石牟礼道子
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たんなる公害告発文学ではなく、近代日本そのものをゆさぶる
石牟礼道子について語るスレ。
代表作
・苦海浄土三部作
・アニマの島
・あやとりの記
・十六夜橋
・はにかみの国
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E7%89%9F%E7%A4%BC%E9%81%93%E5%AD%90 石牟礼道子「苦海浄土第二部 神々の島」より
いつもあの、昔話ばせろちゅうかえ。よし、よし。
いつもあの、ふゆじ(無精者)どんの話ばして、くりゅうかい。
むかし、むかしなあ、爺やんが家の村に、ふゆじの天下さまのおらいたちゅう。
なして、ふゆじどんになりいたかちゅうと、三千世界に、わが身ひとつ置くところが無か。辛かわい辛かわいちゅうて、息をするのも、世の中に遠慮遠慮して、ひとのことも、わが身のことも、なんにもでけん、おひとになってしまわいて、ふゆじの天下さまにならいた。
泣き仏さまじゃったもんじゃろう。こら、杢(胎児性水俣病患者)、お前がごたる、泣き仏さまじゃったろうぞ、そのふゆじどんは。
なして、それほど遠慮遠慮したおひとにならいたかちゅうと、あんまり魂の深すぎて、その深か魂のために、われとわが身を助けることが、できられんわけじゃ。のう、杢よい。
ちょうどお前のごたる天下さまじゃのう。
それでまあ、わが身のこともなにひとつ、わが手で扱うことはできらへん、そのふゆじどんが、道ばたに寝ておらせば、爺やんが家の、村の者どもは、
――ふゆじどん、ふゆじどん。お茶なりと、あげ申そかい。
という。
ふゆじどんは、わが身がふゆじじゃけん。気の毒さにして、こっくりをするような、いやいやをするような首を、振りなはる。すると、村の者どもは、
――そら、ふゆじどんの、こっくりをせらいたぞ。はよ、お茶があげ申せ、唐芋もあげ申せ、
ちゅうて、自分たちの後生のために、お茶ばあげ申す。
霜月の田の畦にでも寝ておられば、村の者どもはもう、おろおろ、おろついて、
――なんちゅうまあ、こういう所に、黙って曲らいて、体のさぞかし傷まいたこつじゃろう。はよはよ、寝藁ば積んで寝せ申せ、猫の仔どもなりと、連れてきてあげ申せ。こういう霜月にふところ寒うしてなるもんかえ。
――まあ、寒かったろ、寒かったたろこういう人を打ち捨てておいくは、わが身を捨てるもおんなじことじゃ。罰かぶる、罰かぶる。
――ああ後生の悪か、後生の悪か。
ちゅうて、村のもんどもは、拝まんばかりにする訳じゃ。 さてそのふゆじどんが、ひょいと、あるとき発心をして、旅に出かけらいた。
田舎者じゃけん、ふとか往還道にたまがって、そろい、そろいと地に足をつけて、歩いてゆかいたわい。
八月の炎天みちじゃったげな。
ふゆじどんは、もうさきほどから、じつは、腹のへって腹のへっておらいましたが、遠慮深い人じゃから、なかなか、尻べたをおろす軒の下もなか。よその村じゃったけん、ふゆじどんの通らることをしっとるものはおらん。
はて、誰なりと、通ってくれんもんじゃろうかい、おるが背中にゃ、村のおなご衆の作って持たせてくれらいた、塩のついた、梅干しの入った、ほっぺたごたるふとかにぎりめしの、あるばってん。
誰なりと背中のにぎりめしば藁づとから、ほどいてくれる人はおらんもんじゃろうかい。その人と二人で、わけおうて食おうばってん。
ふゆじどんは、腹はへる。藁づとのにぎりめしをとってくるる人は来ん。
困りはてて、やっぱり、それでも往還道のどこまででも続くけん、どこまででも、ぼっつり、ぼっつり、歩いてゆかるより、しようがなか。
ふゆじどんは、悲しゅうなって、しゃがみこんで、しばらく地面ば見よらいた。
すると蟻どんがな、この暑か八月のさなかに、一心に、荷物ばかたげて地の上ば、どこまででん、行ばしてゆきよるけんのう。よくよくみれば、その歩いて行く地の上の長さちゅうもんは、とても人間の歩いてゆく比じゃなか。
ふゆじどんは、蟻にむかっていわいた。
ほんに、おまいどんが太鼓も破れてしもて、あなのあいとるわい。それでもやっぱり、どんつく、どんつく、どこまででん、行列つくって叩いてゆかんばならかい。おお、おう、もぞなげ、もぞなげ(いとしく、かわいそう)――
するとわらわらと涙が、ほっぺたに流れ出て、ひもじゅうして、咽喉のかわいた口に入る。ふゆじどんは思わいた。涙ちゅうもんは、なんとまあ、この世で、うまかもんよのう。
自分の涙をすすりこんで、また歩いてゆかいた。 すると、向こうの方から、身につけたもんは、頭にのせた、ばっちょ笠いっちょの人間が、
首をかたむけて、こっちをむいて、ひょろりひょろりと歩いてこらるげな。
あらよう、来らいた来らいた。
人間の懐かしさのう。腹の減らいたらしかお人の、どこやらひょろりひょろりとして、
やっとこさ来よらるよ。あの汝こそきっと、背中の握り飯を、とってくるるお人にちがいなか。
おう、おう、みればあの汝は、よっぽどひもじかおひとにちがいなか。
あのように往還道を、口をあんにゃ、あんにゃとさせて、歩いてこられ申す。あのように、
ひもじかそうなお人ならば、ご相談もしやすかろ。
――あの、もし、これはこれは、ほんに、よかところでおもいさまと逢い申した。つかぬご相談じゃが、
じつを申せば、このわしが背中に、村の女ご衆の握って下さいた握り飯の、藁づとに入れてあり申す。
ほんに、ほんに、お世話じゃが、おまいさまと二人して食ぶるけん、背中のにぎりめしをば、
藁づとおろしてくださる訳には、ゆき申さぬじゃろか。
ふゆじどんの、そのように、ご相談をせらいた訳じゃ。
するとその、ばっちょ笠のお人が、いよいよ、ゆるゆらと笠も体も泳がせて、いわるには、
――おうおう、なんとなつかしか。わしが方こそ、ほんとによかところで、おまいさまに逢い申した。
わしが方こそ、きっとおまいさまに、ご相談せねばならんと思うとった。
じつは、このばっちょ笠の、ほらこのとおり、あご紐の解けて垂れさがっとる。
ああ、誰なりと、よか人にお逢いして結んでもらい申そ。その人に逢うまでは、なんとしても、
この笠を風どもにふき飛ばされてはなるまいぞ、そのように想うて、わしはいかに苦労して、
笠を落とさんように、あごで拍子をとりとり来たことか。せっかくの往還道をば、横歩きして、
えらい遠か道になり申したわい。やっとこれまで、辿りつき申した。おまいさまに逢うたが、
天の助け。しにくいご相談じゃが、わしがばっちょ笠の紐をば、なんとか、結んでは下さるまいか。
二人のふゆじどんたちは、おたがい天の助けになりおうて、笠の紐を結んであげ申し、塩のついた、
ふとかにぎりめしを藁づとからおろして食べ合う手、また後さねと前さねと、わかれて歩いてゆかいとげな。 水俣病は精神、身体的病気に収まるものではなく、社会的、世界的な病気である。
最初は謎の伝染病として部落から差別され、径を歩くこともままならず、線路の上を歩いて病院から帰ってきた。
原因がわかり、賠償金の話となると、チッソによって生活している市民と、120人の患者とどちらが大事だと糾弾された(今では潜在的患者も含め万単位で患者がいると思われる)。チッソは賠償金を少なくしようと白紙委任状をとろうとした)
賠償金が払われるとなると、「ニセ患者」がいるとされた。
チッソが排水浄化機なるものを建てたが、実際には有機水銀はダダ漏れだった。
近代化がされている矛盾がすべて現れていた。60年後には合わせ鏡のようにフクシマが現れた。 近代化を根源とする世界病である水俣病に対しチッソに対し政府に対し、どのように立ち向かっていこうとするのか。
石牟礼道子は言う。
「独占資本のあくなき搾取のひとつの形態といってしまえばこと足りてしまうかも知れぬが、私の故郷にいまだ立ち迷っている死霊や生霊の言葉を階級の原語と心得ている私は、私のアニミズムとプレアニミズムを調合して、近代の呪術師とおならねばならぬ。」 石牟礼道子の一つの表徴にいくつもの意味と現象をたぐり寄せようとする文体を鶴見和子は「石牟礼道子語」とよんだ。たとえば次の文章のように。
「―水俣病のなんの、そげん見苦しか病気に、なんぞ俺がかかるか。
彼はいつもそういっていたのだった。彼にとっては水俣病などというものは
ありうべからざることであり、実際それはありうべからざることであり、
見苦しいという彼の言葉は、水俣病事件への、この事件を創り出し、
隠蔽し、無視し、忘れ去らせようとし、忘れつつある側が負わねばならぬ道義を、
そちらの側が棄て去ってかえりみない道義を、このことによって
死につつある無名の人間が、背負って放ったひとことであった。」 「苦海浄土」、
どっかの文庫では「くがいじょうど」で
池澤夏樹文学全集では「くかいじょうど」になってたけど
「くがいじょうど」が正しいんかな
どっちで読んでもいいんかな 地頭のいい女流作家も次々にお亡くなりになるな
高村薫氏は若いが、頭が左にねじ切れてて残念だし 石牟礼道子のアニミズムは発光する。その時彼女は巫女となる。
「石の神さんも在らすぞ、あの石は、爺やんが網に、沖でかかったこらした神さんぞ。
あんまり神さんに形の似とらいたで、爺やんが沖で拝んで、自分にもお前どんがためにも
護り神さんになってもらおうと思うて、この家に連れ申してきて焼酎(おみき)ば
あげたけん、もう魂の入っておらす」 また石牟礼道子は「未開」の世界にも開けていく。近代化以前の「未開」の世界を。
「話に効けば東京の竹輪は腐った魚でつくるちゅうばい、炊いても食うても当たるげな。
さすれば東京に居らす人たちゃ一生ぶえんの魚の味も知らず、陽さんにも当たらん
かぼそか暮らしで一生終わるわけじゃ。わしどんからすれば東京ンものはぐらしか
(かわいそう)。
それにくらべりゃ、わしども漁師は天下さまの暮らしじゃござっせんか。
たまの日曜に都のの衆たちは汽車に乗って海岸にいたて、高か銭出して旅館にまでも泊まって、舟借りて釣りにゆかすという。
そら海の上はよかもね。
そら海の上におればわがひとりの天下じゃもね。」 「未開」の労働観としても興味深い。今村仁司の「仕事」によれば、
南太平洋にあるニュー・ブリテン島のマエンゲ族の、一日あたりの平均
労働時間は4時間だという。マエンゲ族では美しく畑を作ることが賛美される。
貨幣によりすべての価値が数量化されて単色となった世界とは違う、
豊かな世界だといえる。同じような豊かさは不知火の海にもあった。 「まだ海に濁りのいらぬ梅雨の前の夏のはじめには、食うて食うて(魚が餌を食う)
時を忘れて夜の明けることのある。
こりゃよんべはえらいエビスさまのわれわれが舟についてとらしたわい。
だいぶ舟も沖に流された。さてよか風のここらあたりで吹き起こってくれれば
一息に帆を上げて戻りつけるが。
すると、そういう朝に限って、あの油凪ぎに逢うとでごす。
不知火海のべた凪ぎに油を流したように凪ぎ渡って、そよりとも風のでん。
そういうときは帆をあげて一渡りにはしり渡って戻るちゅうわけにゃいかん。
さあそういうときが焼酎ののみごろで。
いつ風が来ても上げらるるように帆綱をゆるめておいて。
かかよい、飯炊け、おるが刺身とる。ちゅうわけで、かかは米とく海の水で。
沖の美しか潮で炊いた米の飯の、どげんうまかものか、あねさんあんた
食うことのあるかな。そりゃ、うもうござすばい、ほんのり色のついて、
かすかな潮の風味のして。
かかは飯炊く、わしゃ魚ばこしらえる。わが釣った魚のうちからいちばん
気に入ったやつの鱗ばはいで舷の潮でちゃぶちゃぶ洗うて。鯛じゃろと
おこぜじゃろと、肥えとるかやせとるか姿のよしあしのあったでござす。
あぶらのっとるかやせとるかそんときの食いごろのある。鯛もあんまり
太かとよりゃ目の下七、八寸しとるのがわしどんの口にゃあう。鱗ば
はいで腹とってまな板も包丁もふなばたの水で洗えばそれから先は洗う
ちゃならん。骨から離して三枚にした先は沖の潮ででも、洗えば味は
無かごとなってしまうでごわす。
そこで鯛の刺身を山盛りに盛り上げて、飯の蒸るるあいだに、かかさま、
いっちょ、やろうかいちゅうてまずかかに(焼酎を)さす。
あねさん、魚は天のくれらすもんでござす。天のくれらすもんをただで、
わが要ると思うしことってその日を暮らす。
これより上の栄華のどこにゆけばあろうかい。 >>12みたいなの読むとほんとうにいいなあと思うんだけど
でもそんな生活には戻れないし、戻ったとして実はそんな夢みたいな生活なのかなあ
とも思うんだよね。>>11もいいなあと思うけど、ただなぜわざわざ「東京」を比較対象として
出してくるのかね…。現代社会への批判としての象徴? 東京に出てきた人間というのは
地元ではたちゆかんからという事情の持ち主が多いと思うんだけどね。どうなんだろう。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています