老いて益々】田中長徳ファンのスレ その6【老化】
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思い出を語りましょう 過去スレ 【老いて益々】田中長徳ファンのスレ Part4 http://mint.2ch.net/test/read.cgi/camera/1414410549/l50 【老いて益々】田中長徳ファンのスレ その3【耄碌】 http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/camera/1262227407/ 【老いて益々】田中長徳ファンのスレ その5【徘徊】 https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/dcamera/1496927773/l50 田中長徳(たなか ちょうとく 本名はおさのり) 1947年東京生まれ 日本大学芸術学部写真学科卒業 日本デザインセンター勤務の後、フリーランスとなる オーストリアのウィーンに遊学 ライカのコレクションを始める 帰国後 ライカなどクラシックカメラに関する執筆をカメラ雑誌に 連載する。以降、クラカメの権威として多くのファンを集める その写真は時代の空気を切り取り、その時その場所を歴史に定着させたものとして世界的に評価が高い 写真展では氏の写真の前でじっと動かず、滂沱の涙を流す人が後をたたない その端正な風貌から写真界の貴公子との異名を持ち今日なお多くの女性の心を捉えて放さない 同好の老爺を引き連れ定期的に都内各所を徘徊する様は醸し出される加齢臭も相俟って今や東京の風物詩となっている Facebookへの書き込みは一日数回に及ぶが、多くは過去の書き込みの繰り返しで世間の注目を集めている 私のような有名人でも オナニーはするのだがこの前某週刊誌の若い女のグラビアの写真でオナニーした。シュッシュって感じで いく、いく、精子が出る瞬間ページをめくった、そうしたらカルロスゴーンが出てきた なんと最終的に私はカルロスゴーンで射精したのである。最近オマーン代表がどうのこうのアジアカップがどうのこうの 女子サッカーとかも興味ない、やっぱ体育会系女子は嫌いである。オマーン国際女子って読むと? オマーン国際女子に興味ある人は博多カメラのゴゴー商会、広島ミッキーカメラ、岡山アサノカメラ フラッシュバックカメラ、代官山のフォトムトリに集まるといいね 写真家 篠山紀信 橋下徹「ウクライナと共にある、とか威勢よく言ってた者は志願兵になり今すぐウクライナ行って戦え 嫌ならNATOの指導者に妥結促せ」 [Stargazer★] //asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1645957743/-100 1Stargazer ★2022/02/27(日) 19:29:03.20ID:QNEDTKyt9 211名無しさん@恐縮です2022/02/27(日) 19:18:40.95ID:cRVgqiG40 「威勢よく言っていた国会議員はウクライナに行って戦え」橋下徹さんのツイートにネット上で賛否両論 //news.yahoo.co.jp/articles/50dbb00c1ebe95482aac69b1f22d5843f3a4dbc1 田中長徳氏を最近、私の徘徊するネット界隈でその名を見なくなったなぁ、 と思いGoogle検索してみたところ、名前に続いて最初に検索サジェストされたのが 「田中長徳 死亡」というキーワードでビックリ もちろん田中長徳氏は(相応に高齢であれど)「ご健在」である訳ですが、 こうした検索サジェストが真っ先に表示されるという事は、 人々が検索キーワードとして関連付けされるような検索行動を取っていた事の 証左でもあります。 前述のように、私自身「最近、チョートク先生の話題を目にしないな」と思ったのは、 以前は精力的に更新されていた「PEN PENチョートクカメラ日記」(2001年〜)が、 2018年12月より有料記事「note」に移行し、 一般の目には触れなくなった事に起因する、と考えます。 故に「死亡」なんていう検索サジェストが出てくるのでしょうね。 もっとも田中長徳氏のように、一定の固定ファンがいて尚且つ、 やや物議を醸し出す発信もある(だからチョートク先生は面白い)コンテンツは noteのような限られた人たちが見る事のできるプラットフォームが最適なのかも知れません。 1980年頃にプラハの中古屋さんいわゆるバザールで金色のメッキのPrimを手に入れて それは20年以上使っていたのである。 私の古いブログにも出てくる。 最も手に入れた値段は日本円で500円位なものだから最初から問題にならない。 ガラクタの時計はたくさん持っているのでいろいろ使っていたのだが、 そのうちの1つでずっと使っていたのが今朝具合が悪くなったのでドアストッパーに使っている プラスチックバッグの中から適当につかみ出した中にこの赤い文字盤のPrimがあった。 それでしばらくこの時計を使うことになった。 私が最後にPrimを手に入れたのは四半世紀前での話であって、 この春にコロナで亡くなったチェコの写真家Pavelが1時篠籠田自動車の広報をやっていた 時にSkoda自動車の会社のある古い街に行ってぶらぶらしているときに そこの時計屋さんで買ったのが最後だった。 その時計屋の店主が私にこのクロノグラフはムーブメントが日本製ですから安心ですよと 言ったのであるが、私はそうではなくてメカニカルムーブメントが欲しかったのである。 その時に手に入れたPrimのクロノグラフはとっくにバッテリーが切れて 今はドアストッパーのショッピングバッグの中に入っている。 用意周到なあたしは本日ばうはうすに詰めていましたので前日に推敲した原稿を用意したわけです。 ここを見ている皆さんも偉大な写真家であるあたしの栄光の精華を実感できるいい機会ですから ぶらパチや買い物のついでに、ぜひ神田明神の左までお越しください。 猿者は日々にうっとおしい、というが チョートク先生もすっかり過去の人になってしもーたの 今思えばいろいろカキコされてた頃が花だった 自称塾長という爺さんが「長徳の本は読む価値ない」と嘲るように言ってるんだが、会うと手のひらを返した様に「センセー!センセー!」と態度を変える様は毎度見ていて唖然とするよな。 山縣とアルパカがカメラ市で取っ組み合いのケンカやったのは見苦しかったなぁ あんな酷い老人を見た事無かった もう誰も話題にしないですね mixiのスレもずいぶん昔から書き込みが無いし そういえば湘南カメラ倶楽部っていうのもあったな みんなまだ生きてるんだろか >>23 today's tokyoまたはtokyo todayが正しい。 today tokyoでは「今日 東京」になってしまう。 Today Tokyoは1969年夏に東京銀座ニコンサロンでの私の最初の個展のときのタイトルなのです。 それ以来半世紀にわたっていろいろなカメラ雑誌などで連載をしたが、それらのタイトルもToday Tokyoでした。 今さら間違いと言われてもはっきり言ってありがた迷惑です。不悪。 大体写真展のカタログと言うものは粗末にされることが多い。私が29歳の時にヨーロッパで巡回した現代日本写真家展示会もそうであって、当時は出品者それぞれに30部ずつ配給があったのであるが片っ端から人にあげてしまって手元には1歩も残っていないのである。 私の六本木の禅ギャラリーの写真展で1966年5月1日メーデーの時に撮影したつむじ風の写真があるのだけれど、それをコレクターさんが欲しいと言ってきたのはありがたい。ただし3000本からネガがあるからそこから探すのは大変な仕事だと思う。創作するのに時間がかかると言う可能性はかなり高い。 それでギャラリーでそのコレクターさんと話をしているときにこの人がどういう人なのかが私の時間軸と空間軸の中でわからないのである。ところが私に理解させるためにそのゼントルマンは一発で決定打を放ってくれたすなわち 数年前に長徳さんが探していると言う現代日本写真家展示会のカタログがeBayで出ていると言うのでその間をお知らせしたものです。 これで全てが明らかになって非常にありがたい。実際にあのカタログは手に入らなくて20年以上探していたのがeBayで確かスイスあたりのセラーさんから買ったのである。 佃島のマルエツが数ヶ月前に模様替えをして生活用品が全く置いてない。 昨日カジンガこれは問題だからそのうち帰るよと言っていてさっき見に行ったら まさに生活用品のコーナーが復活。 お店をコントロールするマルエツが数ヶ月前に模様替えをして生活用品が全く置いてない。 昨日カジンガこれは問題だからそのうち帰るよと言っていて さっき見に行ったらまさに生活用品のコーナーが復活。 お店をコントロールするAIにマルエツが数ヶ月前に模様替えをして 生活用品が全く置いてない。昨日カジンガこれは問題だからそのうち帰るよと言っていて さっき見に行ったらまさに生活用品のコーナーが復活。 お店をコントロールするAIにもマルエツが数ヶ月前に模様替えをして 生活用品が全く置いてない。昨日カジンガこれは問題だからそのうち帰るよと言っていて さっき見に行ったらまさに生活用品のコーナーが復活。 お店をコントロールするAIにも問題がマルエツが数ヶ月前に模様替えをして 生活用品が全く置いてない。 昨日カジンガこれは問題だからそのうち帰るよと言っていて さっき見に行ったらまさに生活用品のコーナーが復活。 お店をコントロールするAIにも問題があり 私の場合は最初のライカフレックスは一眼レフとして使う言ったのではなかった。ミラーアップして使うスーパーアングロン21ミリをこのカメラに組み合わせて使っていたのである。歴代のライカの一眼レフの中でライカフレックスのファーストモデルが現役であったときにはまだ21ミリスーパーアングロンはレトロフォーカスタイプになっていなかったからミラーアップして使うと言うやり方であった。その後のライカフレックスSLになってからレトロフォーカスの21ミリが登場したのでライカフレックスSLではミラーアップが省かれている。 ライカフレックスに関してはこの最初のモデルから1番最後のライカフレックスSL2モーターまで使っているのであるが最近の私の評価では1番最初のモデルが1番使いやすいと言うカメラの進化の歴史の中での真実にもう一度気がついたりするのである。 ところで最近では純正のライカのレンズと言うのはこれをマウントアダプターで初心者がデジカメにつけると言う変なブームがブレイクしているので私などは昔はタダみたいな値段だったライカの純正のレンズが0が1つ増えているのでもう手が出なくなった。それで2年位前であるがタムロンのズームレンズが22本で100円というのがYahoo!オークションに出たのである。入札したら100円で落札してしまったのでそれから私はライカフレックスにはタムロンレンズと言うことになった。タムロンのライカフレックス用のマウントアダプターはなかなかないのだけれども、ガラクタ屋さんで適当なものを探しておいてくれたので今ではライカフレックス用のシステムは全部タムロンレンズで揃えているのである。 これもまたいとおかし。 写真の何十年も前のネガフィルムを選んだりダークルームでプリントをしたりするのは平気なのにたかだか30冊の本の入金を確認してそれを発送すると言うのがこんなに大変だとは思わなかった。レターパックに入れた本は10冊ずつ泥パックに入れてすぐ近くの郵便ポストに投入しに行くのである。それで送ったレターパックの控えをカメラの箱の脇にずっと並べて貼ったらこんなことになった。 ヨドバシカメラとかアマゾンなどで気楽にいろいろなものを購入している私であるが流通業界にはまず全く向いていないと言う後期高齢者なのである。 スレタイどおり。まさに「益々老化」 (´・ω・`) 朝日新聞によれば外務大臣がコロナになって隔離。 朝日新聞の写真によれば外務大臣の隣にピッタリ入るのが岸田のぽち。 濃厚接触者だろう。ワクチン接種してもこの通り。 NNHNHKNHKではNHKでは報道NHKでは報道なしNHKでは報道なし いとおかし。 それで最近の向田さんの仕事が面白くてお住まいの近くの葛飾とかあの界隈をとっていらっしゃるのであるが視神経がもともと優れているからそこで発見する場所がかなり凄いと思う。例えば私がこのショットに惹かれるのは右と左の遠近感の消失点がわずかにずれていると言うところに魅力を感じるのだ。横尾忠則が好む2つの消失点みたいな感じで最近流行のしすぎであるが向田さんの向かっている視神経は確かであると思う。 私などは向田さんと同業者であるから例えばこの右手の道の樹木のしげり方などがすごく魅力的なのでどこで撮影したのですかなどと場所をお聞きしたりするのであるが、そういう事は傍流写真同盟の創立者の弥次喜多さんが最初の写真集を送ってくださった時も同様であってそこに写っているものは私の知らない東京であるから撮影ポイントを弥次喜多さんにお聞きしたものであった。 しかしそーゆー些細の事は単なる事は単なる気休めに過ぎないのであって、富士山を撮る写真愛好者が富士山撮影ポイントで脚立大連立させて場所争いをするような低レベルの話では無いから別に撮影場所を聞いて私がそこにいてお株を奪ってやろうと言うような気持ちは無い。 傍流写真は最近南アメリカとかイタリアあたりの国際的な参加者の方もいるので非常に使い愉快なことになっています。新規の入会希望者もほとんどなくなったので800人ぐらいのメンバーでこのまましばらく進行できれば良いと思っている。 毎月20日を過ぎると私のストレスはあーまたカメラ雑誌が到着するなと言うことで実際にポストボックスからそれを持ってくるのは家人の仕事であったが高齢者には大変な労力である。掲載誌はゲラでチェックしているから送られてきた印刷物を開いてみると言う事は無い。断腸亭日常に同じことが書かれていて文豪の場合はもっと偏屈だから送られてきた印刷物は一切見ないのである。またゴミとして出してしまうのだから資源の無駄遣いと高齢者の筋肉の運動にはなるかもしれないが面倒なことである。 デジタルカメラマガジンを私が高く評価しているのは67年前から毎月送って来なくなったことだ。メディアとしてこれはとても良いことだと思う。 それで最近のデジタルカメラの進化に関しては全く興味がないけれどもこの間のギャラリーバウハウスのウィーンの個展などで見に来てくれた人の父上がキャノンかどっかの最新型のデジカメを買って鳥の目にピントが合うからそれが素晴らしいとか言っている。 日本のカメラメーカーと言うのはブラックユーモアにあふれていると思う。 基本的に仕事以外の撮影は断然に銀塩の方がよろし。 現代のデジタルカメラを作っている主要メーカーがほとんど全て日本のメーカーのために、情報に翻弄されているだけだ。 仕事でも、予算があればもちろん使える。海外では今もフィルムを使うカメラマンは多い。 最近のシャネルのキャンペーンの撮影などでも、ハッセルを使ってフィルムで撮られた写真があり、それらの写真のクオリティはとても高く美しい。 現場で即座にモニターで確認できない分、カメラマンはもちろん、モデル、スタイリスト、ヘアメイクも現場に集中し撮影に熱が入る。 それらの熱が良い写真を生む。 最良の結果を求めるならば、銀塩がよろし。 「その場で確認できない」効果は確かにあると思うが、しかしフィルムを使う という事=その場で確認できないという欠点をあえて使う事 というのは違う。 その場で確認できる機能があるのに、あえて確認できない方法を選ぶ ということのためにフィルムカメラがあるわけではないのである。 ニッカカメラはもともとは1940年にドイツからのライカが入ってこなくなったので軍部の圧力で勝手にコピーを作ってしまえと言うことでそれがスタートラインになったのである。当時のキャノンの技術者が数人別れてそのカメラを作る人に当たった。精機光学がキャノンの前身の会社の名前であるがそこから飛び出した連中の作った会社の名前が光学精機出会ってちょうど文字が前後に入れ違っているだけと言うのも面白い。何か政治団体の名前みたいでインチキっぽいところがよろしい。 それで左のほうのカメラはニッカウヰスキーがずっと作ってきた それで左のほうのカメラはニッカがずっと作ってきたライカタイプのシリーズの最後のデザインモデルなのであるが、いやしかっがこれを買収したときに全く同じカメラなのだがかなりデザインを変貌させてヤシカワイエフと言うモデルを出したのだった。今までのカメラメーカーの連中からしたらこれは面白くない話である。それでレンズシャッター式のアマチュア向けのカメラで恨みを晴らすためと言うわけでもないであろうが左のフォーカルプレーンシャッターカメラに非常によく似たレンズシャッター式のデザインのカメラを出したのだ。それだけではない。トップの方向から見ていると実に黒い部分の面積のバランスとかそういうのが似ているのであるが、カメラのフロントのほうにまわってみると左のカメラのフロントのliveのデザインに非常によく似た格好になっているのが右のレンズシャッター式のカメラデザインなのである。 考えてみると世の中で言えば私はフィルム式ライカの使い手みたいなこと言われているが写真家としてデビューして50年の歴史を考えてみるに右のカメラみたいなレンズシャッター方式のアマチュアカメラと世の中に言われているカメラで結構メインの作品を取っているのである。だから私の場合カメラの人種差別と言うのはなくてどちらも同じように大切なカメラの権利を持っていると言うことになる。 今思えば、あんな胡散臭い爺さん達をありがたがっていたクラ亀ブームって異常だったと思います。 統一教会やオウムに洗脳されてたように 当時は爺さんってほどの年でもなかったでしょ AF一眼が当たり前になったころからフィルムが終焉を迎えるまでの10年くらいって技術が行き詰まってた感じだったからしゃーないとこはある 新機種新機能はけっこうバンバン出るんだけど、それ本当にいる?みたいなものを各社がこぞって作りあってた それでこの床屋さんのファサードが今朝の夢に出たのである。そのエントランスに東松さんがカメラを持って立っていて、私は東松さんを撮影中なのである。夢の中の床屋さんは一戸建てではなくてシンガポールのチャイナタウンみたいな重厚なネオクラシックの5階建てである。 何か重要なアサインメントで東松さんを撮影している私である。1976年にヨーロッパを巡回した現代日本写真家展示会で私が29歳のときにその準備でファーイーストに行ったのである。東町3のカタログとポスターの使う顔写真がないので撮影に苦労した。その時使ったのはライカM2に頭マロン35ミリで期限切れの映画用モノクロフィルムだった。 そういう昔の記憶と出雲通信の記憶がダブルエクスポージャーになって登場するのが夢の面白さだ。ついでに書いておくと小池さんの奥様は自分を出雲通信編集長と名乗っているが、私の知っている編集長は文学雑誌の編集長とかカメラ雑誌の編集長は知っているが出雲通信のようなマイナー出版物で編集長を名乗るのは実に正しいことであると思う。 阿部ぴょんの1億人の全てが生きがいと言うのはインチキっぽいが、ミニコミの出版社のトップはちゃんと編集長を名乗るべきだと思う。 日吉駅前のカメラ屋さんの名前を言う人から聞いたら変な名前で、誘うカメラと言うのである。これは私の聞き違いで本当は別の漢字を使うのであろうが誘うカメラの閉店セールと言うのは何かエキサイティングだった。そこでいくつかのガラクタを手に入れたうちの1つがこのコニカエフマウントアダプターである。 コニカの最初の一眼レフは非常に凝った作りのコニカエフと言うカメラであってこれは既にかなりコレクターズアイテムになっている。その後一般的な小原スクエアを使った一眼レフを出していた。確かジャンク市で100円か200円のものであった。しかし私は一眼レフのカメラそのものを当時持っていなかったしあれから半世紀経過してもコニカの最初期モデルの一眼レフは持っていなかった。それが最近になって初期のコニカの一眼レフのブラック仕上げというのがおそらく国産で12を争う美しさであって、虎屋の羊羹みたいな感じで渋いお茶が欲しくなると言う存在感なので数台手に入れてそれを愛でているのである。 このコニカには52ミリef 1.4と言う優秀なレンズが付いているのであるが、いつもカメラというかコニカの素振りをしているときに確か半世紀前に買ったレンズマウントアダプターがあるなと思い出していたのである。それが仕事机の側にあるショッピングバッグの中から古い戦前のライカカメラのカタログを発見してそのショッピングバックの底のほうに手を入れたらこのレンズマウントアダプターが釣れたのである。 私は頭の計算というのができないからそのことをFacebookに書いて今の時代はトライエックスが高いけれども当時の貨幣感覚で言えば1円を10,000円と換算するならば2円10銭と言うのは今のモノクロフィルムと変わらないのではないかなどと馬鹿を書いた。すぐに人気写真家の中藤さんから訂正が入ってよく考えてみたら私の考え違いの今の価格で2100円と言うのではなくて2円10銭であるから今の貨幣で考えれば20,000円以上するのである。 林文子が1930年代のタイピストのお給料を40円と書いている。だから今の労働者の安給料に比べると1円を10,000円とイコールに考える事はちょっと考えものなのかもしれない。ところで没落家系の内田百鬼園が人に借金に行く時は大抵仲間内から借りるのは5円なのである。そうなると今の50,000円位のことになるのかな?地獄の門と言うタイトルの随筆小説があって初めて高利貸から高い利息で金を借りたときの内田百鬼園の言い出した値段が300円なのである。 当時のライカはエルマー月の標準モデルが750円ほどで、明るいレンズがつくと高くなって1000円近くした。だから2円10銭の1本のフイルムを自由に使える人と言うのはなかなか裕福層であったと言うことがわかる。 間宮の製品と言うのはいずれも重厚な感じがするのであるがこれは金属パネルを使ったりしておまけにフォーカシングのギアが連動しているあたりはビックヒットになったり後フレックスとスタイルが似ているので何か安物カメラと言う感じがしたのだが実際にはかなりよく作り込まれている。 当時の戦後の黎明期の間宮で専門にこのカメラを組み立てていた技術者さんが3人おられたそうである。そしてそれぞれの3人の皆さんのネームのアルファベットがネームプレートを外すと裏側に刻印されているそうだ。何かカメラの秘密を見たような感じがして素晴らしい話だと思う。もっとも私はマイナスドライバーが家にいないので外して中は見たことがない。と言うよりかこういうものは伝説的なところに属するからその数字を見ると目が潰れたりするのではないかと心配しているのである。 このカメラの存在で私が1番興味を持っている事は高級生よりか1年ほど前に普及生の方が出てきたと言うことであってこれは通常のカメラメーカーのやり方からすると全く逆なのである。キャノンのレンジファインダで有名なスクリューマウントの4型というのがあるがこれが高いと言うのでその後に2型と言うのを出した。要するに1000分の1秒のシャッターを省いていたりとかちょっとコストダウンをしているのであるが私はその方面のカメラの方が好きなのである。 その当時のキャノンのカメラ雑誌の広告を見ると新しい新潟のほうはお求めやすいJrカメラと言うキャッチコピーがついている。これが普通の販売戦略の方法である。ところが間宮フレックスに関しては逆で最初にJrが出てきてしまったからその後の森家の立場にある間宮フレックスオートマットはキャッチコピーとしてはを求めにくい最高品質と言うことになるのであろうか。 Miraxと言う一眼レフミラーボックス装置はなかなかよくできていてまず当時の競合していたライカのVisoflexなどに比較するとかなり小型軽量である。カールツアイスの版フレックスと言う一眼レフ装置と比較しても比べ物にならないほど小型軽量である。だからちょっと見るとすごい安っぽい感じがするのであるが実際に使ってみると想像以上にバランスの良い一眼レフ装置である。 戦前から戦後の一眼レフブームになる前までのレンズ交換式カメラの使い方と言うのは単純であって広角レンズから標準レンズそして90ミリ位のレンズは距離計で使ってそれより長いほうのレンズは一眼レフ装置で使うと言うきわめて真っ当な実用的なシステムに対する考え方であった。 Miraxで感心するのはそのシャッターレリーズとミラーアップの連携する機構なのである。単純極まりない金具の薄っぺらいパーツなのであるがその薄っぺらなパーツをシャッターボタンとミラーアップのレリーズの上にはめ込んでその中間部分を押すとフレキシブルなパーツなので同時に両方のシャッターが切れるのだ。世界のカメラメーカーでここら辺はそれぞれ苦労したものと見えるが、カールツアイスの場合は使いにくいダブルケーブルレリーズだし、ライカの場合は一眼レフ本体から長いてこのような格好のアームをせり出してきてそのてこの先でライカのシャッターボタンを押すと言うおよそクールではない格好のデバイスなのである。その点このオリオンの作ったシャッターとミラーボックスの連携機構は素晴らしい。 ヨドバシカメラの便利な配送が1分だけ早めに到着すると2001年6月11日を思い出してしまう。これは私の心の中でけっこうなトラウマになっている。それで3500円のティーファールが送料なしで届くのは我々にはありがたいが、競合する他社はこれはやっていられないわけだろう。ガラクタやにだいめの家のかわいいメダカさんの餌と言うのは値段が100円らしいけどもこれも無料で届けてくれるらしい。 10年ほど前にロシア航空でモスクワに行った時たまたま見かけた日本人の若いカップルがティファールの入ったパッケージを大事そうに抱えていた。サモワールではないけれどもロシアはよくお茶を飲む国だから当時ティーファールは手に入らなかったのかもしれない。 そういうモダンな道具は1970年代のウィーンではなくてもっぱら普通のケトルでお湯を沸かしていたのである。家が広いしキッチンが遠くにあるからたいていのケトルには笛がついていてお湯が沸くと上記の力で笛が鳴るのである。プラハに暮らしていた34年間はそんな笛吹きケトルもなかったから小さな鍋でお湯を沸かして毎朝細かく引いたコーヒーの粉にお湯を注いでいた。これはヨーロッパでは唯一このチェコだけに残るクラシックなコーヒーの飲み方なのである。 それで用があってタワーから外に出るときのメインエントランスの右側にいつもこういう風景が見えてその時いつも思うことがあるそれは私にとってこの風景がやたら日本的な路地みたいに見えることだ。これはすごく不思議な印象であってヨーロッパの光景を見なれてしまっているせいでもあろうが、造成されたこの一帯は日本的な要素は全く存在しないのである。要するに1980年の頃の日本のモダン建築を理想化したと言うようなエンバイロメントの方向付けになっている。 ところが不思議なことに私がなぜタワーのエントランスから出るときの右側に日本の精神みたいなものを感じるのかと言うと、これは極めてシンプルなことなのであるがご覧のような10本位の木木が立っているこれが私にとっては極めて日本的な感じがするのだ。言い方が大げさかもしれないが私にとってヨーロッパを強烈に感じるのはゴシック建築より下ずっと以前の例えばパルテノン神殿の列柱なのである。あれにヨーロッパの文化を感じるのと同じような意味合いでほとんどパワーとしては同じ位のバランスで私はこの立ち並んだぼっくいに日本を感じていると言うのはやっぱり自分の考え方は変だよね。 と言うような風景論を考えるのは私だけでしょうか? よくFacebookで見かけるこの言い方が大嫌い独善的で。 カメラの話以外だと驚愕するほど中身が無くなるんだなあ。。(´・ω・`) レザーのエバレディケースも付いていてこれがまた複雑な立体型をきれいに包み込むような革ケースなのである。あまりにぴったり入るので外すのがちょっと大変だが何かに似ているかと言うと大昔のポーランドのポリスが使っていたピストルケースに似ていると言うのは1番この場合適当な表現だと思う。 しかしそういう些細なことよりもこのカメラの最大の魅力と言うのはかなりきっちりエナメルで塗られているから現代の我々の感覚からするとこれはまさしくプラスチック製であるなと思うのであるけれども、実際には重厚なダイキャスト製なのである。そのダイカストの本体にいかにも軽い感じの明るい色がかなり丁寧な仕上げでペイントされているというところが我々のカメラに対する物質の予想感覚というのを完全に裏切っている。 そこが素晴らしい。 ペットリフレックス7を手に入れて10年ぐらい経った時にネットオークションでPetriの一眼レフのセットケースというのが登場した。注意をしてみるとこれはめったにネットオークション等には出現しないものでまず1年か2年に1度しか登場しないと思う。大衆カメラ用であるから作りが結構安っぽいから人気がないと言うことでその大半はすでに捨てられたのではないかと思う。 それで私のカメラのセットケースのコレクションの中ではこれが1番レア物と言うことになる。ご覧のようにシンプルな作りで合成レザーであってストラップはビニールで全く冴えないのであるけれども、ここで重要なのはセットケースを愛でているときにはカメラの素材はレザーでそれに方からぶら下げるストラップも上質のものでないと気に食わないと言う勘違いが起こるのである。 カメラの素振りと実際の撮影というのがかなり違うと言うのと同じように、カメラケースを手に取って鑑賞しているときには本当の実用性と言うのは見えないのである。ビニールのカメラケースのストラップと言うとみんな馬鹿にするけれども、実は逆であって例えば戦後のライカエム型のセットケースの頑丈な上質な革でできてなおかつ滑り止めが付いているセットケースがたすき掛けにして撮影している時などにその取り回しが非常にしづらいと言う欠点がある。 その点このペトリカメラのセットケースはなかなか道具としては優れものである。ペトリの銀色のロゴが高級感を醸し出しているな。 デジタルカメラの命短く、フイルムカメラの命永し そーゆー日常生活の生きがいになるような大事なデバイスならフイルムが高くたって別に文句は言わない私だ。この間あるギャラリーから私の古い写真集の1枚をお客さんに頼まれてそれをプリントしてくれと言われたのだが、結局ネガフィルムが3000本以上あるのでこちらは老眼だし申し訳ないけど発見できなかった。 今では状況が変わってしまってフイルムカメラしかなかった時代にはありとあらゆるものをフイルムで撮影していたからネガフィルムの量が膨大になってくる。今では日常の記録等はデジタルカメラ、と言うよりもiPhoneとiPadで撮影できるから画像のボリュームの物理的な重さは実際には存在しないから本当にありがたい時代だと思う。 それで2022年度版のモノクロ写真のススメであるが、ごくごく安い中古のフイルムカメラを1台例えばこれは2500円であるがそれで1000円位のモノクロフィルムを買って自分で現像するのが面倒ならオンラインショップで現像は頼んでそのスキャン画像をSNSにアップしたりするとかなり楽しめるのである。 この場合フイルム代が高いからたくさん取れないと言うことが無駄にショット数を大きくしない非常に重要なポイントだと思う。さてそれをどう皆さんに見せるかと言うと例えば私が関係しているSNSで傍流写真同盟等というのがあって、すでに800人以上のメンバーの方がいるがそういうやり方が結構大事な写真の発表方法になっていきつつあると言うのも面白い。 半世紀以上フィルムライカで撮影をしているからそれなりのフィルムライカのマナーと言うものがある。偉大なフォトジャーナリストであった三木淳さんが書いていたことだが彼は1日の撮影にフイルム5本と決めていたそうである。撮影のパワーをフル回転にして1日5本のフイルムをとると言う事は結構大変なことなのだ。これは実際にやってみればよくわかる。 撮影の現場監督でクライアントがいたりするときは我々はクライアントにすぐ忖度したがるから1日で20本取ったりするのであるがあれはまやかしものである。1日に私も5本のフイルムをポケットに入れて撮影をする。 左のポケットに撮影してないフイルムを入れて撮影済みのフイルムは右のポケットに入れるようにする。ポケットを手で探ると全体の撮影のペースが分かるのでこれは好都合で長年そうやってきた。何かの時に森山大道さんと雑談をしていた時に彼も似たような方法で片方のポケットからもう一方のポケットに撮影済フィルムを入れてそれで区別しているのだと言う話を聞いて面白いと思った。 森山大道さんは手ぶらで撮影に行く写真家であるからカメラバッグなど持っていない。カメラ雑誌がまだ存在していた頃3年にいっぺんぐらいやるつまらない代表的な企画でカメラマンのバックの中身というのがあって私も頼まれてそういうテーマで有名写真家を取材したことがあったが、森山大道さんはカメラバックを持っていない。つまりカメラアクセサリーメーカーの敵ですね。それではインタビューにならないので森山大道はなぜカメラバッグを持たないかと言うインタビューをした。 Eos20Dをベニスで使ってその描写力とそのスピードに感心したことがあってなんでその時ベニスにいたのかそしてなぜこのカメラで撮影したのかは本当に忘れてしまったが、2004年と言う時点では私はどうもキャノンと言う会社とコマーシャルの関係で少しはお付き合いがあったらしいのである。キャノンの会社から借りていたカメラであるから何かそこに背景があったのであろうがその事は思い出せない。 思えばキャノンサークルと言う雑誌でずいぶん長いこと連載記事か何か書いていてそれの関連でフイルムで写すEos1が登場した時もその最新型カメラでニューヨークで撮影をしたことを思い出した。 それで考えるのであるがデジタル一眼レフと言うのはワイドボディの大型旅客機と同じようなものでどれを見てもそのロゴタイプを見るまでそれがどこのメーカーのデジカメであるのかわからないようなところがある。デザイン的に全部均一であるからそこにライフスタイルとか撮影のバックグラウンドのクールさとかそういうものは一切存在しないのが私がこの種類のカメラが嫌いな最大の理由なのである。 撮影はよくできるかもしれないがカメラにドラマがないというのが1番退屈である。それでも最近の1億画素の画質とか飛んでいる小鳥の目玉にピントが合うとかそういうのはもともと私は必要なくて普通にブログにアップするだけだからAPS-Cサイズのこういうカメラが1番よろしい。これだって8,000,000画素以上あるんだってすごいね。 でもこういうアマチュア向けのカメラを使って当時ちゃんとした広告の仕事をして大きなポスターを作ったりもしたのである。あれは夢か幻か? ところで話を戻すと1番最初の打ち合わせの時にギリシア人の監督とそれぞれのスタッフと打ち合わせをしたときに何の担当かわからない若い奴がいたのである。その人に対して私は結構偉そうな口をきいてみていたようで、これが間接的な変な効果を出してしまって日本の有名な写真家だから粗末にはできないぞみたいなことになったのかどうか知らないが、結構ギャラは良い待遇が良いと言うのでびっくりしたのである。主役の2人の俳優さんと同じ高級ホテルに泊まらせてもらって移動する時はマリオと言う主役の俳優さんが運転するJaguarで移動したりした。 コミックアクションドラマであるから舞台は1930年代のドイツ語圏のどっかの街と言うことになっていて、私もロケハンで同行したのであるが男2人が金庫破りの相談をするところが実は私がよく言っていたやすい食物屋なのである。今はそのレストランはなくなってメガネスーパーみたいなものになってしまった。 映画ファンと言うのはこういうアクションドラマの場合車の転落とか爆発とか言うのは見られないと入場料を返すと言うことになるからそういう修羅場の合計も用意されていて、シトロエンのVanが崖から転落して爆発するのである。環境保全の良いオーストリアのドナウ川の岸辺の山の上から車を落下させるなると言うのは関係方面にどのような許可を取るのかそちらの方が心配になってしまった。 40数年前に手伝った映画ではあるが実は私はこの映画を全部見ていない。映画を見ていないと何か期待できることがあるかもしれないが実際に見てしまったらつまらないと思っているのである。大昔パリニューヨークそして東京を巡回したハプスブルグ帝国をテーマにした巨大な展覧会で Wien 夢と現実 というのがあった。私のウィーンの夢は大切にしたいからだ。 この世界最初のライカと言うのはライカがライカカメラを作ってちょうど50周年の1975年にディーラー向けにモックアップを作って配布したのである。だから写真を撮ることができないけれど好きな人がいてその中にライカのメカニズムを組み込んでちゃんと写真を撮るようにした人もいたらしい。 30分ほどライカの社長さんがいないのをいいことに、世界最初のライカを持って逃走するつもりはないけれども、人生に二度とないチャンスだからこれにフイルムを装填して撮影してやろうと思ってパトローネ入りのモノクロフィルムをポケットに隠していた。しかし市販のライカとは違って何しろライカの父のオスカーバルナックが答えたものであるから、フイルムの入れ方がわからない。下手に壊してライカの株式をストップ安にするのは申し訳ないのでそれ以上触るのはやめた。 この撮影のためにライカの会社はわざわざ銀行の金庫からこの世界最初の代価を持ち出してきてくれたのである。それでこれは関係者に聞いたのであるが実は世界最初のライカはもう1台存在するのだそうである。 考えてみればそれはそうだよね。工場の生産物なんだから試作品で1台と言う事はむしろありえないね。 スイス製の一眼レフでAlpaと言うカメラについていてずいぶんいろいろな撮影をしたのである。雑誌の連載などもこれでとったことがあるが、思い出すと私の場合マクロレンズで撮影したことがなくていつも∞で撮影をしているのである。たからのもちぐされと言う言葉があるがそれを私に当てはめるのならば マクロレンズのinfinity撮影の馬鹿と言うわけだ。 この高いスイス製のレンズは最近お金持ちが持っていなければならない定番のレンズになっていて皆さんそのマクロレンズで作例を取ったりするのであるが、これに対して私がひとこと言いたいのは皆さんお花の撮影をクローズアップでやって全部ピンボケだしカメラぶれはしているし下手な写真の競争コンテストみたいになっていることだ。でもご本人が下手な写真と言うことに気がつかないから非常に幸せな状況なのである。 私の場合30年ぶり位にというかキャノンF1で写真を撮りたくなってレンズを考えたのである。ところが後期高齢者になっているから30年前のまだ40代の頃に取材に行って35ミリ一眼レフ3台,レンズ5本みたいな事はもうできないのは当然であるので、手元にあるプライムレンズをいろいろつけてあれにしようこれにしようと考えるのは非常に楽しい老人の快楽なのであるが、結局選ぶのは小型で軽量のレンズ以外に選択肢がないと言うわけだ。 これ等はキャノンのマクロレンズの50ミリf 2.8であるから小型軽量で老人の体力にはぴったりなサイズと重さなのである。でもクローズアップでお花を取ったりするつもりは最初からないからインフィニティーにセットして適当にスナップするだけ。 千葉県銚子市のことに関しては私が醤油屋の末裔であるとか言うことをあちこちに書き散らしていたので5年ほど前にギャラリーバウハウスに来てくれた友人がわざわざその当時の読売新聞が発行した東京案内をプレゼントしてくれた。こういう昔の都会ガイドブックをもらったのは2つ目であって19か20歳の年に京都に行った時に友人の祖父にあたると言う京都の白川に住んでいた老婦人からいただいたのがこれは明治の初期の京都案内の上下2巻と言う話本仕立ての本であった。 明治39年と言えばこれから日本がどんどん大きくなろうと言うところで調べたらちょうどこの年に日本国有鉄道ができたのだそうである。その当時はまだ東京の駅は秋葉原駅が中心であって東京駅はまだできていなかった。 1906年と言えば作家稲垣が生まれたのが1901年だし私の義理の父が生まれたのはもうちょっと後で私の父の生まれたのはそれより下1年後の明治45年なのである。今から思うととんでもない昔の話で時間スケールからすればはるかに江戸時代よりと言うことになる。 それよりも私が不思議に思っているのは当時の大新聞社であった読売新聞の東京のガイドブックの裏表紙にヒゲタ醤油が広告を出していることだ。これだけの広告になれば当時としても安い広告料ではなかったわけですそこで名前を出している田中と言う人が私の先祖にあたる大名家の代表取締役と言うことになる。 その当時はご結婚直後の今の皇后陛下もカメラすきというか写真すきでいらしたようで、愛用していたのはオリンパスのコンパクトフィルムカメラであった。何か写真記者クラブであったかどうだか忘れたけど当時カメラグランプリの審査員なども私はやっていた関係で何かの集まりの時にカメラメーカーが皇室関係のどなたが何を使っているかと言う事は宣伝に使わないようにしましょうと言う申し合せがあったらしい。 なるほど日本の国民はそういうところを気にするのかと感心した。ところで最近ガラクタ屋さんから私が大昔にやっていたカメラジャーナルのそろいの雑誌を譲ってもらってその創刊号がコンタックスT2なのである。このカメラがよく売れた理由というのがあってウィンブルドンだかどっかのテニス競技のときのスポーツ中継でヨーロッパのどっかの皇族がこのカメラを構えていたというのがいい宣伝になったようである。 考えてみればエリザベス女王陛下は当時のライツから贈呈されたライカM3の英国紋章付きのやつを使って撮影をしているカットが残っているからこういうのは良いフェアなトレードになったのであろう。 皇室関係者とお付き合いは無いけれども大昔に浅利慶太さんと一緒にタクシーに乗っているときに赤坂見附で当時の皇太子様のお車の脇に我々のタクシーが停車して驚いたことに左の席に座っていた美智子様が我々に会釈をなさったので浅利慶太さんは非常に感激していた。 私のカメラジャーナル時代にはずいぶんたくさんのカメラの本を出したのだが出版社から聞いたことによると宮内庁から注文があるのだと。まさか宮内庁の職員さんだったら自分でヨドバシカメラに行って買えば良いのであるから、これを私の予測に過ぎないが皇室のカメラすきの人と言うのは大体想像できるからそういう方が愛読してくださったのかもしれない。 皇室関係とその周りと言うことで考えてみると銀座でご結婚直前の黒田さんにお目にかかって彼は私のカメラ本の愛読者なので話が盛り上がったのは良いが、VIPであるから2名のポリスマンがいつも付き添っていてそのうちの1人の人はなんとカメラウィルスにやられてしまったそうである。 間宮と言うメーカーは一番最後の最後まで2眼レを作っていた真面目なメーカーであった。その間宮の2眼レフのすべてのシリーズの中でこの1番最初に作られたJrだけが何か1番モダンな存在のデザインであるのも面白い。 間宮カメラと言えば世田谷で作られたSekorレンズで有名だがこのカメラについているのは間宮になる前の別会社のレンズブランドであってその名前をNeoconと言うのである。Seikoでもコパルでもない自社製のシャッターのブランドがスタミナシャッターと言うのもいい感じだ。 間宮フレックスジュニアの場合メイドインオキュパイドジャパンの刻印はこの位置についている。新しく生まれた日本としてはこれは国辱的な刻印であったから後の時代にこの部分をレーザーを張り替えてしまったものもあって、コレクターの立場からするとこのようにオリジナルのネーミングが付いているのは逆に珍しい。 ところでブロ2眼レフ里程標見ていてわかったのであるがこのカメラを組み立てていたのは3人の戦後のパイオニア的エンジニアさんであってライン生産ではなく組み立てを最初から終わりまで1人で行っていたそうだ。それで責任を明らかにするためにネームプレートの裏側にそれぞれけ書きでイニシャルが入っているそうである。 その3人の技術者さんはもう60年前の事だからとっくに忘れていたのであるがインターネットか何かの関係でその頃のことを思い出して皆さん感動しているのである。私の手元には数台の同じモデルのカメラがあるが、わざとネームプレートは外さないでそのままにしている。何かおいなりさんの社の中身を見ると目が潰れると言うような江戸時代の民間信仰みたいなものであってそれは見ない方がカメラの楽しみとしては素晴らしいことになると言うのが私の考え方だ。 ガラクタ屋さんに行く時わざわざ遠回りをしてこの猫とバラの日々の看板を鑑賞していいなと思った。その看板がなぜ良いかというと単純な理由であって既に真新しい看板ではなくていい具合に年代がついているからである。つまりクラシックカメラと同じですね。私の周りの写真家連中にしても私から見て不思議に思うのは中判カメラを買ったりする時も何がなんでも新品に近い状態のものでないと嫌だと言う人がいるのは私にとって不思議である。1種の潔癖症と言うのかな? だから私の場合この年代のついた看板というのが気にいっているのだ。写真家を変えればん子はSAの仕事でアメリカのDeep Houseをずいぶん撮影して歩いたけれどもカントリーサイドのドラッグストア高そうだファウンテンだか忘れたけどそこの建築物に掲げられた巨大なコカコーラの看板がある。ウォーカーエバンスアットワークの本を読んでいると彼のリビングルームに置かれている巨大なコカコーラの看板と言うのはその彼の代表作の撮影した建築物に取り付けられていた看板なのだそうである。 そういうのも凄いと思うけれどもこれを本気でやっていると私の部屋などもどこかの古道具屋さんの店内のようになってしまうからそれはやめたほうがいい。私が持っている唯一の立ち飲み屋さんの看板と言うのはこれも結構古い菊正宗の看板なのである。それ1枚だけ。 田中長徳氏ってとても個性的な存在なのは分かるけど、そういう人物の一言一句を特別扱いする雰囲気も違和感ある。 あたしの本名は長徳で、本当は「おさのり」と読むのである。つまり 戦国大名の由緒正しい名前であって、そこらへんに転がってる連中とは 氏素性が違うのである。まあ便宜上、チョートクと名乗っているが、超得などと 揶揄するゴミどもは犬にでも食われるといいだろう。 この今ツールファインダーシステムは暗い所でも威力を発揮するのである。それは当然であって暗い光景で普通のブライトフレームファインダーでは見えないようなダークな場所でも脳内構成してくっきりと35日のブライトフレームが浮かび上がるからだ。ワンセットが25,000,000円もするような35ミリのプロ用映画撮影機でアメリカのパナフレックスというのがあるがこれは極限の状況で映画撮影をするために暗い撮影シーンをちゃんと見せるためなのであるが、ブライトフレームをわずかな光で証明してそれを一眼レフファインダーの上に合成してファインダーの構造を見せるというのがある。これをPana Glowファインダーシステムと言うのである。 ここまで帰って気がついたがパナビジョンはレンタル専門であってカメラや付属品を買うことができないからそのことを訂正して割り引いて考えるとコルゲンコーワのこのファインダーシステムは実際に買うことのできる世界で最も暗い場所を撮影可能なファインダーシステムと言うわけだ。 私が大学1年生の頃銀座4丁目のMiyamaカメラ店でこのファインダーだけ山積みになって売っていたが誰も買う人がいなかった。知らない人が覗いてみて真っ暗な画面だからファインダーが壊れているぞなどといったものである。当時のこのファインダーの値段は1600円であった。 その頃の中平さんは記憶を失って居られて吉村のところに来て毎日同じ挨拶をすると言うのである。つまり中平といいます写真をやっていますみたいなことが永遠に繰り返されるのだ。これは写真家としては素晴らしいキャラクターではなかろうか? その時の中平さんはいつものキャノンF1 で100ミリのレンズをつけていた。そのカメラを手に撮らせてもらって覗いてみたらファインダーが腐食していて一眼レフのスクリーンの7割以上が見えなくなっているのでこれこそ本物の写真家が愛用するカメラだなと感心したのであった。 だから私の希望としては中平さんに持ってもらいたい100ミリはキャノンF1の時代の100ミリではなくてもっとそれより25年時代がバックした頃のこういうシンプルでプリミティブなレンズこそふさわしいと思うのである。 それで思い出したことだが十数年前に私はこれと同じレンズをガラクタ屋さんで買っていたのだ。もちろんこーゆーレンズと言うのはコレクターズアイテムでは無いから値段も1000円とかそんなもので非常に安かった。それで最近手に入れたキャノンF1オリーブドラブのカメラに1番似合うレンズはこれではないかと思って探してみようと思ったがカメラジャングルでこんな小さい物体は簡単には発見できないのである。それでそのままになってしまった。 蛇腹式の35ミリレンジファインダカメラと言うのはコダックのレチナがあったけれどこちらのArcoがすごいのは特別な装置を使わないで38センチまでクローズアップができると言うことでこれがユニークだった。 そのサンプルを持って1950年代にアメリカに行った時にあちらの代理店から紹介されてアルパの一眼レフを作ったジャックボールスキーにあったらArcoカメラが非常に気にいってビジネスになりそうになったと言う。結局ボールスキーの会社ボルシーがリクエストしてきたスペックが気に入らないと言う事とArcoカメラをアメリカで売るスキーが売ると言う話は立ち消えになってしまったそうだが、逆にArco写真工業の方ではアメリカがパテントを買いに来たと言うのでこれを宣伝に使ったそうである。 私にとっては思い出深いブランドなので8ミリカメラのほうも何台も持っているし75ミリの一眼レフ式外付けファインダーを装備した8ミリカメラ用の超望遠レンズも発見して所持している。ムービーカメラのビジネスの最後の方で当時の最高級カメラだった8ミリをさらにブローアップしたArco16と言うモデルを50台だけ作って取扱説明書も用意したところで会社は倒産してしまったそうだ。 それから6 70年経過したつい昨年の話だがその16ミリカメラがネットオークションに登場した。これは絶対欲しいと思っていたのであるが自分はあの当時の最高級の16ミリカメラをたくさん所有しているので今更と言う感じになってしまってオークションには参加しなかった。70,000円もしない価格で落札されたようである。 四半世紀ほど前に中古カメラブームがあったときに日本カメラだったと思うけれど坂崎幸之助さんとよく中古カメラ対談と言うのをやった。思い出すに中古カメラクルージングとか称してあらかじめマークした東京の中古カメラ屋さんを5つかそこいら回るのである。 坂崎さんも私も好きだから真面目に中古カメラ屋巡りをしてそれぞれに手に入れた中古カメラを5番勝負とか言うことでじゃんけんポンで取り出して編集長か誰かが勝ち負けをレフェリーで判定するのである。思えば楽しい時代であったと思うのは四半世紀前にはまだデジタルカメラが今のように発達していないし中古カメラ屋さんでデジカメの中古と言うのは置いてないわけだからフィルムカメラだけで遊ぶことができたのがよかった。 同じ頃に新書版で中古カメラの本を出してタイトルは忘れてしまったがこれが初版のスリ数が2万部なのである。小さな出版社だったので手形で支払いがされたのも今思うと何か懐かしい。 今田と高校生が選挙の仕組みを紙に書いて学校内に掲示しただけで高校生が政治活動はけしからんとか言う横槍が入るらしいが、1964年の東京オリンピックのときの生意気な高校生の私の写真行動と言うのは当時の校長からも支持されていたと言うのだから今からは隔世の感がある。 戦後にスタートした新しい民主主義の力がまだ失速していなかったと見ることができる。ところで私は生意気な高校3年生であったから、全員が参加すべきこういうマスゲームの時に後者の上からニコンエフで撮影をしていたりしてまたそれを批判する人もいなかったのだから思えば自由な時代だった。 中学生の時に手に入れたクロームのニコンエフフォトミックを知り合いに紹介されてまだ日本橋にあった西川のふとん屋さんの4階のニコンの会社でトップとボトムのカバーを全部交換してもらってブラック仕上げにしてもらったのである。その製造番号は6463471、 ベビーブーマーの頃だからあの頃の都立新高校の生徒の1人いうのは500人では聞かなかったかもしれない。その中でニコンエフを持っているのは私とあと2人の同じクラスの高校生だった。1人は建設会社の社長の息子であってもう1人もどこかの会社の社長の息子だった。私は東芝の平社員の息子なのだからかなり階級が異なるわけである。 お店の看板のお魚の目つきがなかなか漫画的で良い感じである。目に表情があると言うのはいい感じだ。値段表を見てみると1番上がナマズで1番下がうなぎである。うなぎ等はどのように調理するのかな? 1980年代にベルギー政府観光局の仕事で2年間ベルギーを広く取材したことがあった。ベルギーの南部の古い都Gentにある老舗の鰻屋さんを取材に行った。ぶつ切りのうなぎのグリーンソースはなかなか良い品だったがお店のオーナーと雑談しているときに日本でもうなぎを食べる習慣があると言ったらどのように調理するのかと聞かれたので開いて焼いて蒸して砂糖の入った素やソースをつけると説明したら思いっきり馬鹿にされた。 このカメラの使い方で重要なのは言うまでもないことだが、一緒にニコンエフを使ってはダメなのである。1970年代初めのいわゆる写真家のカメラの使い分け方というのがあって、一番代表的なのは有名な写真家エルンスト・ハースウィーン出身でニューヨークで活躍した大写真家であるが、彼はライカM2のブラックににだいめのカメラはブラックのペンタックスであった。理由は知らないけれどもそのペンタックスにはマイクロニッコール55ミリが付いていた。 最初にキャノンフレックスに持ったイメージから60年以上が経過して今の私がどのようにこのカメラのユーザのイメージを浮かべるかと言えばやはりそのイメージは不変なのである。 つまり世田谷あたりのお金持ちっぽい写真好きな若い人。 友人スミスなどがその典型的な例であるが、カメラをたくさんぶら下げている写真家はカメラマンぽい感じはするけれどもシリアスなフォトグラファーと言う感覚は0である。その実例としては友人スミスとロバートフランクを並べてみればわかる。ロバートフランクの優秀な写真集をたくさん出版した日本の編集者Motomuraの場合だが彼は友人スミスの知り合いだったそうでその伝でロバートフランクを紹介してもらったのだそうだ。 それで結局2千11年の3月のマンハッタンの撮影では確か2週間ほどいて11本の撮影をしたのである。マンハッタンイレブンと覚えているからその撮影本数は間違いがないと思う。1番使ったのはスーパーアングロンのこのレンズだった。 このレンズが好きなのはその理由は単純であって同じスーパーアングロン21ミリef 3.4も使っていたがこっちのレンズは絞りの羽根がどういうわけだか4枚しかないのでゴーストイメージが汚いのである。だから明るさがエフ4のこちらのレンズを使っていた。 40年前に私がニューヨークに行ってニューヨーク近代美術館に通っていたときの駅がダウンタウンのプリンスストリートなのであるがそこを再訪して懐かしいので20一ミリレンズで駅のプラットホームを撮影したらいきなりトークンブースにいる係りの人からここは撮影禁止ですよと警告されたのにはびっくりした。ライカだったら良かったのであってピストルを持っていたら即家殺されていたかもしれない。 ところでマンハッタンで使ったこのM3であるがかなり調子が悪くなってそれを友人に譲ったのだけれども関東カメラサービスでオーバーホールしたらバッチリ新品に戻ったそうである。やはり機械式のフイルムカメラとデジカメの違いがそういうところに出るのだな。 時代が昭和から平成に変わるその瞬間に8 × 10インチのカメラを持って渋谷を撮影していた。渋谷嫌いだけれどもテーマが渋谷が嫌いと言うことになれば、戦場カメラマンみたいなもので別に怖いと言う事は無い。その時私はひどい腰痛にやられていて、痛みを和らげるためにどこかに座ろうと思ったのだがその時分かった渋谷の真実と言うのはちょっと腰掛けるところがどこにもないと言うことだった。それで喫茶店に入ってまずいコーヒーを飲むと言う不愉快な体験をした。 しかし渋谷嫌いの私でも1976年の6月から7月にかけて渋谷に暮らしていたことがある。今でもあると思うが渋谷東急ホテルと言うところに長く滞在していたのはその時にヨーロッパを巡回した現代日本写真家展示会の準備でオーストリア人のドクターと一緒にそこのホテル暮らしだった。なぜ渋谷何かに暮らしたのかと言うのは記憶にないけれど、日本側の写真展の準備をする奴が池尻大橋に住んでいたのでその関係で近くのホテルと言うことになったらしい。 、、ウィーン人のドクターは普通の神経を持っているインテリであるから最初の1週間で体調を悪くして早々にヨーロッパに戻っていった。そのドクターと忘れられないのは上野のアメ横のラーメン屋でモハメッドありと猪木の試合を見た事だ。帰る時ドクターは写真家と連絡するために銀行で公衆電話から電話するために300枚以上の10円玉を私に手渡した。これも重くて渋谷を持ち歩くのが大変だった。 出品する写真家の皆さんと打ち合わせをして夜遅く帰ってくる時渋谷駅からNHKの方向に歩いて帰るのにものすごい人の流れを掻き分けながらホテルに戻るのはストレスだった。渋谷のじゃんじゃんがまだあった頃だな。 30年ほど前に富士フイルムのパノラマカメラの写真集を作るときにロンドンからヨーロッパにかけてぐるぐる取材で歩いた時にケルンの中央駅だったと思うけれどもプラットホームに電気機関車が止まっていてその電気機関車にメルクリンと大きな文字が踊っていた。私は鉄道模型ファンではないけれどもメルクリンが世界的に有名な鉄道模型のブランドであると言う事は知っていたから、そこで現実を見て私の空間認識のスケールが狂って動き出したのが面白かった。 すなわち実物大のメルクリンの模型の電気機関車の真似をしている現実の電気機関車の後ろに乗っている乗客にしろそれを撮影している私にしろ全てが100分の1の模型に縮尺されて我々はその模型のレイアウトの中で構成されている紙粘土の人形に過ぎないと言うわけだ。 傍流写真同盟が有効だなと思うのは、アンデパンダンなことだ。紙媒体に登場する人間に対する暗黙の尊敬と言うのは実は方向違いな的を狙っていることであって、結局編集者の誰か適当な奴はいないかと言う仲間内意識が構成しているのも否定できない。 アルフレッドスティグリッツがギャラリー291を作って、ニューヨークカメラクラブがカメラノーツを作ったのは、時代背景があるからこれは仕方がないけれど今の時代のオンラインの発表媒体と言うのはそれなりの有効性があり効果があると思う。 この1年間私が傍流写真同名で注目しているのは、外でもずいぶん書きちらしたけれども写真家として、見えない的を狙っている連中が有効であると言うことなのだ。 三部さんの視神経の面白さもそこにある。見えない的を狙っている写真家の1人である。世の中の一般に尊敬されると言うテーマ主義から距離を置いているところも知的だと思う。 最近傍流写真同盟にアップされたこの作品を見て感じたのであるが、まさに見えない的を狙っているのである。視神経のトリックで距離感がわからなくなると言うのはそういう状況に落ち込むのを好んでいる私なのであるが、よく見るとはとぽっぽがワイヤーに乗っていると言うところで全体が巨大なスケールの風景であることがわかってそれが面白い。 今もっている二台のカメラは数年前にガラクタ屋さんでほとんど同時に買ったものでなかなか綺麗な品物である。フイルム交換をするたびにExaktaに対して感じる何か言いようのないデジャヴ感覚というのがあってそれが一体何であるのか長年わからなかったのだが、最近その原因に気がついたのである。 巻き上げスプールの1部にアルミニウムに色が付いているのである。普通こういうカメラの付属品で色をつけると言うふうになると注意を喚起するためにレッドなどが普通である。あるいは派手なオレンジ色である。アメリカの航空カメラがあって大きなレンズキャップが付いているのだがそれは蛍光色のオレンジに塗装されていてさらに大きな字で離陸する前にこのレンズキャップを外せ! そのような注意を喚起するためのオレンジではなくて何か心を冷静にさせる要因のあるブルーとかグリーンとかいうのがここら辺は東ドイツがなかなか知的レベルが高い国であると感心せざるを得ない。Exaktaのこの写真はしばらく前に撮影したものなので実際にどんな色であるかなぁと思ってカメラを探し出してきて裏蓋を開けたらグリーンではなくブルーに変色していたのでさらにびっくりした。 何の事は無いもう1台のExakta何の事は無いもう1台の頭このカメラと無意識のうちにスプールが交換されていたのである。 しかし販売定価が750,000円を超えているそうで、それなら程度の良いエム6にしてももっと安く買えるから新品をお宅の人以外はあまり売れないと思う。 その30年近く前の話だけど、当時は銀座のレモン社と言うカメラ屋さんで並行輸入でエム6を売り出していた。その同じ頃に私がエム6よりもM5の方が良いと言うのでカメラジャーナルだと思うけどそういうことを書いたらレモン社が営業妨害だとクレームをつけてきたのも懐かしい。 こちらは真実を述べているだけなのだがお互いに考えの違いがあったのでその当時の会長に会いに行って和解したのである。その影響と言うわけでもないがレモン社は私の中古カメラ活動に結構協力してくれたのはありがたかった。例えばレモン社はかなりレベルの高いライカコレクションを持っていたのだがそれをカレンダーにするので協力していただいたこともあった。 ライカの本でずいぶん書き古したことだが本来のライカのクオリティーと言うのはエム型だったらM4までである。それと全く異なる新しいカメラシステムのM5は素晴らしいカメラだ。ライカの会社の間違いは競合他社と同じようにTTLで露出を制御することを第一に考えたことにある。でも当時のライカのスペシャリストは自分で露出をコントロールするのが普通だった。大写真家の大竹先生ですら狐火ちらちらでファインダーが醜くなると言うのでわざわざバッテリーを外して使っていらっしゃったほどである。 ライカエム6はその後エム6 TTLになってこれがまた問題の多いカメラでこれもカメラ雑誌日本カメラでテストレポートをしたのであるが、ファインダーのフレームがどう見てもずれているのである。そのことが気になるのでカメラメーカーでちゃんとした測定機械を持っているコシナレンダーの小林社長に調べていただいたらやはりフレームの表示が変であると言う回答だった。 そのことをカメラ雑誌に書いたらすぐ返答があって、当社の厳密な基準で完璧で何の問題もありませんと言うことだった。 私の印象としては復刻版のエム6より程度のよろしい中古だな。それもM4-2以前のやつね。 ポールストランドの撮影した35ミリ映画撮影機。2500ドルで買った。彼が撮影した撮影機のプリントはクリスティーズで750,000ドルで売れた 写真家が向かうテーマはたくさんあるけれども初期の映画撮影機をその美しさに痺れて撮影した写真家と言うのはポールストランドしかいない。写真家として食えない若かった頃の彼は新しい時代のテクノロジーである35ミリ映画撮影機を2500ドルで手に入れた。1920年の2500ドルと言うのは今だといくらだか知らないがとにかくビックマネーである。 そんな高いカメラをなぜかえたのかと思ったらおばさんの遺産なのである。1連のAkeley Cameraのボールストランドのシリーズは有名である。私もニューヨーク近代美術館で見た。彼がしびれて撮影したのは撮影機のインテリアとギアヘッドの複雑な機構である。そこには半導体以前の機械学の美学がある。 映画撮影機は私も25年位前にクリスティーズのオークションで手に入れた。しかしポールストランドの映画撮影機をテーマにしたオリジナルプリントは750,000ドルもするからまず無理である。映画撮影機本体は最近のeBayで見たら2万ドルの値段がついている。そのセラーを見たら25年来私がよく買っていたeBayのKinemamanなのでびっくりした。 やはり中古のカメラよりそれを撮影した大写真家の印画紙の方が世の中の評価は高いのだな。ライカも今までのデジカメの道を反省して、ライカエム6の復刻版を出したそうだしこれからは35ミリを使うカメラが面白くなりそう。 Akeleyカメラのにだいめを日本のネットオークションで手に入れたのだけれども、このカメラが良いのは手回しハンドクランクであることだ。つまり今のデジカメみたいに電池がなくなったらアウトと言う事は完全になくなっているところが凄い進化だったと思う。 誤解されると困るのは、りんごが大きいからどうだとか言う話ではない。デジタルカメラの素人さんはフルサイズのでっかいデジカメでないとダメだみたいなことを言ってる人がいるけどあれは大間違いである。ウィーン時代のピアノの調律士で今でもウィーンでお子さんがたくさんいらして住んでいる人がいるのだけれども彼の口癖が山椒は小粒でもピリリと辛いなどと言う昔のおっさんというか今では後期高齢者さんなのである。 山椒は小粒でもピリリと辛いような小さなりんごがウィーンで暮らしていた頃は好きだった。形は悪くて小さいのだが味が良いのである。そのリンゴとか後は緑のりんごでグラニースミスというのがあってこれがなかなか甘くないのでおいしかった。日本のりんごの価値判断はデジタルカメラと同じで大きくて甘いのがいいと言うことらしい。 東日本大震災が起きたとき私はたまたまマンハッタンにいたのである。日本はトイレットペーパーがないと言うので買って来いと家人から指示があったので引っ越し荷物並みの大きなトイレットペーパーの山を買って東京に戻ってきたらすでに4名不足は解消されていた。こういうのは恐ろしい。 JFKで飛行機に乗る直前に懐かしいグラニースミスがあったのでいっこだけ買ってきて佃煮戻って食べたらこれはうまかった。 内田百鬼園のエッセイで面白いりんごの話を思い出した。近くの果物屋でお店にりんごが長く並んでいる。店に入ってみるとそれぞれに細かく値段が分かれている。内田百鬼園はなかなか探究心が多いからそれぞれのクラスをいっこずつ売ってくれと言ったら店の親父が何をするのです?味比べをするのさと言ったら親父は怒って帰ってもらいましょう! デジタルカメラマガジンの新製品カメラテストみたいなものだからこれはやっていいと思うんだけど戦前の果物屋の親父が虫の居所が悪かった。 それでコシナレンダーの25ミリであるが周辺まで均一のシャープネスであるのが素晴らしいと思った。もっとも100年近く前に設計されたTopogonレンズと比較するということが間違っているのかもしれない。 小林さんに初めて銀座のどっかのカメラメーカーの応接室でお目にかかったときに彼はカールツアイスのBiogon2.1cmのコレクターであると言っていたが、レンズメーカーのトップの人がそのように本物のレンズ好きであると言うのは素晴らしいことだと思う。 普通は部下からそういう話が上がってくるとトップの人はそんなの売れないと言うのでつぶしてしまうわけだがその構造が逆であるというのが素晴らしい。 スナップショットエルマー35ミリというのが大昔あってこれは距離計に連動しないのである。スナップショットの場合距離計に連動する必要などは全くないから、そのスナップショットの精神がコシナレンダー25ミリに受け継がれる。 私はレンズに対するいわゆる面食いであるから、なかなかレンズ美学に関してはうるさいのであるが1時好きだったのはレンズの第一面が凹レンズであることに美学を感じていたことがあった。海外の特にドイツの製品で最初の面が凹レンズと言うのは結構あるのだけれどもそういうレンズを集めていた。 このスナップショット25ミリコシナレンダーが凄いのは第1面のガラスが完全に平面であることなのである。こういうレンズは他に私が知る限りではないな。そこがこのレンズのエロティックなポイントなのである。 もう一つのポイントはレンズの描写なのだけれども、太陽に向かって撮影したときのゴーストイメージがピンポイントとして表現されるのである。そういうレンズも他には例がないからこれもまた素晴らしい。 それでこの事件以降はスライスしたものを買うようになった。要するに何が勘違いかというと素人さんがいきなり8 × 10インチの大型カメラで撮影をするようなものである。私が長年8 × 10インチのデアドルフを使って撮影していたので古い友人の野々宮が自分でも使えると思って手に入れて使いこなせないで手放してしまったようなものだ。 ハモンセラーノはこの数年は成城石井で買うようにしている。1年半熟成と言うのを買っているがなかなかうまい。ところが所物価高騰で最近いつも買っているやつの値段がジリジリ高くなってきた。 フードロスを解消するための団体だか会社だか知らないが幕開けというのがあって最近そこを利用しているのは生活防衛のためである。そこにハモンセラーノが登場して私などでも買える値段なので注文した。 要するに一般小売店ではもうすぐ賞味期限が切れているから安くなると言うことなのであるが、ハモンセラーノは貯蔵期間が長いほど価格が高くなるのである。だからフードロスになりそうなものの方が味わい良いと言う皮肉な現象がある。 韓国で起きたハロウィンの人間の雪崩で150人以上がなくなったと言うのは誠に気の毒な次第である。私が以前からハロウィンはへんてこりんだと思っているのは、そこに宗教的なバックグラウンドが全然存在しないことにある。もともとはケルト族の新しい年を祝うしきたりでかなり長い歴史的な背景があるのだが、オーストリアウィーンに長く住んでいて11月1日と言う日は万聖節と言うので日本で言うお盆のお墓参りみたいなものである。 ニューヨークに取材で行っていた時たまたまハロウィンの時に当たってマンハッタンからイエローキャブをチャーターしてニュージャージーのフォートリーに行ったことがあった。きれいにジャックをランタンが飾り付けられていて子供たちが扮装して歩きまわっていた。 私が知る限り35年位前にはまだ日本ではハロウィンはなかった。それを日本に広めたのは碑文谷にあった素敵なインディー系の写真ミュージアムギャラリーMingだと思う。オーナーの城田さんはアメリカに長かったからハロウィンの習慣もちゃんとしていて私もそれに招待されていて日本のハロウィンのお祭りに初めて接したのである。 城田さんは地元の子供を連れて碑文谷の家を回ってお菓子をもらっていてその当時は私は背景を知らないからこれはなんだろう?と思っていた。 東京のハロウィンの馬鹿騒ぎは単なる政府に対するガス抜きみたいな風に使われている。数年前に渋谷で乗用車がひっくり返されてあれから政府も対策に対して注意するようになった。 私が滑稽だなと思うのはハロウィンの1連の祭りは単にそこいらの商業施設が客寄せをするためだけに使われていて宗教的なバックグラウンドがゼロな点である。 群衆が集まると言うのはコントロールが効かないから危険だ。1983年の新年の時にニューヨークのタイムズスクエアにいたけれどいつ人間の雪崩が起きても不思議ではないと言う危機感を感じた。 3年前にハノイの大晦日から新年にかけてハノイに行ったことがあるが夜おそくなってホテルの部屋にいたら周囲の人々のざわめきがすごくていきなり停電になった。それでハロウィンではなくてハノイのカウントが強まったわけではないのでその時は外に出なかったのである。 ここら辺は隣はドイツであり湖の反対側スイスである。大きな湖の上に1901年にツェッペリン飛行船が世界で初めて浮かんだのである。その飛行船発祥の地のフリードリヒサーフィンに取材に行ったこともあったが、当時のツェッペリン飛行船の客室部分のモックアップが残っていてそれに入って座ってみたらなかなか優雅な感覚なので当時の飛行船の旅と言うのはずいぶん高級なものであったなと理解した。 しかしこの界隈に関する私の記憶と言うのはどちらかと言えばネガティブであって1974年であったか家人とヨーロッパを1周した旅行の最後のセクションで湖のドイツ側の小さな街から国境越えようと言う時にちょうど重松Fusakoが有名になった時で国境警察に任意同行されて調べられたりしたことがある。考えてみると家人の風貌がヨーロッパ人から見ると東洋人の女性で髪の毛が長いと言うだけの話なのだ。 なんで私がその時焦ったかと言うと当時流行していたファーストクラスをヨーロッパで乗り放題のユーレイルパスの最終日でその列車を逃すとウィーンに帰り着くことができなくなるからであった。 2003年 5月 17日 (土) デジカメを持参しなかったので画像なし。 午前1時、12チャンネルの「男達の風景」を見る。東儀さんとの30分番組である。 朝。 天候は予想に反して回復せず。午後1時、散歩カメラにて工藤と待ち合わせで、有楽町のサッカーカフェに行ったら、11日を限りに閉店とのこと。 錦糸町に行く。 駅ビルのヨドバシにて、私のミニガイドを同梱した、フジのモノクロフィルム「アクロス」のパッケージ販売中。 記念に買う。970円。 同じ3本のフィルムで私のガイドのないのは70円安い。 私の存在は70円分というわけだ。 押上に行きそこから撮影を開始する。 暗い日にて、ライカM2(LV模様付き)にズミクロン35で、コニカパン400を4本。 京島を1丁目から3丁目まで歩く。 やはりモノクロの撮影は「身が引き締まる」思いあり。 これはデジカメが一般化した、その反動ということであろうか。 夕刻、本郷のちどり。 この偉大なアマチュア写真家を、尊敬すべきは、彼がアマチュアであって、写真を楽しんでいると言うことが中心にすえられているからだ。その意味で職業写真家と言うのは、視神経の幇間であるから、卑しい職業と言うことを忘れてはいけない。 初対面の写真家は私が持っていったポラロイドに興味を示して一緒にたくさん写真を撮った。それと彼の室内の素敵な小物を撮影して、これも素晴らしかった。初対面の写真家は、自分の写真集の幼年時代の写真に今取ったばかりの90歳になろうとする私が撮影したポラロイドSX 70のプリントの2つを手をV字形にして指し示すのである。それをまた私はポラロイドで撮影した。 その時のポラロイドの作品を組み合わせて、大きなフレームに入れたものを、20年以上前にギャラリーモールの津田さんが企画した写真展に展示したのである。その場所は駿河台下の白壁の倉をギャラリーにしたところで、もともとは本屋さんが活版用の原版を保管していたそうである。 モールの津田さんは今は函館で写真活動をしている。この間東京にいらしたそうだが、その関係でFacebookの友達になった。津田さんからメールが来て、その時の私が制作したフレームを返却しますと言うのでありがたかった。その私が撮影したポラロイドの写真を組み合わせたフレームに関してはすっかり忘れていたからである。 ギャラリーモールは、その前のギャラリーフロッグの時代から東京で注目されるインディーギャラリーであって、ロバートフランクもやってきたことがある。 ボジョレヌーボーが嫌い。 世の中で騒いでいると言う事とまずいと言う事と家の前のスーパーでも売っていると言うことである。エアバス380が東京パリを結んでいた頃にファーストクラスの1番後ろに座っていて、ちょうどその日が11月15日であったので、アテンダントさんがやたらにボジョレーヌーボーを勧めてくれた。これでボジョレーヌーボーが本格的に嫌いになった。 これはプラハのショットであるが、あそこのモラヴィアの赤ワインと言うのは収穫量は少ないからほとんど国内で消費されてしまうがなかなかうまい。 ワインと言うのは地元で飲むのが1番いいから。最近では国産のワインもあるみたいだけども試しに飲んでみたら飲めない事はないが、値段がやたらに高いのでやめた。 20年ほど前にハッセルブラッド生誕100年と言う取材で、ヨーテボリに行った時に、正式のディナーであるから、その時はフランスのワインだったが、後で街に繰り出した時チリ産のワインで、これが初めての出会いだった。 それで最近はチリ産のワインばっかり。デギスタシオンをするわけではないので、ワインは赤が1種類あれば良い。ブルゴーニュでデギスタシオンをやったときこちらは素人である。私たまたまその日が誕生日だったので、いろいろ買い集めて空輸してもらったのはいいが、成田の税関が不親切で、もうこれからは個人でワインを輸入するのはやめようと思った。 暮らしていたドナウ運河沿いのアパートから最寄りの駅に行く間に馬肉屋さんがあったので、そこで買った馬肉を8年近く食べ続けた。無論を刺身で食べたのだが、ウィーン時代に食べたのは何頭分になるのか想像もつかない。 Met Wurstというのは、豚肉をミンチにして熟成された生ソーセージである。今のwinだと生のマグロの刺身も手に入るが、50年前はそういうことがなかったので、毎年11月1日の万聖節の日にウィーンの北の大きなチャーチのあるKroster Neuburgでないと手に入らないので、11月1日にそこに買い物に行くのが常だった。 その時のご馳走と言うのは、年に一塊、白米にそのソーセージをのせて食べるのが大変なご馳走に思えた。 家人が新聞広告で、その生ソーセージを発見して、私がオンラインで注文したのであるが、驚いたことに佐渡島でそう言う珍しいものを作っているのである。それで炊きたての滋賀県産の新米にこのMet Wurstをのせて食べてみたら、味覚の関係でいきなり生活時間が50年前に戻ったのは嬉しかった。 腰痛の関係で私は長いこと。右足の歩行が不自由であった。歩行が不自由と言うのは佃島から歩き出して志村坂上まで4時間ぐらい歩くと言う意味の歩行の不自由さである。 その不自由な歩行で世界中歩き回って世界中の路上で滑って転んで倒れたりすると通行人が走ってきて助け起こしてくれるのである。日本で転倒しても誰も助けてくれないからそこら辺が文化的な違いなのであろう。 3年前の10月の終わりに、天才荒木が住んでいた三輪の街で右足を捻挫した。それ以降歩行して転倒すると言う事はなくなったが、長距離が歩けなくなった。 1 0年前に偽物ライカ愛好会の撮影会で佃島の北の端から勝どき橋を経由して、月島の1番南つまり私が写っているこのポイントまで歩行してそのまま歩いて佃島の1番北まで戻ってくることができた。 今はそんなことはできない。 晴海水産埠頭行きのバスで終点まで来てムーンアイランドの南の端っこをちょっと歩いてまたバスに乗って佃島に戻った。撮影のための気力と言うのは全く幻滅していないのであるが、長いこと歩くことができなくて、ニューヨークで言うところのツーブロックごとに立ち止まったりそこら辺の標識につかまったりあるいは建物の角に20秒ぐらい腰掛けたりする。 30歳の頃にマンハッタンでタイムズスクエアから南にバッテリーパークまで行って、そこからまたタイムスクエアに戻ってくると言うのが普通の歩行であった。その時に道の行き帰りにオールドジェントルマンがポリスのバーに寄り掛かったり建物の角に座ったりして、何をしているのかなと考えたのだが、世代交代で、私がその後期高齢者になったわけだ。 11月27日は暖かい素晴らしい午後であった。 奥に見えるレインボーブリッジであるが、30年以上前これができたときに広告の写真でニッコール1200ミリと言うのを8 × 10インチのデアドルフカメラに付けて撮影したことを思い出した。その時まだレインボーブリッジは3分の1しかできていなかったのである。 モノマガジンの今井社長がすぐその話に乗ってくれて、画面の右に写っている本ができた。佃島のタワーマンションの最上階の部屋だけで撮影した、1000ページの本だ。これには下敷きがあって、ヨーロッパの有名作家が、自分の部屋だけをテーマにして膨大な旅行記を書いたのである。 それの真似。 こういう風変わりな本がちゃんと重版になったのも凄いと思う。 日本郵船氷川丸が改装された時に、日本郵船の広告の仕事をやったのであるが、ポスターや新聞広告だけではつまらないので1000ページの写真集を出しましょうと提案したら出ることになった。 氷川丸だけ撮影していてもつまらないので、当時最先端のライラと言う巨大なコンテナ船があって、これがサザンプトンからスエズ運河を経て品川埠頭まで40日間位かかる。当初はそれに乗ろうと思っていたが、それの時間がなかなか取れないので、最終的には名古屋港から品川埠頭まで乗ったのである。それでも2泊3日の船旅。 1000ページ本と言うのはなかなか使い勝手が良くて昼寝をする時などにちょうど良い枕になるのである。 しかし手ぬぐいで巻いておいた方が気持ち良い。 田中長徳佃日記と言うのは、ハードカバーで箱に入った500ページ以上の豪華本である。15,000円もするのに500部の限定でわりと早く売り切れた。こちらのほうはオンライン出版がされているので、佃日記を枕にして、iPadでオンラインで読む方が楽である。 私がイスタンブールの人々を信用するようになったのは、グランドバザール近くの汚い飯屋で食事をしてそこを出てしばらく経ってから食い物屋のカウンターの下にブラックライカM2にライカ人MPをつけたのを忘れていたのを思い出したのである。 慌てて戻ろうとしたら、くいもの屋で働いている少年が私のライカを持って息せき切って走ってきた。ライカを忘れるのは私の馬鹿さ加減であるがその少年の行動ですべてのイスタンブールの人々がポジティブに思えるようになった。 私と古谷と山本の3人で街をウロウロしていたら地元の青年に声をかけられた。その人の名前も覚えているベンチャーライドンと言うのである。イスタンブールの夜は案内してやると言うのでまずショップでジョニーウォーカーのボトルを買わされた。それを持って高級ホテルに入ってコカコーラを注文してウェイターの目につかないように持ち込んだウイスキーを入れてコーラ割りにしていい気分になった。 それから高い道の下にへばりつくような場所にあるじょうろ家を見学に行った。男たちの視線が行く先を埋まっていてすごい迫力だった。案内してくれたトルコの青年は明日は自分は軍隊に入隊するので少しお金を貸してくれないかと言うことを言い出したのを切りにしてわれわれはバイバイした。 そのちょっと前に案内してくれた青年は明日も会いたいから午前10時に牛久だらの船着場で待っていると言ったのである。私は食中毒になって空が黄色く見えるようになって起き上がれなかったからいかなかったが、古谷は真面目な性格だからちゃんと時間通り牛久寺に行ったそうである。くだんのトルコの青年は来ていなかったと言う話をずいぶん後になって古谷から聞いた。 それから30年ぐらい経過して、本の執筆で缶詰になる必要があったので予約したホテルがブルーモスクの真向かいにあった3階建ての典型的なトルコ風クラシック住宅でホテルの名前をアルダーと言うのである。そこを拠点に雑文を書いて昼過ぎにグランドバザールあたりをウロウロした。それで70年代のはじめてのイスタンブールの記憶が次々に呼び戻された。 お寿司屋さんで1番よく行ったのは40年前、マンハッタンのEmpire State Buildingのそばの5番街にある元禄寿司である。回転寿司であって、文化的にすごいなと思ったのは、地元の人が紅茶にたっぷり、砂糖を入れてそれで寿司をつまんでいたことだった。これが本物の文化なんだなと感心した。 六本木ヒルズの本を作るときに、ヒルズの中にできたすきやばし次郎に取材に行ったことがある。1人で行くと恐ろしいから野々宮と一緒に2人で行って板前さんの工作を聴きながら寿司を10巻食べた。 それで30,000円である。お寿司1つが1000円になるわけだが、そう思うと高いけれど、すきやばし次郎の板前さんから寿司のうんちくを聴きながら食べる。寿司ワークショップだと思えば安いと思った。 取材でレニングラードの寿司屋に行ったことがある。その名前を将軍と言うのである。街の中心部の1番繁華街にあって、時々プーチンが仲間と一緒に食べに来るので、その時はその商店街の全部が立ち入り禁止になるそうだ。岸田のポーチは反動的ファシストであるがそこまではしないからまだ大丈夫か。 寿司のチケットは単価500円で10枚送られてきた。中途半端な価格設定だと思う。私などは寿司と言うのはスーパーで買ってくるものだと思っている。 チケットの有効期限が3年後の大晦日までなので、忘れないようにしないといけない。 大学何年かの時であるがその頃どういう具合か月に一塊京都の同級生の家に遊びに行くと言う習慣になっていて2月ごろの寒い京都の冬の暗闇の中をレオ託すに28ミリのキャノンレンズをつけて歩いていた私であった。どこかの神社の中から大林が聞こえてきてその歌の内容がワンフレーズだけ聞こえたのである。それは 大学何年かの時であるがその頃どういう具合か月に一塊京都の同級生の家に遊びに行くと言う習慣になっていて2月ごろの寒い京都の冬の暗闇の中をレオタックスに28ミリのキャノンレンズをつけて歩いていた私であった。どこかの神社の中からお囃子が聞こえてきてその歌の内容がワンフレーズだけ聞こえたのである。それは ♩♩♩^_^溶けて流れてほーいほい ただこれだけであるのだが、レオ託すを使って言った私の心に染みる短いフレーズの旋律であった。 小谷メンディングの古谷さんとはその後お付き合いがあって戦前1番最初に作られたレオ託すスペシャルの非常に貴重な取扱説明書のゼロックスコピーをいただいたりしたのである。そのカメラの様子が今のライカと異なっているのは他店との関係でレンジファインダーのウインドウとビューファインダーのウインドウの位置関係をライカのようにしてしまうと特許侵害になるのだそうである。それで2つのファインダーウインドウの位置関係が逆転しているのだが、そこに何か新しいレンジファインダーの存在感を感じていいなと思った。もっともつい最近ヤフオクでそのレオ託すスペシャルが登場していたけれどコレクターズアイテムだから値段は500,000円位する。だから実際に使うレオタックスは安いやつで良い。 レオタックスが1950年代の終わりに倒産したときにちょうど1番最後のモデルレオタックスモデルジーなパーツのままで存在したのでそれを債権者の誰かが組み立てて販売したのである。それがレアモデルのレオ託す事であるが、私もしばらく使っていたのだけど、ちょっとクセのあるカメラで長いことが使えなかった。 実は私が最初に手にしたレンジファインダタイプのカメラはライカカメラではなくてその前はレオ託すであった。理由は単純であって値段が安かったからだ。今にして思うとレオ託すの作りはなかなか良いのであるが当時はライカを知らないから比較のしようもなかった。 大学何年かの時であるがその頃どういう具合か月に一塊京都の同級生の家に遊びに行くと言う習慣になっていて2月ごろの寒い京都の冬の暗闇の中をレオ託すに28ミリのキャノンレンズをつけて歩いていた私であった。どこかの神社の中から大林が聞こえてきてその歌の内容がワンフレーズだけ聞こえたのである。それは 大学何年かの時であるがその頃どういう具合か月に一塊京都の同級生の家に遊びに行くと言う習慣になっていて2月ごろの寒い京都の冬の暗闇の中をレオタックスに28ミリのキャノンレンズをつけて歩いていた私であった。どこかの神社の中からお囃子が聞こえてきてその歌の内容がワンフレーズだけ聞こえたのである。それは ♩♩♩^_^溶けて流れてほーいほい ただこれだけであるのだが、レオ託すを使って言った私の心に染みる短いフレーズの旋律であった。 小谷メンディングの古谷さんとはその後お付き合いがあって戦前1番最初に作られたレオ託すスペシャルの非常に貴重な取扱説明書のゼロックスコピーをいただいたりしたのである。そのカメラの様子が今のライカと異なっているのは他店との関係でレンジファインダーのウインドウとビューファインダーのウインドウの位置関係をライカのようにしてしまうと特許侵害になるのだそうである。それで2つのファインダーウインドウの位置関係が逆転しているのだが、そこに何か新しいレンジファインダーの存在感を感じていいなと思った。もっともつい最近ヤフオクでそのレオ託すスペシャルが登場していたけれどコレクターズアイテムだから値段は500,000円位する。だから実際に使うレオタックスは安いやつで良い。 レオタックスが1950年代の終わりに倒産したときにちょうど1番最後のモデルレオタックスモデルジーなパーツのままで存在したのでそれを債権者の誰かが組み立てて販売したのである。それがレアモデルのレオ託す事であるが、私もしばらく使っていたのだけど、ちょっとクセのあるカメラで長いことが使えなかった。 ところで私は腕組み系のラーメンが大嫌いでかつてからいつも東京ラーメンドキュメンタリーと言う国民運動をやっていてこれは最近の街中華ブームが起こる何年も前からそれをやっているのである。すきやばし次郎には行ったことがあるがラーメン二郎には行ったことがないというのが私の細やかなプライドである。 周りにいる飲み屋とか本部長とかそういういろんな連中がラーメン二郎で仁義を切るのがうまくなったとか馬鹿を言っているのでこれはいちど体験留学しようと思ってある時東京の周辺部にあるラーメン二郎に入ろうと思ったらその日はたまたまラーメン屋のお休みの日であった。それで考え方を改めて今では東京ラーメン大1本槍なのである。 1年ほど前に佐野厄除け大師方面に行った時に下調べをしたら駅前にラーメン博物館があると言うことだったが、そのつもりで行ったら私の道不案内の声であろうかくだんのラーメン博物館は発見できなかったのでそのままになっている。それで東京でラーメン屋に行ったと言うことを考えてみるとその経験は全くなくて、最後に東京の街中華のラーメン屋に入ったのが5年以上前前になるか新宿区赤城町と言う巨大なクレーターみたいな窪地の中にあるラーメン屋でいっぱい食べたのが最後になっている。 もともと佃島と言うのは昔はちゃんとした食品に家があったのだがそれが全部もんじゃ焼きになってしまって私は父親の遺言でもんじゃには行かないことにしているからそうなると地元のガストロノミーにも行く機会は無い。それでラーメンは最近箱で保管しているのがエースコックのインスタントであるがそれがベトナム製なのである。これがなかなかによろしい。だからこの写真でご覧に入れるのはそのベトナムのエースコックなのである。 それで四川料理の店に行って、とりあえず足を冷やさなければならないと言うのでリコーの偉い人は中国語はネイティブ並みなのでそのようにオーダーしたらシャンペングラスを冷やす器を持ってきたのだがそれでは足は入れにくいのだ。改めてバケツをリクエストしてその人は四川料理のは辛いのを食べながら、足はバケツの水で冷やしていた。 その翌日にはリコーの重要なプレゼンテーションがあって私なども心配していたが翌日普通に歩けるようになってよかった。バケツの水で冷やしたのと辛い四川料理のとんがらしと両方が効果を生んだのであろう。 1970年代の半ばの話だが、私の友人がウィーンで1番古いと言われている北京飯店と言う名前の中華料理店でウェイターをやっていた。それでその頃日本の商社のジェントルマンが食べに来て彼がオーダーするには おれ、、、しかわ、、あの、、辛いやつ それに対して私の友人はああ、しかわ、、分りましたはい。 この対応はサービス業として優秀だと思う。何も日本の商社のお客さんに、あれは四川料理と言うのですうんぬんなどと説明する必要もない。 それ以来50年近く家では四川料理をしかわ料理と言うようになった。 そのイメージがまた大きく崩れたのは80年代の終わりに新華社主催の報道写真コンテストの審査委員長で行った時である。街の看板を見ていて 川菜 とあるので何かあちらの菜の花のおひたしみたいなものかなと思っていたら、これがあちらでの四川料理の略語なんだね。川と言う事がつくと何かあっさりしたものと言う感じが日本語感覚ではある。 それで豆板醤をヨドバシカメラに注文したら翌日到着した。いつも現像液や定着液を注文しているので何か豆板醤が来るのは未来的である。 ネットを見ていたら驚いたことに豆板醤を家で作る人がいるらしい。要するにソラマメを茹でて塩を加えて工事を加えて暗いところに置いて半年間と言うのである。私は自分の写真を50年間売っているのは気が長いとは思わないけれども、ホームメイドの当番山は家が長すぎると言う感じがする。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
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