マルセル・プルースト20 [無断転載禁止]©2ch.net
>>100
もちろん私は図書館利用です、自慢じゃないけど金は無いですからねw 文学を読む人間は貧乏だな。金を稼ぐ術を知らないから。
金を稼ぐ人間は文学に興味がない。 先日、サントリー美術館でエミール・ガレ展を見てきた。
ロベール・モンテスキュー(シャリュルス男爵のモデル)がガレに大きな影響を及ぼしたとかだが
ホイッスラーなら理解できるような気がするが、ガレはねぇ。
暗くてグロテスクで、ジャポニズムの影響?どこがぁ?だった。 岩波文庫吉川精一のスワン家のほうへ1の巻末に略年譜が載っていて、1902年(31歳)12月3日、エミール・ガレを訪れ、友人のための花瓶を注文したとなっている
この年の10月18日にはオランダのデン・ハーグ、マウリツハイス美術館で、プルーストが最高だと称賛する、あのフェルメールのデルフトの眺望を見てるんだな プルーストが見たその110年後に、デルフトの眺望を東京都美術館のフェルメール展で見た訳だが、失われたを読んどけばもっと深く見ることが出来たと思うと残念
ま、人が大勢過ぎて一列目で見るのは断念したし、黄色の壁にも気が付かなかったなぁ 近いうちにマドレーヌとプチフールを買ってきて、紅茶で食してみよう 自分は 1984 年に西洋美術館で見たが。
marie claire という女性誌に「失われて・・・」の連載記事が出たり
フェルメールが注目され始めた頃だったと思う。
観客は少なく、ガラガラで、「青いターバンの少女」の前は皆さん、素通りだった。 都美で見たときは入場規制が掛かり、耳飾りの少女は特別展示で、見るまで確か1時間待ちだったかな
あの絵は青が鮮やかで遠くからでもよく目立った >>105
吉川一義だ。文学板なんだから名前くらい正確に書けよ。 「耳飾りの少女」はインドのnautch girlを思わせる。
売春と東洋趣味はフェルメールの絵の背景になっている。 その吉川一義訳でコンブレーを読むと、井上究一郎ではもやもやとして解らなかった箇所が霧が晴れるように理解できるようになった
何回も繰り返すが、これはやはり丁寧な注釈と掲載されてる多くの図版のためで、浅学非才の身としてはありがたくて滂沱の涙を禁じ得ない サンザシの咲く庭からスコップ担いで表れた愛しのジルベルトw Kindleでフランス語原文、無料で落とせるんだが。 サンザシは epine、epine rose だっけ?
新潮社の和訳で読んでいた頃、母が欧州の花旅行に行くので、
サンザシの写真を撮ってほしいと頼んだ。
引率の講師が教えてくれたそうだが、アホみたいな花だったそうだ。
写真はうまく撮れていなくて不明。サンザシの花弁を張ったロウソクが土産だった。 このビデオの 18 分くらいのところからのイメージかな?とも思いますが
花の名前は言っていないようだ。
https://www.youtube.com/watch?v=V8mCZXxxHyQ 小説は文章で読んでこそだと思うのでイメージ映像は要らない >>118
凄く広いところに住んでんだな、スワンは 吉川さん(岩波)のが9月にようやく最新刊。
頑張ってください、完結まで早めに頼みます。 >>122
情報サンクス!
全14巻だからあと4巻で完結だな、無事で行ければいいけれど、吉川さんもそんなに若くは無いしな >>122
前巻から10か月も経っている。こりゃ完結まで結構かかりそうだな。
6年でようやく10巻か。あと3年はかかるな。 訳者があとがきで吠えてた光文社版はどうなりましたか 吉川さんは68歳か、病気しないで無事乗り切って欲しい 光文社は先に刊行したんだが、まだ4巻。
一方、岩波はあと4巻。ほぼ計画通りに進んでいる。 吉川さんの訳は、あれだけ絵画や関連した事件、人などへの考察をしてるから時間は掛かるわけだな >>132
半年に一冊ペースの計画なんだけど、『囚われの女』以降は
作者の死後刊行だから、困難が予想されると訳者が書いていた。
いずれにしても、光文社よりも誠実。 >>133
えっ、死んでから出すんですか
プルーストと同じになるのか 作者の死後に刊行したと書いてある。訳者の死後ではない。 この曲からヴァントゥイユの小楽節の着想を得たという、サン=サーンスのヴァイオリン・ソナタ一番を聴いて見ると、当該箇所は作者が手紙に書いたような、「感じはいいけれど凡庸というほかない楽節」とはとても感じられない
プルーストは音楽にはあまり感性が無かったのか 晩年のベートーヴェンやワーグナー、フランクが好きだったんだからサンサーンスはものたりなかったのかもね
個人的にプルーストの感性は天才のそれだと思ってる
どんくさいイメージもあるけどねw サン=サーンス : ヴァイオリン・ソナタ 第1番 ニ短調
総説 2015年11月 執筆者: 中西 充弥
http://www.piano.or.jp/enc/pieces/23225/
1918年4月20日付の手紙で、
プルーストは「サン=トゥーヴェルト夫人邸の夜会の場面では、私の好きな作曲家ではありませんが、
サン=サーンスの『ピアノとヴァイオリンのためのソナタ』に出てくる、感じはいいけれど凡庸というほかない楽節を念頭に置いていました
(何度もくり返しあらわれるその一節がどの箇所か正確に申しあげることができます。
ジャック・チボーが演奏して大当たりをとった一節です)。」(吉川訳)と述べている。
しかし、好きでもない作曲家の楽曲を、わざわざ自分の小説作品で重要なカギを握る楽節のモデルとするのは不自然である。
実は、以前もっと若かりし頃、プルーストはサン=サーンスに対し好意的で知遇を得ようと思っていた。
プルーストの評価の変化の原因は直接的な証拠がないので断定は難しいが、
恐らく第一次世界大戦時のサン=サーンスによる反ワーグナー・キャンペーンによるものであろう。
当時芸術院会員であったサン=サーンスとまだゴンクール賞をもらう前のプルーストでは芸術家としての地位は圧倒的に違い、
個人的に親しく付き合った形跡もない(上述の名刺の他に書簡が全く残っていない)から、仲違いということではなく、
ワーグナーを評価していたプルーストの側の一方的な心境の変化とみてよいだろう。 ワーグナーなんて長いばかりでどこがいいのかね、ったく
ま、俺はワグネリアンなんだけど ま、確かにベトのゲンヨン15番は素晴らしい曲だと思う 筑摩大系版の井上訳を持っているが、冒頭と最後の訳文が同じで、円環構造になっている。
冒頭「長いあいだに、私は早くから寝るようになった。」
最後「時の長いあいだに。」
ちくま文庫版では違う訳文らしい。 >>146
ちくま文庫10巻の最後の訳は、「時のなかに」で、
原文冒頭の「Longtemps」と最後の「Temps」が韻を踏んでいることが
多くの批評家から指摘されているそうだ。 筑摩書房、プルースト全集、鈴木道彦訳のジャン・サントゥイユを読み始めたが、失われたを読んだあとだから、読みやすいのなんのってw クラウス・フロリアン・フォークトのローエングリーンを、新国で初めて聴いたときは、そのあまりの美声にぶっ飛んだw >>146
>「長いあいだに、私は早くから寝るようになった。」
これは語訳。これだと徐々に早く寝るようになったというニュアンスになるので、
ちくま文庫では
「長い時にわたって、私は早くから寝たものだ。」
に修正している。 For a long time I used to go to bed early .
これで誤読の恐れ無し 翻訳家も文学者の端くれなら、上の訳文はないだろw
私は長きに渡って早く就寝することを習慣としていた。
の訳文以外有り得ない。 >>146
>「長いあいだに、私は早くから寝るようになった。」
これは日本語として恥ずかしいレベル ついでに言うと現在はもう早く寝るということはしていないんですね
その辺り日本語翻訳は少し曖昧だけど英訳はシンプルでもはっきりさせている 東大の名誉教授が一番最初の文章でそんな誤訳をするだろうか?
誤訳になりかねないようなフランス語の文法的な意味とかがありそうな気がするけど。
その訳文についての注釈みたいなのを読んだ気もするのだが忘れた。 >>43
19行目は
「マルセル・プルーストは入っていない。」と訂正すべき。
いやしくも金を取って翻訳してるのならば。 こういう超長編が最後まで読まれるためには、文章のスピード感が絶対に?必要だと思うんだが、ゴンクール賞の審査員も飛ばし読みしてたりしてたりということも有り得る。 159みたいに東大名誉教授の肩書きを盲信?する人もこのスレには多分多い。
権威主義の人が特に多いだろうから。
少し翻訳本を読んでれば、著名学者の誤訳話など幾らも聞いてるだろうに。 井上訳はなんであんなにひらがなばかりなんだよ
よみにくいったらありゃしない >>160
長いこと私は早めに寝むことにしていた
Longtemps, je me suis couche de bonne heure
これが「長い間に」とするためにはdepuis longtempsじゃないといけない
こう語っている語り手と早く寝る習慣を持っていた対象は同一人物なのか?
ジュネットは一人称ではなくて語り手の審級が異なる、としている
わざわざ不自然なフランス語になっていて、複合過去と「時間を表す副詞」を共存させている書き方になっている
英語に訳しても分かりやすくはならない、というか英語に訳すほうが難しい
カミュの異邦人の書き出しと同じで、フランス語は語り手の場所は特定せずに書くことが出来るが時間は特定せずに書くことは出来ない
それに挑戦した文章で、実際に次の文からは複合過去ではない(カミュは複合過去を続ける) フローベール『ボヴァリー夫人』の書き出しも妙だよね?
僕らは自習室にいた。(中村光夫訳)
この「僕」は二度と小説に出てこない。 >>165
翻訳の本義は二国語間の折り合いを付けるってことだろ。
今さら、「フランス語は特別ざんすから」か? >>165
それそれそういうのを
わざわざこの不自然な日本語にした理由として読んだことがある。 しかしけっこう、それこそ長い間、唯一の個人訳として読まれてきたものの、
しかも最初の文章を専門家が誤訳したとよく決めつけれたものだった。 当の作品が実際に読まれてないから、世間から誤訳がスルーされてしまう。
165は何の判断も下していないが。
冒頭でつまずくのも良い?が、先はあまりにも長いんだが?
170にはアンカーがないので相手にする程のこともないだろう。 >>172
恥ずかしいのは明晰であろうとしないお前の態度だろう。 でもコンブレーだけは読む人多いんじゃない
それから先は知らん >>172
名無しで卑怯なレスなら大概は女だろうが、お前は阿呆のにっぱか? >>172
お前には権威主義、蒙昧、騙し討ち、卑怯、虚栄心、狡猾などの言葉が相応しい。 例のバイオリン・ソナタはフランクのものではなかったっけ?
ずっと昔、芥川也寸志がラジオで、フランクのを自分の一番好きなバイオリン・ソナタだと言っていた。
フォルカー・シュレンドルフ監督の映画「スワンの恋」で使われていた曲は何だっけ?
当時、たまたま読んだフランスの雑誌にこの映画で使われている曲が違うと批判があった。
オデットがオルネラ・ムーティというのも合っていなかったが。 フランクか、このソナタ弾きたいためにヴァイオリストになったと、誰か著名な演奏家が言ってたけど、それほどのものかな >>178
『ソドムとゴモラU』で、シャルリュスがフォーレのバイオリンソナタを
弾くシーンがある。
>(これは、不安げな、苦ちた悩をたたえた、シューマンふうのものだが、それでも
フランクのソナタよりも前のものだった)集英社文庫 第8巻 p230 鈴木訳
>シャルリュス氏が、フォーレのピアノとヴァイオリンのためのソナタの終楽章
(不安と苦悩にみちたシューマンを想わせる曲だが、それでもフランクのソナタ
よりも以前の作)をこの上なく端正な弾き方で伴奏した。
岩波文庫 第9巻 『ソドムとゴモラU』p238 吉川訳 >>180
>シャルリュスがフォーレのバイオリンソナタを弾くシーンがある。
訂正 シャルリュスはピアノ伴奏でした。 >>182
モレルですね。「ラ・ラスプリエール荘での晩餐会」での出来事。
クラシック作曲家への言及が多い場面。 なんか、モレノって一杯いるなw
ところでプルーストは、スペインへは行ったことは無いんだったな 「スワンの恋」にはしきりにボッチチェルリのことが出てくるが
プルーストはフィレンツェに行ったことがなかったんじゃなかったっけ? >>187
彼の見出したボッティチェリは19世紀に前ラファエル派が再発見したボッティチェリだからね
どちらかというと色彩がない、コピーなんじゃないかな >>188
そうなんですか。
ラファエル前派って以前によく展覧会があって見に行きましたが、色が気持悪い。
ダンテ・ガブリエル・ロセッティの絵に登場する女性はゲジゲジ眉毛でユダヤ人みたい。
(別に悪感情を持っている訳ではなく、単なる好みと言うか、感想です)
ボッチチェリとは随分と違う感じがします。
そう言えば、日本趣味と言われるホイッスラーの絵の女性がロセッティに似ていると思いましたが
ホイッスラーは色彩とかが日本的で好きです。 >>190
オデットの描写はもともとはふっくらとしたピンクの頬の好ましい女性でした
ところが最終稿ではスワンの性欲をそそらない顎や頬骨の飛び出た美人となります
それがスワンに好ましく映るのは、ボッティチェリにそっくりと気づいたときです
スワンは肉感的な美人が好きなのですが、美術の趣味としては世紀末に称揚されたボッティチェリを好むのです
このボッティチェリは筋ばって醜いというのがその当時の認識で、それを覆したのがラファエル前派の思想的支柱たるジョンラスキンであり、プルーストは翻訳までしています
オデットの描写はボッティチェリそのものでなく、ラスキンのスケッチを忠実に描写したものになっています
スワンはラファエロ前派の新しい美人に観念的に憧れる新しい物好きな訳です
ちなみに同時に針子をたぶらかしていますが、こちらはピンクのふっくらとした描写になっています ほんとは嫌いだけど、好きなボッティチェリが描いた絵の中に出てくる女に似てるので、気が変わり好きになった
んな馬鹿なw >>192
「彼が自分では気がつかずに求めていた肉体的特質は、彼の好きな巨匠たちが彫ったり描いたりした女性たちに彼がささげていた賛美の特質とは正反対のものであったからだ。
奥深くて憂愁をたたええた表情は、彼の官能を凍らせ、逆に健康な、ぽってりした、ばら色の肉体が、彼の官能を目ざめさせるのであった。」
健康な、ぽってりした肉体というと、母性を思わせる描写である。ラファエロの絵をモデルに考えると、想像がつく。 ラファエロによる聖母マリアのような、そんな女性をスワンは求め続けてきた。
スワンは美しいと思った女、きれいだと思った女を手に入れてきたが、その美しさの基準はやはり上記のような「健康な、ぽってりした、ばら色の肉体」ということであった。
オデット・ド・クレシーは裏社交界の女と書かれている、教養という点ではスワンとまったくつりあっていない女性であった。
会ってしばらくの間は、スワンにとってオデットは自分の好みではない女として分類されていた。
「われわれの官能が要求するのとは反対のタイプの女の一人だというふうに映ったのであった。彼が気に入るにしては、横顔はとがりすぎ、肌はよわよわしすぎ、頬骨は出すぎ、顔立はやつれすぎていた。
目は美しかったが、いかにも大きくて、それ自身の重さでたわみ、そのために残りの部分は、疲れをおびて、いつも色がわるく、不機嫌そうなようすに見えた。」
この描写は、スワンの好みとは正反対であり、ラファエロの絵とも似ても似つかないものだ。ボッティチェリの描いたシモネッタや聖母像を見ると、まさしくこの原文の描写が当てはまっていることに驚かされる。
オデットとスワンの間に一目ぼれはなかった。
スワンは「彼女のもっている大した美貌が自然と自分が好きになれたような種類の美貌ではないことを残念に思うのであった」という文章からもわかるように、オデットを美しいとは思いながらも、女性としての魅力はあまり感じていなかった。
スワンが天啓を得たかのように、突然にオデットを愛し始めるのは、彼が好きなボッティチェルリによる壁画の「エトロの娘・チッポラ」にオデットが似ていると気づいた瞬間からである。
http://m.happycampus.co.jp/docs/983430443701@hc06/12642/から適当に記載 >>193
岩波文庫の挿絵に出ているチッポラは美しいと思いますが。
「失われた・・・」は KINDLE 版が出ていないんですね。
若い頃はプイヤッド3冊本を勢いで読んだけれど、
今はもう辞書を引く根気はないし、仏語の単語は忘れているし・・・ >>194
岩波の二つのチッポラのうち、左の拡大図がそもそもラスキンの模写です
舞台は1880年代なわけですが、この当時、ラスキン、あるいはイギリス唯美主義者がボッティチエリを「発見した」わけです
こんな美人もありだよ、と
それ以前の300年間「醜い」とされてきたのであって、今の時代の読者が「美しい」と思うかは別問題です
ラスキンやペイターはラファエル以前、要はルネサンス盛期より前の人々を持ち上げるわけです
重要なのはスワンの美的趣味は性的欲望の先を行っていることであって、これはスワンと語り手に共通する性質なのですね
ただしこれは多かれ少なかれ当時のスノッブが持っていた属性でもあって、オデットも「名前」や「イギリス語」に内容よりも優先する物神崇拝が見えます
性的欲望(感覚=アイギストス)だけではsensationの道徳的(≠宗教的・倫理的)側面にいたらず、美的趣味となるためには・・・というのは当時ラスキンを翻訳しながらプルーストが考えていたことなのでしょう
ラスキンの(世俗的)唯美主義批判とも重なるとこなんだと思います
語り手がはじめてラ・ベルムを実際に聞いたときの幻滅と、現実の女優を離れて初めて自由に愛せるようになるというとこ見ても分かるように繰り返される変奏のひとつです 源氏物語に出てくるような平安時代の女は絵巻で見ると、決して今の美人のカテゴリーには入らないみたいなもんだな >>196
あれはわざとああいう風に書いているんじゃなかったっけ?
ソースは探してないが。ちなみに源氏物語では浮舟が好きです。 源氏物語は林望訳で54帖読んだけど原文は難しくて断念
源氏物語は失われた時を求めてに似てるという評論家がいるけど、果たしてどこがだろうと疑問に思っている >>198
>源氏物語は失われた時を求めてに似てるという評論家がいるけど
その評論家自身が『失われた時を求めて』を読了したのかが疑問。
俺は、源氏物語は円地文子訳と瀬戸内寂聴訳で読んだけど、そもそも日本史の
知識がないのでわからないことの方が多い。大塚ひかり訳も読みたいのだが。