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老いて益々】田中長徳ファンのスレ その6【老化】
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0001名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/02/17(木) 21:51:59.03ID:LeV7k2vw0
思い出を語りましょう

過去スレ

【老いて益々】田中長徳ファンのスレ Part4
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/camera/1414410549/l50

【老いて益々】田中長徳ファンのスレ その3【耄碌】
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/camera/1262227407/

【老いて益々】田中長徳ファンのスレ その5【徘徊】
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/dcamera/1496927773/l50

田中長徳(たなか ちょうとく 本名はおさのり) 1947年東京生まれ
日本大学芸術学部写真学科卒業
日本デザインセンター勤務の後、フリーランスとなる
オーストリアのウィーンに遊学 ライカのコレクションを始める
帰国後 ライカなどクラシックカメラに関する執筆をカメラ雑誌に
連載する。以降、クラカメの権威として多くのファンを集める
その写真は時代の空気を切り取り、その時その場所を歴史に定着させたものとして世界的に評価が高い
写真展では氏の写真の前でじっと動かず、滂沱の涙を流す人が後をたたない
その端正な風貌から写真界の貴公子との異名を持ち今日なお多くの女性の心を捉えて放さない
同好の老爺を引き連れ定期的に都内各所を徘徊する様は醸し出される加齢臭も相俟って今や東京の風物詩となっている
Facebookへの書き込みは一日数回に及ぶが、多くは過去の書き込みの繰り返しで世間の注目を集めている
0002名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/02/18(金) 13:36:21.02ID:eUqWGP1n0
日大卒の偉人

田中英寿
田中長徳
山縣敏憲
0006名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/02/27(日) 10:42:57.27ID:0jSclWRh0
私のような有名人でも オナニーはするのだがこの前某週刊誌の若い女のグラビアの写真でオナニーした。シュッシュって感じで
いく、いく、精子が出る瞬間ページをめくった、そうしたらカルロスゴーンが出てきた
なんと最終的に私はカルロスゴーンで射精したのである。最近オマーン代表がどうのこうのアジアカップがどうのこうの
女子サッカーとかも興味ない、やっぱ体育会系女子は嫌いである。オマーン国際女子って読むと?
オマーン国際女子に興味ある人は博多カメラのゴゴー商会、広島ミッキーカメラ、岡山アサノカメラ
フラッシュバックカメラ、代官山のフォトムトリに集まるといいね

           写真家 篠山紀信 
0007名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/02/27(日) 19:45:40.96ID:dOpfcXFY0
橋下徹「ウクライナと共にある、とか威勢よく言ってた者は志願兵になり今すぐウクライナ行って戦え 嫌ならNATOの指導者に妥結促せ」 [Stargazer★]
//asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1645957743/-100
1Stargazer ★2022/02/27(日) 19:29:03.20ID:QNEDTKyt9


211名無しさん@恐縮です2022/02/27(日) 19:18:40.95ID:cRVgqiG40
「威勢よく言っていた国会議員はウクライナに行って戦え」橋下徹さんのツイートにネット上で賛否両論
//news.yahoo.co.jp/articles/50dbb00c1ebe95482aac69b1f22d5843f3a4dbc1
0008名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/03/03(木) 10:56:16.79ID:SU+ZcEzM0
田中長徳氏を最近、私の徘徊するネット界隈でその名を見なくなったなぁ、
と思いGoogle検索してみたところ、名前に続いて最初に検索サジェストされたのが
「田中長徳 死亡」というキーワードでビックリ
もちろん田中長徳氏は(相応に高齢であれど)「ご健在」である訳ですが、
こうした検索サジェストが真っ先に表示されるという事は、
人々が検索キーワードとして関連付けされるような検索行動を取っていた事の
証左でもあります。 
前述のように、私自身「最近、チョートク先生の話題を目にしないな」と思ったのは、
以前は精力的に更新されていた「PEN PENチョートクカメラ日記」(2001年〜)が、
2018年12月より有料記事「note」に移行し、
一般の目には触れなくなった事に起因する、と考えます。
故に「死亡」なんていう検索サジェストが出てくるのでしょうね。  
もっとも田中長徳氏のように、一定の固定ファンがいて尚且つ、
やや物議を醸し出す発信もある(だからチョートク先生は面白い)コンテンツは
noteのような限られた人たちが見る事のできるプラットフォームが最適なのかも知れません。
 
0009名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/03/14(月) 15:20:00.20ID:t3HfiK0s0
1980年頃にプラハの中古屋さんいわゆるバザールで金色のメッキのPrimを手に入れて
それは20年以上使っていたのである。
私の古いブログにも出てくる。
最も手に入れた値段は日本円で500円位なものだから最初から問題にならない。
ガラクタの時計はたくさん持っているのでいろいろ使っていたのだが、
そのうちの1つでずっと使っていたのが今朝具合が悪くなったのでドアストッパーに使っている
プラスチックバッグの中から適当につかみ出した中にこの赤い文字盤のPrimがあった。
それでしばらくこの時計を使うことになった。
私が最後にPrimを手に入れたのは四半世紀前での話であって、
この春にコロナで亡くなったチェコの写真家Pavelが1時篠籠田自動車の広報をやっていた
時にSkoda自動車の会社のある古い街に行ってぶらぶらしているときに
そこの時計屋さんで買ったのが最後だった。
その時計屋の店主が私にこのクロノグラフはムーブメントが日本製ですから安心ですよと
言ったのであるが、私はそうではなくてメカニカルムーブメントが欲しかったのである。
その時に手に入れたPrimのクロノグラフはとっくにバッテリーが切れて
今はドアストッパーのショッピングバッグの中に入っている。
0010名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/03/18(金) 20:22:35.73ID:FGKk9hxF0
用意周到なあたしは本日ばうはうすに詰めていましたので前日に推敲した原稿を用意したわけです。
ここを見ている皆さんも偉大な写真家であるあたしの栄光の精華を実感できるいい機会ですから
ぶらパチや買い物のついでに、ぜひ神田明神の左までお越しください。
0011名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/03/23(水) 16:04:02.75ID:K0s3vo9D0
猿者は日々にうっとおしい、というが
チョートク先生もすっかり過去の人になってしもーたの
今思えばいろいろカキコされてた頃が花だった
0012名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/03/30(水) 11:07:00.76ID:uxwc0C+D0
自称塾長という爺さんが「長徳の本は読む価値ない」と嘲るように言ってるんだが、会うと手のひらを返した様に「センセー!センセー!」と態度を変える様は毎度見ていて唖然とするよな。
0013名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/03/31(木) 20:28:32.33ID:rdYqYHh90
山縣とかアルパライカとか昔はいろんな曲者がいたな
0014名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/04/07(木) 16:34:10.32ID:5mq56QEB0
山縣とアルパカがカメラ市で取っ組み合いのケンカやったのは見苦しかったなぁ
あんな酷い老人を見た事無かった
0015名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/04/08(金) 16:36:45.48ID:wlBeooaE0
もう誰も話題にしないですね
mixiのスレもずいぶん昔から書き込みが無いし
0016名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/04/08(金) 18:17:47.72ID:JlXH7H+j0
まだ存命だったんだ笑
0017名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/04/08(金) 21:20:20.68ID:wlBeooaE0
もう完全に後期高齢者だから長くないと思うけど
0021名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/04/21(木) 19:32:18.76ID:bstlKTD10
そういえば湘南カメラ倶楽部っていうのもあったな
みんなまだ生きてるんだろか
0022名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/05/07(土) 14:03:56.01ID:bYZjmQiE0
>>21
触れるな
0023名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/05/14(土) 21:40:45.13ID:I2avHcZU0
today tokyo 絶賛発売中です、よろしく
0025名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/05/17(火) 22:43:51.59ID:vFP3MMxo0
Today Tokyoは1969年夏に東京銀座ニコンサロンでの私の最初の個展のときのタイトルなのです。
それ以来半世紀にわたっていろいろなカメラ雑誌などで連載をしたが、それらのタイトルもToday Tokyoでした。
今さら間違いと言われてもはっきり言ってありがた迷惑です。不悪。
0026名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/05/22(日) 17:09:27.59ID:KdErFZFZ0
尊師ダイジョーブか?
農高速?
0027名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/05/24(火) 12:07:45.04ID:iyt0wuyK0
大体写真展のカタログと言うものは粗末にされることが多い。私が29歳の時にヨーロッパで巡回した現代日本写真家展示会もそうであって、当時は出品者それぞれに30部ずつ配給があったのであるが片っ端から人にあげてしまって手元には1歩も残っていないのである。

私の六本木の禅ギャラリーの写真展で1966年5月1日メーデーの時に撮影したつむじ風の写真があるのだけれど、それをコレクターさんが欲しいと言ってきたのはありがたい。ただし3000本からネガがあるからそこから探すのは大変な仕事だと思う。創作するのに時間がかかると言う可能性はかなり高い。

それでギャラリーでそのコレクターさんと話をしているときにこの人がどういう人なのかが私の時間軸と空間軸の中でわからないのである。ところが私に理解させるためにそのゼントルマンは一発で決定打を放ってくれたすなわち

数年前に長徳さんが探していると言う現代日本写真家展示会のカタログがeBayで出ていると言うのでその間をお知らせしたものです。

これで全てが明らかになって非常にありがたい。実際にあのカタログは手に入らなくて20年以上探していたのがeBayで確かスイスあたりのセラーさんから買ったのである。
0028名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/05/27(金) 09:22:47.58ID:jRBHCa1A0
佃島のマルエツが数ヶ月前に模様替えをして生活用品が全く置いてない。
昨日カジンガこれは問題だからそのうち帰るよと言っていてさっき見に行ったら
まさに生活用品のコーナーが復活。
お店をコントロールするマルエツが数ヶ月前に模様替えをして生活用品が全く置いてない。
昨日カジンガこれは問題だからそのうち帰るよと言っていて
さっき見に行ったらまさに生活用品のコーナーが復活。
お店をコントロールするAIにマルエツが数ヶ月前に模様替えをして
生活用品が全く置いてない。昨日カジンガこれは問題だからそのうち帰るよと言っていて
さっき見に行ったらまさに生活用品のコーナーが復活。
お店をコントロールするAIにもマルエツが数ヶ月前に模様替えをして
生活用品が全く置いてない。昨日カジンガこれは問題だからそのうち帰るよと言っていて
さっき見に行ったらまさに生活用品のコーナーが復活。
お店をコントロールするAIにも問題がマルエツが数ヶ月前に模様替えをして
生活用品が全く置いてない。
昨日カジンガこれは問題だからそのうち帰るよと言っていて
さっき見に行ったらまさに生活用品のコーナーが復活。
お店をコントロールするAIにも問題があり
0029名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/05/28(土) 19:01:03.15ID:fBBm3xDi0
today , tokyo ならOK
0030名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/05/29(日) 12:14:32.99ID:LDbqfXBU0
私の場合は最初のライカフレックスは一眼レフとして使う言ったのではなかった。ミラーアップして使うスーパーアングロン21ミリをこのカメラに組み合わせて使っていたのである。歴代のライカの一眼レフの中でライカフレックスのファーストモデルが現役であったときにはまだ21ミリスーパーアングロンはレトロフォーカスタイプになっていなかったからミラーアップして使うと言うやり方であった。その後のライカフレックスSLになってからレトロフォーカスの21ミリが登場したのでライカフレックスSLではミラーアップが省かれている。

ライカフレックスに関してはこの最初のモデルから1番最後のライカフレックスSL2モーターまで使っているのであるが最近の私の評価では1番最初のモデルが1番使いやすいと言うカメラの進化の歴史の中での真実にもう一度気がついたりするのである。

ところで最近では純正のライカのレンズと言うのはこれをマウントアダプターで初心者がデジカメにつけると言う変なブームがブレイクしているので私などは昔はタダみたいな値段だったライカの純正のレンズが0が1つ増えているのでもう手が出なくなった。それで2年位前であるがタムロンのズームレンズが22本で100円というのがYahoo!オークションに出たのである。入札したら100円で落札してしまったのでそれから私はライカフレックスにはタムロンレンズと言うことになった。タムロンのライカフレックス用のマウントアダプターはなかなかないのだけれども、ガラクタ屋さんで適当なものを探しておいてくれたので今ではライカフレックス用のシステムは全部タムロンレンズで揃えているのである。

これもまたいとおかし。
0031名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/06/04(土) 05:57:19.71ID:4iihh5GQ0
写真の何十年も前のネガフィルムを選んだりダークルームでプリントをしたりするのは平気なのにたかだか30冊の本の入金を確認してそれを発送すると言うのがこんなに大変だとは思わなかった。レターパックに入れた本は10冊ずつ泥パックに入れてすぐ近くの郵便ポストに投入しに行くのである。それで送ったレターパックの控えをカメラの箱の脇にずっと並べて貼ったらこんなことになった。

ヨドバシカメラとかアマゾンなどで気楽にいろいろなものを購入している私であるが流通業界にはまず全く向いていないと言う後期高齢者なのである。
0032名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/06/04(土) 06:54:27.87ID:qLcUNB+c0
スレタイどおり。まさに「益々老化」 (´・ω・`)
0033名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/06/06(月) 08:28:37.06ID:CX7CrTmA0
朝日新聞によれば外務大臣がコロナになって隔離。
朝日新聞の写真によれば外務大臣の隣にピッタリ入るのが岸田のぽち。
濃厚接触者だろう。ワクチン接種してもこの通り。
NNHNHKNHKではNHKでは報道NHKでは報道なしNHKでは報道なし

いとおかし。
0034名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/06/10(金) 17:38:02.84ID:XsA1pedT0
それで最近の向田さんの仕事が面白くてお住まいの近くの葛飾とかあの界隈をとっていらっしゃるのであるが視神経がもともと優れているからそこで発見する場所がかなり凄いと思う。例えば私がこのショットに惹かれるのは右と左の遠近感の消失点がわずかにずれていると言うところに魅力を感じるのだ。横尾忠則が好む2つの消失点みたいな感じで最近流行のしすぎであるが向田さんの向かっている視神経は確かであると思う。

私などは向田さんと同業者であるから例えばこの右手の道の樹木のしげり方などがすごく魅力的なのでどこで撮影したのですかなどと場所をお聞きしたりするのであるが、そういう事は傍流写真同盟の創立者の弥次喜多さんが最初の写真集を送ってくださった時も同様であってそこに写っているものは私の知らない東京であるから撮影ポイントを弥次喜多さんにお聞きしたものであった。

しかしそーゆー些細の事は単なる事は単なる気休めに過ぎないのであって、富士山を撮る写真愛好者が富士山撮影ポイントで脚立大連立させて場所争いをするような低レベルの話では無いから別に撮影場所を聞いて私がそこにいてお株を奪ってやろうと言うような気持ちは無い。

傍流写真は最近南アメリカとかイタリアあたりの国際的な参加者の方もいるので非常に使い愉快なことになっています。新規の入会希望者もほとんどなくなったので800人ぐらいのメンバーでこのまましばらく進行できれば良いと思っている。
0035名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/06/10(金) 18:06:03.92ID:eALbeTVO0
使い愉快   って何? (´・ω・`)
0036名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/06/12(日) 12:26:06.69ID:A0yx0+RT0
毎月20日を過ぎると私のストレスはあーまたカメラ雑誌が到着するなと言うことで実際にポストボックスからそれを持ってくるのは家人の仕事であったが高齢者には大変な労力である。掲載誌はゲラでチェックしているから送られてきた印刷物を開いてみると言う事は無い。断腸亭日常に同じことが書かれていて文豪の場合はもっと偏屈だから送られてきた印刷物は一切見ないのである。またゴミとして出してしまうのだから資源の無駄遣いと高齢者の筋肉の運動にはなるかもしれないが面倒なことである。

デジタルカメラマガジンを私が高く評価しているのは67年前から毎月送って来なくなったことだ。メディアとしてこれはとても良いことだと思う。

それで最近のデジタルカメラの進化に関しては全く興味がないけれどもこの間のギャラリーバウハウスのウィーンの個展などで見に来てくれた人の父上がキャノンかどっかの最新型のデジカメを買って鳥の目にピントが合うからそれが素晴らしいとか言っている。
日本のカメラメーカーと言うのはブラックユーモアにあふれていると思う。
0037名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/07/04(月) 20:35:34.35ID:M9SmoWLI0
基本的に仕事以外の撮影は断然に銀塩の方がよろし。
現代のデジタルカメラを作っている主要メーカーがほとんど全て日本のメーカーのために、情報に翻弄されているだけだ。
仕事でも、予算があればもちろん使える。海外では今もフィルムを使うカメラマンは多い。
最近のシャネルのキャンペーンの撮影などでも、ハッセルを使ってフィルムで撮られた写真があり、それらの写真のクオリティはとても高く美しい。
現場で即座にモニターで確認できない分、カメラマンはもちろん、モデル、スタイリスト、ヘアメイクも現場に集中し撮影に熱が入る。
それらの熱が良い写真を生む。
最良の結果を求めるならば、銀塩がよろし。
0038名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/07/05(火) 03:21:31.41ID:0WqKkdXa0
「その場で確認できない」効果は確かにあると思うが、しかしフィルムを使う
という事=その場で確認できないという欠点をあえて使う事 というのは違う。

その場で確認できる機能があるのに、あえて確認できない方法を選ぶ
ということのためにフィルムカメラがあるわけではないのである。
0039名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/07/06(水) 10:42:03.71ID:ur4iIEvp0
ニッカカメラはもともとは1940年にドイツからのライカが入ってこなくなったので軍部の圧力で勝手にコピーを作ってしまえと言うことでそれがスタートラインになったのである。当時のキャノンの技術者が数人別れてそのカメラを作る人に当たった。精機光学がキャノンの前身の会社の名前であるがそこから飛び出した連中の作った会社の名前が光学精機出会ってちょうど文字が前後に入れ違っているだけと言うのも面白い。何か政治団体の名前みたいでインチキっぽいところがよろしい。

それで左のほうのカメラはニッカウヰスキーがずっと作ってきた

それで左のほうのカメラはニッカがずっと作ってきたライカタイプのシリーズの最後のデザインモデルなのであるが、いやしかっがこれを買収したときに全く同じカメラなのだがかなりデザインを変貌させてヤシカワイエフと言うモデルを出したのだった。今までのカメラメーカーの連中からしたらこれは面白くない話である。それでレンズシャッター式のアマチュア向けのカメラで恨みを晴らすためと言うわけでもないであろうが左のフォーカルプレーンシャッターカメラに非常によく似たレンズシャッター式のデザインのカメラを出したのだ。それだけではない。トップの方向から見ていると実に黒い部分の面積のバランスとかそういうのが似ているのであるが、カメラのフロントのほうにまわってみると左のカメラのフロントのliveのデザインに非常によく似た格好になっているのが右のレンズシャッター式のカメラデザインなのである。

考えてみると世の中で言えば私はフィルム式ライカの使い手みたいなこと言われているが写真家としてデビューして50年の歴史を考えてみるに右のカメラみたいなレンズシャッター方式のアマチュアカメラと世の中に言われているカメラで結構メインの作品を取っているのである。だから私の場合カメラの人種差別と言うのはなくてどちらも同じように大切なカメラの権利を持っていると言うことになる。
0040名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/07/14(木) 07:28:07.98ID:UMD3RgES0
今思えば、あんな胡散臭い爺さん達をありがたがっていたクラ亀ブームって異常だったと思います。
統一教会やオウムに洗脳されてたように
0041名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/07/16(土) 05:14:15.73ID:d13Gi0Uz0
当時は爺さんってほどの年でもなかったでしょ

AF一眼が当たり前になったころからフィルムが終焉を迎えるまでの10年くらいって技術が行き詰まってた感じだったからしゃーないとこはある
新機種新機能はけっこうバンバン出るんだけど、それ本当にいる?みたいなものを各社がこぞって作りあってた
0042名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/07/25(月) 12:22:35.48ID:HintTCW60
それでこの床屋さんのファサードが今朝の夢に出たのである。そのエントランスに東松さんがカメラを持って立っていて、私は東松さんを撮影中なのである。夢の中の床屋さんは一戸建てではなくてシンガポールのチャイナタウンみたいな重厚なネオクラシックの5階建てである。

何か重要なアサインメントで東松さんを撮影している私である。1976年にヨーロッパを巡回した現代日本写真家展示会で私が29歳のときにその準備でファーイーストに行ったのである。東町3のカタログとポスターの使う顔写真がないので撮影に苦労した。その時使ったのはライカM2に頭マロン35ミリで期限切れの映画用モノクロフィルムだった。

そういう昔の記憶と出雲通信の記憶がダブルエクスポージャーになって登場するのが夢の面白さだ。ついでに書いておくと小池さんの奥様は自分を出雲通信編集長と名乗っているが、私の知っている編集長は文学雑誌の編集長とかカメラ雑誌の編集長は知っているが出雲通信のようなマイナー出版物で編集長を名乗るのは実に正しいことであると思う。

阿部ぴょんの1億人の全てが生きがいと言うのはインチキっぽいが、ミニコミの出版社のトップはちゃんと編集長を名乗るべきだと思う。
0043名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/07/26(火) 05:41:58.29ID:EElBjnfp0
日吉駅前のカメラ屋さんの名前を言う人から聞いたら変な名前で、誘うカメラと言うのである。これは私の聞き違いで本当は別の漢字を使うのであろうが誘うカメラの閉店セールと言うのは何かエキサイティングだった。そこでいくつかのガラクタを手に入れたうちの1つがこのコニカエフマウントアダプターである。

コニカの最初の一眼レフは非常に凝った作りのコニカエフと言うカメラであってこれは既にかなりコレクターズアイテムになっている。その後一般的な小原スクエアを使った一眼レフを出していた。確かジャンク市で100円か200円のものであった。しかし私は一眼レフのカメラそのものを当時持っていなかったしあれから半世紀経過してもコニカの最初期モデルの一眼レフは持っていなかった。それが最近になって初期のコニカの一眼レフのブラック仕上げというのがおそらく国産で12を争う美しさであって、虎屋の羊羹みたいな感じで渋いお茶が欲しくなると言う存在感なので数台手に入れてそれを愛でているのである。

このコニカには52ミリef 1.4と言う優秀なレンズが付いているのであるが、いつもカメラというかコニカの素振りをしているときに確か半世紀前に買ったレンズマウントアダプターがあるなと思い出していたのである。それが仕事机の側にあるショッピングバッグの中から古い戦前のライカカメラのカタログを発見してそのショッピングバックの底のほうに手を入れたらこのレンズマウントアダプターが釣れたのである。
0044名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/07/26(火) 08:15:08.41ID:ozyDHF7a0
「、」をつけろ耄碌。
0045名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/07/27(水) 01:30:20.96ID:qsx+chRO0
私は頭の計算というのができないからそのことをFacebookに書いて今の時代はトライエックスが高いけれども当時の貨幣感覚で言えば1円を10,000円と換算するならば2円10銭と言うのは今のモノクロフィルムと変わらないのではないかなどと馬鹿を書いた。すぐに人気写真家の中藤さんから訂正が入ってよく考えてみたら私の考え違いの今の価格で2100円と言うのではなくて2円10銭であるから今の貨幣で考えれば20,000円以上するのである。

林文子が1930年代のタイピストのお給料を40円と書いている。だから今の労働者の安給料に比べると1円を10,000円とイコールに考える事はちょっと考えものなのかもしれない。ところで没落家系の内田百鬼園が人に借金に行く時は大抵仲間内から借りるのは5円なのである。そうなると今の50,000円位のことになるのかな?地獄の門と言うタイトルの随筆小説があって初めて高利貸から高い利息で金を借りたときの内田百鬼園の言い出した値段が300円なのである。

当時のライカはエルマー月の標準モデルが750円ほどで、明るいレンズがつくと高くなって1000円近くした。だから2円10銭の1本のフイルムを自由に使える人と言うのはなかなか裕福層であったと言うことがわかる。
0046名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/07/28(木) 07:09:38.75ID:TEKfK3lv0
間宮の製品と言うのはいずれも重厚な感じがするのであるがこれは金属パネルを使ったりしておまけにフォーカシングのギアが連動しているあたりはビックヒットになったり後フレックスとスタイルが似ているので何か安物カメラと言う感じがしたのだが実際にはかなりよく作り込まれている。

当時の戦後の黎明期の間宮で専門にこのカメラを組み立てていた技術者さんが3人おられたそうである。そしてそれぞれの3人の皆さんのネームのアルファベットがネームプレートを外すと裏側に刻印されているそうだ。何かカメラの秘密を見たような感じがして素晴らしい話だと思う。もっとも私はマイナスドライバーが家にいないので外して中は見たことがない。と言うよりかこういうものは伝説的なところに属するからその数字を見ると目が潰れたりするのではないかと心配しているのである。

このカメラの存在で私が1番興味を持っている事は高級生よりか1年ほど前に普及生の方が出てきたと言うことであってこれは通常のカメラメーカーのやり方からすると全く逆なのである。キャノンのレンジファインダで有名なスクリューマウントの4型というのがあるがこれが高いと言うのでその後に2型と言うのを出した。要するに1000分の1秒のシャッターを省いていたりとかちょっとコストダウンをしているのであるが私はその方面のカメラの方が好きなのである。

その当時のキャノンのカメラ雑誌の広告を見ると新しい新潟のほうはお求めやすいJrカメラと言うキャッチコピーがついている。これが普通の販売戦略の方法である。ところが間宮フレックスに関しては逆で最初にJrが出てきてしまったからその後の森家の立場にある間宮フレックスオートマットはキャッチコピーとしてはを求めにくい最高品質と言うことになるのであろうか。
0047名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/07/29(金) 05:02:05.54ID:ENLfrr740
Miraxと言う一眼レフミラーボックス装置はなかなかよくできていてまず当時の競合していたライカのVisoflexなどに比較するとかなり小型軽量である。カールツアイスの版フレックスと言う一眼レフ装置と比較しても比べ物にならないほど小型軽量である。だからちょっと見るとすごい安っぽい感じがするのであるが実際に使ってみると想像以上にバランスの良い一眼レフ装置である。

戦前から戦後の一眼レフブームになる前までのレンズ交換式カメラの使い方と言うのは単純であって広角レンズから標準レンズそして90ミリ位のレンズは距離計で使ってそれより長いほうのレンズは一眼レフ装置で使うと言うきわめて真っ当な実用的なシステムに対する考え方であった。

Miraxで感心するのはそのシャッターレリーズとミラーアップの連携する機構なのである。単純極まりない金具の薄っぺらいパーツなのであるがその薄っぺらなパーツをシャッターボタンとミラーアップのレリーズの上にはめ込んでその中間部分を押すとフレキシブルなパーツなので同時に両方のシャッターが切れるのだ。世界のカメラメーカーでここら辺はそれぞれ苦労したものと見えるが、カールツアイスの場合は使いにくいダブルケーブルレリーズだし、ライカの場合は一眼レフ本体から長いてこのような格好のアームをせり出してきてそのてこの先でライカのシャッターボタンを押すと言うおよそクールではない格好のデバイスなのである。その点このオリオンの作ったシャッターとミラーボックスの連携機構は素晴らしい。
0048名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/07/30(土) 07:01:10.38ID:W7BDf1we0
ヨドバシカメラの便利な配送が1分だけ早めに到着すると2001年6月11日を思い出してしまう。これは私の心の中でけっこうなトラウマになっている。それで3500円のティーファールが送料なしで届くのは我々にはありがたいが、競合する他社はこれはやっていられないわけだろう。ガラクタやにだいめの家のかわいいメダカさんの餌と言うのは値段が100円らしいけどもこれも無料で届けてくれるらしい。

10年ほど前にロシア航空でモスクワに行った時たまたま見かけた日本人の若いカップルがティファールの入ったパッケージを大事そうに抱えていた。サモワールではないけれどもロシアはよくお茶を飲む国だから当時ティーファールは手に入らなかったのかもしれない。

そういうモダンな道具は1970年代のウィーンではなくてもっぱら普通のケトルでお湯を沸かしていたのである。家が広いしキッチンが遠くにあるからたいていのケトルには笛がついていてお湯が沸くと上記の力で笛が鳴るのである。プラハに暮らしていた34年間はそんな笛吹きケトルもなかったから小さな鍋でお湯を沸かして毎朝細かく引いたコーヒーの粉にお湯を注いでいた。これはヨーロッパでは唯一このチェコだけに残るクラシックなコーヒーの飲み方なのである。
0049名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/07/31(日) 00:18:34.59ID:N1uvsdig0
それで用があってタワーから外に出るときのメインエントランスの右側にいつもこういう風景が見えてその時いつも思うことがあるそれは私にとってこの風景がやたら日本的な路地みたいに見えることだ。これはすごく不思議な印象であってヨーロッパの光景を見なれてしまっているせいでもあろうが、造成されたこの一帯は日本的な要素は全く存在しないのである。要するに1980年の頃の日本のモダン建築を理想化したと言うようなエンバイロメントの方向付けになっている。

ところが不思議なことに私がなぜタワーのエントランスから出るときの右側に日本の精神みたいなものを感じるのかと言うと、これは極めてシンプルなことなのであるがご覧のような10本位の木木が立っているこれが私にとっては極めて日本的な感じがするのだ。言い方が大げさかもしれないが私にとってヨーロッパを強烈に感じるのはゴシック建築より下ずっと以前の例えばパルテノン神殿の列柱なのである。あれにヨーロッパの文化を感じるのと同じような意味合いでほとんどパワーとしては同じ位のバランスで私はこの立ち並んだぼっくいに日本を感じていると言うのはやっぱり自分の考え方は変だよね。

と言うような風景論を考えるのは私だけでしょうか?

よくFacebookで見かけるこの言い方が大嫌い独善的で。
0050名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/07/31(日) 01:18:12.17ID:9AnZ+x+J0
カメラの話以外だと驚愕するほど中身が無くなるんだなあ。。(´・ω・`)
0051名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/08/01(月) 00:25:28.48ID:emIjug4N0
レザーのエバレディケースも付いていてこれがまた複雑な立体型をきれいに包み込むような革ケースなのである。あまりにぴったり入るので外すのがちょっと大変だが何かに似ているかと言うと大昔のポーランドのポリスが使っていたピストルケースに似ていると言うのは1番この場合適当な表現だと思う。

しかしそういう些細なことよりもこのカメラの最大の魅力と言うのはかなりきっちりエナメルで塗られているから現代の我々の感覚からするとこれはまさしくプラスチック製であるなと思うのであるけれども、実際には重厚なダイキャスト製なのである。そのダイカストの本体にいかにも軽い感じの明るい色がかなり丁寧な仕上げでペイントされているというところが我々のカメラに対する物質の予想感覚というのを完全に裏切っている。
そこが素晴らしい。
0052名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/08/02(火) 01:06:49.08ID:WbuOzUEA0
ペットリフレックス7を手に入れて10年ぐらい経った時にネットオークションでPetriの一眼レフのセットケースというのが登場した。注意をしてみるとこれはめったにネットオークション等には出現しないものでまず1年か2年に1度しか登場しないと思う。大衆カメラ用であるから作りが結構安っぽいから人気がないと言うことでその大半はすでに捨てられたのではないかと思う。

それで私のカメラのセットケースのコレクションの中ではこれが1番レア物と言うことになる。ご覧のようにシンプルな作りで合成レザーであってストラップはビニールで全く冴えないのであるけれども、ここで重要なのはセットケースを愛でているときにはカメラの素材はレザーでそれに方からぶら下げるストラップも上質のものでないと気に食わないと言う勘違いが起こるのである。

カメラの素振りと実際の撮影というのがかなり違うと言うのと同じように、カメラケースを手に取って鑑賞しているときには本当の実用性と言うのは見えないのである。ビニールのカメラケースのストラップと言うとみんな馬鹿にするけれども、実は逆であって例えば戦後のライカエム型のセットケースの頑丈な上質な革でできてなおかつ滑り止めが付いているセットケースがたすき掛けにして撮影している時などにその取り回しが非常にしづらいと言う欠点がある。

その点このペトリカメラのセットケースはなかなか道具としては優れものである。ペトリの銀色のロゴが高級感を醸し出しているな。
0053名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/08/03(水) 14:11:03.60ID:lwsMcpqj0
デジタルカメラの命短く、フイルムカメラの命永し

そーゆー日常生活の生きがいになるような大事なデバイスならフイルムが高くたって別に文句は言わない私だ。この間あるギャラリーから私の古い写真集の1枚をお客さんに頼まれてそれをプリントしてくれと言われたのだが、結局ネガフィルムが3000本以上あるのでこちらは老眼だし申し訳ないけど発見できなかった。

今では状況が変わってしまってフイルムカメラしかなかった時代にはありとあらゆるものをフイルムで撮影していたからネガフィルムの量が膨大になってくる。今では日常の記録等はデジタルカメラ、と言うよりもiPhoneとiPadで撮影できるから画像のボリュームの物理的な重さは実際には存在しないから本当にありがたい時代だと思う。

それで2022年度版のモノクロ写真のススメであるが、ごくごく安い中古のフイルムカメラを1台例えばこれは2500円であるがそれで1000円位のモノクロフィルムを買って自分で現像するのが面倒ならオンラインショップで現像は頼んでそのスキャン画像をSNSにアップしたりするとかなり楽しめるのである。

この場合フイルム代が高いからたくさん取れないと言うことが無駄にショット数を大きくしない非常に重要なポイントだと思う。さてそれをどう皆さんに見せるかと言うと例えば私が関係しているSNSで傍流写真同盟等というのがあって、すでに800人以上のメンバーの方がいるがそういうやり方が結構大事な写真の発表方法になっていきつつあると言うのも面白い。
0054名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/08/04(木) 14:55:45.62ID:nKo0Xf840
半世紀以上フィルムライカで撮影をしているからそれなりのフィルムライカのマナーと言うものがある。偉大なフォトジャーナリストであった三木淳さんが書いていたことだが彼は1日の撮影にフイルム5本と決めていたそうである。撮影のパワーをフル回転にして1日5本のフイルムをとると言う事は結構大変なことなのだ。これは実際にやってみればよくわかる。

撮影の現場監督でクライアントがいたりするときは我々はクライアントにすぐ忖度したがるから1日で20本取ったりするのであるがあれはまやかしものである。1日に私も5本のフイルムをポケットに入れて撮影をする。

左のポケットに撮影してないフイルムを入れて撮影済みのフイルムは右のポケットに入れるようにする。ポケットを手で探ると全体の撮影のペースが分かるのでこれは好都合で長年そうやってきた。何かの時に森山大道さんと雑談をしていた時に彼も似たような方法で片方のポケットからもう一方のポケットに撮影済フィルムを入れてそれで区別しているのだと言う話を聞いて面白いと思った。

森山大道さんは手ぶらで撮影に行く写真家であるからカメラバッグなど持っていない。カメラ雑誌がまだ存在していた頃3年にいっぺんぐらいやるつまらない代表的な企画でカメラマンのバックの中身というのがあって私も頼まれてそういうテーマで有名写真家を取材したことがあったが、森山大道さんはカメラバックを持っていない。つまりカメラアクセサリーメーカーの敵ですね。それではインタビューにならないので森山大道はなぜカメラバッグを持たないかと言うインタビューをした。
0055名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/08/05(金) 03:27:45.98ID:fc/Vh8oU0
Eos20Dをベニスで使ってその描写力とそのスピードに感心したことがあってなんでその時ベニスにいたのかそしてなぜこのカメラで撮影したのかは本当に忘れてしまったが、2004年と言う時点では私はどうもキャノンと言う会社とコマーシャルの関係で少しはお付き合いがあったらしいのである。キャノンの会社から借りていたカメラであるから何かそこに背景があったのであろうがその事は思い出せない。

思えばキャノンサークルと言う雑誌でずいぶん長いこと連載記事か何か書いていてそれの関連でフイルムで写すEos1が登場した時もその最新型カメラでニューヨークで撮影をしたことを思い出した。

それで考えるのであるがデジタル一眼レフと言うのはワイドボディの大型旅客機と同じようなものでどれを見てもそのロゴタイプを見るまでそれがどこのメーカーのデジカメであるのかわからないようなところがある。デザイン的に全部均一であるからそこにライフスタイルとか撮影のバックグラウンドのクールさとかそういうものは一切存在しないのが私がこの種類のカメラが嫌いな最大の理由なのである。

撮影はよくできるかもしれないがカメラにドラマがないというのが1番退屈である。それでも最近の1億画素の画質とか飛んでいる小鳥の目玉にピントが合うとかそういうのはもともと私は必要なくて普通にブログにアップするだけだからAPS-Cサイズのこういうカメラが1番よろしい。これだって8,000,000画素以上あるんだってすごいね。

でもこういうアマチュア向けのカメラを使って当時ちゃんとした広告の仕事をして大きなポスターを作ったりもしたのである。あれは夢か幻か?
0056名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/08/07(日) 00:30:36.18ID:c9zjZCN20
ところで話を戻すと1番最初の打ち合わせの時にギリシア人の監督とそれぞれのスタッフと打ち合わせをしたときに何の担当かわからない若い奴がいたのである。その人に対して私は結構偉そうな口をきいてみていたようで、これが間接的な変な効果を出してしまって日本の有名な写真家だから粗末にはできないぞみたいなことになったのかどうか知らないが、結構ギャラは良い待遇が良いと言うのでびっくりしたのである。主役の2人の俳優さんと同じ高級ホテルに泊まらせてもらって移動する時はマリオと言う主役の俳優さんが運転するJaguarで移動したりした。

コミックアクションドラマであるから舞台は1930年代のドイツ語圏のどっかの街と言うことになっていて、私もロケハンで同行したのであるが男2人が金庫破りの相談をするところが実は私がよく言っていたやすい食物屋なのである。今はそのレストランはなくなってメガネスーパーみたいなものになってしまった。

映画ファンと言うのはこういうアクションドラマの場合車の転落とか爆発とか言うのは見られないと入場料を返すと言うことになるからそういう修羅場の合計も用意されていて、シトロエンのVanが崖から転落して爆発するのである。環境保全の良いオーストリアのドナウ川の岸辺の山の上から車を落下させるなると言うのは関係方面にどのような許可を取るのかそちらの方が心配になってしまった。

40数年前に手伝った映画ではあるが実は私はこの映画を全部見ていない。映画を見ていないと何か期待できることがあるかもしれないが実際に見てしまったらつまらないと思っているのである。大昔パリニューヨークそして東京を巡回したハプスブルグ帝国をテーマにした巨大な展覧会で

Wien 夢と現実

というのがあった。私のウィーンの夢は大切にしたいからだ。
0057名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/08/10(水) 12:02:15.48ID:l+L4rZID0
この世界最初のライカと言うのはライカがライカカメラを作ってちょうど50周年の1975年にディーラー向けにモックアップを作って配布したのである。だから写真を撮ることができないけれど好きな人がいてその中にライカのメカニズムを組み込んでちゃんと写真を撮るようにした人もいたらしい。

30分ほどライカの社長さんがいないのをいいことに、世界最初のライカを持って逃走するつもりはないけれども、人生に二度とないチャンスだからこれにフイルムを装填して撮影してやろうと思ってパトローネ入りのモノクロフィルムをポケットに隠していた。しかし市販のライカとは違って何しろライカの父のオスカーバルナックが答えたものであるから、フイルムの入れ方がわからない。下手に壊してライカの株式をストップ安にするのは申し訳ないのでそれ以上触るのはやめた。

この撮影のためにライカの会社はわざわざ銀行の金庫からこの世界最初の代価を持ち出してきてくれたのである。それでこれは関係者に聞いたのであるが実は世界最初のライカはもう1台存在するのだそうである。

考えてみればそれはそうだよね。工場の生産物なんだから試作品で1台と言う事はむしろありえないね。
0058名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/08/11(木) 05:28:14.56ID:fjpkz/dz0
スイス製の一眼レフでAlpaと言うカメラについていてずいぶんいろいろな撮影をしたのである。雑誌の連載などもこれでとったことがあるが、思い出すと私の場合マクロレンズで撮影したことがなくていつも∞で撮影をしているのである。たからのもちぐされと言う言葉があるがそれを私に当てはめるのならば

マクロレンズのinfinity撮影の馬鹿と言うわけだ。

この高いスイス製のレンズは最近お金持ちが持っていなければならない定番のレンズになっていて皆さんそのマクロレンズで作例を取ったりするのであるが、これに対して私がひとこと言いたいのは皆さんお花の撮影をクローズアップでやって全部ピンボケだしカメラぶれはしているし下手な写真の競争コンテストみたいになっていることだ。でもご本人が下手な写真と言うことに気がつかないから非常に幸せな状況なのである。

私の場合30年ぶり位にというかキャノンF1で写真を撮りたくなってレンズを考えたのである。ところが後期高齢者になっているから30年前のまだ40代の頃に取材に行って35ミリ一眼レフ3台,レンズ5本みたいな事はもうできないのは当然であるので、手元にあるプライムレンズをいろいろつけてあれにしようこれにしようと考えるのは非常に楽しい老人の快楽なのであるが、結局選ぶのは小型で軽量のレンズ以外に選択肢がないと言うわけだ。

これ等はキャノンのマクロレンズの50ミリf 2.8であるから小型軽量で老人の体力にはぴったりなサイズと重さなのである。でもクローズアップでお花を取ったりするつもりは最初からないからインフィニティーにセットして適当にスナップするだけ。
0059名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/08/12(金) 08:05:11.90ID:0wCx7+S+0
千葉県銚子市のことに関しては私が醤油屋の末裔であるとか言うことをあちこちに書き散らしていたので5年ほど前にギャラリーバウハウスに来てくれた友人がわざわざその当時の読売新聞が発行した東京案内をプレゼントしてくれた。こういう昔の都会ガイドブックをもらったのは2つ目であって19か20歳の年に京都に行った時に友人の祖父にあたると言う京都の白川に住んでいた老婦人からいただいたのがこれは明治の初期の京都案内の上下2巻と言う話本仕立ての本であった。

明治39年と言えばこれから日本がどんどん大きくなろうと言うところで調べたらちょうどこの年に日本国有鉄道ができたのだそうである。その当時はまだ東京の駅は秋葉原駅が中心であって東京駅はまだできていなかった。

1906年と言えば作家稲垣が生まれたのが1901年だし私の義理の父が生まれたのはもうちょっと後で私の父の生まれたのはそれより下1年後の明治45年なのである。今から思うととんでもない昔の話で時間スケールからすればはるかに江戸時代よりと言うことになる。

それよりも私が不思議に思っているのは当時の大新聞社であった読売新聞の東京のガイドブックの裏表紙にヒゲタ醤油が広告を出していることだ。これだけの広告になれば当時としても安い広告料ではなかったわけですそこで名前を出している田中と言う人が私の先祖にあたる大名家の代表取締役と言うことになる。
0060名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/08/13(土) 07:46:35.50ID:oZFLZUAD0
その当時はご結婚直後の今の皇后陛下もカメラすきというか写真すきでいらしたようで、愛用していたのはオリンパスのコンパクトフィルムカメラであった。何か写真記者クラブであったかどうだか忘れたけど当時カメラグランプリの審査員なども私はやっていた関係で何かの集まりの時にカメラメーカーが皇室関係のどなたが何を使っているかと言う事は宣伝に使わないようにしましょうと言う申し合せがあったらしい。

なるほど日本の国民はそういうところを気にするのかと感心した。ところで最近ガラクタ屋さんから私が大昔にやっていたカメラジャーナルのそろいの雑誌を譲ってもらってその創刊号がコンタックスT2なのである。このカメラがよく売れた理由というのがあってウィンブルドンだかどっかのテニス競技のときのスポーツ中継でヨーロッパのどっかの皇族がこのカメラを構えていたというのがいい宣伝になったようである。

考えてみればエリザベス女王陛下は当時のライツから贈呈されたライカM3の英国紋章付きのやつを使って撮影をしているカットが残っているからこういうのは良いフェアなトレードになったのであろう。

皇室関係者とお付き合いは無いけれども大昔に浅利慶太さんと一緒にタクシーに乗っているときに赤坂見附で当時の皇太子様のお車の脇に我々のタクシーが停車して驚いたことに左の席に座っていた美智子様が我々に会釈をなさったので浅利慶太さんは非常に感激していた。

私のカメラジャーナル時代にはずいぶんたくさんのカメラの本を出したのだが出版社から聞いたことによると宮内庁から注文があるのだと。まさか宮内庁の職員さんだったら自分でヨドバシカメラに行って買えば良いのであるから、これを私の予測に過ぎないが皇室のカメラすきの人と言うのは大体想像できるからそういう方が愛読してくださったのかもしれない。

皇室関係とその周りと言うことで考えてみると銀座でご結婚直前の黒田さんにお目にかかって彼は私のカメラ本の愛読者なので話が盛り上がったのは良いが、VIPであるから2名のポリスマンがいつも付き添っていてそのうちの1人の人はなんとカメラウィルスにやられてしまったそうである。
0061名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/08/14(日) 15:29:01.84ID:4RrTr53g0
間宮と言うメーカーは一番最後の最後まで2眼レを作っていた真面目なメーカーであった。その間宮の2眼レフのすべてのシリーズの中でこの1番最初に作られたJrだけが何か1番モダンな存在のデザインであるのも面白い。

間宮カメラと言えば世田谷で作られたSekorレンズで有名だがこのカメラについているのは間宮になる前の別会社のレンズブランドであってその名前をNeoconと言うのである。Seikoでもコパルでもない自社製のシャッターのブランドがスタミナシャッターと言うのもいい感じだ。

間宮フレックスジュニアの場合メイドインオキュパイドジャパンの刻印はこの位置についている。新しく生まれた日本としてはこれは国辱的な刻印であったから後の時代にこの部分をレーザーを張り替えてしまったものもあって、コレクターの立場からするとこのようにオリジナルのネーミングが付いているのは逆に珍しい。

ところでブロ2眼レフ里程標見ていてわかったのであるがこのカメラを組み立てていたのは3人の戦後のパイオニア的エンジニアさんであってライン生産ではなく組み立てを最初から終わりまで1人で行っていたそうだ。それで責任を明らかにするためにネームプレートの裏側にそれぞれけ書きでイニシャルが入っているそうである。

その3人の技術者さんはもう60年前の事だからとっくに忘れていたのであるがインターネットか何かの関係でその頃のことを思い出して皆さん感動しているのである。私の手元には数台の同じモデルのカメラがあるが、わざとネームプレートは外さないでそのままにしている。何かおいなりさんの社の中身を見ると目が潰れると言うような江戸時代の民間信仰みたいなものであってそれは見ない方がカメラの楽しみとしては素晴らしいことになると言うのが私の考え方だ。
0062名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/08/16(火) 00:28:39.85ID:Ogb7HlDe0
ガラクタ屋さんに行く時わざわざ遠回りをしてこの猫とバラの日々の看板を鑑賞していいなと思った。その看板がなぜ良いかというと単純な理由であって既に真新しい看板ではなくていい具合に年代がついているからである。つまりクラシックカメラと同じですね。私の周りの写真家連中にしても私から見て不思議に思うのは中判カメラを買ったりする時も何がなんでも新品に近い状態のものでないと嫌だと言う人がいるのは私にとって不思議である。1種の潔癖症と言うのかな?

だから私の場合この年代のついた看板というのが気にいっているのだ。写真家を変えればん子はSAの仕事でアメリカのDeep Houseをずいぶん撮影して歩いたけれどもカントリーサイドのドラッグストア高そうだファウンテンだか忘れたけどそこの建築物に掲げられた巨大なコカコーラの看板がある。ウォーカーエバンスアットワークの本を読んでいると彼のリビングルームに置かれている巨大なコカコーラの看板と言うのはその彼の代表作の撮影した建築物に取り付けられていた看板なのだそうである。

そういうのも凄いと思うけれどもこれを本気でやっていると私の部屋などもどこかの古道具屋さんの店内のようになってしまうからそれはやめたほうがいい。私が持っている唯一の立ち飲み屋さんの看板と言うのはこれも結構古い菊正宗の看板なのである。それ1枚だけ。
0063名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/08/16(火) 12:59:34.68ID:Ogb7HlDe0
田中長徳氏ってとても個性的な存在なのは分かるけど、そういう人物の一言一句を特別扱いする雰囲気も違和感ある。
0064名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/08/18(木) 02:16:38.08ID:hH76Fjmq0
「、」 を使えよ耄碌
0065名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/08/18(木) 09:05:57.37ID:p6/IvNvr0
あたしの本名は長徳で、本当は「おさのり」と読むのである。つまり
戦国大名の由緒正しい名前であって、そこらへんに転がってる連中とは
氏素性が違うのである。まあ便宜上、チョートクと名乗っているが、超得などと
揶揄するゴミどもは犬にでも食われるといいだろう。
0066名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/08/19(金) 05:27:38.44ID:ULI0ZiRT0
この今ツールファインダーシステムは暗い所でも威力を発揮するのである。それは当然であって暗い光景で普通のブライトフレームファインダーでは見えないようなダークな場所でも脳内構成してくっきりと35日のブライトフレームが浮かび上がるからだ。ワンセットが25,000,000円もするような35ミリのプロ用映画撮影機でアメリカのパナフレックスというのがあるがこれは極限の状況で映画撮影をするために暗い撮影シーンをちゃんと見せるためなのであるが、ブライトフレームをわずかな光で証明してそれを一眼レフファインダーの上に合成してファインダーの構造を見せるというのがある。これをPana Glowファインダーシステムと言うのである。

ここまで帰って気がついたがパナビジョンはレンタル専門であってカメラや付属品を買うことができないからそのことを訂正して割り引いて考えるとコルゲンコーワのこのファインダーシステムは実際に買うことのできる世界で最も暗い場所を撮影可能なファインダーシステムと言うわけだ。

私が大学1年生の頃銀座4丁目のMiyamaカメラ店でこのファインダーだけ山積みになって売っていたが誰も買う人がいなかった。知らない人が覗いてみて真っ暗な画面だからファインダーが壊れているぞなどといったものである。当時のこのファインダーの値段は1600円であった。
0067名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/08/20(土) 02:01:16.98ID:eR4iCLH30
その頃の中平さんは記憶を失って居られて吉村のところに来て毎日同じ挨拶をすると言うのである。つまり中平といいます写真をやっていますみたいなことが永遠に繰り返されるのだ。これは写真家としては素晴らしいキャラクターではなかろうか?

その時の中平さんはいつものキャノンF1 で100ミリのレンズをつけていた。そのカメラを手に撮らせてもらって覗いてみたらファインダーが腐食していて一眼レフのスクリーンの7割以上が見えなくなっているのでこれこそ本物の写真家が愛用するカメラだなと感心したのであった。

だから私の希望としては中平さんに持ってもらいたい100ミリはキャノンF1の時代の100ミリではなくてもっとそれより25年時代がバックした頃のこういうシンプルでプリミティブなレンズこそふさわしいと思うのである。

それで思い出したことだが十数年前に私はこれと同じレンズをガラクタ屋さんで買っていたのだ。もちろんこーゆーレンズと言うのはコレクターズアイテムでは無いから値段も1000円とかそんなもので非常に安かった。それで最近手に入れたキャノンF1オリーブドラブのカメラに1番似合うレンズはこれではないかと思って探してみようと思ったがカメラジャングルでこんな小さい物体は簡単には発見できないのである。それでそのままになってしまった。
0068名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/08/21(日) 03:58:30.80ID:RxXE+sAz0
蛇腹式の35ミリレンジファインダカメラと言うのはコダックのレチナがあったけれどこちらのArcoがすごいのは特別な装置を使わないで38センチまでクローズアップができると言うことでこれがユニークだった。

そのサンプルを持って1950年代にアメリカに行った時にあちらの代理店から紹介されてアルパの一眼レフを作ったジャックボールスキーにあったらArcoカメラが非常に気にいってビジネスになりそうになったと言う。結局ボールスキーの会社ボルシーがリクエストしてきたスペックが気に入らないと言う事とArcoカメラをアメリカで売るスキーが売ると言う話は立ち消えになってしまったそうだが、逆にArco写真工業の方ではアメリカがパテントを買いに来たと言うのでこれを宣伝に使ったそうである。

私にとっては思い出深いブランドなので8ミリカメラのほうも何台も持っているし75ミリの一眼レフ式外付けファインダーを装備した8ミリカメラ用の超望遠レンズも発見して所持している。ムービーカメラのビジネスの最後の方で当時の最高級カメラだった8ミリをさらにブローアップしたArco16と言うモデルを50台だけ作って取扱説明書も用意したところで会社は倒産してしまったそうだ。

それから6 70年経過したつい昨年の話だがその16ミリカメラがネットオークションに登場した。これは絶対欲しいと思っていたのであるが自分はあの当時の最高級の16ミリカメラをたくさん所有しているので今更と言う感じになってしまってオークションには参加しなかった。70,000円もしない価格で落札されたようである。
0069名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/08/21(日) 10:57:21.80ID:GgV+YsFZ0
「、」が少なすぎる。日本語が不自由なのだろうか。
0070名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/08/26(金) 05:03:32.24ID:eLbmTvIV0
四半世紀ほど前に中古カメラブームがあったときに日本カメラだったと思うけれど坂崎幸之助さんとよく中古カメラ対談と言うのをやった。思い出すに中古カメラクルージングとか称してあらかじめマークした東京の中古カメラ屋さんを5つかそこいら回るのである。

坂崎さんも私も好きだから真面目に中古カメラ屋巡りをしてそれぞれに手に入れた中古カメラを5番勝負とか言うことでじゃんけんポンで取り出して編集長か誰かが勝ち負けをレフェリーで判定するのである。思えば楽しい時代であったと思うのは四半世紀前にはまだデジタルカメラが今のように発達していないし中古カメラ屋さんでデジカメの中古と言うのは置いてないわけだからフィルムカメラだけで遊ぶことができたのがよかった。

同じ頃に新書版で中古カメラの本を出してタイトルは忘れてしまったがこれが初版のスリ数が2万部なのである。小さな出版社だったので手形で支払いがされたのも今思うと何か懐かしい。
0071名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/08/31(水) 11:21:03.86ID:+Bwf4WmO0
今田と高校生が選挙の仕組みを紙に書いて学校内に掲示しただけで高校生が政治活動はけしからんとか言う横槍が入るらしいが、1964年の東京オリンピックのときの生意気な高校生の私の写真行動と言うのは当時の校長からも支持されていたと言うのだから今からは隔世の感がある。

戦後にスタートした新しい民主主義の力がまだ失速していなかったと見ることができる。ところで私は生意気な高校3年生であったから、全員が参加すべきこういうマスゲームの時に後者の上からニコンエフで撮影をしていたりしてまたそれを批判する人もいなかったのだから思えば自由な時代だった。

中学生の時に手に入れたクロームのニコンエフフォトミックを知り合いに紹介されてまだ日本橋にあった西川のふとん屋さんの4階のニコンの会社でトップとボトムのカバーを全部交換してもらってブラック仕上げにしてもらったのである。その製造番号は6463471、

ベビーブーマーの頃だからあの頃の都立新高校の生徒の1人いうのは500人では聞かなかったかもしれない。その中でニコンエフを持っているのは私とあと2人の同じクラスの高校生だった。1人は建設会社の社長の息子であってもう1人もどこかの会社の社長の息子だった。私は東芝の平社員の息子なのだからかなり階級が異なるわけである。
0072名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/09/04(日) 07:40:44.37ID:StIzFfNm0
お店の看板のお魚の目つきがなかなか漫画的で良い感じである。目に表情があると言うのはいい感じだ。値段表を見てみると1番上がナマズで1番下がうなぎである。うなぎ等はどのように調理するのかな? 1980年代にベルギー政府観光局の仕事で2年間ベルギーを広く取材したことがあった。ベルギーの南部の古い都Gentにある老舗の鰻屋さんを取材に行った。ぶつ切りのうなぎのグリーンソースはなかなか良い品だったがお店のオーナーと雑談しているときに日本でもうなぎを食べる習慣があると言ったらどのように調理するのかと聞かれたので開いて焼いて蒸して砂糖の入った素やソースをつけると説明したら思いっきり馬鹿にされた。
0073名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/09/06(火) 00:45:17.07ID:X+G/HX9R0
このカメラの使い方で重要なのは言うまでもないことだが、一緒にニコンエフを使ってはダメなのである。1970年代初めのいわゆる写真家のカメラの使い分け方というのがあって、一番代表的なのは有名な写真家エルンスト・ハースウィーン出身でニューヨークで活躍した大写真家であるが、彼はライカM2のブラックににだいめのカメラはブラックのペンタックスであった。理由は知らないけれどもそのペンタックスにはマイクロニッコール55ミリが付いていた。

最初にキャノンフレックスに持ったイメージから60年以上が経過して今の私がどのようにこのカメラのユーザのイメージを浮かべるかと言えばやはりそのイメージは不変なのである。

つまり世田谷あたりのお金持ちっぽい写真好きな若い人。
0074名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/09/17(土) 06:05:58.89ID:CGhc5W/O0
友人スミスなどがその典型的な例であるが、カメラをたくさんぶら下げている写真家はカメラマンぽい感じはするけれどもシリアスなフォトグラファーと言う感覚は0である。その実例としては友人スミスとロバートフランクを並べてみればわかる。ロバートフランクの優秀な写真集をたくさん出版した日本の編集者Motomuraの場合だが彼は友人スミスの知り合いだったそうでその伝でロバートフランクを紹介してもらったのだそうだ。

それで結局2千11年の3月のマンハッタンの撮影では確か2週間ほどいて11本の撮影をしたのである。マンハッタンイレブンと覚えているからその撮影本数は間違いがないと思う。1番使ったのはスーパーアングロンのこのレンズだった。

このレンズが好きなのはその理由は単純であって同じスーパーアングロン21ミリef 3.4も使っていたがこっちのレンズは絞りの羽根がどういうわけだか4枚しかないのでゴーストイメージが汚いのである。だから明るさがエフ4のこちらのレンズを使っていた。

40年前に私がニューヨークに行ってニューヨーク近代美術館に通っていたときの駅がダウンタウンのプリンスストリートなのであるがそこを再訪して懐かしいので20一ミリレンズで駅のプラットホームを撮影したらいきなりトークンブースにいる係りの人からここは撮影禁止ですよと警告されたのにはびっくりした。ライカだったら良かったのであってピストルを持っていたら即家殺されていたかもしれない。

ところでマンハッタンで使ったこのM3であるがかなり調子が悪くなってそれを友人に譲ったのだけれども関東カメラサービスでオーバーホールしたらバッチリ新品に戻ったそうである。やはり機械式のフイルムカメラとデジカメの違いがそういうところに出るのだな。
0075名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/09/22(木) 12:06:33.62ID:NF82tfMh0
時代が昭和から平成に変わるその瞬間に8 × 10インチのカメラを持って渋谷を撮影していた。渋谷嫌いだけれどもテーマが渋谷が嫌いと言うことになれば、戦場カメラマンみたいなもので別に怖いと言う事は無い。その時私はひどい腰痛にやられていて、痛みを和らげるためにどこかに座ろうと思ったのだがその時分かった渋谷の真実と言うのはちょっと腰掛けるところがどこにもないと言うことだった。それで喫茶店に入ってまずいコーヒーを飲むと言う不愉快な体験をした。

しかし渋谷嫌いの私でも1976年の6月から7月にかけて渋谷に暮らしていたことがある。今でもあると思うが渋谷東急ホテルと言うところに長く滞在していたのはその時にヨーロッパを巡回した現代日本写真家展示会の準備でオーストリア人のドクターと一緒にそこのホテル暮らしだった。なぜ渋谷何かに暮らしたのかと言うのは記憶にないけれど、日本側の写真展の準備をする奴が池尻大橋に住んでいたのでその関係で近くのホテルと言うことになったらしい。
、、ウィーン人のドクターは普通の神経を持っているインテリであるから最初の1週間で体調を悪くして早々にヨーロッパに戻っていった。そのドクターと忘れられないのは上野のアメ横のラーメン屋でモハメッドありと猪木の試合を見た事だ。帰る時ドクターは写真家と連絡するために銀行で公衆電話から電話するために300枚以上の10円玉を私に手渡した。これも重くて渋谷を持ち歩くのが大変だった。

出品する写真家の皆さんと打ち合わせをして夜遅く帰ってくる時渋谷駅からNHKの方向に歩いて帰るのにものすごい人の流れを掻き分けながらホテルに戻るのはストレスだった。渋谷のじゃんじゃんがまだあった頃だな。
0076名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/10/08(土) 12:36:29.94ID:r5RqXfBL0
30年ほど前に富士フイルムのパノラマカメラの写真集を作るときにロンドンからヨーロッパにかけてぐるぐる取材で歩いた時にケルンの中央駅だったと思うけれどもプラットホームに電気機関車が止まっていてその電気機関車にメルクリンと大きな文字が踊っていた。私は鉄道模型ファンではないけれどもメルクリンが世界的に有名な鉄道模型のブランドであると言う事は知っていたから、そこで現実を見て私の空間認識のスケールが狂って動き出したのが面白かった。

すなわち実物大のメルクリンの模型の電気機関車の真似をしている現実の電気機関車の後ろに乗っている乗客にしろそれを撮影している私にしろ全てが100分の1の模型に縮尺されて我々はその模型のレイアウトの中で構成されている紙粘土の人形に過ぎないと言うわけだ。
0077名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/10/09(日) 13:28:30.09ID:E2iF0MjO0
傍流写真同盟が有効だなと思うのは、アンデパンダンなことだ。紙媒体に登場する人間に対する暗黙の尊敬と言うのは実は方向違いな的を狙っていることであって、結局編集者の誰か適当な奴はいないかと言う仲間内意識が構成しているのも否定できない。

アルフレッドスティグリッツがギャラリー291を作って、ニューヨークカメラクラブがカメラノーツを作ったのは、時代背景があるからこれは仕方がないけれど今の時代のオンラインの発表媒体と言うのはそれなりの有効性があり効果があると思う。

この1年間私が傍流写真同名で注目しているのは、外でもずいぶん書きちらしたけれども写真家として、見えない的を狙っている連中が有効であると言うことなのだ。

三部さんの視神経の面白さもそこにある。見えない的を狙っている写真家の1人である。世の中の一般に尊敬されると言うテーマ主義から距離を置いているところも知的だと思う。

最近傍流写真同盟にアップされたこの作品を見て感じたのであるが、まさに見えない的を狙っているのである。視神経のトリックで距離感がわからなくなると言うのはそういう状況に落ち込むのを好んでいる私なのであるが、よく見るとはとぽっぽがワイヤーに乗っていると言うところで全体が巨大なスケールの風景であることがわかってそれが面白い。
0078名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/10/10(月) 06:49:23.47ID:VG7VOUlU0
今もっている二台のカメラは数年前にガラクタ屋さんでほとんど同時に買ったものでなかなか綺麗な品物である。フイルム交換をするたびにExaktaに対して感じる何か言いようのないデジャヴ感覚というのがあってそれが一体何であるのか長年わからなかったのだが、最近その原因に気がついたのである。

巻き上げスプールの1部にアルミニウムに色が付いているのである。普通こういうカメラの付属品で色をつけると言うふうになると注意を喚起するためにレッドなどが普通である。あるいは派手なオレンジ色である。アメリカの航空カメラがあって大きなレンズキャップが付いているのだがそれは蛍光色のオレンジに塗装されていてさらに大きな字で離陸する前にこのレンズキャップを外せ!

そのような注意を喚起するためのオレンジではなくて何か心を冷静にさせる要因のあるブルーとかグリーンとかいうのがここら辺は東ドイツがなかなか知的レベルが高い国であると感心せざるを得ない。Exaktaのこの写真はしばらく前に撮影したものなので実際にどんな色であるかなぁと思ってカメラを探し出してきて裏蓋を開けたらグリーンではなくブルーに変色していたのでさらにびっくりした。

何の事は無いもう1台のExakta何の事は無いもう1台の頭このカメラと無意識のうちにスプールが交換されていたのである。
0079名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/10/21(金) 14:08:50.26ID:ljONoVv40
しかし販売定価が750,000円を超えているそうで、それなら程度の良いエム6にしてももっと安く買えるから新品をお宅の人以外はあまり売れないと思う。

その30年近く前の話だけど、当時は銀座のレモン社と言うカメラ屋さんで並行輸入でエム6を売り出していた。その同じ頃に私がエム6よりもM5の方が良いと言うのでカメラジャーナルだと思うけどそういうことを書いたらレモン社が営業妨害だとクレームをつけてきたのも懐かしい。

こちらは真実を述べているだけなのだがお互いに考えの違いがあったのでその当時の会長に会いに行って和解したのである。その影響と言うわけでもないがレモン社は私の中古カメラ活動に結構協力してくれたのはありがたかった。例えばレモン社はかなりレベルの高いライカコレクションを持っていたのだがそれをカレンダーにするので協力していただいたこともあった。

ライカの本でずいぶん書き古したことだが本来のライカのクオリティーと言うのはエム型だったらM4までである。それと全く異なる新しいカメラシステムのM5は素晴らしいカメラだ。ライカの会社の間違いは競合他社と同じようにTTLで露出を制御することを第一に考えたことにある。でも当時のライカのスペシャリストは自分で露出をコントロールするのが普通だった。大写真家の大竹先生ですら狐火ちらちらでファインダーが醜くなると言うのでわざわざバッテリーを外して使っていらっしゃったほどである。

ライカエム6はその後エム6 TTLになってこれがまた問題の多いカメラでこれもカメラ雑誌日本カメラでテストレポートをしたのであるが、ファインダーのフレームがどう見てもずれているのである。そのことが気になるのでカメラメーカーでちゃんとした測定機械を持っているコシナレンダーの小林社長に調べていただいたらやはりフレームの表示が変であると言う回答だった。

そのことをカメラ雑誌に書いたらすぐ返答があって、当社の厳密な基準で完璧で何の問題もありませんと言うことだった。

私の印象としては復刻版のエム6より程度のよろしい中古だな。それもM4-2以前のやつね。
0080名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/10/22(土) 14:17:37.70ID:VaQxfw270
ポールストランドの撮影した35ミリ映画撮影機。2500ドルで買った。彼が撮影した撮影機のプリントはクリスティーズで750,000ドルで売れた

写真家が向かうテーマはたくさんあるけれども初期の映画撮影機をその美しさに痺れて撮影した写真家と言うのはポールストランドしかいない。写真家として食えない若かった頃の彼は新しい時代のテクノロジーである35ミリ映画撮影機を2500ドルで手に入れた。1920年の2500ドルと言うのは今だといくらだか知らないがとにかくビックマネーである。

そんな高いカメラをなぜかえたのかと思ったらおばさんの遺産なのである。1連のAkeley Cameraのボールストランドのシリーズは有名である。私もニューヨーク近代美術館で見た。彼がしびれて撮影したのは撮影機のインテリアとギアヘッドの複雑な機構である。そこには半導体以前の機械学の美学がある。

映画撮影機は私も25年位前にクリスティーズのオークションで手に入れた。しかしポールストランドの映画撮影機をテーマにしたオリジナルプリントは750,000ドルもするからまず無理である。映画撮影機本体は最近のeBayで見たら2万ドルの値段がついている。そのセラーを見たら25年来私がよく買っていたeBayのKinemamanなのでびっくりした。

やはり中古のカメラよりそれを撮影した大写真家の印画紙の方が世の中の評価は高いのだな。ライカも今までのデジカメの道を反省して、ライカエム6の復刻版を出したそうだしこれからは35ミリを使うカメラが面白くなりそう。

Akeleyカメラのにだいめを日本のネットオークションで手に入れたのだけれども、このカメラが良いのは手回しハンドクランクであることだ。つまり今のデジカメみたいに電池がなくなったらアウトと言う事は完全になくなっているところが凄い進化だったと思う。
0081名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/10/23(日) 11:58:06.43ID:hEmmhZcg0
誤解されると困るのは、りんごが大きいからどうだとか言う話ではない。デジタルカメラの素人さんはフルサイズのでっかいデジカメでないとダメだみたいなことを言ってる人がいるけどあれは大間違いである。ウィーン時代のピアノの調律士で今でもウィーンでお子さんがたくさんいらして住んでいる人がいるのだけれども彼の口癖が山椒は小粒でもピリリと辛いなどと言う昔のおっさんというか今では後期高齢者さんなのである。

山椒は小粒でもピリリと辛いような小さなりんごがウィーンで暮らしていた頃は好きだった。形は悪くて小さいのだが味が良いのである。そのリンゴとか後は緑のりんごでグラニースミスというのがあってこれがなかなか甘くないのでおいしかった。日本のりんごの価値判断はデジタルカメラと同じで大きくて甘いのがいいと言うことらしい。

東日本大震災が起きたとき私はたまたまマンハッタンにいたのである。日本はトイレットペーパーがないと言うので買って来いと家人から指示があったので引っ越し荷物並みの大きなトイレットペーパーの山を買って東京に戻ってきたらすでに4名不足は解消されていた。こういうのは恐ろしい。

JFKで飛行機に乗る直前に懐かしいグラニースミスがあったのでいっこだけ買ってきて佃煮戻って食べたらこれはうまかった。

内田百鬼園のエッセイで面白いりんごの話を思い出した。近くの果物屋でお店にりんごが長く並んでいる。店に入ってみるとそれぞれに細かく値段が分かれている。内田百鬼園はなかなか探究心が多いからそれぞれのクラスをいっこずつ売ってくれと言ったら店の親父が何をするのです?味比べをするのさと言ったら親父は怒って帰ってもらいましょう!

デジタルカメラマガジンの新製品カメラテストみたいなものだからこれはやっていいと思うんだけど戦前の果物屋の親父が虫の居所が悪かった。
0082名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/10/24(月) 14:08:49.22ID:qzkaR2VW0
それでコシナレンダーの25ミリであるが周辺まで均一のシャープネスであるのが素晴らしいと思った。もっとも100年近く前に設計されたTopogonレンズと比較するということが間違っているのかもしれない。

小林さんに初めて銀座のどっかのカメラメーカーの応接室でお目にかかったときに彼はカールツアイスのBiogon2.1cmのコレクターであると言っていたが、レンズメーカーのトップの人がそのように本物のレンズ好きであると言うのは素晴らしいことだと思う。
普通は部下からそういう話が上がってくるとトップの人はそんなの売れないと言うのでつぶしてしまうわけだがその構造が逆であるというのが素晴らしい。

スナップショットエルマー35ミリというのが大昔あってこれは距離計に連動しないのである。スナップショットの場合距離計に連動する必要などは全くないから、そのスナップショットの精神がコシナレンダー25ミリに受け継がれる。

私はレンズに対するいわゆる面食いであるから、なかなかレンズ美学に関してはうるさいのであるが1時好きだったのはレンズの第一面が凹レンズであることに美学を感じていたことがあった。海外の特にドイツの製品で最初の面が凹レンズと言うのは結構あるのだけれどもそういうレンズを集めていた。

このスナップショット25ミリコシナレンダーが凄いのは第1面のガラスが完全に平面であることなのである。こういうレンズは他に私が知る限りではないな。そこがこのレンズのエロティックなポイントなのである。

もう一つのポイントはレンズの描写なのだけれども、太陽に向かって撮影したときのゴーストイメージがピンポイントとして表現されるのである。そういうレンズも他には例がないからこれもまた素晴らしい。
0083名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/10/27(木) 00:28:33.45ID:QnEcEJkO0
それでこの事件以降はスライスしたものを買うようになった。要するに何が勘違いかというと素人さんがいきなり8 × 10インチの大型カメラで撮影をするようなものである。私が長年8 × 10インチのデアドルフを使って撮影していたので古い友人の野々宮が自分でも使えると思って手に入れて使いこなせないで手放してしまったようなものだ。

ハモンセラーノはこの数年は成城石井で買うようにしている。1年半熟成と言うのを買っているがなかなかうまい。ところが所物価高騰で最近いつも買っているやつの値段がジリジリ高くなってきた。

フードロスを解消するための団体だか会社だか知らないが幕開けというのがあって最近そこを利用しているのは生活防衛のためである。そこにハモンセラーノが登場して私などでも買える値段なので注文した。

要するに一般小売店ではもうすぐ賞味期限が切れているから安くなると言うことなのであるが、ハモンセラーノは貯蔵期間が長いほど価格が高くなるのである。だからフードロスになりそうなものの方が味わい良いと言う皮肉な現象がある。
0084名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/10/30(日) 13:07:18.50ID:Qlgbj3ki0
韓国で起きたハロウィンの人間の雪崩で150人以上がなくなったと言うのは誠に気の毒な次第である。私が以前からハロウィンはへんてこりんだと思っているのは、そこに宗教的なバックグラウンドが全然存在しないことにある。もともとはケルト族の新しい年を祝うしきたりでかなり長い歴史的な背景があるのだが、オーストリアウィーンに長く住んでいて11月1日と言う日は万聖節と言うので日本で言うお盆のお墓参りみたいなものである。

ニューヨークに取材で行っていた時たまたまハロウィンの時に当たってマンハッタンからイエローキャブをチャーターしてニュージャージーのフォートリーに行ったことがあった。きれいにジャックをランタンが飾り付けられていて子供たちが扮装して歩きまわっていた。

私が知る限り35年位前にはまだ日本ではハロウィンはなかった。それを日本に広めたのは碑文谷にあった素敵なインディー系の写真ミュージアムギャラリーMingだと思う。オーナーの城田さんはアメリカに長かったからハロウィンの習慣もちゃんとしていて私もそれに招待されていて日本のハロウィンのお祭りに初めて接したのである。

城田さんは地元の子供を連れて碑文谷の家を回ってお菓子をもらっていてその当時は私は背景を知らないからこれはなんだろう?と思っていた。

東京のハロウィンの馬鹿騒ぎは単なる政府に対するガス抜きみたいな風に使われている。数年前に渋谷で乗用車がひっくり返されてあれから政府も対策に対して注意するようになった。

私が滑稽だなと思うのはハロウィンの1連の祭りは単にそこいらの商業施設が客寄せをするためだけに使われていて宗教的なバックグラウンドがゼロな点である。

群衆が集まると言うのはコントロールが効かないから危険だ。1983年の新年の時にニューヨークのタイムズスクエアにいたけれどいつ人間の雪崩が起きても不思議ではないと言う危機感を感じた。

3年前にハノイの大晦日から新年にかけてハノイに行ったことがあるが夜おそくなってホテルの部屋にいたら周囲の人々のざわめきがすごくていきなり停電になった。それでハロウィンではなくてハノイのカウントが強まったわけではないのでその時は外に出なかったのである。
0085名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/11/06(日) 00:35:44.97ID:+WXa8StP0
ここら辺は隣はドイツであり湖の反対側スイスである。大きな湖の上に1901年にツェッペリン飛行船が世界で初めて浮かんだのである。その飛行船発祥の地のフリードリヒサーフィンに取材に行ったこともあったが、当時のツェッペリン飛行船の客室部分のモックアップが残っていてそれに入って座ってみたらなかなか優雅な感覚なので当時の飛行船の旅と言うのはずいぶん高級なものであったなと理解した。

しかしこの界隈に関する私の記憶と言うのはどちらかと言えばネガティブであって1974年であったか家人とヨーロッパを1周した旅行の最後のセクションで湖のドイツ側の小さな街から国境越えようと言う時にちょうど重松Fusakoが有名になった時で国境警察に任意同行されて調べられたりしたことがある。考えてみると家人の風貌がヨーロッパ人から見ると東洋人の女性で髪の毛が長いと言うだけの話なのだ。

なんで私がその時焦ったかと言うと当時流行していたファーストクラスをヨーロッパで乗り放題のユーレイルパスの最終日でその列車を逃すとウィーンに帰り着くことができなくなるからであった。
0086名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/11/07(月) 06:24:55.92ID:crw0nPx10
2003年 5月 17日 (土)
デジカメを持参しなかったので画像なし。


午前1時、12チャンネルの「男達の風景」を見る。東儀さんとの30分番組である。
朝。
天候は予想に反して回復せず。午後1時、散歩カメラにて工藤と待ち合わせで、有楽町のサッカーカフェに行ったら、11日を限りに閉店とのこと。
錦糸町に行く。
駅ビルのヨドバシにて、私のミニガイドを同梱した、フジのモノクロフィルム「アクロス」のパッケージ販売中。
記念に買う。970円。
同じ3本のフィルムで私のガイドのないのは70円安い。
私の存在は70円分というわけだ。
押上に行きそこから撮影を開始する。
暗い日にて、ライカM2(LV模様付き)にズミクロン35で、コニカパン400を4本。
京島を1丁目から3丁目まで歩く。
やはりモノクロの撮影は「身が引き締まる」思いあり。
これはデジカメが一般化した、その反動ということであろうか。
夕刻、本郷のちどり。
0087名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/11/12(土) 14:37:55.36ID:ahb6OPnS0
この偉大なアマチュア写真家を、尊敬すべきは、彼がアマチュアであって、写真を楽しんでいると言うことが中心にすえられているからだ。その意味で職業写真家と言うのは、視神経の幇間であるから、卑しい職業と言うことを忘れてはいけない。

初対面の写真家は私が持っていったポラロイドに興味を示して一緒にたくさん写真を撮った。それと彼の室内の素敵な小物を撮影して、これも素晴らしかった。初対面の写真家は、自分の写真集の幼年時代の写真に今取ったばかりの90歳になろうとする私が撮影したポラロイドSX 70のプリントの2つを手をV字形にして指し示すのである。それをまた私はポラロイドで撮影した。

その時のポラロイドの作品を組み合わせて、大きなフレームに入れたものを、20年以上前にギャラリーモールの津田さんが企画した写真展に展示したのである。その場所は駿河台下の白壁の倉をギャラリーにしたところで、もともとは本屋さんが活版用の原版を保管していたそうである。

モールの津田さんは今は函館で写真活動をしている。この間東京にいらしたそうだが、その関係でFacebookの友達になった。津田さんからメールが来て、その時の私が制作したフレームを返却しますと言うのでありがたかった。その私が撮影したポラロイドの写真を組み合わせたフレームに関してはすっかり忘れていたからである。

ギャラリーモールは、その前のギャラリーフロッグの時代から東京で注目されるインディーギャラリーであって、ロバートフランクもやってきたことがある。
0088名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/11/15(火) 14:23:26.68ID:3MnWnWpg0
ボジョレヌーボーが嫌い。

世の中で騒いでいると言う事とまずいと言う事と家の前のスーパーでも売っていると言うことである。エアバス380が東京パリを結んでいた頃にファーストクラスの1番後ろに座っていて、ちょうどその日が11月15日であったので、アテンダントさんがやたらにボジョレーヌーボーを勧めてくれた。これでボジョレーヌーボーが本格的に嫌いになった。

これはプラハのショットであるが、あそこのモラヴィアの赤ワインと言うのは収穫量は少ないからほとんど国内で消費されてしまうがなかなかうまい。

ワインと言うのは地元で飲むのが1番いいから。最近では国産のワインもあるみたいだけども試しに飲んでみたら飲めない事はないが、値段がやたらに高いのでやめた。
20年ほど前にハッセルブラッド生誕100年と言う取材で、ヨーテボリに行った時に、正式のディナーであるから、その時はフランスのワインだったが、後で街に繰り出した時チリ産のワインで、これが初めての出会いだった。

それで最近はチリ産のワインばっかり。デギスタシオンをするわけではないので、ワインは赤が1種類あれば良い。ブルゴーニュでデギスタシオンをやったときこちらは素人である。私たまたまその日が誕生日だったので、いろいろ買い集めて空輸してもらったのはいいが、成田の税関が不親切で、もうこれからは個人でワインを輸入するのはやめようと思った。
0089名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/11/25(金) 19:57:51.99ID:tFQnvQxA0
暮らしていたドナウ運河沿いのアパートから最寄りの駅に行く間に馬肉屋さんがあったので、そこで買った馬肉を8年近く食べ続けた。無論を刺身で食べたのだが、ウィーン時代に食べたのは何頭分になるのか想像もつかない。

Met Wurstというのは、豚肉をミンチにして熟成された生ソーセージである。今のwinだと生のマグロの刺身も手に入るが、50年前はそういうことがなかったので、毎年11月1日の万聖節の日にウィーンの北の大きなチャーチのあるKroster Neuburgでないと手に入らないので、11月1日にそこに買い物に行くのが常だった。

その時のご馳走と言うのは、年に一塊、白米にそのソーセージをのせて食べるのが大変なご馳走に思えた。

家人が新聞広告で、その生ソーセージを発見して、私がオンラインで注文したのであるが、驚いたことに佐渡島でそう言う珍しいものを作っているのである。それで炊きたての滋賀県産の新米にこのMet Wurstをのせて食べてみたら、味覚の関係でいきなり生活時間が50年前に戻ったのは嬉しかった。
0090名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/11/28(月) 07:39:29.67ID:i0tY7p/P0
腰痛の関係で私は長いこと。右足の歩行が不自由であった。歩行が不自由と言うのは佃島から歩き出して志村坂上まで4時間ぐらい歩くと言う意味の歩行の不自由さである。

その不自由な歩行で世界中歩き回って世界中の路上で滑って転んで倒れたりすると通行人が走ってきて助け起こしてくれるのである。日本で転倒しても誰も助けてくれないからそこら辺が文化的な違いなのであろう。

3年前の10月の終わりに、天才荒木が住んでいた三輪の街で右足を捻挫した。それ以降歩行して転倒すると言う事はなくなったが、長距離が歩けなくなった。

1 0年前に偽物ライカ愛好会の撮影会で佃島の北の端から勝どき橋を経由して、月島の1番南つまり私が写っているこのポイントまで歩行してそのまま歩いて佃島の1番北まで戻ってくることができた。

今はそんなことはできない。

晴海水産埠頭行きのバスで終点まで来てムーンアイランドの南の端っこをちょっと歩いてまたバスに乗って佃島に戻った。撮影のための気力と言うのは全く幻滅していないのであるが、長いこと歩くことができなくて、ニューヨークで言うところのツーブロックごとに立ち止まったりそこら辺の標識につかまったりあるいは建物の角に20秒ぐらい腰掛けたりする。

30歳の頃にマンハッタンでタイムズスクエアから南にバッテリーパークまで行って、そこからまたタイムスクエアに戻ってくると言うのが普通の歩行であった。その時に道の行き帰りにオールドジェントルマンがポリスのバーに寄り掛かったり建物の角に座ったりして、何をしているのかなと考えたのだが、世代交代で、私がその後期高齢者になったわけだ。

11月27日は暖かい素晴らしい午後であった。

奥に見えるレインボーブリッジであるが、30年以上前これができたときに広告の写真でニッコール1200ミリと言うのを8 × 10インチのデアドルフカメラに付けて撮影したことを思い出した。その時まだレインボーブリッジは3分の1しかできていなかったのである。
0091名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/11/29(火) 13:29:01.35ID:cUOiLMVx0
モノマガジンの今井社長がすぐその話に乗ってくれて、画面の右に写っている本ができた。佃島のタワーマンションの最上階の部屋だけで撮影した、1000ページの本だ。これには下敷きがあって、ヨーロッパの有名作家が、自分の部屋だけをテーマにして膨大な旅行記を書いたのである。

それの真似。

こういう風変わりな本がちゃんと重版になったのも凄いと思う。

日本郵船氷川丸が改装された時に、日本郵船の広告の仕事をやったのであるが、ポスターや新聞広告だけではつまらないので1000ページの写真集を出しましょうと提案したら出ることになった。

氷川丸だけ撮影していてもつまらないので、当時最先端のライラと言う巨大なコンテナ船があって、これがサザンプトンからスエズ運河を経て品川埠頭まで40日間位かかる。当初はそれに乗ろうと思っていたが、それの時間がなかなか取れないので、最終的には名古屋港から品川埠頭まで乗ったのである。それでも2泊3日の船旅。

1000ページ本と言うのはなかなか使い勝手が良くて昼寝をする時などにちょうど良い枕になるのである。

しかし手ぬぐいで巻いておいた方が気持ち良い。

田中長徳佃日記と言うのは、ハードカバーで箱に入った500ページ以上の豪華本である。15,000円もするのに500部の限定でわりと早く売り切れた。こちらのほうはオンライン出版がされているので、佃日記を枕にして、iPadでオンラインで読む方が楽である。
0092名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/12/12(月) 18:14:06.63ID:4ExPA6mP0
私がイスタンブールの人々を信用するようになったのは、グランドバザール近くの汚い飯屋で食事をしてそこを出てしばらく経ってから食い物屋のカウンターの下にブラックライカM2にライカ人MPをつけたのを忘れていたのを思い出したのである。

慌てて戻ろうとしたら、くいもの屋で働いている少年が私のライカを持って息せき切って走ってきた。ライカを忘れるのは私の馬鹿さ加減であるがその少年の行動ですべてのイスタンブールの人々がポジティブに思えるようになった。

私と古谷と山本の3人で街をウロウロしていたら地元の青年に声をかけられた。その人の名前も覚えているベンチャーライドンと言うのである。イスタンブールの夜は案内してやると言うのでまずショップでジョニーウォーカーのボトルを買わされた。それを持って高級ホテルに入ってコカコーラを注文してウェイターの目につかないように持ち込んだウイスキーを入れてコーラ割りにしていい気分になった。

それから高い道の下にへばりつくような場所にあるじょうろ家を見学に行った。男たちの視線が行く先を埋まっていてすごい迫力だった。案内してくれたトルコの青年は明日は自分は軍隊に入隊するので少しお金を貸してくれないかと言うことを言い出したのを切りにしてわれわれはバイバイした。

そのちょっと前に案内してくれた青年は明日も会いたいから午前10時に牛久だらの船着場で待っていると言ったのである。私は食中毒になって空が黄色く見えるようになって起き上がれなかったからいかなかったが、古谷は真面目な性格だからちゃんと時間通り牛久寺に行ったそうである。くだんのトルコの青年は来ていなかったと言う話をずいぶん後になって古谷から聞いた。

それから30年ぐらい経過して、本の執筆で缶詰になる必要があったので予約したホテルがブルーモスクの真向かいにあった3階建ての典型的なトルコ風クラシック住宅でホテルの名前をアルダーと言うのである。そこを拠点に雑文を書いて昼過ぎにグランドバザールあたりをウロウロした。それで70年代のはじめてのイスタンブールの記憶が次々に呼び戻された。
0093名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/12/14(水) 23:18:06.40ID:1OhaagkO0
お寿司屋さんで1番よく行ったのは40年前、マンハッタンのEmpire State Buildingのそばの5番街にある元禄寿司である。回転寿司であって、文化的にすごいなと思ったのは、地元の人が紅茶にたっぷり、砂糖を入れてそれで寿司をつまんでいたことだった。これが本物の文化なんだなと感心した。

六本木ヒルズの本を作るときに、ヒルズの中にできたすきやばし次郎に取材に行ったことがある。1人で行くと恐ろしいから野々宮と一緒に2人で行って板前さんの工作を聴きながら寿司を10巻食べた。

それで30,000円である。お寿司1つが1000円になるわけだが、そう思うと高いけれど、すきやばし次郎の板前さんから寿司のうんちくを聴きながら食べる。寿司ワークショップだと思えば安いと思った。

取材でレニングラードの寿司屋に行ったことがある。その名前を将軍と言うのである。街の中心部の1番繁華街にあって、時々プーチンが仲間と一緒に食べに来るので、その時はその商店街の全部が立ち入り禁止になるそうだ。岸田のポーチは反動的ファシストであるがそこまではしないからまだ大丈夫か。

寿司のチケットは単価500円で10枚送られてきた。中途半端な価格設定だと思う。私などは寿司と言うのはスーパーで買ってくるものだと思っている。

チケットの有効期限が3年後の大晦日までなので、忘れないようにしないといけない。
0094名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/12/15(木) 00:06:47.58ID:9vxXpD4q0
大学何年かの時であるがその頃どういう具合か月に一塊京都の同級生の家に遊びに行くと言う習慣になっていて2月ごろの寒い京都の冬の暗闇の中をレオ託すに28ミリのキャノンレンズをつけて歩いていた私であった。どこかの神社の中から大林が聞こえてきてその歌の内容がワンフレーズだけ聞こえたのである。それは
大学何年かの時であるがその頃どういう具合か月に一塊京都の同級生の家に遊びに行くと言う習慣になっていて2月ごろの寒い京都の冬の暗闇の中をレオタックスに28ミリのキャノンレンズをつけて歩いていた私であった。どこかの神社の中からお囃子が聞こえてきてその歌の内容がワンフレーズだけ聞こえたのである。それは

♩♩♩^_^溶けて流れてほーいほい

ただこれだけであるのだが、レオ託すを使って言った私の心に染みる短いフレーズの旋律であった。

小谷メンディングの古谷さんとはその後お付き合いがあって戦前1番最初に作られたレオ託すスペシャルの非常に貴重な取扱説明書のゼロックスコピーをいただいたりしたのである。そのカメラの様子が今のライカと異なっているのは他店との関係でレンジファインダーのウインドウとビューファインダーのウインドウの位置関係をライカのようにしてしまうと特許侵害になるのだそうである。それで2つのファインダーウインドウの位置関係が逆転しているのだが、そこに何か新しいレンジファインダーの存在感を感じていいなと思った。もっともつい最近ヤフオクでそのレオ託すスペシャルが登場していたけれどコレクターズアイテムだから値段は500,000円位する。だから実際に使うレオタックスは安いやつで良い。

レオタックスが1950年代の終わりに倒産したときにちょうど1番最後のモデルレオタックスモデルジーなパーツのままで存在したのでそれを債権者の誰かが組み立てて販売したのである。それがレアモデルのレオ託す事であるが、私もしばらく使っていたのだけど、ちょっとクセのあるカメラで長いことが使えなかった。
0095名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/12/15(木) 08:31:22.11ID:LMJuOjl00
老いて益々極左
0096名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/12/15(木) 14:36:47.07ID:ANfQ2qHj0
全狂頭世代だからね
0097名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/12/15(木) 16:48:33.19ID:B7Smm2WO0
実は私が最初に手にしたレンジファインダタイプのカメラはライカカメラではなくてその前はレオ託すであった。理由は単純であって値段が安かったからだ。今にして思うとレオ託すの作りはなかなか良いのであるが当時はライカを知らないから比較のしようもなかった。

大学何年かの時であるがその頃どういう具合か月に一塊京都の同級生の家に遊びに行くと言う習慣になっていて2月ごろの寒い京都の冬の暗闇の中をレオ託すに28ミリのキャノンレンズをつけて歩いていた私であった。どこかの神社の中から大林が聞こえてきてその歌の内容がワンフレーズだけ聞こえたのである。それは
大学何年かの時であるがその頃どういう具合か月に一塊京都の同級生の家に遊びに行くと言う習慣になっていて2月ごろの寒い京都の冬の暗闇の中をレオタックスに28ミリのキャノンレンズをつけて歩いていた私であった。どこかの神社の中からお囃子が聞こえてきてその歌の内容がワンフレーズだけ聞こえたのである。それは

♩♩♩^_^溶けて流れてほーいほい

ただこれだけであるのだが、レオ託すを使って言った私の心に染みる短いフレーズの旋律であった。

小谷メンディングの古谷さんとはその後お付き合いがあって戦前1番最初に作られたレオ託すスペシャルの非常に貴重な取扱説明書のゼロックスコピーをいただいたりしたのである。そのカメラの様子が今のライカと異なっているのは他店との関係でレンジファインダーのウインドウとビューファインダーのウインドウの位置関係をライカのようにしてしまうと特許侵害になるのだそうである。それで2つのファインダーウインドウの位置関係が逆転しているのだが、そこに何か新しいレンジファインダーの存在感を感じていいなと思った。もっともつい最近ヤフオクでそのレオ託すスペシャルが登場していたけれどコレクターズアイテムだから値段は500,000円位する。だから実際に使うレオタックスは安いやつで良い。

レオタックスが1950年代の終わりに倒産したときにちょうど1番最後のモデルレオタックスモデルジーなパーツのままで存在したのでそれを債権者の誰かが組み立てて販売したのである。それがレアモデルのレオ託す事であるが、私もしばらく使っていたのだけど、ちょっとクセのあるカメラで長いことが使えなかった。
0098名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/12/19(月) 07:34:08.48ID:gsTycbIR0
ところで私は腕組み系のラーメンが大嫌いでかつてからいつも東京ラーメンドキュメンタリーと言う国民運動をやっていてこれは最近の街中華ブームが起こる何年も前からそれをやっているのである。すきやばし次郎には行ったことがあるがラーメン二郎には行ったことがないというのが私の細やかなプライドである。

周りにいる飲み屋とか本部長とかそういういろんな連中がラーメン二郎で仁義を切るのがうまくなったとか馬鹿を言っているのでこれはいちど体験留学しようと思ってある時東京の周辺部にあるラーメン二郎に入ろうと思ったらその日はたまたまラーメン屋のお休みの日であった。それで考え方を改めて今では東京ラーメン大1本槍なのである。

1年ほど前に佐野厄除け大師方面に行った時に下調べをしたら駅前にラーメン博物館があると言うことだったが、そのつもりで行ったら私の道不案内の声であろうかくだんのラーメン博物館は発見できなかったのでそのままになっている。それで東京でラーメン屋に行ったと言うことを考えてみるとその経験は全くなくて、最後に東京の街中華のラーメン屋に入ったのが5年以上前前になるか新宿区赤城町と言う巨大なクレーターみたいな窪地の中にあるラーメン屋でいっぱい食べたのが最後になっている。

もともと佃島と言うのは昔はちゃんとした食品に家があったのだがそれが全部もんじゃ焼きになってしまって私は父親の遺言でもんじゃには行かないことにしているからそうなると地元のガストロノミーにも行く機会は無い。それでラーメンは最近箱で保管しているのがエースコックのインスタントであるがそれがベトナム製なのである。これがなかなかによろしい。だからこの写真でご覧に入れるのはそのベトナムのエースコックなのである。
0099名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/12/19(月) 09:20:47.22ID:xlJYhP6N0
恐ろしいほど内容が無い
0100名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/12/20(火) 07:38:42.88ID:E2+FmIFP0
それで四川料理の店に行って、とりあえず足を冷やさなければならないと言うのでリコーの偉い人は中国語はネイティブ並みなのでそのようにオーダーしたらシャンペングラスを冷やす器を持ってきたのだがそれでは足は入れにくいのだ。改めてバケツをリクエストしてその人は四川料理のは辛いのを食べながら、足はバケツの水で冷やしていた。

その翌日にはリコーの重要なプレゼンテーションがあって私なども心配していたが翌日普通に歩けるようになってよかった。バケツの水で冷やしたのと辛い四川料理のとんがらしと両方が効果を生んだのであろう。

1970年代の半ばの話だが、私の友人がウィーンで1番古いと言われている北京飯店と言う名前の中華料理店でウェイターをやっていた。それでその頃日本の商社のジェントルマンが食べに来て彼がオーダーするには

おれ、、、しかわ、、あの、、辛いやつ

それに対して私の友人はああ、しかわ、、分りましたはい。

この対応はサービス業として優秀だと思う。何も日本の商社のお客さんに、あれは四川料理と言うのですうんぬんなどと説明する必要もない。

それ以来50年近く家では四川料理をしかわ料理と言うようになった。

そのイメージがまた大きく崩れたのは80年代の終わりに新華社主催の報道写真コンテストの審査委員長で行った時である。街の看板を見ていて

川菜

とあるので何かあちらの菜の花のおひたしみたいなものかなと思っていたら、これがあちらでの四川料理の略語なんだね。川と言う事がつくと何かあっさりしたものと言う感じが日本語感覚ではある。

それで豆板醤をヨドバシカメラに注文したら翌日到着した。いつも現像液や定着液を注文しているので何か豆板醤が来るのは未来的である。

ネットを見ていたら驚いたことに豆板醤を家で作る人がいるらしい。要するにソラマメを茹でて塩を加えて工事を加えて暗いところに置いて半年間と言うのである。私は自分の写真を50年間売っているのは気が長いとは思わないけれども、ホームメイドの当番山は家が長すぎると言う感じがする。
0101名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/12/25(日) 05:29:20.62ID:Y5gYBZtt0
赤瀬川さんのミラハウスに何度かお伺いしたことがある。南伸坊さんとか親しい友人が手伝いに来てリラハウスを完成させたそうだ。ニラハウスは玉川学園駅から南20分ぐらい歩いた坂上にある。

ニラハウスの裏は谷になっていてその谷が深く高度差がすごく感じられるから深い山の中にいるように思うのがなかなかの構造だと感心した。かなり広いリビングルームのかなり高いところを渡り廊下がしつらえられていて、その渡り廊下は突き当たりが跳ね橋のようになっていて、普段はその跳ね橋のような廊下の1部は引き上げられているがその先に茶室があるのでそこに行くときには跳ね橋をおろすのである。

私は高所恐怖症ではないけれども高さ3メーター位の渡り廊下からリビングの床を見ると足の先がゾクゾクしたのは、その渡り廊下の先の断ち切られた跳ね橋にあることがわかった。あのコード感覚を今でも思い出すと膝のあたりがゾクゾクするのである。

15年位前にトルコ航空のビジネスクラスの回数券と言うのを持っていたのでヨーロッパに行く時行き帰りが必ずイスタンブールであった。言い方を変えると目的地がイスタンブールでその先のヨーロッパに遊びに行くような感じでもあった。

イスタンブールのエジプトマーケットでカラスミを買ったりした。それを赤瀬川さんに差し上げたらお礼の葉書をいただいたので、これは海老で鯛を釣ったような感じである。

私はそういう手紙とか葉書はすぐ捨ててしまうのであるが、この貴重な古文書は家人が保管してくれたのである。それで今回改めて葉書を見て大変なことに気がついた。印刷物上では赤瀬川原平となっているが、この葉書で見ると赤瀬川源平と書いてある。何十年も付き合いがあったのにいつもワープロの自動変換だと赤瀬川源平と出るのを直していたのである。
0102名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/12/25(日) 19:43:07.52ID:A1m/QbT00
老人力
0103名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/12/26(月) 07:55:15.58ID:JlUCHEmF0
東京の南部に行くと言う事はほとんどないので大田区の多摩川沿いに行く時はいつもあの悪の枢軸のタワーを見に行こうと決心してから出かけるのである。私鉄の駅歩き出して多摩川の橋の手前まで行ってそこからしばらく多摩川沿いに西に歩くと桂川セーラである。

下の駅に戻るのもつまらないのでそのまま大回りをして武蔵新田と言う駅まで歩くと駅前の商店街に出くわすのであるが、その出会いのやり方が普通だと武蔵新田の駅前から歩いていけばだんだん寂しい商店街になって商店街がなくなるというのが普通の見え方であるが、桂川せいらから行くと商店の果て行くから駅に行くと言うので1種の賑やかさの逆転現象が起きるのでそれを自分で体験して面白かった。

その商店街の南のはずれに道の左側に小さなパン屋さんがあってそこであれこれ買って帰ると言うのも楽しみの1つであった。桂川セーラの魂の存在感で思い出すのは、アレキサンダーRodochencoが設計した鉄骨タワーのことだ。これは設計図だけ作られていて実際には立体物にならなかったのであるが、しばらく前ウィーンの工芸ミュージアムでこのアーティストの大回顧展をやっていて実物が作られたのである。ロシア構成主義を醸造したような鉄のタワーであった。

桂川せいらを見ていつも思い出していた。その後このタワーが有名になって下町ロケットとか言うタイトルのテレビドラマの会社に高校が設定されたそうである。私はテレビを見ないからそれは見ていない。

なんでも下町ロケットでは町工場が宇宙ロケットを作ったと言う話らしい。それからしばらくして桂川セーラの鉄のタワーが取り壊しになったと言う話を聞いた。それ以来私は大田区の多摩川沿いに行くことがなくなった。。
0104名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/12/29(木) 14:26:15.48ID:yOfzkGOD0
パリの北駅の安ホテルを何十年も使っていて、そのすぐ近くのマーケットでマグロの切り身を買ってくるのだが、それで大宴会を何十年もやっていた。ところがそこのホテルはガラス窓はダブルになっていないからガラスを開ければすぐ外はパリの寒気である。そういう場合は落とさないように注意しながらプラスチックバックで窓の外にぶら下げておくと冬などはこれが冷蔵庫がわりになる。

1973年のこのウィーンの貴重な記録写真で見ると、右側に2リッターのワインの瓶が置かれている。これはそこら辺のレストランなどでも普通に使われている。我々酒飲みには懐かしい一升瓶なのであるが、残念なことにこの語録年、スーパーマーケットでこの便を見ることがなくなった。

つまり、懐かしい70年代の私のウィーンでの暮らしの記憶が消滅してしまったのだ。
0105名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/01/02(月) 07:48:45.45ID:FtSxwKNd0
日中戦争の頃に中国の人に日本軍が馬鹿にされたのは、大根を塩漬けにして、それをおかずに飯を食っていると言うことであった。中国人にしてみると、大根は大根おろしにして食べるわけであるが、大根おろしを食べるのではなく、それを加工して大根餅を作るのだ。

大根おろしを作ると言う事は、大根餅を作るプロセスの途中の存在なのである。京都の西陣の日大写真学科の同級生がいて、彼と数年ぶりに会ったときに近くの中華料理店に彼を誘った。充分食べて飲んで気持ちが良くなったときにメニューの端っこのほうに大根餅があったのでそれを注文した。

京都の友人は、大根餅を食べたのは初めてのようでえらく感激したのである。それで最後の1つを包んでもらって、それを家に持ち帰って友人の奥さんに自慢したのである。

大根おろしとして食べる時は私は辛い方が好きだ。でも、人生の皮肉と同じで辛い大根おろしは、大抵辛い大根おろしが嫌いな人に当たってしまって、私のようにおろし大根の辛いのが好きな人間はなかなかくじを引くことができない。

それで大根を買うときは、2分の1に切って、スーパーに並んでいるしっぽの方を買うことにしているが、今日擦った大根おろしはなかなか辛くて、人生の当たりくじを引いた気分で満足であった。
0106名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/01/07(土) 06:54:46.21ID:3uyAi3at0
シャルル・ドゴールに何十年も空港に住んでいて亡くなったと言う人が最近ニュースになったけれど、私も空港を住処にしていたのである。東京モスクワ回廊ルートは行きは乗り継ぎが比較的多いのだが、帰りは15時間位モスクワでトランジットをする必要がある。そういう時に空港で集中して仕事をするのが好きだ。

はじめてのカイロで2週間ほど公共交通機関を使わずに全部歩いていたと言うのは私位のものだろう。ナイル川の右岸の商人宿に泊まって、そこからもっぱら東側に歩いて路地ばかりを選んでいた。

カメラはカールツアイスの2眼レフである。このノートと言うやつは、館横のアスペクトレシオがへんてこりんになっているのでこうなってしまったが、実際にはスクエアな画面である。

路地の奥に小さな家具屋さんがあって家具を作っていてできた。机が路地の通路にうずたかく積まれていて、一体どこに保管するのか不思議に思って、次の角を曲がったらそこにバックスバニーがいたのである。

こういう出会いの時の撮影と言うのは1枚切りと言うことに決まっていて、別に一期一会と言うわけではないけれども、やはり1枚だけ取るのが正しい時間軸上の遭遇と言うことになるのだ。

バックスバニーを撮影した後に路地を何回も回って信じられないような細い路地の突き当たりに小さなカフェがあって、そこでお茶を飲んだ。
0107名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/01/07(土) 08:27:37.87ID:RcSYr3Pn0
昭和の時代は海外に長く滞在したというだけで異常に有り難く
思われていたんだろうなあ、という感想しか湧かない平成生まれ。
0108名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/01/09(月) 07:24:21.47ID:BeY8xZJI0
マンハッタンというのが何が面白いかというと、そこを通行している人々は、別に、他人の目などは全く気にしていないと言うことだ。

それでも5番街でこの男の人がアーロンチェアを頭の上に乗せているのにはびっくりした。東日本大震災の起きた初日の東部ローカル時間の朝のことである。結構日本のことを気にしながらEmpire State Buildingだから32丁目から57丁目まで5番街を上ってそこからもう一回ダウンタウンに降りて行く38丁目あたりでこの人を見たのである。

ライカM3にカールツアイスの35ミリ広角レンズが付いていて、私はノーファインダーでこの瞬間をキャプチャーした。

私が座り続けているアーロンチェアはすでに30年以上経過したものであって、なかなか頑丈であるが、唯一チェアーの上下をコントロールする。プラスチック製のレバーが根元からポッキリと折れたのである。それのパーツは売っているのであるが、それを注文するのは面倒なので、チェアーの高さはそのままにしてそのまま座り続けているのであるが、それで不愉快と言う感じでは無い。

あっちこっちのエッセイでこの30年以上書きちらしたことであるが、アーロンチェアには偉大ななどが存在する。それは両方の肘掛けがセットしてから30時間経過すると座っている。人間は知らないうちに肘掛けの高さのアジャストメントが1番低いところにまで移動してしまうことだ。
0109名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/01/15(日) 02:09:42.89ID:lhujSuug0
飛行時間45分で東京に戻り、今、一昨日の法隆寺のエンタシス様式の柱のふくらみを見て考えているわけである。あたしは歴史も美術史も知らないので、それぞれの観光地で名 所にも行かないし、美術館も見ない。この前、回路で最終日に考古学博物館に行かないと 「馬鹿にされる」のではという見栄で入ったが、館内は暑いし、HISの徹夜で日本から運 ばれて来た団体さんが眠そうにしているのを見て、こっちも眠くなった。

東大寺は四半世紀前に行った時には、すでにお寺は閉まっていて、入れなかった。だから その前にここに来たのは、半世紀近くの昔になるわけで、やはりバスガイドさんから「エ ンタシス様式の柱」の話しは聞いていたのであろうが、記憶にないのは当然だ。それが今 回は脇に修学旅行生が居たので、定番の「エンタシス」が耳に入って、見ればこれが木造 の列柱なので実に驚いた。

この前の回路のミュージアムでも感じたのだが、古代王朝時代の木製の調度品が残ってい たりするのは実に驚く。石碑ですら残らないのに、風化の早い木製の品物が時間の流れに 棹さして今に存在するのは凄い。

アテネに行った時に、面白くかんじたのはそういうアテネ時代の「本物の列柱」がパルテ ノン神殿の周囲にうち捨てられているのを見て、それが本物には見えずにテーマパークの レプリカに見えたことだ。この前の回路のこの風景も同様で、なにかシーサーズパレスの 最新のジオラマに見えてしまう。
0110名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/01/15(日) 11:27:48.54ID:Mb4qYKdv0
今からでも美術史勉強すると人生が豊かになりますよ
0111名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/01/16(月) 09:17:56.60ID:wOG31zMI0
もうかなり前になるが、小学館の大人の少年誌「ラピタ」で食い物の連載をやっていた。 タイトルはすでに忘れた。その内容は下町の露店からミシュランの星付きレストランまで 多岐にわたる。無論、編集部がそんな取材費を出す心配はないから、これは以前、あたし が仏蘭西政府観光局に呼ばれて仕事した時などの「余り」なのである。

最近はなかなか出版諸方面の取材費は厳しい状況で「大手」でもなかなか取材費は潤沢で はない。ただ、良くライターサイドでは「金を使わないと良い取材は出来ない」などと言 うけどあれは半分だけ真実で半分は嘘である。

金を使わないでも良い取材はできた。 あたしは根性なしだから、こういう店に一人で入る勇気はない。それで友人を拉致して入 った。場所は茨城のどっっかだった。 メニューが実に立派であって、ルーブル美術館の宗教画みたいに、三枚の折りたたみ式に なっているので感激した。 このチエーン店の第一号店が北日本の地方都市にあるそうで、そこにも行ってみたいと思 った。まずはメッカ巡礼のようなものであろう。 「!」が空中に浮かんでいるのは、まさにアートである。 ドクメンタあたりに出しても少しもおかしくはない。

例によって同行者が居ないので根性なしだから、ここには入らなかった。そのまま、閉園 している天王寺動物園の脇を通って、北から南に通天閣を目指した。ところが25年前と は大違いにて、なにか綺麗な気の抜けた観光地になってしまった。最近のマンハッタンの ばわりーと同じ綺麗さである。その先のジャンジャン横町も安部公房が書いた時代の活気 はすでになし。 がっかりして、そこらのお店にも入らずに、動物園の南を歩いてホテルに戻った。 ただ昔と変わらないのは「ソースの二度づけ禁止」の張り紙のみ。時代はかわりまんな。
0113名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/01/27(金) 20:10:33.54ID:992qFrjj0
10年位前にJTBの取材でサンクトペテルブルグとモスクワを見て回った。文化的な取材であるからエカテリンブルク宮殿とか黄金のリングの修道院などを見て歩くのである。9月末の取材だったから、ロシアは完全に秋であった。ところが雑誌に掲載されるのは、翌年の5月号と言うわけで風景に紅葉が写っているのは良くない。と言う。どうでもいいようなことで苦労した。

撮影の話ではなく、ウォッカの話である。コーディネーターさんに聞いたら、ロシアンスタンダードと言うウォッカがオススメだと言うので、旅行中はもっぱらそれを買って飲んでいた。9月終わりといえどもサンクトペテルブルグの寒さが凄いから深夜午前2時にNeva川の撮影等があって、これはウォッカなしではやっていられない。

調べたら、ロシアンスタンダードと言うのは結構人気があるが、歴史は非常に浅いのである。1996年に登場した新しい世代のウォッカなのだ。私は馬鹿のひとつ覚えで飲むのはいつもストレチなやに決めていたからなんで酒呑の私がルシアンスタンダードを知らないのかと思ったら、私が東ヨーロッパをうろうろしていた時は、ロシアンスタンダードはスタンダードとしてまだ存在していなかったのである。

ウクライナ、ロシア戦争の関係かどうかは知らないけれども、私が空港で求めているような1リッター入りのウォッカの瓶が非常に日本では安いのである。それで久しぶりに1本求めてやっているのであるが、夏の頃はこれをリフリジレーターでキンキンに冷やして飲むのが好きだったが、今はそうではありません。

それで取材の話に戻るけど、モスクワ近郊をぐるりと取り巻いているロシア正教のチャージをずっと見て歩いて、そういう歴史的な存在感に慣れてしまった。その翌年にフィンエアを使ってヘルシンキ経由でリスボンに行く予定であった。

ところが、アイスランドの火山の噴火で、ヘルシンキより先は飛べなくなって、その時に私が考えた事は、人生でフィンランドに来る事はないだろうからと言うので、2週間ヘルシンキを見て回ったのである。
0114名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/01/30(月) 06:32:55.17ID:jd5jq4O80
気になったのでてんとう虫をウィキペディアで調べてみてびっくりしたのだが3種類のてんとう虫がいてそのうちの2種類はみかんの害虫を食べたりするから正義の味方と言うことになっている。もう1種類のてんとう虫はベジタリアンであるのだがてんとう虫にとってベジタリアンと言う事はすなわち葉っぱを食べるわけだから悪者と言うことになっているのである。

まさに人間の都合で勝手に正義の味方か悪の枢軸かと決めてしまうのは、今のアメリカのやり方にそっくりなので呆れてしまった。

さらにびっくりしたことがあって、てんとう虫で食肉生の種類の人は生きた農薬と言うので、実際にかなり農業に使われているのだそうだ。ところがてんとう虫さんにも虫の自由があるから、成虫になると勝手にどっかに飛んでいってしまって、農薬の代わりをしてくれないのである。

それで千葉県の高校生の研究グループがてんとう虫さんの羽を接着剤で固定して飛べないようにすると、遠くに行けないから生きた農薬としての働きをやってくれると言うので、それが何か農協のコンクールで1等賞になったそうだ。

これは虫の虐待に相当すると思うのだが、今ではそのてんとう虫を接着剤で飛べなくして、農薬がわりに強制労働をさせると言うのがトレンドになってパテントもゲットして、外国にそのシステムが輸出されているらしい。

ウィキペディアはいろいろ面白いことがわかるが、このてんとう虫の虐待に対してはアムネスティインターナショナルは黙っているのかな?
0115名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/02/05(日) 06:23:23.92ID:4L+AI2+G0
東西ドイツ統合の数年前のことである。朝日グラブの撮影で東ベルリンの工場建築の撮影をした。

何しろ、東ベルリンの有名な秘密警察は大変な活躍ぶりであるから、4 × 5インチの大型カメラの撮影であるが、三脚を立てるなどと言う事はやっていられない。それで東ベルリンの友人の乗っている空色のトラバントを1日50マルクでチャーターしてこれを足にした。

目的の工場の前に乗り付けて4 × 5インチのカメラで手持ちで撮影をしてそのまますぐに移動する。まだ携帯電話が普及していない時期であるから、これは密告される可能性も少ないし、かなりうまいやり方だと納得したのである。

その東ベルリンの友人の空色のトラバントは中古品だそうである。新品だと10年待たなければいけないので中古品を買ったのだが、それは新品の倍近くすると説明を聞いてびっくりした。

500 CCのツーサイクルと言うかなり個性的な車である。下り坂になるとエンジンブレーキがかからないので速くなると言うスリリングな車であった。トラバントは東ドイツの国民社であって、カール・マルクススタットで作られていた。東西ドイツが統合されて、下の名前ツヴィッカウになった。

東西ドイツ=の後主ベルリンは西も東も取材に行ったが、Checkpoint Charlieで中国製のトラバントのおもちゃを打っていた。それは金属製なので感心した。本物の車のほうは車大和ファイバーでできているのである。

それから月日が流れて、10年以上前ベルリンで40年近く前にトラバントをチャーターした。その人に会った。彼女はすでにフォルクスワーゲンに乗っていた。その数年前のことであるが、新車で手に入れたフォルクスワーゲンが制限速度を大幅にオーバーしてそれを自動カメラで撮影され、罰金の支払い調書が届いたのだそうである。

速度オーバーで支払いを罰金するのは夢だったので嬉しいと彼女は言っていた。下り坂でスピードが速くなる。トラバントはそれなりに夢があるが、本東ベルリンの人々の夢はもっと別のところにあることに気がついて、私はさらに感心したのである。
0116名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/02/06(月) 06:25:27.08ID:8dFqoQTF0
くるまやまと?(車大和)
0117名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/02/07(火) 07:26:35.55ID:vIxiOg8X0
東海道新幹線であるが、大崎のあたりからずっと西に向かって御嶽山のあたりまで道は一本道でまっすぐである。

ところが一本道にもかかわらず、道の高い低いはかなりはっきりしている。数年来新幹線には乗ることが無いので、その頃の記憶をたどって窓からどのように外が見えるかを思い出すに、周辺の道路が高くなったり低くなったりするのが非常に激しくて見ていると面白い。

そのような行動間と言うのは飛行機の場合はまずありえないからである。いつであったかこの区域を歩いてみて非常にびっくりしたことがある。この写真で示すように急な坂があって、新幹線のレールも別のスロープがある。

それである特定のポイントから見て非常に面白いと思うのは、遠近感の消失点が2つ存在したりすることである。日常の生活ではなかなかこういう事は無いので、佃島からは結構遠いのであるが、わざわざこの2つの消失点を見に行ったりした。

新幹線のレール沿いに酒を登ったり降ったりすると、特定の感覚で工事作業用と思われる。小さなエントランスが発見できる。そしてそのエントランスには、東京駅までの距離と大阪駅までの距離がキロメーターでかなり細かく書かれている。

そしてその路線の距離を示す指標と言うものが、おそらく新幹線が開業した頃に書かれたのではないかと思えるほどペンキの色が抜け落ちているのが私としてはなかなか好きなオブジェなのである。
0118名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/02/13(月) 04:22:22.22ID:1lo9z+ZF0
非常に機動力のある対応であるから、ジョンソンが北爆でどんどん爆撃をしても、翌日はすぐ元通りになると言うような復旧ぶりなのである。その元青年将校の人がくれた写真集の内容が素晴らしいので、当時あちこちのエッセイにその話を書いたのである。その青年将校が使っていたカメラは、東ドイツ生のExaカメラであった。その人の拍子に出てくるセルフポートレートのポーズがなかなか良くてアメリカ帝国主義を家落とす紅茶。後に陣取って鉄のヘルメットをかぶってカメラを斜めにぶら下げているのである。

1970一年だったと思うけれども、北爆に対してビー52を多数撃墜したと言う勝利の記録があって、それをベトナムでは

空のディエンビエンフー

と命名して国の祝日にしているのである。私もそれに感激してその将校がかぶっていた北ベトナム軍のヘルメットを手に入れた。何の事は無い。ベトナムではそういうものが手に入らなくて、アメリカの店から買ったのである。
0119名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/02/13(月) 06:49:07.93ID:TabX4vmI0
この人左翼なの?なんかがっかりだわ。ファンやめる。
0120名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/02/13(月) 07:05:40.49ID:1lo9z+ZF0
ベトナムで自転車やバイクで膨大な量の物資を運ぶと言うのは、我々西側先進国と自分で勘違いしている人間からは、かなりキュリオシティな素材であって、それを撮影テーマにした写真集などもあるらしい。

実際問題としてハノイの夕暮れなどにカフェに座って道の車と人の流れを観察しているときに、私などは無意識のうちにそういう上海雑技団みたいなバイクに乗った人が目の前に登場するのを期待しているのである。

例えば、二台のHONDAのキャブで、前と後が距離が10メーター位離れていて、そこで重い鉄材その長さ10メーター位のを運ぶと言うのは、これはエキセントリックな眺めで、人間と言うのは、いかに偉大な動物であるかと言うことを目の前に体験させてもらえるのである。

ハノイの革命博物館と言うのはなかなか面白いものが展示してあって、ベトナム戦争のときのホーチミンルートを建設したときに300キロ以上の物資を自転車で運んだと言う。その自転車そのものが展示されているのがすごい。

このショットなどもかなりの迫力であって、ベルリンの壁がそのまま自転車に乗って移動しているような感覚なのが、人類のパワーを感じる。

2000年と2001年に私はハノイに行って、2000年の時は空港で沢木幸太郎さんに会ってベトナムの話にいろいろなったのだ。2001年の時だったと思うが、その時インタビューでホーチミンルートを投じ統率していたその頃の青年将校さんという人に話を聞いた。

その人は割と、最近にホーチミンルートの写真集を撮影していて、それを私に贈呈してくれたのである。その写真集を見ると、アメリカ帝国主義と戦ってる第一線の北ベトナム軍の青年兵士は、みんな半ズボンに開襟シャツでジャングルハットで何かボーイスカウトの夏のキャンプみたいに見えるのがすごい。

大作戦で山の中を必要な物資は手押し車とか、自転車、そして背中に背負ったりしながら物資を運搬したのであった。
0121名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/02/18(土) 06:57:12.14ID:gdoM4v1M0
要するに、何が素晴らしいかと言えば、これは明快な形であって、それぞれの写真家のそれぞれの個性がそれぞれの個性がそれぞれの画面に現れているから、わざわざ作者を見なくても、これは誰誰の作品であるとすぐわかるのである。それでこれは1種のゲームなのであるが、これは誰の作品だなと思って、名前の方を見てみると、的中している時などはかなりうれしい。それでこの的中率と言うのは最近アップしているのである。とりもなおさずその事は、それぞれのFacebookの傍流写真同名に作品をアップしている皆さんの個性がはっきり際立っていると言うことだ。

ここで紹介する三部さんも、その1人で会って、この人の作品は瞬時見ただけで100%この人であると言うことがわかる。光の使い方がうまいと言うてしまえばみもふたもないわけであるが、傍流写真同名の中では、最も光の使い方がうまい。一方で、傍流写真同盟をスタートさせた弥次喜多さんは曇りの日でないと写真が取れないと言っているわけで、それぞれ写真家の光に対する感覚が際立っているのである。50年前ウィーンに暮らしていた頃、日本からいわゆるエージェントカメラマンさんと言うのがやってきて、彼らは羽振りが良くて1枚写真を撮影すると50,000円になったそうであるが、なかなか撮影の条件が厳しく快晴の光のもとで、ヨーロッパのお城などを移さなければ、旅行関係の雑誌に売れないと言うのは当然である。

だから、彼らが使う写真と言うのは、絵はがきの写真に近くて数年前に亡くなった。そういう仕事をしている。カメラマンが悪天候だと天気が悪いんですよと言うぼやき節をいまだによく思い出すのである。

でも、一方で作例として取り上げた。この写真家は、天気の良い日の午後の日陰の長いところを非常にうまくキャプチャーしているのがすごい。私は勉強不足で知らなかったが、この写真家は同時に本の装丁家として結構有名な人なのだそうである。

そういう背景がわかれば、それなりにこの写真家の光に対する感覚とデザイン感覚はおのずから理解されるわけである。特に私が評価するのは非常に遠距離で歩行者の後ろ姿を撮影していながら、そこに観察者の視線が釘付けになるようなうまい効果が出ている。

ここら辺も本の装丁家の仕事と言うことになる。
0122名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/02/21(火) 08:12:53.07ID:AwKKL19q0
私はうなぎは好きでも嫌いでもない人間である。だから、うなぎの値段が高くなったなどと脅かされても別に困ることではない。

大昔うなぎ業界の宣伝PR、雑誌と言うものがあって、そこに頼まれて一度だけうなぎのエッセイを描いたことがある。それはベルギー政府観光局の仕事でベルギーに取材に行った時に数百年前からある老舗の鰻屋に行ったときの話を書いたのだ。

鰻屋と言うよりも魚を扱っている一般のクラシックレストランである。そこのうなぎはぶつ切りにしたのをグリーンソースで食べるのであるが、それはそれなりにおいしかった。

それで取材の後にお店の人と雑談になって、日本でもうなぎを食べると言ったら、彼は興味津々でどのような味付けをするのかと言うので、焼いてそれを醤油と砂糖を混ぜたタレで食べると言ったら思いっきり馬鹿にされたのである。

ヨーロッパ人にしてみると、魚肉関係を砂糖の入ったソースで味付けると言うことがまず非常に気に食わないと言うことらしいのだ。まぁそれでもうなぎと言うのは1万キロも離れていれば調理の仕方が変わるのも当然である。関西と関東でも調理の仕方は、うなぎで地域分断地域紛争のネタになっている、。

ところで、家人の場合はそれなりのうなぎ食いであって、そのキャリアは確かなもので、何しろ野田岩で修行を積んでいたのである。それでこちらはいつも野田岩と言うわけにはいかないから、家から1キロぐらい離れたところにある。宇奈とと家に行って500円のうなぎを買ってきたりした、。

しかし、宇奈ととばかりと言うわけにもいかないから、ときには、銀座の百貨店で名前がよく知られているうなぎ屋さんの3500円の串を買ってきたりした。

この間スーパーで買ってきた中国製のうなぎのラベルが面白いと言うので、家人が切り取って持ってきた。それを見るとこのようなラベルがついていて、パンダとウナギが戯れていると言うのは、日本人の通常の感覚ではなかなか考えつかないのである。
0123名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/02/21(火) 08:28:41.96ID:OoMzFjEA0
カメラも写真も出てこない屁のような話
0124名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/02/22(水) 11:32:02.90ID:9naLC22Y0
日本カメラの私のエッセイの3冊ある中古カメラの話の中で第1巻の中にこのカメラの話が登場している。それはカメラはこれと同じなのであるが、頭脳レンズの45ミリef 1.8が付いていたカメラの話である。今はもうなくなった高輪の中古カメラや船で手に入れたもので程度は非常に良かったのだが、カメラの1部にソーシャルセキュリティーナンバーが汚い字で書き込まれていた。持ち主の名前も書かれていたと思う。当時はまだこれがソーシャルセキュリティーナンバーであると言う認識が、日本の中古カメラ市場ではなかったから、当時はこのような品物を外人の文字入りなどと呼んでいたのである。

☻外人のもじりと言うのは中古カメラ世界では傷物と言う意味であって、私がゲットした。そのカメラの値段はかなり安かった。これが40年前の話なのである。このカメラは、そのデザインに惚れて手に持ってみたくなると言うカメラであるが、それだけがこのカメラの魅力であって、連続撮影が優位であるなどと言う意味はそこに存在しない。

四谷荒木町の近くに南ドイツかと思われるような風景の小さな公園があって、そこのベンチに座っていたらトイレの掃除をするおじさんが登場した。そのおじさんはプロフェッショナルとしての存在感がなかなかいい感じなのでまずおじさんが到着したところを1枚このカメラで撮影した。

それで次のシークエンスは、おじさんが仕事を終えて、自転車で走り去るところを撮影したのである。その間は10分近い時間経過があるから、別に連続スプリングモーターで撮影すると言う意味はほとんどないのであるが、そういうシークエンスを撮影することが、むしろこのカメラの特徴を生かしたことになったのではないかと考えているのである。

製造番号を見ると6973とある。これを私なりに意味付けしてみると、69は西暦1969で最初の個展を銀座で開催した年。73のほうはウィーンに行った年だからそれなりの意味付けをすることができる。ディジットが4桁と言うのだから、あまりたくさん生産されなかった。カメラであろうと想像するのも楽しい。
0125名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/03/01(水) 00:37:50.83ID:un5M5Z170
ビロード革命映画1989年であるからすでに34年が経過したのである。あの時のプラハは非常に民主的な都市であって東ドイツから旅行できた人が当時プラハにあった西ドイツ大使館に次々に亡命を求めたと言ういきさつがある。

ビロード革命の直後に面白かったのは新しい商売があちこちに乱立したことにあった。お金の両替蔵などはそれこそワンブロックで1つあったし中古カメラ屋さんは街の中心部に5つもあった。でも今は30数年が経過するとまた元通りのような状態になっているのは当然なのであろう。

この市松模様のデミタスカップが結構気にいっているのである。それはプラハのど真ん中の天文時計のすぐ脇の角地と言うからベストな商業的ロケーションなのである。

家で使っているコーヒーカップの中では1番新しいものだと思っていたらすでに30年以上が経過していると言うその時間の経過の早さが非常に面白い。

そのプラハの一頭地の場所はなかなか瀬戸物屋さんでは商売にならないので今ではクリスチャンディオールが店を構えている。でも私も数年来プラハの状態は知らないから案外マクドナルドとかそういうものになっているかもしれない。
0126名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/03/03(金) 09:04:31.54ID:K+/M4AIO0
プラハ工科大学に近い場所と言うので、短い私のいるアトリエのアドレスはニコラテスラというのである。ところがチェコ語の固有名詞の語尾の変化と言うことに気がつかなくて、正式な通の名前はNikoly Teslyと言うのである。そこの7番地に私のアトリエはあった。建物の1番上はアトリエとして作られていたようで、広場の対岸に住んでいるチェコの有名な前衛アーティストもアトリエに住んでいる。

ここに住み始めた頃に、雑誌の取材で、その前衛アーティストにインタビューをしたことがあった。雑談の時に私のアドレスを言ったら、彼は広場の反対側に住んでいると言うことで打ち解けたのだが、この数日、アトリエの明かりがついているので、どなたかいらっしゃると思ったら、田中さんあなただったのですねと言われたのが嬉しかった。

それでアトリエの右側にあるのが有名なバルセロナチェアである。最近ではそこら中でレプリカができて、珍しくもなんともないが、これは1929年のバルセロナエキスポの時に独逸館に作られたチェアであって、スペイン国王をお迎えしてこの椅子に座ってもらったそうだが、ヨーロッパ人はともかくとして骨格の違う極東の人間にはこれが非常に座りにくい。

それで34年間もアトリエに通っていながらこの人類の文化遺産とも言える。バルセロナチェアに座った事は1度もないのである。この写真はいつ撮影したのか不明であるが見えている。サムソナイトのスーツケースは新小岩のリサイクルショップで800円で買ったものであるから、その当時のショットだと思われる。

しかも、サムソナイトから衣類が出ていて、それはまだスーツケースの中にあるから到着した直後の興味でこのショットを撮影したと思われる。それで通常版パッキングするときは、衣類は全部右手のバルセロナチェアーの上に乗せるのである。

その奥に見えるピカソの絵画であるが、これはアパートメントの下のゴミ箱に捨ててあったのを拾ってきた。よくゴミだと思っていた。美術作品が本物であることがわかってオークションですごい高値がついたりするが、まさにその例がこれなのである。
0127名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/03/04(土) 00:39:19.54ID:XuLXWH+k0
私の2冊の本の真ん中のスペースが空いているのは私の別の本が売れたのだとレポーターは書いている。感謝感謝。

それに比較すると、デジタルカメラの命短であるから、横浜の馬鹿騒ぎで登場する新型カメラも1年経過すると話題にもならなくなるわけだ。

30年来。この方は私がいつも批評している事だけど、デジタルカメラは向上心がありすぎて走り続けて尖っているだけでライフスタイルを構築すると言う意識が欠如しているから、デジカメが産業廃棄物になってしまう。
0128名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/03/04(土) 21:41:35.14ID:brf/ldCo0
実はあたしはデジタルカメラがわからない。エプソンR-D1ならなんとか理解
できるのだが、最新のディープラーニングがどうこうというのはまったく
わからない。RAWで撮影してソフトウエアで弄るというのもよくわからないし、
記録メディアの規格がどうの、なんていうのは埒外である。だから、あたしは
理解ができるフィルムカメラにこだわるのであり、デジタルカメラを拒否し続ける
のである。
0129名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/03/05(日) 06:57:01.02ID:zTtb6Dfw0
タムロンの非常に昔のレンズの広告を発見した。タムロンの生き字引と言われている。金型部長の前田さんによれば、1番最初に製品化されたタムロンズームの後15ミリから90ミリも話に聞いているが見た事はないと言う。私はこのレアなレンズをプラハのカメラ屋さんでほぼ新品のものを手に入れた。

その私でもこの複合レンズと言うのは実物は見たことがない。もっとも、これはタムロン独自のアイディアではなくて、かなりそれ以前にドイツのレンズメーカーが全く同じものを作っていたから、これはタムロンがコピーしたものなのである。そういう事は普通に行われているから、ベルリンAskaniaが制作した。1000ミリのレフレックスレンズef 6.3と言うのはそのままニコンがコピーした1000ミリフレックスレンズになっている。

要するに、135ミリのレンズを組み替えると、227ミリのef 7.7 になると言うのであるが、当時はこれでも十分な魅力があったのであろう。ズームレンズが登場する。かなり以前の前の製品である事は確かでこのカメラ雑誌のペーパーが黄色くなっていることからもそれが理解できる。

レンズを分解すると、別の焦点距離になると言うのは、別にごく普通のことであって、広告写真をやっていた頃のシュナイダーの150ミリの標準レンズの前の球を外すと焦点距離が長くなって210ミリに使えるとかそのようにレンズの表面に書いてある。しかし実際にはそのようにしてもほとんど使えないクオリティーの画質なのである。

私もタムロンレンズとのお付き合いは、高校生の頃に始まっているから、かなり長い方であるけれども、今ではカールツアイスの製品を作っているし、大変な成長と言わざるを得ない。
0130名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/03/05(日) 07:32:40.29ID:g05f+wyc0
デジカメを無理して覚える必要はないがiphoneは一台もっていると
楽しいよ爺さん。ポケットから出して1秒後には夜景だろうがすぐに
撮れる。フィルムカメラとiphoneの2台持ちが一番楽しいんだぜ。
0131名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/03/06(月) 03:31:26.28ID:Qtn2NwmY0
家人の教え子で中野方面に住んでいる人が定期的に救援物資を送ってくれるので非常にありがたい。それで最近いただいた救援物資の中では手紙がついていてバレンタインは過ぎたけれども長徳さんようにと言うのでこの間カメラのチョコレートが届いたのである。

私はカメラが好きだが、こういう流行物にはあまり興味がないのであるが、家人が興味を持っているのは製造者と販売者をチェックすることなのである。それで家人がチェックしたら驚くべきことが判明した。このカメラの販売元は世田谷区の代田にあるなんとか珈琲と言う会社なのであるが、カメラとチョコレートを作ったのは小豆島にある。
これにはびっくりしたね。私は20年位前にガラクタ屋さんと買取名人さんの故郷に招待されて行っているのである。なかなか良いところだった。

詳しく見ていると、チョコレートは国産で外側のカメラのチョコレート容器のほうは中国製と書いてある。それで数年前に頂いた別のチョコレートカメラを見たら、これは販売者は別の会社になっているが、製造者は小豆島になっている。

そこで不思議なのは、こういう商品と言うのは、小豆島にある工場にオーダーして、勝手にそれぞれブランドを変えて販売しても良いと言うものらしい。チョコレートの缶詰、カメラの戦国時代と言うことになるのかな。

それにしても凄いなと思うのは、ライカの会社はドイツのフランクフルトから北に1時間ほど行った。みすぼらしい小さな村で作られているわけだが、このチョコレート缶詰カメラのほうは有名な24の瞳で知られる世界に名だたる小豆島で作られていると言うことだ。

OEMに例えて言えば、小豆島で作られたカメラがそれぞれ販売するお店に名前を書いて出しているわけである。今年いただいたブラック仕上げのカメラのほうは、代田橋で作られているからだいたと言うのである。
0132名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/03/12(日) 12:45:14.21ID:YF4QAPo70
出雲在住の小池さんは、シリアスフォトグラファーで数年前に羽田をテーマにした写真展を出雲の図書館で開催して、そこに私は駆けつけたのである。小池さんの仕事が良いのはテーマ主義ではないことだ。小池さんが生まれ育った大田区の羽田あたりを撮影した。1連のシリーズは、別に、彼の関わった地域の話をしているのではなく、小池さんの時間軸の上での哲学的な体験を語っているのである。

ギャラリー長徳と言うのは、買取名人の肝いりで、2002年ごろにオープンしてビルの3階にあったと記憶する。2階にあったのが私のカメラのコレクションであった。それぞれに面白かった。

それで小池さんが2000年初めの頃の画像ファイルをひっくり返したら。この写真が出てきたのである。非常に珍しいギャラリー長徳のオープニングレセプションの写真である。坂崎さんと言う人は20年以上経過しても全然雰囲気は変わらないね。

この写真展はギャラリー長徳の何年かやって1番最初のシリーズでこれはグループ展なのである。坂崎さんとか東儀さんとかそしてもちろん小池さんも出店していた。考えてみるとこういうのは今ガンガンやっている傍流写真の最初のシリーズであったことに気がつく。

オープニングメンバーの東儀さんもなかなか良い仕事をしていて、何よりもプリントが綺麗だった。坂崎さんはお付き合いの始まった30年前は、例えば蚤の市の仲間でバナナを食べているおっちゃんを撮影するような単純リアリズムであったのが、1995年にコシナレンダーのカメラが出た時、ハードカバーの写真集出して坂崎さんと私で半分ずつ作品を掲載した。私はなぜか広島を撮影に行って、坂崎さんはアルフィーのツアーをテーマにしたものだった。その時の広島のお好み村はまだ木造モルタル造りで、数年前にそれが懐かしくて広島に一白2日で行ったら大きなビルに変わってしまった。

その後に坂崎さんのアルフィーがニューヨークのツアーに行ったときの写真が良いので、それを写真集に出してその解説を私がしたのも懐かしい。写真家坂崎幸之助のスタートラインと言うわけだ。

坂崎さんの左右に立っているきれいなお嬢さんは、六本木ヒルズのスタッフなのである。六本木ヒルズのスタッフはトラッドだから展覧会のオープニングレセプションとなるとこういうスタイルで来ると言うところがハイソサエティーだと思う。
0133名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/03/21(火) 00:54:10.25ID:mN830qWy0
十数年前の話である。仕事で長崎に撮影に行った。まだ東松さんがお元気だった頃の話である。別に弟写真家に会おうなどと言う失礼な事はしないけれども、大写真家が日常を見ている長崎の風景を私も脇から見たくなった。

路面電車に乗って東松さんがいつも使っておられると思われる。停留所で降りた。雨がかなり激しくなったので、停留所のすぐそばのラーメン屋さんに飛び込んでコップ酒をいっぱい飲みながら皿うどんを食べたのが忘れられない。

東松さんが昇天されたときのことも私に出会って、月島を歩いていたら、前を歩いている人が携帯ラジオを持っていて、そのニュースで東町さんの訃報をしたのである。旬トランジスター、ラジオを持ち歩く人もいないわけだから、これも不思議な東町さんとのご縁と言って良いのであろうな。

かなり詳しい人でも、皿うどんとちゃんぽんの区別はすぐに言い当てられる人はいない。長崎出身のピアニストの話によれば、日本全国で展開しているリンガーハットと言うのは、ちゃんぽんの味が分かる人にすればなかなかレベルが高いのだそうである。

私のような人間にしてみれば、長崎で食べた皿うどんと言うのはうどんでもない。硬い焼きそばなのだから、ますますわからない。この十数年間ギャラリーバウハウスで、年に1度位個展をやっていて、その時だけ御茶ノ水駅のそばにある日高屋でかた焼きそばを食べる。これがなかなかうまい。

この間ギャラリーバウハウスで私の作品を新たにコレクションにしてくれたコレクターさんと日高屋に入ってかた焼きそばで日本酒を1本ずつ飲んだらご機嫌であった。

ただ、日常的に日高屋に俺があるわけではない。私が使っているレンタル暗室の近くにも日高屋があるのだが、暗室はいつもやるわけではない。それで通販で手に入れたかた焼きそばを食べることにしてこれはこれでなかなかうまい。

しかしこれはひょっとしたら皿うどんかもしれない。さらに皿うどんとちゃんぽんの区別がいまだについていないので、明確に断定はできないのである。
0134名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/03/24(金) 18:08:45.46ID:SkNOUZeW0
15年位前に思いつきで、インドのデリーに行ってカレーの武者修行をしたことがある。クレジットカードのポイントが余っていたのでニューヨークに行こうと思ったら、ビジネスクラスの往復はちょっと足りなかった。それでデリーにカレー探求に行ったのである。

デリーの駅前の菩提樹の大きな木の下に白い服を着た哲学者みたいなインド人が1日中巨大なカレーの鍋をかき回していた。そこの常連になったのである。しかしながらカレーに満足すると今度はカレーパンが食べたくなった。私の探し方が悪いのであろうが、デリーのあちこち歩きまわってもカレーパンは無いので、逆にインドにカレーの武者修業に行った。反動としてカレーパンが食べたくなったのだ。

カレーパンは1927年に深川の当時東京で有名だった。パン屋さんが考えだして、それを特許として申請して認められていると言う背景があるそうだ。その当時の工場労働者街のど真ん中であるから、行員の皆さんが食べやすいと言うので好評でブームになったらしい。

このパン屋さんは、戦後になって場所が変わって、森下町の交差点のすぐそばにできたのだが、名前はカトレアと言う。そこに買いに行ったこともあるが、カレーパンと言うのは食べたい時にすぐそばにないと困るのだ。1番近くのカレーパンを売っているところは地下鉄の月島駅の構内にある神戸屋なのであるが、ここのカレーパンはまずいのでそのまま食べなくなってしまった。

カレーパン、あるいは、カレードーナツと言うのは、中にフィリングを入れるわけでこれがパン屋さんが作るのはなかなか面倒なので、カレーパンの中身を専門に作っている業者さんがあると言う事は40年近く前に知ったのである。

その頃何の用か忘れたけれど、もう川越市内を歩いている時にカレーのフィリングを入れた。業務用のプラスティックバックの中身の入っていない男便が路上に落ちていたのだ。その時に私はカレーパンのフィーリングが第三者が作っていると言うことをしたのである。それでそのプラスチックバックの名前を見ると、田中、カレーパンフィーリング株式会社と言うような意味が書かれていたので感心した。
0135名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/03/26(日) 16:54:28.85ID:4AFDlevU0
それで考えを巡らしてまずヘルシンキ等は1度も今後来る予定はないと思うから、私の人生で1回きりのヘルシンキ訪問をすることにして、その先のフライトはキャンセルしたのである。

そのことをFacebookに書き込んだらすぐヘルシンキにお住まいの遠藤さんと言う方から連絡があって、お友達になった。遠藤さんの父上は、著名なデザイナーであって、私がオリンパスの仕事をやっていた関係で、意外と近いところに存在する有名人なのである。

それでサブか何かで登場した。遠藤さんにいろいろヘルシンキのお話をお聞きしてついでに私の小学校時代の友人子宮の消息を知りたいと言ったら、30分で所在がわかったそうである。フィンランドは人口が少ないから国民総背番号ですぐわかると言うことなのかな?

それでわかった。小宮のメアドに連絡をしたらすぐ返事が来たのでこれからいっぱい飲もうと言ったら何でもヘルシンキから何百キロも離れたところに暮らしているのでそれは無理だと言う。それでも連絡が取れてよかった。

小宮と言うやつは、単に小学校が同じであると言うことなのだけれども、その後東京芸術大学のオーケストラを指揮するので、頭角を現して、それからヘルシンキの音楽大学に留学したのである。子供の頃は俳優もやっていて、吉永さゆりと一緒に赤胴鈴之助の薬で映画に出たそうであるが、それは見ていない。

2週間滞在の間にヘルシンキのメトロのほとんど全部の駅に降りて路面電車も全部の路線に乗ってみた。それでもう充分と言うことになったのは、私が街を探検して歩く時は徹底的な絨毯爆撃の撮影をするのであるが、それをやったのであっという間に街をみんな見てしまったわけだ。

軍用カメラのレプリカで、ヘルシンキの街を撮影して、まず20本位の成果であったがなかなか手ごたえがあった。ところがカラーネガで撮影して現像の上がった。そのフィルムを私は佃島のカメラジャングルで噴出していまだに発見できないのである。

軍用ライカのフェイクで撮影したので、ライカの神様が撮影現像済みのネガフィルムをどこかに意地悪して隠してしまったとしか思えない。
0136名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/03/27(月) 06:43:45.23ID:b4JPPiid0
50年以上前のウィーンの話である。あの頃は19世紀的なガストロノミーの習慣と言うものが残っていた。例えばバラの花束を持ってそれを1本ずつ販売して歩くと言う女の子の商売があって要するに飲み屋のカップルのお客さんはそこでバラの花を1本買って連れに愛情を送るわけである。

伝統芸能としてもう一つ忘れられないのは、写真に示すようなプロフィールを切り紙で制作するるアーティストである。これはバラの花売り少女よりも出現回数は少なかったけれども、なかなか芸術的な感じのおじいさんが回っていたのであった。

私もワイン酒場でそういう切り紙座異空のアーティストに出会って、興味本位に自分のプロフィールを切ってもらったことがある。その当時はまだまだヨーロッパでは我々のような東洋人の数が少なかった。

日本の切り紙の芸人さんと言うのは、よせでお客さんのリクエストに応じて切り紙を作るわけだが、それとはヨーロッパのプロフィールをカットするアーティストとはちょっと方向が違う。日本の場合は完全なエンターテイメントであるが、ヨーロッパのそれはもうちょっとポートレートに近いアーティスト的な方向性がある。

なかなか見事なもので、20代半ば過ぎの私の雰囲気がうまく表現されている。
0137名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/03/30(木) 01:01:18.84ID:x52lMQms0
それでマカオに行ったのは、香港が中国に変換される2年位前の事だった。それでマカオに行ってみると、次に行きたくなるのはポルトガルと関係のあった長崎である。ポルトガルリスボンのバーで、昔船員さんだった。ポルトガル人に会ったりすると、最初に出てくる言葉が長崎であり、神戸なのである。

長崎への旅と言うので、1つのプロットを作った。それは2002年にヨーロッパの通貨がユーロになったときのことである。5ユーロの紙幣に斜め後ろ向きのかわいい犬のイラストを描いたのである。この犬が旅をして、世界の果てのマカオのさらに発展のファーイーストの長崎に行くと言う筋書きだった。それで出たばかりの5ユーロにワンチャンのイラストを書いたやつを私は願いを込めてリスボンのポストに投函した。

その5ユーロの紙幣の表面に描かれたワンチャンの旅がようやく実を結んで、初めて長崎に行ったのは、2009年の11月であるから、ずいぶん時間がかかったのだ。私の場合、長崎のもう一つのイメージは、写真家、東町3-11時2分長崎が重要である。

羽田から長崎空港について私なりに向かうバスがしばらく走って。なにげに腕時計を見たら、針は11時2分を指していたので、私は黙祷したのである。

観光客であるから、思案橋のすぐそばのホテルに宿泊して慣れない市電に乗ってあっちこっち回った。東松さんがお住まいの近くの町まで行って、雨に降られて入ったラーメン屋さんでコップ酒で皿うどんを食べたのも良い記憶である。

ツーリストであるからオランダ坂を見に行った。のであるが。その急勾配にびっくりした。オランダは平らな土地であるからそんな酒があるわけがない。これはやはり正確にはオランダ坂ではなくてポルトガル坂と言うべきなのであろうと坂の途中で考えた。オランダ坂と言う大きな石があって、その根本にはホーランドスロープと書かれているのも何か厄介な感じであった。
0138名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/03/31(金) 05:40:29.04ID:5BnZNEqR0
ポルトガルのコインブラの古い宿屋に宿泊していたときのことだが、近所でカステラを買ってきて懐かしいと思って。同時に熊野カステラはこちら、ポルトガルが本場なのだななどと思ってベッドの脇に置いて寝たのである。

深夜に目覚めて、そのカステラの袋の脇に何か異常な状況になっていることに気がついた。無数の阿里山が列をなしてカステラの角を削り取って、それを持ち帰っているのである。その列の長さは数メートルにも及んで宿泊している場所は、ホテルの2階であるから、阿里山の行列と言うのは地面から延々とつながっているのであろう。

その事実を確認して、私は明かりを消してまた眠ってしまった。翌朝明るくなってみたら、阿里山の行列は何もなくて、カステラの削られた量にしてもたかが知れたものであった。

江東区の砂町銀座からそれほど遠くないところに文明堂の工場がある。工場の1部は販売所になっていて、その前のスペースでコーヒーを飲むこともできる。結構そこが気にいって福田和也さんとあの写真部の皆さんと一緒にその界隈を撮影して、その文明堂に案内した。メンバーの1人が入ってこないので、何かと思ったら工場の人と軽いトラブルになっている。何か不審な人間が写真を撮影していると言うふうに勘違いされたようである。

そのカフェが一緒にあるカステラ工場はその数年後にブラパチワークショップの皆さんとその場所に行ってみたら、カフェコーナーは既になくなっていた。
0139名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/04/01(土) 00:33:26.65ID:MD8HQCOH0
オールドデジタルカメラを愛する市民の会を作ったのは、足掛け4年位前のことである。その当時も今と同じでカメラスズメとメカライターさん連中が新型のカメラを追っかけ回して、その新しい気候こそが、自分の写真芸術には絶対必要であるなどと、まぁこれはデジタルカメラすずめのチュンチュン言っていることだから別に問題は無いのではあるが、どうも写真、表現の本質からはかなりずれている感じがしたのである。

それで上のようなタイトルのFacebookの同好会を非公開で作ったらすでに会員メンバーが1000人以上になっているのは、これこそが正しいデジカメユーザであると私は尊敬しているのである。

まぁその中にはカメラ自慢というか、オールドデジカメ自慢と言うのもあって、でもこれは別に新製品を自慢するほどの頭の悪さは無いから、ちょっと自虐的なところがオールドデジカメ自慢にはあって、それは歓迎することだと思う。

それよりも、私が評価しているのは、オールドデジカメを使う市民の会のメンバーは、カメラの性能に騙されているのではなくて、実際に古いデジカメを使ってそれで満足していると言うところが人間的なフレキシビリティーを感じさせる。

高性能デジカメを追いかけている皆さんが私から見て不思議に思うのは、オリンピックのアスリートと同じであって、すべて結果がものを言うと言うような価値観に裏打ちされているのが不気味である。その意味でオールド、デジカメユーザは人間的であると言うところが素晴らしい。

それで私にとっての人間的なオールドデジカメと言うことになると、私がオリンパスのマイクロフォーサーズに初めて出会った。このカメラを真っ先にあげなければならない。そこで大事なポイントはレンズはこれ1本を使うと言うことである。17ミリの広角レンズであるから、まさにエルスケンがライカM2に頭ミクロン35ミリをつけて世界中を放浪した時と同じコンフィギュレーションではないか。
0140名無CCDさん@画素いっぱい
垢版 |
2023/04/02(日) 14:27:32.41ID:DnGnDCrd0
岩波写真文庫が小学校の図書室にもあってよく見ることが多かった。その当時の教科書のいい加減なイラストレーションに比べると、はるかに説得力があったのを子供心によく記憶している。しかも何百冊と言うシリーズで登場したのである。1つの百科全書の写真版といってもよろしい。

その岩波写真文庫の復刻版が出るきっかけと言うのは聞き漏らしたけれど、何かのアニバーサリーではあったのであろう。私のところにも依頼が来て、5つのタイトルをセレクトして、それに解説をつけた。バックグラウンドが戦後の直後であったにもかかわらず、その出版の表現のスタンスと言うものがなかなかトラディショナルでアカデミックなのである。

私の他に、赤瀬川さんなどもセレクションに加わっていらして、それぞれ個性的なセレクションができた。私の場合はバックグラウンドからして、カメラとかレンズとか写真とかそういう方向のセレクションになった。

その中で特に私が興味を持ったのは瀬戸焼き物の町である。これは意外と知られていないことであるが、東松照明が撮影しているのである。名取陽之助と岩波でいろいろ確執があって、彼はこの仕事を最後に岩波を飛び出してしまうのだが、その最後の仕事と言うわけだ。

東松の使っていたカメラはニコンエスであって、レンズはシンプルに35ミリ50ミリ105ミリなのである。写真家のシンプルでフレキシブルで空間をしっかりとらえると言う。このカメラワークがごくシンプルなカメラとレンズの組み合わせで生まれていると言う事は凄いことだと思う。

パリの素顔というのが面白かったのは1950年代初めの頃の撮影だと思うけど、パリの街並みはその当時走っている自動車と道行く人のファッションを考えに入れなければ、パリの街並みそのものはほとんど変貌していないと言うところが面白い。この頃の街行く人々のファッションは偉大なトラッドなのである。

それが実存主義が登場した後から様相が変わってきて、みんなユニクロめいた服を着るようになってしまった。
0141名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/04/06(木) 00:05:21.34ID:doMSl14Z0
30年位前カメラジャーナルをやっていた時に、坂崎幸之助さんもメンバーに加わっていただいて、いろいろな研究を展開して面白かった。その中でこれはコーナーなのであるが、このカメラについてご存知の方は?というのをやったのである。それで読者の方といろいろ交流ができて、これは非常に良かった。

出雲に在住の写真家の小池さんが、20年ほど前の深い思想の画像をアップしてくれて、20年前の坂崎さんとか私の姿が出てきたのは懐かしかった。それでこれは20年ほど前ではなくて、たかだか12年位の昔の話なのであるが、これが一体何のカメラなのかが不明なのである。それで30年ぶりのリバイバルでこのカメラについてご存知の方は?というのを展開する。
出雲に在住の写真家の小池さんが、20年ほど前の深い地層の画像をアップしてくれて、20年前の坂崎さんとか私の姿が出てきたのは懐かしかった。それでこれは20年ほど前ではなくて、たかだか12年位の昔の話なのであるが、これが一体何のカメラなのかが不明なのである。それで30年ぶりのリバイバルでこのカメラについてご存知の方は?と言うのを展開する。

この画像は、2010年3月にプラハに滞在していたときの前後の画像ファイルから発掘されたのであるが、見れば見るほどどういうカメラなのかわからないところが面白いカールツアイスのゾナーレンズが付いているから方向としてはコンタックス1型に引っ張られるのであるが、フィルムの巻き上げは本体の上にあるネジみたいなものでやるようだし、アクセサリーシューにシンプルなファインダーが付いているけれどもレンジファインダーがついていない。

さらに細かいところを見ていくと、シャッターの仕組みがフォーカルプレーンであることが推測できるけれども、どのようにセットするのかもわからない。こういうカメラを見ていると、それがいつの時代の何と言うカメラであったのかということがそれほど重要ではなくなって、自分の頭の中でカメラのパズルを解いていくと言うような結構な楽しみになる。
0142名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/04/08(土) 00:13:48.91ID:zXcOjLiz0
ずいぶん昔から家にある時計である。自分で買った記憶は無いかといって、父親が時計は好きだったけど、父親のものであったと言う記憶もはっきりしない。要するに、大昔から家にある時計なのである。

モナコと言う名前が時計の表面に書いてあるから、モナコに関係がある時計だとは思っていた。スティーヴ・マックイーンの事は全く知らなかったし、彼の映画にこの時計が出てきたと言うことも知らなかった。ただ四角いそのスタイルと古い時計なので、全体の色が褪せているのが好きなのである。

大体現代の暮らしではクロノグラフを使うということがない。スマートフォンができてから時間経過はそれで計測することができるし、以前ヨーロッパに飛行している時などは、飛行時間とか、ヨーロッパの前、滞在時間を測るのに苦労していた。この時計ではそんなに長い時間は測ることができない。

それがスマートフォンになってからリスボンの滞在時間が420時間35分1秒とか正確に計測することができるようになったのである。だから今ではこの種類のクロノグラフは実用には全く使っていない。

スイスバーゼルの時計の博覧会を見に行った。会社の名前はダブルネームになっていてタグホイヤーと言うのである。そこら辺の前後関係も私は知らないのだが、新製品と言うので大きなディスプレイを見てびっくりしたのはこの大昔の時計のメカニズムのムーブメントが新しくなったと言うので、大々的に宣伝しているのである。

機械式の時計などというものはメカニズムの進化はないと思っていたので、何をいまさらと不思議な感じがした。
0143名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/04/09(日) 15:08:28.35ID:vbd+KKKy0
タバスコのあのボトルと言うのは全く研究がされていなくて、すぐに出なくなってしまう。そこら辺を全く改良しないというのがアメリカンスピリッツなのかな?お醤油のプラスチックのボトルだって2ヶ月ごとに改良されて使いやすくなっている。

神保町の路地裏の喫茶店ミロンガに50年前には1 USガロンの巨大なタバスコのボトルが置いてあった。3.8リッターであるから、すごい存在感だった。似たようなものが欲しくなって、その当時竹下通りにタバスコショップがあったのでそこに行きました。

1 USガロンのタバスコのボトルはなかったが、1リッターのボトルがあったのでそれを買ってきて重宝したこともある。その頃はアントニオ猪木が輸入の会社を経営していたらしい。私はアントニオ猪木には新宿の京王プラザホテルで会ったことがある。私が会いに行ったのではなく、私の友人がそういうスポーツ関係の取材をやっていて、彼のブリティッシュレーシンググリーンのスポーツカーに乗って京王プラザホテルに行ったのである。ただ何もすることがなくて、私はアントニオ猪木を観察していて、これがタバスコファイターなのかななどと考えていた。

1989年のビロード革命の翌年であったかなNATO の軍事物資のレーションがプラハに流れ出たことがあった。そのレーションを箱で買って一と月ほど食べていたことがあったけど別にうまいものではない。ただし面白いのはそれぞれの食品にはそれぞれの一般の名前が付いていて、特定のブランドの名前はついていない。例えばネスカフェはインスタントコーヒーと表示されているのである。

その中で人間の小指位の小さいボトルで、これはちゃんとタバスコと表示されていた。ホットペッパーソースと表示されてはいなかったのは、アメリカ人にとってタバスコはタバスコでなければいけないと言う認識があったのだろう。

最近買った思いつきでタバスコテイストのスパゲッティーアラビアータのソースが到着したのである。家人が30年位前に買ったタバスコグッズをキッチンから出してきた。それで、ずらりとタバスコブランドを並べてタバスコの揃い踏みとなった。
0144名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/04/12(水) 05:49:34.41ID:s3kjGIAG0
2002年から2012年まで六本木ヒルズができたばかりの49階にワークスペースがあってそこを使っていた。当時はなかなか話題になった六本木ヒルズライブラリーであった。10年間使っていていろいろなお客さんがきたが、沢木耕太郎さんなどは私がそのような場所にいることが不思議だったらしく、彼の著書に何回かその六本木ヒルズ49fのワークスペースの話が出てくる。

佃島の今のタワーマンションに20年ぐらい暮らしているのであるが、光通信ができた直後に契約したから15年位が経過した。そのうちルーターが悪化したようで通信ができなくなったので、まとめて4台のルーターを中古で手に入れたのである。

それで規定のプロセスでルーターをセットアップしたのだが、オンライン上では正式に設定できましたとあるので、実際にはオレンジのライトがピカピカしてインターネットはつながらない。まずいことに。ソフトバンクの携帯のSIMも全くつながらないと言うまずいことと言うのは同時にいくつもやってくるものらしい。

それで緊急避難としてマンションの1階のこういうワークスペースで仕事をしている。逆に音とオフが別々になるから、これはなかなか快適ではあるのだ。それで冷静に考えてみると、マンションの1階には結構ちゃんとしたロビーがあってテーブルや椅子やカウンターが用意されているのであるが、このセクションだけが周りからガラスで囲まれたヘンテコリンなゴージャス空間になっている。なぜそうなのかこれを考えてみた。

1989年4月にできたこの建物であるが冷静に考えてみると当時はまだ携帯電話というのが一般に普及していなかったのである。だからマンション1階のロビーのパブリックスペースでは電話をかけるスペースが作られたのである。それが大理石作りのかなりゴージャスなブースと言う形になってしまった。

モバイルフォンの普及によってここに置かれていた公衆電話は撤去されて今はない。我々の時間経過の勘違いと言うことがあるが、今の若い連中などは携帯電話と言うものは幕末の頃からあったのではないかなどと考えていそうだな。
0145名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/04/13(木) 06:25:46.35ID:YouL1bwr0
地下鉄の駅といっても地上をちゃんと走る部分もある。初めてこの130年前の駅を見たときにはオペラハウスかと思った。それほど立派な駅なのである。

ウィーンの旧市街の西側の環状道路に沿って作られている。この路線は高架線であって、地上からかなり上の方を走っている。そしてその下の部分はレンガで包まれた構築物でそこが商店になったり、あるいは飲み屋になったりしている。

昔の古い映画キャバレーに登場したベルリンの交通システムとまさに同じスタイルだ。私はこの高架線の駅の風景を撮るのが好きである。それもプラットフォームの反対側にいる人々を撮影するのは何か非常にドラマチックで舞台芸術を見ているような気分になる。

ギャラリーバウハウスが扱っているモノクロームの作品で、つい最近コレクターが収集したのも、同じ地域でホームの反対側を取った作品である。私のウィーンをテーマにした500ページの2.5キロの重さがある写真集でも、この鉄道の駅のプラットホームは結構頻繁に登場してくるわけで、私のウィーンのモチーフとしては欠かすことができないのである。
0146名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/04/18(火) 05:49:35.22ID:V+0GfQ+20
光文社から出された書き下ろしの文庫である。私の出した135冊の本の中で、これは再販にならなかった珍しい本である。初版8000であったが、内容が面白すぎるので売れなかった。だから、今でもサイン会などでこの本を出して、私にサインを求めてくる人は本物の私の読者だと考えている。

アンブローズ・ビアスの悪魔の辞典は私の大学時代にもかなり話題になった。タイトルをくれたのは、当時のカメラジャーナルの編集長中川である。それでこれを書くためにあと40%位原稿が残っていると言うところで、ハードディスクがクラッシュしたのだった。

当時はiCloudと言うシステムがないから、自分のハードディスクがクラッシュしたらそれでアウトである。しかしそのマイナスポイントをプラスに置き換えてこれこそチャンスと言うので、私はイスタンブールに通ってイスタンブールで原稿を書いた。

イスタンブールのど真ん中にブルーモスクがあって、その向かいが最高裁判所である。どういう理由か知らないが、最高裁判所の隣には典型的なトルコの3階建ての木造住宅がある。それがホテルなのである。3階の3マルイチ号室と言うところが私の常に宿泊している部屋である。あそこら辺は非常にモスキートが多い。

それでバスルームで居眠りをしているモスキートを叩き落としたりした。白い壁は血で真っ赤になった。その赤い血と言うのは私の血液なのである。革命のフランジを高く掲げて進む革命軍と言う感じだな。

このホテルAlserと言うのはよく使ったのだがホテルのオーナーが絶好のロケーションだから改造してきれいにすれば、外国人にはベストのロケーションになるであろうと言うので、大改造を行って部屋代0を1つつけたのである。それで行くのはやめた。

画像の関係で下がカットされているが、腰巻を書いてくれたのは赤瀬川さんである。これも懐かしいね。
0147名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/04/20(木) 16:59:38.41ID:9grbHkQQ0
天ぷらそばの画像を探してトップヒットしたのは、カップめんの天ぷらそばと称する商品である。これは困ったものだ。これは天ぷらそばじゃないからな。

以前はガストロノミーの鬼であったから、取材とは言え、ミシュランレストランを何10軒もハシゴしてえらい目にあった。その反動でガストロノミーから何年も遠ざかっているから、それに関連して蕎麦屋に行くこともないので天抜きで日本酒を飲むと言う習慣から何年も離れている。考えてみれば、酒飲みが勝手に考え出した非常に不健康な。しかもお店に対して失礼なオーダーの仕方だと思う。

要するに、最初からそばを食べてしまうと、腹がいっぱいになるので、天ぷらそばのそばをカットしたものが天抜きであるが、下品な注文であるから、本当はおおっぴらにできない種類のオーダーなのである。

文芸評論家の福田和也さんとよく銀座で飲み歩いて、銀座の老舗のお蕎麦屋さんに入った時に出た話題であるが、何かのライフマガジンで天抜きのことが紹介された。そのお蕎麦屋さんの記事を見た若い人が翌日来て天抜きを注文したら、女将さんにそのオーダーは10年早いと言われたそうである。

実際にそのオーダーは多分通したと思うけれども、こういうものはスピークイージーに近いものであるから話題にしないのが社会の安全と言うものだ。

六本木ヒルズに仕事場があった十数年前の話であるが、帰りに銀座の裏通りで小さなお蕎麦屋さんがあって、そこに入って天抜きで日本酒をいっぱいやるのが習慣のようになっていた。本当は天ぷらも排除した方が良いのであるが、まさかお蕎麦屋さんでおそばのお汁だけくださいと言うオーダーは商業道徳に反する。それで天抜きを注文。

私の長い天抜きの歴史の中で、1番驚いたのは、倉敷の商店街にあるお蕎麦屋さんで、天抜きというのが、なんと印刷されたメニューの中に入っていたことだ。あれにはびっくりしました。
0148名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/04/22(土) 05:31:37.94ID:HPHcbtiJ0
1950年代の終わりに、当時のライフのスターフォトグラファーであったアルフレッドアイゼンスタットが、その時最新型のライカM3に来クラビットをつけるようにライカの会社に提案したのである。当時のライフのフォトグラファーはスーパースターであったから、ライカの会社はすぐにその提案を受け入れて、ライカM3をプロフェッショナルフォトグラファーの時に改造したライカビットAMPを装着したライカモデルMPを発売したのである。

この特殊なカメラは、ライカM3からセルフタイマーを省略したモデルであったが、値段はライカM3にプラスする。50ドル位の価格であった。ところがこれが予想通りというかなんというか全く売れなかったのである。

実際に販売されたのは300台に満たなかった。それでLINEがファンの間ではRy夏モデルMPのカタログは存在しないと言うことになっていたのだが、割と最近その存在が明らかになったのである。

まずカメラの会社の損益分岐点としては当然の話であって、例えばその生産台数が250ユニットしかなかった。ライカの特殊なターレットレンズ交換装置であるが、これはカタログは存在していない。さらにライカの総合カタログにも掲載されていなくて、リーフレットが存在するだけであった。

本物のカメラよりもレアなアイテムである。ライカMPのカタログであるが、読んでみると面白いことが書かれている。つまり、このイラストのカメラマンと同じような次第であって、フィルムの巻き上げは迅速に行うことができるが、フォーカシングはできないと書いてある。

これがライカの会社の非常に正直なところである。ライカM3の場合なら右手の親指でフイルムを巻きながら、左手でレンズのフォーカシングをする事は可能である。ところが左手が巻き上げのほうに使われてしまうとフォーカシングをする。右手がなくなってしまうわけである。

このレアなカタログであるが、私がびっくりしているのはカメラを構えている。カメラマンが実はどうも私のライカの会社の知り合いではないかと言うことなのである。シュミットさんと言うお名前の方で、彼がライカエム8を企画しているときに、結構頻繁で東京に来て有楽町あたりで焼鳥屋でいっぱいやった友人なのである。

シュミットさんはこのカタログばかりではなく、ライカM2とかM3、すなわちライカが最高のレベルにあった頃のカタログに登場しているのである。
0149名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/04/24(月) 05:22:04.76ID:f3iuAIqJ0
そしてその当時のルフトハンザは、ファーストクラスのパッセンジャーにバラの花を1輪を贈呈すると言うなかなか粋なサービスがあったのだが、植物検疫のほうはどうなっているのか気になってそれにフランクフルトに到着してから年寄りがバラの花、いちりん持って旅をするゆとりは無い。手荷物で手一杯であるからだ。

まだ若かった頃にやったらファーストクラスに乗りたがる時期があった。これは1種の病気のようなものだな。今は夢から見ると不思議なのであるが、当時は日本ヨーロッパのファーストクラスのスタンバイチケットというのがあった。

当時のフルプライスだと1,300,000円位だが、その半額位でスタンバイでファーストクラスなのである。こういう変わったのはもう存在しないだろうね。ルフトハンザの話です。2001年以前の話であるから、セキュリティーのシステムが違っているので、ラゲッジをごろごろ引いてサテライトまで行って、そこでスタンバイするのである。

かなり特殊な体験であるので、その時の事はよく覚えている。20世紀末の記憶の1部だ。2001年以降とそれ以前で1番異なったのはコックピットへの立ち入りが可能であったことだ。

20世紀末のルフトハンザの成田フランクフルト便等はコックピットに入ると私が変なドイツ語を話すのでキャプテンが大歓迎してくれた。その時のリコーカメラで撮ったスナップショットと言うのはハードカバーの写真集に入っている。コックピットには、キャプテンが渋谷のタワーレコードで買ったLPレコードがたくさん積まれていた。これペイロードに問題あるんじゃないの?などと私が冗談を言ったりした。

その当時のロシアの区域を飛ぶときはバーチカルセパレーションであるとキャプテンが教えてくれたあと30秒後にフランクフルトから北京行きの飛行機がすぐましたをすれ違うからと言うのである。何も見えなかったが私の目が悪いので直前になってルフトハンザのジャンボが我々コックピットの3000フィート位下の方を反対方向に飛び去っていった。
0150名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/04/25(火) 05:30:36.90ID:VvpvaKUD0
ガラクタ屋さんの2代目のお父上は小豆島出身である。それで30年近く前に小豆島に招待されてそこで講演会をやったことがあった。

小豆島の次の私の予定はイタリアのシチリア島であった。それでオリーブがどういう感じであるのかと言うのをイタリアに行く前に小豆島で勉強していったのである。買取名人によれば、小豆島のオリーブは地場産業として最近できたと言うお話だったが、調べてみたら、なんと100年以上前からオリーブ栽培をしているのである。

大阪城の石垣は、小豆島の石を切り出して、それで作ったと言う話を聞いた時、映画24の瞳の撮影現場とか、いろいろ名所旧跡を観光バスで案内してもらった。伝統的な農村歌舞伎をやる古風な舞台があって、その近くで餅つきをやっていたところに遭遇して、買取名人はそこに飛び入り参加で非常にうまくお餅をついたのでびっくりした。

こういうのはまさに体が覚えていると言うことなのであろう。

ところで、うちのマンションの前に立派なオリーブの木が植わっているのである。そのオリーブの葉っぱを見ながら、イタリアとか小豆島を思い出していたのであるが、しご年前の台風の時に、この写真のオリーブが根こそぎ、強い風で倒されてしまったのであった。

それでそのオリーブの木がまた復活するのかと思ったら、そのままどこかに運び去られてしまったのは残念であった。もともと建物の立っている柄が駐車場の広いのがあるわけだから地盤がしっかりしているわけではない。それでオリーブの木がしっかり地面の中に音を貼ることができなかったのであろう。。
0151名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/04/27(木) 05:19:32.86ID:1NvuUkrW0
亡くなった写真家の須田さんと東京を撮影しながらいつも2人で冗談に口癖のように言っていた言葉が-あるそれは

モチーフから引いて引いて、、コンプラ大明神様が乗り移り

と言うような地口であった。つまりコンポラ写真で重要なのは撮影距離を詰めることではなくモチーフから引いて周りの環境を入れ込んで全体の印象を薄めてしまうところにその目的があると言うわけだ。

つまりリアリズムの写真と正反対の距離感を目指しているのがコンポラ写真なのである。それでエプソンがあるディーワンで撮影したこの2枚の写真であるが左側のページのぶら下がっている生ハムとその隣のレストランでメニューを真剣に眺めている人の写真の距離感の事について触れてみる。

生ハムの写真だがこれが旅行雑誌などであれば生ハムにもっとクローズアップしてその生ハムの人生の重みや深みを撮影しないと商売にはならない。一方で右の男性が有名な舞台芸術家であったりするとやはりドキュメンタリー写真としてはこの親父さんにカメラは接近して舞台演出家としてのうまさとか深さと言うものをクローズアップすると言うのが普通のやり方である。

ドキュメンタリーの連中に言わせるとカメラの撮影距離がモチーフから遠いと言うのは最初からアウトなのである。土門拳がいつも提唱していたこれは彼らの重要なセオリーなのだ。

一方で我々コンポラ軍団は逆のところに価値を見出している。カメラがクローズアップする事はその人鳴り物なりの本質を見失わず行っていることだ。演劇写真とかミュージシャンのライブ映像とか、間に無意味に人物をクローズアップして、その不自然な演技をキャッチすることがリアリズムの本質であると言うような変な考えを私は持っていない。
0152名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/04/29(土) 05:10:38.70ID:iOjRSt/p0
中学1年の時に父親に買ってもらったカメラがニコンエフフォトミックであった。これはご承知のようにTTLではなくて外部速攻色のCDエスメーターなのである。同じ時代のライカの場合は、ライカメーターエムアールというのがあって、これは必要に応じてライカの上に取り付けると言うシステムだった。

ニコンエフのその以前の電気露出計と言うのは、寝込んメーターと言ってセレン式の露出計であった。これはうまい具合に三角型のペンタプリズムを覆い隠すような感じでカメラの上に取り付けることができるし、それをまた外すこともできる。

セレン式のニコンメーターを寝込んエフに付けたときの感じと言うのは、何か御神楽の舞台のような感じで、そこに極めて日本的な美学というか、精神構造を感じるので私は好きである。

それで手元にいくつかのニコンエフ用のニコンメーターがある。それらはガラクタ屋さんで手に入れたものが多い。もちろんその時代のセレン式メーターであるから動かない。しかしこれだけ古くなってくるとセレン式メーターが動くか動かないかと言う事は、大した問題ではなくなってくるのだ。ちなみにガラクタ屋さんで買った1936年のアメリカのウェストンが作った世界最初の電気露出計はちゃんと作動していて今でも露出を継続することができる。

 話を戻すと、1番最初の外部から光を速攻するニコンのフォトミックファインダーはそんなに使っていて違和感がなかった。それが改良されてTTL方式になってしまうと、その全体のフォルムがやたらかさばっていて、私にはへんてこりんに思えたのである。

だから、今まで長いこと、ニコンエフとお付き合いしているが、フォトミックファインダーのついたカメラを使った事は1度もない。それで今回どんな気分なのか改めて使ってみるとカメラをホールドしてしまうと、別にあの不格好なファインダーのフォルム等は気にならなくなるのだ。
0153名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/04/30(日) 15:01:31.07ID:xvXtCmyt0
iPhone 3の頃に何が話題になっていたかというと今ではお笑いなのであるが黒川紀章さんの息子さんもiPhone G3を使っていて撮影した画像をすぐ第三者に送ることができると言うことで、そのレベルでワクワクしていたのだから懐かしい時代である。

それで私もiPhone G3を使うようになったがほとんど役に立っていなかった。本格的にiPhoneを使うようになったのはその次のジェネレーションの4ではなくてさらにその次の5である。

iPhone4に関しては私はずいぶんいろいろなところにエッセイを書いたのだがそれはiPhoneジー4が出たときにスティーブ・ジョブズがこの新型のiPhoneはクラシックライカのように美しいといったことだ。スティーブジョブスの本音はわからないけれどもよく言ったものだと思う。

その後iPhone5から本格的に使うようになったがその理由はテザリングができると言う事だった。これが15年近く前の話であって、当時は外を歩いていてもただ漏れ電波等はどこにもないので自分で電波の発生の本を持ち歩く必要があったのだ。

その後iPhone sixを使うようになってかなり時間が経ったがそれも壊れてしまったので数年前に家人が使っていたiPhone SEをお下がりでもらったのである。家人のほうはアンドロイドとか言う私からすると知らないブランドを使うようになった。

iPhone SEを使うようになった犯行の動機は古い友人の野々宮が登場したときに第一世代のSEを使っていたのでそれを真似したのである。

それで私と私の周辺がiPhone SEを使うようになったのだが、この間ギャラリーバウハウスのトークをやったときに野々宮が来てくれて彼の使っているのを見たらiPhoneの13とか14とか言うような最新型であった。彼はアメックスのグリーンカードをずっと使っていて私はそれに影響されて私のプラチナカードからグリ段階を落としたりしたこともあったのでこれはなんというかシンプルなiPhone SEを使っている飲み屋がいいと思っていたので友人に裏切られたと言う感じですね。

それで思ったのであるが、クラシックiPhoneユーザクラブの設立をここに宣言するものである。共産党宣言みたいなものだな。
0154名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/05/03(水) 04:59:50.80ID:sJVG3jCr0
雑司ヶ谷マーケットがどこにあるかと言うのを口で説明するのはかなり困難なことである。雑司が谷の迷路の中に分け入ってウロウロして完全に方向がわからなくなったなぁと思っているときに、雑司ヶ谷マーケットは忽然と眼前に出現するのである。

雑司が谷のこの界隈は、リスボンのアルファマとよく似ていると思う。しかし、道の関係を理解するには、極東の雑司が谷の方がはるかに難しい。リスボンのこの迷路は1980年に初めて訪問して、それから20年経過した。2000年にはもうその迷路の全体を理解することができた。

一方で、雑司が谷のラビリンスのほうは、初めて出会ったのは、私が子供の頃1950年代であると思うが、全体の迷路の構造を理解できても、ここからあそこに行くにはどうしたらいいのかと思った。完全に把握したのは少なくとも50年はかかっている。

雑司ヶ谷マーケットは2つのパラレルな細い道を南北に結ぶ通り抜け道なのである。通り抜け道と言うのは、ウィーンとかプラハなどでも伝統的な路地裏のマジックとでも言うものであって、2つの地点をショートカットするには非常に便利な。しかもレベルの高い通り抜けの道なのだ。

この通り抜け道には、魚屋とか生活必需品のお店が並んでいて、その道の真ん中あたりがこの靴屋さんであった。その靴屋さんの靴の看板の存在感が、いかにもマニエリスムの精密に書かれたエッチングのような感じがして、雑司が谷に行くときには、これを鑑賞するのが好きであったものだ。

この名物看板がなくなって、すでに10年は経過しているであろう。
0155名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/05/04(木) 12:32:20.43ID:plRHrU120
2週間滞在の間にヘルシンキのメトロのほとんど全部の駅に降りて路面電車も全部の路線に乗ってみた。それでもう充分と言うことになったのは、私が街を探検して歩く時は徹底的な絨毯爆撃の撮影をするのであるが、それをやったのであっという間に街をみんな見てしまったわけだ。

軍用カメラのレプリカで、ヘルシンキの街を撮影して、まず20本位の成果であったがなかなか手ごたえがあった。ところがカラーネガで撮影して現像の上がった。そのフィルムを私は佃島のカメラジャングルで噴出していまだに発見できないのである。

軍用ライカのフェイクで撮影したので、ライカの神様が撮影現像済みのネガフィルムをどこかに意地悪して隠してしまったとしか思えない。

スオミの言葉は、ヨーロッパ系とも違う独自なものなのだそうだが、発音が日本語に似ているやつもあって、メトロのステーションの名前でカラス頭と言うところがあるのが面白くて、いまだにそれをよく記憶している。

ヘルシンキ在住の遠藤さんにヘルシンキの1番危ない。街に行きたいと言ったら場所を教えてくれて充分注意するようにとサジェスチョンをされた。電車を乗り継いで。その場所に行ってみたらいい。天気のお昼すぎて誰も歩いていないのでがっかりした。1980年代のマンハッタンの危なさを知っていると、どうも基準が変わってしまうようである。
0156名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/05/13(土) 18:21:47.25ID:SUKBPKZL0
ジャンリュックゴダールは、毛沢東思想が変形した疑似的な共産主義者でそれを商売にしていたようなところがある。それでフランスのスタジオに据えた、巨大なミッチェルカメラの前で自分の想像するベトナムを語っているのである。

一方で、オランダ出身のドキュメンタリー映画作家、ヨリス・イヴェンスは、ハノイに飛んで、北爆の警報の鳴っている中、北ベトナム兵士がマンホールの中に隠れると言うショットを撮影している。

その場所は今でも存在していて、ハノイの中心部の一角で、ホーチミンの巨大な肖像画が掲げられている広場の場所で、北ベトナム軍の兵士が隠れたマンホールと思われるものも現存している。

それほどベトナムは遠く離れていたのだ。

それの言葉の関連として、私が今口の中で反芻しているのは、ガストロノミーを遠く離れてと言うワードである。バブルの頃に、今とは日本のマネーのパワーが全く違っているから取材であったとは言え、世界中のガストロノミーを体験できたことは私の財産といってもよろしい。

大体ブルゴーニュ2週間行ったり来たりして、毎回の食事が全部最低ミシュランの一つ星であるなどと言うのは精神的にも身体的にもいいわけがない。ロマネコンティの畑がサッカーグラウンド位の小さなスペースであったなどと言う。真実の発見はそれなりに素晴らしかった。

私のミシュラントラベルは唯一教わった事と言えば、ヌーボー料理はやたらすぐ皿がでかいと言うことぐらいであった。しかも取材の間私はひどい腰痛にやられていて、旅の最後の方でオペラ座近くのホテルにいた時は、もうベッドから起き上がれなくて、同行のエディターにジャンボサンドとミネラルウォーターを買ってきてもらった位である。ミシュランの贅沢三昧の最後がこういう結果というのが象徴的でした。

ガストロノミーを遠く離れたハノイの1番の味の素の巨大な袋が北爆の時代のハロウィンと異なることを強烈に感じさせる。しかしこれは北爆より質が悪いガストロノミーからの逃走である。
0157名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/05/14(日) 00:32:11.55ID:DFg2sKNx0
135冊ぐらい本を出していて、そのうちの写真集は30冊位だと思うけれど、残りはカメラ本である。だから私の名前を認識している人はカメラ好きなじいさんと言う認識があるわけで、これは間違っていない。

しかし、その他に30冊は真面目なストレートフォトグラファーとしての仕事を発表しているのであるが、そちらのほうはあまりカメラ付きの人は評価してくれないようである。まぁそれはそれでよろしい。

スーザンぞんたくが音フォトグラフィーでも指摘しているが、シリアスな優れた写真家は時代遅れの単純なカメラを使うとある。その時代遅れな単純なカメラはらいたであったりすることが多いが、我々が大問題なのはそういうクラシックなカメラをたくさん集めて、細かいことに興味を示してばかりいて、写真表現のほうに全く焦点が向いていないと言うところにある。

とにかくライカ本はよく売れるので、私も1番たくさん出したのがライカにまつわる本であって、これがコンタックスの本になるといきなり売れなくなると言うのも市場原理であるから、今更文句を言っても仕方がない。

ところで、このライカ本のカバーなのであるが、こんな本を出した事は無いというのが、私の最初の良い認識であった。確かこの本は、ライカエム4のブラックペイントがカバーになっているはずである。それがなんで古いバルナックライカになってしまったのだろう?

それで気がついたのは、ブックデザインの人が何種類かのデザインを上げてきて、それをディスカッションで選ぶというのがこういう編集作業の普通のプロセスであることを今更ながら思い出した。

つまり、これは実際の出版には至らなかった。本の1つのエグザンプルなのである。去年出した東京の写真集もそうであって、あの時は3つや4つではなくて5つ下6つの表紙のサンプルが登場して最終的に決まりかかった拍子をもう一回変換させて今出ているようなToday Tokyoの写真集の表紙になった。

ところが心理的には面白いもので、実際には実行されなかった方のカバーというのが実は良かったのではないかと言うふうに思い出してしまうのもまたいつもの状況なのである。
0158名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/05/18(木) 05:17:48.61ID:vOTuwiM20
50年前のウィーンでは牛タンと言うのは安いもので、大きな市場に牛や豚の内臓を専門に扱っているお店があって、そこでよく買ったものである。大きな牛の舌が500円位だった。それで色々と手間ひまかけて美味しく牛タンを食べていたウィーン時代であった。

日本に生活するようになって、今から四半世紀前だが、京都の錦小路の裏手にある肉屋の前を通ったら、牛タンの加工品、スモークしたものだが、それを売っていたので1本丸ごと買ってきた。その値段が三千半なので、牛タンもずいぶん出世したなぁと感心をした。

佃島に暮らすようになって、3十数年になるが、近くの業務用スーパーで1時は冷凍の牛タンを売っていて高いと思いながらも買ってたんシチュー作っていたのであるが、最近は品物が見えない。

と言うよりか周りのFacebookの書き込みなどを見ていると、これはお金持ちが腕自慢で休みの日に牛タンを買ってきて、シチューを作ると言うようなかなり高度なレクリエーションになってしまったらしくて流通の経路が私の手から外れているのは当然だと思った。

一昨日の話だが、我楽多屋のにだいめさんが家にわざわざ来てくれて、2時間半にわたって写真のバトルトークをしたのは非常に楽しかった。その他にも楽しいことがあって、昭和20年代2眼レフを35ミリフィルムで使うレアな付属品を譲ってもらったりしたのである。

しかし、それより嬉しかったのは、この写真に示すようなタンシチューの缶詰をもらったことだ。東日本大震災でやられた石巻には知り合いもいるけれども、その石巻の水産加工業者が5年間と言う長い時間をかけて作ったのがこの牛タンのシチューだと言うのである。

私はヨーロッパ仕込みのシチュー作りとしては自信を持ってるから何か文句を言ってやろうと思って食べ始めたのだが、これなら100%合格と言うわけにはいかないけど、合格点は与えられると言うのでアマゾンなどで扱っているのでこれを買うことにした。

ガラクタやにだいめさんはご自身でも牛タンが好きだと公言している。美食かであるから、そこら辺の具合は信用できる。牛の舌もなかなかうまいものだが、人間の二枚舌とは違うのでもともと信用できる。
0159名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/05/21(日) 08:01:10.28ID:qaPGGIu30
12年ほど前のFacebookを見たらその5年前に西安に行ったときのことが書いてあった。これはマイレージのポイントが余ったので、ニューヨークに行こうとしたら、それには足りなくて中国の西安だと往復できるのである。

それで出かけたらJALのビジネスクラスの客が私1人でエコノミークラスも20人はいない位のガラガラだった。ビジネスクラスの飛行機の1番後ろにキャビンアテンダントさんが毛布をかぶって寝ている。エコノミークラスの1番後ろでゲームをやっているジェントルマンがいて、服装を見ればキャプテンであることがすぐわかる。

キャプテンに話を聞いたら、要するに西安の滞在時間が短いので、クルーは外に出ることなくマシンの中で交代してそのまま戻ってくるのだそうだ。大変な仕事であると思った。

2週間ほど西安の街を歩いて行ったり来たりして、城壁もぐるりと半分だけ回った。ウィーンの城壁などはすぐ取り壊されてしまうが、中国の城壁はなかなか頑丈である。この城壁の上で西安マラソンでもやったら面白いのではないかというのが私のアイディアだった。

中心部のホテルから歩いて、城壁の北西の方向にラマ教寺院があってそこを撮影した。その先のほとんど城壁の壁がそそり立っている。手前のところにラーメン屋さんがあった。と言うよりx虎面店と言う屋号であるが、最初の一文字は忘れてしまった。皮肉なことに西安にいても、虎と言う文字を見ると、ガラクタやにだいめを思い出すのである。

大変な人気のお店のようで非常に混んでいる。食べているのは皆さん炸醤麺である。これが非常にうまいので西安2週間の間に5日間毎日通ってお店の人に私の顔覚えてもらった。

それで時間は17年経過して地元のスーパーで喜多方ラーメンを買ってきたが、スープの塩分が8.3グラムもあるのでとても食べる勇気は無い。それでカジンガ考えて炸醤麺のようなものを作ったので、17年前の記憶をもとに味を復元してみたら、結構食べられる偽物の西安の炸醤麺ができた。
0160名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/05/22(月) 14:06:43.88ID:plKTLXir0
ウクライナから0円スキーが駆けつけて、結局平和の集まりではなくて軍拡を確認する集まりになってしまったのは大笑い。地元の高校生のインタビューでは、なぜロシアからプーチンを呼ばないのかと言う正しいコメントもあったのは凄いと思う。

宮島に行って偉い人が入り口でリラックスしている写真はいい感じだが、日本のネトウヨ界隈からするとけしからん行動であると言うことになるらしい。しかも手前に英語と日本語で座るなど書いてあるんだからけしからんと言うのである。G7のメンバーをこういう形でリラックスさせるのが嫌ならば、岸田は最初からそのことをG7のトップに伝えておくべきだった。

ヨーロッパ人もアメリカ人も普段は環境が良いから、パブリックスペースにベンチがあるけど、日本の神社はヨーロッパのチャーチと違って、座るところがないのが基本の基本だから偉い人も疲れたので、こういうところでちょっと休憩しただけの話。

ルールとしては、座ってはいけないところを欧米人の感覚でどうやって見分けるかと言うと、例えばウォールストリートであるが、トレーダーは昼休みにそこら中で座ってランチを食べたりしている。

それで管理している連中の方としては、座らせたくない所には金属の棘が生えたプロテクターを置いてあるのだ。これならばちゃんとわかる。これならば、物理的に正解である。

だから、この神社もG7に欄干に座らせたくないのなら、金属の棘をここに生やしておけばよかった。英国首相はヒンドゥー教だから特別に興味を持ったのでやろうな。

今回のG7のトップの映像の中でこれが1番リラックスしている感じがして私は好きです。英国の首相インドカレーの配達人と誤認したバイデンプレジデントはやはり辛そうに見えるね。しかしやはり顔が違うような気がするけど、そこら辺どうなんだろう?
0161名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/05/24(水) 06:03:19.73ID:s0htSGMF0
六本木ヒルズで仕事をしていた時はあそこはライブラリーなので私の本が本棚の右から左まで50冊以上並んでいた。だからエッセイを書いていて何か調べたいときには非常に便利だった。

ガラクタ屋さんに最近入荷したChotoku本がこれだけあるのにびっくりした
何にびっくりしたかと言えば言うまでもなく20年ほど前はカメラと言うものは全部フイルムカメラがメインであったと言う厳粛な事実である。

そのフイルムカメラが当時新品でも20年経つとクラシックフィルムカメラになる。それでクラシックなフイルムカメラは今見ても今この本を読んでもそれなりに面白いのである。ガラクタ屋さんもそうだけど最近の若い連中を中心にしたフイルムカメラのブームも興味深い。

一方で20年以上前のデジタルカメラと言うのはまずスペックからしても相手にならないと言うわけで読む元気もなくなってしまう。

フイルムカメラの命に長くデジタルカメラの命短し

私は自分が出版した本は持たないことにしているがプレゼンテーション等でどうしてもペーパーに印刷された本が必要になることがあってその時は全国のチェーン展開の日本の古本屋で探して買うことにしている。

私の本がよく発見できる古本屋さんと言うのは立石に1つと千葉の八幡に1つあった。でも最近ではガラクタ屋さんに私の方が在庫することがあるので大抵写真集などはガラクタ屋さんで買っている。値段も安いしね。

古本屋さんの間で稀覯本と言うのは数が少なくて高い本である。例えば私の出した本のタイトルで東京ニコン日記とか、Chitoku@workと言うタイトルの写真集などは稀覯本ではないけれども数が少ないので登場するとかなり高いことになる。

私はペーパーの出版物に関してはオンラインの方が攻撃力があると思うからこれからはペーパーに印刷した本は出さない。ただし例外はペーパーに印刷された写真集は重要だと思うのでこれからも出すつもりだ。

いつも不思議に思うことなのだが、テレビなどで登場するタレントさんはペーパーの本を出版することにかなり価値を見出しているというのが時代錯誤で滑稽だと思う。
0163名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/05/27(土) 10:57:07.07ID:PraeADrq0
ライカカメラが素人さんを騙す、しょうもないエム型ライカの新製品を次々に出している中で、私が唯一認めているのがレンズ交換のできない28ミリレンズ付きのこのシリーズである。

ライカQ3の新製品のインフォメーションで出ている。上の2つのタイトルは象徴的で非常に気に入った。

逆に心配しているのは、今までエム型デジタルライカに騙されていた皆さんが、真実のカメラの存在に気がつくと、ライカの売り上げを引っ張るのではないかと言うことだ。つまり、ライカの会社は、勢いがついて本音を言ってしまったというところが笑える。

ライカデジタルオタクの皆さんは、画素数が60,000,000になったとかこれで900,000円と言うのはお買い得だといろいろデジタルライカ床屋談義をしているのが面白い。

ライカQ2が出たときに自分の使っていたライカの最初のQと比較したバーチャルレポートを書いたことがあるが、それは実際にライカの新型を手にしたレポートではなかった。要するに、スペック上で比較すると言うことの無意味さを批判しているのである。

日常性に寄り添ったデジタルカメラと言うキャッチコピーはなかなか迫力があってよろしい。日本製のほとんどの高級デジタルカメラが追っかけているところは単なる高性能であるから。

カメラメーカーのビジネスにしてみれば、交換レンズで利益を上げると言うところを最初からレンズ交換ができない。28ミリというのが評価できる。

思えば、ライカの会社とパナソニックが一緒にビジネスをスタートしたのが、2001年のことであったから、その時間軸を思い出してみるとなかなか興味深い。その時、その仕事でライカの本社に行った時にワールドトレードセンターがアタックされたのだった。
0164名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/05/28(日) 13:49:45.37ID:T86rMaDB0
新書サイズのユニークな写真集。東京ニコン日記である。四半世紀前に約3000枚の東京のプリントを作って、その中から700点位を選んで分厚い新書版の写真集になった。

その頃の私の考えは、この新書版の写真集は、きたるべき、東京の写真集の予告編と言うつもりだった。それから四半世紀が経過して、ハードカバーの東京の写真集Today Tokyo が昨年出版された。

サイン会等で東京ニコン日記を持参して、サインを求める人を私は尊敬の目で見ている。私の仕事を1番正しく理解してくれている人だなと思うからである。

この本は最近では結構レアになってきて、私なども日本の古本屋にリクエストを出してあるのだが、なかなか発見できない。たまに発見できても10,000円位する高価な本になっている。

Facebook友達の猫の中田さんは、幸福姉妹と言うお二人の猫のお父さんである。ついこの間結婚23周年を迎えられたそうである。おめでたいおめでたい。

その猫の中田さんであるが、奥様が病院に行くときの付き添いで持参したのがこの東京ニコン日記なので、私としては結構嬉しくなった。病院の待ち時間と言うものはなかなか難しい時間つぶしであって、私などは書きかけの原稿を書くことにしているが、こういうアトランダムでやたらと写真の数の多い本をペラペラめくるのは非常にクレバーな方法だと思う。

それでFacebookで中田さんが指摘したのはこの見開きページである。中田さんのご出身は高輪であって、例の有名な高輪消防署が撮影されている。もう一つのページには目白台の東京カテドラルが写っている。

誠に編集の偶然とは言いながら、この見開きページは中田さんのルーツがそのままにそこに具現化されているのである。中田さんは、目白台の急な坂を下って江戸川を越えたところにお住まいなのだ。
0165名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/06/03(土) 00:52:51.68ID:tY2A88IN0
Josef Sudekのアトリエと言うのは、プラハのモルダウ川のほとりからちょっと西に入った普通の建築物の中に入った。2つ目の中庭に建てられたガーデンハウスであった。

1番有名なシリーズは、真冬の氷付いたウインドウを撮影した1連の作品である。それともう一つ注目されるシリーズは、彼の非常に乱雑なアトリエでそこら辺に落ちているペーパーとか空き瓶とかグラスとかガラクタで構築された。1連の作品シリーズでこれが素晴らしい。

ガラクタと言っても、歴史と美術の街プラハのガラクタであるから、そこには少なくとも数百年の時間経過があって、バロックの影がガラクタに斜めから照射されているのである。だから単なるガラクタがガラクタではなく、マニエリスム的な存在感がそこに漂うのである。

それと、彼の作品ですごいのは日常的に食べている。ゆで卵とかひときれのパンをちゃんとモチーフにしていること。その光の使い方が素晴らしいのであるが、それは自然光で窓から差し込んだ逆光なのである。そこら辺がこの光のコントロールする大変なマエストロと言うわけだ。

私の34年間、暮らしたプラハのアトリエの角にはこの大写真家が実際に撮影に使った縦3センチ× 18センチの蛇腹カメラが置いてある。私の日本カメラから出した。3冊のカメラの本のシリーズの1番最初の表紙には、この偉大な写真家が使ったカメラと、実際に彼が撮影したのと、同じアングルでプラハのセメトリーを撮影しているのである。

プラハのアトリエには、ちょっと幻想的な光の反射が見られるアクリルのキューブがある。そのうちの1つをプラハのアトリエから10,000キロ東に持ってきて撮影したのがこのワンショットである。

ライカインコのフィギュアは、2009年前後に我楽多屋の2代目さんからもらったもので、スティルライフとしてはうまく機能していると思う。

数多くの名作が撮影されたJosef Sudekもう悟りであるが、第三者がそこに入って撮影した記録写真では、足の踏み場もないほどの雑駁な居住空間なのである。それが写真家の手にかかるとそういうマイナスなポイントは一切見えなくなって、光と影の幻想的空間がそこに出現すると言うのは、やはりこの写真家は凄いと言わざるを得ない。
0166名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/06/04(日) 21:58:43.01ID:rTMn/ew+0
私の好きなフランス翻訳者の堀内大学の日本語訳を愛読していた私であったが、結婚して数年後にいきなり家人が堀口大学は親戚にあたると聞いてびっくりしたというか嬉しいというか戸惑ったのである。

家人の父が亡くなってしばらく経って遺品の整理で新潟に行った。カジンガ古いアルバムから2枚の写真を剥がして持ってきた。うちの1つがこれである。私の知っている堀口大学はかなり晩年のものでどっかの呉服屋のじいさんみたいな写真であったが、このアルバムから話されたら写真は、青年の堀口大学である。

文芸評論家の福田和也さんにこの写真を見せたら、こんなに若い時代の堀口大学の写真は珍しいと言っていた。

写真は2枚あって、これは奥様のお子さんが撮影したものだと思われる。もう1枚の写真は3人のお子様が写っていて、これは奥さんが撮影したらしい。

この写真に接して、すでに20年ぐらいなのであるが、以前から疑問だったのは、なぜバルコニーに全員揃って記念写真を撮ったのかと言う事だった。

さっきその理由がわかったのである。

理由は単純である。この時代のカメラのフイルムの速度と言うものは、この写真が撮られた背景を見ると、マストのついたクラシックな船が写っているような時代であるから、室内で写真を撮るのは不可能である。それでバルコニーに全員が顔を出して、それでようやく適正露出で撮影できたわけだ。

永井荷風の断腸亭日常を読んでいると、堀口大学がメキシコあたりからインキスタンドを送ってきたと言うので、感謝している行がある。そんな背景で、私は単調体に特別な感情を持っているわけだ。
0167名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/06/09(金) 05:47:26.26ID:hUdLy0o70
昨年の春のギャラリーバウハウスの写真展の時に、私のトークショーに来てくれた人である。しかも2回。トークショーに両方とも来てくれて、2度目のときには私のポートレートを手渡してくれたので嬉しかった。

20年間看護のお仕事をしていて、今ではその方面のスペシャリストで大学でも教えているそうだ。それで最近東京の中野方面に引っ越しされたそうだが、いきなりカナダに居住することになったので私も感心しているのである。

池を見ると言う名前が哲学的でよろしいね。しかも彼女のトロントで開催された展覧会の右上のほうに私のポートレートも展示されているけれども、このアーティストのやる事は正統派キュビズムと言うところがあって、パースペクティブの分解が自然に開始されているのである。

最初池を見る人から、私のポートレートをニューヨークで展示すると言うメールが来たので、これは面白いと思っていたら、何でもナイアガラフォールズからニューヨークに徒歩で入国できるところで入国を拒否されたのだそうである。別に彼女が政治的な危険人物であると言うわけではなくて、ESTAを取得していなかったので入れなかったらしい。調べてみたら、昨年の10月まではナイアガラの滝から徒歩でアメリカ側に入国できたそうである。レギュレーションが変わったのだな。

それで池を見る人は、今ではトロントから移動してモントリオールに滞在することになったらしい。これが日本を出発してから10日目なのだから、エキセントリックである。

我々の世代から見て若い人がなかなかやるなと思うのは、言葉はしゃべれなくて当たり前。それで翻訳ソフトのデバイスなどを使って意思疎通をしていると言うのは逆にスマートだと思う。
0168名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/06/10(土) 07:21:49.08ID:VVX7Nscu0
1970年代にウィーンで使っていたカメラと言うのは別に今使っているカメラと変わらないんだね
5年ほど前70歳になった時にガラクタ屋さんを中心とする悪の枢軸の皆様が盛大なパーティーとそれに付属して写真集を作ってくださった。誠にありがたい次第である。

その悪の枢軸の3人のうちの写真家の狩野さんが私が預けた50本ほどのいや実際には49本であったのだがそれをセレクションしてくれた。後十数ページの写真集だが全部の画像が縦画面というのが気にいった。

その後私が75歳になった時も記念に同じ体裁の写真集を悪の枢軸我楽多屋さんが作ってくれたのである。これも画面構成は全部縦画面である。片岡義男さんが喜びそうな本のデザインだな。

その時狩野さんが私に送ってくれた使わなかった写真の中に当時のウィーンのアパートメントで私がその頃使っていたカメラを床に置いて撮影した写真がある。それで私が感心したのは今使っているカメラと全く同じカメラの構成であると言うこともあるが、私の住んでいた100数十年前につくられたアパートメントの床が寄木座異空であると言う事の方が余計にびっくりしたのである。

^_^そこに置いてあるカメラを細かく見ると1番面白いのはライカのレンジファインダーを外したモデルエム1が見えるがそれにはライカビットが付いている。さらに驚いたのはその初期型のエム1は巻き戻し機構がデンバーではなく押しボタンなのである。このカメラを手に入れたときのこともよく覚えていて確か1970余年の雪の深い日に家から歩いてウィーンの西駅の近くにあったカメラ屋さんで手に入れたのであった。その時の値段は3600シリングだったからまず60,000円と言うところか
0169名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/06/11(日) 04:58:12.74ID:KB2zJdUU0
20年位前だったかな?新宿のヨドバシカメラに行った時に私に声をかけてくれたジェントルマンがいた。この人がJTBの加藤本部長であって、あの当時はシートアサインがまだシステムでできないので、ヨーロッパ行きのシートアサインを本部長にお願いして座席の予約をしていただいたのも懐かしい。

本部長のお嬢さんの名前がライカちゃんと言うので、大昔のガラクタ屋さんでかわいい女の子に会ったこともあった。

妙蓮寺と言う場所は日本独特の地形であって、似たような場所で、ヨーロッパアルプスだとかなり高いとこにあるから、私のようなのが後期高齢者のアルピニストは楽しめない。

妙蓮寺の辺りは見晴らしの高台なのである。本部長は、我楽多屋さんが企画した悪の枢軸の重要ポストなのであるが、お住まいが妙蓮寺で、この肉屋さんで本格的な赤いチャーシューを私に教えてくれた方なのである。

日本郵船の氷川丸の1000ページの写真集を作った関係で撮影ポイントから1番近くのニューグランドにいつも宿泊していたのである。それで本部長に教えられて妙蓮寺の伊藤精肉店に行って、赤いチャーシューを500グラムほど買った。そういう買い方をする人はいないらしくて、投機筋の外人と勘違いされたようである。

思えば、あの赤いチャーシューを500グラム買った時は、私の帯状疱疹がスタートした時であって、その後2年間ぐらい大変な思いをした。ニューグランドで赤いチャーシューでいっぱいやってゆっくりお風呂につかった時は体調が戻ったのでそのまま帯状疱疹が治ったかと思ったのであるが、実際にはこれが長い闘病生活のスタートであったのだ。

その翌年の春に完全に治っていないままにパリに行ってニコンSPで撮影をした時は私は左手は完全に使えないので、パリのそこらここらにある。緑色のベンチに座って右手だけでフィルム交換をしたのが懐かしい。

妙蓮寺の高台から降りていく左側にある集合住宅の糸杉を見て、ピカソを思い出したのも記憶に新しい。
0170名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/06/16(金) 07:06:50.63ID:xObgrrIO0
そのサイズはベルギーのワーテルローの巨大なパノラマにはかなわないけれども、それよりはるかに小さいけれど、独特な存在感がある。それは小学校の理科室で見るような人間の手作り感覚なのである。豆電球の光の砲弾がピカピカ光ってディエンビエンフーが攻撃されて背景のボール紙でできた空が赤くなる。

これはベトミンの攻撃なのである。一方で、最後の戦いで必死に防衛するのはディエンビエンフーのフランス軍だ。このパノラマシステムをハノイの博物館で見て、私は急にディエンビエンフーに行きたくなった。

ハノイからディエンビエンフーは列車はなくて車だと2日と12時間で徒歩だと6日と5時間ぐらいかかると言うのをソフトウェアで知ってびっくりした。それで私はベトナム航空でハノイ空港からディエンビエンフーに飛行したのである。

しかし飛行機の連絡が悪いから、いずれにしてもハノイには1泊しなければならない。それで翌日の昼過ぎに到着したディエンビエンフー空港はもともと日本軍が作ったとこらしいが、街の中心部から歩いて1キロメーター位の近距離にあるのだ。世界で最も都市部に近い空港であろう。

到着した初日は様子がわからないで、小さな街と言うよりも村を歩いていて、食事ができるところがどこにもない。食品を売っているところもない。それで部屋でプチ断食をして翌日街に出てみたら、川の近くに巨大なマーケットがある。それは朝に開いてお昼ごろにしまって何もなくなっているように見えるのだ。

その市場をぶらぶらしていたら、川魚の大きいのを焼いているのである。それを注文したら焼きたてをバナナの皮に包んでくれた。これの味が非常に良いので30%位食べて残りの70%は家人のお土産と言うことで、しっかり冷蔵庫に保管して数日後に東京に持ち帰って家人に食べさせたら今まで食べた川魚で1番おいしいと言うので、面目を施した。

ところがディエンビエンフーからハノイを経由して東京に行く飛行機便は連絡が悪いので、午後の飛行機でハノイについて空港のそばのホテルにいっぱくしたのである。このお魚と一緒にディエンビエンフー名物の重さが2キロ位あるチキンのハムをお土産に買ったのである。
0171名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/06/20(火) 06:22:20.35ID:D4wJ+iAG0
パッケージツアーと言うのは当然のことながら1度も参加したことがないと言いたいところなのだが、実は1度だけ参加したことがある。25年以上前のことで厳密な年代がわからないけれども今はもう廃刊になった日本カメラのドイツのカメラ見本市を取材すると言うのでホテルも飛行機も何も取れないような状態だったのでそういうときにはこういう手があるのかとびっくりしたのであるがその当時の梶原編集長と私はあるパッケージツアーのメンバーとして2人分だけそこに滑り込んだのである。

そのルートについては既によく記憶していないのであるがフォトキナがらみと言う事だったのであろうそれでないと普通のパッケージツアーではフォトキナに行くなどと言う事は最初から予定に入れていないからである。それで2日か3日ほどケルンで取材して、もう話わかったと言うことでその後に行ったのがスイスのユングフラウヨッホがどこだか忘れたけれどもアルプスの上の方であった。なぜ覚えているのかと言うとその時私は持参のワイドアングルローライフレックスでケーブルカーの1番上からアルプスを撮影している記憶が残っているからだ。

そしてもう一つワイドアングルローライフレックスで私が撮影した記憶と言うのはロンドンで日曜日にダイアナがどっかの教会に行ったときの後ろ姿なのである。非常に大柄な人でピンクのスーツを着ていた。私は有名人でも芸能人でもそこら辺の通行人でも正面から撮影するのは好まないのである。顔が割れると言うわけでつまりつまらなくなってしまう。それでダイアナが後ろ向きになって教会に入っていくところを目の上に持ち上げたワイドアングルローライフレックスで盲撃ちにしたのだが後から見たらちゃんと映っていた。この顔写真と同じピンクのスーツだったな。

至近距離からダイアナを見たと言うことで私はダイアナにある種の近親感覚を持ったわけである。それから10年後ぐらいにあれは1997年8月31日であったが偽ライカ同盟のメンバーと板橋の北部を歩いていた時に私のことを知っている写真愛好家が車で走っているときに私を認めて急停止してその時にダイアナがパリで交通事故にあったと言うことを教えてくれたのだった。
0172名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/06/24(土) 06:45:45.09ID:bYXXxr4G0
ウクライナとロシアの戦争で、ロシアのマクドナルドはそのままお店の名前を変えた。ハンバーガー屋になったと言うニュースを聞いて感心したのである。

1971年のモスクワ。中心部のモスクワ中央郵便局の向かい側にマクドナルドができてすごい長い列があった。私は日本で最初のマクドナルドで1971年に銀座4丁目の三越のエントランスの脇にあったところで、初めてのマクドナルドの立ち食いを経験していたのである。

それまでは立ち食いをすると言う事は、立ち食い寿司屋ぐらいしかなくて、立ち食いの蕎麦屋もあったけど、いずれにしろ下品な事と言う認識があった。それがマクドナルドができた後10年前にそのルールが完全に帰られてしまったのだ。

日本のマクドナルドの最初が1971年でモスクワのマクドナルドが10年後にオープンしたのだから、時間としてはずいぶん短いような気がするな。それで私がマクドナルドモスクワで味を見てみようと思ったのは、単なる好奇心である。

そのマクドナルドを求める列の最後尾に並んだら脇に立っているモスコビッチが私が外人であることを認識して、あっちの方向を指差しているのである。帝国主義者である私によるハンバーガーはないよと言っていたのかと思っていたら、そうではなかった。長い長い列に隠されていたのであるが、誰も並んでいない職員の入り口みたいなところがあった。行ってみたらそこはドルで支払いができるエントランスなのである。

帝国主義者の1部である=ドルで金を払ってしまえばニューヨークにいるのと全く同じことになってしまう。それでかなりがっかりしたのだった。

私は日本国内でマクドナルドを食べる習慣は無い。理由は単純でライセンスの関係なのであろうが、ヨーロッパのマクドナルドはビールが出るのである。だからビールを買ってフライドポテトをつまむ程度である。

2001年9月のワールドトレードセンターのアタックの朝とその日に私は仕事でドイツを旅行していた。それでフランクフルトから遠く離れたカントリーのマクドナルドに入った。お店の店内には巨大なマンハッタンのツインタワーの夜景のパネルが並んでいた。何かマンハッタンに対する 葬式のような感じがして、そのことだけよく記憶しているのである。
0173名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/07/04(火) 00:21:45.43ID:9unB6HAW0
取材で世界中にいろんな料理を撮影に行ったりしたが、もともとカレーが好きであるからオールドデリーにカレーを体験しに行ったこともある。オールドで駅前の菩提樹の下でインドの哲学者みたいな人が巨大な鍋を掻き回しているのがなかなか格好良いので、私はそれをデリーの野立カレーと命名した。

私がいつもノスタルジーを感じているのは外国にいて、日本のカレーパンのことを思い出すポイントなのである。これはまさしく日本で発明された加工食品である。資料を調べると深川のあたりにあるカトレアとか言う名前のお店が日本で1番最初のカレーパンを作ったと言うことになっている。

その話に惹かれて深川のその店に買いに行ったこともある。その頃は私も初心者であったから、カレーパンは辛口に限るなどと言っていたのであるけれども、最近は辛さはチリペッパーで自由にコントロールできると言うことに気がついた。

30年ぐらい前の話だが、家人と川越市内を歩いているときに、それが何であったかよく記憶していないのであるけれども、パッケージの表面のラベルを見ると、それはカレーパンの中に入れるカレールーの会社の包装物なのである。

それで感謝したのは、そのラベルが田中食品、なんとか工業と読めたことだ。これが非常に気に入ったのである。カレーパンは世の中になくてならない重要な日本の食品であるから、そのカレーパンの中身を作っている会社がもちろん存在するであろうと言う事は推測していたが、その食文化の一端を担っているのが田中さんであると言うことがわかって嬉しかったのだ。

私がいつも食べているのはこんなブランドだけど、2週間ぐらい在庫が向かいのスーパーで切れていた。それで再度このカレーパンが登場したらなんと10円も値上げしているんだね。ディズニーけしからん話だ。
0174名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/07/06(木) 08:19:03.56ID:i4eVqks60
40年以上前に、ニューヨークのカメラ、雑誌の編集長のケプラーさんについて、日本中回った時に京都の俵屋さんに泊まった。別に編集長が高級志向と言うわけではなくて、ケプラーさんと中学校のマンハッタンの同級生がアーネスト、佐藤さんであったと言うだけの話だ。

その頃の俵屋さんはまだクレジットカードも使えなくて、お勘定の時に私が20ドル札の束を持っていって町場で支払いをした記憶がある。当時はなかなか厳しくて一見さんは止めない。しきたりだったらしいけど、最近はオンラインで予約ができるらしい。

コロナ以前は京都によく行っていたものだった。それで錦市場で行きつけの店と言うほどでもないが顔見知りのお店ができて、そこでいろんなものを買った。季節にタコの卵を買ってそのままホテルに忘れて新幹線に乗ったこともあった。

この間部屋の隅から出てきたのがこのお皿なのである。その行きつけの小さな錦小路のお店で刺身か何かを買った時にこのさらに盛られてきたものだと思って皿を返してみたらどうも記憶違いのようである。それでこの屋号を調べてみたら、錦小路には違いないが、ふぐとはもの専門の料亭だそうである。

私ははもは食べないから、そういうお店に行くはずは無いが、なぜこのお皿が私の行きつけのお店から私のほうに流れてきたのであろうかと言うことを考えて未だにわからない。
0175名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/07/07(金) 06:18:53.87ID:FOB6pSYg0
出雲で活躍している写真家の小池夫妻である。奥様の方がこの写真集の顛末をFacebookがノートとかに書き込んでくれたので、私の記憶が新たに呼び覚まされた。

なんでもここに表紙を飾っている双子の娘さんに友人から連絡があったそうで、その写真集が東京のどこどこの喫茶店に置かれているとかそういう話なのである。それを撮影者と連絡が取れて、その時の懐かしいプリントを送ってもらったとか言ういわゆる人間と人間の美談と言うことなのだ。

小池さんのところは今小池さんの父上が撮影した。昭和30年代の笑顔の子供時代の写真集がついこの間出たようである。全く今の子供はゲームばっかりやって笑顔は完全に忘れているからね。

面白いと思ったのは、この表紙の2人のお嬢さんが十数年経過するとちゃんとした大人になっていると言うのは、細胞分裂の結果として当然のことながら、やはり写真が果たす役割というのは大きいとびっくりせざるを得ない。

双子の写真で、1番有名なのはダイアンアーバスが撮影した有名な作品がある。それから何十年かたって彼女たちが今どうなっているかと言うのを別の写真家が撮影したのかな?

私はウィーンで素敵な同じ衣装を着た双子のおばあさんを撮影したことがある。ヨーロッパにはそのような伝統な習慣があるみたいだ。私が撮影したこのワンショットは1970余年のカメラ毎日の1月号に掲載された非常に好きな写真なのであるが、8ページのそのポートフォリオの双子のおばあさんの裏側は、独裁者の肖像とか言うカリカチュアのポスターを路上で撮影したものであって、アドルフとかホーチミンとか毛沢東が写っているのである。

これが当時の毎日新聞社の内部コードに触れたらしくて、カメラ毎日は発売直前にその2ページを切り取ってしまった。ただし北海道とか沖縄は間に合わなかったのでそのままになったらしい。

1976年夏に私が来日してカメラ毎日の山岸さんにお目にかかった時、山岸さんはジャーナリストとして恥ずかしい、そのことを忘れないために、20冊のカメラ、毎日を梱包して、自分の教室のいつも見えるところに置いてあるとおっしゃったのである。

その後、山岸様が急死したので、これが最後にお目にかかる機会になってしまった
0176名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/07/07(金) 08:10:46.61ID:HHPKRkh50
29歳の時に、winで、映画の本編の撮影をやったのであるが、その日本の映画のうちの1つは1930年代のドイツ語圏と言う設定であるので、結局ロケ地がオーストリアのウィーンになった。

1976年のロケであって、監督は私よりちょっと年上のまだ30代のアレクサンドリア生まれのギリシア人だった。50年も会ってないのでどうなっているかと思ってその監督の名前をFacebookでチェックしたら健在であったのは嬉しかった。人間というのは面白いもので、後期高齢者になるとその風貌というのが私のような東洋人であっても、ギリシア人であっても非常に似てくるのである。ー

つまり、人種とか言うカテゴリーよりも、後期高齢者と言うカテゴリーの方が特徴が際立ってくるということがわかって非常に面白い。

このショットは、10年近く前にウィーンの郊外で撮影したものである。路面電車の終点から歩き出したら、いきなりこのような展開が多かったので、私が何が面白かったかというと、例えばこの手前に本編の主要な人物がいて、背景がこの3人のエキストラさんと言うふうに考えてみると、エキストラさんの配置の仕方は非常にうまい。

私が携わって映画はボンバーとパガニーニと言うタイトルでびっくりしたことにYouTubeでその2時間近いアクションムービーを今でも見ることができるのだ。それも懐かしかったけれども、その映画の中でエキストラさんがどのように動いているかというのを見るのも非常に面白かった。

これはウィーンの周辺部のドナウの岸辺に近いところであって、いわゆる新しい建築物が立っているところだから、ウィーンの旧市街とはかなり様子が違っている。左の薬局もモダンな薬局で車椅子用のスロープがあったりする。右のオーストリア銀行と言うのは、30年位前に名前が変わったのであるが、以前はウィーン中央金庫と言う名前で私の写真展を開催してくれたりした。お世話になったバンクなのである。

左側で体を支えている老人などは、当時は気分がわからなかったけれども、今の年代の私になってみると、その気分がよくわかる。そして右の松葉杖の人は何か全体のドラマを展開するキーになりそうなアクションを起こしている。

だから、こうしてみると、日常の何でもないようなん風景と言うのは、実に多種、多様なドラマが起こり得る要素をその表面に内包しているということがわかる。
0177名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/07/11(火) 06:36:04.94ID:6I633aR70
フォトコンテスト言う月刊、カメラ雑誌の1965年12月だったと思うが、そこにセカンドプライスで入選した富士山の近くの白糸の滝に集まっている。ツーリスト。このレンズで撮影した。そのタイトルは単純明快で観光客と言うのではなかったか?

これが私がカメラ雑誌に写真を発表した最初の機会であって、本当に嬉しかったな。でも、その後私が同じ会社のカメラ雑誌で新しく発行されたカメラ時代と言う今見てもシリアスな写真集にほぼ1月おきに8ページの東京のシリーズのモノクロ作品を出していたのに、比べると、1番最初の私のデビューと言うのはかなり方向違いなやり方だった。

要するに、最初にデビューした写真は200ミリから400ミリのズームレンズであったのに対して、その翌年から本格的に発表する。1連のシリーズはカメラは同じニコンエフであるが、レンズはニッコール2.1センチで全く異なっているからだ。

それでもこの200 400ミリレンズはよく使ったもので、不具合が起きると赤羽の駅から徒歩10分位の木造2階建ての普通の住宅に持ち込んで。そこで修理をお願いしたものだった。看板も何もついていない普通の住宅であったから、今までそれがタムロンの赤羽営業上だと思っていたのは、私の勝手な勘違いで、埼玉の本社まで来てもらうのは恐縮だと言うので、タムロンの社員の方のご自宅に私がレンズを届けると言う形になったらしい。

クロネコヤマトの宅急便が登場する数、10年も前の話である。

最初に手にした200 400タムロンズームだが、本当はニッコール200ミリが欲しかったのだが、何しても値段が高すぎる。それでこのレンズで我慢したわけだが、それが結果として面白い。私の写真表現の展開のスタートになったわけだ。

それに1960年代に作られたこのレンズの仕上げのクオリティーが非常に高いと言うことに。60年後に気がついて驚いているのである。
0178名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/07/23(日) 20:09:45.17ID:33r+IESG0
チョートク先生、温厚でジェントルなシニアだな
理想だぜ
0179名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/07/28(金) 19:03:15.37ID:1JHOkaix0
写真界の貴公子だからね。
0180名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/11/29(水) 11:07:10.51ID:/p85SPTN0
生きてる?
0182名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/12/17(日) 07:22:29.88ID:9259q2X50
HISの団体ツアー客がとったみたいな写真よーけ出品しとるの
0183名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/12/18(月) 11:57:23.57ID:VfIbhLYb0
結構売れてんな
0185名無CCDさん@画素いっぱい
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2024/02/11(日) 15:03:16.48ID:FYp1PiS40
ヤフオクの終活っぷりが凄すぎて、ちょっと引いてるわ
ニューヨーク時代の貴重なメモとか出してるよ
0186名無CCDさん@画素いっぱい
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2024/02/11(日) 16:30:14.38ID:dJR7LJVt0
ヤフオクにリンホフ テヒニカや大判レンズも出てきたな

チョッと楽しみ
0187名無CCDさん@画素いっぱい
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2024/02/11(日) 16:59:00.02ID:G4OaTVDp0
きったねぇ出品も多くあれを買ってやるとしたら本人の生活支援の意味だな
0189名無CCDさん@画素いっぱい
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2024/02/11(日) 21:08:35.90ID:FYp1PiS40
>>188
一応文化庁からの派遣芸術家として行ってるだろ
0190名無CCDさん@画素いっぱい
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2024/02/12(月) 16:05:57.92ID:ONLpfz0i0
>>185
わりと入札あるしなあ
美術史の研究家とかは欲しいのかもしれん
こういうのはなまじ本人が死んでから捨てられるよりこのほうがいいのかもね
0191名無CCDさん@画素いっぱい
垢版 |
2024/02/12(月) 16:11:39.94ID:Sefajbhc0
怒濤の出品、ゴミ屋敷の整理がはじまったな
四季も近そう
0193名無CCDさん@画素いっぱい
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2024/02/14(水) 09:26:45.26ID:ysFrPccc0
美術史の研究家 らしい
0194名無CCDさん@画素いっぱい
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2024/02/14(水) 11:24:25.92ID:RAykHlcV0
佃島のカメラジャングルって今もあるのかな?
動画は自宅のゴミ屋敷から?
0195名無CCDさん@画素いっぱい
垢版 |
2024/02/21(水) 20:00:34.46ID:Mjxvnp9A0
Lordちょっと保水
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