【ばふりばふり】蓮實重彦 X+3【120度】
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60年代の作品が素晴らしくて手法的にいくら模写されようとゴダールのオリジナルに到底及ぶものではないのは間違いないが >>900
お前のレスは殆どがお前自身の感想に過ぎんだろうが、
蓮實について語るすれだろうに。
幾らお前がおしゃべり好きの変態オカマ野郎としても、
見過ごせん。
まあどうせ、田舎のリサイクル屋の爺だろうが。
殆どオリジナリティもないことを何故、そんなに
しゃべりたいのか、お前より頭のズンと良く
クリエイティヴな俺にはさっぱり分からんw
お前のような変態オカマにはモラルが無い。
そら、自然に背いてるから裏切りは最初から
お前の体内に内蔵されている。 >>901
おれは映画とハスミンと殿について語ってるんだが君はおれについてしか語ってないな
おれのファンなのか? >>882
自己レス
たけしフォロワーとした出発した松本は初期はやはり無理に不機嫌そうな顔をしていた
時折それに我慢できず吹き出してしまうのが客の笑いを誘うというのが松本の笑いのパターンの一つとしてあった 人妻ハンター(と呼ばれる、ではなく)になりたいおれがモーホーだと? >>902
くだらんおしゃべりが好きだよな、お前のような変態オカマはw >>905
お前のようなオカマは無駄口が好きなんだ。
とにかくしゃべるのが好き。 そういや蓮実ってキリスト教信者?
奥さんベルギーだし立教大学にいたし モーホーを馬鹿にすんなよ
プルーストもジュネもモーホーだぞ ハスミンは右だから神道だよ
自分の家の諱(いみな)で「重」の字を世襲したり息子に「臣」の字の偏諱(へんき)を付けたり(何に対しての「臣下」かわかるよな?)、今時自分の小説に華族(なんとか伯爵とか子爵とか)を出すような人だから
三島じゃないんだからさ
ゴリゴリだよ あとかたくなに自分の名前に旧漢字を用いたりさ
丸谷才一なんかよりはるかにゴリゴリの保守だから まあ、ベタな言い方すればブルジョア育ちのボンボンだし、あの世代の人は特に映画好きじゃなくても映画をたくさん見てきた世代だからな 大江はおぼっちゃんといっても愛媛の山奥育ちだから仕方ない
ブルジョワだけど山形のカッペの丸谷才一もそうだけど東京生まれお芸術育ち上品な奴は大体友達のハスミンには敵わない部分はある
なかんずく、当時のカッペには映画はわからない
地方のおぼっちゃんをシネフィルにしたのはハスミンの立教での講座以降でしょ
小津は三重の出身だけど 映画は都市のメディアではあったでしょ
『この世界の片隅に』でも都市部と農村部で文化資本に雲泥の差があったのが描かれてた
ビデオからDVDに変わっていったゼロ年代でも、東京においてすらTSUTAYAのアーカイブスに差があって
ある種の映画は新宿のTSUTAYAじゃなければ借りれないことは普通にあった
武も、どんな映画が評価されてるかでその国の文化の成熟がわかる、なんて言ってた 1925~1945年生まれの都市ブルジョワジーの子弟=たくさん映画を視る人達、
というのが、いかにも中産階級的な、実体験のなさからくる幻想だろう。
その種の人たちは、映画も見るにしても、それよりも、むしろ演劇を見るほうが先である。
三、四歳のころからおばあさんに連れられて歌舞伎を見に行っていた、
なんていうのが本筋。 伯爵夫人の解説を書いてる戦前生まれの筒井康隆は幼少期からかなりの映画好きみたいだけど大阪市という大都市のブルジョワ家庭の出だからでしょう
田舎では物理的に映画を見ることができなかったんじゃないかな
大西巨人なんかもかなり映画を見てたみたいだけど福岡市ぐらいの大きな地方都市だとそれなりに映画が掛かっていたのが伺える たとえば、三島由紀夫の初等科からの同級生で、蓮実重彦の先輩であるような↓の人がそうである。
永山 武臣(ながやま たけおみ、1925年(大正14年)8月30日[1] - 2006年(平成18年)12月13日[2])は、日本の実業家。松竹社長・会長。 昭和一桁世代と焼け跡世代を十把一絡げにして
実体験重視の反知性主義が何か言ってるw いやでも当時は映画が花形産業だから地方の辺鄙な県庁所在地とか県内で5番目とかの小〜中堅都市とかでも映画は掛かっていたのかもしれない
そのへんは実証的に検証され尽くしてるだろうが当方勉強不足でよくわからない 映画みたいな一般大衆の娯楽を鑑賞することが、かつての「都市ブルジョワジーの特権」のように臆面もなく思っていられる人というのは、一体どういう人たちなのでしょうか。
おじいさんが東京下町の職人さんか何かで、お父さんが親戚中ではじめて高等教育を受けた下級公務員とか、そういう人たちでしょうか。 >>920
歌舞伎は東京か大阪じゃないと見れないよね
おぼっちゃんの分水嶺は歌舞伎かもしれない 世間ばかりかマスコミ関係者までもが、たけしと森が広めたデマ(当時の映画雑誌をぜんぶ読んでみろ)を鵜呑みにしているのが解せない。
その被害者に森(そして幹子)まで含まれるようになるとは予想出来なかったが… おれが育った地方の20万都市は少林寺三十六房とかビーバップとかダイ・ハードは来たけどもことの次第とか恐怖分子は見れなかったもの 歌舞伎をみる家の子弟が「おぼっちゃん」?、
あきれけえーるたあこれがことだァ
ただ「みる」のじゃなく、歌舞伎俳優を後援しているような家、
ようするにごひいき筋の子弟を「おぼっちゃん」というのです。 三十六房にはリアルタイムで感化されたが、同級生より精神的に幼稚だった頃の恥ずかしくも懐かしい思い出に過ぎず
ウータンが出てきた時に「こいつら俺たちと同じだ!」なんて思ったりはしなかった。
こういうことを鼻息荒くして書きそうなのが町山。煽動家としても蓮實重彦の足元にも及ばない。 東映実録ヤクザ映画を観た帰りに肩をいからせ劇場から出てくる客を目撃するほどジジイではないが
そういった要素の残滓がビーバップでは残っており、脇役の物真似して凄んでヤンキー仲間を笑わせてる(あんまりしつこいのでしまいにはそいつらも飽きてたが)同級生なんかはいた。
こうしたまるでバカみたいな効果も映画の持つ力とは言える。 蓮実重彦先生は、
上記の永山武臣さんと三島由紀夫先生の中間くらいの階層出の人なのですよ。
それが、1970年代から主流になった大衆消費主義文化に合わせて、
「庶民派」のイデオローグを演じていただけなのです。
それでも、年取って、たいがい地金が出てきて、「伯爵夫人」なんて
古巣のほうに戻っちゃった、ということではないでしょうか。 まあ、俺サマもブルジョアではないが一応医者の息子で、ついでに言うと母親も薬剤師なんだが、映画のために毎日2時間使うヒマ人ではなかったぞなもしかしてー ×地方の20万都市
○地方の25万都市(今はもう少し多い)
で、その田吾作のおれにことの次第とか恐怖分子とか夜の人々とかエルを見るチャンスを与えてくれたのがハスミンとハスミン率いる蓮實軍団(故柴田駿さんとか山田宏一氏とか山根貞男氏とかそのほか弟子筋の論客含む)なのであってね
そういう状況というか空間というか映画環境を醸成してくれたからこそハスミンをリスペクトしてやまないわけですよ
町山氏や宮台氏や浅田氏(ですら)そんな力業を行う才能も嗅覚も実行力もなかったでしょう
ほんと、ハスミンと柴田さんには足向けて眠れないよね
向けるけど >>928
三十六坊は子供心に面白かったけど15年ぐらい前に再現したらそれほどでもなかった
あの池を飛び越える最初の最初の房がピークだった
ウーの人たちが(というかRZAが?)フェイヴァリットに挙げる「五毒拳」も同時期に初見したけど、なんか間の抜けた映画だった(嫌いじゃないけど) 特定の音楽に慣れたあとで、それまで退屈だったり無関心だったりした音楽に興味持ったり良いと思えたりする事はよくあるが
例えば50年代ハリウッドB級映画をある程度観たあとで、それと同じような体験をしたことは少なくない。
しかしそれが世界(その他)にとって「良い事」なのかどうかはわからない。
「とにかくどっぷりハマれ!」という、思考停止したロック(その他)野郎の言い草とどう違うのか?
「そんなのエロゲーや萌えアニメに置き換えても通じるだろ!」と東浩紀(こんな顔で人様にものを言えると思ってる事が大きな間違いなのだが…)なら抗議しそうだ。 何か根本的な勘違いがあると思うが、映画を観るのは高尚な娯楽じゃないぞ。
一時期高橋源一郎が少女漫画を膨大に読んでいたのが蓮実の在り方に一番近い あと、淀川長治も裕福な家だぞ。
それこそ芝居好きで役者の物真似して家族を笑わせてたとか 淀川長治は、大きな女郎屋の息子だ。
(淀川氏本人は、「実家は置き屋」といっていたが、その実態は「置き芸者」といわれるような売春婦を大勢抱えていたもので、
通常の芸者置き屋とは違う)
富裕層であり、生活水準や社交の面ではブルジョワジーと変わりないが、どうじに賤業従事者の下層階級でもある、
という矛盾した層の出身である。
ちなみに、それは、美輪明宏、桂歌丸、などとほぼ同じである。 ハスミンがやったことは両義的で、それまであった芸術派、教条的な左翼映画観や、ハスミンに言わせると不十分な映画史的知識に基づいた映画史観的映画論、それらに対しては本人としては正しい映画史的知識とフローベールとか当時のフランス現代哲学の手法を織り込んだ理論を突きつけて、
一方では難しい哲学書を読むのはかったるいけど、映画を見て語るのはなにやら哲学的でかっこいいと、立教の地方出の少年たちに代表されるような当時のトンガリたい若者たちに思わせた
お芸術としての映画とポップでカウンターとしての映画という一見対立するような立場を両面で確立した
どちらも根っ子にあるのは映画を見るのは気持ちいい、快楽だ、というのがその姿勢からほの見えたからあれだけ受けた 町山氏なんかがやってるのは、お芸術でもポップな哲学の路線でもない、第三の道、「オモシロ・エンチクロペディ(面白大百科)」的な路線でしょ
今はこれが時代の風潮に合っている むかし、古本屋で手にいれた「映画芸術 1978年8月号・映芸ベストテン'64〜'76ワーストも含む」という雑誌を持ってるんだが、学生運動もとっくに下火になってた78年に映画雑誌はこんなに左翼がかってたのかとビックリしたよ。書き手の中には蓮實もいるし、山根貞男、荒井晴彦、渡辺武信、磯田光一もいるでよ。あ、蓮實は短い鈴木則文論を書いてるな。鈴木の「エロ将軍と二十一人の愛妾」を「途方もない傑作」や言うてはるわ。
この頃の邦画は今村昌平と大島渚が人気あったようだ。 今そこそこ長文書いたのに自動あぼーんになった。なんでや? エロ将軍をベスト1にしてた頃の蓮實重彦は良かった
なんて言う町山は本当によくわかってないのか意図的に「権威」蓮實にも過激?で非オシャレな時代があったと広めたいのか知らないが
あの作品がすごいのは快楽を与えるからではなく、ひたすら胸糞悪いものを知的遊戯や悪意なし(則文には常に俗なサービス精神やそれなりの反骨精神があるにせよ、ここでは何かがズレてしまった)に提供してることであり
批評家時代のトリュフォーが否定した露悪的文芸作品の数々や、パゾリーニ、ハネケ、フォン=トリアーらの作品のようなものに対して(則文はそんな事考えてない)ホンマモンに位置する。
再び観たいとはいえ思わない作品だが、貴重と言われれば貴重。
海外の俗悪ポルノ(俺はここら辺に詳しいわけではない)の寒々しさともまた違う。 つまり、過激ブリッコはカッコ悪いですということ。
たけしはこの境地に達する事なく人生を終えるだろう。 >パゾリーニ、ハネケ、フォン=トリアーら
このラインわかるわ〜
不思議だったのはカイエジャポンがトリアーをやたらと評価してたこと
ガキンチョ心に大丈夫か、この人たち?と思ってた
ハネケはハマってしまって中期までの作品は全部見てしまった >>947
前も書いたけど、蓮実はギャグ以外は「浴びるほど映画を観たら誰だってそう思うでしょ」ということしか言わない。 朦朧としてれば光と陰の映画だと勘違いしてたんかな
あの時期やたらと朦朧としたエログロスキャンダル映画みたいなのが流行ったよね
ヴァン・サントの三部作とかミリオンダラーとかも含めて >>942
おれの文章と思考が及ばないだけで、ハスミンはこんな浅いものではない そういえば田山氏の外国映画を紹介した二巻本の文庫を持ってた気がしたんだけど、この人ポルノ映画に点が甘いな、と思った記憶がある
O嬢とかあの手のやつ
もしかしたら別の人の本かも >>951
自己レス
たいていがバッド・エンドの後味悪いやつ
さすがにミリオンダラーはかすかな清涼感があったが 937ID:Qf0R6GNDの方のおっしゃったことに違いが、
大衆消費を目的として制作された複製芸術を鑑賞することが、なんらかのステイタスを形成するというようなことは、
消費社会のモノカルチャーに洗脳された結果としての錯覚でしかない、という点をおさえて話をすべきだと思う。 蓮実重彦の功のほうをいう方は多いので、あえて罪のほうを言わせていただけば、
シネフィル作家主義というものが蔓延することによって、
ただでさえ弱かった日本映画は、
いっそうの壊滅的なダメージを受けたということがあると思う。
たんじゅんにいえば、日本では、映画の体をなした、まともな映画が、ほぼつくれなくなった、ということである。
映画はべつに映画監督単独の創作物ではないにもかかわらず、
その種の幻想を、一部のファンのみならず、
映画製作関係者にも与えてしまったということの罪は大きい。
思想的には、「作者の死」(バルト)や「制作の複数性」(ドゥルーズ)
なというような考え方をよしとしていたにもかかわらず、蓮実重彦は、
こと映画に関しては、作家主義の立場を、直接、間接に、主張してきた。
なお、その種の「作家主義」というのは、
デカルトの「方法序説」の冒頭を読めばわかるように、
蓮実先生がその紹介者の一人であるところのフランス現代思想が、
もっぱら仮想的にしていたデカルト主義です。
。 955の訂正
937ID:Qf0R6GNDの方のおっしゃったことに違いが×
937ID:Qf0R6GNDの方のおっしゃったことに近いが〇 ハスミンはバルトの人にとどまっていて、デリダの人、あるいはドゥルーズの人になりきれなかったのが世代的な限界だったのかもね
最近も本屋でバルトに思いを寄せた文章を見かけて驚いた
2020年にバルトか、と ひとたび「作者」が遠ざけられると、テクストを<解読する>という意図は、まったく無用になる。あるテクストにある「作者」をあてがうことは、そのテクストに歯止めをかけることであり、ある記号内容を与えることであり、エクリチュールを閉ざすことである。このような考え方は、批評にとって実に好都合である。そこで、批評は、作品の背後に「作者」(または、それと三位一体のもの、つまり社会、歴史、心理、自由)を発見することを重要な任務としたがる。「作者」が見出されれば、テクストは<説明>され、批評家は勝ったことになるのだ。したがって、「作者」の支配する時代が、歴史的に、「批評」の支配する時代でもあったことは少しも驚くにあたらないが、しかしまた批評が(たとえ新しい批評であっても)、今日、「作者」とともにゆさぶられていても少しも驚くにあたらない。(ロラン・バルト「作者の死」、『物語の構造分析』p.87、訳文は一部修正、太字は引用者) 本当は批評というのは作品を発表する前に内輪でやるものだからな 作家主義とはトリュフォーを中心とする映画監督・批評家らがフランスですすめた映画批評の方法論で、
映画が「映画監督」という一人の個人の創造性・独創性によってつくりだされることを重視する
(Wikipedia「作家主義」から) >>960
これはもう当たり前すぎてなんの鮮度もないよね
バルトさんには悪いけど、これはもう完全な前提的な認識というか、フツーすぎることになってる
最初に唱えたのがバルトさんにせよ おしっこは尿道口から出るんです、と言われた時みたいなそんなの当たり前だろ感しかない まだフーコーの海辺に打ち寄せる波と砂がどうたら?のほうが鮮度保ってるわ オラが街にもライミの死霊のはらわた2は来たんだけども80年代はホラー映画ブームだったからこれもポスター等で怖い作品だと喧伝されてて実際見てみるとなんか違うなと思いつつ怖がらないといけないのかなと思いつつ見てたんだけどのちに見直したらやはりコメディ映画だったという
ちょっと思い出してしまったどうでもいい話 >>956
蓮實も昔から「日本におけるプロデューサーの不在」「撮影所システムの崩壊」「日本映画の
技術の衰退」について語ってはきたんだけどね。
実のところ、70年代以降〜現在迄の日本映画の衰退には幾つも理由があって。
これも書き出すと長くなってしまうのでここでは略。
例えば映画秘宝系の連中が執拗に拡散する紋切型が「TV局と芸能事務所が日本映画を
駄目にした!」だけど、「映画通」が礼賛するような「作家」的監督も結局はTV局に
出資して貰い有名事務所所属の有名タレントを使っているわけで、もうこれ自体が既に
何の根拠もない話なんだよなあ、、
蓮實はさすがに馬鹿ではないので前述の様なプロデューサー・撮影所の不在程度は分かっている
んだけど、それでも少し目立つ個々の作品・作家があると大袈裟に持ち上げてしまい、
そこで結果的に過剰な「作家主義」の幻想を流布してしまうんだよねえ、、
ここ30年程の日本映画をたまに観ると「ここもう少しシナリオを練ってお金を掛けて
いればなあ」「ここ無駄だから編集で切ればいいのになあ」という部分が多くてねえ、、
要するに日本映画の絶望的な予算不足とプロデューサーの不在という事だけどねえ、、 >日本では、映画の体をなした、まともな映画が、ほぼつくれなくなった
そんなの70年代には既にそうだったんですよ。要するに日活ロマンポルノに象徴される
日本映画の現場の絶望的な低予算化という事ですけど。
元五社の日活撮影所がロマンポルノと称して低予算映画の制作に堂々と乗り出した、そこで
プロデューサーたちは「日活の現場は低予算であそこまでやるんだ、おまえらも出来ない
筈はない」と監督に言ってしまえる様になった。
蓮實もバカじゃないからロマンポルノが所詮は撮影所崩壊期の仇花程度は分かっている
わけですけど、映画史家などは真顔でロマンポルノの素晴らしさなどと語ってしまう。
自分も昔はそっちの方でしたが、(もちろん個々の監督・作品は評価するにせよ)
もはやロマンポルノは日本映画低予算化のパンドラの箱を開いた諸悪の根源だったと
断じざるを得ない。
一方でたまに「大作」が作られても(特にバブル期など)出資スポンサーの前売買取に
依存した弛緩した作品だったりしたわけで(実際の劇場はガラガラでも構わない映画など
作り手の勘を鈍らせるだけだった)
あるいは「大作」と称して本来はその予算では不可能なスケールの映画を現場の無理で
強引に作ってしまう。今のナントカ剣心とかが完全にそれでしょ?
日本映画はカネがなくて地獄、たまに(日本映画としては)カネを掛けても地獄、
どん詰まりの地獄なのよ。何処にも出口なんかありはしないんだよ。 ハスミンもリドリースコットを理解できていないのが昔の人間ってカンジ リドリーは
ブレードランナーの自己解説聞いてもブレランの魅力がわかってなくて
たまたま撮れてしまった映画だったことがバレてしまったしね(加藤幹郎も言ってたけど)
リドリーはブレラン以外に見るに値する映画があったっけ?
それよりトニースコットの評価が遅かったのが昔の人って感じがした
蓮実エピゴーネンの藤井仁子の方がよほど早く反応していた 「リュミエール」みたいな季刊誌をまたやってくんないかなー。 昨日は殿譲りのマシンガントークでしゃべりすぎてしまった
お口にチャック(by さんま師匠)せねば 本当は映画は今はあまり興味ないんすよ
文学もだけど
時代が歳を取るより先に自分が歳を取り過ぎてしまった
もう疲れたねや今時映画って 本当は映画は今はあまり興味ないんすよ
文学もだけど
時代が歳を取るより先に自分が歳を取り過ぎてしまった
もう疲れたねや
今時映画って ハスミンも若い時分ほどは今は映画に対する熱情は失ってしまってると思う
誰しもが、老い、疲れる 映画というジャンルが老い過ぎてしまった
断末魔の叫びすら上げるのを通り越して
若者たちよ、老いるな、ポン・ジュノが詰まらないなどと抜かすジジイは蹴散らせ、自分たちの世代のゴダールとハスミンを見い出せ >>977
20代だけどポンジュノをおもろいと思ったことない 何を好むかと才能は関係ない。
侯孝賢はモーリスピアラを、エドワードヤンはヴェルナーヘルツォークを尊敬している。 ヘルツォークは『アギーレ 神の怒り』「だけ」はよかった
全部見てるわけじゃないけど >>960
それが行き着くところってこのスレみたいな垂れ流しでしかないよね
みんな垂れ流すようになっている現代ではもう無効でしょ
対象を肴におしゃべりしてる匿名の俺を聞いてくれこそもういらんで
どうでもいい まあそう力むなって
上に名前が出てるけど映画なんてホウ・シャオシェンとエドワード・ヤンあたりで終わってるんだから
もうこの二人よりいい映画を作るなんて無理なんだから
黒沢清でも無理だよ もう映画という表現形式はホウ・シャオシェンとエドワード・ヤンによって極限にまで到達してしまった 小説のプルーストとジョイス、哲学のデリダとドゥルーズみたいなもんだな ラップのザ・ノトーリアス・B.I.G.とジェイ‐Zとか
これはまだ進化/深化の余地あるか ホウ・シャオシェンはエドワード・ヤンと較べると二段くらい落ちるけど
エドワード・ヤンが最高だな
ゴダールを超えられたら唯一人の男だな 殿が全然盛り上がってない時に「盛り上がって参りました」って言うのを多用してた時期があってそれはシニシズムなんだろうけど悪いけど寒かった 松ちゃんの「すべらんなぁ」みたいな含羞でもあるような エドワード・ヤンは享年59か、相米慎二の53歳ほどではないものの早逝だったね
侯孝賢はまだまだここからやろ そもそもフィルムじゃなくなった時点で映画は終わってた説 レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。