第一次世界大戦について語るスレ 5 [無断転載禁止]©2ch.net
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1917. 11. 26
モンテ・グラッパの戦闘終結
イタリア戦線の突破を賭けて、オーストリア軍は山岳戦線のモンテ・グラッパ陣地の
奪取を試みた。未だ回復しない補給状態のため、比較的小規模な部隊で最大の効果を
挙げられる「戦線の鍵」を奪い取ろうという作戦であった。
11月13日、オーストリア軍とドイツ軍の山岳兵はイタリア軍の守るモンテ・グラッパの
攻撃にかかった。
しかしイタリア軍は頑強に抵抗し、ヴェルダンのフランス軍のように、敵の攻撃には
逆襲によって応じた。
エルヴィン・ロンメル中尉が属するヴュルテンベルク山岳兵大隊もこの攻撃に
加わっていたが、イタリア軍の逆襲を受けて退却せざるを得なかった。
26日、ついにドイツ・オーストリア軍は攻撃をあきらめてもとの陣地に戻った。
イタリア軍の退却はここで食い止められ、ヴェネツィアは救われたのである。 1917. 11. 29
イギリス空軍法、議会を通過
本土防空と前線支援、海軍航空隊の航空戦力を一元的に管理し、航空産業と結び
つけるための新たな軍種、「空軍」を設立するために、この日イギリス議会は「空軍法」を
可決した。
これは、王が陸海軍のほかに新たに「空軍」を組織する権限を認め、陸海の航空隊の
要員・装備・組織が「空軍」に移管されることを定めたものである。
これによって成立したイギリス王立空軍 Royal Air Force は、1918年4月1日をもって
正式に発足し、世界で初めての「独立空軍」となったのである。 1917. 11. 29
エルヴィン・ベーメ戦死
オスヴァルト・ベルケと空中衝突してベルケの死の原因となったエルヴィン・ベーメ
中尉にも、死神が忍び寄っていた。
「血の四月」前と夏に戦闘で負傷したため、親友のリヒトホーフェンには撃墜数で
大きく水をあけられていたベーメであるが、負傷から復帰すると撃墜数を伸ばし始めて
いた。
この日、イープル上空でイギリス軍のソッピース・キャメル戦闘機を撃墜した後、
ベーメはイギリス軍の写真偵察機編隊を発見した。
ベーメはその中のアームストロング・ホイットワースF.K.8複座機に狙いを定め、
後方から攻撃をしかけたが、イギリス機のパッテン操縦士(大尉)は急旋回でベーメを
かわし、ベーメ機はパッテン機の前に飛び出してしまった。
パッテンは機首機銃でベーメ機を撃ち、ベーメ機はタンクを撃ち抜かれて燃料が
流れ出した。そこへパッテン機の偵察員、レスター中尉の旋回機銃弾がさらに命中し、
ベーメ機は燃料に引火して火だるまとなった。
そのままベーメ機は墜落し、ベーメは戦死した。生涯撃墜数24機。
遺体はイギリス軍に確認され、その場で埋葬されたが、のちの地上戦闘でその跡は
今では不明になっている。 1917. 11〜
潜水艦戦の様相
船団護衛システムの完成によって、この月までにUボート作戦はほぼ制圧されたと
言ってよいだろう。
この月、Uボートによる損害は30万トンを切り、29万トンにとどまった。
これ以降、船舶損失が40万トン台に届くことはなかった。1918年4月からは30万トンにも
届かなくなった。
「大西洋の戦い」は、連合国護送船団の勝利に終わったのである。 ヨーロッパってそこら辺の土掘り起こしたら遺骨だらけなんかな… あんまり100年間手付かずの土地ってないだろうし、陣地戦続いてたから戦場清掃なり遺体回収なりはそれなりにこなせてたんじゃないかな・・・西部戦線は 1917. 12. 3
オーストリア軍、ピアヴェ川の橋頭堡を放棄
イタリア戦線には冬が到来し、同盟軍のこれ以上の前進は不可能であることが明らかに
なった。
同盟軍南西方面司令部は公式に攻勢の終結を宣言し、ピアヴェ川西岸の橋頭堡を
放棄して東岸の陣地を固めることを命じた。
イタリアの危機は終わったのである。 >>734
毒ガス汚染だったり戦死直後に陣地占領で死体処分されたりとかがあるから
身元不明遺骨だらけとは聞くし
実際独仏国境周辺は今でも立ち入り禁止、遺骨出まくりで開発制限の土地だらけやで あの国境沿いの戦線で10万単位の戦死、戦病死者が出ているからな
ベルダンの周囲だけでも砲撃の後の穴を臨時の埋葬地にして、さらにまた砲撃で穴があき、何処に遺骨が飛び散ったかわからないような区域が何ヵ所となくあるらしい 1917. 12. 4
ロシア軍と中央同盟軍の間で停戦合意
10月革命で政権を取ったボリシェヴィキは、即時和平を国内外に向けて主張していた。
ドイツはこれに同意し、この日東部戦線の一部で停戦が合意された。
翌日にはロシア戦線全域の停戦が合意され、8日にはボリシェヴィキの機関紙
「イズベスチヤ」は停戦の布告を掲載した。
両軍は合意に従い、7日には戦闘行為を停止した。
停戦に引き続き、正式な休戦交渉のために、独露両国の代表はブレスト・リトフスク市で
会談を行うこととなった。 フランスもチェルノブイリや福島どころじゃない範囲の超長期環境汚染地域を作られたら
そりゃ妥協なんでできないでしょうな
http://karapaia.com/archives/52193942.html >>740
二次大戦の時はこれらの地域はどうなってたんだろうね。
普通に看板無視して両軍走り回ってたの? 1917. 12. 6
フィンランド独立宣言
ロシア革命に伴い、ロシア皇帝の統治するフィンランド大公国は存立の基礎を失った。
1908年に設置されていたフィンランド議会は、10月革命を経てボリシェヴィキが実権を
握ったロシアから独立の同意を取り付け、12月4日に独立宣言書を起草して議会で
審議を行った。
そして6日、議会は正式に独立宣言を採択し、ここにフィンランドは独立国として
成立した。
しかし国内は、社会主義者・共和主義者・君主制主義者などが勢力争いを始めており、
フィンランドが確固とした独立を勝ち得るのはそれら勢力の内戦を経てからになる。 1917. 12. 6
ハリファックス大爆発事故
この日、カナダ大西洋岸の港町、ハリファックスで船団の集合待ちのために入港
してきた火薬運搬船「モンブラン」は、狭い水路でノルウェー船籍の貨物船「イモ」と
接触し、漏れ出した積み荷のベンゼンから発火した。
積み荷の危険を知っていた「モンブラン」の乗組員は一目散にボートで逃げ、船は
無人のまま埠頭に突っ込んでそこで爆発した。
2400トンに及ぶ火薬の爆発は、埠頭に集まっていた消防隊などの人々を巻き込み
ながら港町を破壊した。
船は粉々に破壊され、町は2キロ四方が瓦礫の山となった。さらに爆発が起こした
津波が沿岸の建物を押し流した。
被害は建物1万3000棟、死者2000人、負傷者9000人に及んだ。 1917. 12. 7
アメリカ戦艦戦隊、イギリス艦隊と合流
Uボートの猛威の前に、イギリス海軍は古い戦艦から乗組員を引き揚げて軽艦艇に
乗せ換えていたため、戦艦戦力に不足を感じるようになっていた。
これを補うために、4月に参戦したアメリカ海軍に戦艦派遣要請が出された。
アメリカ海軍はこれに応え、11月27日に戦艦「ニュー・ヨーク」、「デラウェア」、
「フロリダ」、「ワイオミング」がイギリスへ向けて出港した。
大西洋を東へ向かった4隻は、12月7日にスカパ・フローのグランド・フリートに
合流した。 1917. 12. 9
フォクシャーニ休戦協定
ロシアの戦線離脱によって、ルーマニアは孤立無援の状況となった。
やむなくこの日、ルーマニア軍は中央同盟国軍との間に休戦協定を結び、講和に
向けて交渉を始めることとなった。 1917. 12. 9
イェルサレム陥落
パレスチナ戦線の要、古都イェルサレムは徐々にイギリス軍の包囲に陥ろうとしていた。
オスマン軍はこの都に残しておく兵力の余裕はなかったし、イェルサレムの固守に
こだわって戦線が伸びてしまうのは、全体の兵力が劣勢な状況から見て得策では
なかった。
オスマン軍は、自軍の敢闘により撤退路が保たれているうちにイェルサレムを放棄
することを決断し、12月8日から撤収にかかった。
翌日、イェルサレムの市長フセイン・サリム・アルフセイニはイギリス軍に使者を送り、
イェルサレム市の無血開城を伝えた。
12月11日、イギリス軍のアレンビー将軍は公式にイェルサレムに入城した。古都の
聖域に敬意を表して、下馬しての入城だった。
ベエルシェバの戦闘からイェルサレムの開城まで、イギリス軍の被った損害は
1万8000あまり、対してオスマン軍の損害は2万5000に及び、さらに1万2000あまりが
各所で捕虜となった。
これにより、南パレスチナはイギリス軍の占領下となり、オスマン軍のバグダードへの
反撃は事実上非常に困難となった。
東部戦線の崩壊、西部戦線の膠着、イタリア戦線の大敗走によって陰鬱な空気が
漂っていた連合軍陣営にとって、この勝利は希望の光となった。
地中海沿岸は冬の雨季に入り、戦場にはしばしの平穏が訪れた。 1917. 12. 10
サロニカ戦線総司令官サレイユ将軍解任
サロニカ戦線の総司令官、フランス軍のサレイユ将軍は、中央では社会主義系の
政治家とかかわりが強かった。
新任の首相クレマンソーはこれを嫌い、サレイユを更迭してデスペレ将軍に変えようと
したが、参謀総長フォッシュ将軍は後任にギヨーマ将軍をあてた。
解任されたサレイユは軍務から引退し、故郷で隠棲することとなった。 1917. 12. 10
オーストリア海防戦艦「ヴィーン」撃沈さる
ピアヴェ川戦線の支援のためにトリエステまで前進してきていたオーストリア旧式
海防戦艦部隊に対し、イタリア海軍は小型舟艇による襲撃を企図した。
ルイジ・リッツォ少佐に率いられた「MAS」舟艇2隻は、12月9日の深夜にトリエステに
侵入し、防潜網をかいくぐって、オーストリア艦「ヴィーン」と「ブダペスト」に魚雷を発射した。
「ブダペスト」を狙った魚雷ははずれたが、「ヴィーン」は機関部に魚雷1発を受けて
大浸水を生じ、わずか5分で転覆沈没した。戦死者46名。
イタリア舟艇部隊は無事逃走し、リッツォ少佐はこの功績に対して黄金軍功章を
受章した。 WW1のドイツ軍はシェリーフェン・プランを捨てシェリーフェン・プランははロシア侵攻を偽装するためのブラフとし
兵力の動員の遅いロシア・東部戦線をオーストリアと協力し短期間のうちに突き崩し講和を取り付け
イギリスの参戦を出来得る限り遅らせその間にフランスを攻め落とすべきではなかっただろうか 緒戦で総攻撃してくるのがわかりきってる西部戦線側に主力を置かないという時点でシュリーフェンプラン以上にやばい賭けになる
西部戦線を強化しすぎると東部戦線は中途半端になるし
弱体にして西部戦線がフランス軍によって崩壊したら終わりだ 1916年まではブルシーロフ攻勢をかませるくらいにロシアも元気でしたからね。
そんなに一方的には勝てないと思いますよ。
オーストリア軍は頼りになりませんしね。 1917. 12. 12
ドイツ駆逐艦隊、イギリスのスカンジナヴィア船団を襲撃
10月の襲撃に引き続き、ドイツ海軍はイギリスとノルウェーを結ぶ船団の襲撃を
企図していた。
コルベ少佐率いる4隻の水雷艇(駆逐艦)はこの日、スコットランドからノルウェーに
向かう船団を捕捉することに成功した。護衛の駆逐艦「パートリッジ」は瞬時に撃沈され、
僚艦「ペリュー」は逃走した。残った護衛はトローラー型哨戒艇だけであり、ドイツ艦隊は
6隻からなる船団全部を撃沈して帰投した。
イギリス側の戦死者は100名、捕虜52名、商船乗員の捕獲者23名。ドイツ側は負傷
3名のみであった。 1917. 12. 14
フランス巡洋艦「シャトールノー」被雷沈没
フランスの旧式巡洋艦「シャトールノー」はギリシャ水域で兵員輸送艦として
使われていた。
この日、コリント湾を航行していた同艦は、ドイツの潜水艦「UC38」(艦長ハンス・
ヘルマン・ヴェントラント中尉)に発見され、午前6時47分に魚雷1本が命中して
航行不能となった。
護衛の駆逐艦の追撃をかわし、「UC38」は8時20分に再び雷撃を行って1本を
命中させ、「シャトールノー」は沈没した。戦死者300人あまり。
「UC38」は護衛の駆逐艦のさらなる攻撃を受けて浸水し、ヴェントラント中尉は
やむなく浮上して艦を放棄し、捕虜となった。 >>754
軽艦艇はがんばっていますね。
それから、1917年末はまだ第一次大戦「中期」だと思います。
まだ戦争は1年近く続くんですよ。
戦況を見ても、「末期」と言えるのは早く見積もっても1918年
秋からだと思います。 >>755
ろくな対潜兵器ないとはいえ、駆逐艦がいるのに一時間半も海域にとどまって攻撃続けるって、潜水艦の艦長とクルーの精神力すげーな 1917. 12. 15
モルダヴィア建国宣言
ロシア領ウクライナとルーマニアの国境のロシア側、ドニエストル川流域をベッサラビア
またはモルダヴィアという。
この地域の住民は2月革命後自治意識を強め、11月に議会を招集して、12月15日に
「モルダヴィア民主共和国」の成立を宣言した。
これはもともとはロシア臨時政府系のロシア連邦共和国に加盟するという意味合いの
ものであったが、10月革命とボリシェヴィキの政権奪取を経て、次第に隣国で民族的に
近いルーマニアとの合併に傾いていくことになる。 集英社漫画世界の歴史(古いほう)を読み返したけどレーニンの残虐な側面についてはほとんど触れられてなかった。
おかしくない? 激しい内戦時代でレーニンに敵対する陣営だけが虐殺されていたわけでもない事も考えて全体的に見るとレーニンが残虐だと言う評価は単純に不適当 つまりろくでなしの虐殺者しかいなかったという単純な事実
てか論点ずらしの詭弁としても761は出来が悪いな ほとんど罵詈雑言にしかなってなくてどこが問題なのか指摘できてないそのレスほど出来は悪くないよ 1917. 12. 17
ソヴィエト・ウクライナ戦争始まる
ウクライナは2月革命後自治政府を組織し、ロシアとの連邦制をめざして活動して
いたが、10月革命後はボリシェヴィキの暴力革命路線を批判し、モスクワとの反目が
深まっていた。
11月には自治政府は「ウクライナ人民共和国」の成立を宣言し、これは事実上の
独立宣言となって、英仏の承認を受けた。
これに対しボリシェヴィキ政権は武力によるウクライナ政府の転覆を決意し、東部・
都市部における蜂起とロシアからの鎮圧軍の派遣を行った。
12月17日、ボリシェヴィキ政権はウクライナ政府に対し敵対行動の中止と赤衛軍の
進駐を求める最後通牒を発し、ウクライナ政府は即日これを拒否した。
同日ウクライナ北部バハマチで赤衛軍とウクライナ軍の衝突が発生し、ここに
おいて両者は本格的な戦争に突入した。 漫画世界の歴史はむしろロシア革命で人口が激減した事実にノータッチなのが問題なんじゃない 前後に二回の世界大戦があるから、そのどちらかのせいにしとけば問題茄子
農業集団化も粛清も人口の減少理由ではありません 1917. 12. 20
ヤッファの戦闘
11月16日に英軍の手に落ちたヤッファの港であったが、オスマン軍の陣地はまだ町の
近くにあって、港は敵砲兵の射程内であった。
これを排除して港を使用可能にすべく、町の北を区切っているナハル・エル・アウヤ
(アウユ川)を渡河してオスマン軍を駆逐する作戦が企画された。
歩兵3個師団が攻勢を担当することとなり、第52師団は20日深夜の夜陰に乗じて
アウユ川河口から1マイル上流の地点をボートで渡った。渡河は奇襲となり、21日
午前までに渡河堡が確保された。
工兵が浮橋を急造すると騎馬部隊・砲兵部隊が渡河し、オスマン軍はその戦力に
圧倒されて北へ退却した。
かくしてヤッファはイギリス軍の手に確固として保持されることとなり、その後の
戦闘において補給拠点として機能することができたのである。 第1次大戦中に謎の失踪、豪潜水艦第1号 100年経てついに発見
ttp://www.afpbb.com/articles/-/3156201?cx_position=27 ソ連の体制の前駆はWWI前の帝政ロシアの無理やり体制維持のための政策が大元だし
政治将校もスパイ制度も大体ソ連前には原型がある ロマノフ王朝もハプスブルク王朝も密偵、密告制度が充実?していた。
国民の支持、それ以上に国民のまとまりについて自信が無かった。 西側から民主主義とか議会制度とか福祉とかそういう新思想が流れてきたら
皇帝一家と貴族だけが特権的に国家リソース独占してることが
国際競争にとっての癌だとみんなわかってたからなあ
そういうのを黙らせるためにスパイ制度整備したけど
歪んだ体制までは直せなかったという 1917. 12. 26
赤衛軍ハリコフを占領
独立を宣言したウクライナに侵攻したロシア赤衛軍は、ボリシェヴィキ派の多い東部
ウクライナに侵攻し、この日東部ウクライナの中心都市であるハリコフを占領した。
軍の統制という面で、赤衛軍はウクライナ軍に勝っており、ウクライナ軍は防戦
一方であった。 1917. 12. 26
イギリス海軍本部長ジェリコー提督更迭
ジュットランドでイギリス大艦隊を率いたジェリコーは海軍本部長を務めていたが、
その消極的姿勢はロイド・ジョージ首相の不興を買っていた。また、海軍大臣を務めて
いるロイド・ジョージの懐刀、エリック・ゲッデスとも個人的にそりが合わなかった。
ロイド・ジョージは、12日のスカンジナヴィア船団壊滅を口実にジェリコーを辞任させる
ことに決め、クリスマス前にゲッデスは書面をもってジェリコーに辞任を求めた。
ジェリコーはクリスマス明けの26日にこれを受け入れ、辞任した。後任はゲッデスの
肝煎りで本部長補佐を務めていたウィームズ提督が就任した。
長年の海軍への奉職に対し、ジェリコーは翌年春に子爵位を授けられた。
(Geddes と Wemyss の読み方はこれでいいのかちょっと不安。) 1917. 12. 27
オスマン軍イェルサレム周辺で反撃
イェルサレムから撤退したオスマン軍であったが、砲兵はまだ市内を射程内におさめて
いた。また、イギリス軍がイェルサレムから北上するための道路もしっかり保持していた。
イギリス軍はこれらの脅威を除去するために攻勢を企図していたが、オスマン軍は
機先を制して逆襲に転じた。
しかしイギリス軍は速やかに防御を固めてオスマン軍を撃退し、余勢を駆って再反撃に
出た。
4日間の戦闘で、イギリス軍はイェルサレム付近の重要拠点を奪取し、この都を安全に
するとともに、北上して攻勢に出るための足がかりを得ることに成功した。 >>755
シャトールノー…?
リシュアンドブレー?
アルベールドモルセール? >>775
「モンテ・クリスト伯」の登場人物は de Chateau-Renaud
巡洋艦の方は de Chateaurenault
なので、残念ながら別人ですね。 1918. 1. 4.
列強のフィンランド独立承認
前年の11月15日に独立を宣言したフィンランドに対し、この日ボリシェヴィキ・ロシアと
フランス・スウェーデン・ドイツが承認を行った。 1918. 1. 5
ラトヴィアの独立通告
この日、ロシア制憲議会に議席を持っていたラトヴィア代表のゴルドマニスは、
ラトヴィアのロシアからの分離を通告した。
実際のところラトヴィア国内は、親独派・共和派・共産主義者のブロックに分裂して
おり、国土はドイツの占領下にあったため、この通告は実質的なものとは言い難いが、
一応の国家の起点の目安としては考えることができる。 1918. 1. 5
ロイド・ジョージ、イギリスの戦争目的について演説
この日イギリス首相ロイド・ジョージは、前年にアメリカのウィルソン大統領から提示
された問いに対する答えとして、イギリスの戦争目的についての演説を行った。
その中でロイド・ジョージは、イギリスの戦争目的について次のような項目をあげた。
・ドイツの破壊や滅亡を求めるものではない。
・同じくオーストリア・ハンガリーの破壊を求めるものではないが、帝国領内の諸民族の
権利は認められるべきである。
・オスマン帝国は諸民族の自決権のもとに分割されるべきである。黒海と地中海の間の
海峡は国際管理に移されるべきである。
・ベルギーやセルビアなど、戦争によって征服された国は復活すべきである。
・ポーランドの独立を認めなければならない。
・アルザス・ロレーヌはフランスに返還されるべきである。
・ロシアの将来についてイギリスは干渉する意図はない。
・講和会議においては、ドイツの植民地の帰属とドイツ潜水艦による被害(の補償)に
ついて話し合われねばならない。
これらの宣言は、残念ながら3日後のウィルソンの演説の陰に隠れて、さほどの
反響を呼ぶことはなかった。 >>779
トルコには厳しいね
オーストリーに対するのと態度がだいぶ違うが、結果は似たようなものか…? 分割を条件としたオスマン帝国と違い、二重帝国はその存続が条件としているが、結局は自壊してしまったことにより同じ結果となった ま〜トルコは、これまでさんざん英仏援護してきたのに枢軸に走ったからな
まさに煮え湯を飲まされた思いだったろう
トルコにすりゃロシアとなんかくめるか、ってのはおいといてw
戦争とは別に、革命で国家崩壊まっしぐらだったしね
帝国の解体と再分配は必至ではあった これ以前はゴタゴタしてなかったと思ってるならそうとうな無知だな 輪をかけて悪いことに、帝国解体後英仏は分割しといて中東への関心失くすんだよなw
戦後部族間抗争でなんやかんやあるんだがそれにほぼ無介入
サウジの王族のサウード家はこの時の成り上がり
当時はまだ石油が発見されてないし、どっちも復興や東欧問題で中東どころじゃなかった
軍と外務省系の情報機関での意見の不一致や対立もあったそうだし 元々ゴタゴタしていた地域だけど、ブリカスの三枚舌外交は非難されて当然だろうね。
悪質な詐欺の類だろう、これ。
国際法上、イスラエル人(ユダヤ人)とパレスチナ人、正統性はどちらなんだか 1918. 1. 8
ウィルソンの14ヶ条
この日、アメリカ大統領ウィルソンは、議会上下両院合同会議の席上で、大戦の収拾に
ついて14ヶ条の原則を提示した。
大ざっぱに言うと、国際秩序の回復と諸国間の協議機関(国際連盟)の設立、中央同盟
諸国内での民族自決に基づく諸民族の独立、アルザス・ロレーヌのフランスへの返還
などがその内容であった。
この宣言は中央同盟国にも広く伝わり、特にドイツにおいては、それがドイツの破壊や
分割を求めるものではなかったため、和平推進派のよりどころとなった。
ウィルソンの14ヶ条のほとんどの条項は、のちの休戦協定やヴェルサイユ講和条約に
おいて実現している。
しかしウィルソンが言わなかったこと、すなわちドイツの賠償問題が、講和条約において
決定されるに至って、ドイツ人は裏切られたという気持ちを強く持つことになる。しかし、
それはのちの話である。
戦争はなお続くのであった。 カイザー攻勢もシュリーフェンプランもだが、パリ陥せばドイツ勝利なのか?
開戦劈頭では英露が戦争を投げ出すとは思えない
カイザー攻勢時も米軍が来ているのに、パリ失陥で仏が戦争を投げ出すとは思えない 開戦後すぐにパリが陥落すればドイツは普仏戦争のときのように勝てると思っていたんじゃないかな
シュリーフェン・プランが成功していたら塹壕戦になる前に機動戦でフランス軍とBEFに大打撃を与えられた可能性はあると思う
カイザー攻勢のときにまでなったらパリを陥落させても戦争は続くよね パリじたいはどうでもよかったっていうか、パリを大きく越えるほど右翼が大回りすることで無駄に攻めてくるはずのフランス野戦軍を背後から包囲、殲滅するってのが元々のシュリーフェンプランの目標だな ドイツに多少とも勝機があるのはやはり短期決戦か?(参謀本部の見立て通りだけど)
タンネンベルクでも史実通り勝っていれば、ドイツの立ち位置は三帝会戦に勝ったナポレオンの様なものになるから、長期戦をせずに有利な講話に持ち込めば、とは思う
しかし、ドイツを指導しているのはビスマルクではなく、カイゼルとベートマン、小モルトケ
気が大きくなって、英露がとても呑めない要求を出す→元の木阿弥になったりしてな 同盟国側、協商国側両方とも短期決戦しか考えていなかったと思うよ
マルヌの会戦でドイツ軍が敗北して進撃が止まってしまったあとのことはドイツ軍参謀本部は考えてなかったんじゃないかな
塹壕を掘って対峙して長期戦になったあとは両軍共に決定打と言える戦術がなくなってしまったし 一方起こりうる事柄を全て書き出して対策を練る米海軍方式 初めてあの渦巻きみたいな攻勢図を見た時の衝撃はもうね
これを実行する人居るのかと 大迂回機動による大包囲でしょ 近代ドイツの基本ドクトリン
成功させる作戦に余裕が無い上、補給に対して楽観的過ぎるから毎回グダグダのやつ
軍団規模での小包囲を繰り返すソ連式の方が遥かに単純で現実的 兵からすりゃ1000km以上連続で歩くだけでもたまらんよな
ぜったい右翼軍に配置されたくないw 単純比較は出来ないが、日本で例えると薩長軍が江戸に進軍する位の距離かな
鉄道も錦の御旗wも無ければ、時間も道も物資も厳しいわな >>790
独仏戦においてパリ落としてフランスという国家を消滅させれば
戦争が終わるというのが甘い考えたというのはのは
幼女戦記にしろ現実のナチスドイツにしろ常識なんだけど
ドイツの軍部は軍事的なところしか見ない、
政治や国民国家や民族感情を丸っと無視するのはどうしてだろう >>805
目標はパリじゃなくてあくまで野戦軍の包囲殲滅
あといろんな考え方あるけど、軍は純粋に軍事のことだけ考えて政治のことは気にするなってのも一つの見識だと思うよ >>806
問題は軍部が君主抑えて政治外交が動く余地がなくなったことなんだと思うんだな ルーデンドルフがドイツ帝国のガンだったな
政治が戦争指導の手段とするルーデンドルフの思想がいけなかった 別宮が戦勝の数日後に帝国主義を否定したケマルを大絶賛してた
戦勝すれば戦争に溺れてしまうのが国家 ルーデンドルフの軍人の政治への介入から軍部独裁への道を見て大日本帝国陸軍の若手将校は真似をしたのかな? 陸軍人が真に真似したかったのは戦時社会主義であり軍部独裁ではなさそう >>814
ってか本人が売り込みまくってた問題
実のところルーデンドルフ独裁って戦争裁判の訴追対象だったわけだし 負けた国のやり方真似したがるってのが既にヤバいセンス 戦前の日本では歴史は必然的に展開するという価値観があった
新しい思想である社会主義は国家の必然的な進化系と見なされ賛同する人が多かった ルーデンドルフ、銀河英雄伝説に出てきそうな名前だな。 >>818
そもそも日本は資本主義すら新参者だったから既得権者の力がそこまで強くなく
社会主義へのシンパシーは上から下まである。雲霞のように嫌ってたのは財閥当主とか企業上層部くらい 1918. 1. 12
日本軍艦、ウラジオストクに入港
ロシア革命に伴う各地方の政情不安は、極東にも及んでいた。
すでに前年末には各国の領事館から、居留民保護のために軍艦を派遣してほしい、
という要請が本国に出されていた。
日本は当初反応が鈍かったが、米英が軍艦を派遣するという動きを見せたため、
対抗上急遽艦隊派遣を決し、この日戦艦「石見」(旧ロシア戦艦「オリョール」)が
ウラジオストクに入港した。
その2日後、イギリスの巡洋艦「サフォーク」が入港、次第に各国の軍艦が集まり、
湾内は外交的思惑の渦巻く場となった。 日本はナチスやソ連の経済統制や独裁に憧れてたから、一概に敗戦国とかじゃないと思う
ただ、日本には独裁者が居ないからなかなか決定できずに官僚が好き放題やってグダグダになる
そのくせ、粛清や暗殺はしっかりやってて、226や515もだが永田鉄山殺したのが致命的 1918. 1 .14
ボリシェヴィキ、キシニョフを占領
休戦に伴ってルーマニア戦線から撤収するロシア軍の部隊は、モルダヴィアの首府
キシニョフを通過することになった。
これを見たモルダヴィアのボリシェヴィキは、ロシア軍ソヴィエト(兵士委員会)と
交渉して、ロシア軍によるキシニョフ占領とボリシェヴィキによる革命政府樹立を試みた。
モルダヴィア民主共和国政府はこれに対抗する兵力を持たなかったため、ルーマニアに
援助を求めた。
ルーマニア軍はただちに越境し、16日にはボリシェヴィキを一掃してキシニョフを占領した。 >>824
戦時中の総力戦をやるために岸信介などの革新官僚が官僚のよる統制を始めたんだよね。
それを戦後復興、高度成長もその体制でやってきて今もそのまま。
政治自民党、行政官僚、企業経済界がグルになって国民に特定のことをやらせる。
これは共産党の命令で行政機関が国民にやらせる社会主義国のやり方と同じ。
特に分かりやすい例が国民の人生設計は新卒終身雇用の夫の収入で妻が子育て大前提。
新卒就職失敗で非正規ワープア、離婚シングルマザーが貧困、正社員が過労死でも自己責任! マット・リドレーの言う通りトップダウンの社会設計は必ず問題が出る ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています