三島由紀夫の「豊饒の海」を語ろう★
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『豊饒の海』(ほうじょうのうみ)は、三島由紀夫の長編小説。
「春の雪」「奔馬」「暁の寺」「天人五衰」の4部からなり、「浜松中納言物語」に題材をとる。
1965年から1970年にかけ、月刊の文芸雑誌『新潮』に連載された。
概要
「夢と転生」がテーマ。20歳で死ぬ青年が、次の巻の主人公に生まれ変わっていく。
仏教の唯識思想、神道の一霊四魂説、能の「シテ」「ワキ」、春夏秋冬、など様々な東洋の伝統を踏まえて書かれている。
なお第一巻は和魂を、第二巻は荒魂、第三巻は奇魂、第四巻は幸魂を表すと三島は述べている。第四部「天人五衰」の入稿日に三島は、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹自殺した(三島事件)。
「豊饒の海」とは、月の海の一つである「Mare Foecunditatis」の訳語。
創作ノートからは、当初とは全く違った構想だったことがうかがえる。 >>670
最初から読んできてその結論かい
そこまで短絡な解釈されちゃ三島も浮かばれねーなー
「奔馬」のラストをよく考えろ
実際に朝日は昇っていないのに、腹切った瞬間脳内では朝日が昇ったんだ
そーいうことを言い続けてるのが「豊饒の海」なのよん
「奔馬」がってことじゃないが、「豊饒の海」は遺書みたいなもんだ
なんで物書き、文学者を止めて、腹を斬るという肉体的な行為で死ぬのかという説明、あるいは宣言みたいな書なんだよな >>674
三島の小説は、物語として読んじゃ楽しめるものはほぼないと言っていい
登場人物を借りて三島のこねくり回した理屈を訴えてるんだ
心理描写にすぐれてるとかいうのもありゃしない
そりゃそうだ、そんなことやっちゃいないんだから
しかしまあ多かれ少なかれ小説家ってのはそういうもんらしいな
結局自分の事しか書けやしないんだって
太宰だったっけかな
小説を書くというのは、往来で素っ裸になって歩くようなもんだ、とか言ってたのは >>674
物語としての面白さを求めて読むことを否定はしないが、それじゃ三島の小説なんかで面白いものなんかないんじゃね?
「春の雪」だけが、らしくない異質な作品だったともいえるか
現実の世界で起こっていることと、それを処理する個人個人の脳内の世界が果たして同一なのか、同じと言えるのか
あるいは、違いがあるとしてもその違いは、異質、別物とまでなるものなのかとかってな問題は、さほど哲学的なことでもなく、小説のテーマになるのも不自然なこっちゃないと思うけどな 槙子役は誰がいいであろうか。
竹内結子は中村より男であった。 三島は『春の雪』と実話を題材にした『宴のあと』が面白い
それ以外は観念的でつまらない みたらい
@46wtcFjxWqXmCbi
2月19日
ある大学教授の韻文。身体感覚を旨として作っているらしいが、客観性を持つがあくまで主観的な観点から発せられる言葉をもって、その感覚が読み手に伝わるとは思えないケド。難解好きなインテリがはまる陥穽じゃないかなあ。
むしゃくしゃしたんで、庭に立った霜柱を踏みつけた。はあ、スッキリ。
何様やねんこいつ 豊饒の海は春の雪以外ゴミというなら同意する
冒頭から文章下手くそ過ぎて読む気なくす 豊饒の海の面白さがわからないって不幸だな
三島作品それだけ読んだってのならわからんでもないが、多くの作品読んだ上でだろ
まあ人の感想だからどうでもいいことだし、オレがわかったことをみんなが共有する必要もないことだけど、一応チャチャは入れておきたくなるわ 三島がなんであんな死に方したのかを探るのには「豊饒の海」の理解が必要ではある
また三島個人の思想とかを考える上でも必須になる
三島由紀夫という人間はどういうもんだったかってのを考えるのにはね
そんなことはどうでもよく、ただ作品が楽しめるかどうかってなことだけだったら、そりゃ人それぞれ勝手に好き嫌い言ってればいい 作家自身から独立して作品だけで名作たり得るものは無いと言われてもしょうがないんだな なぜラスト、あんな何もない地点に行きついたのだろう
あの後、死が待っていたからか 何もない地点?
どういうことかわからんぞな
「豊饒の海」は、存在と認識ってのがコアになってるお話だって分かれば何のことはないんだがな
例えばそこらに咲いてる花があるとする
人はそれを見たり触れたりしてその存在を知るわけだが、それは目で見たものを脳が認識して花だと思うんだ
その脳で認識した花と、実際にそこに咲いてる花は同じものなのか、同じと言えるのか、あるいは違うものなのか?
また、二人の人間が同じ花を見たとする
二人が見れば二つの花がそれぞれの脳内で誕生するんだ
見てどう思うかも全然違うかもしれない(少なくとも全く同じってことはない)
その二つは同じものといえるのかね?
現実に存在している物体でさえそういうもんなんだ
いわんや、昔の出来事の記憶においておや
それが「こころこころやさかい」ってこと
物語の中の本多はそのことに気づいてなかったんだが、読者もそれに付き合ってちゃ理解はできないってことだ
しかしわかっちゃうとラストの「衝撃」がなくなるのよね
くだらねー小説だったなってなってしまうという皮肉 三島に限らないけど日本時作家は西洋式の哲学については造詣が浅いから、
その観点から見ちゃうとどうしてもくだらなくなるんだよなあ 理屈にキレがないんだろうな
説明不能の「空」を説明しようとしたりするんだ、お得意の逆説が繰り出せないからな 三島由紀夫の埋もれた超短編作品「恋文」 文芸誌掲載へ
https://www.asahi.com/articles/ASP4575XHP44UCVL001.html
https://www.asahicom.jp/articles/images/AS20210405002847_commL.jpg
作家の三島由紀夫(1925〜70)が、新進作家として歩み出していた20代半ばに「恋文」と題した掌編小説を残していたことがわかった。全集や単行本には未収録で、専門家にも存在を知られていなかった。7日発売の文芸誌「新潮」に掲載される。
「恋文」は、宴会に出ていた男がハンカチを取りだそうとして、知らないうちに入っていた手紙を見つける場面で始まる。「明日五時PX前でお待ちします。X子」。匿名の恋文に隠された秘密が米占領下の日本の状況を暗示するような短い物語だ。 >>664
みねには侯爵の手がついていた、てあったよ。 >>664
春の雪で、みねには侯爵の手がついていた、てあったよ。 >>706
奇麗ごと言い過ぎやw
侯爵の手じゃなくて侯爵のマラだろw >>707
本文まんまだよ。
ただ、奔馬では松枝侯爵家はすっかり落ちぶれて、父侯爵は悲惨だよね。 >>670
聡子にそう言われたらそんな気もしてくるしね。
つまり、登場人物、物語全て、本田の妄想、てこと? >>708
三島の父方先祖は幕臣だから、明治維新で
成り上がった勲功華族の松枝侯爵家を冷や
やかな目で描いた?
大体の幕臣が先祖の時代小説家は早乙女貢
などを典型として、薩長土肥をケチョンケ
チョンに書いているw
太宰治は戊辰戦争で寝返った弘前出身だっ
たのも、三島と仲が悪かった理由か。
浜松中納言物語に想を得たというが、浜松は
当時の女性批評家「無明草紙」が褒めた。
松浦宮物語といい、浜松中納言物語といい、
中国を舞台にした日本の騎士物語は、中世西欧の
knight errant騎士物語と同じく、自分より上流の女性との恋愛
話になってる。
三島自身にもそういう上昇志向が潜在してたような。 >>709
本多には本多の記憶があり、聡子には聡子の記憶があるんだ
実際に起こったことと、人それぞれの記憶は一緒じゃあないという単純な話じゃん じゃ実際にはあったけど、本多はしっかり覚えていて、聡子はすっかり忘れていた
ということでOK? 戦後の日本を認めようとせず観念の中で死んだ三島の鏡
存在しなかったことが明らかになる最終巻を脱稿した日に自決してるのはそういうこと
三島の人生は壮絶な劇というほかない >>712
誰の記憶が正しいとか間違ってるとかは問題じゃないんだと思う
実際にあったことですら、それは「正しい」あるいは「絶対」なのか?
全ては人間個人個人の脳内で処理されるんだ、世の中のあらゆる出来事は
そっちを「絶対」にしちゃったら、世の中のことは「夢まぼろし」ってことになるよね
まあそんなことをいろいろ言い続けてるのが、この作品やね >>713
存在しなかったということが明らかになったわけじゃない
さんざん3巻で空の説明してたでしょ
在るとも言えば在るし、無いと言えば無いとか
そのどちらでもないとかなんとか
人の脳内世界はその人それぞれのもので、他人とはもちろん実際にあった現実とも違いがある
本多はそれがわかってないだけ
「こころこころやさかいに」ってどういうことってのが
本多がわかってないからって、読者もそれに付き合うことはなかろうよ >>713
逆だろ
小説書きという観念の世界で「生きて」きたんだ、三島は
死ぬ時はそれを捨てて、リアルな感覚(腹切った時の)を求めたんだ
三島の分身という人もいる本多は、ずっと人がやってることを見る側の人間
自分で行動するんじゃなく人を見てる、認識する側の、小説や評論書いてる三島と同じ側の人間
ラストで本多が否定されたのは、三島の生業への決別みたいなもん
自決は、思想のためじゃないよってことだな
認識じゃあなく、リアルな肉の感触を味わうために死ぬんだぞって 仏教でいうところの阿頼耶識というやつやね
あるといえばある
ないといえばない
三島は、ここに一枚の皿があるだろとタテにして持って、その上にさらに横に向けた皿を載せて
これが阿頼耶識だと説明していたそうだが。(ようするに意味不明ということか) 阿頼耶識なんて仏教を本格的に勉強した人間でも難解だという。
なぜ三島が最後の最後にそこにたどり着いたのだろう? >>718
辿り着いたわけではなく、三島には三島の人間の(あるいは自分の)「認識」とはどういうものかというのがあったと思う
しかしそれをうまく表現できないから、仏教哲学借りて説明しようとしてたんじゃないかと
小説書きとしては怠慢かもしれんな
「神風連史話」とかまんま載せちゃうとこなんかも、三島はよくそれを自分で許すことができたもんだって思っちゃうな 読後感は人それぞれだろうけど、なんか最後で煙に巻かれたって感じがしたわ >>709
聡子という女性に酒飲みに連れてってと誘われてホテルでペロペロしてたら
「入れて」と言われて …
実話です。 おやこれは奇遇ですね、実は昔、私も聡子という女に(略) >>723
聡子という大女で肩幅が広くて部厚い肩で、鬼瓦のような大きな顔で、
首の極太の腰の大きくて手足の大きくて馬鹿な女なら、知っているw >>716
思想より肉体のほうがリアルで好きだったのか
肉体を愛するのはよく分かる。しかし思想は俄仕込みの感が否めない
本当に東洋と西洋の思想を学ぶだけの学者肌であれば今も生きてて巨人になってたかも
思想はすっぱり諦めて行動にいくのが明快でかっこいいとも思うが・・・ 変な死に方して過大評価されてると思う
低レベルな作品で、現代なら通用しない >>722
俺には何人もの美人女子大生が入れ替わり現れてホテルに誘ってくる
女の性欲が強くて体がもたないんだが この世は夢だ的な不可知論的あるいは虚無的結末で
創作活動の締めくくりをして
現実にもまさに夢というか悪夢でも見ているような行為を結末に行って
両者は同じ思想を反対方向から支えているのだろう >>727
死に方(生き様)と作品がセット。
オレはそういう読み方してた。
スタートが、なんであんな死に方したんだ?ってことからだったからな。
逆に、作品より人物自体のほうが面白いってのは作家や作家に限らず他のタレントでも三島以外にはいないかも。 最後の決起も、「君たち、あるといえばある無いといえば無い(阿頼耶識)
と思ってくれ」ということじゃないんですか・・ちょっと違うか クーデター失敗で殺されたんだよ。自殺なんかじゃない
演説後取り押さえられて処刑されたのが真実だと思う
じゃなきゃ新聞に生首載せたりしないよ 金閣寺をNHKで取り扱ってるが、左翼作家の平野啓一郎が天皇制度の崩壊を、或いは天皇を滅ぼしたいと願っていた。
その思想を金閣寺と同一視することで、炎上させたのだ。と無理矢理にこじつけていて笑った。 三島の阿頼耶識の解釈が自己流なんだよね
陽明学も同じく(革命哲学としての陽明学)
自分の最後に行きつく方向に向かって都合の良いように解釈している感じがある 訂正。物産支店長、嫌なやつとしての菱川の描写は素晴らしかった。 ジンジャンをなめるように眺める本多の視線も素晴らしかったと思う せっかくインドまで取材に行ったからもったいないと思って過剰に描写してしまったのかな。 あのガンジス河の描写はかなり大げさに無いものまで描いているってその当時実際に
風景見た人がどこかで書いてたよ(なんの本だったかド忘れ) 出家したその後なんかはもう少し描写してもいいのではないか。 天人五衰のラストは「昭和45年11月25日」だけども、実は夏頃に、下田の
東急ホテルに於いて完成していて、日付は後から入れたという説があるけど
本当なんですか? 説は知らないですが、氏ならあり得ますね。ストーリーとしてはその方がカッコいいですもんね。 仮面の告白の起筆日と同日に最後の小説を書き終えたことにしようとした
そういう日付、年数との一致という運命的なものを意志的に作り出したい人だった
また死の当日までまったく平静に小説を書いていたことに
したかったということもあったのだろう
そのためもう完成していることを指摘されたときはかなり動揺していた 春の雪 至高
奔馬 退屈
暁の寺 苦痛
天人五衰 普通(春の雪のヒロインが再登場するラストだけ至高) 欧米人には、あまり評価されないだろうね 日本人にも
三島さんは、生涯を通して、
自分の分身しか主人公にできない作家だった
しかし言葉を駆使することに関しては天才的だった
自己分析に優れていても、他者分析がまるでできない
一般人としての他者分析という意味では、
川端氏のほうが数段優れていただろうね うん、独り言なんだよね
ただその独り言が凄まじい深さだからすごいけど 暁の寺にいたり、やや筆致に冴えがなくなってはいないですか?
覗き穴やらなんやらで、さすがの巨匠も、前ニ話までの読み応えは、ない。 『暁の寺』はよく分からない話の展開だよな
もう書きたいこともなくなった感じ やはり、そうでしょうか。
春の雪の、見事な描写、奔馬の、正に三島氏的な思想の昇華、と比較すると、やや落ちるかなあという感じです。まだ読んでいない四作で巻き返すのかなあ。 >>717
それをみて澁澤龍彦が
「それじゃあ皿屋敷じゃないか」って言ったエピソード好き もう一つの豊穣の海って副題の本を読んだかたはいらっしゃいますか
三島由紀夫の創作ノートみたら最終巻は本当は全然違った、みたいな話らしいんですが
元の構想通りと最終稿どっちがよかったんやろか
やっぱ最終稿で正解なんやろか >>768
1部は三島が体験した戦時下の恋愛を下敷きにしているから素晴らしい
2部も三島が生涯を通して描いた国士の討ち死にを描いているから共感がこもっていて素晴らしい
3部からは自分の思想の到達点を描きたかっただけで、太陽と鉄と同様にいまいちな感はしかたない 題材が戦後となるとやはり筆の進みも変わってくるのかなあ。 あるでしょうね。時代背景を生かした奔馬のような氏の得意とする緊張感がない。 別にこれに限らず
三島は長いの全部終盤よれよれじゃん わかりました。終盤のよれていない、お好きな作家を教えてください。 ん、そうやな。やなせたかしは終盤も全然よれよれではないですよ。あと林真理子。文体は全く違うけど終盤といえば林真理子だ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています