々模索しつつ過ごして来ました。伝統の継承者として、これを守り続 ける責任に深く思いを致し、更に日々新たになる日本と世界の中にあって、日本の皇室が、 いかに伝統を現代に生かし、いきいきとして社会に内在し、人々の期待に応えていくかを 考えつつ、今日に至っています。 そのような中、何年か前のことになりますが、2度の外科手術を受け、加えて高齢によ る体力の低下を覚えるようになった頃から、これから先、従来のように重い務めを果たす ことが困難になった場合、どのように身を処していくことが、国にとり、国民にとり、ま た、私のあとを歩む皇族にとり良いことであるかにつき、考えるようになりました。既に 80を越え、幸いに健康であるとは申せ、次第に進む身体の衰えを考慮する時、これまでの ように、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるのではないかと 案じています。 私が天皇の位についてから、ほぼ28年、この間私は、我が国における多くの喜びの時、 また悲しみの時を、人々と共に過ごして来ました。私はこれまで天皇の務めとして、何よ りもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、 時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考え て来ました。天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、 天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのあり ように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる 必要を感じて来ました。こうした意味において、日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々へ の旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました。皇太子の時代も含 め、これまで私が皇后と共に行って来たほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、そ の地域を愛し、その共同体を地道に支える市井の人々のあることを私に認識させ、私がこ の認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々 への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。 >>273 いやそんなの良いから 串通してるってどこで判断したのか答えろよw 天皇の高齢化に伴う対処の仕方が、国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小 していくことには、無理があろうと思われます。また、天皇が未成年であったり、重病な どによりその機能を果たし得なくなった場合には、天皇の行為を代行する摂政を置くこと も考えられます。しかし、この場合も、天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせ ぬまま、生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。 天皇が健康を損ない、深刻な状態に立ち至った場合、これまでにも見られたように、社 会が停滞し、国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。更にこれまでの皇 室のしきたりとして、天皇の終焉に当たっては、重い殯の行事が連日ほぼ2ヶ月にわたっ て続き、その後喪儀に関連する行事が、1年間続きます。その様々な行事と、新時代に関 わる諸行事が同時に進行することから、行事に関わる人々、とりわけ残される家族は、非 常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。こうした事態を避けることは出来ないものだ ろうかとの思いが、胸に去来することもあります。 始めにも述べましたように、憲法の下、天皇は国政に関する権能を有しません。そうし た中で、このたび我が国の長い天皇の歴史を改めて振り返りつつ、これからも皇室がどの ような時にも国民と共にあり、相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう、そして象 徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ、ここに 私の気持ちをお話しいたしました。 国民の理解を得られることを、切に願っています。 >>273 それカナダ人の親に限った話じゃないだろ? 話こじつけるなよwww ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
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