第一次世界大戦について語るスレ 5 [無断転載禁止]©2ch.net
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1917. 11. 21
ネビ・サムウィルの戦闘
パレスチナ海岸地方をヤッファまで奪取したイギリス軍であったが、貧弱な補給線の
ためにそれ以上の前進は危ぶまれた。
ガザ前面まではエジプトからの鉄道が通じていたが、その先の補給路は砂漠の中の
小路で、ロバやラクダが頼りだった。
ヤッファの港は沖がかりで、はしけに積み替えて荷役するのは大変な手間であった。
エジプト遠征軍の大きな部分をなす乗馬歩兵には、かさばる馬糧の補給も必要で、
補給の負担は大きなものだった。
しかし、エジプト遠征軍司令官アレンビー将軍は、ここで一気にイェルサレムまでの
攻略を果たしてしまうつもりだった。
町を正面から攻撃するのではなく、遠巻きに包囲して、オスマン軍が補給の不足から
自発的にイェルサレムを放棄するのを期待する、という作戦である。
イギリス軍は攻撃に参加する部隊を絞り、イェルサレムにつながる道路の切断に
かかった。
イェルサレムから北に延びるナブルス街道の切断を担当したのはイギリス軍
第52師団であったが、その途上、イェルサレム近郊のネビ・サムウィル(サムエル廟)で
オスマン軍の陣地に前進を阻まれた。
オスマン軍の抵抗は強固で、さらに海岸線から内陸に延びるイギリス軍の北翼を
ねらってオスマン軍は襲撃を繰り返した。
戦闘は連日にわたり、両軍とも激しく消耗した。 1917. 11. 26
モンテ・グラッパの戦闘終結
イタリア戦線の突破を賭けて、オーストリア軍は山岳戦線のモンテ・グラッパ陣地の
奪取を試みた。未だ回復しない補給状態のため、比較的小規模な部隊で最大の効果を
挙げられる「戦線の鍵」を奪い取ろうという作戦であった。
11月13日、オーストリア軍とドイツ軍の山岳兵はイタリア軍の守るモンテ・グラッパの
攻撃にかかった。
しかしイタリア軍は頑強に抵抗し、ヴェルダンのフランス軍のように、敵の攻撃には
逆襲によって応じた。
エルヴィン・ロンメル中尉が属するヴュルテンベルク山岳兵大隊もこの攻撃に
加わっていたが、イタリア軍の逆襲を受けて退却せざるを得なかった。
26日、ついにドイツ・オーストリア軍は攻撃をあきらめてもとの陣地に戻った。
イタリア軍の退却はここで食い止められ、ヴェネツィアは救われたのである。 1917. 11. 29
イギリス空軍法、議会を通過
本土防空と前線支援、海軍航空隊の航空戦力を一元的に管理し、航空産業と結び
つけるための新たな軍種、「空軍」を設立するために、この日イギリス議会は「空軍法」を
可決した。
これは、王が陸海軍のほかに新たに「空軍」を組織する権限を認め、陸海の航空隊の
要員・装備・組織が「空軍」に移管されることを定めたものである。
これによって成立したイギリス王立空軍 Royal Air Force は、1918年4月1日をもって
正式に発足し、世界で初めての「独立空軍」となったのである。 1917. 11. 29
エルヴィン・ベーメ戦死
オスヴァルト・ベルケと空中衝突してベルケの死の原因となったエルヴィン・ベーメ
中尉にも、死神が忍び寄っていた。
「血の四月」前と夏に戦闘で負傷したため、親友のリヒトホーフェンには撃墜数で
大きく水をあけられていたベーメであるが、負傷から復帰すると撃墜数を伸ばし始めて
いた。
この日、イープル上空でイギリス軍のソッピース・キャメル戦闘機を撃墜した後、
ベーメはイギリス軍の写真偵察機編隊を発見した。
ベーメはその中のアームストロング・ホイットワースF.K.8複座機に狙いを定め、
後方から攻撃をしかけたが、イギリス機のパッテン操縦士(大尉)は急旋回でベーメを
かわし、ベーメ機はパッテン機の前に飛び出してしまった。
パッテンは機首機銃でベーメ機を撃ち、ベーメ機はタンクを撃ち抜かれて燃料が
流れ出した。そこへパッテン機の偵察員、レスター中尉の旋回機銃弾がさらに命中し、
ベーメ機は燃料に引火して火だるまとなった。
そのままベーメ機は墜落し、ベーメは戦死した。生涯撃墜数24機。
遺体はイギリス軍に確認され、その場で埋葬されたが、のちの地上戦闘でその跡は
今では不明になっている。 1917. 11〜
潜水艦戦の様相
船団護衛システムの完成によって、この月までにUボート作戦はほぼ制圧されたと
言ってよいだろう。
この月、Uボートによる損害は30万トンを切り、29万トンにとどまった。
これ以降、船舶損失が40万トン台に届くことはなかった。1918年4月からは30万トンにも
届かなくなった。
「大西洋の戦い」は、連合国護送船団の勝利に終わったのである。 ヨーロッパってそこら辺の土掘り起こしたら遺骨だらけなんかな… あんまり100年間手付かずの土地ってないだろうし、陣地戦続いてたから戦場清掃なり遺体回収なりはそれなりにこなせてたんじゃないかな・・・西部戦線は 1917. 12. 3
オーストリア軍、ピアヴェ川の橋頭堡を放棄
イタリア戦線には冬が到来し、同盟軍のこれ以上の前進は不可能であることが明らかに
なった。
同盟軍南西方面司令部は公式に攻勢の終結を宣言し、ピアヴェ川西岸の橋頭堡を
放棄して東岸の陣地を固めることを命じた。
イタリアの危機は終わったのである。 >>734
毒ガス汚染だったり戦死直後に陣地占領で死体処分されたりとかがあるから
身元不明遺骨だらけとは聞くし
実際独仏国境周辺は今でも立ち入り禁止、遺骨出まくりで開発制限の土地だらけやで あの国境沿いの戦線で10万単位の戦死、戦病死者が出ているからな
ベルダンの周囲だけでも砲撃の後の穴を臨時の埋葬地にして、さらにまた砲撃で穴があき、何処に遺骨が飛び散ったかわからないような区域が何ヵ所となくあるらしい 1917. 12. 4
ロシア軍と中央同盟軍の間で停戦合意
10月革命で政権を取ったボリシェヴィキは、即時和平を国内外に向けて主張していた。
ドイツはこれに同意し、この日東部戦線の一部で停戦が合意された。
翌日にはロシア戦線全域の停戦が合意され、8日にはボリシェヴィキの機関紙
「イズベスチヤ」は停戦の布告を掲載した。
両軍は合意に従い、7日には戦闘行為を停止した。
停戦に引き続き、正式な休戦交渉のために、独露両国の代表はブレスト・リトフスク市で
会談を行うこととなった。 フランスもチェルノブイリや福島どころじゃない範囲の超長期環境汚染地域を作られたら
そりゃ妥協なんでできないでしょうな
http://karapaia.com/archives/52193942.html >>740
二次大戦の時はこれらの地域はどうなってたんだろうね。
普通に看板無視して両軍走り回ってたの? 1917. 12. 6
フィンランド独立宣言
ロシア革命に伴い、ロシア皇帝の統治するフィンランド大公国は存立の基礎を失った。
1908年に設置されていたフィンランド議会は、10月革命を経てボリシェヴィキが実権を
握ったロシアから独立の同意を取り付け、12月4日に独立宣言書を起草して議会で
審議を行った。
そして6日、議会は正式に独立宣言を採択し、ここにフィンランドは独立国として
成立した。
しかし国内は、社会主義者・共和主義者・君主制主義者などが勢力争いを始めており、
フィンランドが確固とした独立を勝ち得るのはそれら勢力の内戦を経てからになる。 1917. 12. 6
ハリファックス大爆発事故
この日、カナダ大西洋岸の港町、ハリファックスで船団の集合待ちのために入港
してきた火薬運搬船「モンブラン」は、狭い水路でノルウェー船籍の貨物船「イモ」と
接触し、漏れ出した積み荷のベンゼンから発火した。
積み荷の危険を知っていた「モンブラン」の乗組員は一目散にボートで逃げ、船は
無人のまま埠頭に突っ込んでそこで爆発した。
2400トンに及ぶ火薬の爆発は、埠頭に集まっていた消防隊などの人々を巻き込み
ながら港町を破壊した。
船は粉々に破壊され、町は2キロ四方が瓦礫の山となった。さらに爆発が起こした
津波が沿岸の建物を押し流した。
被害は建物1万3000棟、死者2000人、負傷者9000人に及んだ。 1917. 12. 7
アメリカ戦艦戦隊、イギリス艦隊と合流
Uボートの猛威の前に、イギリス海軍は古い戦艦から乗組員を引き揚げて軽艦艇に
乗せ換えていたため、戦艦戦力に不足を感じるようになっていた。
これを補うために、4月に参戦したアメリカ海軍に戦艦派遣要請が出された。
アメリカ海軍はこれに応え、11月27日に戦艦「ニュー・ヨーク」、「デラウェア」、
「フロリダ」、「ワイオミング」がイギリスへ向けて出港した。
大西洋を東へ向かった4隻は、12月7日にスカパ・フローのグランド・フリートに
合流した。 1917. 12. 9
フォクシャーニ休戦協定
ロシアの戦線離脱によって、ルーマニアは孤立無援の状況となった。
やむなくこの日、ルーマニア軍は中央同盟国軍との間に休戦協定を結び、講和に
向けて交渉を始めることとなった。 1917. 12. 9
イェルサレム陥落
パレスチナ戦線の要、古都イェルサレムは徐々にイギリス軍の包囲に陥ろうとしていた。
オスマン軍はこの都に残しておく兵力の余裕はなかったし、イェルサレムの固守に
こだわって戦線が伸びてしまうのは、全体の兵力が劣勢な状況から見て得策では
なかった。
オスマン軍は、自軍の敢闘により撤退路が保たれているうちにイェルサレムを放棄
することを決断し、12月8日から撤収にかかった。
翌日、イェルサレムの市長フセイン・サリム・アルフセイニはイギリス軍に使者を送り、
イェルサレム市の無血開城を伝えた。
12月11日、イギリス軍のアレンビー将軍は公式にイェルサレムに入城した。古都の
聖域に敬意を表して、下馬しての入城だった。
ベエルシェバの戦闘からイェルサレムの開城まで、イギリス軍の被った損害は
1万8000あまり、対してオスマン軍の損害は2万5000に及び、さらに1万2000あまりが
各所で捕虜となった。
これにより、南パレスチナはイギリス軍の占領下となり、オスマン軍のバグダードへの
反撃は事実上非常に困難となった。
東部戦線の崩壊、西部戦線の膠着、イタリア戦線の大敗走によって陰鬱な空気が
漂っていた連合軍陣営にとって、この勝利は希望の光となった。
地中海沿岸は冬の雨季に入り、戦場にはしばしの平穏が訪れた。 1917. 12. 10
サロニカ戦線総司令官サレイユ将軍解任
サロニカ戦線の総司令官、フランス軍のサレイユ将軍は、中央では社会主義系の
政治家とかかわりが強かった。
新任の首相クレマンソーはこれを嫌い、サレイユを更迭してデスペレ将軍に変えようと
したが、参謀総長フォッシュ将軍は後任にギヨーマ将軍をあてた。
解任されたサレイユは軍務から引退し、故郷で隠棲することとなった。 1917. 12. 10
オーストリア海防戦艦「ヴィーン」撃沈さる
ピアヴェ川戦線の支援のためにトリエステまで前進してきていたオーストリア旧式
海防戦艦部隊に対し、イタリア海軍は小型舟艇による襲撃を企図した。
ルイジ・リッツォ少佐に率いられた「MAS」舟艇2隻は、12月9日の深夜にトリエステに
侵入し、防潜網をかいくぐって、オーストリア艦「ヴィーン」と「ブダペスト」に魚雷を発射した。
「ブダペスト」を狙った魚雷ははずれたが、「ヴィーン」は機関部に魚雷1発を受けて
大浸水を生じ、わずか5分で転覆沈没した。戦死者46名。
イタリア舟艇部隊は無事逃走し、リッツォ少佐はこの功績に対して黄金軍功章を
受章した。 WW1のドイツ軍はシェリーフェン・プランを捨てシェリーフェン・プランははロシア侵攻を偽装するためのブラフとし
兵力の動員の遅いロシア・東部戦線をオーストリアと協力し短期間のうちに突き崩し講和を取り付け
イギリスの参戦を出来得る限り遅らせその間にフランスを攻め落とすべきではなかっただろうか 緒戦で総攻撃してくるのがわかりきってる西部戦線側に主力を置かないという時点でシュリーフェンプラン以上にやばい賭けになる
西部戦線を強化しすぎると東部戦線は中途半端になるし
弱体にして西部戦線がフランス軍によって崩壊したら終わりだ 1916年まではブルシーロフ攻勢をかませるくらいにロシアも元気でしたからね。
そんなに一方的には勝てないと思いますよ。
オーストリア軍は頼りになりませんしね。 1917. 12. 12
ドイツ駆逐艦隊、イギリスのスカンジナヴィア船団を襲撃
10月の襲撃に引き続き、ドイツ海軍はイギリスとノルウェーを結ぶ船団の襲撃を
企図していた。
コルベ少佐率いる4隻の水雷艇(駆逐艦)はこの日、スコットランドからノルウェーに
向かう船団を捕捉することに成功した。護衛の駆逐艦「パートリッジ」は瞬時に撃沈され、
僚艦「ペリュー」は逃走した。残った護衛はトローラー型哨戒艇だけであり、ドイツ艦隊は
6隻からなる船団全部を撃沈して帰投した。
イギリス側の戦死者は100名、捕虜52名、商船乗員の捕獲者23名。ドイツ側は負傷
3名のみであった。 1917. 12. 14
フランス巡洋艦「シャトールノー」被雷沈没
フランスの旧式巡洋艦「シャトールノー」はギリシャ水域で兵員輸送艦として
使われていた。
この日、コリント湾を航行していた同艦は、ドイツの潜水艦「UC38」(艦長ハンス・
ヘルマン・ヴェントラント中尉)に発見され、午前6時47分に魚雷1本が命中して
航行不能となった。
護衛の駆逐艦の追撃をかわし、「UC38」は8時20分に再び雷撃を行って1本を
命中させ、「シャトールノー」は沈没した。戦死者300人あまり。
「UC38」は護衛の駆逐艦のさらなる攻撃を受けて浸水し、ヴェントラント中尉は
やむなく浮上して艦を放棄し、捕虜となった。 >>754
軽艦艇はがんばっていますね。
それから、1917年末はまだ第一次大戦「中期」だと思います。
まだ戦争は1年近く続くんですよ。
戦況を見ても、「末期」と言えるのは早く見積もっても1918年
秋からだと思います。 >>755
ろくな対潜兵器ないとはいえ、駆逐艦がいるのに一時間半も海域にとどまって攻撃続けるって、潜水艦の艦長とクルーの精神力すげーな 1917. 12. 15
モルダヴィア建国宣言
ロシア領ウクライナとルーマニアの国境のロシア側、ドニエストル川流域をベッサラビア
またはモルダヴィアという。
この地域の住民は2月革命後自治意識を強め、11月に議会を招集して、12月15日に
「モルダヴィア民主共和国」の成立を宣言した。
これはもともとはロシア臨時政府系のロシア連邦共和国に加盟するという意味合いの
ものであったが、10月革命とボリシェヴィキの政権奪取を経て、次第に隣国で民族的に
近いルーマニアとの合併に傾いていくことになる。 集英社漫画世界の歴史(古いほう)を読み返したけどレーニンの残虐な側面についてはほとんど触れられてなかった。
おかしくない? 激しい内戦時代でレーニンに敵対する陣営だけが虐殺されていたわけでもない事も考えて全体的に見るとレーニンが残虐だと言う評価は単純に不適当 つまりろくでなしの虐殺者しかいなかったという単純な事実
てか論点ずらしの詭弁としても761は出来が悪いな ほとんど罵詈雑言にしかなってなくてどこが問題なのか指摘できてないそのレスほど出来は悪くないよ 1917. 12. 17
ソヴィエト・ウクライナ戦争始まる
ウクライナは2月革命後自治政府を組織し、ロシアとの連邦制をめざして活動して
いたが、10月革命後はボリシェヴィキの暴力革命路線を批判し、モスクワとの反目が
深まっていた。
11月には自治政府は「ウクライナ人民共和国」の成立を宣言し、これは事実上の
独立宣言となって、英仏の承認を受けた。
これに対しボリシェヴィキ政権は武力によるウクライナ政府の転覆を決意し、東部・
都市部における蜂起とロシアからの鎮圧軍の派遣を行った。
12月17日、ボリシェヴィキ政権はウクライナ政府に対し敵対行動の中止と赤衛軍の
進駐を求める最後通牒を発し、ウクライナ政府は即日これを拒否した。
同日ウクライナ北部バハマチで赤衛軍とウクライナ軍の衝突が発生し、ここに
おいて両者は本格的な戦争に突入した。 漫画世界の歴史はむしろロシア革命で人口が激減した事実にノータッチなのが問題なんじゃない 前後に二回の世界大戦があるから、そのどちらかのせいにしとけば問題茄子
農業集団化も粛清も人口の減少理由ではありません 1917. 12. 20
ヤッファの戦闘
11月16日に英軍の手に落ちたヤッファの港であったが、オスマン軍の陣地はまだ町の
近くにあって、港は敵砲兵の射程内であった。
これを排除して港を使用可能にすべく、町の北を区切っているナハル・エル・アウヤ
(アウユ川)を渡河してオスマン軍を駆逐する作戦が企画された。
歩兵3個師団が攻勢を担当することとなり、第52師団は20日深夜の夜陰に乗じて
アウユ川河口から1マイル上流の地点をボートで渡った。渡河は奇襲となり、21日
午前までに渡河堡が確保された。
工兵が浮橋を急造すると騎馬部隊・砲兵部隊が渡河し、オスマン軍はその戦力に
圧倒されて北へ退却した。
かくしてヤッファはイギリス軍の手に確固として保持されることとなり、その後の
戦闘において補給拠点として機能することができたのである。 第1次大戦中に謎の失踪、豪潜水艦第1号 100年経てついに発見
ttp://www.afpbb.com/articles/-/3156201?cx_position=27 ソ連の体制の前駆はWWI前の帝政ロシアの無理やり体制維持のための政策が大元だし
政治将校もスパイ制度も大体ソ連前には原型がある ロマノフ王朝もハプスブルク王朝も密偵、密告制度が充実?していた。
国民の支持、それ以上に国民のまとまりについて自信が無かった。 西側から民主主義とか議会制度とか福祉とかそういう新思想が流れてきたら
皇帝一家と貴族だけが特権的に国家リソース独占してることが
国際競争にとっての癌だとみんなわかってたからなあ
そういうのを黙らせるためにスパイ制度整備したけど
歪んだ体制までは直せなかったという 1917. 12. 26
赤衛軍ハリコフを占領
独立を宣言したウクライナに侵攻したロシア赤衛軍は、ボリシェヴィキ派の多い東部
ウクライナに侵攻し、この日東部ウクライナの中心都市であるハリコフを占領した。
軍の統制という面で、赤衛軍はウクライナ軍に勝っており、ウクライナ軍は防戦
一方であった。 1917. 12. 26
イギリス海軍本部長ジェリコー提督更迭
ジュットランドでイギリス大艦隊を率いたジェリコーは海軍本部長を務めていたが、
その消極的姿勢はロイド・ジョージ首相の不興を買っていた。また、海軍大臣を務めて
いるロイド・ジョージの懐刀、エリック・ゲッデスとも個人的にそりが合わなかった。
ロイド・ジョージは、12日のスカンジナヴィア船団壊滅を口実にジェリコーを辞任させる
ことに決め、クリスマス前にゲッデスは書面をもってジェリコーに辞任を求めた。
ジェリコーはクリスマス明けの26日にこれを受け入れ、辞任した。後任はゲッデスの
肝煎りで本部長補佐を務めていたウィームズ提督が就任した。
長年の海軍への奉職に対し、ジェリコーは翌年春に子爵位を授けられた。
(Geddes と Wemyss の読み方はこれでいいのかちょっと不安。) 1917. 12. 27
オスマン軍イェルサレム周辺で反撃
イェルサレムから撤退したオスマン軍であったが、砲兵はまだ市内を射程内におさめて
いた。また、イギリス軍がイェルサレムから北上するための道路もしっかり保持していた。
イギリス軍はこれらの脅威を除去するために攻勢を企図していたが、オスマン軍は
機先を制して逆襲に転じた。
しかしイギリス軍は速やかに防御を固めてオスマン軍を撃退し、余勢を駆って再反撃に
出た。
4日間の戦闘で、イギリス軍はイェルサレム付近の重要拠点を奪取し、この都を安全に
するとともに、北上して攻勢に出るための足がかりを得ることに成功した。 >>755
シャトールノー…?
リシュアンドブレー?
アルベールドモルセール? >>775
「モンテ・クリスト伯」の登場人物は de Chateau-Renaud
巡洋艦の方は de Chateaurenault
なので、残念ながら別人ですね。 1918. 1. 4.
列強のフィンランド独立承認
前年の11月15日に独立を宣言したフィンランドに対し、この日ボリシェヴィキ・ロシアと
フランス・スウェーデン・ドイツが承認を行った。 1918. 1. 5
ラトヴィアの独立通告
この日、ロシア制憲議会に議席を持っていたラトヴィア代表のゴルドマニスは、
ラトヴィアのロシアからの分離を通告した。
実際のところラトヴィア国内は、親独派・共和派・共産主義者のブロックに分裂して
おり、国土はドイツの占領下にあったため、この通告は実質的なものとは言い難いが、
一応の国家の起点の目安としては考えることができる。 1918. 1. 5
ロイド・ジョージ、イギリスの戦争目的について演説
この日イギリス首相ロイド・ジョージは、前年にアメリカのウィルソン大統領から提示
された問いに対する答えとして、イギリスの戦争目的についての演説を行った。
その中でロイド・ジョージは、イギリスの戦争目的について次のような項目をあげた。
・ドイツの破壊や滅亡を求めるものではない。
・同じくオーストリア・ハンガリーの破壊を求めるものではないが、帝国領内の諸民族の
権利は認められるべきである。
・オスマン帝国は諸民族の自決権のもとに分割されるべきである。黒海と地中海の間の
海峡は国際管理に移されるべきである。
・ベルギーやセルビアなど、戦争によって征服された国は復活すべきである。
・ポーランドの独立を認めなければならない。
・アルザス・ロレーヌはフランスに返還されるべきである。
・ロシアの将来についてイギリスは干渉する意図はない。
・講和会議においては、ドイツの植民地の帰属とドイツ潜水艦による被害(の補償)に
ついて話し合われねばならない。
これらの宣言は、残念ながら3日後のウィルソンの演説の陰に隠れて、さほどの
反響を呼ぶことはなかった。 >>779
トルコには厳しいね
オーストリーに対するのと態度がだいぶ違うが、結果は似たようなものか…? 分割を条件としたオスマン帝国と違い、二重帝国はその存続が条件としているが、結局は自壊してしまったことにより同じ結果となった ま〜トルコは、これまでさんざん英仏援護してきたのに枢軸に走ったからな
まさに煮え湯を飲まされた思いだったろう
トルコにすりゃロシアとなんかくめるか、ってのはおいといてw
戦争とは別に、革命で国家崩壊まっしぐらだったしね
帝国の解体と再分配は必至ではあった これ以前はゴタゴタしてなかったと思ってるならそうとうな無知だな 輪をかけて悪いことに、帝国解体後英仏は分割しといて中東への関心失くすんだよなw
戦後部族間抗争でなんやかんやあるんだがそれにほぼ無介入
サウジの王族のサウード家はこの時の成り上がり
当時はまだ石油が発見されてないし、どっちも復興や東欧問題で中東どころじゃなかった
軍と外務省系の情報機関での意見の不一致や対立もあったそうだし 元々ゴタゴタしていた地域だけど、ブリカスの三枚舌外交は非難されて当然だろうね。
悪質な詐欺の類だろう、これ。
国際法上、イスラエル人(ユダヤ人)とパレスチナ人、正統性はどちらなんだか 1918. 1. 8
ウィルソンの14ヶ条
この日、アメリカ大統領ウィルソンは、議会上下両院合同会議の席上で、大戦の収拾に
ついて14ヶ条の原則を提示した。
大ざっぱに言うと、国際秩序の回復と諸国間の協議機関(国際連盟)の設立、中央同盟
諸国内での民族自決に基づく諸民族の独立、アルザス・ロレーヌのフランスへの返還
などがその内容であった。
この宣言は中央同盟国にも広く伝わり、特にドイツにおいては、それがドイツの破壊や
分割を求めるものではなかったため、和平推進派のよりどころとなった。
ウィルソンの14ヶ条のほとんどの条項は、のちの休戦協定やヴェルサイユ講和条約に
おいて実現している。
しかしウィルソンが言わなかったこと、すなわちドイツの賠償問題が、講和条約において
決定されるに至って、ドイツ人は裏切られたという気持ちを強く持つことになる。しかし、
それはのちの話である。
戦争はなお続くのであった。 カイザー攻勢もシュリーフェンプランもだが、パリ陥せばドイツ勝利なのか?
開戦劈頭では英露が戦争を投げ出すとは思えない
カイザー攻勢時も米軍が来ているのに、パリ失陥で仏が戦争を投げ出すとは思えない 開戦後すぐにパリが陥落すればドイツは普仏戦争のときのように勝てると思っていたんじゃないかな
シュリーフェン・プランが成功していたら塹壕戦になる前に機動戦でフランス軍とBEFに大打撃を与えられた可能性はあると思う
カイザー攻勢のときにまでなったらパリを陥落させても戦争は続くよね パリじたいはどうでもよかったっていうか、パリを大きく越えるほど右翼が大回りすることで無駄に攻めてくるはずのフランス野戦軍を背後から包囲、殲滅するってのが元々のシュリーフェンプランの目標だな ドイツに多少とも勝機があるのはやはり短期決戦か?(参謀本部の見立て通りだけど)
タンネンベルクでも史実通り勝っていれば、ドイツの立ち位置は三帝会戦に勝ったナポレオンの様なものになるから、長期戦をせずに有利な講話に持ち込めば、とは思う
しかし、ドイツを指導しているのはビスマルクではなく、カイゼルとベートマン、小モルトケ
気が大きくなって、英露がとても呑めない要求を出す→元の木阿弥になったりしてな 同盟国側、協商国側両方とも短期決戦しか考えていなかったと思うよ
マルヌの会戦でドイツ軍が敗北して進撃が止まってしまったあとのことはドイツ軍参謀本部は考えてなかったんじゃないかな
塹壕を掘って対峙して長期戦になったあとは両軍共に決定打と言える戦術がなくなってしまったし 一方起こりうる事柄を全て書き出して対策を練る米海軍方式 初めてあの渦巻きみたいな攻勢図を見た時の衝撃はもうね
これを実行する人居るのかと 大迂回機動による大包囲でしょ 近代ドイツの基本ドクトリン
成功させる作戦に余裕が無い上、補給に対して楽観的過ぎるから毎回グダグダのやつ
軍団規模での小包囲を繰り返すソ連式の方が遥かに単純で現実的 兵からすりゃ1000km以上連続で歩くだけでもたまらんよな
ぜったい右翼軍に配置されたくないw 単純比較は出来ないが、日本で例えると薩長軍が江戸に進軍する位の距離かな
鉄道も錦の御旗wも無ければ、時間も道も物資も厳しいわな >>790
独仏戦においてパリ落としてフランスという国家を消滅させれば
戦争が終わるというのが甘い考えたというのはのは
幼女戦記にしろ現実のナチスドイツにしろ常識なんだけど
ドイツの軍部は軍事的なところしか見ない、
政治や国民国家や民族感情を丸っと無視するのはどうしてだろう >>805
目標はパリじゃなくてあくまで野戦軍の包囲殲滅
あといろんな考え方あるけど、軍は純粋に軍事のことだけ考えて政治のことは気にするなってのも一つの見識だと思うよ >>806
問題は軍部が君主抑えて政治外交が動く余地がなくなったことなんだと思うんだな ルーデンドルフがドイツ帝国のガンだったな
政治が戦争指導の手段とするルーデンドルフの思想がいけなかった 別宮が戦勝の数日後に帝国主義を否定したケマルを大絶賛してた
戦勝すれば戦争に溺れてしまうのが国家 ルーデンドルフの軍人の政治への介入から軍部独裁への道を見て大日本帝国陸軍の若手将校は真似をしたのかな? 陸軍人が真に真似したかったのは戦時社会主義であり軍部独裁ではなさそう >>814
ってか本人が売り込みまくってた問題
実のところルーデンドルフ独裁って戦争裁判の訴追対象だったわけだし 負けた国のやり方真似したがるってのが既にヤバいセンス 戦前の日本では歴史は必然的に展開するという価値観があった
新しい思想である社会主義は国家の必然的な進化系と見なされ賛同する人が多かった ルーデンドルフ、銀河英雄伝説に出てきそうな名前だな。 >>818
そもそも日本は資本主義すら新参者だったから既得権者の力がそこまで強くなく
社会主義へのシンパシーは上から下まである。雲霞のように嫌ってたのは財閥当主とか企業上層部くらい 1918. 1. 12
日本軍艦、ウラジオストクに入港
ロシア革命に伴う各地方の政情不安は、極東にも及んでいた。
すでに前年末には各国の領事館から、居留民保護のために軍艦を派遣してほしい、
という要請が本国に出されていた。
日本は当初反応が鈍かったが、米英が軍艦を派遣するという動きを見せたため、
対抗上急遽艦隊派遣を決し、この日戦艦「石見」(旧ロシア戦艦「オリョール」)が
ウラジオストクに入港した。
その2日後、イギリスの巡洋艦「サフォーク」が入港、次第に各国の軍艦が集まり、
湾内は外交的思惑の渦巻く場となった。 日本はナチスやソ連の経済統制や独裁に憧れてたから、一概に敗戦国とかじゃないと思う
ただ、日本には独裁者が居ないからなかなか決定できずに官僚が好き放題やってグダグダになる
そのくせ、粛清や暗殺はしっかりやってて、226や515もだが永田鉄山殺したのが致命的 1918. 1 .14
ボリシェヴィキ、キシニョフを占領
休戦に伴ってルーマニア戦線から撤収するロシア軍の部隊は、モルダヴィアの首府
キシニョフを通過することになった。
これを見たモルダヴィアのボリシェヴィキは、ロシア軍ソヴィエト(兵士委員会)と
交渉して、ロシア軍によるキシニョフ占領とボリシェヴィキによる革命政府樹立を試みた。
モルダヴィア民主共和国政府はこれに対抗する兵力を持たなかったため、ルーマニアに
援助を求めた。
ルーマニア軍はただちに越境し、16日にはボリシェヴィキを一掃してキシニョフを占領した。 >>824
戦時中の総力戦をやるために岸信介などの革新官僚が官僚のよる統制を始めたんだよね。
それを戦後復興、高度成長もその体制でやってきて今もそのまま。
政治自民党、行政官僚、企業経済界がグルになって国民に特定のことをやらせる。
これは共産党の命令で行政機関が国民にやらせる社会主義国のやり方と同じ。
特に分かりやすい例が国民の人生設計は新卒終身雇用の夫の収入で妻が子育て大前提。
新卒就職失敗で非正規ワープア、離婚シングルマザーが貧困、正社員が過労死でも自己責任! マット・リドレーの言う通りトップダウンの社会設計は必ず問題が出る 日本がインチキなのは政府サイドに都合がいい時だけ社会主義なところ。
タテマエが資本主義なため新卒就職失敗が致命傷になっても自己責任にされてしまう。
社会主義国ならその前提になる仕事を保証してくれる。 >>829
与えられた仕事を拒否したら強制収容所送りだけどねw 新卒しか取らないのって才能ある人材が埋もれるリスクのほうが大きいような・・・ 新卒一律採用の利点は、中途採用優遇処置を悪用する、声のデカい輩の数を抑制できること
外国人を差別するな、(自称)弱者は優遇しろとかな
性善説を排除した立法が確立するまでは慎重にならんと事業が壊れるリスクがある
あとさ、スレタイに戻れ 1918. 1. 18
ロシア制憲議会解散
この日、前年の選挙によって選ばれた議員によるロシア制憲議会が開催されたが、
社会革命党(エスエル)が多数を占める議会はボリシェヴィキの政権とソヴィエトの
権力を認めなかったため、翌日にボリシェヴィキの率いる軍隊によって解散させられた。 >>831
新卒至上主義をやってる会社があることは問題じゃない。
多くの企業が右ならえでやってる、且つ政府がそれ前提の社会制度を設計するから悪質。
右ならえでやることにより中途退職する人間は問答無用で訳ありのゴミ扱いで不採用の対象にできる。
だから過労死やブラック企業が問題になる。
新卒終身雇用をやめたら再就職がやりやすくなり、ブラック企業からはまともな人間は逃げるため自滅してくれる。 1918. 1. 20
インブロス島沖海戦
ダーダネルス海峡の出口を抑えるインブロス島には、イギリス軍の艦隊と航空隊が
配備され、海峡を封鎖するとともに、イスタンブールなどにたびたび空襲を加えていた。
これを攻撃すべく、オスマン海軍は、ドイツから乗組員ごと供与された巡洋戦艦
「ヤヴズ・スルタン・セリム(ゲーベン)」と軽巡「ミディリ(ブレスラウ)」をもって襲撃を
加えた。
護衛戦力の旧式戦艦の留守を狙って行われた襲撃は成功し、イギリス軍は
モニターの「ラグラン」と「M28」を撃沈されたが、オスマン艦隊も触雷で「ミディリ」が
沈み、「ヤヴズ」も機雷を踏んで行動不能となった。
イギリス航空隊は「ヤヴズ」に激しい空襲を加えたが撃沈には及ばず、「ヤヴズ」は
1月26日に戦艦「トゥルグット・レイス」に曳航されて帰還した。
この襲撃による戦死者はオスマン艦隊の方が多く、また、「ヤヴズ」が行動不能に
なったことはイギリス軍にも知れ渡ったため、イギリス軍の封鎖部隊への脅威は
大幅に下がった。戦略的にはイギリス軍有利な結果だったといえよう。 >>835
スレチだが
日清の黄海での「松島」の損害を見ると、舷側炭庫の防御力と防御甲板がなかったら
沈没していた可能性が高い。
大口径砲弾の炸裂に対しては一定の防御力があったとみなすべきではないかな。 1918. 1. 24
ウィルソンの14ヶ条に対するドイツ宰相の返答演説
ウィルソンの14ヶ条発表を受け、この日ドイツ宰相ヘルトリング伯は帝国議会において
返答演説を行った。
これは14ヶ条のうちドイツに直接関係する10ヶ条について答えたもので、基本的には
ウィルソンに同意する点が多かったが、エルザスを含むドイツ領の一体性の保障、
ロシア問題に関しての西側列強の介入の拒否などの点でなお隔たりのあるものであった。 1918. 1. 24
モルダヴィア(ベッサラビア)、ロシアからの独立を宣言
ルーマニア軍の介入によりキシニョフを回復したモルダヴィア政府は、この日正式に
ロシアからの離脱・独立を宣言した。
これはその後のルーマニアとの合邦をめざすものであった。 1918. 1. 28
トロツキーの「戦争でも講和でもない」宣言
ブレストでの独露講和交渉は難航していた。ドイツ側はこの年までの占領地の割譲を
要求し、ロシア側は容易にそれを呑むことはできなかった。
苦慮したロシア側代表団長のレオン・トロツキーは、この日、ロシアは「戦争でも講和でも
ない」状態にある、と宣言し、一方的に戦争から離脱しようとした。
トロツキーは、いずれドイツでも革命が起こって戦争を続けられなくなるだろう、と予測
していたのだが、彼にとって残念ながらその時期はまだ先のことであった。
当然ながらこの声明はドイツ側には受け入れられるものではなく、ドイツ軍は戦争の
再開を企図することとなる。 1918. 1 .28
フィンランド内戦勃発
前年暮れに独立を宣言したフィンランドでは、社会主義者と国家主義者が対立していた。
国家主義者側は暫定政府において自派の武装勢力を「国軍」に位置づけ、ロシア軍で
中将を務めたカール・マンネルヘイム将軍を司令官とした。(以降この勢力を「白軍」と
記述する)
これに反発した社会主義者は赤衛軍を組織し、都市部での蜂起を企図した。社会
主義者は都市労働者に基盤を置いていたからである。
1月27日の夜、赤衛軍は首都ヘルシンキにおいて一斉蜂起し、南部フィンランドを
支配下に置いた。内戦の勃発である。
暫定政府は白軍とともにバルト海岸中部のヴァーサへ移った。白軍は沿岸に駐屯
していたロシア軍部隊を武装解除して装備を整え、国内は南北に赤軍と白軍が
対峙する情勢となった。 1918. 1. 29
ボリシェヴィキのキエフ蜂起
ロシア赤衛軍のウクライナ侵攻に呼応して、この日ボリシェヴィキ派の労働者は
キエフ兵器廠において蜂起した。
ウクライナ政府軍はただちにこれを弾圧し、6日間の市街戦の末これを鎮圧した。
しかしその間に赤衛軍はキエフに迫っており、蜂起軍は十分にその任務を果たしたと
言える。 1918. 1. 29
「ダンスターフォース」出撃
旧ロシア領バクーの油田は、ロシア革命の結果、力の真空に陥ろうとしていた。
これがオスマン軍やドイツ軍の手に落ちないようにするため、イギリス軍は
「秘密部隊」をバクーへ向けて派遣した。
450人の将校と下士官からなる特殊部隊は、イギリス・インド陸軍のダンスターヴィル
少将によって編成され、自動車によって機動すべく装備されていた。名付けて
「ダンスターフォース」。
ダンスターフォースは1月29日にバグダードを出発し、主にペルシャ領を経由して、
カフカス山脈を越える道へと乗り出した。
その前途はまだだれにもわからなかった。 ピーター・ジャクソン、第一次世界大戦当時の映像を修復し3D映画化!
https://news.walkerplus.com/article/135234/
> 「ロード・オブ・ザ・リング」「ホビット」シリーズなどで知られる映画監督ピーター・ジャクソンが、今年で
>終戦100周年になる第一次世界大戦の長編ドキュメンタリーを監督、製作している。
> この映画は、終戦記念アート・プログラム「14-18 NOW」の一部として、ロンドンの帝国戦争博物館の
>協力のもと製作が進められている。監督はおよそ100年も経つ歴史映像を掘り起こし、最新技術によって
>当時の荒い映像を滑らかでシャープな映像に補修。手作業でカラー化したそうだ。そしてなんとこの映画は
>3D作品に仕上げられると、BBC Newsが報じている。
> 同作は今年のロンドン映画祭でのワールドプレミア後、終戦日である11月11日(現地)にイギリスのテレビ
>局BBC1で放送される予定。 1918. 2. 9
赤衛軍、キエフを占領
独立ウクライナの首都キエフは、この日ムラヴィヨフの率いる赤衛軍に占領された。
ウクライナ政府は西部ジトミルに退却した。 1918. 2. 9
ウクライナ政府、中央同盟国と講和
赤衛軍の侵攻によって首都キエフを失った独立ウクライナ政府は、この日ドイツを
はじめとする中央同盟国と単独講和を行った。
ブレスト・リトフスク市で結ばれた講和条約は、ドイツにおいては「ブロートフリーデン
(パンの講和)」と呼ばれ、ウクライナからドイツへ大量の食糧援助を行うかわりに、
ドイツ軍による進駐――実質的にはドイツ軍による赤衛軍の駆逐――を認めるもので
あった。
ロシア国内における一種の内戦であったソヴィエト・ウクライナ戦争は、これによって
中央同盟国を巻き込んだ国際紛争に発展したのである。 1918. 2. 10
東部戦線の休戦破れる
ブレストでのロシアと中央同盟国の講和会議は難航していた。交渉の先行きに希望を
失いつつあったロシア側代表のトロツキーは、先に「戦争でも講和でもない」宣言を
行ったが、これを交渉決裂とみなしたドイツ側は、この日休戦協定を無効として、
東部戦線全域にわたって前進を開始した。
これに対抗すべきロシア軍はすでに戦意を完全に失っており、ドイツ軍はほとんど
抵抗を受けずに東へ進撃することとなった。 かつてどこかのサイトで資源産出量、鉄道キロ数、溶鉱炉の数などの各国の国力を見たけど
えっ?イタリアってこんなに国力低いの?
欧州列強の一角のはずが英独仏に遠く及ばず。
日本は日露戦争の頃はトルコ以下、第一次世界大戦でも二重帝国やイタリア以下だけど。 >>850
イタリアの評価には常に歴史補正がかかってるんだよ
しかも、ローマ帝国補正とルネッサンス補正で二重にw
近代国家としての実力はまあ…
ロシア/ソ連や中国に常に実際にはほとんど役に立たない領土面積補正がかかってるみたいに >>850
そのイタリアでも一億発の砲弾生産してる。
一次大戦当時は日本よりはるかに上 1918. 2. 15
ドイツ水雷戦隊のドーヴァー海峡襲撃
この日、ドイツ海軍海峡戦隊の水雷艇部隊は、ドーヴァー海峡の防備にあたるイギリスの
ドリフター部隊を襲撃し、7隻を撃沈して去った。 1918. 2. 18
ロバートソン参謀総長更迭
イギリス陸軍参謀総長のロバートソン大将は西部戦線一点重視戦略を取り、多くの
戦線から中央同盟軍の消耗を誘おうというロイド・ジョージ首相の戦略と激しく対立
していた。
両者の間では政治的に暗闘が繰り返されていたが、この日ついにロイド・ジョージが
勝利し、ロバートソンは更迭されて東部軍管区司令官のヘンリー・ウィルソン大将が
後任となった。ロバートソンは入れ替わりで東部軍管区司令官となった。 欧州大戦って名前変えたほうが良いわ
どこか世界なんだって 世界=欧州って言っても大きく外してない時代だからなぁ 間接的にでも世界中の全ての人間が無関係ではいられなかったほどの規模の戦争って意味で世界大戦なんだよ
中立国でも世界中の国が軍需物資の生産とかあるいは石炭や食料や衣服だとしても普段とは違う輸出入状態になったし 元々は欧州大戦って呼ばれてたけど、アフリカ、中東、東アジア、南洋諸島と戦闘が拡大して参戦国が増え、アメリカの参戦がきっかけで世界大戦って呼ばれるようになった ドイツでは最初から世界大戦って呼称してたって話もあったような ドイツは「世界をとる戦」っていうウィリーの覇権獲得の気合いwが込められた呼称って話だな
アメリカは参戦後に当事者意識高める一種のプロパガンダとして「欧州戦争」から「世界戦争」に呼称変更
イギリス、フランスは「大戦争」がメジャーだったけど、戦後しばらくして振り返って「世界戦争」になった感じ
ま、アメリカの影響が色んな意味で強くなったことの反映だろうね
日本の「世界大戦」ってのは間とった感じでけっこう珍しい 1918. 2. 21
イェリコ陥落
パレスチナ戦線において、イェルサレムを奪取したイギリス軍は右翼においてさらなる
攻撃を企図した。
これは戦線をヨルダン川方面に広げることによってオスマン軍の負担を大きくすると
ともに、死海に到達することによって後方連絡線の援護にこの湖を利用しようとする
ものであった。
2月14日にイェルサレム付近の陣地から前進を開始したイギリス軍は、ユデア丘陵に
陣地を構えるオスマン軍をゆっくりと排除し、同時に南翼から騎乗歩兵を侵入させた。
騎乗歩兵の迂回はオスマン軍を効果的に牽制し、21日にはユデア丘陵から
ヨルダン河谷に出る道を抑えるイェリコの町の守備隊は撤退して、町はイギリス軍の
手に落ちた。
しかしヨルダン川西岸には砲兵を含む有力なオスマン軍部隊が残り、ヨルダン河谷の
支配権はいまだどちらに帰すとも定まらない情勢であった。 ユニークで個性的なパソコン一台でお金持ちになれるやり方
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TXLRX 色々出てるのを読むと既に当時のイギリスは、調停能力もないほど影響が低下してたと
いうが、第一次大戦の前だから疲弊はしてないだろうに。 ゴミみたいな陸軍しか持ってない時点で大国レベルになると英国から脅された所であまり気にならないだろうし >>864
一方ドイツは、いまの中国みたいな状態だったわけで
なに言ったって聞きゃあしねえw
それと、孤立主義下で世界中の貿易拠点の維持続けて、制度疲労の兆候ははっきりでてたよ 1918. 2. 23
赤衛軍、ロストフを占領
もとロシア軍大本営幕僚長のアレクセイエフ将軍は、10月革命後にドン川河口に近い
ノヴォチェルカスクに逃れ、コサックのカレージン将軍と協力して反ボリシェヴィキ闘争を
呼号した。
アレクセイエフのもとにはコルニーロフ将軍も合流し、アレクセイエフを軍政長官に、
コルニーロフを軍司令官にした反革命軍が組織された。
これに対しボリシェヴィキ政権は1918年初頭から討伐軍を送り込み、この日ロストフを
占領してドン川流域を制圧した。
反革命軍は黒海岸のクバン地方にまで撤退した。 1918. 2. 24
エストニア独立宣言
ロシアとの講和会議の一時的な停止と、それに引き続くドイツ軍の攻勢再開によって、
バルト海岸はドイツ軍の占領下に入ろうとしていた。
エストニア西部に樹立された民族主義者の団体、エストニア解放委員会は、この日
ドイツ軍とともにエストニア最大の都市タリン(レヴァル)に入り、エストニアは独立した
民主的な国家であることを宣言した。
ドイツ軍は28日までにナルヴァまで前進し、エストニアのほぼ全土を占領下に置いた。 1918. 2. 24
仮装巡洋艦「ヴォルフ」、ドイツに帰還
1916年11月30日にキールを出撃したドイツ仮装巡洋艦「ヴォルフ」(艦長カール・
アウグスト・ネルガー中佐)は、インド洋から南西太平洋を股にかけ、451日にわたる
通商破壊行動を行ってこの日無事ドイツに帰還した。
その間に直接捕獲・撃沈した敵船は14隻、機雷によって沈めた船は13隻。
この偉大な功績により、ネルガー中佐はプール・ル・メリト勲章を受章した。 1918. 2. 24
オスマン軍トレビゾンドを奪回
10月革命に伴い、ロシア軍はカフカス・アナトリア戦線から総撤退を開始した。
1917年12月18日には地域のオスマン軍と停戦協定が結ばれた。
この地域の非トルコ人諸民族は自衛のためにロシア軍の放棄した装備で民兵部隊を
組織した。
オスマン軍はほぼ無防備と化した前線を見て、停戦ラインを超えて戦前の領土を
奪回しようと進撃を開始した。1918年2月12日のことである。
南カフカスの諸民族、特にオスマン帝国から虐殺を加えられたアルメニア人組織は
オスマン軍に立ち向かったが、力の差は歴然としており、オスマン軍は前進を続けて、
この日黒海岸の主要都市トレビゾンドを奪回した。 政治家全員マジ全部国民や外国のせいにしかしてないので それを指摘することは事実だから合法 あと愚痴を公共の場で言うと嫌われます 気をつけましょう 陛下に世界平和のバースデープレゼント オリンピックのゴミ掃除 あと嘘をつく国は独裁国家なのでクーデターを起こせます 1918. 3. 1
ファルケンハイン、パレスチナ方面軍司令官職から解任
この日、前年のイェルサレム失陥の責を負って、パレスチナ方面のドイツ軍司令官
ファルケンハイン将軍(もと参謀総長)は解任され、トルコ勤務の長いリーマン・フォン・
ザンデルス将軍が後任となった。
ファルケンハインは白ロシア占領軍の第10軍司令官に移され、そこで終戦を迎えた。 1918. 3. 3
ドイツ軍キエフを占領
独立ウクライナ政府と講和した中央同盟軍は、条約に従ってウクライナ領内へ進駐し、
東から迫る赤衛軍と衝突した。
装備と統制に勝るドイツ軍は瞬く間に赤衛軍を駆逐し、この日ウクライナの首都キエフを
占領した。ウクライナ政府はこれに従ってキエフに帰還した。 1918. 3. 3
ブレスト・リトフスク講和条約調印
党内での激論の末、ボリシェヴィキ政府はドイツ側の条件を呑んで講和することを
決断した。いかなる犠牲を払っても、革命を完遂することが最優先とされたのである。
この講和条約によって、ロシアはポーランド・ウクライナ・バルト海岸・フィンランドを
失った。
東部戦線での戦争は公式にはここに終結を迎え、膨大な数のドイツ軍部隊が
フリーハンドを得ることとなった。
ドイツ軍はこの兵力をもって西部戦線で最後の攻勢をかけることとなる。 >>874
17年12月14日から約80日間か…いや、戦争の結果が変わるとは思わんが、米軍にとっては貴重な準備期間だったろうな 1918. 3. 9
英仏軍ムルマンスクに上陸
革命後混乱するロシア情勢を見て、英仏は親協商勢力による東部戦線の再建を
企図していた。
その第一歩として、北極海に面するムルマンスク港にこの日英仏の艦隊が入港し、
陸戦隊を上陸させて町を占領した。
また、ムルマンスク周辺では親独のフィンランド民兵が侵入を行っており、英軍は
これに対抗することも考えねばならなかった。 1918. 3. 12
オスマン軍エルズルムを奪回
ロシア軍が撤収して無防備となったカフカス・アナトリア戦線でオスマン軍は前進を
開始した。
この日オスマン軍はアナトリア中部の主要都市エルズルムを奪回し、さらに東へ
進撃を続けた。 1918. 3. 12
ボリシェヴィキ政権、首都をモスクワに移す
ブレスト・リトフスク講和会議の中止の間に、ドイツ軍はロシアの首都ペトログラードから
150キロのナルヴァにまで侵攻してきていた。また、講和の結果フィンランドは独立する
こととなり、ペトログラードは極めて国境に近い首都となってしまった。また、バルト海
からの攻撃にもペトログラードは弱い位置に置かれることになった。
この状況を見て、ボリシェヴィキ政権の首班レーニンは、首都を内陸部のモスクワに
移すことを決意した。ピョートル大帝の遷都から205年、ロシアの首都は再びモスクワに
還ったのである。 1918. 3. 13
ドイツ軍オデッサに到達
独立ウクライナ政府との和平に基づきウクライナ領内に進駐したドイツ軍は、
ボリシェヴィキ勢力が占拠していた黒海岸のオデッサを攻撃し、ここを占領した。 >>873
ウクライナは歴史上ロシアには属しない欧州寄りの国なんだよな。ロシアと欧州の歴史対立が再燃してる。 1918. 3. 14
トレビゾンド講和会議始まる
10月革命に伴い、ロシア南部国境を形成していたカフカス諸民族はロシアから離脱し、
さしあたりの組織としてザカフカス(トランスコーカサス)評議会を形成した。
この政体とオスマン帝国との間にはいまだ戦争状態が存在し、軍事境界線には緊張が
漂っていた。
この日、ザカフカス評議会とオスマン帝国の代表は黒海岸のトレビゾンドに集まって
戦争の終結に向けて講和会議を開始した。
しかし民族の境界と旧国境と軍事境界線はいずれも食い違っており、交渉は当初から
難航が見込まれていた。 1918. 3. 21
イギリス軍のヨルダン川攻勢始まる
イェルサレムを手中にしたイギリス軍の次の目標は、ヨルダン川を越えてヘジャズ鉄道を
アンマンにおいて切断することであった。
この作戦は、へジャズ鉄道沿線で作戦するアラブ反乱軍に対する大きな支援ともなる。
3月21日、英本土第60師団を主力とし、ANZACの乗馬・ラクダ歩兵部隊等によって
支援されたイギリス軍部隊は、ユデア丘陵を下ってヨルダン河谷へ侵入した。
死海の北10kmほどのヨルダン川において、イギリス軍は何ヶ所かで渡河を試みた。
そのうちマハデット・ヒジュラの渡河点での架橋が成功し、イギリス軍部隊は激戦の末に
ヨルダン川東岸に橋頭堡を確保した。
23日には最初の渡河点の北において、街道とヨルダン川が交差する点でもうひとつの
架橋が行われ、イギリス軍主力がヨルダン川を渡った。
イギリス軍はさらに東へ、アンマンに向けて進撃を開始した。 1918. 3. 21
ドイツ軍、西部戦線で春季大攻勢を発起
東部戦線での講和によって大幅な兵力の余裕を生じたドイツ軍は、アメリカ軍の
到着前に英仏軍を撃破して有利な講和を結ぶという見通しの下、西部戦線で大攻勢を
開始した。
主攻軸はカンブレーからアミアン方面に置かれ、英仏軍を分断してイギリス軍を
降伏に追い込むという目標が立てられたが、攻撃地点の選定は戦略的というより
戦術的に弱そうな地点を選ぶという方針だった。
攻撃地点に選ばれたのはカンブレー=サン・カンタン戦線であった。ここは前年の
ヒンデンブルク線への撤退によりイギリス軍が新たに前進した部分で、塹壕線の
構築が進んでいないとみられたのである。
また、ヴェルダン死守の経験を持つフランス軍より、イギリス軍は防御の経験に
乏しく、防御力が弱いのではないかと期待された。 攻撃戦力は4個軍72個師団、対するイギリス軍は26個師団であった。
攻撃戦術は以下の通り。まず毒ガス弾による短時間の猛砲撃で敵戦線後方の司令部、
交通結節点をたたいて敵戦力を麻痺させる。次いで砲兵陣地を砲撃して阻止火力を
封じ込め、最後にごく短時間の砲撃を前線に加えて突破口を開く。
突破口からは歩兵戦力の中から選りすぐった優秀な兵からなる突撃歩兵
(シュトーストルッペン)を侵入させる。突撃歩兵は敵陣の強いところは迂回して弱点を
突き、とにかく前進することを目的とする。
突撃歩兵がやり過ごした敵拠点は、突撃歩兵の前進によって孤立化したところを
後続の部隊が包囲して制圧する。
この方針のもと、ドイツ軍は3月21日早朝に攻勢を開始した。作戦名は「ミヒャエル」。
午前4時35分に砲撃が始まり、午前9時40分には突撃歩兵の攻撃が始まった。
濃い煙幕と霧に助けられて、突撃歩兵は前進し、包囲し、連絡線を切断した。
午前中いっぱい、イギリス軍の上級司令部は状況を全く把握できず、各所で背後に
回られたイギリス軍部隊は降伏して、前線は総崩れとなった。
ドイツ軍は巨大な成功を手にしつつあった。 1918. 3. 21
「パリ砲」による砲撃始まる
この日の朝、パリ市民は突然の爆発音に驚かされた。空襲か? しかし空に
ドイツ軍機やツェッペリンの影はない。爆発は15分間隔で21回起こった。
爆発点付近に散乱した破片を分析したところ、驚くことにこれは大砲から発射された
砲弾であることが分かった。
いったいどこから? ドイツ軍の攻勢が始まったニュースは届いていたが、まだ敵は
パリから100キロも離れているはずなのだ。
これはドイツ軍の秘密兵器「パリ砲」による砲撃であった。これは口径21cm、
砲身長実に37m、口径比176口径の超長身砲で、戦線背後からパリを攻撃するために
開発された超兵器だった。
砲台はソワソン北15kmほどのクシーの森に築かれていた。パリから120kmの
距離である。
フランス側では、この砲はヴェルダン攻撃に使用された重攻城砲と混同され、
「グロス・ベルタ」と呼ばれた。
この日から、一日10発前後が発射され、パリ市民を恐怖に陥れることになる。 1918. 3. 26
ドゥラン会議
ドイツ軍の大攻勢によって、戦線は英仏軍の接点付近で引き裂かれつつあった。
この危機を救うには、英仏軍の共同指揮がぜひとも必要である。
この目標に向けて話し合うため、この日アラスとアミアンの中間にあるドゥランにおいて
英国大陸派遣軍の幕僚会議が開かれるのに合わせて、フランスの代表団もそこに
集まることになった。
会議に集まったのはフランスのポワンカレ大統領、クレマンソー首相、フォッシュ将軍、
ヴェガン将軍、イギリスのミルナー陸軍大臣、ヘイグ派遣軍司令官他であった。
ここにおいて西部戦線すべてを統括する総司令官職の設置が決定した。その地位に
ふさわしい指揮官として皆が考えたのはフォッシュ将軍であったが、この日は人選に
まで結論は出なかった。 1918. 3. 26
チェコ軍団の移送始まる
オーストリア・ハンガリー軍からロシア軍の捕虜となったチェコ人・スロヴァキア人は、
ロシア軍に寝返って「チェコ軍団」を編成し、ドイツと戦っていた。
東部戦線の講和によってロシアとドイツとの戦争は終わってしまったが、チェコ軍団は
連合国にチェコスロヴァキアの独立を承認させるために、西部戦線に移動して
戦い続けることを望んだ。
ついてはロシア国内をウラジオストクまで横断する必要があったが、不穏な国内を
武装した集団が横断していくことに難色を示したソヴィエト・ロシア政府はなかなか
その許可を出さなかった。
しかし粘り強い交渉の末、重火器は置いていくという条件で、この日ソヴィエト
・ロシア政府とチェコスロヴァキア国民評議会の間で、軍団移送についての合意が
成った。
チェコ軍団は東を目指して移動を始めたが、シベリア鉄道の輸送力は限られており、
移送はなかなか進まなかった。 1918. 3. 27
第一次アンマン攻撃
ヨルダン川を渡ったイギリス軍は、オスマン軍の抵抗を排除しながらアンマンへ進撃を
続け、この日アンマンの防御陣地に攻撃を行った。
しかしオスマン兵とドイツ兵が守る塹壕陣地は堅固で、イギリス軍に容易に鉄道への
接近を許さなかった。
また、北方ダマスクス方面から鉄道を通して増援が送り込まれ、さらにイギリス軍の
後方連絡線を狙った反撃も行われた。
連絡線に脅威を受けたイギリス軍は容易に先鋒の攻撃部隊に増援が行えず、4日間の
戦闘ののちにやむなく撤退を開始した。 1918. 3. 28
第一次タンペレの戦闘
フィンランド内戦は、湖沼地帯をはさんで白軍と赤軍が南北に対峙する形勢となっていた。
白軍司令官マンネルヘイム将軍は、ヘルシンキのほぼ真北150kmにあるタンペレの
陣地を突破すべく、1万6000の兵で南下を開始した。赤軍は1万4000の兵で守りを固めた。
両者はタンペレで激突し、赤軍の防御陣地の前に白軍の攻撃は頓挫し、白軍は
退却して再編成を図ることとなった。 1918. 3. 28
ゴフ将軍更迭
ドイツ軍の「ミヒャエル」攻勢を受け止めて崩壊したイギリス第5軍司令官ヒューバート・
ゴフ将軍はこの日解任され、ローリンソン将軍に指揮権を譲った。
4月3日には軍の名称も「第4軍」と改称されることになる。 1918. 3. 28
パリ砲、サン・ジェルヴェ教会に命中
この日、遠くソワソンからパリを砲撃中のドイツ軍の秘密兵器「パリ砲」の砲弾は
サン・ジェルヴェ・エ・サン・プロテ教会に命中し、聖金曜日の礼拝に集まった人々の
間で爆発して、死者91人と負傷者68人が出た。
これが「パリ砲」の砲弾1発による最大の被害であった。 1918. 3. 28
ドイツ軍アラス方面で攻勢
アミアンを目指すドイツ軍の攻勢は続いていた。
しかし、先頭を切って進む突撃部隊は消耗し、砲兵をはじめとする補助部隊や
補給物資は突破先頭になかなか届かなかった。
この地域は1916年以来両軍が戦闘に明け暮れ、道路などが荒らされつくして
いたのである。その上ドイツ軍のヒンデンブルク線への撤収の際には井戸に
毒まで投じられており、馬匹の移動には困難が生じていた。
ドイツ軍の前進はやや左にそらされ、モンディディエを占領したところで
息切れした。
そこでドイツ軍は、戦線右翼から北のアラスへ向けての攻勢を開始した。
「マルス」作戦である。
これはアミアン方面から敵の予備を奪うとともに、交通の結節点であるアラスを
占領することによって敵の戦略的移動を妨げる目的があった。
一方の連合軍は、前年暮れから編成されていた連合軍最高司令部
(フォッシュ元帥)がようやく稼働し始めていた。
フォッシュは南からフランス軍部隊で逆襲を行ってドイツ軍を引きつけるとともに、
重要拠点に兵力を集中した。
ドイツ軍の攻勢作戦はひとつの転機を迎えようとしていた。 ドイツ、兵舎の名前を第1次大戦将軍からアフガン戦死者に改名
ttp://www.afpbb.com/articles/-/3169168?cx_position=16 絶望のカイザー攻勢だな
当時のドイツ国民はどれだけ理解していたか知らないけど、ドイツ帝国を実質仕切っていたのはルーデンドルフ
作戦通りの戦果を上げて、ドイツに不利でない条件で講和できれば御の字なんだが、纏まる話も纏められない予感 :::::::::::::::::::::``ヽ
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ヽ、 ノ
`` ?---? 'い
https://twitter.com/ibuki_air
09058644384 1918. 4. 1
イギリス空軍発足
前年の「空軍法」成立に伴い、この日イギリス陸軍飛行隊とイギリス海軍航空隊は
合併し、本土防空隊とともに「イギリス空軍」Royal Air Force を結成した。
これは世界初の独立軍種としての空軍の誕生であった。 そう言えば第二世界大戦を陸海軍で戦ったのは、主要国では日米だけか。
欧州は航空機の有用性を実戦で体験したけど、日米の場合、仮想敵の問題もかね?
当時、日本の戦場は中国大陸、相手の航空戦力はほぼ皆無。
米国も新大陸では無双だし、欧州に米軍を常駐させるなんて論の外だった。
太平洋をするはさんで日米が対峙すると、両海軍とも海軍が自由に使える航空戦力を要求した。すると海軍への対抗上、陸連も陸軍航空隊を維持する、かな? 大規模な海軍航空隊を保有する必要性があったからでしょうねえ。 1918. 4. 2
イギリス軍ヨルダン川東岸から撤収
アンマン攻撃に失敗したイギリス軍は、東岸に進出させた戦力を保持できず、
総撤退を行うこととなった。
2日にはゴラニエとマハデット・ハジュラに橋頭堡を残して、主力は西岸に撤収した。
この失敗に終わった作戦の唯一の慰めは、オスマン軍がアンマンに兵力を集中した
結果、後方でアラブ反乱軍が大いに優勢になったことであった。 1918. 4. 3
第二次タンペレの戦闘
フィンランド内戦は続いていた。
タンペレ前面で撃退された白軍は、態勢を整え直して再び赤軍の陣地に攻撃を
行った。
砲兵火力を集中した白軍の前に赤軍は押し切られ、4日間の激しい戦闘の末、
タンペレは陥落した。
赤軍はロシア革命政府軍の援助を求めて、南東のヴィボルグ方面に撤退した。 1918. 4. 3
ドイツ軍フィンランドに介入
内戦に突入したフィンランドの勢力のうち、社会主義者と戦う白軍の指導者はドイツに
救援を要請した。
ドイツ軍はバルト海を越えて上陸部隊を送り、主力はフィンランド湾入り口のハンコに、
分遣隊はヘルシンキの東のロヴィサに上陸した。
赤軍は北の白軍と南のドイツ軍にはさまれる形となった。 1918. 4. 3
フォッシュ将軍、西部戦線総司令官に補任
この日、最高戦争会議がアメリカ代表ブリス将軍を加えて、パリとアミアンの中間の
ボヴェーで開かれた。
席上、フランス軍のフェルディナン・フォッシュ将軍は正式に「連合軍総司令官」の
職に任命された。この地位を「ジェネラリッシム」(大元帥)と呼ぶこともある。 自国領土に敵国が空襲してくる環境では、それを迎撃する航空戦力で戦闘が完結する。
すると航空航空戦力が独立することに合理性と必要性が出てくる。
そういうのがなかった国は、その逆。 >>902
ソ連が空軍を独立させたのは、2次大戦の終結後
あそこの場合、一人の戦線(方面軍)司令官が、陸海空の全てを一元指揮するシステムなので、いささか特殊だが
日本の場合、海軍が自前の航空戦力の保持に拘ったこともあるが、帝国憲法に「陸海軍」の文言があるので、
憲法改正しないと空軍を独立させられないって事情も 日米の場合は空軍の母体になる陸軍が辺境の田舎陸軍って前提結構平気で忘れられてるよな
平時の規模が二十万人いかないような規模じゃ、組織の一部を分離独立させようって動機が成立しないんだが
日本の場合は支那事変以降は、戦時下で急拡大する組織のやりくりでてんやわんやで、空軍独立にかまける余裕がもう無いし 1918. 4. 5
日英の陸戦隊、ウラジオストクに上陸
ロシア革命に伴い、辺境の諸地方にまで動揺が広がっていた。
日本海に面するロシアの主要港、ウラジオストクでは、居留日本人商店が暴徒に
襲われ、店主が殺害されるという事件が起きる。
日本はこれに対し在泊の軍艦から陸戦隊約500名を上陸させて、治安維持にあたった。
同日、外交的対抗上、イギリスも陸戦隊を上陸させた。 1918. 4. 5
トレビゾンド講和会議決裂
オスマン帝国とザカフカス評議会との講和会議は難航していた。
オスマン帝国代表のエンヴェル・パシャはカスピ海岸への通行路と過去の戦争での
喪失領土の回復、アルメニア人民兵組織の解散などを要求し、ザカフカス諸民族は
それぞれの領域の保全を求めた。
代表団首席のグルジア人チュヘンケリはオスマン軍の要求を呑む腹でいたが、
オスマン帝国と国境を接し、帝国内では同胞が虐殺されたアルメニアの代表は妥協を
一切受け入れなかった。
この日、ついに交渉は決裂し、オスマン軍は諸民族の民兵を排除しながら東へ
前進を開始した。 1918. 4. 6
「ミヒャエル」作戦停止
突出部から北へアラスに向かう攻勢は、イギリス軍の防御によって阻まれた。
ドイツ軍は再び西のアミアンへ向かって兵力を集中し、突破を図ったが、連合軍の
予備はすでに間隙を埋めつつあり、攻撃は奇襲性を失って正面攻撃となった。
戦闘は次第に従来の陣地戦の様相を示しつつあり、さらなる大突破は望めない
状況となった。
ドイツ軍総司令部は6日、「ミヒャエル」作戦の中止を下令した。
英仏軍はアミアンとアラスを守り切ったのである。 1918. 4. 8
ドイツ軍ハリコフを占領
ウクライナに進駐したドイツ軍は、ボリシェヴィキ勢力を駆逐しながらウクライナ
領内を東進し、この日東部ウクライナの主要都市ハリコフを占領して、ボリシェヴィキ
勢力をウクライナからほぼ一掃した。 1918. 4. 9
モルダヴィア(ベッサラビア)議会、ルーマニアとの合邦を決議
2月に独立を宣言したモルダヴィアでは、民族的に近いルーマニアとの合邦をめざす
勢力が優勢となり、この日議会においてルーマニア王国との合邦が決議された。
これは中央同盟国によって承認され、戦後紆余曲折の末、国際連盟の承認を経て
確定することとなる。 1918. 4. 9
ドイツ軍「ゲオルゲッテ」攻勢を発動
アミアンを奪取してイギリス軍をまるごと包囲しようというドイツ軍の意図はくじかれた。
ドイツ軍は、アミアン奪取後に右翼海岸方面から攻勢をかけてイギリス軍を大包囲する
「ゲオルク」作戦を立案していたが、状況の変化により、右翼軍単独で海峡の港湾都市を
目指す攻勢「ゲオルゲッテ(小ゲオルク)」を発動することとなった。
兵力は2個軍21個師団、対する連合軍は25個師団であった。
攻勢は交代中だったポルトガル軍の部隊を直撃し、装備の劣るポルトガル師団は
壊滅した。ドイツ軍はダンケルクとアラス・アミアン方面を結ぶ鉄道の結節点
アズブルックに向けて突進した。
イギリス軍は包囲の危機にあった。 1918. 4. 10
「被抑圧民族会議」開催
この日、ローマにおいて、中欧からバルカンにかけての諸民族の代表が会合し、
今次戦争の終結後には民族自決の原則に従って「完全に独立した民族国家」を
樹立すべきである、という宣言を行った。
これはウィルソンの14ヶ条に呼応したもので、やがてオーストリア・ハンガリー帝国の
瓦解につながる第一歩であったと言える。 1918. 4. 11
クレマンソー、オーストリアの単独和平交渉を暴露
フランスのクレマンソー首相はこの日、前年に行われたオーストリア皇帝カール1世の
秘密和平工作についてその内容を公表してしまった。
カールの書簡には和平の条件としてドイツ領エルザス・ロートリンゲンのフランスへの
割譲が含まれており、このニュースを聞いたドイツ皇帝と軍部は激怒した。
カールは当初書簡の存在を否定し、フランスの謀略であると言い張ったが、次第に
隠し切れなくなり、虚偽と真実を小出しにして弁明を図った。
この醜態によってカールの権威は失墜し、国内諸民族への統制はさらに難しい
ものとなっていった。 1918. 4. 13
ドイツ軍ヘルシンキを占領
内戦に乗じてフィンランドに上陸したドイツ軍は、南西部のハンコから東に進撃を続け、
この日ヘルシンキを占領した。ドイツ軍は翌日正式に入城式をとり行い、ヘルシンキは
ドイツ軍の支配下となった。 1918. 4. 13
コルニーロフ将軍戦死
ドン川地方からクバン地方へ撤退した反革命軍は、エカテリノダール(のちの
クラスノダール)に拠点を置く北カフカス・ソヴィエト政府軍と激突した。
反革命軍は苦戦し、4月13日にはコルニーロフ将軍の司令部に砲弾が命中して、
将軍は戦死した。
彼の後任にはデニキン将軍が就任した。
コルニーロフの死の知らせを聞いたレーニンは、「これで内戦も終わるだろう」と
極めて楽観的な見通しを口にしたという。もちろんこの見込みは大幅に狂うことになる。 1918. 4. 14
オスマン軍バトゥーミを占領
ザカフカス評議会との交渉決裂を受けたオスマン軍は前進を開始し、この日グルジア
黒海岸のバトゥーミを占領した。この地にオスマン軍が入るのは1878年の露土戦争
以来のことであった。 1918. 4. 15
パッシェンデール突出部放棄
一時はイギリス軍を危機に陥れた「ゲオルゲッテ」攻勢であったが、フランス軍予備
戦力からの増援が到着しつつあり、ドイツ軍の前進は急速に減速した。
また、イギリス軍も、前年秋のイープル攻勢で奪取したパッシェンデール突出部から
撤収して兵力の余裕を得、ドイツ軍の進撃に対抗した。
これらの兵力をもって、連合軍は防御線を整えた。戦闘は陣地戦の様相を示しつつ
あった。 1918. 4. 21
リヒトホーフェン戦死
「レッド・バロン」の異名を持つドイツの戦闘機トップエース、マンフレート・フォン・
リヒトホーフェン大尉はこの日、ヤーシュタ11を自ら率いてフォッカー三葉戦闘機で
アミアン前面のソンム方面に出撃した。
リヒトホーフェン隊はイギリス空軍第209スコードロンの迎撃を受け、各機入り乱れた
空戦となった。
その中で、ウィルフリッド・メイ少尉のソッピース・キャメル戦闘機を低空で追撃していた
リヒトホーフェンは、不意に一発の機銃弾を胸に受けて致命傷を負った。
リヒトホーフェン機は畑の中に不時着したが、地上にいたオーストラリア軍部隊が
機内を確認した時には、すでにこの撃墜王は絶命していた。生涯撃墜機数80機、
死亡時の年齢は25歳であった。
イギリス軍は、その時リヒトホーフェン機を追っていたロイ・ブラウン大尉の撃墜で
あると発表したが、後年の研究によると、地上部隊の機関銃火によって撃墜された
可能性が高い。
リヒトホーフェンの骸は丁重に葬られた。死の2日後にはイギリス軍戦闘機が
ドイツ軍飛行場に飛来し、弔文を投下して去った。
「ドイツ軍飛行隊へ。男爵マンフレート・フォン・リヒトホーフェン騎兵大尉は4月21日の
空戦で戦死された。彼は軍規に従い名誉をもって葬られた」
最も高名な「空の騎士」の死は、ドイツじゅうに悲しみをもって受け止められた。 1918. 4. 22
トランスコーカサス連邦独立
ロシア領南カフカスの諸民族の代表は、2月革命後に「ザカフカス委員会」を結成して
臨時政府に従っていたが、10月革命後のボリシェヴィキ政府には従わず、独自の動きを
見せていた。
さらに3月のブレスト・リトフスク条約で「本来南カフカスに属すべき」オスマン帝国領内の
占領地がすべてオスマン帝国に返還されたため、委員会のボリシェヴィキへの反感は
高まり、4月22日にはザカフカス議会は「トランスコーカサス(ザカフカス)連邦共和国」の
成立を宣言して公然とロシアから離脱した。 1918. 4. 23
ゼーブルッヘ・オーステンデ襲撃
度重なるドーヴァー海峡へのドイツ軽艦隊の襲撃とUボートの攻撃に対抗するため、
イギリス海軍は、ドイツ海軍が前線基地として使用していたベルギー領ゼーブルッヘ港と
オーステンデ港の襲撃を企図した。
両港とも海から短い運河を経た内陸にあり、襲撃隊は旧式巡洋艦をその運河の口に
自沈させ、港を閉鎖する作戦であった。
夜半にイギリス艦隊は港に近づき、沿岸砲台を煙幕で覆うことを試みたが、当日は
風が強くて煙幕は流れてしまい、閉塞船は砲台から激しい砲火を受けた。
結局、ゼーブルッヘでは運河の中に突入できたものの完全な閉塞はできず、小型
Uボートの出入りに支障はなかった。
オーステンデでは航路標が偽装のためにずらして設置されており、閉塞船は運河から
離れた砂州に座礁して、まったく航路をふさぐことはできなかった。
大々的に行われた作戦は失敗に終わったが、イギリスではこの襲撃を「壮挙」として
宣伝し、無味乾燥な封鎖と通商護衛に疲れた海軍の士気に一服の清涼剤を与える
ことに成功した。それが唯一の成果であったろう。 なんだこのスレは・・・・・・・・一人が延々と書き込んでる >>926
実際一人かどうかはわからないが、奇特なこのスレの名主様だよ。
第一次大戦は、特に欧州にとっては第二次大戦以上の歴史的エピソードなんだが、日本では人気?が無いから希少なスレだ。
そういえば、百年前、そろそろ世界初の戦車戦が始まっているはず。
現代の戦車に比べると、現代人と原人くらい差があるが。 そろそろWW1が終わってしまう。
途中から参加しているので、サラエボ事件の
あたりのWW1の開始の頃から読み返したい
と切に思うよ。
どこかに纏めてアップされていると助かる。 >>928
残念ながら、2015年の1月途中から始めたので、1914年の記録はないのです。
また、1915年の途中までは本当に「年表カレンダー」でしかなく、今のように
内容の説明がついたのは1915年11月ごろからですかね。 1918. 4. 25
オスマン軍カルスを占領
4月23日、オスマン軍はアルメニア人民兵の立てこもる東アナトリア(戦前のオスマン
帝国領内であるがアルメニア人が多い)のカルス要塞を攻囲した。
アルメニア軍側の統率は乱れ、周辺諸民族からの援助もなく、ザカフカス代表の
チュヘンケリ(グルジア出身)はカルス要塞に対し開城を勧告した。
孤立無援となったカルス要塞は25日に降伏し、オスマン軍はさらに東へ向かった。
カルスはこの後もアルメニアとトルコの間で争奪が繰り返されるが、その物語は
本スレッドの範囲を超える。 1918. 4. 27
ヴィボルグの戦闘
フィンランド内戦は白軍の優勢下に進行していた。
赤軍は最後の拠点として南東部ロシア国境に近いヴィボルグに追い詰められていた。
白軍のマンネルヘイム将軍はこの日までにカレリア地峡を封鎖してロシアからの干渉を
断ち、ヴィボルグ前面に陣を張る赤軍の退路をも断った。
マンネルヘイム将軍は最後の攻撃を命令し、砲兵の砲撃とともに赤軍に全面攻撃を
行った。
激しい戦闘ののち赤軍は崩壊し、29日にはヴィボルグ市内の拠点もすべて掃討された。
内戦の帰趨は決した。白軍は各地の赤軍残存陣地の掃討に移った。 1918. 4. 29
「ゲオルゲッテ」作戦中止
英仏海峡を狙うドイツ軍の攻勢は阻止された。連合軍はフランス軍の予備から兵力を
抽出して北部戦区に送り、兵力比はドイツ軍に不利なものとなった。
ここにおいてドイツ軍総司令部は「ゲオルゲッテ」の中止を命令した。 1918. 4. 29
ウクライナにてヘーチマンのクーデタ
中央同盟国との和平とドイツ軍の進駐によって国土をボリシェヴィキから奪い返した
ウクライナ中央ラーダ政府であったが、国内の統制力は弱く、ドイツの望む食糧の
大量供給にはあまり頼りにならなかった。
ドイツ軍はこの状況を見て、コサック民兵を率いていた貴族のスコロパーズキー将軍を
ひそかに支援した。
将軍はこの日農民の大集会を開いて中央ラーダ政府批判の声を上げ、熱狂する
支持者に推戴されて「ヘーチマン」(コサックの頭領)に就任した。
ヘーチマン・スコロパーズキーは兵を率いて中央ラーダ政府を解散させ、ウクライナの
実権を握った。ヘーチマンは国号を「ウクライナ人民共和国」から「ウクライナ国」に
改め、ドイツ軍の支持のもと独裁的権力を掌握した。 1918. 5. 1
ドイツ軍セヴァストーポリを占領
ウクライナからボリシェヴィキ勢力を一掃したドイツ軍はロシア領クリミアに侵入し、
この日セヴァストーポリ軍港を占領した。ロシア黒海艦隊主力はノヴォロシーイスクに
逃れたが、一部はドイツ軍に抑留された。 戦前まで対立していたドイツやフランスの社会主義者や
ハプスブルグ帝国の民族主義者が団結する展開好き
方向性が違うだけで皆愛国者なんだなって >>939
ハプスブルク帝国内の民族主義者が一時団結したように見えたのは、汎スラヴ主義の
ロシアがグダグダなことがばれたので、一応帝権に従っておくか、という動きになった
だけでしょ。
それが証拠に、帝国がドイツに追従するようになるとすぐに独立を志向するようになるじゃないか。
マサリクの運動は1915年から始まっており、国内勢力ともしっかり呼応している。
>>939の言うような無邪気な「愛国心」なんて、帝国ではどの民族もも持ち合わせていないよ。
イタリア戦線で士気が高いのは、「未回収のイタリア」が南スラヴの固有の領土を侵害する
という点が影響しているしね。 1918. 5. 7
ブカレスト講和条約
前年末の休戦に引き続いて行われたルーマニアと中央同盟国との講和会議はこの日
妥結し、講和条約が結ばれた。
これにより、ルーマニアは南部ドブルジャをブルガリアに、カルパチア山脈のいくつかの
峠をハンガリーに割譲した。
また、北部ドブルジャも当分の間中央同盟国の共同占領下におかれることとなったほか、
主要な油田はドイツに租借されることとなった。
一方でルーマニアは、ベッサラビア(モルダヴィア)との合同を認められることとなった。 1918. 5. 9
第二次オーステンデ襲撃
4月の作戦で閉塞することができなかったベルギーのオーステンデ港に対し、
イギリス軍は再び襲撃閉塞作戦を企画した。
前回ゼーブルッヘに突入した旧式巡洋艦「ヴィンディクティヴ」と、もう1隻「サッフォー」が
閉塞船として選ばれ、これをモニター艦・駆逐艦・爆撃機・陸上からの長距離砲撃で
支援することとなった。
5月8日の夜半、襲撃隊はダンケルクを出航したが、途中で「サッフォー」は機関故障を
起こして隊列から脱落した。作戦は「ヴィンディクティヴ」1隻で行われることとなった。
折からの濃霧の中、「ヴィンディクティヴ」はオーステンデ港口の運河に突入を図ったが、
ドイツ軍の沿岸砲台の砲撃はすさまじく、艦は推進軸を破壊されて操船不能となった。
艦はそのまま潮に流されて港口に縦に突っ込んだ形で砂州にのし上げ、指揮官は
やむなく自沈爆薬の点火と総員退去を命じた。退却に際して、陸からの射撃を受けて
多数の死傷者が出た。
作戦はまたも失敗に終わり、ドイツの沿岸用小型潜水艦は不自由なく港を出入り
することができた。
しかしイギリス海軍当局は今回も「壮挙」としてこの作戦を宣伝し、イギリス海軍の
士気はいささか元気づけられたのであった。 飛行機の窓からレンガを落として攻撃したって本当かい? 初期の飛行機は窓なんて上等なものついてないから
専用の戦闘機出てくるまで煉瓦や工具投げあったり、小火器撃ち合ったりしてたよ いくら木でできた飛行機とはいえ工具投げつけられても壊れないよなぁ 同航戦なら大して威力なさそうだけど、反航戦だと相対速度が上がって大ダメージの予感
滅多に当たらないだろうけど このころは、宇宙戦艦ヤマト的な
二人ノリで戦闘機の後ろに、銃座?がついてる戦闘機がありましたか? 1918. 5. 11
バトゥーミ講和会議始まる
オスマン帝国と南カフカス諸民族との間の紛争は収まっていなかった。
特にアルメニア人はオスマン軍に強く反抗し、旧国境以西のアルメニア人居住地を
強く要求した。
オスマン軍はそれに対し正規軍の進撃をもって応え、旧国境を越えてさらに東へ向かう
勢いを見せた。
ここにおいてドイツのあっせんで再度講和会議が黒海岸のバトゥーミで開かれたが、
その結果は前線での戦況に左右され、すぐには決定されなかった。 資料見つけたのでシェア
『オーストリア・ハンガリー帝国最後の戦争 1914-1918年』
( Österreich-Ungarns letzter Krieg 1914 - 1918)
http://warhistory-quest.blog.jp/18-May-10
>オーストリア国立図書館がデジタル化した著作権フリーの書籍を公開してくれています。
>詳細にオーストリアの参画したほぼ全ての欧州戦線での部隊配置、補給、増員などが網羅されている完全に純粋な軍事記録です。 いやほんと良く公開してくれたよねオーストリア国立図書館
この高解像やばすぎでしょ
著者も本職の超高級軍人だしイデオロギー性ほぼなしの軍事記録とか感動もの 大国のはずのオーストリア・ハンガリーが戦力にならなかったのは謎
日本が1944年以降一方的にボコられたのと同じか オーストリアハンガリーはブルシーロフさんにボコられたせいじゃないの ドイツ国民が飢餓に陥った戦争というイメージしかないわ
向こうの本読むと第二次大戦中の日本並みの飢餓状態
1918年12月のドイツ公衆衛生委員会は、
763,000人のドイツ人の民間人が飢餓で死亡したと主張した
1928年に行われた学術研究は、1918年12月の終わりまでの封鎖によって
引き起こされた病気で424,000人の死者を出した
戦前から肥料の多くを新大陸に依存していたのだから家畜を養えなくなり
脂肪とタンパク質の不足、栄養失調、結果結核や肺炎で死亡者続出
連合国側は悪化してもそこまで深刻化しなかった
第二次大戦でヒトラーがソ連侵攻したのもイギリスの海上封鎖が欧州全域にわたり
食糧・肥料が入らず支配地域全域で飢餓の兆候が表れたからと言われている。 ナポレオンの頃から大陸国家は同じ過ちを繰り返しているね
あの位置にイギリスが居て大陸国家が制海権を取らない限りイギリスには勝てない
イギリスを干上がらせるのが先か大陸国家が飢えるのが先かの勝負だ >>951
こっち貼れよ
Österreich-Ungarns letzter Krieg 1914 - 1918
Number of volumes: 15
http://digi.landesbibliothek.at/viewer/toc/AC01039112/0/ 1918. 5. 12
オーストリア皇帝の「カノッサの屈辱」
前月のオーストリア皇帝カール1世の秘密和平工作暴露に怒ったドイツ皇帝ヴィルヘルム
2世は、この日大本営のあるベルギーのスパにカールを呼びつけた。
その場でカールはドイツとの軍事同盟の強化と西部戦線へのオーストリア軍派遣を
約束させられ、軍事的に完全にドイツの隷属下に立つことを強いられた。
この屈辱的な事件をオーストリアの新聞は「まるでカノッサの屈辱だ」と書き立てて
カールの醜態を批判し、和平工作の仲立ちとなった皇后ツィタは「売国奴」と蔑まれた。
オーストリア皇室の威信は地に落ちたのであった。 てか続けんの?
ブツブツ一人でつぶやいてる人が飽きたらそれでおしまいなのに
1918まできてるし、あいつが続けたいなら続けろやでいいんでね? 俺は日報みたいのは全く読んでないけど第一次世界大戦スレ自体はあってほしい 作戦や戦闘のようす政治状況などは少し調べればいくらでも出てくる
むしろ銃後の市民生活や財政状況、戦傷者の福祉手当や市民への配給基準など
あまり知らないことを書いてくれれば価値もあると思うのだが
一人延々とつまらないことばかり書いてるから価値はない 別に日報はなくてもいいが、このスレがなくなるのは寂しい。 1918. 5. 14
チェコ軍団蜂起
旧ロシア軍所属のチェコ人・スロヴァキア人の部隊、チェコスロヴァキア軍団は、
チェコスロヴァキア独立承認を得るために、ロシアから西部戦線に移動しようとしていた。
しかしこの日、シベリア鉄道を移動途中のチェリャビンスクで、軍団所属の兵士が
たまたま通りかかったハンガリー人捕虜といさかいを起こして乱闘となった。
当地のソヴィエトは乱闘に参加したチェコ兵を逮捕するとともに、当地のチェコ部隊を
武装解除しようとしたところ、憤ったチェコ部隊は蜂起してチェリャビンスク市を占領
してしまった。
モスクワの全ロシアソヴィエト指導部はこれに激怒し、シベリアを通過中の全チェコ
部隊の武装解除を地方ソヴィエトへ指令した。
むろんこれにはチェコ部隊も武力で抵抗し、シベリア各地はにわかに騒乱の巷となった。
この事件はやがて、思いもよらない方向へ事態を発展させることとなる。 日報は俺も好きだ
同日付なのが特に気に入っている
書籍で見れば一瞬の出来事も、実際に日数をかけて展開していくと妙なリアル感がある >>968
なんであんなライト層向け本だしたんだろうなあの人 1918. 5. 16
フィンランド内戦の終結宣言
この日までにフィンランド赤軍の拠点はすべて掃討され、白軍は勝利宣言を行って、
内戦は終結した。赤軍と白軍の間には終戦協定その他の取り決めは行われなかった。
フィンランドは平穏を取り戻したが、ヘルシンキをはじめとする主要都市にはドイツ軍が
とどまり、フィンランドの地位は実質的にはドイツの保護国であった。 1918. 5. 16
日中共同防敵軍事協定
ロシア革命によってシベリアや北満洲のロシア領土・勢力圏内の情勢は流動化していた。
独露講和によってドイツの勢力がシベリアに及ぶのではないかという危惧、また共産主義
勢力がシベリアから中国へ浸透する危惧などが日中(中国は北京の中華民国段祺瑞政権)
両国によって共有され、この日日中共同で、満洲と、必要あればシベリアの治安確保を
目的とした軍事的協力体制を築くための協定が結ばれた。
しかし日本の真の意図はシベリア方面への日本自身の勢力拡大にあり、その動きは
シベリア出兵へとつながっていくことになるのだが――そこまでの話は本スレッドの範囲を
超える。 自衛のために軍拡していた国が他国を侵略し始めるのは歴史のお約束 1918. 5. 18
イギリス空軍のケルン空襲
この日イギリス空軍は D.H.4 軽爆33機をもってドイツのケルンを昼間空襲した。
この日は聖霊降臨祭の土曜日で街路には多くの人出があり、市の中心部への爆撃に
よって死者41人と負傷者47人が出た。 1918. 5. 19
最後の英本土空襲
この日爆撃航空団「ボゴール3(カゴール3の改名)」は、ゴータ爆撃機38機とツェッペリン・
シュターケン爆撃機3機からなる大編隊をロンドン空襲に差し向けた。
1.5トンの爆弾が市街に着弾し、死者49人と負傷者177人が発生した。
イギリス空軍も盛んに迎撃を行い、7機のゴータ爆撃機が撃墜された。
結果として、これが最後の英本土空襲となった。これ以降、爆撃航空団は地上作戦
支援に投入されることとなったのである。
この年の後半にはロンドンとパリに向けての大規模な焼夷弾空襲が企図されたが、
報復を恐れて作戦は実行されなかった。 この時代の航空機とかエースパイロットの話好きなんだけど、資料が少なすぎて困る。二次大戦だとスロヴァキアのエースの資料とかあるのに、一次だとフランス軍とかですら資料が無い。ジョルジュマドンとかググっても出て来ない そんなときにはノーマンフランク
OVER THE FRONT: The Complete Record of the Fighter Aces and Units of the United States and French Air Services, 1914-1918
https://www.amazon.com/dp/0948817542 >>980
中古でも7000円近いってよっぽど貴重な本なのかな、リストに入れておこう >>971
ユーモア小説 兵士シュヴェイクの冒険にも チェコ人とハンガリー人の喧嘩が
描写されていた。
作者の死去により未完となったことが惜しまれます。
第一次大戦を描きかつ日本語で読める文学作品ってだけでも貴重な存在。
作者が生き長らえ作品が続いていたなら オーストリア ハンガリー帝国の敗北
チェコスロヴァキアという独立国家の誕生までえがいていたのだろうか。 1918. 5. 21
アルメニア戦線の停戦破れる
バトゥーミでの講和会議は、アルメニアの強硬な抵抗によって遅々として進まなかった。
これに対してオスマン帝国は実力をもってアルメニアに城下の盟を誓わせるべく、
アルメニアの首府イェレヴァンに向けて進撃を開始した。
オスマン軍はアルメニア軍の抵抗を押し切って旧国境を超えた。 お それ岩波のやつかなぜか手元にあるわシュヴェイク
新スレ乙 一次大戦の物語だと「戦場の一年」が良かった。当時の塹壕戦の様子が良く分かるから資料としても良いし、お約束のように狙撃される新兵や将軍、ストレスで裸に目覚める同僚とか出てきてダレなくて面白かった 1918. 5. 26
グルジア・アゼルバイジャン独立
4月に「トランスコーカサス連邦共和国」の独立を宣言した南カフカスの諸民族であるが、
民族自決の原則に従ってそれぞれの民族ごとに独立国を建設することとなった。
この日、連邦議会は自らの解散を決議し、グルジアとアゼルバイジャンは独立宣言を
行った。2日後にはアルメニアも独立宣言を行った。
1920年にはソヴィエト軍が侵攻して南カフカスは再びロシア=ソ連領となるが、それは
このスレッドの話の範囲を超える。 1918. 5. 27
「ブリュッヒャー・ヨルク」攻勢発動
北部での攻勢が失敗に終わると、ドイツ軍は戦略的に価値のある目標を失ってしまった。
しかし兵力はなお余裕があり、アメリカ軍の到来前に何としてでも戦線突破を果たして、
講和の糸口をつかまねばならなかった。
アメリカ軍はすでに5月には戦線に到着しつつあった。急がねばならない。
攻撃はなるべく敵の防御の弱い場所を選んで行われることとなった。選定されたのは
「ミヒャエル」作戦突出部の南、かつてフランス軍のニヴェル攻勢が行われた区域であった。
この地域で突破ができれば、突出部はパリをうかがうこととなり、連合軍は必ずや
この地域に兵力を集中するであろう。そうすれば北部での再攻勢によって今度こそ
イギリス軍を海に追い詰めることができるに違いない。
兵力は29個師団、対するフランス軍は19個師団。攻勢は5月27日に開始された。
この地域を守るフランス軍は防御の経験に乏しく、多線防御の基本ができて
いなかった。ガス砲撃と突撃歩兵の突破の前にフランス軍はもろくも崩れ、前線に
露出していた大兵力が降伏して、戦線は無防備となった。
初日にドイツ軍は20キロ前進し、エーヌ川に迫った。 1918. 5. 29
スクラ・ディ・レゲンの戦闘
この日、サロニカ戦線において、前年の内戦を経て新たに連合軍に加わったギリシャ軍
初の攻勢作戦が実施された。
目標はテサロニキ北西の山岳部にあるスクラの町で、ブルガリア軍によって陣地化
されていた。
ギリシャ軍は3個師団をもってこれに攻撃をかけ、3日間の戦闘でここを占領・確保する
ことに成功した。
ギリシャ軍は、来たるべきサロニカ攻勢において十分その役目を果たせることを証明
したのである。 1918. 5. 30
ドイツ軍マルヌ川に到達
「ブリュッヒャー・ヨルク」攻勢はドイツ軍優勢に進んでいた。
この区域を担当するフランス軍のペタン将軍が死守ではなく機動戦と反撃による防御を
目指したこともあり、ドイツ軍は前進を続けて、この日1914年以来久方ぶりにマルヌ川の
線に到達した。
フランス軍の反撃は撃破され、パリに危機が迫っていた。 1918. 6. 4
バトゥーミ講和条約締結
首府イェレヴァンに迫るオスマン軍を前にして、ついにアルメニアは抵抗をあきらめて
バトゥーミ講和条約を承認した。
条約に従ってオスマン帝国の国境は東へ移動し、百万以上のアルメニア人が住む
領域が帝国領となった。
他のザカフカス諸民族もこの条約に参加し、オスマン帝国との戦争状態はようやく
ひとまず終止符が打たれることとなったのである。
オスマン軍は同時にアゼルバイジャンと協定を結んで同地に進駐し、バクーとその
油田を巡ってイギリス軍・ボリシェヴィキと争うことになる。(下記項目) 1918. 6. 4
オスマン・アゼルバイジャン協約
ロシアから独立を果たしたアゼルバイジャンはイスラム教徒が多く、オスマン帝国に
親近感を抱いていた。
オスマン帝国はこれを利用してカスピ海岸バクーの油田を手中に収めようとして、
アゼルバイジャンと協定し、国内への進駐を認めさせた。
また、オスマン帝国は南カフカス近辺のイスラム教徒から民兵を募って、
ボリシェヴィキやイギリスが狙うバクーへ進撃しようと企んでいた。
実はドイツはボリシェヴィキと協力してバクーの石油の割当を得ようとしており、
キリスト教徒の多いグルジアに進駐してバクーへ圧力をかけようとしているところで
あった。
バクーの石油をめぐって複雑な闘争が繰り広げられようとしていた。 (6 lゝ、_ .ノ ヽ、__ノ |!/
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