大西巨人 第八楽章 [無断転載禁止]©2ch.net
一九四七年・大西巨人のスタートライン──ヒューマニズムへと展開する我流虚無主義の精神/杉山雄大
『昭和文学研究 第75集』 南が丘文庫
http://www.minamigaoka.info/BOOKS/
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横浜市立南が丘中学校の母体である、平成研究会、通称、経世会とは、自由党吉田茂派を起源に持ち、周山会(佐藤栄作派)・木曜クラブ(田中角栄派)の流れを汲む、鉄の軍団と呼ばれた保守本流集団である。
横浜市立南が丘中学校OB会 歴史の総合者として: 大西巨人未刊行批評集成
大西巨人 (著), 山口直孝 (編集), 橋本あゆみ (編集), 石橋正孝 (編集)
出版社: 幻戯書房 (2017/11/8) 大西巨人『未完結の問い』という本のなかでの以下の語りが、僕のなかでは非常に強く印象に残っている。
最近は、たとえば「Aがいい」と思っても、それをまっすぐには言わない方がいいという論調があるね。
「AでもないBでもない」というふうに言っておく方がいい。
本当は、「世の中はAじゃなきゃいかん」という「A」を探り求めていかなければいけない。
むろん、なかなか不動のものに到達しないということもあろうが、それを見つけて、言わなきゃいかんわけ。
ところが今は、どうもみんなが、「AでもなければBでもない」というようことを言う。
わかりやすく世の中に当てはめたら、「右翼でなければいかん」という奴がいて、一方に「左翼でなければいかん」という奴がいる、
そうではない「右翼でも左翼でもないのがいい」という論調がいっぱい出てきているように思うがね。
その右翼でもない、左翼でもない、AでもないBでもないという言い方が、実は戦争やらファシズムやらを呼び招くんだと思うが。
でも、一所懸命「不動のA」を追究して、そのことを言う人間がいなきゃいかんな。
(84p)
http://doteki2.blog.jp/2017102173209104.html 柄谷との対談について質問あります。
誰か詳しい人いない? なんで巨人館貼ってないの?
貼ったらいけないことになったの? Kim, Yi-Chul
山本七平と大西巨人はかいつまんで読めば、両方とも日本的組織への批判に読めてしまうけれども、
大西はその組織化が組織の成員の言語行為に浸透することを指摘し、
その抵抗方法をも書いているのであって、通俗的倫理に訴えてしまう山本とは知性の格がちがう。
2018年3月16日 「日本近代文学館年誌―資料探索」
13号目次
エッセイ
いとうせいこう 手書きの中の情報
前田 良和 「谷崎潤一郎全集」の刊行が終わって
深澤 晴美
日本近代文学館草創期と川端康成
――小谷野敦・深澤晴美編『川端康成詳細年譜』を辿って
倉 和男 『名著複刻全集』の僥倖
論 考
長島 裕子 新資料・東新日記が語るもの――記された言葉から浮かび上がる漱石の姿
武藤 康史 治安維持法と高見順
山口 直孝 「この人」という他者――大西巨人における佐多稲子
林 淑 美 中野重治「『暗夜行路』雑談」を読む
庄司 達也 「下島勲日記」――芥川龍之介を看取った文人医師の交友録
資料紹介 下島勲日記 野間宏『真空地帯』と国民国家論 : 国民化される肉体の裂け目
(2014年度国際言語文化研究所連続講座 西川長夫 : 業績とその批判的検討) --
(第1回「戦後日本文学と国民国家論 : 廃墟の光を求めて」)
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/lcs/kiyou/pdf_27-1/RitsIILCS_27.1pp35-49NAITO.pdf T 大西巨人の現在──さまざまな眺め
一編集者から見た大西巨人 ──『神聖喜劇』と光文社の関わり◆浜井 武
『神聖喜劇』を上演するために◆川光俊哉
『神聖喜劇』と『万葉集』◆多田一臣
大西巨人の「転向」◆絓 秀実
U 革命的知性のミクロコスモス小宇宙 ──大西巨人蔵書の世界
大西巨人蔵書──調査の経過と概要
大西巨人主要蔵書解題
阿部和正・石橋正孝・伊豆原潤星・ 坂 堅太・杉山雄大・竹峰義和・ 野口勝輝・橋本あゆみ・山口直孝
V 享受と創造──大西巨人をめぐる考察
同時代の小説を「読む」大西巨人◆石橋正孝
大衆社会下における芸術の大衆化をめぐって ──記録芸術の会における芸術/資本/政治の 関係について◆坂 堅太
大西巨人と漢詩文──『神聖喜劇』を題材に◆田中正樹
蔵書にみる大西巨人の道元受容 ──『神聖喜劇』における引用の効果◆橋本あゆみ
習俗的であることの悦楽 ──『神聖喜劇』における『トニオ・クレーゲル』◆竹峰義和
揚棄される個人──大西巨人『深淵』の様式◆山口直孝
もう一つの「俗情との結託」批判 ──いま「プロレタリアート」の意味を確認する◆田代ゆき
W 大西巨人書誌◆齋藤秀昭
公開ワークショップ「大西巨人の現在」の記録 大西巨人(1916年8月20日 - 2014年3月12日)
グレッグ・イーガン(Greg Egan, 1961年8月20日 - ) A.Hashimoto
今更で恐縮なのですが、『歴史の総合者として 大西巨人未刊行批評集成』『大西巨人 文学と革命』で
お仕事を共にした石橋正孝氏(立教大准教授)が第23回日仏翻訳文学賞を受賞されました。
本来のご専門であるジュール・ヴェルヌの翻訳での評価です。おめでとうございます!
2018年5月1日 「吉本隆明君のこと」(『読書人』2012.4.13)での大西の吉本隆明、武井昭夫評価発言にたいする安里ミゲル氏の批判(?)、
みなさんはどう受け止めていますか? 個人的に何に腹を立てているのかよくわからないのですが……。
大西が「文学」的(この「文学」的の正確な意味はちゃんと検討しなきゃわからない)に武井より吉本を評価したことは注目すべきだけど、
それに腹を立てるっていうのは正直よくわからないです。
安里氏の文章を読む限り、大西が武井の自己評価に不満があったと考える根拠も空想の域を出ないし、
武井が大西の文学に満足な評価を与えていなかったということ、それを大西が感じ取っていたことの根拠も微妙です。
これらがきちんと立証されれば安里氏の見方も立つとは思いますが。
大西が武井、吉本の死後に、ここぞとばかりに復讐をしたよう書かれていますが、それを言ったら大西の死後に曖昧な根拠でこのような批判をする安里氏はどうなるのか……。
大西が吉本を高く評価していたことは知られています。その大西が「文学」的に(正確な意味はわからないけれども、少なくともそのような前置きをして、慎重に。
また、仮にそれが「革命的文学・芸術」を指すのだとしても、)武井の「やや」上方に吉本を置いたことが、なぜ「憎悪」の表出となるのでしょうか。疑問です。
晩年の大西の発言を「ボケ」として不問に付す見方への安里氏の批判はもっともと思います。つまりそれに腹を立てるのはわかります。
みなさんの感想も知りたいです。 安里 朖
https://www.facebook.com/akira.asato.77/posts/1976082222480168
大西巨人の文学的優越性は、こうした日本語特有
の曖昧性を揚棄した法文的文体を、文学言語にま
で高めた点にあるといえよう。と同時に、そうした文
学言語は、日常言語すなわち口語との乖離を免れ
ないので、ある種の「文語」性を帯びることとなるた
め、その文体が近代社会の規範となることはありえ
ない。ということはつまり、日本が向後、大西のナシ
ョナルな展望(希望)通り、天皇制を廃した「日本人
民共和国」となることがありえたとしても、大西文学
が「国民文学」、ひいては中国革命における魯迅の
ような意味における「革命文学」となることはありえ
ない、ということである。そういう意味では、大西より
も高橋源一郎の文体(文学)のほうが、日本語固有
の曖昧性を保守しているがゆえに、はるかに「国民
文学」としての素質をそなえているといえよう。 『カラマーゾフの兄弟』は、フョードル・ドストエフスキーの最後の長編小説。
1879年に文芸雑誌『ロシア報知』に連載が開始され、翌1880年に単行本として出版された。
『神聖喜劇』は、大西巨人の代表作とされる長編小説、および、その派生作品。
1960年から70年にかけて『新日本文学』に連載、1978年から80年にかけて刊行。 評者◆池田雄一
意識の流れから電流へ!
No.3154 ・ 2014年04月12日
――先日、大西巨人氏が亡くなりました。
▼自分らの世代だと、大西巨人は同時代の作家だったんだよね。
たしか『神聖喜劇』が「新日本文学」で連載されたのは一九六〇年から一九七〇年にかけてなんだけど、
本の刊行が完結したのが一九八〇年なんだよね。連載と、刊行される時期にずれがある。
本として刊行されたら、日本は八〇年代に突入していた。
その間に、文学は村上龍の登場などに象徴されるような形でギルド制が崩壊しつつあった。
そうした状況のなかで、大西巨人は再発見されたんだ。
つまり資本による脱コード化の動きの結果として社会が液状化しているなかで、
液状化されていないものが再発見された、というのが八〇年代の大西巨人だった。
砂浜で、でかい岩を発見したみたいな感じだよね。
結果として、阿部和重のようにセゾン文化と『神聖喜劇』が矛盾することなく同居しているような状況があったのでは。
その一方で、大西巨人は九〇年代にも鎌田哲哉からロスジェネへと至る世代によってまた再発見されている。
これは八〇年代の再発見とは文脈がちがう。九〇年代のやつは、『神聖喜劇』の舞台である軍隊と、
バイト先の飲食チェーン店とが変わりないような状況が生まれつつあるなかでの再発見だと思う。
閉鎖された状況のなか、生きるに値しない生を生きるために自分を機械へと鍛えあげるというモチーフは、
現代のサブカルにおいても反復されている。そういう意味では、『神聖喜劇』はソリッドステイト系の草分けなんだよね。 ――ソリッドステイト系って何ですか。
▼ひとことでいうと『バトルロワイヤル』みたいなやつ。いきなり人工的な空間に押し込められて、
ホッブズ的な殺しあいの状況を生き抜くハメになるような話のことだよね。
あるいは互いに殺しあうんではなくて、敵がなぜか抽象的な場合もある。最近だと『進撃の巨人』とかもそうでしょう。
すごいよね。あんなに気持ちの悪い漫画が、あれだけ大衆的な支持を得るんだから。
『神聖喜劇』の主人公である東堂太郎は、軍規を記憶することに特化したサイボーグのような存在になることによって、
逆にヒューマンであらざるをえないような存在だよね。
そういったサイボーグ化する身体の主題って、八〇年代に反復されていたような気がする。
一九八五年にはダナ・ハラウェイの「サイボーグ宣言」が発表されてその翻訳が九一年にでたんだけど、
それ以外にも、柄谷行人の『隠喩としての建築』なんかも機械化する身体というモチーフの系譜に入るんじゃないか。
八〇年代の大西巨人の再発見は、そうした文脈におかれたものでもあったんじゃない。
そういえば、岡和田晃が「早稲田文学」で「「私」と〈怪物〉との距離――藤野可織の〈リアリズム〉」という評論を書いていた。
かつての自然主義やリアリズムが想定していた現実と、
藤野可織や円城塔がリアルだと想定している現実はまったく違うんだけど、
それはどうしてかという問題をベースにして、藤野可織論を書いていた。
単純にいえば、小説を書いている人間が前提にしていた現実というのが、
かつては象徴によって構築された現実だったけど、昨今においてはラカンが言うところの現実界が現実となっている。
藤野可織は明確に現実界の作家なんだよね。
話を戻せば、大西巨人という人は、ずいぶん昔からそうした現実界を生きていた作家だったということだよ。――つづく 七井コム斎
日本軍コントの優といえばドリフ、いかりやさん素で鬼分隊長だもんね、
言うことを聞かない志村や加トちゃんは生命の抵抗、ちゃんとしてる仲本と何もできない高木ブー、完璧なんだもの
2015年8月28日
千葉雅也『デッドライン』発売
ドリフには日本軍ネタがあった。いかりや長介の父性は軍の暴力性のパロディでもあるわけで、
だからあの笑いの時間は、「先の戦争の後、戦後」を生きているんだという自覚をもたらすものだった。
いま、戦争へのそういう反省的連続性をもたらす大衆文化はどこにあるのだろう。
2020年3月30日
takao
志村けんのコメディから、幼児性・猥雑さ・倒錯・性癖を奪い取ってはならない。
劇中、なぜ志村が旧日本軍の劇画たるいかりや長介に反抗し、硬直した構造を壊していたのか、
その意味がわからなくなる(しかし、荒井注の時代からドリフにはそういった要素は胚胎していた)。
2020年3月30日 いつか買おうと思いつつ20年経ってしまったが、
とうとう『神聖喜劇』文庫全5巻を買ってしまった
いつ読むか、それが問題だ
数年後に読めればいいが 神聖喜劇が光文社文庫に入ったのは2002年だから、19年も経ってしまった >>45
「死霊」は電子書籍になってるんだもんなあ
「神聖喜劇」「三位一体の神話」も出して欲しい 大杉重男の大学院ゼミでは『神聖喜劇』を扱っているんだってさ >>45
>>46
キンドル化って息子の赤人さんに決める権利がある? 春秋の花 (講談社文芸文庫) 文庫 – 2023/7/12
大西 巨人 (著)
妥協を許さぬ小説や批評の書き手で知られる大西巨人は幼少期より古今東西の詩文を愛好してきた。
成長し老境に至るまで折りに触れ愛唱してきた断章は、
柿本人麻呂、西行、正岡子規、石川啄木、与謝野晶子、斎藤茂吉、斎藤史、松尾芭蕉、西東三鬼、金子兜太、島崎藤村、
三好達治、佐藤春夫、茨木のり子、森鴎外、夏目漱石、樋口一葉、有島武郎、中野重治、小林秀雄、吉本隆明、柄谷行人…と、
万葉の世から現代まで幅広く、また意外性すら湛えて季節毎に丁寧に並べ置かれている。
文学を愛する者として人後に落ちない大西巨人が年月をかけ丹精して選んだ詩文の精髄がここにある。 『神聖喜劇』全5巻 著者:大西巨人 発行所:光文社 各定価:1400円
第一巻 1978年7月5日初版第1刷発行
第二巻 1978年7月5日初版第1刷発行
第三巻 1978年8月15日初版第1刷発行
第四巻 1980年4月25日初版第1刷発行
第五巻 1980年4月25日初版第1刷発行
巨人雑筆
1980年12月19日初版
◆渡部昇一 1980「古語俗解『神聖な義務』」『週刊文春』10月2日号、文藝春秋
◆大西巨人 1980「井蛙雑筆 十七 破廉恥漢渡部昇一の面皮をはぐ」『社会評論』第29号、活動家
集団 思想運動 前から気になっていた神聖喜劇を読み始めたんだが
100ページぐらい読んだが全く面白くなく
苦痛になってきたんだけどこのまま我慢して
全巻読む意味はあるだろうか
同時にスピノザのエティカと資本論も読んでるんだが
3つに順位をつけるならどう
有識者の意見を請う >>53
ちょうどKindle50%ポイント還元の対象になってるで
地獄変相奏鳴曲も 識者ではないけど(笑)活字で退屈なら初めはイラストor漫画版でもいいん
じゃないの?
マンガで読んで面白そうな箇所は活字でも読むとか。以下はいずれもamazonで
購入可能。
資本論 (FOR BEGINNERSシリーズ イラスト版オリジナル 17)
マンガでわかる! 100分de名著 マルクス「資本論」に脱成長のヒントを学ぶ
(マンガでわかる!100分de名著) 監修:斎藤幸平
神聖喜劇 (幻冬舎単行本)全6冊 作画:岩田和博 親切にありがとうございます
そういえば以前その神聖喜劇の漫画を読もうとして
それさえも挫折したことを思い出しました
漫画でさえ読めないとなると根本的にあっていないのかもしれません
もうちょっと読んでダメなら諦めようと思います ちなみにマルクスの生涯と思想を読むイラストだと富士書房から出た
『喧嘩屋マルクス』というのが面白かった。マンガで生涯のエポックや思想的
背景とか、思想的成立を面白おかしく解説してて著者の遊び心がある。
読みやすい。イラストが多くてマンガチック。これもamazonで購入可能。
喧嘩屋マルクス (エコノミスト・シリーズ 6) 著:ナガイケイ イラスト:
カーフ・ウェスト ちなみにマルクスの生涯と思想を読むイラストだと富士書房から出た
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喧嘩屋マルクス (エコノミスト・シリーズ 6) 著:ナガイケイ イラスト:
カーフ・ウェスト 埴谷雄高『定本 死霊』講談社、1976年4月22日。
大西巨人『神聖喜劇』(全五巻)光文社 1978年7月〜1980年4月
埴谷雄高『死霊』 六章 愁いの王、講談社、1981年9月8日。
埴谷雄高『死霊』 九章、講談社、1995年12月20日。 ストーリーや内容だけ知りたいんだったら漫画でもいいかもしれんが
俺は大西さんのあの硬質で精密な文章・文体自体が好きなので
当然のことながら小説じゃなきゃ駄目なんだよな 大西巨人論―マルクス主義と芸術至上主義
山口 直孝【著】
幻戯書房(2024/03発売) 神聖喜劇: 長編小説 (第1巻) (光文社文庫 お 9-5)
光文社 (July 1, 2002)
578 pages
神聖喜劇 第2巻 (光文社文庫 お 9-6)
光文社 (August 1, 2002)
538 pages
神聖喜劇 (第3巻) (光文社文庫)
光文社 (September 10, 2002)
544 pages
神聖喜劇: 長編小説 (第4巻) (光文社文庫 お 9-8)
光文社 (October 20, 2002)
495 pages
神聖喜劇 (第5巻) (光文社文庫)
光文社 (November 12, 2002)
510 pages 直木賞をとれなかった名作たち
小谷野敦
筑摩書房
発売:2023/01/14
瀬戸内晴美「いずこより」1972/夏樹静子「蒸発 ある愛の終わり」1972/辻邦生「背
教者ユリアヌス」1972/素九鬼子「旅の重さ」1972/深沢七郎「盆栽老人とその周辺」1973/
川上宗薫「流行作家」1973/吉村昭「冬の鷹」1974/星新一「祖父・小金井良精の記」1974/
コラム城山三郎の政治的立場(直木賞こぼれ話3)/コラム半村良の「市井もの」/コラム長部日出雄の
「転向」/有吉佐和子「複合汚染」1975/コラム佐木隆三と筒井康隆/曽野綾子「木枯しの庭」197
5/萩原葉子「蕁麻の家」1976/高橋たか子「誘惑者」1976/島尾敏雄「死の棘」1977/中野
孝次「麦熟るる日に」1978/竹西寛子「管絃祭」1978/橋本治「桃尻娘」1978/大西巨人「神
聖喜劇」1978/灰谷健次郎「太陽の子」1979/笹沢左保「詩人の家」1979/中村光夫「グロテ
スク」1979/野口冨士男「散るを別れと」1980/戸川猪佐武「小説吉田学校」1980/青山光二
「われらが風狂の師」1981/西村寿行「老人と狩りをしない猟犬物語」1981/ふくださち「百色メ
ガネ」1981/コラム「二人受賞」の明暗/立松和平「蜜月」1982/コラム向田邦子、田中小実昌、
林真理子……/富岡多恵子「波うつ土地」1983/コラムつかこうへいと唐十郎/赤川次郎「ヴァージ
ン・ロード」1983 安井海洋
鷗外「於母影」、上田敏『海潮音』など明治の翻訳詩から始めて近代日本
詩史を辿り直していると自ずからロマン主義にぶち当たる。ロマン主義文
学とは「成熟した幼稚さ」であって、戦後には大西巨人と大江健三郎にお
いて花咲き(大西曰く「革命的ロマンティシズム」は重要な概念)、その
後がない。
2024年5月16日
A.Hashimoto
本日の別学科向け講義で、「虎に翼」と大西巨人はテーマが通じるね、と
話しました。法律を自分のものとして戦っていく姿勢。
寅子のモデルの三淵嘉子さんは1914(大正3)年生まれなので、大西巨人
と2歳違いの同世代人なのですよね。
この機に『神聖喜劇』も読まれたらな〜。
2024年5月10日
ころ
安部公房『題未定 安部公房初期短編集』(新潮文庫)、大西巨人『春秋の
花』(講談社文芸文庫)。大西の他に誰が山本常朝『葉隠』や田能村竹田
『屠赤瑣瑣録』を詞華集に採録しようとするだろうか。吃驚してしまっ
た。
2024年4月6日 照る日曇る日
2024年4月20日
日本人と漢詩(106)
◎江馬細香と大西巨人
日本の戦後、しばらくしての文学は、ロシア革命後のアバンギャルド
を始めとして、様々な潮流があり、今日《こんにち》から見ても、興味
深い。その「戦後」が落ち着いた頃「新日本文学」系の潮流の集大成と
いうべき作品の一つが「神聖喜劇」なのではないか?
田能村竹田はじめとする多くの漢詩を引いているように、「漢文」と
いう表現法は、性格上、この小説に似合っていると言わなければなるま
い。ここでは、小説に載った江馬細香の七絶から…
別後贈人
ー點愁燈夢屢驚
耳邊所觸總關情
尋常蕉雨曾聞慣
不似今宵滴滴聲 ぬらりひょん
早わらびの味にも似たる乙女なり 遠藤周作
一月や川にみなぎる海のいろ 戸板康二
栗焼くや美濃と近江の国境ひ 中村真一郎
波紋波紋寥寥と波紋水すまし 大西巨人
障子洗ふ上を人声通りけり 松本清張
朝焼けの溲瓶うつくし持ち去らる 結城昌治
(続)
2024年5月27日 我々団
新左翼某派に学ぶ
2020.1.1 外山恒一
革マル派を悪く云う者は、彼らが革命を無限の未来へと追いやって、結局のところ現在は何も
しないことこそが革命的であり、何かやるような連中は(余計なことをやって要らぬ弾圧を招く
ばかりなのだから)すべて反革命である、というようなトンデモ理論に凝り固まっていると見
る。しかし実際、(マルクス主義的には)革命は“無限の”とまでは云わないとしても、かなり先
の話であるはずではないか。(マルクス主義によれば)封建制が成立してから打倒されるまで軽
く1000年は要している。封建制と違って資本制が“速い”システムではあるとしても、フランス革
命からたかだか200年、300年ぐらいで共産制に移行しうると考えるほうが能天気というものだ
ろう。たぶん革マル派は、革命は500年ぐらい先のことだと考えており、それまでは、その革命
の瞬間に巨姿を鮮明にする予定の“正しい共産主義者の組織的結晶体”である自派を、次々と登場
するニセの革命派組織をいちいち撲滅しつつ、ひたすら拡大していくことだけを考えている。い
やー、まったく正しい。そんな、自分自身どころか孫の世代さえ享受することはできないだろう
革命のために、一体どんなモチベーションで(敵対党派に殺害されたりさえしながら)献身的に
頑張れるのか、現世にしか興味のない俗物の私などには理解不能だが、何かとてつもなく崇高な
ものは感じなくもない。
もちろん
スガ氏は私以上に頑固な反・革マルで、革命を何百年も先の話だというそれなりに正しいマルク
ス主義解釈を前提とすれば革マル派が正しいが、そうではなく、革命を“今・ここ”に生起しうる
ものと見なす立場に立てば(というか立って初めて)、革マル派とは違う路線を選択しうると論
じているのだと私は解釈している。そしてもちろん私もその立場であり、かつ、スガ氏の願望に
は反して、革命を“今・ここ”に生起しうるものと見なすことによって成立する革命論はマルクス
主義的なものではなく、ファシズムでしかあり得ないと考えているわけである。