★★★大江健三郎スレ3★★★
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大江健三郎
1935年1月31日生まれ
1994年 ノーベル文学賞受賞
2018年 大江健三郎全小説刊行開始
前スレ
★★★大江健三郎スレ2★★★
http://mevius.5ch.net/test/read.cgi/book/1534292715/ >>749
そうだねえ、わけのわからないレスで自己陶酔してる君に少しは興味もある。
興味といっても、なぜ人間は自己愛性パーソナリティ障害になるんだろう、という興味だけど。
君のレス自体はウザいだけだからw いいじゃねえか
娘のこと書くなんて斬新だろ
そりゃ何となくクソ面白くないのはわかるが
オマケの曲もわかりやすいヒットソングばかしだ
いい歌詞のを選んである 嫌なら聴くな
注)興味深々→津々
今夜の名曲
https://www.youtube.com/watch?v=In37jrrs424 >>751
病院に行った方がいいよ。
犯罪に走る前に。 大江ブームなんてもう来ないよね?
すっかり反日の人のイメージだし。 >>753
いま日本に必要なのは、反日思想だろ?
だって、愛国者たちのおかげで、生活や経済は停滞してるし、日本の世界の中での地位も下がるばかりだなんだから。 >>754
文学においても、谷崎川端三島のような伝統的な美文よりも、漢文訓読の文化が廃れた今日では大江の文体のようないわゆる「悪文」や、春樹やばななのような口語的な文体のほうが求められるべき文学の文体なんだろう。
いわゆる伝統的な日本文体でない文体 川端康成 「死者の奢り」を、私は初めから推したかった。(注「裸の王様」とどちらを選ぶかという時も)私は「死者の奢り」を選んだ。
(略)異常な題材を、意識して書いているので、行き過ぎの欠点と、私たちに感じられる個所が少くないのは当然である。
それでも、この二作(注「死者の奢り」「他人の足」)に見る才能はあざやかである。(略)開高氏と大江氏と明暗二様の気負いを見るが、これは悪いとは思わない。
川端康成 今回の大江氏授賞には率先して賛成である。(略)大江氏の「飼育」を佐藤氏(大江氏は授賞資格を超えるとして読まれなかった。)以外の全委員が推賞し、
大江氏の他の候補を支持する委員が一人もないのに、大江氏を落して、該当作なしとするには、理由がよほど明確強固でなければなるまい。
(略)世評は大江氏の才能に眩惑され気味でも、確認を与えているかどうか。この二十三歳の学生作家がもう芥川賞に及ばないとは、私には考えられなかった。 芥川賞選評から、大江に関する川端のものだけを抜粋した。
前者は1957年夏、後者は1958年初頭
異聞の類だが、最初の候補のころ、安岡の随筆には大江が酔って童貞を告白をしたと書いてあった。
そして受賞直後に江藤淳が「大人になった」旨を仄めかす話を書いた。
トルコに行ったのでなければ、婚約同然の相手と目出度く結ばれたのであろう。
伊丹十三は高校の先輩で早熟のプレイボーイ。東大落ちて浪人中、伊丹の実家に転がり込んで妹を見初めたのがキッカケという(大江談)。
さて、古い文芸誌で見つけた座談会があって、出席者は受賞直後の大江、開高、安岡、吉行だったと記憶する。
大江は開高への対抗姿勢が顕著で、ことごとく噛み付くように反論した。
たとえば開高が太宰を称揚すると、大江は通俗的だと断じ、開高から「意図的な通俗化」なのだと説かれると、女子高生でもわかる読み物は文学ではない、太宰は読者に読む努力を課さない、と否定を強めた。
開高に「女子高生がわかったら文学ではないの?」と言い返されたが、大江の論調は止まず強烈な太宰批判に終始した。
どちらかというと開高の怯みが目立ち、まともな文学論は苦手な印象を受けた。
いっぼう新鋭の大江はオスを開放して猛々しかった。
受賞作「裸の王様」vs「飼育」は次の機会に。
今夜の名画座
https://www.youtube.com/watch?v=aBsjBFFZ38k しかしノーベル文学賞かしらんが
こんな所で初体験すっぱ抜かれるとは
大した作家だなw >>753
「反日」なんて言葉を臆面もなく使うような無知無教養の輩は流行ろうが流行るまいが大江なんて読まないから関係ないだろうな。 >>753
逆
いまだに反日とかいってる振る舞いがもうブームじゃないんだよ >>757
正直、芥川賞とか開高がライバルだった時代が大昔あった
とか大江がここまできた今、話題としてトリビアルすぎるんだよ >>758
大江世代だと、まじめな男は女を買ったりしなかったんだろうな。
恋人や婚約者であろうと、結婚するまでは性交渉をしなかった。
婚前交渉、という言葉が生きてた時代だ。
団塊世代ですら、大学紛争になる前は結婚まで性交渉がないのが当たり前だと思ってたらしい。
大学紛争で性の価値観が大きく変わったようだけど、とどまることを知らずに、今では日影の中でロリコンが大手を振って歩いているw
LGBTを含めて、日本の性の価値観は先祖返りしてるともいえそうだ。 >>764
そうだね。
江藤淳はなんでも性行為に還元するからねえ・・・・ 大江の詳しい年譜を見つけたので「童貞卒業」の追跡を行う
初めに大江の奥さんには深くお詫び申し上げたい
(年譜)1960年2月18日、伊丹万作の長女ゆかりと渡辺一夫の媒酌で結婚。江藤に司会を頼む。七人出席。石原が呼ばれなかったので怒る。
おそらく大江と同い年のゆかりさんは純潔を固く守ったのだ。実兄が奔放だからといって妹も同じなわけがない。さらに
(年譜)1961年1月一週間くらい前に友達とトルコ風呂に行った
とあるのは当然、社会見学だろう。わざわざ記したのはそれまで行ったことないと考えるべきである。「太陽の季節」以後、芥川賞は一大イベントとなり、文壇をこえる社会性を獲得した。
とりわけ大江と開高の賞レースは開設以来の大型対決と騒がれたらしい。落選した大江もスター扱いを受ける
有馬稲子はおばさんのイメージしかないが、当時は大江の三つ上の25歳、写真で見ると目も綾な卒塔婆小町である。受賞前に対談が縁で付き合うものの、週刊誌ネタにおわる。
「死者の奢り」は明らかに童貞の作、というかモチーフの一部にさえなっている。そして有馬と交際中安岡に童貞の悩みを告白をした。
そこで年譜に目を凝らすと、注目すべき事実に気づいた
(年譜)1958年3月31日、売春防止法施行(赤線廃止)
これなら駆け込みで事態を切り抜けられる。マスコミの目も怖くない。考えてみれば安岡は玉の井マニアだった、めでたしめでたし。
今夜の歌
https://www.youtube.com/watch?v=B_TRntl5DOY >>762
かならずこういうやつが出てくる。大江がここまできた今ってのをちゃんと説明してもらいたい。ノーベル賞とったから?春樹や多和田が取ったら開高を超えるのかい。すげえ権威だなノーベルってw
中上も龍も石原ごときも作品レベルで開高に全く及ばない。大江の実績はトップだが、開高は(安岡・吉行以降)それに次ぐ実績の受賞者。
その二人が芥川賞でまみえた話題は、古めかしく手垢がついているが、トリビアルとは言わない。言葉は慎重に使うように。 >>768
開高に実績などない
芥川賞がキャリアハイの人物
どうでもいい人物との関係はトリビアルというほかない >>767
1961年ごろのトルコ風呂(ソープランド)は本番をやらなかった。
(by 戦中生まれの老人)
なにをやってのかは知らない。
たぶん、マッサージだろうw >>772
本番というのは、結婚式のことじゃないかな。
二人で並んで三々九度の盃を交わすことだろう。
当時は盃が貴重品で用意できなかったから、本番は無し、ということらしい。 >>771
ありがとうございます。
これからも教えていただきたいとおもいます。
>>769
違うだろ、バカ
大江の童貞喪失話こそ(良くも悪くも)
トリビアルであって
おまえは取っ違えてんだよ
バカの上に素直じゃない
まったく救えないやつだな
今夜のサントリー
https://www.youtube.com/watch?v=Ys34eq34gpg >>768
>中上も龍も石原ごときも作品レベルで開高に全く及ばない。
>大江の実績はトップだが、開高は(安岡・吉行以降)それに次ぐ実績の受賞者。
古井由吉もいますが
石原慎太郎から開高・大江時代は芥川賞が文学賞として
広く世間一般に公認された時代だから(第三の新人時代まではそれほどでもない)
受賞後の実績云々は別にして、あの時代が芥川賞の黄金時代でしょう
村上龍や池田満寿夫の頃になるとわりと落ち目で
純文学の大衆化で賞のテコ入れがなされたような感じですね >>774
> 開高は(安岡・吉行以降)それに次ぐ実績の受賞者。
> その二人が芥川賞でまみえた話題は、古めかしく手垢がついているが、トリビアルとは言わない。
君は開高がたいした作家であり、その作家との関係が重要な話題だと大きな勘違いをしていたようだが 大江の大きな文業全体にとって「飼育」の話題は全くトリビアルであってそれが無くても作家論は成立する
しかし石原、開高の場合、芥川賞というただの新人賞の受賞作を大きく取り上げない限り作家論が成り立たない
並べて語るべき作家たちではない 大江と並べるなら、三島由紀夫だよね。
大江の小説は感覚的で上手く、三島の小説は論理的で下手。
左翼は論理、右翼は感覚、のはずなんだけどw 左翼も右翼も論理も感覚も分かってない、事が伺える完璧な文章だね >>779
そうなのか・・・・
ぜひそれぞれの概念について説明してくれ。 >>775
古井わすれてたw
多分、文学関係者に匿名投票させたら、開高より断然上だろうな
芥川賞のセオリーとして、一作オンリーで心許ない場合、セコイ2本立てになる。ごく稀に強力な2作が競合して盛り上がるが、最近は殆どない。
(大江と開高は2作受賞もありえたし、その方が良かった)
昭和だと池澤夏樹・三浦清宏の同時受賞があった。両作ともに単独受賞級の高評価
池澤は福永武彦の遺児、「スティル・ライフ」で将来性抜群を示した
三浦は庄司薫のサリンジャー模倣を最初に指摘した人物。受賞作「長男の出家」はトボけた味と謎が魅力で作者のオカルティズムが幸いした
そのほかセコくない二作受賞として
古山高麗雄「プレオー8の夜明け」吉田知子「無明長夜」どちらも読み応え十分
以下、想いつくまま
平野「日蝕」秀作ではあるが、大人の鑑賞にたえる代物ではない
中上「岬」面白かった、だが対をなす「枯木灘」は文章も粗くテーマの抽象性がひっか
かった。世評ほどでないと思う。
村上「ブルー」は会話、人物造詣が達者だけど退屈、その後作はどうも子供じみている
・・・そんなところです
今夜のジャズ
https://www.youtube.com/watch?v=VnPx-TRG9r0 >>776-777
バカは自分で墓穴ほるほる
開高は受賞作を自分で失敗作とみとめた
(てか、受賞の言葉でおおよそ告げている)
野心作「パニック」、「巨人と玩具」(この二作に島尾、吉行が注目)
ここからスタートして裸の王様は抜かすか
翌年にかけての「流亡記」「日本三文オペラ」
このへんから始める開高論でヨロシ
闇三部作と「ロマネ・コンティ・一九三五年」がメイン
古井は「杳子」「妻隠」の両方外せない(理由は長くなる)
「飼育」は抜かしていいが「奇妙な仕事」「死者の奢り」は入れるべき
大江は私小説の系統と自らを定めている
新人賞が代表作の作家論なんてあるのか?
とにかく、おまえは(開高)読んでないの丸分かりなのに何やらフカす、よくないw
人の意見を捏造して反論、これバカの証拠
叩かれると半ベソで粘着してくる
相手すんの恥ずかしいアル >>782
君のまとめの通り、芥川賞の勢いで50年代をなんとか乗り切ったがそこで行き詰まって戦場取材でお茶を濁した作家
作家として生涯追求して書くべきテーマも持っていなかったのため執筆数も少ない、受賞歴もさえない
開高ってどんな作家といわれて、作品をあげるのに芥川賞を出さざるを得ない
それが開高の実態 ちなみに大江健三郎の作家論は初期短編は「若い時から凄い言語感覚だった」という
エピソードとして出してもいいが、本質ではないので端折ってもいい
「個人的な体験」「万延元年」から始めていい
開高は「個人的な体験」手前で力尽きて枯れてしまった大江、みたいなものだろう 「輝ける闇」は三島から
わざわざ戦場にまで行った意味がないと酷評された作品で
肝心の部分はそれほど書かれてはいないと思う
実際に目の当たりにしたものは凄惨すぎて書けなかったというのが実情だろう
大江に対しては書斎に閉じこもっているだけで現実を直視しない(石原慎太郎)
という批判があるのだけど開高の事を考えれば
そういう安易な現場主義やリアリズム至上主義はどうかな 芥川賞作家マイベスト10+代表作
1大江「万延元年のフットボール」(第二の処女作)
2安部「砂の女」(神がかり的傑作)
3石川淳「狂風記」(「敗荷落日」の証し)
4安岡「流離譚」(文章の妙味は随一)
5古井「槿」(頭がモアモアした)
6遠藤「沈黙」(国民的作品です)
7吉行「暗室」(中田氏スゴイw)
8開高「夏の闇」(第二の処女作 by開高)
9池澤「マシアス・ギリの失脚」(ファン「もっと上だろ」)
10河野「みいら採り猟奇譚」(変態は変態です)
感想「打線組むより楽っすね」
今夜のトップオブトップ
https://www.youtube.com/watch?v=iSfPJqEKzt0 >>788
自分語りの好きなやつって、自己愛性パーソナリティ障害が多いんだよな。
こんなところででも構ってもらえるうちはいいが、誰も構ってくれなくなると、少し実社会にはみ出していく。
実社会との軋轢がラインを超えると・・・・
残念な結果にならないといいね。 吉行や開高がランキングにはいってしまうなら芥川賞縛りランキングなんて意味ないな たとえば吉村昭や阿川弘之のように
芥川賞を受賞せずとも大成した作家もいるので
芥川賞受賞というのは世間的にはともかく作家としてはどうかな
それでも大江の「飼育」は後年の代表作につながる創作モチーフが含まれているので
この作家にはデビュー当時から一貫したものがある
古井はそれほどでもないが石原、開高、村上龍の場合は
作家活動の過程で肝心のモチーフを見失ってしまったような気がする
とくに村上龍なんて「愛と幻想のファシズム」の時点で
作家として破綻しているからね
大江と比較されることの多い開高の場合はというと
ベトナムからの帰還後はほぼリハビリ状態の様なもので
代表作と言われる「夏の闇」や遺作の「珠玉」でも読んでいて苦しいだけです >>789
妄想タレ流すなハゲ
社会的不適応でもないのに何で「障害」なんだ
開高読まずに概念だけで何事か寸評したり
幼稚な大江論で唖然とさせたり
まずおまえはこの場にさえ適応できていない
自分への不安を引きずっているから
他者に不適応の烙印を押しつけて代償行為をする
まるで読み聞きカジリの女子高生の言動だ
いい齢こいたオッサンのやることじゃない
>>791
読んだ人の意見は尊重するよ
開高は死後ガッツリ読者を減らした
吉行は自分の読者は2〜3000人と言っていた
魂をつかまれた読者だけ残るんだ >>792
>自分への不安を引きずっている
自分への不安がない文学愛好家というのがいるなら、まさに自己愛性パーソナリティ障害だろうな。 治療塔で大江がチャレンジャー号爆発について「宇宙意志(傍点付き)」のあらわれだったのでは
と作中人物に言わせているのを、切り取ってへんな角度つけてネガキャンやってる奴らがいるんだな
ツイッターで捨て垢みたいなのが「 #宇宙からの警告の日 」とかタグつけてる M−1優勝 ミルクボーイ「大江」
「どうもミルクボーイですー」
「おれのオカンな、最近読んでた本、作者が誰なのか忘れてもうて、困っとんねん」
「さよかー、それじゃ作者の名前、一緒に考えるの手伝ってあげるわ。特徴とか言ってなかったー?」
「あのな、年取ってて丸こい眼鏡かけて、ややこし話書きよんのやと」
「大江やないか。その特徴はこのスレの主役、大江健三郎に決まっとるがな」
「わからへんねん。おかんが言うにはな、文章がすごく読みやすい言うとった」
「じゃあ大江違うかー、大江くらい読みにくい作家おらへんもんな。まるで日本国憲法の前文を読みすぎて頭おかしくなったような文章やもんね。ほかに何か言ってなかったー?」
「故郷と息子の話がオハコなんやと」
「大江やないか。その二つさえ書いてれば大江はモチーフがしっかりしてると褒められんのよ、大江に決まりやそれはー」
「わからへんのや、おかんが言うにはな、純日本的なこと書くらしいねん」
「ほな大江違うかー、大江はノーベル賞の挨拶も川端のタイトルだけモジってスウェーデン人とフランス人にしかようわからん内容やったもんな。ほかに何か言ってなかったかあ?」
「最後は水死らしい」
「大江やないか。その作品、最後の小説言われてるけど、最後、最後がずーと続いてどうせまた最後ちゃうねん。もう大江に決まりやがなそれは」
「いや、そもそも小説家やないんや」
「それを先に言わんかい、何やねん水死て」
「溺れて死んだけど、どうも原因は自殺らしいで。手伝った人つかまりよった」
「西部進か、いいかげにしろー」 忘れてた
今夜の5/4拍子
ttps://www.youtube.com/watch?v=SewXE3b1Yps 大江の詳しい年譜の中の、
1967年9月20日、『万延元年のフットボール』で谷崎潤一郎賞受賞決定。伊藤整が反対。受賞パーティで嫌みを言う(1982安岡対談)
が気になったのですこし調べた。
某サイトの引用だが、伊藤は大江の受賞作を
「私の最も満足できないあり方」と位置付け、当代文学の諸要請に応える姿勢のために作品と文体が無理に誕生した、と評価しなかった。
伊藤といえば戦時下に、漱石『猫』に影響を与えたスターン『トリストラム・シャンディ』が元ネタの『得能五郎の生活と意見』で知識人・文学者(自己)を戯画化して発表したり
戦後も翻訳のかたわら小説論や実験作を発表した手ごわい論客だが
谷崎賞を最年少で受けた大江の前に、パーティーの最中歩み寄り、いかにも人の良さそうな、そのくせ実は性悪なウィキドスマイルをうかべて
大江の仕事の試み(方法として西欧との溝を埋める)は全て自分がやってきたこと、それが失敗だったと今は気づいているが、君もそのうち気づくよ、と皮肉を言った
大江が、僕も貴方のように自分の失敗がわかるまでやり続けます、と言い返したら、嫌な顔をして立ち去ったという(1982安岡対談で述懐)
嫌味、皮肉にかけてはやがて大江の右に出る者がいなくなる。
今夜のアドリブ
ttps://www.youtube.com/watch?v=lXDBUYxVVX そのうち君も分かるよ
なんて嫌味なオッサンだ
伊藤 >>1
>当代文学の諸要請に応える姿勢のために
>作品と文体が無理に誕生した、と評価しなかった。
それは伊藤のイチオシ作家でもあった石原慎太郎も似たようなものなので
伊藤は「太陽の季節」を武田泰淳との類似で
伊藤の説く出家遁世的日本文学の類型(つまり日本的自由の達成)と説明するが
その後の石原の文学的遍歴をたどるのなら
「当代文学の諸要請に応え」た「方法として西欧との溝を埋め」たもの
つまり日本文学を西欧文学枠組みで説明した現代的後付け作品でしかない まあ、伊藤が大江を憎むのは近親憎悪であり
それは自分の地位を脅かすものとしての脅威からだろうね
逆に似たような作風の石原を持ち上げるのは
大学の後輩で自分の息のかかった安全な作家だからだろうね
石原の作品はデビュー当初から三島が指摘しているように
従来の文学的枠組で捉え得る安全なものだけど
大江にはそういう伝統的枠組ではとらえきれない何かを伊藤は感じ取ったのだろう
しかし、それを現代的意匠性や西欧に対しての独自性に過ぎないんだ
と矮小化しようとしたところに伊藤の悲しさ、
つまり作家としての衰え、さらに言うのなら老いが感じられる
まあ、たしかに大江と伊藤は似ているんだけどね >>799
大江が反省できず
押し進めた日本の西洋化によって日本は絶滅しそうになってるよな
日本が死ぬのじゃなく大江こそが死ぬべき。
>>801
何かというのは万死に値する大江の浅はかさだろ。 日本の純文学ってなんだか最近は味気ない
米津玄師の歌を聞く方がよほど面白みがある >>802
極右カルトは安倍担いでわっしょいわっしょいやった責任どうとるんだよ?
先の大戦同様頰被り決め込むのか? >>802
>何かというのは万死に値する大江の浅はかさだろ。
何と比較しての「浅はかさ」なのかはよく分からないけど
伊藤が翻訳紹介したJ・ジョイスの「ユリシーズ」は社会主義からの転向文学であり
それ故にルカーチのようなマルクス主義陣営からは良く思われていなかった
というのは歴史主義(この場合は進歩)や
ヒューマニズムの否定につながりかねないから
伊藤がこういう創作上のモチーフを理解して紹介していたとは思えないな
伊藤に批判された大江は歴史主義やヒューマニズムは押さえているし
それゆえに国際的には日本にも語るべき文化と倫理性があるんだ
と発信しているわけさ
ノーベル賞受賞時の声明で「日本文学のレベルは高い」とか
川端のような美的な価値以外の倫理的担保がある、と主張するのはそういう事さ
そういう意味では石原のようなナショナリストとも変わらんのよ
土俗性を民族・文化に転化して倫理的な意味での
国際性を持たせようとしているわけだから >>801
大江こそ安全な作家だよ
常に権威に従順な権威主義者
岩波書店以下の出版社をバカにするような
サルトルが権威があればサルトルを真似し
フォークナーが権威あればフォークナーのモノマネをし
山口昌男が権威があれば文化人類学をお勉強し
ナボコフが持ち上げられるとナボコフを取り入れる
「今誰が偉いか?」をいつも気にして取り入ってきた作家 >>806
キミもこのスレでだいぶん勉強したね
キミの視界にフォークナーは入ってなかったものね
もっと勉強することだ
一つ指摘しよう
「が権威あれば」×
「に権威あれば」◯ >>806
いい意味でミーハーなのではないか?
「雨の木を聴く女たち」では、
本題に入る前に有名人との交流自慢(武満徹とか山口昌男とか)から各章が始まる。
これは当時流行ってた「笑っていいとも!」の構成を取り入れたのではないか。
テレホンショッキングで始まって、本編に・・・という構成 本多勝一はクソ野郎だが
悪文として紹介された大江の文章は、さすがだなあ(笑)
いま僕自身が野間宏の仕事に、喚起力のこもった契機をあたえられつつ考えることは、 作家みなが全体小説の企画によってかれの仕事の現場にもちこみうるところの、この現実世界を、
その全体において経験しよう、とする態度をとることなしには、かれの職業の、外部からあたえられたぬるま湯のなかでの特殊性を克服することはできぬであろう、ということにほかならないが、
あらためていうまでもなくそれは、いったん外部からの恩賜的な枠組みが壊れ、いかなる特恵的な条件もなしに、作家が現実生活に鼻をつきつけねばならぬ時のことを考えるまでもなく、
本当に作家という職業は、自立しうるものか、を自省する時、すべての作家がみずからに課すべき問いかけであるように思われるのである。
大江健三郎「職業としての作家」
今夜のマフィア
ttps://www.youtube.com/watch?v=1z7-_mQVfNo 「雨の木」を聴く女たち
出版社: 新潮社 (1982/07)
『森田一義アワー 笑っていいとも!』は、フジテレビ系列で1982年(昭和57年)10月4日から2014年(平成26年)3月31日まで、
毎週平日(月曜日から金曜日まで)の12:00 - 13:00[注 1](JST)に生放送されていた帯バラエティ番組。
『徹子の部屋』は、テレビ朝日系列で月曜 - 金曜の正午から放送されている長寿トーク番組である。
前身の日本教育テレビ(NET)時代の1976年2月2日から、
2020年現在、放送45年目、放送回数11000回以上を数える長寿番組で、黒柳徹子司会の冠番組である。
黒柳徹子(1933年8月9日 - )
大江健三郎(1935年1月31日 - )
2002年8月6日ゲスト大江健三郎
http://trjiten.g1.xrea.com/cont/guest2002/h14-8-6.html わざわざ報告してくれてありがとう。俺ももしかしたら順番が逆だったかなとも思ったんだよ
でも、いちいち調べなかった。当時売れてた相対幻論という本で
両方が俎上に上がってたから、だいたい同じ時期かと思って、言ってみたまでよ
じゃ、逆かな。笑っていいとも!が雨の木〜に影響された・・・
プロデューサーは高安カッチャン(のモデル人物)?wwwww
実際に、横沢タダシは東大出だし ID:7bJCML/qみたく調べもしないで思いつきを語るやつ
大江が最も軽蔑する人種だね >>809
>悪文として紹介された大江の文章は、さすがだなあ(笑)
作家たるものとして文章は一般人が日常的に使用するものと同質であってはいけない
こういう若年時の固定観念が長きにわたって自分を呪縛してきた
この呪縛はロシアフォルマリズムによって解かれることになったが
その残滓がいまだにあることを自覚している
ということを80年代中頃に語っていて
それでも「残滓」のせいなのか大江の文章がわりと平易なものになるのは
「燃え上がる緑の木」あたりからです
そこいくと師匠格ともいえる野間宏は
最後までガチャ文(筒井康隆)を全うしたので大したものです
まあ、死後はだれも見向きもしなくなりましたが
文学者としての芸術的文章が
一般読者の言語感覚と大きく乖離した結果の好例ともいえるでしょう >>815
大江のどの文章が悪文なの?
わかりにくいとか思ったことはないんだが? >>816
>>809氏が本田勝一が「悪文」として例示している文章をアップしているだけで
私は別に「悪文」とは言っていませんが?
大江健三郎の発言をかいつまんだ形で引用したのはそのためです
文学者として日常言語とはちがう文学的表現を心がけているので
一般読者への情報の伝達を重視している新聞記者(本多勝一)の価値観からすれば
「悪文」とされるのかも知れないけどね
要するに本多が新聞記者の視点で文学を断罪しているだけの話 たとば象徴詩におけるレトリックを見ても
感性の鈍い人は「分かりにくい」というだろうね
本多という朝日新聞の記者はその程度の言語感覚の持ち主でしかない
あるいは印象派の絵画を見て写実的ではないから駄目だ、というタイプね >>817
朝日新聞の悪口を言いたいだけのネトウヨ君かw
どうでもいいな。 大江健三郎の読者はどこの新聞読んでるの?
やっぱ朝日? >>821
安倍政権と新自由主義ににじり寄ってる(にじり寄らされてる)けど、それでも朝日が基本。
毎日と東京も悪くないが、ややパワーがたりないか。 >>819
>朝日新聞の悪口を言いたいだけのネトウヨ君かw
その朝日新聞の記者が勘違いの攻撃を大江に対して加えているだけのお話 で、本多が悪文として紹介している引用先(>>809)へのレス(>>815)にたいして
文章読解能力の低さからなのか
どこが悪文なのか!と言いがかりをつける>>816がいる
それで反証されると>>817のようにネトウヨと斬り捨てて
「どうでもいい」と尻をまくる 簡単にいうと同じ左翼界隈に属し、
心情においては土俗的価値を尊重するであろう
大江と本多であっても文章作法においては考え方が違う
本多はどこまで行っても新聞記者の発想でしかないので
文学者の文章を文法や機能性で切って捨てる 本田勝一ってどこでどう頭いかれたんかな?
谷沢永一みたいなアホウヨが大江を「反日」とか罵っていても下らな過ぎて著作を読む気は全く起きないが
本田が大江について書いているものは一応は筋の通る批判ではあるんじゃないか?
と思って図書館で借りるかと思って検索しても「貧困なる精神―悪口雑言罵詈讒謗集」とかいうタイトルの著作集の
キチガイ負のオーラに恐れをなしてまだ読めてないわ 「本多勝一」な
てゆっか書いてる途中で違和感とか無かった? >>824
記者個人の感想を社としての感想にすり替える。
国家主義者らしいバカな言い草だw >>825
レスを書いた相手を混同して、自分の違憲に賛同しないものはみんな同じだと見てしまう。
これもファシストらしい勘違いだw >>826
同じ左翼界隈などという妄想をため込むのは、ネトウヨだけだよ。 本多勝一の大江批判が反論できないほど正論だから
大江は逃げるしかなかった
本多に批判されてから文体まで変わったし
デモにも行かざるを得なくなった >>827
貧困なる精神というのはまさに大江健三郎のことだと
思うな。それを日本の世に広めようとしたために日本の
想像力は壊滅的だよ。だから今回のコロナウイルスを船
に封じ込めるという日本のやり方は想像力の欠如で
貧困そのものだったし世界から非難を浴びている。
大江のシンパである野党は全く恥ずかしいことに
無関心を決め込んでいた。早くケリをつけて大江は
死ななければならないと思う。 大江の文体は
万延元年のフットボール
洪水はわが魂におよび
同時代ゲーム
新しい人よ眼ざめよ
こう並べてもそれぞれ全然違う
特に新しくなれば読みやすくなっているわけでもない
本多が何か言ってどうこうとか的外れ >>809
こういうの蓮実とかもそうなんだけど衒いでもってわざわざ一文の長い読みにくい文章を構築してるわけだ
それを「読みにくい」という批判はそもそも斜め上過ぎないか
批判相手は最初からしそれを企図してるんだから >>836
「衒い」であるなら、それを企図していようがいるまいが、「斜め上」からの批判がちょうどいい視角じゃないかい? 読みにくい文章が繊細で高度かといえばそんなことはない
ナボコフの文章は誰にもかけない詩的でかつ科学的とも言える正確さをもった高級な文章だが読みやすい
読みにくさは単に作家に技量がなかったかわざと読みにくくしたかなのだよね >>838
読みやすさを求めるなら詩や短歌を読む。
散文には詩や短歌にはできない、一筋縄でいかない密度を求めていて、だから大江にしてもナボコフにしても密度のある文章に美しさを感じる。
日本文学の伝統でいえば、谷崎潤一郎や川端康成みたいな文章こそ正当なんだろうけど、大江や安部公房みたいな日本文学の伝統を離れた異質な文体も戦後の多様性の一つとし認められるべきじゃないだろうか。 >>839
安部公房を巻き込むな。安部公房はこっち来んなと思ってるぞ。
大江のは人としてあってはならないレベルだよ。
その気狂いさが植松の事件にまでたどり着いたのだと思っている。 本来は日本近代文学の本流って自然主義でしょ
植民地主義的なジャパノロジストがオリエンタリズムで唯美系持ち上げたのを
欧米コンプの日本人が受容してそっちが本流みたいになってるけど
川端なんて無思想のチンマリした世界を描いたしょうもない小説しか書いていないしノーベル取らなきゃ埋もれてたんじゃね 大江もノーベル文学賞とってなきゃ埋もれてただろうね >>842
>川端なんて無思想のチンマリした世界を描いたしょうもない小説しか書いていない
新感覚派でモダニズムが出発点だよ
もともとは「浅草紅団」のような都会小説の書き手だったんだよ 大江が埋もれるなら埋もれないやつが居なくなるレベル
古井由吉が亡くなったが彼はどうなんだ 大江って日本社会党みたいな作家だったな
原発反対安保反対憲法改正反対・・・・・ >>846
>古井由吉が亡くなったが彼はどうなんだ
小島信夫のような感じで伝説になるんじゃないの
それでも「よくわからんけどスゴイ」という評価だと思うけど >>847
改憲勢力がどれだけ出鱈目だったかわかってきて
大江みたいな良心的左派知識人の愚直な正論の価値が見えやすくなったんじゃないか ピーター・ハントケがユーゴスラビア空爆を認めた大江を批判していた過去の発言を読んだ
ハントケは20年前からマスゴミと戦い孤立無援の中言論活動してたんだな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています