「美しい文章」って、そもそも何なのか。 [転載禁止]©2ch.net
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ユークリッド幾何学(諸君が高校あたりで知ったものね)の証明文は美しい。
芥川だったか誰だか忘れたが、文章を書く勉強は数学を学ぶのが良い、と書いていた。 殺すくらゐ 何でもない
と思ひつゝ人ごみの中を
濶歩して行く
ある名をば 叮嚀ていねいに書き
ていねいに 抹殺をして
焼きすてる心
ある女の写真の眼玉にペン先の
赤いインキを
注射して見る
この夫人をくびり殺して
捕はれてみたし
と思ふ応接間かな
わが胸に邪悪の森あり
時折りに
啄木鳥の来てたゝきやまずも 美を美人の美と考えるとかなり限定されるだろう
詩と言うのはそういう要素が大きいように思う
表現内容 リズム 言葉の選び方・置き方
しかし散文での美しいは美人の美をさらに敷衍して快を感じるということではないかと思う
そこで一番大きな快は文字が表現したい対象をいかにうまく表すことができているかではないかと思う 人は美しいと感じたとき脳内に快楽物質が出る。
文章を読んでそれが出る人と出ない人がいる。
出ない人には美しい文章は理解できない。 その理屈だとエログロ鑑賞して
ドーパミンどばどば出してる人もいると思うけど エログロを理解している人だ。
エログロを毛嫌いする人はドーパミンが出ないから理解できずに否定する。 芥川龍之介『蜜柑』
中勘助『銀の匙』
志賀直哉は美しいとは違うと思う すき透るような新しい湯は風呂いっぱいにみなぎって、輪切りの柚があたたかい波にゆらゆらと流れていた。
窓硝子を洩れる真昼の冬の日に照らされて、かげろうのように立ちまよう湯気のなかに、
黄いろい木の実の強い匂いが籠っているのもこころよかった。
岡本綺堂『ゆず湯』 ぼくが極めて文学性の高い短編小説だと思ってる「かな式 まちかど」を一部抜粋して書き写す。
そもそものはじめから「て」には字分は何であるのかの確信がなかった。
ずっと「く」と似てるとか「へ」と読み間違えてしまうとか、
中には本当は「と」なのではないかという文字もいたが「て」にはそれのどれもが
正しいとは思えない。この左右非対称で今にも倒れてしまいそうな文字であるという
こと自体、何かの間違いがあったのではないかと思わずにはいられない。 「て」は「い」や「た」や「か」や「む」やその他無数に存在する線と線が離れて
いる文字が怖くてたまらない。「ふ」に至っては想像するだけで恐ろしくて
冷や汗が出てきて止まらなくなり字分の形が「で」に代わってしまうので、
慌てて汗を拭わなければならない。
「あんなふうに線と線が離れているのにひとつの文字だというのはいったい
どんな気分なんだろうか。彼らには字我とか字己の同一性などというものがあるのだろうか。
彼らは本当に一文字なんだろうか」 趣味で書いているのだという「ふ」の小説「一筆書きの幸福」を読んで以来
「と」は一筆書きができない字分の体形が歯がゆくて仕方ない。もうすこし右上の
斜めの線が上にずれていれば、いともたやすく一筆で書けるだろうにと思うと、
字分の運命を恨むこともある。 初めての相手は「う」だった。「う」の上の点やその下にある魅力的な曲線は
「て」とつながることでうまく「そ」になるはずだと思われたからだ。
ぬぐい去ることのできない「う」への恐怖心を抑え、実際にベッドの上で試してみると
「う」の下の曲線は「て」の上の直線とあまりにもだらしなくつながり
「そ」というより「うそ」に似ていなくもないが、もはや文字というにははばかられる
ような形にしかならなかった。 ときどき「わ」は字分が「れ」なのか「わ」なのか分からなくなる。
違いといえば左の線端が右にねじれているか左にねじれているかだけであり、
それくらいなら普段道を歩くだけで右左右左といれかわるのであり、
そのとき「わ」は「れ」になったり「わ」に戻ったりしているはずで、
だから「れ」も「わ」も本当は同じ一つの文字なのではないだろうか。
「わ」はそのように考え、その考えに熱中するあまり無意識に左の
線端をひねって「れ」になる。
「れ」は突然字分が道を歩いていることに驚く。そして一歩進むと字分が
「わ」に変わり、そして「わ」がまた一歩進むと「れ」に戻り、このように
「れ」と「わ」を繰り返していることに気づいて唖然とする。
字分は気が狂ってしまったのだろうか。これはすべて幻覚なのだろうか。 「し」は不安をまぎらわすために「じ」になってふらふら町をさまよう。
あまり長時間「じ」になりつづけていると元に戻れなくなるから気をつけなさいと
注意されているのだが、不安はつのるばかりでやめられなくなっている。
どれだけさまよっただろうか「し」が疲れて木の根元に座り込んでいると
同じように疲れきった表情の「つ」がやってきて隣に座り込んだ。
「君もか:
「ああ、君もか」
どちらともなく、言葉をかける。
「う」にはあったかい」
「いや会っていない」
「「う」がいうんだ。字分が存在しているかどうか悩んでいるということは、
その悩んでいる字分は存在しているということだろうな、てな」
「なんだそれは。詭弁だな」
「そうだ。でも、それ以上の保証は何一つないんだよ、俺たちに」
「そうだろうな」
「文字なのかな、俺たち」
「文字じゃないのかな」
「もう疲れたよ」
「俺もだ」
そういってふたつの文字は重なりあうように倒れた。
その姿は、どことなく「い」に似てはいたが、勿論「い」になることはなかった。 趣味で小説を書いているだけでおかしなやつだと思われている「ふ」は、
画数も多くゆがんだ形をしているため、初めて会った相手からは必ず怖がられる。
怖がられていることにすぐに気づきそれを不快に思う「ふ」はいつからか
ほとんど字分の部屋から出なくなってしまった。
外に出なくなった「ふ」は小説を書くことにさらに夢中になり、
休むこともなく新しい小説を書き続けている。だが、ときどき、書く画を止めては。
過去の作品について考える。
(略)
何作目だったか忘れたが「書き順も忘れられた告発」は忘れられない作品だ。
これは何か非常につらい事件があったため思い出したくもない作品なのだが、
そのせいで内容については何ひとつ思い出せない。思い出せない以上、
文字通りその作品のことを忘れることなどできはしない。
その小説は永遠に忘れられない小説のひとつだ。 文章を美しい、と形容するのが妥当だ、とすれば、
美しい文章、ってのは現代の日本語の文章だと、川端康成の雪國のような文章。
古典まで含めれば、ほとんどすべての古典の文章が美しい文章。
と、日本人なら、そう考えなければならない。
この場合、>1 は、美しい、と言ふ言葉を定義して始めなければならないのに、
バカなのでそれを怠っているから、議論にならないし、つまらない。 川端康成なんかより、料理屋で必死に書いてるポエムのがよっぽどか名文だよ。 そういったポエムや、ホテルなどの落書き帳に書かれた言葉、エロサイトの宣伝文句、
相田みつおを対象に色々と考察した「夜露死苦現代詩」って本は面白かった。 まあ、文学というよりはサブカルチャーの範疇に入るかもだが。
さっき述べたエロサイトのくだりなど、くだらなさ過ぎて爆笑したよ。
無駄な文章力の高さ。そのサイトの管理者に取材しようとしたら、いたずらと
間違えられて、マトモに相手にされなかったという挿話もいい味出してる。 美的センスは時代と共に変遷する。美しい文章もまたしかり。つまり何をもって美しいと感じるかは世代によって異なる。川端康成を美しいという人間は、古い。 「美しい文章」があるのならば「美しくない文章」があるのか。
「美しい」ということを判断するのは誰なのか。
「文章」とはなんのことなのか。これも判断されるものなのか。
いろいろと問題があっても、それを都合のいいように解釈する。
それが「美しい」ことなのか。
「読み手」としての「あなた」が「美しい」かどうかによって「すべて」が決まったりはしないのか。
そもそも「美しい」とはどういうことなのか。一種の性的衝動を生じさせるものなのか。 美しい容器は中身を美しいと誤認させる。
文章は容器なのか中身なのか。
容器として機能している文章もあれば裸の文章もあるのだろう。
記号列としてみれば依り代なのかもしれない。
多重装甲されていて重装であってもそこに美しさをみいだすことは可能だ。
みいだすということを先送りすれば「美しさ」は客観的に定義できるかもしれない。
しかしながら読み手側にゆだねられる問題でもある。
真に美しい文章は中身が無く、それゆえに美しくない。
美しい文章など存在しない。美しいと感じる文章なら存在する。 ☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と
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ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。☆☆ ネット上で熟語や慣用句の誤用に関する議論を観察したり、自分も参加したりするのが好きなんですが
他人の誤用を批判している人と言葉を交わしていると、批判側の方が逆に知識が浅く、語学力が低いと感じることがまれによくあります。
そうした人達がよく他人を批判するのに振り回しているのが辞書なのですが、
そもそも辞書というのはざっくりとした調べ物に使うもので、日本で使われている言葉が全て載っているわけでもなく、また一つの言葉にある程度幅広い用法がある場合その全てが載っているとも限らず、
同じ言葉でも出版社によって意味の解釈が違ったりとその実ビミョーにアテにならない存在なのです(て言うかそういう注意書き、辞書の凡例のとことかに書いてません?)
辞書自体が間違っている場合も稀にはありますし、足りない記述から実際の使い方の正誤を判断するのが難しい場合もあります。
最近では「爆笑が大勢で一斉に笑う事だという辞書の記述が完全な間違いだった」という事を古い書物を多数引用して証明したかなり詳細な研究結果が公開されていますね。
同じ笑いでは、「失笑」に関して「あざ笑うイメージではなく、本当におかしくて自然と笑いが吹き出すシーンに用いるのが正解」などと書いてあるブログ等もありますが、恐らく間違いかと思われます。
元々失笑とは笑ってはいけない場面で笑う事であり、他人をあざ笑う事自体が礼儀に反する「やってはいけない笑い」である事を考えると
「馬鹿にしたようにふっと笑う」事も辞書に書いてある「失笑」の意味の範囲内に充分含まれ、昔から正しい使い方だったと考えて良いでしょう。 この他の近年の誤用系トピックとしては「敷居が高い」に関して、ネット上ではずっと誤用だとされていた「貧乏人には敷居が高い高級店」的な用法が正しいものとして2017年から辞書に載り始めたというものがありますが
実はこれも当然の事で、そもそも敷居が高いとは「そこに入りたくないという思いがあると、簡単にまたげる筈の敷居がまたげない程高く感じる」という心理的な比喩表現であり、
不義理云々は一部の辞書で「不義理など」と敷居が高くなる原因の例として挙げられていただけで、
元々「不義理が原因の場合にしか敷居が高いを使わない」などという話は昔から誰もしていなかったのです。
(要するに時代の変化で意味が変わったんじゃなくて、
あなたみたいな辞書しか読めないピーが間違った日本語知識を撒き散らすから辞書側が対策とったんだと思いますよ、コピーバノさん!) 追伸…「言葉の意味は時代によって変わる」ってセリフ、
世間では誤用をしていた人の言い訳というイメージがあるかもしれませんが、議論を何度もやった自分の経験から言えば
浅薄な知識で他人の言葉遣いを批判する
↓
『いや、昔からこの意味であってるけど?』
と反撃される
という目にあったtrollは高確率で
「言葉の意味は時代によって変わるって言いますからね、ジャッ!」
って話をウヤムヤにして逃げようとします コンパクトに主張をまとめる苦行を経てない気がいたします。
短文にまとめられる。それがスキルです。 男は美学もいいけど ヴィーナスみたいなのを言葉紡いで語るんだよ。
エロサイド やタナサイトだけじゃあね。 デウラー とか マテスとかね、でも教授や講義者、事務方の方がもう時代はいいんだよな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています