【炎上商法】ブッダかずひさスレッド1【自己中】
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それは宗教じゃないです。
それは「欲望と叶う」、です。
それは宗教で登る山では無いです。
宗教の頂は「幸せになること/一切の苦しみを滅ぼすこと(不死)」です。
欲望の成就を求める人は、真面目に伴侶や他人を探し求めてください。具体的な努力すべきです。
祈りは時間の無駄です。そんな時間も惜しんで素振り練習1回でも増やすべきです。 統治者/建暦者による聖書改ざんにつぐ改ざん......
慧者は、そこに、イエスを登場させた。
イエスは、もはや堕落した、誤った、改ざんにつぐ改ざんされた聖書と腐敗した教会の
矛盾を、悉く批難して回るCAST(役)として登場。
するとイエスの教えは、改ざん聖書を原点回帰/軌道修正するための剣になった。
さすれば、イエスと改ざん聖書の2setで、原始/原点聖書を導くことを可能にした。
イエスの教えの剣で腐敗した聖書を斬っていくと、
原始/原点聖書の純粋spritが現れる。
キャラクターイエスは、慧者の脚本家によって創られた。
これが聖書神話(フィクション/人間作)説、となる。
聖書神話(フィクション/人間作)は、真理をフィクションで描いた神話であって、
すると「実際にノアの箱舟の破片がアララト山で」を展開するムー(学研)一族の言説は、
まるっきし見当はずれの「オカルト(嘘/虚実/タブロイド)」以上にはならない。
視点がそもそも的が外れている。
それは「円谷プロ ウルトラマン」は実在した、その証拠に、M78星雲にウルトラの星を
ナントカ望遠台で発見、などという話の類となる。
イカロスの翼発見、ポセイドンの実在証拠.....。
そんなタブロイドはもうたくさんだ。 イエスに関するその振る舞い/言動に関する記述の「差異」(死ぬ間際のイエスの言@「主よ何故私をこんな目に....」
別説A「主よ、彼らを許したまえ、彼らは自分たちのやっている行為の愚かさの意味を知らないだけなのです」)
に関する謎が解ける。
最近では、このイエスの振る舞いの史実であれば有り得ない記述の差異に関して、
新しい解釈を唱える人々が現れている。
この差異は、「聖書信仰者」のレベルupのことを語っている、と唱えている人々がそれである。
つまり、まずは@からはじまって、読者はAの心境/意識レヴェル...Bの....と
その心があがっていくことを意味していると彼らは言う。
なるほど、そう考えれば、マタイ、ルカ、...等々のイエス記述の違いが説明できる、というのである。
そういう訳で、自分は、この最近聞いた、意識のレヴェルup論としての聖書(イエス)論を支持している。
詳しいことは知らないが、何でもこの説は「K氏」という人物が広めている、ということらしい。
K氏らのグループに関し、自分はほとんど知らないので詳しく彼らの論の説くところは知らないけれども、
何はともあれ、複数のイエス記述の謎を解く鍵のような未だ自分の聞いたことのなかった聖書(イエス)論であることは間違いが無い。
これらのような論を持ち込まない限り、イエスの振る舞いの異なる記述の意味は全くわからないからである。 以前に、仏典理解に必要なのは「数学/算数/論理学力」と述べたのは、
上記に述べたような仕方、つまりまるっきし算数/数理の手法以外に、
真実(解/答)を導き出す方法が「無い」からである。
上記演算は、「数理の方法」である。
拝み、祈るだけの人は、単に「信じる/妄信」以外から、一歩もその外に出ることはできない。
しかし、あたかも数学式展開のようなやり方を多用すれば、それは「信じる/盲信」から、
「理解」、「解」、「論理演算」の世界で、仏典や聖書を使用できるに至る。
今まで、意味不明だった文言や喩えについて、誰か他人の語るところを検索して結論を「信じる」のではなく、
自身で比較的容易に多くの教えに関し「理解」や、真理に迫ることができる。
そういう意味である。
そしてまたこのような演算から思いもよらなかった「自身独自の発見」に至り、
驚きや感動に出会う。
又、考えてみればこれらは数理やら数学などとおおげさなこと言い出さなくても、
「算数の世界」と考えても良い。
ただし幼少の頃から、「算数だけはさっぱりだった」という場合は、
経文や聖書の記述に関する論理展開は難しい。
ただ個人的見解だと、一見国語にしか思えない文言、ロゴス、言葉を数理の次元で解こうとする所作無しに、
自力で仏典や聖書を習得することは極めて困難に思える。
仏典や聖書、時に文学なども、極めて数学に過ぎない、というのが自論である。
無論、微分積分などの概念も、数字の世界だけでなく、文言の世界でも使用できる。
例えば、フロイトの「一切現象の性(♂♀)原理化」などは、現象の微分化の1例である。
そして微分化された「一切現象の性(♂♀)原理化」されたものを、他の事象に応用する場合に、
微分されたものの積分化作業を必須とする。
言葉でこのような話を語ればとんでもない困難な高度な作業な如く思われる人もいるかもしれないけれども、
言葉で説明すれば、というはなしであるだけであって、
実際行う分には、全然高度な所作でもなんでもない。 対論や語り合う相手について、相手が「情」論、戦争/勝負/憎悪/怨恨の者ならば、
彼との対話ややりとりは、無意味であって、時間の無駄と煩いと破戒行為しか生まない。
「情」論の者は、喩うるならば、二等辺三角形の試験問題で、
「くそう、コノヤロー、この三角形のこの角度は90度でやがる、90度、許すまじ」
「二等辺三角形が気にいらない」「この三角形は在日だ」(笑)、などと考える者に等しく、
数学の世界に喜怒哀楽を持ち込む狂人である。
それだから対話の相手が気分や情を数理の世界に持ち出す相手なら、
彼は「ともに語り合うに相応しくない者」と呼ばれる。
この場合「相手には無限に好きなように語らせてよいが、その相手と対論してはならない。」
それは釈迦牟尼仏の説く戒めである。
又、「荒井由美のまま逝去して欲しかったですね」などと語る学者に、
何をどう返答するにしても、それはもはや無意味であって時間が失われるに過ぎない。
それは
【問1】この三角形の内角の和は何度ですか。
に
<解>「私は三角形をみると虫唾が走る。四角形が良かったですね。」
と答えるようなものである。
あるいはその解に対し、同じ次元で同じ調子で勝負の心を以って意義を申し立てるならば、
それは既に破戒行為であり、油売りであり、彼の智慧が増すことも無い。
ともに語り合ってはならない人や見当違いの気分の文言に同じ「情」の論で戦争を挑むならば
彼もすでに数理を放棄したのである。
単なる情論に情論で挑み返すは釈迦牟尼仏の禁じるところである。
この場合「沈黙している」か
「相手の情論を放置したまま、他のともに語り合うに相応しい人と語り合うべき」である。 が、そのXXを止めること、これぞ最上の(精神的)実りが期待できる。
お金を追い続ける人が、そのあくことなきお金へのこだわりと執着をこそ
破棄すること、に仏はその果報を約束する。
カズの挙動を観察していると、彼はお金に対する執着心が異常なレヴェルである。
彼はもはや、仏でもイエスでも神でも、集金のためなら売って、集めた小金に
悦する。
さてあなたの絶対に捨てれないものの中での(執着)最高位のことがら、
をこそ、その欲望の捨離に努めるべきである。
もしもあなたが「道の人」を自称するのならば。 上記の法則さえ知っていれば、何が守るべき戒律で、
何が「そこまで守る必要のない戒律か?」は透けてくる。
とどめに釈迦牟尼仏は、ささやかな喜びと悦楽をもたらす趣味/嗜好の破棄を歌い、
趣味嗜好を捨て去り、無趣味を得ることを賞賛するが、これもまた、逆世間道である。
凡夫にとってはせっかくの祭日を、趣味し、充実を得ようとするが、
仏は、それを充実とは呼ばず、不放逸、むしろ「悪業」の部類にいれる。
仏は、そんな趣味に一日中費やすくらいなら、「何もしないでいることの方が優れている」
と説かれる。 ヨブが得たのは富と健康だけ...
そういう解釈は初耳ですが、なるほど
と思います
確かにその通りかもしれませ >宗教の頂は「幸せになること/一切の苦しみを滅ぼすこと(不死)」です。
多くの人は幸せになるイコール金が儲かる
ですからね 悲しきかな
どうしても受け入れやすい教えを信じる
「飲酒だめ 姦淫 淫行 ダメよ」
「ナゼ?そのくらいの楽しみもないの?
と絶対受入れられない
「ワクワクを追求せよ! さらば波動が上がり
覚醒するよ」
「ウンウンそうだよねえ」
「kれとなえれば仏からエネルギーもらって
夢が叶う」
「素晴らしい教えだ!」
とまあこういう人がなんと多い 何やったって引き寄せでも何でも
100パー人生思い通りなんてできるわけ
ないんですよね
今だけたまたま上手く行く人がいるだけで
結果に執着しすぎると結局苦しみしかない >>226-227
その迷いをなくする答えを語りましょう。
その場所にいるのは、enf43Mb+0さんは、否、enf43Mb+0さん自体、いやむしろenf43Mb+0さん自身が、
未だ、「現金/快楽/女人/あまたの欲望と快楽...」
に「価値/良いこと/楽しい事/うらやましいこと」
と勘違いしているからです。
さもなければ、enf43Mb+0さんが、
娑婆の快楽獲得のことがらに関し、全然未練を持っている、
価値観というだけのことです。
enf43Mb+0さんが、もはや明らかに、娑婆の欲望と成就に関し、
「それらは皆、単に災いであり、苦しみの因である」
と本気で思うようになっていれば、
あなたから「今たまたまうまく欲望を成就しているだけ」
だとか、「飲酒だめ 姦淫 淫行 は気持ちの良い手放せないものだ」
「多くの人は幸せになるイコール金が儲かる」
「エネルギーがどうの」
などと「言うはずがないのです」。
即ち手厳しいことをあえていうなら、
あなたの語る「とまあこういう人」の中に実はあなたも居る、
それだけのことなのです。
よくよく考えてみてください。きっとあなたは「宝くじで10億当たる」
ことは素晴らしいことだ、と思っているに違いありません。
即ち、「我、力あらば、宗教にちかづいたりしない」と何処かで思っていませんか?
enf43Mb+0さんの語るところの俗人の批判は、
「enf43Mb+0さんの中に住んでいる自らの快楽と欲望と獲得と勝ちの想い」
への批難、なのです。
もしもenf43Mb+0さんが、それらの快楽や喜びは「楽しければ楽しいほど単に災いに過ぎない」
というところまで、ひとまず到達していれば、
俗人の語るところのラッキーに関して、彼らへの憐れみは出るとも、
批難は、「でてこない」ようになります。
あなたは「今だけたまたま『上手く』行く人」=娑婆の快感を享受できる人
の意味で使っていませんか? あなたは「貧乏人」より「金持ちが幸せに決まってる、いいに決まってる」
と思っていませんか?
もしも心に手をあててみて、「確かにそうだ、そう思っている」という心を自らの心のうちに見出すなら、
そして、enf43Mb+0さんが「この気持ちは死ぬまで基本的にそう代わらないだろう、あたりまえだし」
と想うだろうな、と考えるならば、それならばenf43Mb+0さんは少なくとも仏教、キリスト教には向いていません。
その気持ちと想いと情熱があるのならば、そちらを叶えるように努めて生きるべきです。
真面目に「道の人」を決めた人々は、それらに対する期待はまるでなく、むしろそれらの人々を不幸な人、
たまたまうまくいく人ではなくて、たまたまうまくいかず悪魔に魅入られただけの人、
という風になるのです。
そして重要な事は、この道は、「快楽や俗に言う幸運を期待しながら同時にそれらを捨てる」という履けない二束の草鞋であって、
それを想えば、その行者は、行者としてニルヴァーナにも、俗人として富を積むことも、
いづれも失う人になってしまいます。
無理なのです、この道は、つまり、欲楽と離欲の二つのリュックを持っては絶対に登れない山なのです。
ちょうど3歩進んで3歩下がれば、一向に山頂にとどかないことと同じように。 「道の人」の生き方こそすばらしい、すすめます、とも、
世俗の快楽と幸福を追い続けた方が良いとも言いません。
この2つの道はどちらがどうであるとか、絶対にこちら、とか他者の人生を、
おのが信のままに、強いる、とかそういうことではないのだから。
選ぶ人は、自らが誰のためでもなく自分のために自分で選ぶことがらなのです。 道の人として生きるのはあるいみ辛く苦しく地味で極めつけは1生を賭けたとしても、
最後の玉が手に入ることすら何の約束もされておらず、失敗しても損失補填もありません。
ただ生涯貧しく、周囲にはあざ笑われながらも、むしろ行半ばにして生涯を閉じること多々な、
そのような道です。
それだから、私は実は「道の人/行者」コースを薦めません。
私に誰かのかけがえの無い人生を曲げ、あげくに台無しにして涼しい顔をしている私はいないのです。
良い伴侶を得て、子を産み、普通の家庭を築き人なみの幸せを得るコースは、
過去歴史をふりかえっても、ほぼ「大失敗」という統計はでてこないでしょう。
しかし「道の人」コースは、統計で見てもあきらかに危ない橋です。
それだから私は「ボクは修行者コースを...」などと言う人には、
まず「やめといた方がいいよ」と、諭します(笑)。
もしもあなたが「自殺」を考えるレベルの人間なら話は別だけど...、と付け加えて。 自ら多額のお金やセミナー代、お布施を信者に強要し、あるいは教団のノルマで他人の人生を捻じ曲げ、
なおかつ、宗教やら、奇跡の道を薦める人々は、震災で津波な人の遺体から、
金銀の指輪を盗み取り集める非人よりもまだ悪い、と自分は考えています。 死後身破れて後の「地獄の世界」という処があるとするならば、
上記のヤクザを上回る外道は、漏れなく地獄行きです。
そう宗教勧誘員ですらも、ヤクザより「悪い」人々なのです。 釈迦牟尼仏らが無料で弟子たちを指導したその無料の教えをですよ、
堂々と販売して、『儲かる「スピチュバー」「note.com」で、脱サラ成功!』を説き、
その講演でさらに集金する。そこでなおさらに、「儲かる」を説く。
このような人々は、自分がどのくらい悪いことをしているか、まるで分かっていない。
儲けは、どこかの誰かの財の喪失の結果である。地球人全員の儲けが上昇する、ことは在り得ない。
全員が儲かれば、ただのインフレだ。
「私の話を聴いたものだけが儲かる」というのならば、その人は強盗である。
その集団は賊である。
カネを儲けることは「悪」じゃない、というのならば、その儲けを、どこかの施設にでも送るとでも言うのか?
自らは汚い服に、ボロいK自動車でも買って粗食し、集めたお金は施設に送る、とでもいうのか?
そのような輩が詐欺師でなく聖者であって、悟りを開いた、とでもいうのか?
そんなことを恥も無く、公言し、聖なる領域にある、とよくも語れる。
彼の終焉はただではすもうはずがない。そのような「律蔵経典における最大の罪」
を犯している彼が、.....いや止めておこう。口に出すのも恐ろしい。 こいつの何処がどうブッダなのか教えてくれ。まるっきしデタラメじゃねーか。 およそ1000人以上のブッダ教団で解脱した仏弟子の中に、誰一人ホーリーネーム:ブッダ大五郎、
ブッダ・バーラドバージャ、ブッダ・モッガーラナなどと自称し、また他称さる者も0名であったのにもかかわらず、
今ココに自称ブッダ・カス坊と言う者が現れて仏の威を借りて集金活動に勤しむバチ当たりこの上無い輩が、
貴人の如く世間を闊歩している。
彼はいったい何のどんな経典や本を読んでそのような酔狂を舞うのであろうか?
あたかももはや下山不可能な号目まで登ってしまった登山家のように。
まものなく彼の5体は凍傷によって失われる。 ........程度ですめばまだよいのだが.....。 そして又、彼の活動がBEユーチュバと脱サラを説く事だとしたら、
そこに仏とその弟子と信徒のつけいるスペースは無い。
解脱の脱は脱サラの脱じゃない。遊チュパで楽勝人生、そんな有料講義は聴きたくない。
流行のステップよりは好きなDANCE踊りたい。
誰だってそうなのさ本当は。間抜けなピエロの気持ち。 「宇宙は1つ。みんなもとの1にもどりてえんだ。SEXが至福の喜びなのもそれだからなのだ。」
いやいやぼかぁかっちゃんと結合して一つになりたいと願うほどの1への気持ちは微塵も無い。
肛門性交ににハマり、かっちゃんのイチモツをしゃぶりたおして白目を剥いて随喜するほど、
正気を失うこともない。
「我は友も無く音楽も無いこの森に独り孤独を楽しむ」なブッダが、
「宇宙は1つ。みんな一つに集まれーぃ!そうさビッグバンの前にもどるのだ」
と絶叫したという伝説は、聴いたことがない。 仏の教えを説く事すらしない、異教の新興宗教ビッグバン回帰教教祖が仏の名を無断で名乗り、
その名の威光だけを拝借して集金活動に勤しむとは何事だ。
汝は麻原より大川より大作よりはるかに仏教から遠い。
仏の教えの本質を説くことすらしない以上、新興宗教を立ち上げ、自らその教主を自称することはあっても、
ブッダの名を使わないで頂きたい。 >>137
あなたの書き込みに大変感銘を受け、進められている書籍を買い求めようとしましたが、
"岩波文庫 中村元訳 仏典シリーズ 全巻5〜6冊(各¥1000)"と検索してもそれらしいものが出てきません。
具体的にはこれは下記のものを指しますか?
・ブッダの真理のことば・感興のことば(ダンマパダ・ウダーナヴァルガ)
・ブッダのことば: スッタニパータ
・ブッダ神々との対話 サンユッタ・ニカーヤ1
・ブッダ悪魔との対話 サンユッタ・ニカーヤ2
・尼僧の告白―テーリーガーター
・仏弟子の告白―テーラガーター
もし間違いであればご教授願えると幸いです。よろしくお願い致します。 >>243 自己レス
アンカー間違ってしまいました。
ただしくは、>>143 の方にお聞きしたいです。
現在原始仏典を勉強ですが、浅学のため輪廻の主体が良く理解できません。
ぜひ私に教えを説いて頂けますと幸いです。よろしくお願い致します。 輪廻の主体の話はヨーガスートラにかいてあるけど、
仏教では「無記」に近く、「<そんなん考えても解脱には役にたたない系の教え>」
つまり「無我なのに誰が輪廻するのさー」の問いでしょ。
それは思考しなくても解脱に支障なしというスタンスで、解脱後「宿命通」が現れた人だけに
わかるけど、苦しみがなくなれば過去なんてどーでもええというはなしになる。 >>243
https://www.google.com/search?client=firefox-b-d&q=%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E6%96%87%E5%BA%AB+%E4%B8%AD%E6%9D%91%E5%85%83%E8%A8%B3 >>250
ありがとうございます!現在岩波の方を読破しまして増谷阿含@を読み進めています。
ここでこのスレにて話されていた中村岩波トラップの全容がまだ掴めていません。
離欲に関する事は大体把握出来てきましたが、仏説のコア、大要点、絶対必需経典群とは、
守戒に関わることなのでしょうか。差し障りなければ、要点だけでもよいのでご教授頂けますと幸いです。
ずっとあなたをお待ちしていました。よろしくお願い致します。 >>251
私はあなたを全面的に応援します。
経典でわからないことがあったら、
何でも、「全て」教えて説明してあげます。
https://note.com/buddha_kazuhisa
この方に説明していただけるのは
「全て」「有料」のようですから。
<仏弟子絶対の戒>
「仏の弟子たちは、私が説いた教説に関し、他人に説いた見返りに
金品を一切請求してはならない」 >>252
ご返答ありがとうございます。私に教えを説いてくださるとは光栄です。
なにか質問させて頂こうと考えましたが、浅学のためにわからない事がわからない状態です。
日常生活においては慎みと静けさを常とし、行為の結果を期待せず、なすべき仕事に励んでいます。
恥ずかしながら私は法華経を根本経典とする宗派の僧侶です。法華経に興味が持てなくて10年間腐ってました。
しかし偶然にダンマパダを手にする機会があり、これだ!と雷に打たれたような感動を覚え、現在猛勉強中です。
そんな中であなたの書き込みを見つけ教えを乞おうと思った次第です。よろしくお願い致します。 >守戒に関わることなのでしょうか。差し障りなければ、要点だけでもよいのでご教授頂 >守戒に関わることなのでしょうか。差し障りなければ、要点だけでもよいのでご教授頂
<何故かほぼ日本でひろまらなかった
数10冊の律蔵経典の究極単純明快な要点>
生命存続のかかわること以外(呼吸/小飯/生理現象(大便小便排泄)以外)の一切の、
(享楽/楽しみ/射精等々の)快楽(趣味遊び/コレクター/ギャンブルなども含む)について、それを享受して味わうことを為さない。
これが律蔵/戒律の一切であって、じつはこの数行(その意味がわかる人には)で律蔵10巻は不要なのです。
つまり「脳の足りない人」のためのぶあつい律蔵10巻なのです。
それでも律蔵1巻くらいは読んでおいて損は無いです。 「ぱっさん」という人は、
「悟れる要素が0」
「かずひさも同様に0」
これだけは確実に約束できます。 >>255
素晴らしいことです。>>255さま。素晴らしい事です。>>255さま。
覆われたものを開くように、暗闇の中に灯火をかかげるように、あなたは守戒を説いて下さいました。
煩雑で難解な一切の戒を、いとも短い平易な言葉で愚鈍な私に教えて下さいまして感嘆しております。
ありがとうございました。
少し考えていたのですが、無我の理解についてお尋ね致します。
意識や記憶などは常に移ろうものであるから、確固たる普遍的なものではない。
それゆえに無我と言われるが、しかし移ろう自我自体の存在が無いと言うわけではない。
無いとも言えないしあるとも言えない仮の状態が、カルマを受ける主体であり、解脱する主体である。
現在の理解ではこのような考え方をしています。それというのも釈尊が「行為者はいない」と発言したと、
どこかのブログで見たからです。どの経典に書いてあるのか、その前後の脈絡も不明なので悶々としておりました。
お手すきの時で構いませんので、どうか私に教えを説いて下さると幸いです。 >>257
>>255
>素晴らしいことです。>>255さま。素晴らしい事です。>>255さま。
>覆われたものを開くように、暗闇の中に灯火をかかげるように、あなたは守戒を説いて下さいました。
>煩雑で難解な一切の戒を、いとも短い平易な言葉で愚鈍な私に教えて下さいまして感嘆しております。
>ありがとうございました。
さっそくもうその常套フレーズがでてくるほどになられましたね(笑)
これは意外に大切なことで、仏弟子はブッダや経典をコピーする、音楽家がまずは、
プロの曲を真似る、コピーすることから始まるのに似ています。
ブッダを完全にコピーできるようになったら、あなたは解脱してしまうのですから。
<無我について>
>移ろう自我自体の存在が無い
んです。これは実は「我」「私」は「無い」んです。
これは、おすすめできない行法なので、沈黙しておきますが、
自我は完全に「無い」。
「自我があると思っている状態」があまりに長すぎて「あるとしかおもえない」というのが一般ですが、
それは夢のように、実は「我は無いんです」。無我の境地とかはおおげさで誤解を生みますが、
ただ真剣まじめに普通に「じつは無い」んです。
そして、しかし「自我をなくしたままだと会話もできない」などということが起こります。
そしてその時は....まあその話はいずれ(笑)。
>カルマを受ける主体であり、解脱する主体
この問題は日本のヨガの祖「ヨーガスートラの翻訳者」が同じことをいっています。
つまり輪廻する主体問題のところで。そして「だから無我じゃなくて真我があるのだ」
とこうくるわけですが、つまりこの先生は「無我を(経験的に)知らない」という話になります。
無我の意味、感覚、理屈、etc...........は経典に書けないんです。
理屈ではないからです。これはそれを経験したひとにしか絶対にわからないんです。
自我が眠りの状態であり、無我が覚醒?にちかいのかな....。
これは行中に無我にいづれ入られた時にその意味がわからなくても「あっ無我」と知ります(笑)。
仏も無我そのものの感覚は説いていない、説けないはずです。
「無我は有り」「自我は妄想」、そのくらいしか「説明はできない」んです。 >これは、おすすめできない行法なので、沈黙しておきますが、
上記文の意味は、その行法を行えば「誰でも」死亡する恐れがあるので
私があなたにその方法を教えられない、というわけです。
土下座されても、死ぬ確立のおおいにあるこの行法は他人には絶対に言わないと誓っています。
又、とくに重要なことでもないので、普通に行が進んでいけばセーフティーに
無我を得るでしょう。 >>258
ご返答ありがとうございます。岩波シリーズは朗読したものを繰り返し聞いているうちに
ほぼその文言は頭に叩き込む事ができました。清らかで心が落ち着き大変ありがたく思っています。
無我の理解ですが私ごとになってしまいますが、どうかお許しください。
私は出家するために性を捨て名を捨て、両親を捨て仕事を捨て友人と故郷を捨てました。
これは偶然にも出会った伴侶が寺生まれで、後継になってほしいと懇願された為でした。
しかし今となって考えて見ますと、捨て去ったアイデンティティと思っていたものの中に、
私という存在は微塵も含まれていなかったと、今は考え直す事ができるかと思います。
(当時は自分が消えてなくなってしまうような喪失感を感じかなり落ち込みました。)
同様に五蘊の中にさえ、無常ゆえに我、自分というものを探し出すことはできない。
これは知識としてしては理解できます。ですが無常を悟ることが無我だと言われても、
ではいま思考している主体は何か?と考えますと五蘊の要素それぞれが相互に依存し条件付けられ結合、
流転していくもの。という答えしか捻り出せません。ゆえに不安定で常に流動するものを自我とは言えない。
それも禅定などで心を整え無に帰する事ができれば実感が伴うのでしょうか。理解としての方向は間違ってないでしょうか。
理解できているのに"私"という概念を手放せないだけなのかもしれません。とにかく実感がないのです。
何か無我に関して例え話等あれば教えて頂けると幸いです。長文失礼いたしました。よろしくお願い致します。 >>私は出家するために性を捨て名を捨て、両親を捨て仕事を捨て友人と故郷を捨てました。
それに勝る仏道修行上の環境は存在しない。
>無我の理解
無我はその人の経験でしか、その人にそれをどう説いても何の意味もなく、かえって、
「偏った先入観」を暗示してしまうだけです。
>自分が消えてなくなってしまうような喪失感悩
それは矛盾です。
仏の教えの世界においては「自分が消えてなくなってしまう」が生じれば、
それは不動の修行完成だからです。
「自分が消えてなくなってしまう」を恐れ/悩み/不安する、といのならば
それは「自分がバリバリにあって、<自分が消える>からははるか程遠い処に心が住している証拠」
以上にはなりません。
>これは知識としてしては理解できます。
その愚問は、まだ岩波経典を暗記してませんね(笑)
ブッダ「世のなかで、真理に達した人たちは、哲学的見解によっても、
伝承の学問によっても、<知識によっても>修行完成者になることはできない。」
>いま思考している主体は何か?
ブッダ「そんな単体、主体は存在しない。思考や想いや苦しみは、縁生によって起こる。
即ち、そのような主体(我)は存在しないのである。」
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遍歴遊行者「サーリプッタさん、苦は自作(主体があってその主体が作り、それを自分が受ける)であろうか、
それとも、他作(誰か他人の主体が作る)であろうか。」
サーリプッタ「友よ、苦は自作ではない。また、苦は他作でもない。
ただ、縁生(相依性)によって苦があるのである。
友よ、それは、たとうれば、二つの藁束は相依って立つであろう、
ということである。もしそれらの藁束のうち、
そのいずれか一つを取り去ったならば、他の一つは倒れるであろう。」 >>261さんの教えて下さった箇所を再び読み返してみました。岩波経典を暗記はできていません(ちょっと思い上がってました)
そこで思い出しました。釈尊は明確に我はない。と発言していますが、これに納得が得られず、(釈尊を疑っている訳ではありません)
自分なりに考察や仮説を繰り返して、"五蘊の要素それぞれが相互に依存…"と理屈をつけたのだと。
つまり泳ぎ方を知識の上で理解していても、実際に泳いでみると知識はあまり役に立たず、
溺れてもがいている状態だと自分を分析しています。
さらに言えば自由意志さえも条件付けれらた生起として実態のないものと認知できれば、
無我の理解に近づく事ができるのではないかと思っている次第です。
ここから先は経典を追う事をやめ、実際に心静かに座り、智慧を得るしか理解を深める事は出来ない。
という至極真っ当な結論に現在は行き着きました。これも>>261さんの助言を授かったからに他なりません。
ただただ感謝の念と、私が真摯に師を求めた結果、>>261さんが現れたという縁起の真理を深く噛み締めております。
いまだわかったようなわからないような事だらけでありますが、またここに近況や疑問を投げかけさせて頂く事も
あると思います。その節にはどうか再び教えを説いて頂けますと幸いです。本当にありがとうございました。 私は単なるあなたの旅の途中で出会った道案内の百姓のようなものです。
それは、「あ〜、そっちには底なし沼があるだべ」「お〜、そっちは来た道を戻るぞ」
「あそこに見える大きな山の方角がおめーさんの目的地の町の方角だべさ」
という風です。
あとは、その町につくには、あなたの足(正精進〜正思惟・正命・正業)、根気(正念/正定)と、
離欲(守戒ならびに正語、慈悲喜捨の捨)次第です。特にとりわけ「離欲」を最重視していいです。
「離欲」を無視しているが故の、日本の僧侶に解脱者を見ないわけなのだから。
縁がありましたら、またここでお会いしましょう。
GOOGLE検索▶ 「炎上 かずひさ」(笑)で、ここにこれますから。
*PS そうそう、誰かに何かを問われて、
あなたが「これはあの経典のあそこに書いてあった問題と同じだからこう答えればいい」、
となるようにまで経典を熟知されたら、そこから先は、私には用がなくなります。
そこまでいけば、あなたの内部に釈尊が常住するようになりますから、
即ち、そこからはブッダがあなたのグルになって、
あなたの起きている間中、サポートしてくれるようになります。
それだからご安心あれ(笑) もしも、あなたが、仏道修行者という道をこの人生に決めたならば、
もはや修行完成がままならなくとも、「もう、世間なみの幸せ」とやら、「還俗」する、
などということは出来なくなります。
娑婆に戻ったとしても、抜け殻のようには生きていけても、
何某の希望を抱いて生きることは不可能です(まじめに命がけで求道していたならば)。
そこで八方ふさがりになりますから、残る選択肢「自殺」位が残るでしょう。
その覚悟を考え、決心がついたら、仏道を行ってください。
決心がつかず、「駄目だったら降りればいいや」、の心、そんな安全装置は、
仏道という拳銃にはついていません。
そしてこのこと、道の選択のことは、一週間でも一ヶ月かかってもいいですから、
滅茶苦茶徹底的に吟味しておいてください。今ならまだ間に合うのですから。
では、涅槃で待っています(笑) 仏教詐欺師のかずひさのnoteってだれが買う?と不思議なのに、多くのuserが記事をこうにゅう(¥1000)していることになっている。
<仏弟子絶対の戒>
「仏の弟子たちは、私が説いた教説に関し、他人に説いた見返りに
金品を一切請求してはならない」人々が....と想ったら大間違い。
コイツ汚いわ汚すぎるわ。
なんとコイツアカを複数大量に取得して、ジサクジエンで「あたかも客が¥1000だしてカネ払ってよんでるかのように
細工しとる。」
つまり自桜酒法だ。多くの人が購入している記事だから安心と想ってカネ払うUSERを
釣る作戦だ。なんでわかったかというと、記事購入者のページには「何もかいていない」から。
こいつクズや。人間のクズで確信の詐欺師だ。
複数アカとって、自分で自分のマガジンを買う。その金は自分のものになるから、
損失はきわめて小さい。周囲には「おや、すごい有料記事人気だ」に「見える」。
だがさすがに架空のUSERの自己紹介やら趣味やら日記upなどまでには手がまわるはずがない。
だから、ただアカウントをとって自分のページを買わせる擬態アカウント。
つまりジサクジエンのサクラといったところ。
こいつキチガイ、金に関する執着が尋常じゃない。
気をつけよう、麻原のさらにはるか以下の仏教入門屋の屑かずひさを。 >>267
おい、貴様。スピの話題に「金稼げますよ」
って、気でも狂ったか? しかし、かずひさの動画見ると、動画によっては、素人が判別できないほどの、
超デタラメであるのであるが、ずいぶん前に自分が、「全くのありえないデタラメ」
を「これは完全だ」と思い込んだ時を思い出した。「野菜スープ健康法」の詐欺師の
著作がそれである。彼は逮捕され、その本の何もかも、有り得ないほどのデタラメだった、
と分かったけれども、当時、自分には、医学的知識がなかった(今も無い)。
つまり、対象の真偽判定は「常識」では、意外にもできない、ということである。
野菜スープ健康法の本のデタラメさを医師なら確実に判定できたのに、
医学的知識のない人には、まるっきし、「すげえ」「こんなことが」と信じてしまうことが
多々有り得る、と。しかも、医学的知識のない人にとっては、それが超デタラメなことであればあるほど、
「すごい」「この人は違う」となるだけで、デタラメさが凄すぎるほど、それに比例して、
信者を集めてしまう、といった奇跡が起こる。
そして通常人は「ここまでが嘘がツラツラと言える、書ける」人は、「まあいないだろう」
と考える、が、違うのである。
「まるっきし平気で平然と、とんでもない嘘を真顔で堂々と言える人」が世に、けっこう存在するのである。
古本屋にでも50円であったら、まあ買ってみてください、「野菜スープ健康法」やら、
「飲尿療法」とか(笑)。法の華でもいい。 とどのつまり、かずひさの経緯はこうである。
サラリーマン→脱サラしたい→ユチュバ収益で喰えるらしい→スピ、いやここはブッダでいこう、なんでもいい、
とにかくアクセス数を→解脱したブッダかずひさ論の展開→月10万円程度の収入(σ・∀・)σゲッチュ→脱サラ
→次はこの収入の維持のための活動並びに有料SNSなどでの活動展開→仏典に「為してはならない」と説かれていることを次々と為す、が、
素人目には「そもそも仏典」を知らないので、彼の虚言を判定するものさしが無い
→スッタモンダ→逮捕orニートorホームレス などへ転落→名乗ってはならない仏の名を自称罪によって
わりと「最悪レベルの報い」を受ける、生前中に地獄に落ち、死後身破れて後地獄に生を受ける。 >>270
なるほど、それはあるあるですわ。わかりやすい。 あっちのかずひさスレ埋まって、ここが避難所か。
昨日のライブかずひさは酷かったな。裸でタコ踊りより気持ち悪い弾き語りって凄いよな。 あ?悲しかったんか?寂しかったんか?会いたかったんか?痛かったんか?んで、それを誰にわかってもらおうとしてんだよ。まずは自分自身にわかってもらえや。自分がその感情をちゃんと感じて受け入れてあげなかったら誰にもわかってもらえねぇぞ。当たりめぇだろうが。まずは自分自身だっつったろ? 私だって当然に間違いや失敗はあるし、矛盾しているような言動もある。つい感情的になり良くない行動に走ることも。正義感という名の元に行動を起こしたとしても、良くないことは良くない。今回は怒り、恐怖、気付き、反省を存分に感じ、自分自身を見直すキッカケとなった。感謝致します。 >>277は立派な人間だが、
>>273は自らの情弱を告りながら、
5ちゃん特有の「どんな情弱であっても」、他人を叩くことができる手法を
使い、話の次元を変えることで自在に他人を叩ける。
そして人を叩く方法のみを身につけているだけなので、
他人を陥れる以外のまともな情報は発信することができない。 2名無しヒーリング2021/02/08(月) 00:51:34.94ID:0XHPX2Lb
あっこの人、金銭獲得目的の正真正銘な宗教詐欺師ですよ。
とくに金への執着がハンパない。
だまされないでください。麻原彰晃よりもたちが悪い 大サギシかずひさに。 かずひさと直接対話したくても、youtubeはコメント表示の非表示表示決定権を
動画UP者がセレクト決定する設定にしてあり、
note.comにおいても現金を払わなければ、かずひさにメッセージすら送れないことに加えて
仮にお金を払ってコメント可になるだけで、必ずしもコイツに質問しても解答しない可能性まである。
まあしかし普通に考えれば、これらは「詐欺の定石」であるわけで、
いかんともしがたい。
質疑応答を回避しつつ、現金をつかんで、逃げ回るコイツがブッダだというのならば、
オレは刺されてもいい。そのくらいコイツは単なる宗教詐欺師であることは「絶対的に」保証する。 サードアイ(眉間の第3の目)のでどころは、仏教に非ず。
多くはヨーガのアジナーチャクラあたりから起源している。
その証拠に仏は「サードアイ」などという語や概念を説かなかった。
修行中、目をつぶしてしまったアヌルッダに天眼が生じた、という簡易な記述であり、
他のどのような仏弟子にも、「サードアイ」的な超自然力を説かなかった。
サードアイを得で解脱、は有り得ない。
スピ系ゴッタ煮修行者がよろこんでしがみつく概念である。
実際に「天眼は眉間の間に存在しない」。仏教外道の説くところのサードアイは、
仏の説く、天眼を示す概念ではない。 詐欺師ぱっさんを叩いて、かずひさは、ぱっさんより高次元、と比較によるスリカエを止めよ。
オマエは自らを「ブッダ」と名乗る、仏が言うところの「史上地上における最大の犯罪者」というところに居る。
大詐欺師(大盗賊)かずひさに、欲の詐欺師ぱっさんを非難する資格は無い。
おまえと対話したいが、対話するには、それだけでお前は金銭を要求する。
お金に帰依したオマエに、仏教徒を名乗る資格さえない。 ネット上には詐欺案件ばかりで何も信用できないし、もう飽きたわ。
本物は全部無料提供だしね。
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https://drive.google.com/file/d/11UBT_wYwxhB_4V7bOF0dobO5y38Cs3p8/view?usp=drivesdk 理屈的には、ありうるならば本物は全部無料提供だが、おそらくネット上で、「ホンモノ」自体、無いのでは?
と最近は思っている。
無料提供でホンモノに似た情報を発信する人はいるもしれないが、それは多く「わたしのすごさをしってくれ」的な、
顕示欲によるものも多く、無償であっても、それが「正解」と安易に信じるのも、
キケンがある。
「オレ」のものは「オレ」のもの、「私が見出した真理」は「私が見出したもの」、といった、
私的所有の主張は、資本主義の基本であって、このオレオレ、私私、の社会において、
たとえ無償であっても、いったい、それがどの程度信用できるかは、疑問にも持っている。 私有財産制、私私、オレオレのもの、のこの現代資本主義において、
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は「無い」と思う。
「この情報を知ったものだけが、儲かる」、の主張はいかがわしい。
URL誘導も不自然な感じだ。
大金持ちが、その財産を、みなに配分する、ということはない。
それが私有財産制、「私的所有」前提の社会。競争の社会。
幸せになる方法を説くなら、わかるけれども、財の増加方法を説くならおかしなことになる。 財の増加と幸せは、別物であると考えた方がいい。
もしも、仏教が、宮殿や黄金や権力を全て捨てて、それよりも優れる幸福を得た元王子の
教えであり、それがじじつであるとするならば、そういうことになるはずだ。
その王子の月収は当時価格60マンどころじゃなかったわけだし。
この無一物の最大幸福に関し、それを説明し、その実践方法と、その可能を説明できる人が、
現代にいるのならば、その人は聖者であり、大賢者であり、彼に従うに値するのかもしれないが、
無論、彼が詐欺師か否かの断定的なことはいえない。 幸せを得た人ブッダは金をもつな、かせぐな、ためるな、と説く。
とするならばこの逆を説く一切の人物は似非であると疑ってよい。 あのー、「現代社会(資本民主主義)」って、逆ですから、「仏の教え」の。
ヘタに法を説いたりしても、通報されたり、どつかれたりします。
「現代社会(資本民主主義)」って、「儲かる」「得する」「カネ」...とか、方向が真逆。
だから、修行者のみなさんが「すごい真理」や「方法」や「仏法」を現にまのあたりにすごい苦労して、
発見しても、それを説いて「救済」とか、絶対やめといた方がよいし、その必要も、義理も無いです。
当時の仏教は修行者を養ったり、尊敬したりしていて、そこには「信」あり、「義理」あり、
説く意味アリ、義務あり、といえましょう。
しかし、今、「その必要は無い」です。
いきものにいつくしみの心を持っても、人間に、他人に、対し、それをもつ必要ないです。
現代人の多くは宗教に怪しげな目をむけても、それを尊んだりすることはあまりないです。
「儲かる」「得する」「カネ」教ですから。
そういうわけでよほどの人がよほどの真摯な質問を寄せてこない以上、自ら、「わざわざおしえてあげる」
ことはないです。 ぎゃくに、「救済」とかいって、手をあげるオッサンは「詐欺師」90%でいいんじゃないでしょうか。
すげー苦労して泣きながら修行して修学して守戒して得た「宝」を、どうして、
「儲かる」「得する」「カネ」の筋の類の他人に説く必要がありましょうか。
今現在、ほとんど、まともな仏教がでてこずに、新興宗教やいかがわしい大乗仏教、
宗教勧誘ノルマ教が溢れる理由は、実は、そーゆー理由かもしれません。
「ばかばかしいや」「仏法をわざわざ説くなんてちゃんちゃらおかしい」
とまともな修行者はおもうから「かもしれません」。 仏教ってある意味、欲にまみれた人にはムチャクチャ難解で意味がわかるわけないですから、
まともな修行者は、教えを習得しても、「説かない」、気がします。特に現代社会においては。
あるいは、過去においても、もうあるていどの歴史がたった時点で、
仏教は一般の人にほぼ通用しないものになってしまった、のかもしれません。
逆に、「これ説いたら、人や社会は混乱するのみ」、となって、そういう事情もあると想いますね。 「私が仏法を説けば多くの人に理解される」と想う修行者がおれば、それだけで「おかしい」です。
現代において、そう想う、想えるような人は、仏道修行者じゃないです。あるいは、仏教を理解していない人です。 あの釈迦牟尼仏様でさえ、しかもあの当時においてさえ仏法を得た真っ先には
「いやあ、これは説いても無駄でしょう。混乱しキチガイ扱いされるくらいがせきのやまだから
黙って置こう」と想った教えをですよ、この欲まみれの欲推奨現代社会で、
その智慧力、仏にはるかにもおよばない現代仏道修行者がですよ、「私が仏法を説けば多くの人に理解される」、
って「無いわ〜」、「有り得ない」。 「ユーチューバー月10万で脱サラ」≒悟り、のようにとんでもない「悟りの智慧の激安査定」を歌う某人は、
ただそれだけのことだけで、「何も知らない人」、と自称しているに等しいのに、
本人はそのことに全く気がついていない、ところが.....。
「違うんだって、この地球の全財を合わせても、まるっきし買えないレベルの価格なんだって」。
...と、このように知らぬ者は語れば語るほどに∞に証拠を出してくれる。
それは識別する側からは、都合の善い現象である。万円とか億円とか、誰でもわかる規定値をもってきてくれれば、
実にわかりやすい(笑)。 種が岩に落ちたり、砂に落ちたり、無花果の枯れたり、の
あの方法を使うと、分かる人、まじめな修行者にしか全く受け付けないので、好都合。
すると非想非非想という、ほとんど解説が無いか、都合よく妄想解説されている概念が、説明出来る。
そもそも釈迦牟尼仏さえ、解説していない、学者内では、アーラーラとウッダカ部位の経典箇所は、
虚偽とすら言われている箇所、それがさらに、「誰にも理解されずに現在まで引用されたままの箇所」、
を次のように、暗喩できる。
非想非非想=非非想非非非想=非非非想非非非非想....→
となると、これは意識の逆転現象と神通の領域、の話と分かる、が、
そもそも当時から、誰にも理解されずに都合で挿入された話だとすると、
納得できる。そしてまた、実はこれは、「現代人の方がラクに理解できる」概念である、と分かる。
、とこのように記述すれば、まるっきし表面上の人は意味不明であるが、まじめに取り組んでいる人には閃く。 これは普通の中道の修行者には「わからない」。
むしろ「苦行者」の容易にたどりつく(よく知っている)領域である。 できるだけ意味不明に解説することで、無駄を切り捨てて、求めている修行者のみに伝達できる、方法、が
選書暗喩法である。 このように経典初期から「現在まで」、説明の無い部位は、即ち、翻訳者や伝承者すら、
意味不明のまま、ただ写され続けた部分といえる。そしてまた釈迦牟尼仏さえ、
説いていない(後期挿入)可能性すらある。中村博士は、後期捏造説派らしい。 過去、この境が意識の最高境地と想われていたらしいが、ここには致命的な欠陥がある。
ここには「漏尽」が無い。この境は「漏れる」(木阿弥る)のである。
「漏れるなら」行の完成では有り得ない。
何度でも入れるけれども何度でも元にもどる。 https://breakingnews.is/review/2020/04/megurilab.php
この表題「ネオブッディズム」で既に壊れている。
完全なる「ブッディズム(仏教)」をなぜ変化させる必要があるのか?、というところである。
釈迦牟尼仏は、七不退法の中で、説かれている。
「既に完全なる法を改心して、旧きその完全なる起源法を新しく変化させたりすること、
がなければ、それは衰退しない、さもなくばそれは衰退する。」というところである。
つまり既に完成され完全なる人の教えは、「ネオナチ」などと異なり、
ネオブッディズムたりえない、というところである。
「変らなきゃ」とCMは、不完全なものだから、まだ変らなければならない、という話である。
ネオブッディズムは、その語源から既に仏を不完全と叫んでいることに他ならない。 翻訳の修正までである。いじってよいとするならば。
つまり、「バーン」と「新興仏教」とか、「大乗仏教」とか、
根源を歪める程度の修正は、仏教には有り得ない、のである。
完全なるものの改新は、改悪にとどまらず、そもそもの起源の否定につながってしまう。
それだからブッディズムはこの宇宙の終わりまで揺ぎ無くブッディズムである他は無いのである。 実は、これも既に、経典にあるのである。2500年前に説明されている。
つまり「カルマの法則」をどうのこうの論じる派があるけれども、
実はそのような人々は、一定の条件下では『「カルマの法則」をどうのこうの論じることができなくなる』
と。
この辺が仏教の、ブッダのもののすごいところで、2500年後にでてくる意見すら、
シナリオ通り想定内ですでに手を打ってある、ところである。
経典で言うと、阿含経典などの、
「ブッダどのよ、カルマの法則をどうのこうの説く人々がいるが彼らはどうか?」
に対する解答として、ブッダ曰く「カルマの法則をどうのこうの説く人々、
彼らは『触』が無い時に、カルマの法則を論じることができない」、即ち、
カルマの法則はこの一切世界を論じることは全く出来ない、手落ちの理屈である、と。
だからすごいなあ、と。この辺がすごいよ、ホント。 だから我々は誰か「カルマの法則」という語義を発してくれれば、
「ああ、この人の教えは釈迦牟尼仏に2500年前に排斥された論者である」、
と即答できてしまう。そこで論争するまでも無く、答えは分かってしまっている、という話になる。
その経典箇所を読む限り、「何でこんなことが書いてあるのか意味不明」だけれども、
目の前に「カルマの法則がどうのこうの....」と語りだす人が現れてはじめて「ああ、そういうことだったのか」
と後で気付く神秘である。 つまり仏の教えを習得するときに、この「カルマの法則」からも解脱(無効化)してしまうから、
その法則の意味がなくなる、つまり、その法則の話は諸君らが考えたり論じたりする必要は無い、
というのである。 しかも経典の中では、この話をサーリプッタが説いて、それを聞いて仏が、
サーリプッタの言う通りである、私もそう説いた、という形式にしてあり、
その記述式が実に生々しさを増している。
そういう訳で、緒の経典の中にしばしば「なんだこりゃ」という不可思議な論が繰り返しでてくるのであるが、
だいたい「後で分かる」、その読んだ時には意味不明、ということが実に多いのである。
多くは「諸君らの前にこれこれこういう人があらわれるだろうけれども、その時はこれがその解答となる」
というものである。
「きっと必ずでてくる輩」に対する対策と対処をあらかじめ教えているのである。
そしておそらくおよそ、考えられる「全ての排他の手筋」に対する手筋が全て記述されている、
と想ってよい、というか、「ああ、仏は全部了解しているのだ」という想いが読者を制圧するであろう。 .....などと、このように詐欺師をいじっても、ほぼ意味なく、時間の無駄ですが、
いじっているうちに、経典理解がすすんだりすることもままあります。 カルマの法則の話も、今日いじっていてはじめて意味が分かった、というところです(笑)。 ただし、「カルマの法則」に束縛されない条件として、
「修行者として精神の縁起現象の停止や自在」が具現化可能であること、
があげられますので、なんでもかんでもやみくもにその法則を退けても意味はありません。
たとえば在家信徒には「触が無い」の意味も、その具現化も意味がわからないので、
「カルマの法則」や、善因善果等々の、諸の因果律に縛されることは大有りです。
ここでは「仏道修行者にとってはその話は考える必要が無い」という意味です。 菩薩時代の仏が悪魔に対して返した見解が>308です。
経典でいうところの、
「悪魔よ、カルマの法則の話は私に説いても全くの無駄である。その話は、それを必要としている者に説け。」
という部分です。 他人を批判することで失われるのは自分の命であると知った。
某人が、たとえば詐欺だろうが、悪だろうが、その正と不正を不完全な人がああだのこうだのと論じて、
他人の牛を批評して、それがどうなろうか?
その作業で、その批評者は命を失うのみ。
他人の正も不正も、そのままにしておけ。
あるいは失われた命にも時にも悔いてさらに死ぬことはさらに愚かなることなり。
後悔して苦しむは、後悔するようなことをしてそのうえさらに後悔するようなことをする愚人に等しい。
なれば、我の為すべきは何ぞや?
同じ過ちを未来に捨てることと、そのための策を立てることなり。
死を呼ぶ戯れのサイトをアドオンによってアク禁にすべし。
そもそもネット上の書き込み、それ自体、こちらに問いがなければ、多く意味が無い。
やがて滅びて必ず死に殺されるこの有限を、悪戯に自死する愚か者よ。
すぐさまこの黄泉から立ち去れ。
悔いに伏してさらに死ぬことなく、残留に10倍を賭けよ。
。 OK
2日前、修行完成。
>>262
全問答える。聞け(笑)。 現代人が、否ほぼ仏滅後の経文修行者が、
心解脱を試みる場合に、必ずしも不要な経典。あるいは、一般的に大軽視されている経典、
「大パリニッパーナ経」が、慧解脱志願者に100%必要なKEY経典となる。
「大パリニッパーナ経」と重要経典との矛盾を全て解決するためには...、という風に
考えて行ずる時、それを悟れば修行者は仏道修行以来、はじめて無明を超える。 無論、仏の教えなど、仏滅後に、まず、誰もほぼ理解する人はいない。
けれども、死ぬほど学して、行じて、その本質のギリギリまでたどりついた人に、
上記「大パリニッパーナ経」ウンウンが来る。
だから、本論は、はなっからここの読者の99.999%には意味が無い話。 言っておきましょう。
あの〜、「最悪自殺してもいい」「いや、もう自殺したい」という人以外は、
仏教(仏道修行)なんてやめた方がいいですよ。
まず、人生を賭けて行じないと悟れる理由が無く、さらにそれでも99%以上の確率で悟れません。
その時は「自殺」するしかなくなります。
だから、仏教(仏道修行)なんて、すすめません、自分は。
仏滅後、解脱して大衆に布教するする人(仏弟子)がいたら、その人はそれこそが解脱していない証拠、という程度に、
今はそう思います。 自分?
もちろんこう言われたらこういい返しています。
「最近オレ仏教はじめたんだけど!」
「バカじゃないの?キモー宗教?ぜってーやめとけ、宗教は100%金儲けにきまってんの!!
仏教もキリスト教でもなんでも!」...って(笑)。 カルマの法則ってそもそもマヌ法典を根拠にしたバラモン教の哲学だからな
釈迦の教え、仏教ではないよ
梵我一如って仏教じゃないからな
漢字で書いてるからよく考えずに仏教だと思ってるんだろうけど 釈迦はバラモン教のカルマの法則の結果であるカーストも無視して
誰でも出家を許して最高カーストのバラモンとして扱ってる
さらにバラモン教では「人は死んだら輪廻転生する」という教えだが
釈迦の教えは「毒矢の例え」という説法で
「死んだ後の事なんか考えるやつはバカ」という感じのすごいバカにした説法をしているので
釈迦の教え、仏教では輪廻転生の教えだとかカルマがどうのとか
そういうのは一切無い ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています