老いて益々】田中長徳ファンのスレ その6【老化】
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思い出を語りましょう 過去スレ 【老いて益々】田中長徳ファンのスレ Part4 http://mint.2ch.net/test/read.cgi/camera/1414410549/l50 【老いて益々】田中長徳ファンのスレ その3【耄碌】 http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/camera/1262227407/ 【老いて益々】田中長徳ファンのスレ その5【徘徊】 https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/dcamera/1496927773/l50 田中長徳(たなか ちょうとく 本名はおさのり) 1947年東京生まれ 日本大学芸術学部写真学科卒業 日本デザインセンター勤務の後、フリーランスとなる オーストリアのウィーンに遊学 ライカのコレクションを始める 帰国後 ライカなどクラシックカメラに関する執筆をカメラ雑誌に 連載する。以降、クラカメの権威として多くのファンを集める その写真は時代の空気を切り取り、その時その場所を歴史に定着させたものとして世界的に評価が高い 写真展では氏の写真の前でじっと動かず、滂沱の涙を流す人が後をたたない その端正な風貌から写真界の貴公子との異名を持ち今日なお多くの女性の心を捉えて放さない 同好の老爺を引き連れ定期的に都内各所を徘徊する様は醸し出される加齢臭も相俟って今や東京の風物詩となっている Facebookへの書き込みは一日数回に及ぶが、多くは過去の書き込みの繰り返しで世間の注目を集めている 私は頭の計算というのができないからそのことをFacebookに書いて今の時代はトライエックスが高いけれども当時の貨幣感覚で言えば1円を10,000円と換算するならば2円10銭と言うのは今のモノクロフィルムと変わらないのではないかなどと馬鹿を書いた。すぐに人気写真家の中藤さんから訂正が入ってよく考えてみたら私の考え違いの今の価格で2100円と言うのではなくて2円10銭であるから今の貨幣で考えれば20,000円以上するのである。 林文子が1930年代のタイピストのお給料を40円と書いている。だから今の労働者の安給料に比べると1円を10,000円とイコールに考える事はちょっと考えものなのかもしれない。ところで没落家系の内田百鬼園が人に借金に行く時は大抵仲間内から借りるのは5円なのである。そうなると今の50,000円位のことになるのかな?地獄の門と言うタイトルの随筆小説があって初めて高利貸から高い利息で金を借りたときの内田百鬼園の言い出した値段が300円なのである。 当時のライカはエルマー月の標準モデルが750円ほどで、明るいレンズがつくと高くなって1000円近くした。だから2円10銭の1本のフイルムを自由に使える人と言うのはなかなか裕福層であったと言うことがわかる。 間宮の製品と言うのはいずれも重厚な感じがするのであるがこれは金属パネルを使ったりしておまけにフォーカシングのギアが連動しているあたりはビックヒットになったり後フレックスとスタイルが似ているので何か安物カメラと言う感じがしたのだが実際にはかなりよく作り込まれている。 当時の戦後の黎明期の間宮で専門にこのカメラを組み立てていた技術者さんが3人おられたそうである。そしてそれぞれの3人の皆さんのネームのアルファベットがネームプレートを外すと裏側に刻印されているそうだ。何かカメラの秘密を見たような感じがして素晴らしい話だと思う。もっとも私はマイナスドライバーが家にいないので外して中は見たことがない。と言うよりかこういうものは伝説的なところに属するからその数字を見ると目が潰れたりするのではないかと心配しているのである。 このカメラの存在で私が1番興味を持っている事は高級生よりか1年ほど前に普及生の方が出てきたと言うことであってこれは通常のカメラメーカーのやり方からすると全く逆なのである。キャノンのレンジファインダで有名なスクリューマウントの4型というのがあるがこれが高いと言うのでその後に2型と言うのを出した。要するに1000分の1秒のシャッターを省いていたりとかちょっとコストダウンをしているのであるが私はその方面のカメラの方が好きなのである。 その当時のキャノンのカメラ雑誌の広告を見ると新しい新潟のほうはお求めやすいJrカメラと言うキャッチコピーがついている。これが普通の販売戦略の方法である。ところが間宮フレックスに関しては逆で最初にJrが出てきてしまったからその後の森家の立場にある間宮フレックスオートマットはキャッチコピーとしてはを求めにくい最高品質と言うことになるのであろうか。 Miraxと言う一眼レフミラーボックス装置はなかなかよくできていてまず当時の競合していたライカのVisoflexなどに比較するとかなり小型軽量である。カールツアイスの版フレックスと言う一眼レフ装置と比較しても比べ物にならないほど小型軽量である。だからちょっと見るとすごい安っぽい感じがするのであるが実際に使ってみると想像以上にバランスの良い一眼レフ装置である。 戦前から戦後の一眼レフブームになる前までのレンズ交換式カメラの使い方と言うのは単純であって広角レンズから標準レンズそして90ミリ位のレンズは距離計で使ってそれより長いほうのレンズは一眼レフ装置で使うと言うきわめて真っ当な実用的なシステムに対する考え方であった。 Miraxで感心するのはそのシャッターレリーズとミラーアップの連携する機構なのである。単純極まりない金具の薄っぺらいパーツなのであるがその薄っぺらなパーツをシャッターボタンとミラーアップのレリーズの上にはめ込んでその中間部分を押すとフレキシブルなパーツなので同時に両方のシャッターが切れるのだ。世界のカメラメーカーでここら辺はそれぞれ苦労したものと見えるが、カールツアイスの場合は使いにくいダブルケーブルレリーズだし、ライカの場合は一眼レフ本体から長いてこのような格好のアームをせり出してきてそのてこの先でライカのシャッターボタンを押すと言うおよそクールではない格好のデバイスなのである。その点このオリオンの作ったシャッターとミラーボックスの連携機構は素晴らしい。 ヨドバシカメラの便利な配送が1分だけ早めに到着すると2001年6月11日を思い出してしまう。これは私の心の中でけっこうなトラウマになっている。それで3500円のティーファールが送料なしで届くのは我々にはありがたいが、競合する他社はこれはやっていられないわけだろう。ガラクタやにだいめの家のかわいいメダカさんの餌と言うのは値段が100円らしいけどもこれも無料で届けてくれるらしい。 10年ほど前にロシア航空でモスクワに行った時たまたま見かけた日本人の若いカップルがティファールの入ったパッケージを大事そうに抱えていた。サモワールではないけれどもロシアはよくお茶を飲む国だから当時ティーファールは手に入らなかったのかもしれない。 そういうモダンな道具は1970年代のウィーンではなくてもっぱら普通のケトルでお湯を沸かしていたのである。家が広いしキッチンが遠くにあるからたいていのケトルには笛がついていてお湯が沸くと上記の力で笛が鳴るのである。プラハに暮らしていた34年間はそんな笛吹きケトルもなかったから小さな鍋でお湯を沸かして毎朝細かく引いたコーヒーの粉にお湯を注いでいた。これはヨーロッパでは唯一このチェコだけに残るクラシックなコーヒーの飲み方なのである。 それで用があってタワーから外に出るときのメインエントランスの右側にいつもこういう風景が見えてその時いつも思うことがあるそれは私にとってこの風景がやたら日本的な路地みたいに見えることだ。これはすごく不思議な印象であってヨーロッパの光景を見なれてしまっているせいでもあろうが、造成されたこの一帯は日本的な要素は全く存在しないのである。要するに1980年の頃の日本のモダン建築を理想化したと言うようなエンバイロメントの方向付けになっている。 ところが不思議なことに私がなぜタワーのエントランスから出るときの右側に日本の精神みたいなものを感じるのかと言うと、これは極めてシンプルなことなのであるがご覧のような10本位の木木が立っているこれが私にとっては極めて日本的な感じがするのだ。言い方が大げさかもしれないが私にとってヨーロッパを強烈に感じるのはゴシック建築より下ずっと以前の例えばパルテノン神殿の列柱なのである。あれにヨーロッパの文化を感じるのと同じような意味合いでほとんどパワーとしては同じ位のバランスで私はこの立ち並んだぼっくいに日本を感じていると言うのはやっぱり自分の考え方は変だよね。 と言うような風景論を考えるのは私だけでしょうか? よくFacebookで見かけるこの言い方が大嫌い独善的で。 カメラの話以外だと驚愕するほど中身が無くなるんだなあ。。(´・ω・`) レザーのエバレディケースも付いていてこれがまた複雑な立体型をきれいに包み込むような革ケースなのである。あまりにぴったり入るので外すのがちょっと大変だが何かに似ているかと言うと大昔のポーランドのポリスが使っていたピストルケースに似ていると言うのは1番この場合適当な表現だと思う。 しかしそういう些細なことよりもこのカメラの最大の魅力と言うのはかなりきっちりエナメルで塗られているから現代の我々の感覚からするとこれはまさしくプラスチック製であるなと思うのであるけれども、実際には重厚なダイキャスト製なのである。そのダイカストの本体にいかにも軽い感じの明るい色がかなり丁寧な仕上げでペイントされているというところが我々のカメラに対する物質の予想感覚というのを完全に裏切っている。 そこが素晴らしい。 ペットリフレックス7を手に入れて10年ぐらい経った時にネットオークションでPetriの一眼レフのセットケースというのが登場した。注意をしてみるとこれはめったにネットオークション等には出現しないものでまず1年か2年に1度しか登場しないと思う。大衆カメラ用であるから作りが結構安っぽいから人気がないと言うことでその大半はすでに捨てられたのではないかと思う。 それで私のカメラのセットケースのコレクションの中ではこれが1番レア物と言うことになる。ご覧のようにシンプルな作りで合成レザーであってストラップはビニールで全く冴えないのであるけれども、ここで重要なのはセットケースを愛でているときにはカメラの素材はレザーでそれに方からぶら下げるストラップも上質のものでないと気に食わないと言う勘違いが起こるのである。 カメラの素振りと実際の撮影というのがかなり違うと言うのと同じように、カメラケースを手に取って鑑賞しているときには本当の実用性と言うのは見えないのである。ビニールのカメラケースのストラップと言うとみんな馬鹿にするけれども、実は逆であって例えば戦後のライカエム型のセットケースの頑丈な上質な革でできてなおかつ滑り止めが付いているセットケースがたすき掛けにして撮影している時などにその取り回しが非常にしづらいと言う欠点がある。 その点このペトリカメラのセットケースはなかなか道具としては優れものである。ペトリの銀色のロゴが高級感を醸し出しているな。 デジタルカメラの命短く、フイルムカメラの命永し そーゆー日常生活の生きがいになるような大事なデバイスならフイルムが高くたって別に文句は言わない私だ。この間あるギャラリーから私の古い写真集の1枚をお客さんに頼まれてそれをプリントしてくれと言われたのだが、結局ネガフィルムが3000本以上あるのでこちらは老眼だし申し訳ないけど発見できなかった。 今では状況が変わってしまってフイルムカメラしかなかった時代にはありとあらゆるものをフイルムで撮影していたからネガフィルムの量が膨大になってくる。今では日常の記録等はデジタルカメラ、と言うよりもiPhoneとiPadで撮影できるから画像のボリュームの物理的な重さは実際には存在しないから本当にありがたい時代だと思う。 それで2022年度版のモノクロ写真のススメであるが、ごくごく安い中古のフイルムカメラを1台例えばこれは2500円であるがそれで1000円位のモノクロフィルムを買って自分で現像するのが面倒ならオンラインショップで現像は頼んでそのスキャン画像をSNSにアップしたりするとかなり楽しめるのである。 この場合フイルム代が高いからたくさん取れないと言うことが無駄にショット数を大きくしない非常に重要なポイントだと思う。さてそれをどう皆さんに見せるかと言うと例えば私が関係しているSNSで傍流写真同盟等というのがあって、すでに800人以上のメンバーの方がいるがそういうやり方が結構大事な写真の発表方法になっていきつつあると言うのも面白い。 半世紀以上フィルムライカで撮影をしているからそれなりのフィルムライカのマナーと言うものがある。偉大なフォトジャーナリストであった三木淳さんが書いていたことだが彼は1日の撮影にフイルム5本と決めていたそうである。撮影のパワーをフル回転にして1日5本のフイルムをとると言う事は結構大変なことなのだ。これは実際にやってみればよくわかる。 撮影の現場監督でクライアントがいたりするときは我々はクライアントにすぐ忖度したがるから1日で20本取ったりするのであるがあれはまやかしものである。1日に私も5本のフイルムをポケットに入れて撮影をする。 左のポケットに撮影してないフイルムを入れて撮影済みのフイルムは右のポケットに入れるようにする。ポケットを手で探ると全体の撮影のペースが分かるのでこれは好都合で長年そうやってきた。何かの時に森山大道さんと雑談をしていた時に彼も似たような方法で片方のポケットからもう一方のポケットに撮影済フィルムを入れてそれで区別しているのだと言う話を聞いて面白いと思った。 森山大道さんは手ぶらで撮影に行く写真家であるからカメラバッグなど持っていない。カメラ雑誌がまだ存在していた頃3年にいっぺんぐらいやるつまらない代表的な企画でカメラマンのバックの中身というのがあって私も頼まれてそういうテーマで有名写真家を取材したことがあったが、森山大道さんはカメラバックを持っていない。つまりカメラアクセサリーメーカーの敵ですね。それではインタビューにならないので森山大道はなぜカメラバッグを持たないかと言うインタビューをした。 Eos20Dをベニスで使ってその描写力とそのスピードに感心したことがあってなんでその時ベニスにいたのかそしてなぜこのカメラで撮影したのかは本当に忘れてしまったが、2004年と言う時点では私はどうもキャノンと言う会社とコマーシャルの関係で少しはお付き合いがあったらしいのである。キャノンの会社から借りていたカメラであるから何かそこに背景があったのであろうがその事は思い出せない。 思えばキャノンサークルと言う雑誌でずいぶん長いこと連載記事か何か書いていてそれの関連でフイルムで写すEos1が登場した時もその最新型カメラでニューヨークで撮影をしたことを思い出した。 それで考えるのであるがデジタル一眼レフと言うのはワイドボディの大型旅客機と同じようなものでどれを見てもそのロゴタイプを見るまでそれがどこのメーカーのデジカメであるのかわからないようなところがある。デザイン的に全部均一であるからそこにライフスタイルとか撮影のバックグラウンドのクールさとかそういうものは一切存在しないのが私がこの種類のカメラが嫌いな最大の理由なのである。 撮影はよくできるかもしれないがカメラにドラマがないというのが1番退屈である。それでも最近の1億画素の画質とか飛んでいる小鳥の目玉にピントが合うとかそういうのはもともと私は必要なくて普通にブログにアップするだけだからAPS-Cサイズのこういうカメラが1番よろしい。これだって8,000,000画素以上あるんだってすごいね。 でもこういうアマチュア向けのカメラを使って当時ちゃんとした広告の仕事をして大きなポスターを作ったりもしたのである。あれは夢か幻か? ところで話を戻すと1番最初の打ち合わせの時にギリシア人の監督とそれぞれのスタッフと打ち合わせをしたときに何の担当かわからない若い奴がいたのである。その人に対して私は結構偉そうな口をきいてみていたようで、これが間接的な変な効果を出してしまって日本の有名な写真家だから粗末にはできないぞみたいなことになったのかどうか知らないが、結構ギャラは良い待遇が良いと言うのでびっくりしたのである。主役の2人の俳優さんと同じ高級ホテルに泊まらせてもらって移動する時はマリオと言う主役の俳優さんが運転するJaguarで移動したりした。 コミックアクションドラマであるから舞台は1930年代のドイツ語圏のどっかの街と言うことになっていて、私もロケハンで同行したのであるが男2人が金庫破りの相談をするところが実は私がよく言っていたやすい食物屋なのである。今はそのレストランはなくなってメガネスーパーみたいなものになってしまった。 映画ファンと言うのはこういうアクションドラマの場合車の転落とか爆発とか言うのは見られないと入場料を返すと言うことになるからそういう修羅場の合計も用意されていて、シトロエンのVanが崖から転落して爆発するのである。環境保全の良いオーストリアのドナウ川の岸辺の山の上から車を落下させるなると言うのは関係方面にどのような許可を取るのかそちらの方が心配になってしまった。 40数年前に手伝った映画ではあるが実は私はこの映画を全部見ていない。映画を見ていないと何か期待できることがあるかもしれないが実際に見てしまったらつまらないと思っているのである。大昔パリニューヨークそして東京を巡回したハプスブルグ帝国をテーマにした巨大な展覧会で Wien 夢と現実 というのがあった。私のウィーンの夢は大切にしたいからだ。 この世界最初のライカと言うのはライカがライカカメラを作ってちょうど50周年の1975年にディーラー向けにモックアップを作って配布したのである。だから写真を撮ることができないけれど好きな人がいてその中にライカのメカニズムを組み込んでちゃんと写真を撮るようにした人もいたらしい。 30分ほどライカの社長さんがいないのをいいことに、世界最初のライカを持って逃走するつもりはないけれども、人生に二度とないチャンスだからこれにフイルムを装填して撮影してやろうと思ってパトローネ入りのモノクロフィルムをポケットに隠していた。しかし市販のライカとは違って何しろライカの父のオスカーバルナックが答えたものであるから、フイルムの入れ方がわからない。下手に壊してライカの株式をストップ安にするのは申し訳ないのでそれ以上触るのはやめた。 この撮影のためにライカの会社はわざわざ銀行の金庫からこの世界最初の代価を持ち出してきてくれたのである。それでこれは関係者に聞いたのであるが実は世界最初のライカはもう1台存在するのだそうである。 考えてみればそれはそうだよね。工場の生産物なんだから試作品で1台と言う事はむしろありえないね。 スイス製の一眼レフでAlpaと言うカメラについていてずいぶんいろいろな撮影をしたのである。雑誌の連載などもこれでとったことがあるが、思い出すと私の場合マクロレンズで撮影したことがなくていつも∞で撮影をしているのである。たからのもちぐされと言う言葉があるがそれを私に当てはめるのならば マクロレンズのinfinity撮影の馬鹿と言うわけだ。 この高いスイス製のレンズは最近お金持ちが持っていなければならない定番のレンズになっていて皆さんそのマクロレンズで作例を取ったりするのであるが、これに対して私がひとこと言いたいのは皆さんお花の撮影をクローズアップでやって全部ピンボケだしカメラぶれはしているし下手な写真の競争コンテストみたいになっていることだ。でもご本人が下手な写真と言うことに気がつかないから非常に幸せな状況なのである。 私の場合30年ぶり位にというかキャノンF1で写真を撮りたくなってレンズを考えたのである。ところが後期高齢者になっているから30年前のまだ40代の頃に取材に行って35ミリ一眼レフ3台,レンズ5本みたいな事はもうできないのは当然であるので、手元にあるプライムレンズをいろいろつけてあれにしようこれにしようと考えるのは非常に楽しい老人の快楽なのであるが、結局選ぶのは小型で軽量のレンズ以外に選択肢がないと言うわけだ。 これ等はキャノンのマクロレンズの50ミリf 2.8であるから小型軽量で老人の体力にはぴったりなサイズと重さなのである。でもクローズアップでお花を取ったりするつもりは最初からないからインフィニティーにセットして適当にスナップするだけ。 千葉県銚子市のことに関しては私が醤油屋の末裔であるとか言うことをあちこちに書き散らしていたので5年ほど前にギャラリーバウハウスに来てくれた友人がわざわざその当時の読売新聞が発行した東京案内をプレゼントしてくれた。こういう昔の都会ガイドブックをもらったのは2つ目であって19か20歳の年に京都に行った時に友人の祖父にあたると言う京都の白川に住んでいた老婦人からいただいたのがこれは明治の初期の京都案内の上下2巻と言う話本仕立ての本であった。 明治39年と言えばこれから日本がどんどん大きくなろうと言うところで調べたらちょうどこの年に日本国有鉄道ができたのだそうである。その当時はまだ東京の駅は秋葉原駅が中心であって東京駅はまだできていなかった。 1906年と言えば作家稲垣が生まれたのが1901年だし私の義理の父が生まれたのはもうちょっと後で私の父の生まれたのはそれより下1年後の明治45年なのである。今から思うととんでもない昔の話で時間スケールからすればはるかに江戸時代よりと言うことになる。 それよりも私が不思議に思っているのは当時の大新聞社であった読売新聞の東京のガイドブックの裏表紙にヒゲタ醤油が広告を出していることだ。これだけの広告になれば当時としても安い広告料ではなかったわけですそこで名前を出している田中と言う人が私の先祖にあたる大名家の代表取締役と言うことになる。 その当時はご結婚直後の今の皇后陛下もカメラすきというか写真すきでいらしたようで、愛用していたのはオリンパスのコンパクトフィルムカメラであった。何か写真記者クラブであったかどうだか忘れたけど当時カメラグランプリの審査員なども私はやっていた関係で何かの集まりの時にカメラメーカーが皇室関係のどなたが何を使っているかと言う事は宣伝に使わないようにしましょうと言う申し合せがあったらしい。 なるほど日本の国民はそういうところを気にするのかと感心した。ところで最近ガラクタ屋さんから私が大昔にやっていたカメラジャーナルのそろいの雑誌を譲ってもらってその創刊号がコンタックスT2なのである。このカメラがよく売れた理由というのがあってウィンブルドンだかどっかのテニス競技のときのスポーツ中継でヨーロッパのどっかの皇族がこのカメラを構えていたというのがいい宣伝になったようである。 考えてみればエリザベス女王陛下は当時のライツから贈呈されたライカM3の英国紋章付きのやつを使って撮影をしているカットが残っているからこういうのは良いフェアなトレードになったのであろう。 皇室関係者とお付き合いは無いけれども大昔に浅利慶太さんと一緒にタクシーに乗っているときに赤坂見附で当時の皇太子様のお車の脇に我々のタクシーが停車して驚いたことに左の席に座っていた美智子様が我々に会釈をなさったので浅利慶太さんは非常に感激していた。 私のカメラジャーナル時代にはずいぶんたくさんのカメラの本を出したのだが出版社から聞いたことによると宮内庁から注文があるのだと。まさか宮内庁の職員さんだったら自分でヨドバシカメラに行って買えば良いのであるから、これを私の予測に過ぎないが皇室のカメラすきの人と言うのは大体想像できるからそういう方が愛読してくださったのかもしれない。 皇室関係とその周りと言うことで考えてみると銀座でご結婚直前の黒田さんにお目にかかって彼は私のカメラ本の愛読者なので話が盛り上がったのは良いが、VIPであるから2名のポリスマンがいつも付き添っていてそのうちの1人の人はなんとカメラウィルスにやられてしまったそうである。 間宮と言うメーカーは一番最後の最後まで2眼レを作っていた真面目なメーカーであった。その間宮の2眼レフのすべてのシリーズの中でこの1番最初に作られたJrだけが何か1番モダンな存在のデザインであるのも面白い。 間宮カメラと言えば世田谷で作られたSekorレンズで有名だがこのカメラについているのは間宮になる前の別会社のレンズブランドであってその名前をNeoconと言うのである。Seikoでもコパルでもない自社製のシャッターのブランドがスタミナシャッターと言うのもいい感じだ。 間宮フレックスジュニアの場合メイドインオキュパイドジャパンの刻印はこの位置についている。新しく生まれた日本としてはこれは国辱的な刻印であったから後の時代にこの部分をレーザーを張り替えてしまったものもあって、コレクターの立場からするとこのようにオリジナルのネーミングが付いているのは逆に珍しい。 ところでブロ2眼レフ里程標見ていてわかったのであるがこのカメラを組み立てていたのは3人の戦後のパイオニア的エンジニアさんであってライン生産ではなく組み立てを最初から終わりまで1人で行っていたそうだ。それで責任を明らかにするためにネームプレートの裏側にそれぞれけ書きでイニシャルが入っているそうである。 その3人の技術者さんはもう60年前の事だからとっくに忘れていたのであるがインターネットか何かの関係でその頃のことを思い出して皆さん感動しているのである。私の手元には数台の同じモデルのカメラがあるが、わざとネームプレートは外さないでそのままにしている。何かおいなりさんの社の中身を見ると目が潰れると言うような江戸時代の民間信仰みたいなものであってそれは見ない方がカメラの楽しみとしては素晴らしいことになると言うのが私の考え方だ。 ガラクタ屋さんに行く時わざわざ遠回りをしてこの猫とバラの日々の看板を鑑賞していいなと思った。その看板がなぜ良いかというと単純な理由であって既に真新しい看板ではなくていい具合に年代がついているからである。つまりクラシックカメラと同じですね。私の周りの写真家連中にしても私から見て不思議に思うのは中判カメラを買ったりする時も何がなんでも新品に近い状態のものでないと嫌だと言う人がいるのは私にとって不思議である。1種の潔癖症と言うのかな? だから私の場合この年代のついた看板というのが気にいっているのだ。写真家を変えればん子はSAの仕事でアメリカのDeep Houseをずいぶん撮影して歩いたけれどもカントリーサイドのドラッグストア高そうだファウンテンだか忘れたけどそこの建築物に掲げられた巨大なコカコーラの看板がある。ウォーカーエバンスアットワークの本を読んでいると彼のリビングルームに置かれている巨大なコカコーラの看板と言うのはその彼の代表作の撮影した建築物に取り付けられていた看板なのだそうである。 そういうのも凄いと思うけれどもこれを本気でやっていると私の部屋などもどこかの古道具屋さんの店内のようになってしまうからそれはやめたほうがいい。私が持っている唯一の立ち飲み屋さんの看板と言うのはこれも結構古い菊正宗の看板なのである。それ1枚だけ。 田中長徳氏ってとても個性的な存在なのは分かるけど、そういう人物の一言一句を特別扱いする雰囲気も違和感ある。 あたしの本名は長徳で、本当は「おさのり」と読むのである。つまり 戦国大名の由緒正しい名前であって、そこらへんに転がってる連中とは 氏素性が違うのである。まあ便宜上、チョートクと名乗っているが、超得などと 揶揄するゴミどもは犬にでも食われるといいだろう。 この今ツールファインダーシステムは暗い所でも威力を発揮するのである。それは当然であって暗い光景で普通のブライトフレームファインダーでは見えないようなダークな場所でも脳内構成してくっきりと35日のブライトフレームが浮かび上がるからだ。ワンセットが25,000,000円もするような35ミリのプロ用映画撮影機でアメリカのパナフレックスというのがあるがこれは極限の状況で映画撮影をするために暗い撮影シーンをちゃんと見せるためなのであるが、ブライトフレームをわずかな光で証明してそれを一眼レフファインダーの上に合成してファインダーの構造を見せるというのがある。これをPana Glowファインダーシステムと言うのである。 ここまで帰って気がついたがパナビジョンはレンタル専門であってカメラや付属品を買うことができないからそのことを訂正して割り引いて考えるとコルゲンコーワのこのファインダーシステムは実際に買うことのできる世界で最も暗い場所を撮影可能なファインダーシステムと言うわけだ。 私が大学1年生の頃銀座4丁目のMiyamaカメラ店でこのファインダーだけ山積みになって売っていたが誰も買う人がいなかった。知らない人が覗いてみて真っ暗な画面だからファインダーが壊れているぞなどといったものである。当時のこのファインダーの値段は1600円であった。 その頃の中平さんは記憶を失って居られて吉村のところに来て毎日同じ挨拶をすると言うのである。つまり中平といいます写真をやっていますみたいなことが永遠に繰り返されるのだ。これは写真家としては素晴らしいキャラクターではなかろうか? その時の中平さんはいつものキャノンF1 で100ミリのレンズをつけていた。そのカメラを手に撮らせてもらって覗いてみたらファインダーが腐食していて一眼レフのスクリーンの7割以上が見えなくなっているのでこれこそ本物の写真家が愛用するカメラだなと感心したのであった。 だから私の希望としては中平さんに持ってもらいたい100ミリはキャノンF1の時代の100ミリではなくてもっとそれより25年時代がバックした頃のこういうシンプルでプリミティブなレンズこそふさわしいと思うのである。 それで思い出したことだが十数年前に私はこれと同じレンズをガラクタ屋さんで買っていたのだ。もちろんこーゆーレンズと言うのはコレクターズアイテムでは無いから値段も1000円とかそんなもので非常に安かった。それで最近手に入れたキャノンF1オリーブドラブのカメラに1番似合うレンズはこれではないかと思って探してみようと思ったがカメラジャングルでこんな小さい物体は簡単には発見できないのである。それでそのままになってしまった。 蛇腹式の35ミリレンジファインダカメラと言うのはコダックのレチナがあったけれどこちらのArcoがすごいのは特別な装置を使わないで38センチまでクローズアップができると言うことでこれがユニークだった。 そのサンプルを持って1950年代にアメリカに行った時にあちらの代理店から紹介されてアルパの一眼レフを作ったジャックボールスキーにあったらArcoカメラが非常に気にいってビジネスになりそうになったと言う。結局ボールスキーの会社ボルシーがリクエストしてきたスペックが気に入らないと言う事とArcoカメラをアメリカで売るスキーが売ると言う話は立ち消えになってしまったそうだが、逆にArco写真工業の方ではアメリカがパテントを買いに来たと言うのでこれを宣伝に使ったそうである。 私にとっては思い出深いブランドなので8ミリカメラのほうも何台も持っているし75ミリの一眼レフ式外付けファインダーを装備した8ミリカメラ用の超望遠レンズも発見して所持している。ムービーカメラのビジネスの最後の方で当時の最高級カメラだった8ミリをさらにブローアップしたArco16と言うモデルを50台だけ作って取扱説明書も用意したところで会社は倒産してしまったそうだ。 それから6 70年経過したつい昨年の話だがその16ミリカメラがネットオークションに登場した。これは絶対欲しいと思っていたのであるが自分はあの当時の最高級の16ミリカメラをたくさん所有しているので今更と言う感じになってしまってオークションには参加しなかった。70,000円もしない価格で落札されたようである。 四半世紀ほど前に中古カメラブームがあったときに日本カメラだったと思うけれど坂崎幸之助さんとよく中古カメラ対談と言うのをやった。思い出すに中古カメラクルージングとか称してあらかじめマークした東京の中古カメラ屋さんを5つかそこいら回るのである。 坂崎さんも私も好きだから真面目に中古カメラ屋巡りをしてそれぞれに手に入れた中古カメラを5番勝負とか言うことでじゃんけんポンで取り出して編集長か誰かが勝ち負けをレフェリーで判定するのである。思えば楽しい時代であったと思うのは四半世紀前にはまだデジタルカメラが今のように発達していないし中古カメラ屋さんでデジカメの中古と言うのは置いてないわけだからフィルムカメラだけで遊ぶことができたのがよかった。 同じ頃に新書版で中古カメラの本を出してタイトルは忘れてしまったがこれが初版のスリ数が2万部なのである。小さな出版社だったので手形で支払いがされたのも今思うと何か懐かしい。 今田と高校生が選挙の仕組みを紙に書いて学校内に掲示しただけで高校生が政治活動はけしからんとか言う横槍が入るらしいが、1964年の東京オリンピックのときの生意気な高校生の私の写真行動と言うのは当時の校長からも支持されていたと言うのだから今からは隔世の感がある。 戦後にスタートした新しい民主主義の力がまだ失速していなかったと見ることができる。ところで私は生意気な高校3年生であったから、全員が参加すべきこういうマスゲームの時に後者の上からニコンエフで撮影をしていたりしてまたそれを批判する人もいなかったのだから思えば自由な時代だった。 中学生の時に手に入れたクロームのニコンエフフォトミックを知り合いに紹介されてまだ日本橋にあった西川のふとん屋さんの4階のニコンの会社でトップとボトムのカバーを全部交換してもらってブラック仕上げにしてもらったのである。その製造番号は6463471、 ベビーブーマーの頃だからあの頃の都立新高校の生徒の1人いうのは500人では聞かなかったかもしれない。その中でニコンエフを持っているのは私とあと2人の同じクラスの高校生だった。1人は建設会社の社長の息子であってもう1人もどこかの会社の社長の息子だった。私は東芝の平社員の息子なのだからかなり階級が異なるわけである。 お店の看板のお魚の目つきがなかなか漫画的で良い感じである。目に表情があると言うのはいい感じだ。値段表を見てみると1番上がナマズで1番下がうなぎである。うなぎ等はどのように調理するのかな? 1980年代にベルギー政府観光局の仕事で2年間ベルギーを広く取材したことがあった。ベルギーの南部の古い都Gentにある老舗の鰻屋さんを取材に行った。ぶつ切りのうなぎのグリーンソースはなかなか良い品だったがお店のオーナーと雑談しているときに日本でもうなぎを食べる習慣があると言ったらどのように調理するのかと聞かれたので開いて焼いて蒸して砂糖の入った素やソースをつけると説明したら思いっきり馬鹿にされた。 このカメラの使い方で重要なのは言うまでもないことだが、一緒にニコンエフを使ってはダメなのである。1970年代初めのいわゆる写真家のカメラの使い分け方というのがあって、一番代表的なのは有名な写真家エルンスト・ハースウィーン出身でニューヨークで活躍した大写真家であるが、彼はライカM2のブラックににだいめのカメラはブラックのペンタックスであった。理由は知らないけれどもそのペンタックスにはマイクロニッコール55ミリが付いていた。 最初にキャノンフレックスに持ったイメージから60年以上が経過して今の私がどのようにこのカメラのユーザのイメージを浮かべるかと言えばやはりそのイメージは不変なのである。 つまり世田谷あたりのお金持ちっぽい写真好きな若い人。 友人スミスなどがその典型的な例であるが、カメラをたくさんぶら下げている写真家はカメラマンぽい感じはするけれどもシリアスなフォトグラファーと言う感覚は0である。その実例としては友人スミスとロバートフランクを並べてみればわかる。ロバートフランクの優秀な写真集をたくさん出版した日本の編集者Motomuraの場合だが彼は友人スミスの知り合いだったそうでその伝でロバートフランクを紹介してもらったのだそうだ。 それで結局2千11年の3月のマンハッタンの撮影では確か2週間ほどいて11本の撮影をしたのである。マンハッタンイレブンと覚えているからその撮影本数は間違いがないと思う。1番使ったのはスーパーアングロンのこのレンズだった。 このレンズが好きなのはその理由は単純であって同じスーパーアングロン21ミリef 3.4も使っていたがこっちのレンズは絞りの羽根がどういうわけだか4枚しかないのでゴーストイメージが汚いのである。だから明るさがエフ4のこちらのレンズを使っていた。 40年前に私がニューヨークに行ってニューヨーク近代美術館に通っていたときの駅がダウンタウンのプリンスストリートなのであるがそこを再訪して懐かしいので20一ミリレンズで駅のプラットホームを撮影したらいきなりトークンブースにいる係りの人からここは撮影禁止ですよと警告されたのにはびっくりした。ライカだったら良かったのであってピストルを持っていたら即家殺されていたかもしれない。 ところでマンハッタンで使ったこのM3であるがかなり調子が悪くなってそれを友人に譲ったのだけれども関東カメラサービスでオーバーホールしたらバッチリ新品に戻ったそうである。やはり機械式のフイルムカメラとデジカメの違いがそういうところに出るのだな。 時代が昭和から平成に変わるその瞬間に8 × 10インチのカメラを持って渋谷を撮影していた。渋谷嫌いだけれどもテーマが渋谷が嫌いと言うことになれば、戦場カメラマンみたいなもので別に怖いと言う事は無い。その時私はひどい腰痛にやられていて、痛みを和らげるためにどこかに座ろうと思ったのだがその時分かった渋谷の真実と言うのはちょっと腰掛けるところがどこにもないと言うことだった。それで喫茶店に入ってまずいコーヒーを飲むと言う不愉快な体験をした。 しかし渋谷嫌いの私でも1976年の6月から7月にかけて渋谷に暮らしていたことがある。今でもあると思うが渋谷東急ホテルと言うところに長く滞在していたのはその時にヨーロッパを巡回した現代日本写真家展示会の準備でオーストリア人のドクターと一緒にそこのホテル暮らしだった。なぜ渋谷何かに暮らしたのかと言うのは記憶にないけれど、日本側の写真展の準備をする奴が池尻大橋に住んでいたのでその関係で近くのホテルと言うことになったらしい。 、、ウィーン人のドクターは普通の神経を持っているインテリであるから最初の1週間で体調を悪くして早々にヨーロッパに戻っていった。そのドクターと忘れられないのは上野のアメ横のラーメン屋でモハメッドありと猪木の試合を見た事だ。帰る時ドクターは写真家と連絡するために銀行で公衆電話から電話するために300枚以上の10円玉を私に手渡した。これも重くて渋谷を持ち歩くのが大変だった。 出品する写真家の皆さんと打ち合わせをして夜遅く帰ってくる時渋谷駅からNHKの方向に歩いて帰るのにものすごい人の流れを掻き分けながらホテルに戻るのはストレスだった。渋谷のじゃんじゃんがまだあった頃だな。 30年ほど前に富士フイルムのパノラマカメラの写真集を作るときにロンドンからヨーロッパにかけてぐるぐる取材で歩いた時にケルンの中央駅だったと思うけれどもプラットホームに電気機関車が止まっていてその電気機関車にメルクリンと大きな文字が踊っていた。私は鉄道模型ファンではないけれどもメルクリンが世界的に有名な鉄道模型のブランドであると言う事は知っていたから、そこで現実を見て私の空間認識のスケールが狂って動き出したのが面白かった。 すなわち実物大のメルクリンの模型の電気機関車の真似をしている現実の電気機関車の後ろに乗っている乗客にしろそれを撮影している私にしろ全てが100分の1の模型に縮尺されて我々はその模型のレイアウトの中で構成されている紙粘土の人形に過ぎないと言うわけだ。 傍流写真同盟が有効だなと思うのは、アンデパンダンなことだ。紙媒体に登場する人間に対する暗黙の尊敬と言うのは実は方向違いな的を狙っていることであって、結局編集者の誰か適当な奴はいないかと言う仲間内意識が構成しているのも否定できない。 アルフレッドスティグリッツがギャラリー291を作って、ニューヨークカメラクラブがカメラノーツを作ったのは、時代背景があるからこれは仕方がないけれど今の時代のオンラインの発表媒体と言うのはそれなりの有効性があり効果があると思う。 この1年間私が傍流写真同名で注目しているのは、外でもずいぶん書きちらしたけれども写真家として、見えない的を狙っている連中が有効であると言うことなのだ。 三部さんの視神経の面白さもそこにある。見えない的を狙っている写真家の1人である。世の中の一般に尊敬されると言うテーマ主義から距離を置いているところも知的だと思う。 最近傍流写真同盟にアップされたこの作品を見て感じたのであるが、まさに見えない的を狙っているのである。視神経のトリックで距離感がわからなくなると言うのはそういう状況に落ち込むのを好んでいる私なのであるが、よく見るとはとぽっぽがワイヤーに乗っていると言うところで全体が巨大なスケールの風景であることがわかってそれが面白い。 今もっている二台のカメラは数年前にガラクタ屋さんでほとんど同時に買ったものでなかなか綺麗な品物である。フイルム交換をするたびにExaktaに対して感じる何か言いようのないデジャヴ感覚というのがあってそれが一体何であるのか長年わからなかったのだが、最近その原因に気がついたのである。 巻き上げスプールの1部にアルミニウムに色が付いているのである。普通こういうカメラの付属品で色をつけると言うふうになると注意を喚起するためにレッドなどが普通である。あるいは派手なオレンジ色である。アメリカの航空カメラがあって大きなレンズキャップが付いているのだがそれは蛍光色のオレンジに塗装されていてさらに大きな字で離陸する前にこのレンズキャップを外せ! そのような注意を喚起するためのオレンジではなくて何か心を冷静にさせる要因のあるブルーとかグリーンとかいうのがここら辺は東ドイツがなかなか知的レベルが高い国であると感心せざるを得ない。Exaktaのこの写真はしばらく前に撮影したものなので実際にどんな色であるかなぁと思ってカメラを探し出してきて裏蓋を開けたらグリーンではなくブルーに変色していたのでさらにびっくりした。 何の事は無いもう1台のExakta何の事は無いもう1台の頭このカメラと無意識のうちにスプールが交換されていたのである。 しかし販売定価が750,000円を超えているそうで、それなら程度の良いエム6にしてももっと安く買えるから新品をお宅の人以外はあまり売れないと思う。 その30年近く前の話だけど、当時は銀座のレモン社と言うカメラ屋さんで並行輸入でエム6を売り出していた。その同じ頃に私がエム6よりもM5の方が良いと言うのでカメラジャーナルだと思うけどそういうことを書いたらレモン社が営業妨害だとクレームをつけてきたのも懐かしい。 こちらは真実を述べているだけなのだがお互いに考えの違いがあったのでその当時の会長に会いに行って和解したのである。その影響と言うわけでもないがレモン社は私の中古カメラ活動に結構協力してくれたのはありがたかった。例えばレモン社はかなりレベルの高いライカコレクションを持っていたのだがそれをカレンダーにするので協力していただいたこともあった。 ライカの本でずいぶん書き古したことだが本来のライカのクオリティーと言うのはエム型だったらM4までである。それと全く異なる新しいカメラシステムのM5は素晴らしいカメラだ。ライカの会社の間違いは競合他社と同じようにTTLで露出を制御することを第一に考えたことにある。でも当時のライカのスペシャリストは自分で露出をコントロールするのが普通だった。大写真家の大竹先生ですら狐火ちらちらでファインダーが醜くなると言うのでわざわざバッテリーを外して使っていらっしゃったほどである。 ライカエム6はその後エム6 TTLになってこれがまた問題の多いカメラでこれもカメラ雑誌日本カメラでテストレポートをしたのであるが、ファインダーのフレームがどう見てもずれているのである。そのことが気になるのでカメラメーカーでちゃんとした測定機械を持っているコシナレンダーの小林社長に調べていただいたらやはりフレームの表示が変であると言う回答だった。 そのことをカメラ雑誌に書いたらすぐ返答があって、当社の厳密な基準で完璧で何の問題もありませんと言うことだった。 私の印象としては復刻版のエム6より程度のよろしい中古だな。それもM4-2以前のやつね。 ポールストランドの撮影した35ミリ映画撮影機。2500ドルで買った。彼が撮影した撮影機のプリントはクリスティーズで750,000ドルで売れた 写真家が向かうテーマはたくさんあるけれども初期の映画撮影機をその美しさに痺れて撮影した写真家と言うのはポールストランドしかいない。写真家として食えない若かった頃の彼は新しい時代のテクノロジーである35ミリ映画撮影機を2500ドルで手に入れた。1920年の2500ドルと言うのは今だといくらだか知らないがとにかくビックマネーである。 そんな高いカメラをなぜかえたのかと思ったらおばさんの遺産なのである。1連のAkeley Cameraのボールストランドのシリーズは有名である。私もニューヨーク近代美術館で見た。彼がしびれて撮影したのは撮影機のインテリアとギアヘッドの複雑な機構である。そこには半導体以前の機械学の美学がある。 映画撮影機は私も25年位前にクリスティーズのオークションで手に入れた。しかしポールストランドの映画撮影機をテーマにしたオリジナルプリントは750,000ドルもするからまず無理である。映画撮影機本体は最近のeBayで見たら2万ドルの値段がついている。そのセラーを見たら25年来私がよく買っていたeBayのKinemamanなのでびっくりした。 やはり中古のカメラよりそれを撮影した大写真家の印画紙の方が世の中の評価は高いのだな。ライカも今までのデジカメの道を反省して、ライカエム6の復刻版を出したそうだしこれからは35ミリを使うカメラが面白くなりそう。 Akeleyカメラのにだいめを日本のネットオークションで手に入れたのだけれども、このカメラが良いのは手回しハンドクランクであることだ。つまり今のデジカメみたいに電池がなくなったらアウトと言う事は完全になくなっているところが凄い進化だったと思う。 誤解されると困るのは、りんごが大きいからどうだとか言う話ではない。デジタルカメラの素人さんはフルサイズのでっかいデジカメでないとダメだみたいなことを言ってる人がいるけどあれは大間違いである。ウィーン時代のピアノの調律士で今でもウィーンでお子さんがたくさんいらして住んでいる人がいるのだけれども彼の口癖が山椒は小粒でもピリリと辛いなどと言う昔のおっさんというか今では後期高齢者さんなのである。 山椒は小粒でもピリリと辛いような小さなりんごがウィーンで暮らしていた頃は好きだった。形は悪くて小さいのだが味が良いのである。そのリンゴとか後は緑のりんごでグラニースミスというのがあってこれがなかなか甘くないのでおいしかった。日本のりんごの価値判断はデジタルカメラと同じで大きくて甘いのがいいと言うことらしい。 東日本大震災が起きたとき私はたまたまマンハッタンにいたのである。日本はトイレットペーパーがないと言うので買って来いと家人から指示があったので引っ越し荷物並みの大きなトイレットペーパーの山を買って東京に戻ってきたらすでに4名不足は解消されていた。こういうのは恐ろしい。 JFKで飛行機に乗る直前に懐かしいグラニースミスがあったのでいっこだけ買ってきて佃煮戻って食べたらこれはうまかった。 内田百鬼園のエッセイで面白いりんごの話を思い出した。近くの果物屋でお店にりんごが長く並んでいる。店に入ってみるとそれぞれに細かく値段が分かれている。内田百鬼園はなかなか探究心が多いからそれぞれのクラスをいっこずつ売ってくれと言ったら店の親父が何をするのです?味比べをするのさと言ったら親父は怒って帰ってもらいましょう! デジタルカメラマガジンの新製品カメラテストみたいなものだからこれはやっていいと思うんだけど戦前の果物屋の親父が虫の居所が悪かった。 それでコシナレンダーの25ミリであるが周辺まで均一のシャープネスであるのが素晴らしいと思った。もっとも100年近く前に設計されたTopogonレンズと比較するということが間違っているのかもしれない。 小林さんに初めて銀座のどっかのカメラメーカーの応接室でお目にかかったときに彼はカールツアイスのBiogon2.1cmのコレクターであると言っていたが、レンズメーカーのトップの人がそのように本物のレンズ好きであると言うのは素晴らしいことだと思う。 普通は部下からそういう話が上がってくるとトップの人はそんなの売れないと言うのでつぶしてしまうわけだがその構造が逆であるというのが素晴らしい。 スナップショットエルマー35ミリというのが大昔あってこれは距離計に連動しないのである。スナップショットの場合距離計に連動する必要などは全くないから、そのスナップショットの精神がコシナレンダー25ミリに受け継がれる。 私はレンズに対するいわゆる面食いであるから、なかなかレンズ美学に関してはうるさいのであるが1時好きだったのはレンズの第一面が凹レンズであることに美学を感じていたことがあった。海外の特にドイツの製品で最初の面が凹レンズと言うのは結構あるのだけれどもそういうレンズを集めていた。 このスナップショット25ミリコシナレンダーが凄いのは第1面のガラスが完全に平面であることなのである。こういうレンズは他に私が知る限りではないな。そこがこのレンズのエロティックなポイントなのである。 もう一つのポイントはレンズの描写なのだけれども、太陽に向かって撮影したときのゴーストイメージがピンポイントとして表現されるのである。そういうレンズも他には例がないからこれもまた素晴らしい。 それでこの事件以降はスライスしたものを買うようになった。要するに何が勘違いかというと素人さんがいきなり8 × 10インチの大型カメラで撮影をするようなものである。私が長年8 × 10インチのデアドルフを使って撮影していたので古い友人の野々宮が自分でも使えると思って手に入れて使いこなせないで手放してしまったようなものだ。 ハモンセラーノはこの数年は成城石井で買うようにしている。1年半熟成と言うのを買っているがなかなかうまい。ところが所物価高騰で最近いつも買っているやつの値段がジリジリ高くなってきた。 フードロスを解消するための団体だか会社だか知らないが幕開けというのがあって最近そこを利用しているのは生活防衛のためである。そこにハモンセラーノが登場して私などでも買える値段なので注文した。 要するに一般小売店ではもうすぐ賞味期限が切れているから安くなると言うことなのであるが、ハモンセラーノは貯蔵期間が長いほど価格が高くなるのである。だからフードロスになりそうなものの方が味わい良いと言う皮肉な現象がある。 韓国で起きたハロウィンの人間の雪崩で150人以上がなくなったと言うのは誠に気の毒な次第である。私が以前からハロウィンはへんてこりんだと思っているのは、そこに宗教的なバックグラウンドが全然存在しないことにある。もともとはケルト族の新しい年を祝うしきたりでかなり長い歴史的な背景があるのだが、オーストリアウィーンに長く住んでいて11月1日と言う日は万聖節と言うので日本で言うお盆のお墓参りみたいなものである。 ニューヨークに取材で行っていた時たまたまハロウィンの時に当たってマンハッタンからイエローキャブをチャーターしてニュージャージーのフォートリーに行ったことがあった。きれいにジャックをランタンが飾り付けられていて子供たちが扮装して歩きまわっていた。 私が知る限り35年位前にはまだ日本ではハロウィンはなかった。それを日本に広めたのは碑文谷にあった素敵なインディー系の写真ミュージアムギャラリーMingだと思う。オーナーの城田さんはアメリカに長かったからハロウィンの習慣もちゃんとしていて私もそれに招待されていて日本のハロウィンのお祭りに初めて接したのである。 城田さんは地元の子供を連れて碑文谷の家を回ってお菓子をもらっていてその当時は私は背景を知らないからこれはなんだろう?と思っていた。 東京のハロウィンの馬鹿騒ぎは単なる政府に対するガス抜きみたいな風に使われている。数年前に渋谷で乗用車がひっくり返されてあれから政府も対策に対して注意するようになった。 私が滑稽だなと思うのはハロウィンの1連の祭りは単にそこいらの商業施設が客寄せをするためだけに使われていて宗教的なバックグラウンドがゼロな点である。 群衆が集まると言うのはコントロールが効かないから危険だ。1983年の新年の時にニューヨークのタイムズスクエアにいたけれどいつ人間の雪崩が起きても不思議ではないと言う危機感を感じた。 3年前にハノイの大晦日から新年にかけてハノイに行ったことがあるが夜おそくなってホテルの部屋にいたら周囲の人々のざわめきがすごくていきなり停電になった。それでハロウィンではなくてハノイのカウントが強まったわけではないのでその時は外に出なかったのである。 ここら辺は隣はドイツであり湖の反対側スイスである。大きな湖の上に1901年にツェッペリン飛行船が世界で初めて浮かんだのである。その飛行船発祥の地のフリードリヒサーフィンに取材に行ったこともあったが、当時のツェッペリン飛行船の客室部分のモックアップが残っていてそれに入って座ってみたらなかなか優雅な感覚なので当時の飛行船の旅と言うのはずいぶん高級なものであったなと理解した。 しかしこの界隈に関する私の記憶と言うのはどちらかと言えばネガティブであって1974年であったか家人とヨーロッパを1周した旅行の最後のセクションで湖のドイツ側の小さな街から国境越えようと言う時にちょうど重松Fusakoが有名になった時で国境警察に任意同行されて調べられたりしたことがある。考えてみると家人の風貌がヨーロッパ人から見ると東洋人の女性で髪の毛が長いと言うだけの話なのだ。 なんで私がその時焦ったかと言うと当時流行していたファーストクラスをヨーロッパで乗り放題のユーレイルパスの最終日でその列車を逃すとウィーンに帰り着くことができなくなるからであった。 2003年 5月 17日 (土) デジカメを持参しなかったので画像なし。 午前1時、12チャンネルの「男達の風景」を見る。東儀さんとの30分番組である。 朝。 天候は予想に反して回復せず。午後1時、散歩カメラにて工藤と待ち合わせで、有楽町のサッカーカフェに行ったら、11日を限りに閉店とのこと。 錦糸町に行く。 駅ビルのヨドバシにて、私のミニガイドを同梱した、フジのモノクロフィルム「アクロス」のパッケージ販売中。 記念に買う。970円。 同じ3本のフィルムで私のガイドのないのは70円安い。 私の存在は70円分というわけだ。 押上に行きそこから撮影を開始する。 暗い日にて、ライカM2(LV模様付き)にズミクロン35で、コニカパン400を4本。 京島を1丁目から3丁目まで歩く。 やはりモノクロの撮影は「身が引き締まる」思いあり。 これはデジカメが一般化した、その反動ということであろうか。 夕刻、本郷のちどり。 この偉大なアマチュア写真家を、尊敬すべきは、彼がアマチュアであって、写真を楽しんでいると言うことが中心にすえられているからだ。その意味で職業写真家と言うのは、視神経の幇間であるから、卑しい職業と言うことを忘れてはいけない。 初対面の写真家は私が持っていったポラロイドに興味を示して一緒にたくさん写真を撮った。それと彼の室内の素敵な小物を撮影して、これも素晴らしかった。初対面の写真家は、自分の写真集の幼年時代の写真に今取ったばかりの90歳になろうとする私が撮影したポラロイドSX 70のプリントの2つを手をV字形にして指し示すのである。それをまた私はポラロイドで撮影した。 その時のポラロイドの作品を組み合わせて、大きなフレームに入れたものを、20年以上前にギャラリーモールの津田さんが企画した写真展に展示したのである。その場所は駿河台下の白壁の倉をギャラリーにしたところで、もともとは本屋さんが活版用の原版を保管していたそうである。 モールの津田さんは今は函館で写真活動をしている。この間東京にいらしたそうだが、その関係でFacebookの友達になった。津田さんからメールが来て、その時の私が制作したフレームを返却しますと言うのでありがたかった。その私が撮影したポラロイドの写真を組み合わせたフレームに関してはすっかり忘れていたからである。 ギャラリーモールは、その前のギャラリーフロッグの時代から東京で注目されるインディーギャラリーであって、ロバートフランクもやってきたことがある。 ボジョレヌーボーが嫌い。 世の中で騒いでいると言う事とまずいと言う事と家の前のスーパーでも売っていると言うことである。エアバス380が東京パリを結んでいた頃にファーストクラスの1番後ろに座っていて、ちょうどその日が11月15日であったので、アテンダントさんがやたらにボジョレーヌーボーを勧めてくれた。これでボジョレーヌーボーが本格的に嫌いになった。 これはプラハのショットであるが、あそこのモラヴィアの赤ワインと言うのは収穫量は少ないからほとんど国内で消費されてしまうがなかなかうまい。 ワインと言うのは地元で飲むのが1番いいから。最近では国産のワインもあるみたいだけども試しに飲んでみたら飲めない事はないが、値段がやたらに高いのでやめた。 20年ほど前にハッセルブラッド生誕100年と言う取材で、ヨーテボリに行った時に、正式のディナーであるから、その時はフランスのワインだったが、後で街に繰り出した時チリ産のワインで、これが初めての出会いだった。 それで最近はチリ産のワインばっかり。デギスタシオンをするわけではないので、ワインは赤が1種類あれば良い。ブルゴーニュでデギスタシオンをやったときこちらは素人である。私たまたまその日が誕生日だったので、いろいろ買い集めて空輸してもらったのはいいが、成田の税関が不親切で、もうこれからは個人でワインを輸入するのはやめようと思った。 暮らしていたドナウ運河沿いのアパートから最寄りの駅に行く間に馬肉屋さんがあったので、そこで買った馬肉を8年近く食べ続けた。無論を刺身で食べたのだが、ウィーン時代に食べたのは何頭分になるのか想像もつかない。 Met Wurstというのは、豚肉をミンチにして熟成された生ソーセージである。今のwinだと生のマグロの刺身も手に入るが、50年前はそういうことがなかったので、毎年11月1日の万聖節の日にウィーンの北の大きなチャーチのあるKroster Neuburgでないと手に入らないので、11月1日にそこに買い物に行くのが常だった。 その時のご馳走と言うのは、年に一塊、白米にそのソーセージをのせて食べるのが大変なご馳走に思えた。 家人が新聞広告で、その生ソーセージを発見して、私がオンラインで注文したのであるが、驚いたことに佐渡島でそう言う珍しいものを作っているのである。それで炊きたての滋賀県産の新米にこのMet Wurstをのせて食べてみたら、味覚の関係でいきなり生活時間が50年前に戻ったのは嬉しかった。 腰痛の関係で私は長いこと。右足の歩行が不自由であった。歩行が不自由と言うのは佃島から歩き出して志村坂上まで4時間ぐらい歩くと言う意味の歩行の不自由さである。 その不自由な歩行で世界中歩き回って世界中の路上で滑って転んで倒れたりすると通行人が走ってきて助け起こしてくれるのである。日本で転倒しても誰も助けてくれないからそこら辺が文化的な違いなのであろう。 3年前の10月の終わりに、天才荒木が住んでいた三輪の街で右足を捻挫した。それ以降歩行して転倒すると言う事はなくなったが、長距離が歩けなくなった。 1 0年前に偽物ライカ愛好会の撮影会で佃島の北の端から勝どき橋を経由して、月島の1番南つまり私が写っているこのポイントまで歩行してそのまま歩いて佃島の1番北まで戻ってくることができた。 今はそんなことはできない。 晴海水産埠頭行きのバスで終点まで来てムーンアイランドの南の端っこをちょっと歩いてまたバスに乗って佃島に戻った。撮影のための気力と言うのは全く幻滅していないのであるが、長いこと歩くことができなくて、ニューヨークで言うところのツーブロックごとに立ち止まったりそこら辺の標識につかまったりあるいは建物の角に20秒ぐらい腰掛けたりする。 30歳の頃にマンハッタンでタイムズスクエアから南にバッテリーパークまで行って、そこからまたタイムスクエアに戻ってくると言うのが普通の歩行であった。その時に道の行き帰りにオールドジェントルマンがポリスのバーに寄り掛かったり建物の角に座ったりして、何をしているのかなと考えたのだが、世代交代で、私がその後期高齢者になったわけだ。 11月27日は暖かい素晴らしい午後であった。 奥に見えるレインボーブリッジであるが、30年以上前これができたときに広告の写真でニッコール1200ミリと言うのを8 × 10インチのデアドルフカメラに付けて撮影したことを思い出した。その時まだレインボーブリッジは3分の1しかできていなかったのである。 モノマガジンの今井社長がすぐその話に乗ってくれて、画面の右に写っている本ができた。佃島のタワーマンションの最上階の部屋だけで撮影した、1000ページの本だ。これには下敷きがあって、ヨーロッパの有名作家が、自分の部屋だけをテーマにして膨大な旅行記を書いたのである。 それの真似。 こういう風変わりな本がちゃんと重版になったのも凄いと思う。 日本郵船氷川丸が改装された時に、日本郵船の広告の仕事をやったのであるが、ポスターや新聞広告だけではつまらないので1000ページの写真集を出しましょうと提案したら出ることになった。 氷川丸だけ撮影していてもつまらないので、当時最先端のライラと言う巨大なコンテナ船があって、これがサザンプトンからスエズ運河を経て品川埠頭まで40日間位かかる。当初はそれに乗ろうと思っていたが、それの時間がなかなか取れないので、最終的には名古屋港から品川埠頭まで乗ったのである。それでも2泊3日の船旅。 1000ページ本と言うのはなかなか使い勝手が良くて昼寝をする時などにちょうど良い枕になるのである。 しかし手ぬぐいで巻いておいた方が気持ち良い。 田中長徳佃日記と言うのは、ハードカバーで箱に入った500ページ以上の豪華本である。15,000円もするのに500部の限定でわりと早く売り切れた。こちらのほうはオンライン出版がされているので、佃日記を枕にして、iPadでオンラインで読む方が楽である。 私がイスタンブールの人々を信用するようになったのは、グランドバザール近くの汚い飯屋で食事をしてそこを出てしばらく経ってから食い物屋のカウンターの下にブラックライカM2にライカ人MPをつけたのを忘れていたのを思い出したのである。 慌てて戻ろうとしたら、くいもの屋で働いている少年が私のライカを持って息せき切って走ってきた。ライカを忘れるのは私の馬鹿さ加減であるがその少年の行動ですべてのイスタンブールの人々がポジティブに思えるようになった。 私と古谷と山本の3人で街をウロウロしていたら地元の青年に声をかけられた。その人の名前も覚えているベンチャーライドンと言うのである。イスタンブールの夜は案内してやると言うのでまずショップでジョニーウォーカーのボトルを買わされた。それを持って高級ホテルに入ってコカコーラを注文してウェイターの目につかないように持ち込んだウイスキーを入れてコーラ割りにしていい気分になった。 それから高い道の下にへばりつくような場所にあるじょうろ家を見学に行った。男たちの視線が行く先を埋まっていてすごい迫力だった。案内してくれたトルコの青年は明日は自分は軍隊に入隊するので少しお金を貸してくれないかと言うことを言い出したのを切りにしてわれわれはバイバイした。 そのちょっと前に案内してくれた青年は明日も会いたいから午前10時に牛久だらの船着場で待っていると言ったのである。私は食中毒になって空が黄色く見えるようになって起き上がれなかったからいかなかったが、古谷は真面目な性格だからちゃんと時間通り牛久寺に行ったそうである。くだんのトルコの青年は来ていなかったと言う話をずいぶん後になって古谷から聞いた。 それから30年ぐらい経過して、本の執筆で缶詰になる必要があったので予約したホテルがブルーモスクの真向かいにあった3階建ての典型的なトルコ風クラシック住宅でホテルの名前をアルダーと言うのである。そこを拠点に雑文を書いて昼過ぎにグランドバザールあたりをウロウロした。それで70年代のはじめてのイスタンブールの記憶が次々に呼び戻された。 お寿司屋さんで1番よく行ったのは40年前、マンハッタンのEmpire State Buildingのそばの5番街にある元禄寿司である。回転寿司であって、文化的にすごいなと思ったのは、地元の人が紅茶にたっぷり、砂糖を入れてそれで寿司をつまんでいたことだった。これが本物の文化なんだなと感心した。 六本木ヒルズの本を作るときに、ヒルズの中にできたすきやばし次郎に取材に行ったことがある。1人で行くと恐ろしいから野々宮と一緒に2人で行って板前さんの工作を聴きながら寿司を10巻食べた。 それで30,000円である。お寿司1つが1000円になるわけだが、そう思うと高いけれど、すきやばし次郎の板前さんから寿司のうんちくを聴きながら食べる。寿司ワークショップだと思えば安いと思った。 取材でレニングラードの寿司屋に行ったことがある。その名前を将軍と言うのである。街の中心部の1番繁華街にあって、時々プーチンが仲間と一緒に食べに来るので、その時はその商店街の全部が立ち入り禁止になるそうだ。岸田のポーチは反動的ファシストであるがそこまではしないからまだ大丈夫か。 寿司のチケットは単価500円で10枚送られてきた。中途半端な価格設定だと思う。私などは寿司と言うのはスーパーで買ってくるものだと思っている。 チケットの有効期限が3年後の大晦日までなので、忘れないようにしないといけない。 大学何年かの時であるがその頃どういう具合か月に一塊京都の同級生の家に遊びに行くと言う習慣になっていて2月ごろの寒い京都の冬の暗闇の中をレオ託すに28ミリのキャノンレンズをつけて歩いていた私であった。どこかの神社の中から大林が聞こえてきてその歌の内容がワンフレーズだけ聞こえたのである。それは 大学何年かの時であるがその頃どういう具合か月に一塊京都の同級生の家に遊びに行くと言う習慣になっていて2月ごろの寒い京都の冬の暗闇の中をレオタックスに28ミリのキャノンレンズをつけて歩いていた私であった。どこかの神社の中からお囃子が聞こえてきてその歌の内容がワンフレーズだけ聞こえたのである。それは ♩♩♩^_^溶けて流れてほーいほい ただこれだけであるのだが、レオ託すを使って言った私の心に染みる短いフレーズの旋律であった。 小谷メンディングの古谷さんとはその後お付き合いがあって戦前1番最初に作られたレオ託すスペシャルの非常に貴重な取扱説明書のゼロックスコピーをいただいたりしたのである。そのカメラの様子が今のライカと異なっているのは他店との関係でレンジファインダーのウインドウとビューファインダーのウインドウの位置関係をライカのようにしてしまうと特許侵害になるのだそうである。それで2つのファインダーウインドウの位置関係が逆転しているのだが、そこに何か新しいレンジファインダーの存在感を感じていいなと思った。もっともつい最近ヤフオクでそのレオ託すスペシャルが登場していたけれどコレクターズアイテムだから値段は500,000円位する。だから実際に使うレオタックスは安いやつで良い。 レオタックスが1950年代の終わりに倒産したときにちょうど1番最後のモデルレオタックスモデルジーなパーツのままで存在したのでそれを債権者の誰かが組み立てて販売したのである。それがレアモデルのレオ託す事であるが、私もしばらく使っていたのだけど、ちょっとクセのあるカメラで長いことが使えなかった。 実は私が最初に手にしたレンジファインダタイプのカメラはライカカメラではなくてその前はレオ託すであった。理由は単純であって値段が安かったからだ。今にして思うとレオ託すの作りはなかなか良いのであるが当時はライカを知らないから比較のしようもなかった。 大学何年かの時であるがその頃どういう具合か月に一塊京都の同級生の家に遊びに行くと言う習慣になっていて2月ごろの寒い京都の冬の暗闇の中をレオ託すに28ミリのキャノンレンズをつけて歩いていた私であった。どこかの神社の中から大林が聞こえてきてその歌の内容がワンフレーズだけ聞こえたのである。それは 大学何年かの時であるがその頃どういう具合か月に一塊京都の同級生の家に遊びに行くと言う習慣になっていて2月ごろの寒い京都の冬の暗闇の中をレオタックスに28ミリのキャノンレンズをつけて歩いていた私であった。どこかの神社の中からお囃子が聞こえてきてその歌の内容がワンフレーズだけ聞こえたのである。それは ♩♩♩^_^溶けて流れてほーいほい ただこれだけであるのだが、レオ託すを使って言った私の心に染みる短いフレーズの旋律であった。 小谷メンディングの古谷さんとはその後お付き合いがあって戦前1番最初に作られたレオ託すスペシャルの非常に貴重な取扱説明書のゼロックスコピーをいただいたりしたのである。そのカメラの様子が今のライカと異なっているのは他店との関係でレンジファインダーのウインドウとビューファインダーのウインドウの位置関係をライカのようにしてしまうと特許侵害になるのだそうである。それで2つのファインダーウインドウの位置関係が逆転しているのだが、そこに何か新しいレンジファインダーの存在感を感じていいなと思った。もっともつい最近ヤフオクでそのレオ託すスペシャルが登場していたけれどコレクターズアイテムだから値段は500,000円位する。だから実際に使うレオタックスは安いやつで良い。 レオタックスが1950年代の終わりに倒産したときにちょうど1番最後のモデルレオタックスモデルジーなパーツのままで存在したのでそれを債権者の誰かが組み立てて販売したのである。それがレアモデルのレオ託す事であるが、私もしばらく使っていたのだけど、ちょっとクセのあるカメラで長いことが使えなかった。 ところで私は腕組み系のラーメンが大嫌いでかつてからいつも東京ラーメンドキュメンタリーと言う国民運動をやっていてこれは最近の街中華ブームが起こる何年も前からそれをやっているのである。すきやばし次郎には行ったことがあるがラーメン二郎には行ったことがないというのが私の細やかなプライドである。 周りにいる飲み屋とか本部長とかそういういろんな連中がラーメン二郎で仁義を切るのがうまくなったとか馬鹿を言っているのでこれはいちど体験留学しようと思ってある時東京の周辺部にあるラーメン二郎に入ろうと思ったらその日はたまたまラーメン屋のお休みの日であった。それで考え方を改めて今では東京ラーメン大1本槍なのである。 1年ほど前に佐野厄除け大師方面に行った時に下調べをしたら駅前にラーメン博物館があると言うことだったが、そのつもりで行ったら私の道不案内の声であろうかくだんのラーメン博物館は発見できなかったのでそのままになっている。それで東京でラーメン屋に行ったと言うことを考えてみるとその経験は全くなくて、最後に東京の街中華のラーメン屋に入ったのが5年以上前前になるか新宿区赤城町と言う巨大なクレーターみたいな窪地の中にあるラーメン屋でいっぱい食べたのが最後になっている。 もともと佃島と言うのは昔はちゃんとした食品に家があったのだがそれが全部もんじゃ焼きになってしまって私は父親の遺言でもんじゃには行かないことにしているからそうなると地元のガストロノミーにも行く機会は無い。それでラーメンは最近箱で保管しているのがエースコックのインスタントであるがそれがベトナム製なのである。これがなかなかによろしい。だからこの写真でご覧に入れるのはそのベトナムのエースコックなのである。 それで四川料理の店に行って、とりあえず足を冷やさなければならないと言うのでリコーの偉い人は中国語はネイティブ並みなのでそのようにオーダーしたらシャンペングラスを冷やす器を持ってきたのだがそれでは足は入れにくいのだ。改めてバケツをリクエストしてその人は四川料理のは辛いのを食べながら、足はバケツの水で冷やしていた。 その翌日にはリコーの重要なプレゼンテーションがあって私なども心配していたが翌日普通に歩けるようになってよかった。バケツの水で冷やしたのと辛い四川料理のとんがらしと両方が効果を生んだのであろう。 1970年代の半ばの話だが、私の友人がウィーンで1番古いと言われている北京飯店と言う名前の中華料理店でウェイターをやっていた。それでその頃日本の商社のジェントルマンが食べに来て彼がオーダーするには おれ、、、しかわ、、あの、、辛いやつ それに対して私の友人はああ、しかわ、、分りましたはい。 この対応はサービス業として優秀だと思う。何も日本の商社のお客さんに、あれは四川料理と言うのですうんぬんなどと説明する必要もない。 それ以来50年近く家では四川料理をしかわ料理と言うようになった。 そのイメージがまた大きく崩れたのは80年代の終わりに新華社主催の報道写真コンテストの審査委員長で行った時である。街の看板を見ていて 川菜 とあるので何かあちらの菜の花のおひたしみたいなものかなと思っていたら、これがあちらでの四川料理の略語なんだね。川と言う事がつくと何かあっさりしたものと言う感じが日本語感覚ではある。 それで豆板醤をヨドバシカメラに注文したら翌日到着した。いつも現像液や定着液を注文しているので何か豆板醤が来るのは未来的である。 ネットを見ていたら驚いたことに豆板醤を家で作る人がいるらしい。要するにソラマメを茹でて塩を加えて工事を加えて暗いところに置いて半年間と言うのである。私は自分の写真を50年間売っているのは気が長いとは思わないけれども、ホームメイドの当番山は家が長すぎると言う感じがする。 赤瀬川さんのミラハウスに何度かお伺いしたことがある。南伸坊さんとか親しい友人が手伝いに来てリラハウスを完成させたそうだ。ニラハウスは玉川学園駅から南20分ぐらい歩いた坂上にある。 ニラハウスの裏は谷になっていてその谷が深く高度差がすごく感じられるから深い山の中にいるように思うのがなかなかの構造だと感心した。かなり広いリビングルームのかなり高いところを渡り廊下がしつらえられていて、その渡り廊下は突き当たりが跳ね橋のようになっていて、普段はその跳ね橋のような廊下の1部は引き上げられているがその先に茶室があるのでそこに行くときには跳ね橋をおろすのである。 私は高所恐怖症ではないけれども高さ3メーター位の渡り廊下からリビングの床を見ると足の先がゾクゾクしたのは、その渡り廊下の先の断ち切られた跳ね橋にあることがわかった。あのコード感覚を今でも思い出すと膝のあたりがゾクゾクするのである。 15年位前にトルコ航空のビジネスクラスの回数券と言うのを持っていたのでヨーロッパに行く時行き帰りが必ずイスタンブールであった。言い方を変えると目的地がイスタンブールでその先のヨーロッパに遊びに行くような感じでもあった。 イスタンブールのエジプトマーケットでカラスミを買ったりした。それを赤瀬川さんに差し上げたらお礼の葉書をいただいたので、これは海老で鯛を釣ったような感じである。 私はそういう手紙とか葉書はすぐ捨ててしまうのであるが、この貴重な古文書は家人が保管してくれたのである。それで今回改めて葉書を見て大変なことに気がついた。印刷物上では赤瀬川原平となっているが、この葉書で見ると赤瀬川源平と書いてある。何十年も付き合いがあったのにいつもワープロの自動変換だと赤瀬川源平と出るのを直していたのである。 東京の南部に行くと言う事はほとんどないので大田区の多摩川沿いに行く時はいつもあの悪の枢軸のタワーを見に行こうと決心してから出かけるのである。私鉄の駅歩き出して多摩川の橋の手前まで行ってそこからしばらく多摩川沿いに西に歩くと桂川セーラである。 下の駅に戻るのもつまらないのでそのまま大回りをして武蔵新田と言う駅まで歩くと駅前の商店街に出くわすのであるが、その出会いのやり方が普通だと武蔵新田の駅前から歩いていけばだんだん寂しい商店街になって商店街がなくなるというのが普通の見え方であるが、桂川せいらから行くと商店の果て行くから駅に行くと言うので1種の賑やかさの逆転現象が起きるのでそれを自分で体験して面白かった。 その商店街の南のはずれに道の左側に小さなパン屋さんがあってそこであれこれ買って帰ると言うのも楽しみの1つであった。桂川セーラの魂の存在感で思い出すのは、アレキサンダーRodochencoが設計した鉄骨タワーのことだ。これは設計図だけ作られていて実際には立体物にならなかったのであるが、しばらく前ウィーンの工芸ミュージアムでこのアーティストの大回顧展をやっていて実物が作られたのである。ロシア構成主義を醸造したような鉄のタワーであった。 桂川せいらを見ていつも思い出していた。その後このタワーが有名になって下町ロケットとか言うタイトルのテレビドラマの会社に高校が設定されたそうである。私はテレビを見ないからそれは見ていない。 なんでも下町ロケットでは町工場が宇宙ロケットを作ったと言う話らしい。それからしばらくして桂川セーラの鉄のタワーが取り壊しになったと言う話を聞いた。それ以来私は大田区の多摩川沿いに行くことがなくなった。。 パリの北駅の安ホテルを何十年も使っていて、そのすぐ近くのマーケットでマグロの切り身を買ってくるのだが、それで大宴会を何十年もやっていた。ところがそこのホテルはガラス窓はダブルになっていないからガラスを開ければすぐ外はパリの寒気である。そういう場合は落とさないように注意しながらプラスチックバックで窓の外にぶら下げておくと冬などはこれが冷蔵庫がわりになる。 1973年のこのウィーンの貴重な記録写真で見ると、右側に2リッターのワインの瓶が置かれている。これはそこら辺のレストランなどでも普通に使われている。我々酒飲みには懐かしい一升瓶なのであるが、残念なことにこの語録年、スーパーマーケットでこの便を見ることがなくなった。 つまり、懐かしい70年代の私のウィーンでの暮らしの記憶が消滅してしまったのだ。 日中戦争の頃に中国の人に日本軍が馬鹿にされたのは、大根を塩漬けにして、それをおかずに飯を食っていると言うことであった。中国人にしてみると、大根は大根おろしにして食べるわけであるが、大根おろしを食べるのではなく、それを加工して大根餅を作るのだ。 大根おろしを作ると言う事は、大根餅を作るプロセスの途中の存在なのである。京都の西陣の日大写真学科の同級生がいて、彼と数年ぶりに会ったときに近くの中華料理店に彼を誘った。充分食べて飲んで気持ちが良くなったときにメニューの端っこのほうに大根餅があったのでそれを注文した。 京都の友人は、大根餅を食べたのは初めてのようでえらく感激したのである。それで最後の1つを包んでもらって、それを家に持ち帰って友人の奥さんに自慢したのである。 大根おろしとして食べる時は私は辛い方が好きだ。でも、人生の皮肉と同じで辛い大根おろしは、大抵辛い大根おろしが嫌いな人に当たってしまって、私のようにおろし大根の辛いのが好きな人間はなかなかくじを引くことができない。 それで大根を買うときは、2分の1に切って、スーパーに並んでいるしっぽの方を買うことにしているが、今日擦った大根おろしはなかなか辛くて、人生の当たりくじを引いた気分で満足であった。 シャルル・ドゴールに何十年も空港に住んでいて亡くなったと言う人が最近ニュースになったけれど、私も空港を住処にしていたのである。東京モスクワ回廊ルートは行きは乗り継ぎが比較的多いのだが、帰りは15時間位モスクワでトランジットをする必要がある。そういう時に空港で集中して仕事をするのが好きだ。 はじめてのカイロで2週間ほど公共交通機関を使わずに全部歩いていたと言うのは私位のものだろう。ナイル川の右岸の商人宿に泊まって、そこからもっぱら東側に歩いて路地ばかりを選んでいた。 カメラはカールツアイスの2眼レフである。このノートと言うやつは、館横のアスペクトレシオがへんてこりんになっているのでこうなってしまったが、実際にはスクエアな画面である。 路地の奥に小さな家具屋さんがあって家具を作っていてできた。机が路地の通路にうずたかく積まれていて、一体どこに保管するのか不思議に思って、次の角を曲がったらそこにバックスバニーがいたのである。 こういう出会いの時の撮影と言うのは1枚切りと言うことに決まっていて、別に一期一会と言うわけではないけれども、やはり1枚だけ取るのが正しい時間軸上の遭遇と言うことになるのだ。 バックスバニーを撮影した後に路地を何回も回って信じられないような細い路地の突き当たりに小さなカフェがあって、そこでお茶を飲んだ。 昭和の時代は海外に長く滞在したというだけで異常に有り難く 思われていたんだろうなあ、という感想しか湧かない平成生まれ。 マンハッタンというのが何が面白いかというと、そこを通行している人々は、別に、他人の目などは全く気にしていないと言うことだ。 それでも5番街でこの男の人がアーロンチェアを頭の上に乗せているのにはびっくりした。東日本大震災の起きた初日の東部ローカル時間の朝のことである。結構日本のことを気にしながらEmpire State Buildingだから32丁目から57丁目まで5番街を上ってそこからもう一回ダウンタウンに降りて行く38丁目あたりでこの人を見たのである。 ライカM3にカールツアイスの35ミリ広角レンズが付いていて、私はノーファインダーでこの瞬間をキャプチャーした。 私が座り続けているアーロンチェアはすでに30年以上経過したものであって、なかなか頑丈であるが、唯一チェアーの上下をコントロールする。プラスチック製のレバーが根元からポッキリと折れたのである。それのパーツは売っているのであるが、それを注文するのは面倒なので、チェアーの高さはそのままにしてそのまま座り続けているのであるが、それで不愉快と言う感じでは無い。 あっちこっちのエッセイでこの30年以上書きちらしたことであるが、アーロンチェアには偉大ななどが存在する。それは両方の肘掛けがセットしてから30時間経過すると座っている。人間は知らないうちに肘掛けの高さのアジャストメントが1番低いところにまで移動してしまうことだ。 飛行時間45分で東京に戻り、今、一昨日の法隆寺のエンタシス様式の柱のふくらみを見て考えているわけである。あたしは歴史も美術史も知らないので、それぞれの観光地で名 所にも行かないし、美術館も見ない。この前、回路で最終日に考古学博物館に行かないと 「馬鹿にされる」のではという見栄で入ったが、館内は暑いし、HISの徹夜で日本から運 ばれて来た団体さんが眠そうにしているのを見て、こっちも眠くなった。 東大寺は四半世紀前に行った時には、すでにお寺は閉まっていて、入れなかった。だから その前にここに来たのは、半世紀近くの昔になるわけで、やはりバスガイドさんから「エ ンタシス様式の柱」の話しは聞いていたのであろうが、記憶にないのは当然だ。それが今 回は脇に修学旅行生が居たので、定番の「エンタシス」が耳に入って、見ればこれが木造 の列柱なので実に驚いた。 この前の回路のミュージアムでも感じたのだが、古代王朝時代の木製の調度品が残ってい たりするのは実に驚く。石碑ですら残らないのに、風化の早い木製の品物が時間の流れに 棹さして今に存在するのは凄い。 アテネに行った時に、面白くかんじたのはそういうアテネ時代の「本物の列柱」がパルテ ノン神殿の周囲にうち捨てられているのを見て、それが本物には見えずにテーマパークの レプリカに見えたことだ。この前の回路のこの風景も同様で、なにかシーサーズパレスの 最新のジオラマに見えてしまう。 もうかなり前になるが、小学館の大人の少年誌「ラピタ」で食い物の連載をやっていた。 タイトルはすでに忘れた。その内容は下町の露店からミシュランの星付きレストランまで 多岐にわたる。無論、編集部がそんな取材費を出す心配はないから、これは以前、あたし が仏蘭西政府観光局に呼ばれて仕事した時などの「余り」なのである。 最近はなかなか出版諸方面の取材費は厳しい状況で「大手」でもなかなか取材費は潤沢で はない。ただ、良くライターサイドでは「金を使わないと良い取材は出来ない」などと言 うけどあれは半分だけ真実で半分は嘘である。 金を使わないでも良い取材はできた。 あたしは根性なしだから、こういう店に一人で入る勇気はない。それで友人を拉致して入 った。場所は茨城のどっっかだった。 メニューが実に立派であって、ルーブル美術館の宗教画みたいに、三枚の折りたたみ式に なっているので感激した。 このチエーン店の第一号店が北日本の地方都市にあるそうで、そこにも行ってみたいと思 った。まずはメッカ巡礼のようなものであろう。 「!」が空中に浮かんでいるのは、まさにアートである。 ドクメンタあたりに出しても少しもおかしくはない。 例によって同行者が居ないので根性なしだから、ここには入らなかった。そのまま、閉園 している天王寺動物園の脇を通って、北から南に通天閣を目指した。ところが25年前と は大違いにて、なにか綺麗な気の抜けた観光地になってしまった。最近のマンハッタンの ばわりーと同じ綺麗さである。その先のジャンジャン横町も安部公房が書いた時代の活気 はすでになし。 がっかりして、そこらのお店にも入らずに、動物園の南を歩いてホテルに戻った。 ただ昔と変わらないのは「ソースの二度づけ禁止」の張り紙のみ。時代はかわりまんな。 10年位前にJTBの取材でサンクトペテルブルグとモスクワを見て回った。文化的な取材であるからエカテリンブルク宮殿とか黄金のリングの修道院などを見て歩くのである。9月末の取材だったから、ロシアは完全に秋であった。ところが雑誌に掲載されるのは、翌年の5月号と言うわけで風景に紅葉が写っているのは良くない。と言う。どうでもいいようなことで苦労した。 撮影の話ではなく、ウォッカの話である。コーディネーターさんに聞いたら、ロシアンスタンダードと言うウォッカがオススメだと言うので、旅行中はもっぱらそれを買って飲んでいた。9月終わりといえどもサンクトペテルブルグの寒さが凄いから深夜午前2時にNeva川の撮影等があって、これはウォッカなしではやっていられない。 調べたら、ロシアンスタンダードと言うのは結構人気があるが、歴史は非常に浅いのである。1996年に登場した新しい世代のウォッカなのだ。私は馬鹿のひとつ覚えで飲むのはいつもストレチなやに決めていたからなんで酒呑の私がルシアンスタンダードを知らないのかと思ったら、私が東ヨーロッパをうろうろしていた時は、ロシアンスタンダードはスタンダードとしてまだ存在していなかったのである。 ウクライナ、ロシア戦争の関係かどうかは知らないけれども、私が空港で求めているような1リッター入りのウォッカの瓶が非常に日本では安いのである。それで久しぶりに1本求めてやっているのであるが、夏の頃はこれをリフリジレーターでキンキンに冷やして飲むのが好きだったが、今はそうではありません。 それで取材の話に戻るけど、モスクワ近郊をぐるりと取り巻いているロシア正教のチャージをずっと見て歩いて、そういう歴史的な存在感に慣れてしまった。その翌年にフィンエアを使ってヘルシンキ経由でリスボンに行く予定であった。 ところが、アイスランドの火山の噴火で、ヘルシンキより先は飛べなくなって、その時に私が考えた事は、人生でフィンランドに来る事はないだろうからと言うので、2週間ヘルシンキを見て回ったのである。 気になったのでてんとう虫をウィキペディアで調べてみてびっくりしたのだが3種類のてんとう虫がいてそのうちの2種類はみかんの害虫を食べたりするから正義の味方と言うことになっている。もう1種類のてんとう虫はベジタリアンであるのだがてんとう虫にとってベジタリアンと言う事はすなわち葉っぱを食べるわけだから悪者と言うことになっているのである。 まさに人間の都合で勝手に正義の味方か悪の枢軸かと決めてしまうのは、今のアメリカのやり方にそっくりなので呆れてしまった。 さらにびっくりしたことがあって、てんとう虫で食肉生の種類の人は生きた農薬と言うので、実際にかなり農業に使われているのだそうだ。ところがてんとう虫さんにも虫の自由があるから、成虫になると勝手にどっかに飛んでいってしまって、農薬の代わりをしてくれないのである。 それで千葉県の高校生の研究グループがてんとう虫さんの羽を接着剤で固定して飛べないようにすると、遠くに行けないから生きた農薬としての働きをやってくれると言うので、それが何か農協のコンクールで1等賞になったそうだ。 これは虫の虐待に相当すると思うのだが、今ではそのてんとう虫を接着剤で飛べなくして、農薬がわりに強制労働をさせると言うのがトレンドになってパテントもゲットして、外国にそのシステムが輸出されているらしい。 ウィキペディアはいろいろ面白いことがわかるが、このてんとう虫の虐待に対してはアムネスティインターナショナルは黙っているのかな? 東西ドイツ統合の数年前のことである。朝日グラブの撮影で東ベルリンの工場建築の撮影をした。 何しろ、東ベルリンの有名な秘密警察は大変な活躍ぶりであるから、4 × 5インチの大型カメラの撮影であるが、三脚を立てるなどと言う事はやっていられない。それで東ベルリンの友人の乗っている空色のトラバントを1日50マルクでチャーターしてこれを足にした。 目的の工場の前に乗り付けて4 × 5インチのカメラで手持ちで撮影をしてそのまますぐに移動する。まだ携帯電話が普及していない時期であるから、これは密告される可能性も少ないし、かなりうまいやり方だと納得したのである。 その東ベルリンの友人の空色のトラバントは中古品だそうである。新品だと10年待たなければいけないので中古品を買ったのだが、それは新品の倍近くすると説明を聞いてびっくりした。 500 CCのツーサイクルと言うかなり個性的な車である。下り坂になるとエンジンブレーキがかからないので速くなると言うスリリングな車であった。トラバントは東ドイツの国民社であって、カール・マルクススタットで作られていた。東西ドイツが統合されて、下の名前ツヴィッカウになった。 東西ドイツ=の後主ベルリンは西も東も取材に行ったが、Checkpoint Charlieで中国製のトラバントのおもちゃを打っていた。それは金属製なので感心した。本物の車のほうは車大和ファイバーでできているのである。 それから月日が流れて、10年以上前ベルリンで40年近く前にトラバントをチャーターした。その人に会った。彼女はすでにフォルクスワーゲンに乗っていた。その数年前のことであるが、新車で手に入れたフォルクスワーゲンが制限速度を大幅にオーバーしてそれを自動カメラで撮影され、罰金の支払い調書が届いたのだそうである。 速度オーバーで支払いを罰金するのは夢だったので嬉しいと彼女は言っていた。下り坂でスピードが速くなる。トラバントはそれなりに夢があるが、本東ベルリンの人々の夢はもっと別のところにあることに気がついて、私はさらに感心したのである。 東海道新幹線であるが、大崎のあたりからずっと西に向かって御嶽山のあたりまで道は一本道でまっすぐである。 ところが一本道にもかかわらず、道の高い低いはかなりはっきりしている。数年来新幹線には乗ることが無いので、その頃の記憶をたどって窓からどのように外が見えるかを思い出すに、周辺の道路が高くなったり低くなったりするのが非常に激しくて見ていると面白い。 そのような行動間と言うのは飛行機の場合はまずありえないからである。いつであったかこの区域を歩いてみて非常にびっくりしたことがある。この写真で示すように急な坂があって、新幹線のレールも別のスロープがある。 それである特定のポイントから見て非常に面白いと思うのは、遠近感の消失点が2つ存在したりすることである。日常の生活ではなかなかこういう事は無いので、佃島からは結構遠いのであるが、わざわざこの2つの消失点を見に行ったりした。 新幹線のレール沿いに酒を登ったり降ったりすると、特定の感覚で工事作業用と思われる。小さなエントランスが発見できる。そしてそのエントランスには、東京駅までの距離と大阪駅までの距離がキロメーターでかなり細かく書かれている。 そしてその路線の距離を示す指標と言うものが、おそらく新幹線が開業した頃に書かれたのではないかと思えるほどペンキの色が抜け落ちているのが私としてはなかなか好きなオブジェなのである。 非常に機動力のある対応であるから、ジョンソンが北爆でどんどん爆撃をしても、翌日はすぐ元通りになると言うような復旧ぶりなのである。その元青年将校の人がくれた写真集の内容が素晴らしいので、当時あちこちのエッセイにその話を書いたのである。その青年将校が使っていたカメラは、東ドイツ生のExaカメラであった。その人の拍子に出てくるセルフポートレートのポーズがなかなか良くてアメリカ帝国主義を家落とす紅茶。後に陣取って鉄のヘルメットをかぶってカメラを斜めにぶら下げているのである。 1970一年だったと思うけれども、北爆に対してビー52を多数撃墜したと言う勝利の記録があって、それをベトナムでは 空のディエンビエンフー と命名して国の祝日にしているのである。私もそれに感激してその将校がかぶっていた北ベトナム軍のヘルメットを手に入れた。何の事は無い。ベトナムではそういうものが手に入らなくて、アメリカの店から買ったのである。 この人左翼なの?なんかがっかりだわ。ファンやめる。 ベトナムで自転車やバイクで膨大な量の物資を運ぶと言うのは、我々西側先進国と自分で勘違いしている人間からは、かなりキュリオシティな素材であって、それを撮影テーマにした写真集などもあるらしい。 実際問題としてハノイの夕暮れなどにカフェに座って道の車と人の流れを観察しているときに、私などは無意識のうちにそういう上海雑技団みたいなバイクに乗った人が目の前に登場するのを期待しているのである。 例えば、二台のHONDAのキャブで、前と後が距離が10メーター位離れていて、そこで重い鉄材その長さ10メーター位のを運ぶと言うのは、これはエキセントリックな眺めで、人間と言うのは、いかに偉大な動物であるかと言うことを目の前に体験させてもらえるのである。 ハノイの革命博物館と言うのはなかなか面白いものが展示してあって、ベトナム戦争のときのホーチミンルートを建設したときに300キロ以上の物資を自転車で運んだと言う。その自転車そのものが展示されているのがすごい。 このショットなどもかなりの迫力であって、ベルリンの壁がそのまま自転車に乗って移動しているような感覚なのが、人類のパワーを感じる。 2000年と2001年に私はハノイに行って、2000年の時は空港で沢木幸太郎さんに会ってベトナムの話にいろいろなったのだ。2001年の時だったと思うが、その時インタビューでホーチミンルートを投じ統率していたその頃の青年将校さんという人に話を聞いた。 その人は割と、最近にホーチミンルートの写真集を撮影していて、それを私に贈呈してくれたのである。その写真集を見ると、アメリカ帝国主義と戦ってる第一線の北ベトナム軍の青年兵士は、みんな半ズボンに開襟シャツでジャングルハットで何かボーイスカウトの夏のキャンプみたいに見えるのがすごい。 大作戦で山の中を必要な物資は手押し車とか、自転車、そして背中に背負ったりしながら物資を運搬したのであった。 要するに、何が素晴らしいかと言えば、これは明快な形であって、それぞれの写真家のそれぞれの個性がそれぞれの個性がそれぞれの画面に現れているから、わざわざ作者を見なくても、これは誰誰の作品であるとすぐわかるのである。それでこれは1種のゲームなのであるが、これは誰の作品だなと思って、名前の方を見てみると、的中している時などはかなりうれしい。それでこの的中率と言うのは最近アップしているのである。とりもなおさずその事は、それぞれのFacebookの傍流写真同名に作品をアップしている皆さんの個性がはっきり際立っていると言うことだ。 ここで紹介する三部さんも、その1人で会って、この人の作品は瞬時見ただけで100%この人であると言うことがわかる。光の使い方がうまいと言うてしまえばみもふたもないわけであるが、傍流写真同名の中では、最も光の使い方がうまい。一方で、傍流写真同盟をスタートさせた弥次喜多さんは曇りの日でないと写真が取れないと言っているわけで、それぞれ写真家の光に対する感覚が際立っているのである。50年前ウィーンに暮らしていた頃、日本からいわゆるエージェントカメラマンさんと言うのがやってきて、彼らは羽振りが良くて1枚写真を撮影すると50,000円になったそうであるが、なかなか撮影の条件が厳しく快晴の光のもとで、ヨーロッパのお城などを移さなければ、旅行関係の雑誌に売れないと言うのは当然である。 だから、彼らが使う写真と言うのは、絵はがきの写真に近くて数年前に亡くなった。そういう仕事をしている。カメラマンが悪天候だと天気が悪いんですよと言うぼやき節をいまだによく思い出すのである。 でも、一方で作例として取り上げた。この写真家は、天気の良い日の午後の日陰の長いところを非常にうまくキャプチャーしているのがすごい。私は勉強不足で知らなかったが、この写真家は同時に本の装丁家として結構有名な人なのだそうである。 そういう背景がわかれば、それなりにこの写真家の光に対する感覚とデザイン感覚はおのずから理解されるわけである。特に私が評価するのは非常に遠距離で歩行者の後ろ姿を撮影していながら、そこに観察者の視線が釘付けになるようなうまい効果が出ている。 ここら辺も本の装丁家の仕事と言うことになる。 私はうなぎは好きでも嫌いでもない人間である。だから、うなぎの値段が高くなったなどと脅かされても別に困ることではない。 大昔うなぎ業界の宣伝PR、雑誌と言うものがあって、そこに頼まれて一度だけうなぎのエッセイを描いたことがある。それはベルギー政府観光局の仕事でベルギーに取材に行った時に数百年前からある老舗の鰻屋に行ったときの話を書いたのだ。 鰻屋と言うよりも魚を扱っている一般のクラシックレストランである。そこのうなぎはぶつ切りにしたのをグリーンソースで食べるのであるが、それはそれなりにおいしかった。 それで取材の後にお店の人と雑談になって、日本でもうなぎを食べると言ったら、彼は興味津々でどのような味付けをするのかと言うので、焼いてそれを醤油と砂糖を混ぜたタレで食べると言ったら思いっきり馬鹿にされたのである。 ヨーロッパ人にしてみると、魚肉関係を砂糖の入ったソースで味付けると言うことがまず非常に気に食わないと言うことらしいのだ。まぁそれでもうなぎと言うのは1万キロも離れていれば調理の仕方が変わるのも当然である。関西と関東でも調理の仕方は、うなぎで地域分断地域紛争のネタになっている、。 ところで、家人の場合はそれなりのうなぎ食いであって、そのキャリアは確かなもので、何しろ野田岩で修行を積んでいたのである。それでこちらはいつも野田岩と言うわけにはいかないから、家から1キロぐらい離れたところにある。宇奈とと家に行って500円のうなぎを買ってきたりした、。 しかし、宇奈ととばかりと言うわけにもいかないから、ときには、銀座の百貨店で名前がよく知られているうなぎ屋さんの3500円の串を買ってきたりした。 この間スーパーで買ってきた中国製のうなぎのラベルが面白いと言うので、家人が切り取って持ってきた。それを見るとこのようなラベルがついていて、パンダとウナギが戯れていると言うのは、日本人の通常の感覚ではなかなか考えつかないのである。 日本カメラの私のエッセイの3冊ある中古カメラの話の中で第1巻の中にこのカメラの話が登場している。それはカメラはこれと同じなのであるが、頭脳レンズの45ミリef 1.8が付いていたカメラの話である。今はもうなくなった高輪の中古カメラや船で手に入れたもので程度は非常に良かったのだが、カメラの1部にソーシャルセキュリティーナンバーが汚い字で書き込まれていた。持ち主の名前も書かれていたと思う。当時はまだこれがソーシャルセキュリティーナンバーであると言う認識が、日本の中古カメラ市場ではなかったから、当時はこのような品物を外人の文字入りなどと呼んでいたのである。 ☻外人のもじりと言うのは中古カメラ世界では傷物と言う意味であって、私がゲットした。そのカメラの値段はかなり安かった。これが40年前の話なのである。このカメラは、そのデザインに惚れて手に持ってみたくなると言うカメラであるが、それだけがこのカメラの魅力であって、連続撮影が優位であるなどと言う意味はそこに存在しない。 四谷荒木町の近くに南ドイツかと思われるような風景の小さな公園があって、そこのベンチに座っていたらトイレの掃除をするおじさんが登場した。そのおじさんはプロフェッショナルとしての存在感がなかなかいい感じなのでまずおじさんが到着したところを1枚このカメラで撮影した。 それで次のシークエンスは、おじさんが仕事を終えて、自転車で走り去るところを撮影したのである。その間は10分近い時間経過があるから、別に連続スプリングモーターで撮影すると言う意味はほとんどないのであるが、そういうシークエンスを撮影することが、むしろこのカメラの特徴を生かしたことになったのではないかと考えているのである。 製造番号を見ると6973とある。これを私なりに意味付けしてみると、69は西暦1969で最初の個展を銀座で開催した年。73のほうはウィーンに行った年だからそれなりの意味付けをすることができる。ディジットが4桁と言うのだから、あまりたくさん生産されなかった。カメラであろうと想像するのも楽しい。 ビロード革命映画1989年であるからすでに34年が経過したのである。あの時のプラハは非常に民主的な都市であって東ドイツから旅行できた人が当時プラハにあった西ドイツ大使館に次々に亡命を求めたと言ういきさつがある。 ビロード革命の直後に面白かったのは新しい商売があちこちに乱立したことにあった。お金の両替蔵などはそれこそワンブロックで1つあったし中古カメラ屋さんは街の中心部に5つもあった。でも今は30数年が経過するとまた元通りのような状態になっているのは当然なのであろう。 この市松模様のデミタスカップが結構気にいっているのである。それはプラハのど真ん中の天文時計のすぐ脇の角地と言うからベストな商業的ロケーションなのである。 家で使っているコーヒーカップの中では1番新しいものだと思っていたらすでに30年以上が経過していると言うその時間の経過の早さが非常に面白い。 そのプラハの一頭地の場所はなかなか瀬戸物屋さんでは商売にならないので今ではクリスチャンディオールが店を構えている。でも私も数年来プラハの状態は知らないから案外マクドナルドとかそういうものになっているかもしれない。 プラハ工科大学に近い場所と言うので、短い私のいるアトリエのアドレスはニコラテスラというのである。ところがチェコ語の固有名詞の語尾の変化と言うことに気がつかなくて、正式な通の名前はNikoly Teslyと言うのである。そこの7番地に私のアトリエはあった。建物の1番上はアトリエとして作られていたようで、広場の対岸に住んでいるチェコの有名な前衛アーティストもアトリエに住んでいる。 ここに住み始めた頃に、雑誌の取材で、その前衛アーティストにインタビューをしたことがあった。雑談の時に私のアドレスを言ったら、彼は広場の反対側に住んでいると言うことで打ち解けたのだが、この数日、アトリエの明かりがついているので、どなたかいらっしゃると思ったら、田中さんあなただったのですねと言われたのが嬉しかった。 それでアトリエの右側にあるのが有名なバルセロナチェアである。最近ではそこら中でレプリカができて、珍しくもなんともないが、これは1929年のバルセロナエキスポの時に独逸館に作られたチェアであって、スペイン国王をお迎えしてこの椅子に座ってもらったそうだが、ヨーロッパ人はともかくとして骨格の違う極東の人間にはこれが非常に座りにくい。 それで34年間もアトリエに通っていながらこの人類の文化遺産とも言える。バルセロナチェアに座った事は1度もないのである。この写真はいつ撮影したのか不明であるが見えている。サムソナイトのスーツケースは新小岩のリサイクルショップで800円で買ったものであるから、その当時のショットだと思われる。 しかも、サムソナイトから衣類が出ていて、それはまだスーツケースの中にあるから到着した直後の興味でこのショットを撮影したと思われる。それで通常版パッキングするときは、衣類は全部右手のバルセロナチェアーの上に乗せるのである。 その奥に見えるピカソの絵画であるが、これはアパートメントの下のゴミ箱に捨ててあったのを拾ってきた。よくゴミだと思っていた。美術作品が本物であることがわかってオークションですごい高値がついたりするが、まさにその例がこれなのである。 私の2冊の本の真ん中のスペースが空いているのは私の別の本が売れたのだとレポーターは書いている。感謝感謝。 それに比較すると、デジタルカメラの命短であるから、横浜の馬鹿騒ぎで登場する新型カメラも1年経過すると話題にもならなくなるわけだ。 30年来。この方は私がいつも批評している事だけど、デジタルカメラは向上心がありすぎて走り続けて尖っているだけでライフスタイルを構築すると言う意識が欠如しているから、デジカメが産業廃棄物になってしまう。 実はあたしはデジタルカメラがわからない。エプソンR-D1ならなんとか理解 できるのだが、最新のディープラーニングがどうこうというのはまったく わからない。RAWで撮影してソフトウエアで弄るというのもよくわからないし、 記録メディアの規格がどうの、なんていうのは埒外である。だから、あたしは 理解ができるフィルムカメラにこだわるのであり、デジタルカメラを拒否し続ける のである。 タムロンの非常に昔のレンズの広告を発見した。タムロンの生き字引と言われている。金型部長の前田さんによれば、1番最初に製品化されたタムロンズームの後15ミリから90ミリも話に聞いているが見た事はないと言う。私はこのレアなレンズをプラハのカメラ屋さんでほぼ新品のものを手に入れた。 その私でもこの複合レンズと言うのは実物は見たことがない。もっとも、これはタムロン独自のアイディアではなくて、かなりそれ以前にドイツのレンズメーカーが全く同じものを作っていたから、これはタムロンがコピーしたものなのである。そういう事は普通に行われているから、ベルリンAskaniaが制作した。1000ミリのレフレックスレンズef 6.3と言うのはそのままニコンがコピーした1000ミリフレックスレンズになっている。 要するに、135ミリのレンズを組み替えると、227ミリのef 7.7 になると言うのであるが、当時はこれでも十分な魅力があったのであろう。ズームレンズが登場する。かなり以前の前の製品である事は確かでこのカメラ雑誌のペーパーが黄色くなっていることからもそれが理解できる。 レンズを分解すると、別の焦点距離になると言うのは、別にごく普通のことであって、広告写真をやっていた頃のシュナイダーの150ミリの標準レンズの前の球を外すと焦点距離が長くなって210ミリに使えるとかそのようにレンズの表面に書いてある。しかし実際にはそのようにしてもほとんど使えないクオリティーの画質なのである。 私もタムロンレンズとのお付き合いは、高校生の頃に始まっているから、かなり長い方であるけれども、今ではカールツアイスの製品を作っているし、大変な成長と言わざるを得ない。 デジカメを無理して覚える必要はないがiphoneは一台もっていると 楽しいよ爺さん。ポケットから出して1秒後には夜景だろうがすぐに 撮れる。フィルムカメラとiphoneの2台持ちが一番楽しいんだぜ。 家人の教え子で中野方面に住んでいる人が定期的に救援物資を送ってくれるので非常にありがたい。それで最近いただいた救援物資の中では手紙がついていてバレンタインは過ぎたけれども長徳さんようにと言うのでこの間カメラのチョコレートが届いたのである。 私はカメラが好きだが、こういう流行物にはあまり興味がないのであるが、家人が興味を持っているのは製造者と販売者をチェックすることなのである。それで家人がチェックしたら驚くべきことが判明した。このカメラの販売元は世田谷区の代田にあるなんとか珈琲と言う会社なのであるが、カメラとチョコレートを作ったのは小豆島にある。 これにはびっくりしたね。私は20年位前にガラクタ屋さんと買取名人さんの故郷に招待されて行っているのである。なかなか良いところだった。 詳しく見ていると、チョコレートは国産で外側のカメラのチョコレート容器のほうは中国製と書いてある。それで数年前に頂いた別のチョコレートカメラを見たら、これは販売者は別の会社になっているが、製造者は小豆島になっている。 そこで不思議なのは、こういう商品と言うのは、小豆島にある工場にオーダーして、勝手にそれぞれブランドを変えて販売しても良いと言うものらしい。チョコレートの缶詰、カメラの戦国時代と言うことになるのかな。 それにしても凄いなと思うのは、ライカの会社はドイツのフランクフルトから北に1時間ほど行った。みすぼらしい小さな村で作られているわけだが、このチョコレート缶詰カメラのほうは有名な24の瞳で知られる世界に名だたる小豆島で作られていると言うことだ。 OEMに例えて言えば、小豆島で作られたカメラがそれぞれ販売するお店に名前を書いて出しているわけである。今年いただいたブラック仕上げのカメラのほうは、代田橋で作られているからだいたと言うのである。 出雲在住の小池さんは、シリアスフォトグラファーで数年前に羽田をテーマにした写真展を出雲の図書館で開催して、そこに私は駆けつけたのである。小池さんの仕事が良いのはテーマ主義ではないことだ。小池さんが生まれ育った大田区の羽田あたりを撮影した。1連のシリーズは、別に、彼の関わった地域の話をしているのではなく、小池さんの時間軸の上での哲学的な体験を語っているのである。 ギャラリー長徳と言うのは、買取名人の肝いりで、2002年ごろにオープンしてビルの3階にあったと記憶する。2階にあったのが私のカメラのコレクションであった。それぞれに面白かった。 それで小池さんが2000年初めの頃の画像ファイルをひっくり返したら。この写真が出てきたのである。非常に珍しいギャラリー長徳のオープニングレセプションの写真である。坂崎さんと言う人は20年以上経過しても全然雰囲気は変わらないね。 この写真展はギャラリー長徳の何年かやって1番最初のシリーズでこれはグループ展なのである。坂崎さんとか東儀さんとかそしてもちろん小池さんも出店していた。考えてみるとこういうのは今ガンガンやっている傍流写真の最初のシリーズであったことに気がつく。 オープニングメンバーの東儀さんもなかなか良い仕事をしていて、何よりもプリントが綺麗だった。坂崎さんはお付き合いの始まった30年前は、例えば蚤の市の仲間でバナナを食べているおっちゃんを撮影するような単純リアリズムであったのが、1995年にコシナレンダーのカメラが出た時、ハードカバーの写真集出して坂崎さんと私で半分ずつ作品を掲載した。私はなぜか広島を撮影に行って、坂崎さんはアルフィーのツアーをテーマにしたものだった。その時の広島のお好み村はまだ木造モルタル造りで、数年前にそれが懐かしくて広島に一白2日で行ったら大きなビルに変わってしまった。 その後に坂崎さんのアルフィーがニューヨークのツアーに行ったときの写真が良いので、それを写真集に出してその解説を私がしたのも懐かしい。写真家坂崎幸之助のスタートラインと言うわけだ。 坂崎さんの左右に立っているきれいなお嬢さんは、六本木ヒルズのスタッフなのである。六本木ヒルズのスタッフはトラッドだから展覧会のオープニングレセプションとなるとこういうスタイルで来ると言うところがハイソサエティーだと思う。 十数年前の話である。仕事で長崎に撮影に行った。まだ東松さんがお元気だった頃の話である。別に弟写真家に会おうなどと言う失礼な事はしないけれども、大写真家が日常を見ている長崎の風景を私も脇から見たくなった。 路面電車に乗って東松さんがいつも使っておられると思われる。停留所で降りた。雨がかなり激しくなったので、停留所のすぐそばのラーメン屋さんに飛び込んでコップ酒をいっぱい飲みながら皿うどんを食べたのが忘れられない。 東松さんが昇天されたときのことも私に出会って、月島を歩いていたら、前を歩いている人が携帯ラジオを持っていて、そのニュースで東町さんの訃報をしたのである。旬トランジスター、ラジオを持ち歩く人もいないわけだから、これも不思議な東町さんとのご縁と言って良いのであろうな。 かなり詳しい人でも、皿うどんとちゃんぽんの区別はすぐに言い当てられる人はいない。長崎出身のピアニストの話によれば、日本全国で展開しているリンガーハットと言うのは、ちゃんぽんの味が分かる人にすればなかなかレベルが高いのだそうである。 私のような人間にしてみれば、長崎で食べた皿うどんと言うのはうどんでもない。硬い焼きそばなのだから、ますますわからない。この十数年間ギャラリーバウハウスで、年に1度位個展をやっていて、その時だけ御茶ノ水駅のそばにある日高屋でかた焼きそばを食べる。これがなかなかうまい。 この間ギャラリーバウハウスで私の作品を新たにコレクションにしてくれたコレクターさんと日高屋に入ってかた焼きそばで日本酒を1本ずつ飲んだらご機嫌であった。 ただ、日常的に日高屋に俺があるわけではない。私が使っているレンタル暗室の近くにも日高屋があるのだが、暗室はいつもやるわけではない。それで通販で手に入れたかた焼きそばを食べることにしてこれはこれでなかなかうまい。 しかしこれはひょっとしたら皿うどんかもしれない。さらに皿うどんとちゃんぽんの区別がいまだについていないので、明確に断定はできないのである。 15年位前に思いつきで、インドのデリーに行ってカレーの武者修行をしたことがある。クレジットカードのポイントが余っていたのでニューヨークに行こうと思ったら、ビジネスクラスの往復はちょっと足りなかった。それでデリーにカレー探求に行ったのである。 デリーの駅前の菩提樹の大きな木の下に白い服を着た哲学者みたいなインド人が1日中巨大なカレーの鍋をかき回していた。そこの常連になったのである。しかしながらカレーに満足すると今度はカレーパンが食べたくなった。私の探し方が悪いのであろうが、デリーのあちこち歩きまわってもカレーパンは無いので、逆にインドにカレーの武者修業に行った。反動としてカレーパンが食べたくなったのだ。 カレーパンは1927年に深川の当時東京で有名だった。パン屋さんが考えだして、それを特許として申請して認められていると言う背景があるそうだ。その当時の工場労働者街のど真ん中であるから、行員の皆さんが食べやすいと言うので好評でブームになったらしい。 このパン屋さんは、戦後になって場所が変わって、森下町の交差点のすぐそばにできたのだが、名前はカトレアと言う。そこに買いに行ったこともあるが、カレーパンと言うのは食べたい時にすぐそばにないと困るのだ。1番近くのカレーパンを売っているところは地下鉄の月島駅の構内にある神戸屋なのであるが、ここのカレーパンはまずいのでそのまま食べなくなってしまった。 カレーパン、あるいは、カレードーナツと言うのは、中にフィリングを入れるわけでこれがパン屋さんが作るのはなかなか面倒なので、カレーパンの中身を専門に作っている業者さんがあると言う事は40年近く前に知ったのである。 その頃何の用か忘れたけれど、もう川越市内を歩いている時にカレーのフィリングを入れた。業務用のプラスティックバックの中身の入っていない男便が路上に落ちていたのだ。その時に私はカレーパンのフィーリングが第三者が作っていると言うことをしたのである。それでそのプラスチックバックの名前を見ると、田中、カレーパンフィーリング株式会社と言うような意味が書かれていたので感心した。 それで考えを巡らしてまずヘルシンキ等は1度も今後来る予定はないと思うから、私の人生で1回きりのヘルシンキ訪問をすることにして、その先のフライトはキャンセルしたのである。 そのことをFacebookに書き込んだらすぐヘルシンキにお住まいの遠藤さんと言う方から連絡があって、お友達になった。遠藤さんの父上は、著名なデザイナーであって、私がオリンパスの仕事をやっていた関係で、意外と近いところに存在する有名人なのである。 それでサブか何かで登場した。遠藤さんにいろいろヘルシンキのお話をお聞きしてついでに私の小学校時代の友人子宮の消息を知りたいと言ったら、30分で所在がわかったそうである。フィンランドは人口が少ないから国民総背番号ですぐわかると言うことなのかな? それでわかった。小宮のメアドに連絡をしたらすぐ返事が来たのでこれからいっぱい飲もうと言ったら何でもヘルシンキから何百キロも離れたところに暮らしているのでそれは無理だと言う。それでも連絡が取れてよかった。 小宮と言うやつは、単に小学校が同じであると言うことなのだけれども、その後東京芸術大学のオーケストラを指揮するので、頭角を現して、それからヘルシンキの音楽大学に留学したのである。子供の頃は俳優もやっていて、吉永さゆりと一緒に赤胴鈴之助の薬で映画に出たそうであるが、それは見ていない。 2週間滞在の間にヘルシンキのメトロのほとんど全部の駅に降りて路面電車も全部の路線に乗ってみた。それでもう充分と言うことになったのは、私が街を探検して歩く時は徹底的な絨毯爆撃の撮影をするのであるが、それをやったのであっという間に街をみんな見てしまったわけだ。 軍用カメラのレプリカで、ヘルシンキの街を撮影して、まず20本位の成果であったがなかなか手ごたえがあった。ところがカラーネガで撮影して現像の上がった。そのフィルムを私は佃島のカメラジャングルで噴出していまだに発見できないのである。 軍用ライカのフェイクで撮影したので、ライカの神様が撮影現像済みのネガフィルムをどこかに意地悪して隠してしまったとしか思えない。 50年以上前のウィーンの話である。あの頃は19世紀的なガストロノミーの習慣と言うものが残っていた。例えばバラの花束を持ってそれを1本ずつ販売して歩くと言う女の子の商売があって要するに飲み屋のカップルのお客さんはそこでバラの花を1本買って連れに愛情を送るわけである。 伝統芸能としてもう一つ忘れられないのは、写真に示すようなプロフィールを切り紙で制作するるアーティストである。これはバラの花売り少女よりも出現回数は少なかったけれども、なかなか芸術的な感じのおじいさんが回っていたのであった。 私もワイン酒場でそういう切り紙座異空のアーティストに出会って、興味本位に自分のプロフィールを切ってもらったことがある。その当時はまだまだヨーロッパでは我々のような東洋人の数が少なかった。 日本の切り紙の芸人さんと言うのは、よせでお客さんのリクエストに応じて切り紙を作るわけだが、それとはヨーロッパのプロフィールをカットするアーティストとはちょっと方向が違う。日本の場合は完全なエンターテイメントであるが、ヨーロッパのそれはもうちょっとポートレートに近いアーティスト的な方向性がある。 なかなか見事なもので、20代半ば過ぎの私の雰囲気がうまく表現されている。 それでマカオに行ったのは、香港が中国に変換される2年位前の事だった。それでマカオに行ってみると、次に行きたくなるのはポルトガルと関係のあった長崎である。ポルトガルリスボンのバーで、昔船員さんだった。ポルトガル人に会ったりすると、最初に出てくる言葉が長崎であり、神戸なのである。 長崎への旅と言うので、1つのプロットを作った。それは2002年にヨーロッパの通貨がユーロになったときのことである。5ユーロの紙幣に斜め後ろ向きのかわいい犬のイラストを描いたのである。この犬が旅をして、世界の果てのマカオのさらに発展のファーイーストの長崎に行くと言う筋書きだった。それで出たばかりの5ユーロにワンチャンのイラストを書いたやつを私は願いを込めてリスボンのポストに投函した。 その5ユーロの紙幣の表面に描かれたワンチャンの旅がようやく実を結んで、初めて長崎に行ったのは、2009年の11月であるから、ずいぶん時間がかかったのだ。私の場合、長崎のもう一つのイメージは、写真家、東町3-11時2分長崎が重要である。 羽田から長崎空港について私なりに向かうバスがしばらく走って。なにげに腕時計を見たら、針は11時2分を指していたので、私は黙祷したのである。 観光客であるから、思案橋のすぐそばのホテルに宿泊して慣れない市電に乗ってあっちこっち回った。東松さんがお住まいの近くの町まで行って、雨に降られて入ったラーメン屋さんでコップ酒で皿うどんを食べたのも良い記憶である。 ツーリストであるからオランダ坂を見に行った。のであるが。その急勾配にびっくりした。オランダは平らな土地であるからそんな酒があるわけがない。これはやはり正確にはオランダ坂ではなくてポルトガル坂と言うべきなのであろうと坂の途中で考えた。オランダ坂と言う大きな石があって、その根本にはホーランドスロープと書かれているのも何か厄介な感じであった。 ポルトガルのコインブラの古い宿屋に宿泊していたときのことだが、近所でカステラを買ってきて懐かしいと思って。同時に熊野カステラはこちら、ポルトガルが本場なのだななどと思ってベッドの脇に置いて寝たのである。 深夜に目覚めて、そのカステラの袋の脇に何か異常な状況になっていることに気がついた。無数の阿里山が列をなしてカステラの角を削り取って、それを持ち帰っているのである。その列の長さは数メートルにも及んで宿泊している場所は、ホテルの2階であるから、阿里山の行列と言うのは地面から延々とつながっているのであろう。 その事実を確認して、私は明かりを消してまた眠ってしまった。翌朝明るくなってみたら、阿里山の行列は何もなくて、カステラの削られた量にしてもたかが知れたものであった。 江東区の砂町銀座からそれほど遠くないところに文明堂の工場がある。工場の1部は販売所になっていて、その前のスペースでコーヒーを飲むこともできる。結構そこが気にいって福田和也さんとあの写真部の皆さんと一緒にその界隈を撮影して、その文明堂に案内した。メンバーの1人が入ってこないので、何かと思ったら工場の人と軽いトラブルになっている。何か不審な人間が写真を撮影していると言うふうに勘違いされたようである。 そのカフェが一緒にあるカステラ工場はその数年後にブラパチワークショップの皆さんとその場所に行ってみたら、カフェコーナーは既になくなっていた。 オールドデジタルカメラを愛する市民の会を作ったのは、足掛け4年位前のことである。その当時も今と同じでカメラスズメとメカライターさん連中が新型のカメラを追っかけ回して、その新しい気候こそが、自分の写真芸術には絶対必要であるなどと、まぁこれはデジタルカメラすずめのチュンチュン言っていることだから別に問題は無いのではあるが、どうも写真、表現の本質からはかなりずれている感じがしたのである。 それで上のようなタイトルのFacebookの同好会を非公開で作ったらすでに会員メンバーが1000人以上になっているのは、これこそが正しいデジカメユーザであると私は尊敬しているのである。 まぁその中にはカメラ自慢というか、オールドデジカメ自慢と言うのもあって、でもこれは別に新製品を自慢するほどの頭の悪さは無いから、ちょっと自虐的なところがオールドデジカメ自慢にはあって、それは歓迎することだと思う。 それよりも、私が評価しているのは、オールドデジカメを使う市民の会のメンバーは、カメラの性能に騙されているのではなくて、実際に古いデジカメを使ってそれで満足していると言うところが人間的なフレキシビリティーを感じさせる。 高性能デジカメを追いかけている皆さんが私から見て不思議に思うのは、オリンピックのアスリートと同じであって、すべて結果がものを言うと言うような価値観に裏打ちされているのが不気味である。その意味でオールド、デジカメユーザは人間的であると言うところが素晴らしい。 それで私にとっての人間的なオールドデジカメと言うことになると、私がオリンパスのマイクロフォーサーズに初めて出会った。このカメラを真っ先にあげなければならない。そこで大事なポイントはレンズはこれ1本を使うと言うことである。17ミリの広角レンズであるから、まさにエルスケンがライカM2に頭ミクロン35ミリをつけて世界中を放浪した時と同じコンフィギュレーションではないか。 岩波写真文庫が小学校の図書室にもあってよく見ることが多かった。その当時の教科書のいい加減なイラストレーションに比べると、はるかに説得力があったのを子供心によく記憶している。しかも何百冊と言うシリーズで登場したのである。1つの百科全書の写真版といってもよろしい。 その岩波写真文庫の復刻版が出るきっかけと言うのは聞き漏らしたけれど、何かのアニバーサリーではあったのであろう。私のところにも依頼が来て、5つのタイトルをセレクトして、それに解説をつけた。バックグラウンドが戦後の直後であったにもかかわらず、その出版の表現のスタンスと言うものがなかなかトラディショナルでアカデミックなのである。 私の他に、赤瀬川さんなどもセレクションに加わっていらして、それぞれ個性的なセレクションができた。私の場合はバックグラウンドからして、カメラとかレンズとか写真とかそういう方向のセレクションになった。 その中で特に私が興味を持ったのは瀬戸焼き物の町である。これは意外と知られていないことであるが、東松照明が撮影しているのである。名取陽之助と岩波でいろいろ確執があって、彼はこの仕事を最後に岩波を飛び出してしまうのだが、その最後の仕事と言うわけだ。 東松の使っていたカメラはニコンエスであって、レンズはシンプルに35ミリ50ミリ105ミリなのである。写真家のシンプルでフレキシブルで空間をしっかりとらえると言う。このカメラワークがごくシンプルなカメラとレンズの組み合わせで生まれていると言う事は凄いことだと思う。 パリの素顔というのが面白かったのは1950年代初めの頃の撮影だと思うけど、パリの街並みはその当時走っている自動車と道行く人のファッションを考えに入れなければ、パリの街並みそのものはほとんど変貌していないと言うところが面白い。この頃の街行く人々のファッションは偉大なトラッドなのである。 それが実存主義が登場した後から様相が変わってきて、みんなユニクロめいた服を着るようになってしまった。 30年位前カメラジャーナルをやっていた時に、坂崎幸之助さんもメンバーに加わっていただいて、いろいろな研究を展開して面白かった。その中でこれはコーナーなのであるが、このカメラについてご存知の方は?というのをやったのである。それで読者の方といろいろ交流ができて、これは非常に良かった。 出雲に在住の写真家の小池さんが、20年ほど前の深い思想の画像をアップしてくれて、20年前の坂崎さんとか私の姿が出てきたのは懐かしかった。それでこれは20年ほど前ではなくて、たかだか12年位の昔の話なのであるが、これが一体何のカメラなのかが不明なのである。それで30年ぶりのリバイバルでこのカメラについてご存知の方は?というのを展開する。 出雲に在住の写真家の小池さんが、20年ほど前の深い地層の画像をアップしてくれて、20年前の坂崎さんとか私の姿が出てきたのは懐かしかった。それでこれは20年ほど前ではなくて、たかだか12年位の昔の話なのであるが、これが一体何のカメラなのかが不明なのである。それで30年ぶりのリバイバルでこのカメラについてご存知の方は?と言うのを展開する。 この画像は、2010年3月にプラハに滞在していたときの前後の画像ファイルから発掘されたのであるが、見れば見るほどどういうカメラなのかわからないところが面白いカールツアイスのゾナーレンズが付いているから方向としてはコンタックス1型に引っ張られるのであるが、フィルムの巻き上げは本体の上にあるネジみたいなものでやるようだし、アクセサリーシューにシンプルなファインダーが付いているけれどもレンジファインダーがついていない。 さらに細かいところを見ていくと、シャッターの仕組みがフォーカルプレーンであることが推測できるけれども、どのようにセットするのかもわからない。こういうカメラを見ていると、それがいつの時代の何と言うカメラであったのかということがそれほど重要ではなくなって、自分の頭の中でカメラのパズルを解いていくと言うような結構な楽しみになる。 ずいぶん昔から家にある時計である。自分で買った記憶は無いかといって、父親が時計は好きだったけど、父親のものであったと言う記憶もはっきりしない。要するに、大昔から家にある時計なのである。 モナコと言う名前が時計の表面に書いてあるから、モナコに関係がある時計だとは思っていた。スティーヴ・マックイーンの事は全く知らなかったし、彼の映画にこの時計が出てきたと言うことも知らなかった。ただ四角いそのスタイルと古い時計なので、全体の色が褪せているのが好きなのである。 大体現代の暮らしではクロノグラフを使うということがない。スマートフォンができてから時間経過はそれで計測することができるし、以前ヨーロッパに飛行している時などは、飛行時間とか、ヨーロッパの前、滞在時間を測るのに苦労していた。この時計ではそんなに長い時間は測ることができない。 それがスマートフォンになってからリスボンの滞在時間が420時間35分1秒とか正確に計測することができるようになったのである。だから今ではこの種類のクロノグラフは実用には全く使っていない。 スイスバーゼルの時計の博覧会を見に行った。会社の名前はダブルネームになっていてタグホイヤーと言うのである。そこら辺の前後関係も私は知らないのだが、新製品と言うので大きなディスプレイを見てびっくりしたのはこの大昔の時計のメカニズムのムーブメントが新しくなったと言うので、大々的に宣伝しているのである。 機械式の時計などというものはメカニズムの進化はないと思っていたので、何をいまさらと不思議な感じがした。 タバスコのあのボトルと言うのは全く研究がされていなくて、すぐに出なくなってしまう。そこら辺を全く改良しないというのがアメリカンスピリッツなのかな?お醤油のプラスチックのボトルだって2ヶ月ごとに改良されて使いやすくなっている。 神保町の路地裏の喫茶店ミロンガに50年前には1 USガロンの巨大なタバスコのボトルが置いてあった。3.8リッターであるから、すごい存在感だった。似たようなものが欲しくなって、その当時竹下通りにタバスコショップがあったのでそこに行きました。 1 USガロンのタバスコのボトルはなかったが、1リッターのボトルがあったのでそれを買ってきて重宝したこともある。その頃はアントニオ猪木が輸入の会社を経営していたらしい。私はアントニオ猪木には新宿の京王プラザホテルで会ったことがある。私が会いに行ったのではなく、私の友人がそういうスポーツ関係の取材をやっていて、彼のブリティッシュレーシンググリーンのスポーツカーに乗って京王プラザホテルに行ったのである。ただ何もすることがなくて、私はアントニオ猪木を観察していて、これがタバスコファイターなのかななどと考えていた。 1989年のビロード革命の翌年であったかなNATO の軍事物資のレーションがプラハに流れ出たことがあった。そのレーションを箱で買って一と月ほど食べていたことがあったけど別にうまいものではない。ただし面白いのはそれぞれの食品にはそれぞれの一般の名前が付いていて、特定のブランドの名前はついていない。例えばネスカフェはインスタントコーヒーと表示されているのである。 その中で人間の小指位の小さいボトルで、これはちゃんとタバスコと表示されていた。ホットペッパーソースと表示されてはいなかったのは、アメリカ人にとってタバスコはタバスコでなければいけないと言う認識があったのだろう。 最近買った思いつきでタバスコテイストのスパゲッティーアラビアータのソースが到着したのである。家人が30年位前に買ったタバスコグッズをキッチンから出してきた。それで、ずらりとタバスコブランドを並べてタバスコの揃い踏みとなった。 2002年から2012年まで六本木ヒルズができたばかりの49階にワークスペースがあってそこを使っていた。当時はなかなか話題になった六本木ヒルズライブラリーであった。10年間使っていていろいろなお客さんがきたが、沢木耕太郎さんなどは私がそのような場所にいることが不思議だったらしく、彼の著書に何回かその六本木ヒルズ49fのワークスペースの話が出てくる。 佃島の今のタワーマンションに20年ぐらい暮らしているのであるが、光通信ができた直後に契約したから15年位が経過した。そのうちルーターが悪化したようで通信ができなくなったので、まとめて4台のルーターを中古で手に入れたのである。 それで規定のプロセスでルーターをセットアップしたのだが、オンライン上では正式に設定できましたとあるので、実際にはオレンジのライトがピカピカしてインターネットはつながらない。まずいことに。ソフトバンクの携帯のSIMも全くつながらないと言うまずいことと言うのは同時にいくつもやってくるものらしい。 それで緊急避難としてマンションの1階のこういうワークスペースで仕事をしている。逆に音とオフが別々になるから、これはなかなか快適ではあるのだ。それで冷静に考えてみると、マンションの1階には結構ちゃんとしたロビーがあってテーブルや椅子やカウンターが用意されているのであるが、このセクションだけが周りからガラスで囲まれたヘンテコリンなゴージャス空間になっている。なぜそうなのかこれを考えてみた。 1989年4月にできたこの建物であるが冷静に考えてみると当時はまだ携帯電話というのが一般に普及していなかったのである。だからマンション1階のロビーのパブリックスペースでは電話をかけるスペースが作られたのである。それが大理石作りのかなりゴージャスなブースと言う形になってしまった。 モバイルフォンの普及によってここに置かれていた公衆電話は撤去されて今はない。我々の時間経過の勘違いと言うことがあるが、今の若い連中などは携帯電話と言うものは幕末の頃からあったのではないかなどと考えていそうだな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
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