ふだんの羽生は礼儀正しい。礼を失してまで上座に坐りたがるような男でないことは、だれもが認めている。
そういう若者だからこそ、米長に挑戦する名人戦は、よけいに世代対決の意味が増幅されてくる。
対局の席順は棋士の”常識”に任されてきた。タイトル保持者クラスで序列の規定を知らなければ、
ともかく礼を失しないように、実績のある先輩を立てる。だから、しぜんに序列も守られてきた。

米長、中原世代は、そういう時代に育った。頭で考える以前に、序列を守らなければいけない、という感覚が身についている。
この両者より二世代若い谷川にしても、同じ系列に属する。それが、羽生まで若くなると、どうやら変わってきたと思わざるをえない。
愚考するに、羽生の世代も日常の礼儀作法には神経をつかうけれど、序列とか席次とかに対する感覚が、旧世代とはちがう。
これは、時代のなせる業で、この世代に共通しているのではないかと思う。

べつの見方をすれば、羽生の世代は、旧世代の棋士にはない、いい意味での”鈍感さ”を備えているということもできる。
鈍感であることは、将棋の強さとも関係がある。彼らは大勝負でフルエルことを知らない。
この鈍感さにかけては、羽生は同世代棋士のなかでも、抜きんでているようだ。
佐藤竜王は羽生と同じ立場だったら、おそらく中原の上座に坐れなかったにちがいない。
しかし、なにせ名人戦である。羽生とて人の子、いままでに経験したこともないプレッシャーを感じないともかぎらない。
勝敗のカギは、そのへんにありそうな気がする。