世界的な名作ではあるが読んでいてつまらない作品
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「ノートルダム・ド・パリ」「戦争と平和」 ノートルダム・ド・パリ読んでるけど つまんねー これ、何で世界的な名作になっているのかわからん >>336 実際面白い本じゃないよなドンキホーテの前半 CANONの退屈さは避け得ぬ宿命。 挑戦を重ねるごとにます理解と面白み チャレンジを恐れないこと。 ドンキ前編つまらんと言ってるやつは信用しないことにしてる >>1 ダラダラと長いよな。不要な描写も多い。 昔はテレビもネットもなかったから 小説読むしかなかったんだろう。 今の時代には合わないよな 教養主義が没落して上流階級が備えなきゃいけないとされた教養なんてなくなったし 大学教員や知識人層が当然知ってるべきものという共通感覚すら怪しい そのなかでも文学の地位がだいぶ低下して理系知識の比重がどんどん高まっている ひと昔前の欧米人の書くものはやたらシェイクスピアや聖書や文豪の引用が多かったけど最近はそうでもない 個人的には世界史や高校くらいまでの数学、物理、化学、生物をしっかり身につけるほうが重要 国語関係は文学作品鑑賞もいいけど日本語の文法学習や言い回しや諺などの前提である中国古典の学習でいいと思ってる 死霊は津田夫人と首猛夫が出てくると話がわかりやすくなる 矢場徹吾はわけわかんなくて飛ばし読み >>343 自然科学を大事にする事は大事ではあるだからといって人文科学を無価値と貶めてる時点で日本社会はゴミ 人文科学も社会科学も自然科学も等しく価値のある学問だと思うよ 教養主義は形を変えて残すべきものだから没落はまずい 近代小説はそもそも必須教養でもなんでもないしな 最近の享受者研究でもブルジョワの男は仕事や社交に忙しくて読んでなかったし その妻や娘の暇してる階級が読んでただけで高級ハーレークインみたいなもん その作成者たちがやがて経済的に自立して知識人の役目をになったので何か高踏的なもののように思われてるけど 今の作家や知識人の体たらくを見てればわかるように妄想書いてるだけだから糞の役にもたたない オリラジの中田敦彦の山椒大夫の解説を聞いて成程と思った カラマーゾフの兄弟と戦争と平和の面白さがわからない フリーメイソン作家が書いたものはことごとくつまらん というかページを開く気すら、しない 18世紀じゃなかったか なんにしろ地獄落ち悪魔崇拝組織だから近寄らんがええよ ダッジャールについてググってみれば まんまダッジャール崇拝だから カラマーゾフの兄弟と戦争と平和はよくわからなかった >>357 戦争と平和は面白いよ。ピエールが666の数字の魔力に取り憑かれて、 自分の使命がナポレオン暗殺にあると確信していく挿話はスタンダール のパルムの僧院の影響があると思う。どっちも戦場の描写が圧巻だ。 >>362 そうか、無茶苦茶面白いじゃないか。『盲目物語』とか、『少将滋幹の母』とか。逆に誰が面白いと思うの? >>362 そうか、無茶苦茶面白いじゃないか。『盲目物語』とか、『少将滋幹の母』とか。逆に誰が面白いと思うの? >>366 俺もだ 主人公が気持ち悪くて楽しめなかった >366 普通に面白かったな。俺は司馬遼太郎の面白さが、さっぱり分からない。 >>372 読もうとするだけ、すごい。何を読んでいるのだ? つまらないと一蹴する前に、自分がちゃんと読めているかどうか疑おうよ 名作になってるからには、ちゃんと理由があるんだよ… いわゆる名作として評論の定まっている作品を名無しさんがいくらつまらないといったところで読めていないのが露呈しているだけ >>375 確かに面白くない、分からないと安易に結論を出す前に、作品に問題があるのか自分に問題があるのかを考えないといけないな。多くの場合は自分に問題があるのだが。 でも役割を終えるってことはあると思うけどね 時代も確実に変化してるし >>378 そうだね。でもそんな作品は役割を終えた時点で消えていき、名作としては残っていないよ。役目を終えても名作として残っていると思う本には例えばどんな本がある? この二十年くらいでもう無効になった文学作品は結構あるんじゃない?惰性で名作扱いされているものも多いだけで 人間のコミュニケーションのあり方がはっきりと変わったので、たとえば手の届くところだけで起こる物語はかえって嘘くさく感じられるようになったとか かつての人間の生活をいくら讃えたくてももうその暮らしはリアルじゃないとか その世界観を理想として受け止めてしまうと自分の現在の生活に矛盾しか見えてこなくなるとか そんなものはいくら名作であっても長い目で見ると害にしかならないと思うようになりましたね、最近ですけどね たとえば上記のニーチェの思想が自分を力づけてくれるものであるかどうか 形而上学的な思想が尊重されていた時代には大いに有効でしたし、ニーチェ自身は自分が生きる時代の状況に対してアクチュアルな姿勢を取っていたと思いますが、われわれにはほとんど必要ないでしょう なぞったところで口先だけの真似事にしかならない 美学的にはそれでも結構でしょうが、それにのめり込むことで失うものも大きいのではないでしょうか >>380 その通りだと思いますよ。役目を終えた作品は「名作」の名前を外されて、歴史から消えていくでしょう。ただ上の方で名前が挙がっている作品はまだまだ生きていると思います。(すみません、もちろん全部読んわけではありません)、つまらないと言っている理由が分からないからと言うのであれば、読み手の方にも理由があると考えています。映画に対してのコメントにも、分からなかったので面白くありませんでしたと言うのが散見されます。分からないからで終わらせないで、分かろうと取り組む姿勢も必要なのではないでしょうか。 チボー家の人々、ジャン・クリストフあたりはほとんど取り上げられることがなくなったな >>382 ざっと見た感じ、大半はわからないから面白くなかった、ではなくて、面白さがわからなかった、なので感想としては大きく異なると思いますよ 面白さが分からない、というのは共通認識とされる土台にズレがあるということでしょう それが教養か知識か経験かによっても議論の水準は変わってくるでしょうけど、多くの人は自身の経験に結びつけて判断するのではないでしょうか もちろん経験には小説を読む経験というものも含まれるのですが、「名作」と呼ばれるものは一般的にそれらの不足さえも超越してくるものではないでしょうか 面白さがわからなかった、という感想を批判することは難しいように思います むしろなんだかよくわからないのに面白いというものが「名作」が持つ力でしょう >>384 面白さが分からなかったと、分からなかったから面白くないと言うのは、結局は同じことだと思いますよ。面白くなかったという個人の感想を否定することはできませんし、読み方が足りないと非難することはもっとできません。ただし風雪にさらされて生き残ってきた、人類の宝とも言うべき遺産に対しては読む方もそれなりの姿勢が必要です。私のスタンドポイントはここですので、おそらくはあなたとは話は平行になるのではと思います。 そうですね 私は文学作品を人類の宝などとは思いません それ自体人類に対して傲岸不遜な態度のように思えるからです トルストイだろうがドストエフスキーだろうが谷崎だろうが、彼らの小説は所詮文学作品です と思う私のような人間の立場からすると人類の宝などと崇拝してみせるさまは何か嫌な執着めいたものを感じずにいられません たとえば、マンや三島はそういうことを言う人でしたね 話は平行線をたどるたろうということですので、ここで打ち切りましょう それでは 「楽しみとは能力の表れである」とギリシャの哲人が言ったとか。 何百年も残っている作品には相応の理由があるのだが、それに今さら驚いたり感動するのはとても難しい。教養も必要である。 単に字面を追ったからといって一冊の本を読み終えたということにはならない。 「楽しみとは能力の表れである」この手のアフォリズムを慈しむ時代は終わったんじゃないかな。 自意識の強い中高生のツイートと大差ない。それらしき言葉はどこにでも転がっている。 有象無象の言葉が溢れ返っている現代では一冊の本を特権視することも難しい。 この一世紀程の間に書物が教養を得る唯一の手段だった時代ではなくなった。 それ以前と以後で作品が残るか残らないかといった評価基準も変化するのは当然であろう。 映像や音声を誰もが容易に記録できるのだし、 これまでに一般教養と見なされてきたような百科事典レベルのデータベースでは取りこぼしが必ず出て来る。 世界的な名作などというものは近代までの中央集権型の文化ヒエラルキーでのみ有効だったに過ぎないだろう。 >>373 『ツァラトゥストラ』『悲劇の誕生』『生に対する歴史の利害』『人間的な、あまりに人間的な』 筑摩世界文学大系のやつ >>374-5 クソなものはクソだ ニーチェのいいところは『王様は裸だ』と言ったところらしいが俺も言うわ ニーチェの作品は中身ゼロ、それを褒めてる奴はバカ >>390 すごいな。面白くないと思いながらよくそれだけ読めたものだ。どんどん思った事を言ってくれ。それは悪口ではなく、もう立派な評論だ。 >>392 ここは>>390 さんの再登場を待とうではないか。 >>391 じゃあ言ってやる こいつの一番悪いところは何一つはっきりと物を言わないところ、何から何まで仄めかし 『悲劇の誕生』では「ディオニソス的」と「アポロ的」という二つの謎の概念をもとにギリシャ悲劇を語っていくけど その二つがどういう区分けなのか明らかにしないから全く要領を得ないで最後まで読んでもチンプンカンプン 「アポロ的とはこう言う意味であって、この作品のここのところなんかはそれがよく出てると思います」と言えばいいのに絶対にしない つっこまれるのが嫌で曖昧にして逃げてるだけだと思うけど一時が万事そんな感じ これが詩ならそれでもいいけど、評論ならただの逃げだわ >>394 ありがとう。まさか呼び方に応じて本当に再登場してくれるとは思っていなかったので、感謝。どうしようもない理由はよく分かった。ただ皮肉なんかじゃなくて、この本読みたくなった。買ってみるよ。 「生に立ち向かうものだけが知覚する恍惚と絶望を伴うあの感情」とか 「ギリシャ的感覚に凝縮されるあの肯定感」みたいな説明をしょちゅうするけど 「どの」感情なのかまったくわからん そんなもの人によって受け取り方が違うので説明として情報不足にもほどがある あげくに「私の本は理解するのではなく体験しなければならない」みたいな事を言い 「ディオニソス的という言葉によって己を理解するものはキリスト教の腐敗を嗅ぐ」 とか、まるでディオニソス的という言葉がわからない方がバカだみたいな言い方で逃げる そんなんだったらどんな本でも持ち上げられる >>395 時間の無駄だから読まないほうがいい 『ツラストラ』や『歴史』では徹底的に世の中の人間に向かってダメ出ししていくが そのダメ出しが抽象だから何がダメなのかまったくわからん というよりコイツの本の中では生きて生活してる人間の姿がまるでない 食って、寝て、働いて、盗んで、妬んで、エロして、助けて、励ましてみたいな人間お日常がまるで感じられない 世間知らずで人間嫌いの学者の頭の中でこしらえた世間を前提に話されていて共感できない こいつがよく名前を出すレオパルディは同じように厭世家だけど彼はたしかに人間をよく見てる 「本当によい著作を書いても誰かが大声で褒めないと絶対に世に認めれず、その誰かは大抵作者である」とか 「女は憂鬱を装うとモテるのでよくやるしそれは成功するが、本当に憂鬱に取り憑かれるとそいつは社会から弾き出される」 とか見方がかなりひねくれてるけど確かに彼は社会をよく見てる でもこいつの著作にはそういった社会の実例が一ミリもない 超人だの権威の否定だのいうくせに非常に衒学的なのも気に入らない やたらに「ゲーテはこういった」「ゲーテはこうした」と連呼してて ゲーテが言ったから何なんだって思うわ それってキリストがゲーテにすげ変わっただけちゃうんかと ギリシャ悲劇を語っても出てくる単語はプロメテウス的巨大さだのソクラテス的だの 著名な単語を持ち出してこけおどししてくるだけで気に入らない 「エウリピュデスはホメロスを独自に変形させて悪女だったヘレネを聖女にしました これは二次創作というやつですね アリストパネスはそれを使ってオカマのヘレネとじじいのエウリピュデスのロマンスを描きました これはパロディーですね」 みたいな分析の仕方の方が100倍正しいと思うが、そういう普通の言葉は書くと死ぬんだろこいつ なんでこんなものが持てはやされたのかと言えば当時の時代の流れだろうな 意味不明で難しい論が持て囃されて、難解であればあるほど深遠みたいな傾向があったらしい 昭和のあたりの文庫の解説を読んでもちんぷんかんぷんで何の説明にもなってなのをよく見たが昔はそれが人気だったんだろ よく言う「その論が理解できないのはそれが深遠だからではなく、中身がからっぽだからだ」という奴 何一つはっきり物を言わず、それでいて長々と論をたれながす「話芸」という意味でなら素晴らしいが それ以外では全く無価値だと思う >>397 そうか、時間の無駄か。『悲劇の誕生』を読んでみようと思ったのは、ヴァーグナーをどう書いてあるかに関心があったせいもある。本読む時間が有れば、ヴァーグナーの楽劇聴く方がいいか。 ニーチェはセクハラ廃人。ゲーテの方が名家。 しかし津波と原発じゃどっちが死んでんのかね。高校野球。 俺はソフトボール二打数二安打一ホームラン打点4守備捕殺一で完全な人。 ヴァグナーは召喚魔法だな。しかしドイツ語圏は文学がない文学圏。 ギリシャ神話はセクハラ。人間が後なのに婦女に神の子やどる。大分駆逐したが。 哲学者自体被害者なわけ。ソクラテス以降ソクラテスは大丈夫だがセクハラひどい。 一番大きい試合はインカレかな留学生の体育大会。ユニヴァーシアードは余裕だった。 被害文献を女性の代わりにとって被害を抜いて討つのも仕事だ。セクハラ源氏物語じゃないが。 シュートミスやらドリブルミスパスミスもない。天の父は完全。 サッカージョッキーも負けなし。 女子大体育会の超越女神とか体育会の哲人超人ってそういう意味じゃないの。 マラソン競歩の世界記録はやぶった。ノーマルバカでもない。 オリンピックや世界選手権の上のカテゴリーもあるよ。そこで世代トップ。 パラリンピックは注意が必要。障碍者だけのスタッフとか。 >>399 理解出来ないから面白くないではなく、理解した上で面白くないということで、感服いたしました。 >>389 確かに「映像や音声を誰もが容易に記録」できる時代になったが、まだ大した作品は生まれていない。 あと数百年待てば状況は変わるかもしれないが。 現代人は漢字や日本語で書かれた文学をただ読むだけで、数千年の歴史の延長線上にいることになる。 しかし、せいぜい百年に満たない映像や音声の記録のやりとりだけでは、 今あること、ここにあることがすべてであるという感情の蔓延を助長するだけである。 君の言い分によるとつまり「今あること、ここにあることがすべてである」という時代は今後数百年は続きそうってわけだね ならその「延長線」ってやつには何の価値もない、各々がテキトーに見出す程度の意味はあるでしょうけど 自分で何を言ってるのか分かってんのかいな 『星を継ぐもの』もうすぐ読み終わるけど つまらな過ぎ >>421 そもそも世界的名作とは言えないような。俺もこれ一冊切りで、続編とか読んでいない。 >>399 トロツキーが25歳のときに書いたニーチェ評だがよく分析されている 最後の最後で詩篇の誤用というオチがついてしまったのはご愛嬌だ https://www.marxists.org/nihon/trotsky/1900/nietzsche.htm 哲学者の芸術論というのは大抵は役立たずだが、「悲劇の誕生」は芸術家の創造の推進力になりえたという点では例外的だ 岡本太郎以外でもこの書に影響を受けた芸術家は多いだろう 近代以前に近代人的な自我を自覚し近代を準備した例としてモンテーニュ、デカルトの名が真っ先に思い浮かぶ。 時代は下り、近代の真っ只中において反近代人としての自我を自覚した例はたくさんあるが、早い時期の典型はニーチェ、ボードレールあたりだろうな。 とりわけニーチェはキリスト教文化の中心地にいながら非キリスト教的価値観や仏教理解がある程度あったという点で外せないな。 カラマーゾフ全然面白くなかった レミゼラブルより評価高い理由がよくわからない It depends upon a man's knowledge and experience of life whether the book will unfold new meanings to him. ドストエフスキーは評価が分かれる。 何回読んでも挫折するという人もいれば、自分のようにあれほど面白い小説はないという人もいる。 逆はジェイン・オースティンで、漱石は「次に何が起こるのかとついついページをめくってしまう」と書いているが自分にとってはくだらない女のお喋りとしか思えない。 反人種差別、反植民地主義、LGBTQ、フェミで世界文学の基準は様がわり 西欧の男性作家は必須教養からだいぶ落とされた >>389 この言は千年来、相変わらず書かれた文字によって伝達されているのから、さっぱり説得力がありませんな。 カラマーゾフの兄弟は史上最高の小説だろう 複数の登場人物の思考が交錯するシミュレーションゲームに近い それまでの小説が車窓の様に景色が通りすぎる構造だとすると カラマーゾフでは読者がプレイヤーとして小説に参加して視点が移動 埴谷雄高の死霊はこの形式を踏襲している ただの、あほトルストイが全人類救済して漏れてるの利用されてる割に ドストエフスキーはシビア系。 狂人日記がいいんじゃないか。宇宙漢文なら中国から手に入れるべき。 マラルメか ヘルダーリン リルケ、カフカ、プルースト、ブランショ、というとこだろうな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
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