第一次世界大戦について語るスレ 5 [無断転載禁止]©2ch.net
レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。
日本はナチスやソ連の経済統制や独裁に憧れてたから、一概に敗戦国とかじゃないと思う
ただ、日本には独裁者が居ないからなかなか決定できずに官僚が好き放題やってグダグダになる
そのくせ、粛清や暗殺はしっかりやってて、226や515もだが永田鉄山殺したのが致命的 1918. 1 .14
ボリシェヴィキ、キシニョフを占領
休戦に伴ってルーマニア戦線から撤収するロシア軍の部隊は、モルダヴィアの首府
キシニョフを通過することになった。
これを見たモルダヴィアのボリシェヴィキは、ロシア軍ソヴィエト(兵士委員会)と
交渉して、ロシア軍によるキシニョフ占領とボリシェヴィキによる革命政府樹立を試みた。
モルダヴィア民主共和国政府はこれに対抗する兵力を持たなかったため、ルーマニアに
援助を求めた。
ルーマニア軍はただちに越境し、16日にはボリシェヴィキを一掃してキシニョフを占領した。 >>824
戦時中の総力戦をやるために岸信介などの革新官僚が官僚のよる統制を始めたんだよね。
それを戦後復興、高度成長もその体制でやってきて今もそのまま。
政治自民党、行政官僚、企業経済界がグルになって国民に特定のことをやらせる。
これは共産党の命令で行政機関が国民にやらせる社会主義国のやり方と同じ。
特に分かりやすい例が国民の人生設計は新卒終身雇用の夫の収入で妻が子育て大前提。
新卒就職失敗で非正規ワープア、離婚シングルマザーが貧困、正社員が過労死でも自己責任! マット・リドレーの言う通りトップダウンの社会設計は必ず問題が出る 日本がインチキなのは政府サイドに都合がいい時だけ社会主義なところ。
タテマエが資本主義なため新卒就職失敗が致命傷になっても自己責任にされてしまう。
社会主義国ならその前提になる仕事を保証してくれる。 >>829
与えられた仕事を拒否したら強制収容所送りだけどねw 新卒しか取らないのって才能ある人材が埋もれるリスクのほうが大きいような・・・ 新卒一律採用の利点は、中途採用優遇処置を悪用する、声のデカい輩の数を抑制できること
外国人を差別するな、(自称)弱者は優遇しろとかな
性善説を排除した立法が確立するまでは慎重にならんと事業が壊れるリスクがある
あとさ、スレタイに戻れ 1918. 1. 18
ロシア制憲議会解散
この日、前年の選挙によって選ばれた議員によるロシア制憲議会が開催されたが、
社会革命党(エスエル)が多数を占める議会はボリシェヴィキの政権とソヴィエトの
権力を認めなかったため、翌日にボリシェヴィキの率いる軍隊によって解散させられた。 >>831
新卒至上主義をやってる会社があることは問題じゃない。
多くの企業が右ならえでやってる、且つ政府がそれ前提の社会制度を設計するから悪質。
右ならえでやることにより中途退職する人間は問答無用で訳ありのゴミ扱いで不採用の対象にできる。
だから過労死やブラック企業が問題になる。
新卒終身雇用をやめたら再就職がやりやすくなり、ブラック企業からはまともな人間は逃げるため自滅してくれる。 1918. 1. 20
インブロス島沖海戦
ダーダネルス海峡の出口を抑えるインブロス島には、イギリス軍の艦隊と航空隊が
配備され、海峡を封鎖するとともに、イスタンブールなどにたびたび空襲を加えていた。
これを攻撃すべく、オスマン海軍は、ドイツから乗組員ごと供与された巡洋戦艦
「ヤヴズ・スルタン・セリム(ゲーベン)」と軽巡「ミディリ(ブレスラウ)」をもって襲撃を
加えた。
護衛戦力の旧式戦艦の留守を狙って行われた襲撃は成功し、イギリス軍は
モニターの「ラグラン」と「M28」を撃沈されたが、オスマン艦隊も触雷で「ミディリ」が
沈み、「ヤヴズ」も機雷を踏んで行動不能となった。
イギリス航空隊は「ヤヴズ」に激しい空襲を加えたが撃沈には及ばず、「ヤヴズ」は
1月26日に戦艦「トゥルグット・レイス」に曳航されて帰還した。
この襲撃による戦死者はオスマン艦隊の方が多く、また、「ヤヴズ」が行動不能に
なったことはイギリス軍にも知れ渡ったため、イギリス軍の封鎖部隊への脅威は
大幅に下がった。戦略的にはイギリス軍有利な結果だったといえよう。 >>835
スレチだが
日清の黄海での「松島」の損害を見ると、舷側炭庫の防御力と防御甲板がなかったら
沈没していた可能性が高い。
大口径砲弾の炸裂に対しては一定の防御力があったとみなすべきではないかな。 1918. 1. 24
ウィルソンの14ヶ条に対するドイツ宰相の返答演説
ウィルソンの14ヶ条発表を受け、この日ドイツ宰相ヘルトリング伯は帝国議会において
返答演説を行った。
これは14ヶ条のうちドイツに直接関係する10ヶ条について答えたもので、基本的には
ウィルソンに同意する点が多かったが、エルザスを含むドイツ領の一体性の保障、
ロシア問題に関しての西側列強の介入の拒否などの点でなお隔たりのあるものであった。 1918. 1. 24
モルダヴィア(ベッサラビア)、ロシアからの独立を宣言
ルーマニア軍の介入によりキシニョフを回復したモルダヴィア政府は、この日正式に
ロシアからの離脱・独立を宣言した。
これはその後のルーマニアとの合邦をめざすものであった。 1918. 1. 28
トロツキーの「戦争でも講和でもない」宣言
ブレストでの独露講和交渉は難航していた。ドイツ側はこの年までの占領地の割譲を
要求し、ロシア側は容易にそれを呑むことはできなかった。
苦慮したロシア側代表団長のレオン・トロツキーは、この日、ロシアは「戦争でも講和でも
ない」状態にある、と宣言し、一方的に戦争から離脱しようとした。
トロツキーは、いずれドイツでも革命が起こって戦争を続けられなくなるだろう、と予測
していたのだが、彼にとって残念ながらその時期はまだ先のことであった。
当然ながらこの声明はドイツ側には受け入れられるものではなく、ドイツ軍は戦争の
再開を企図することとなる。 1918. 1 .28
フィンランド内戦勃発
前年暮れに独立を宣言したフィンランドでは、社会主義者と国家主義者が対立していた。
国家主義者側は暫定政府において自派の武装勢力を「国軍」に位置づけ、ロシア軍で
中将を務めたカール・マンネルヘイム将軍を司令官とした。(以降この勢力を「白軍」と
記述する)
これに反発した社会主義者は赤衛軍を組織し、都市部での蜂起を企図した。社会
主義者は都市労働者に基盤を置いていたからである。
1月27日の夜、赤衛軍は首都ヘルシンキにおいて一斉蜂起し、南部フィンランドを
支配下に置いた。内戦の勃発である。
暫定政府は白軍とともにバルト海岸中部のヴァーサへ移った。白軍は沿岸に駐屯
していたロシア軍部隊を武装解除して装備を整え、国内は南北に赤軍と白軍が
対峙する情勢となった。 1918. 1. 29
ボリシェヴィキのキエフ蜂起
ロシア赤衛軍のウクライナ侵攻に呼応して、この日ボリシェヴィキ派の労働者は
キエフ兵器廠において蜂起した。
ウクライナ政府軍はただちにこれを弾圧し、6日間の市街戦の末これを鎮圧した。
しかしその間に赤衛軍はキエフに迫っており、蜂起軍は十分にその任務を果たしたと
言える。 1918. 1. 29
「ダンスターフォース」出撃
旧ロシア領バクーの油田は、ロシア革命の結果、力の真空に陥ろうとしていた。
これがオスマン軍やドイツ軍の手に落ちないようにするため、イギリス軍は
「秘密部隊」をバクーへ向けて派遣した。
450人の将校と下士官からなる特殊部隊は、イギリス・インド陸軍のダンスターヴィル
少将によって編成され、自動車によって機動すべく装備されていた。名付けて
「ダンスターフォース」。
ダンスターフォースは1月29日にバグダードを出発し、主にペルシャ領を経由して、
カフカス山脈を越える道へと乗り出した。
その前途はまだだれにもわからなかった。 ピーター・ジャクソン、第一次世界大戦当時の映像を修復し3D映画化!
https://news.walkerplus.com/article/135234/
> 「ロード・オブ・ザ・リング」「ホビット」シリーズなどで知られる映画監督ピーター・ジャクソンが、今年で
>終戦100周年になる第一次世界大戦の長編ドキュメンタリーを監督、製作している。
> この映画は、終戦記念アート・プログラム「14-18 NOW」の一部として、ロンドンの帝国戦争博物館の
>協力のもと製作が進められている。監督はおよそ100年も経つ歴史映像を掘り起こし、最新技術によって
>当時の荒い映像を滑らかでシャープな映像に補修。手作業でカラー化したそうだ。そしてなんとこの映画は
>3D作品に仕上げられると、BBC Newsが報じている。
> 同作は今年のロンドン映画祭でのワールドプレミア後、終戦日である11月11日(現地)にイギリスのテレビ
>局BBC1で放送される予定。 1918. 2. 9
赤衛軍、キエフを占領
独立ウクライナの首都キエフは、この日ムラヴィヨフの率いる赤衛軍に占領された。
ウクライナ政府は西部ジトミルに退却した。 1918. 2. 9
ウクライナ政府、中央同盟国と講和
赤衛軍の侵攻によって首都キエフを失った独立ウクライナ政府は、この日ドイツを
はじめとする中央同盟国と単独講和を行った。
ブレスト・リトフスク市で結ばれた講和条約は、ドイツにおいては「ブロートフリーデン
(パンの講和)」と呼ばれ、ウクライナからドイツへ大量の食糧援助を行うかわりに、
ドイツ軍による進駐――実質的にはドイツ軍による赤衛軍の駆逐――を認めるもので
あった。
ロシア国内における一種の内戦であったソヴィエト・ウクライナ戦争は、これによって
中央同盟国を巻き込んだ国際紛争に発展したのである。 1918. 2. 10
東部戦線の休戦破れる
ブレストでのロシアと中央同盟国の講和会議は難航していた。交渉の先行きに希望を
失いつつあったロシア側代表のトロツキーは、先に「戦争でも講和でもない」宣言を
行ったが、これを交渉決裂とみなしたドイツ側は、この日休戦協定を無効として、
東部戦線全域にわたって前進を開始した。
これに対抗すべきロシア軍はすでに戦意を完全に失っており、ドイツ軍はほとんど
抵抗を受けずに東へ進撃することとなった。 かつてどこかのサイトで資源産出量、鉄道キロ数、溶鉱炉の数などの各国の国力を見たけど
えっ?イタリアってこんなに国力低いの?
欧州列強の一角のはずが英独仏に遠く及ばず。
日本は日露戦争の頃はトルコ以下、第一次世界大戦でも二重帝国やイタリア以下だけど。 >>850
イタリアの評価には常に歴史補正がかかってるんだよ
しかも、ローマ帝国補正とルネッサンス補正で二重にw
近代国家としての実力はまあ…
ロシア/ソ連や中国に常に実際にはほとんど役に立たない領土面積補正がかかってるみたいに >>850
そのイタリアでも一億発の砲弾生産してる。
一次大戦当時は日本よりはるかに上 1918. 2. 15
ドイツ水雷戦隊のドーヴァー海峡襲撃
この日、ドイツ海軍海峡戦隊の水雷艇部隊は、ドーヴァー海峡の防備にあたるイギリスの
ドリフター部隊を襲撃し、7隻を撃沈して去った。 1918. 2. 18
ロバートソン参謀総長更迭
イギリス陸軍参謀総長のロバートソン大将は西部戦線一点重視戦略を取り、多くの
戦線から中央同盟軍の消耗を誘おうというロイド・ジョージ首相の戦略と激しく対立
していた。
両者の間では政治的に暗闘が繰り返されていたが、この日ついにロイド・ジョージが
勝利し、ロバートソンは更迭されて東部軍管区司令官のヘンリー・ウィルソン大将が
後任となった。ロバートソンは入れ替わりで東部軍管区司令官となった。 欧州大戦って名前変えたほうが良いわ
どこか世界なんだって 世界=欧州って言っても大きく外してない時代だからなぁ 間接的にでも世界中の全ての人間が無関係ではいられなかったほどの規模の戦争って意味で世界大戦なんだよ
中立国でも世界中の国が軍需物資の生産とかあるいは石炭や食料や衣服だとしても普段とは違う輸出入状態になったし 元々は欧州大戦って呼ばれてたけど、アフリカ、中東、東アジア、南洋諸島と戦闘が拡大して参戦国が増え、アメリカの参戦がきっかけで世界大戦って呼ばれるようになった ドイツでは最初から世界大戦って呼称してたって話もあったような ドイツは「世界をとる戦」っていうウィリーの覇権獲得の気合いwが込められた呼称って話だな
アメリカは参戦後に当事者意識高める一種のプロパガンダとして「欧州戦争」から「世界戦争」に呼称変更
イギリス、フランスは「大戦争」がメジャーだったけど、戦後しばらくして振り返って「世界戦争」になった感じ
ま、アメリカの影響が色んな意味で強くなったことの反映だろうね
日本の「世界大戦」ってのは間とった感じでけっこう珍しい 1918. 2. 21
イェリコ陥落
パレスチナ戦線において、イェルサレムを奪取したイギリス軍は右翼においてさらなる
攻撃を企図した。
これは戦線をヨルダン川方面に広げることによってオスマン軍の負担を大きくすると
ともに、死海に到達することによって後方連絡線の援護にこの湖を利用しようとする
ものであった。
2月14日にイェルサレム付近の陣地から前進を開始したイギリス軍は、ユデア丘陵に
陣地を構えるオスマン軍をゆっくりと排除し、同時に南翼から騎乗歩兵を侵入させた。
騎乗歩兵の迂回はオスマン軍を効果的に牽制し、21日にはユデア丘陵から
ヨルダン河谷に出る道を抑えるイェリコの町の守備隊は撤退して、町はイギリス軍の
手に落ちた。
しかしヨルダン川西岸には砲兵を含む有力なオスマン軍部隊が残り、ヨルダン河谷の
支配権はいまだどちらに帰すとも定まらない情勢であった。 ユニークで個性的なパソコン一台でお金持ちになれるやり方
興味がある人はどうぞ
グーグル検索⇒『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』
TXLRX 色々出てるのを読むと既に当時のイギリスは、調停能力もないほど影響が低下してたと
いうが、第一次大戦の前だから疲弊はしてないだろうに。 ゴミみたいな陸軍しか持ってない時点で大国レベルになると英国から脅された所であまり気にならないだろうし >>864
一方ドイツは、いまの中国みたいな状態だったわけで
なに言ったって聞きゃあしねえw
それと、孤立主義下で世界中の貿易拠点の維持続けて、制度疲労の兆候ははっきりでてたよ 1918. 2. 23
赤衛軍、ロストフを占領
もとロシア軍大本営幕僚長のアレクセイエフ将軍は、10月革命後にドン川河口に近い
ノヴォチェルカスクに逃れ、コサックのカレージン将軍と協力して反ボリシェヴィキ闘争を
呼号した。
アレクセイエフのもとにはコルニーロフ将軍も合流し、アレクセイエフを軍政長官に、
コルニーロフを軍司令官にした反革命軍が組織された。
これに対しボリシェヴィキ政権は1918年初頭から討伐軍を送り込み、この日ロストフを
占領してドン川流域を制圧した。
反革命軍は黒海岸のクバン地方にまで撤退した。 1918. 2. 24
エストニア独立宣言
ロシアとの講和会議の一時的な停止と、それに引き続くドイツ軍の攻勢再開によって、
バルト海岸はドイツ軍の占領下に入ろうとしていた。
エストニア西部に樹立された民族主義者の団体、エストニア解放委員会は、この日
ドイツ軍とともにエストニア最大の都市タリン(レヴァル)に入り、エストニアは独立した
民主的な国家であることを宣言した。
ドイツ軍は28日までにナルヴァまで前進し、エストニアのほぼ全土を占領下に置いた。 1918. 2. 24
仮装巡洋艦「ヴォルフ」、ドイツに帰還
1916年11月30日にキールを出撃したドイツ仮装巡洋艦「ヴォルフ」(艦長カール・
アウグスト・ネルガー中佐)は、インド洋から南西太平洋を股にかけ、451日にわたる
通商破壊行動を行ってこの日無事ドイツに帰還した。
その間に直接捕獲・撃沈した敵船は14隻、機雷によって沈めた船は13隻。
この偉大な功績により、ネルガー中佐はプール・ル・メリト勲章を受章した。 1918. 2. 24
オスマン軍トレビゾンドを奪回
10月革命に伴い、ロシア軍はカフカス・アナトリア戦線から総撤退を開始した。
1917年12月18日には地域のオスマン軍と停戦協定が結ばれた。
この地域の非トルコ人諸民族は自衛のためにロシア軍の放棄した装備で民兵部隊を
組織した。
オスマン軍はほぼ無防備と化した前線を見て、停戦ラインを超えて戦前の領土を
奪回しようと進撃を開始した。1918年2月12日のことである。
南カフカスの諸民族、特にオスマン帝国から虐殺を加えられたアルメニア人組織は
オスマン軍に立ち向かったが、力の差は歴然としており、オスマン軍は前進を続けて、
この日黒海岸の主要都市トレビゾンドを奪回した。 政治家全員マジ全部国民や外国のせいにしかしてないので それを指摘することは事実だから合法 あと愚痴を公共の場で言うと嫌われます 気をつけましょう 陛下に世界平和のバースデープレゼント オリンピックのゴミ掃除 あと嘘をつく国は独裁国家なのでクーデターを起こせます 1918. 3. 1
ファルケンハイン、パレスチナ方面軍司令官職から解任
この日、前年のイェルサレム失陥の責を負って、パレスチナ方面のドイツ軍司令官
ファルケンハイン将軍(もと参謀総長)は解任され、トルコ勤務の長いリーマン・フォン・
ザンデルス将軍が後任となった。
ファルケンハインは白ロシア占領軍の第10軍司令官に移され、そこで終戦を迎えた。 1918. 3. 3
ドイツ軍キエフを占領
独立ウクライナ政府と講和した中央同盟軍は、条約に従ってウクライナ領内へ進駐し、
東から迫る赤衛軍と衝突した。
装備と統制に勝るドイツ軍は瞬く間に赤衛軍を駆逐し、この日ウクライナの首都キエフを
占領した。ウクライナ政府はこれに従ってキエフに帰還した。 1918. 3. 3
ブレスト・リトフスク講和条約調印
党内での激論の末、ボリシェヴィキ政府はドイツ側の条件を呑んで講和することを
決断した。いかなる犠牲を払っても、革命を完遂することが最優先とされたのである。
この講和条約によって、ロシアはポーランド・ウクライナ・バルト海岸・フィンランドを
失った。
東部戦線での戦争は公式にはここに終結を迎え、膨大な数のドイツ軍部隊が
フリーハンドを得ることとなった。
ドイツ軍はこの兵力をもって西部戦線で最後の攻勢をかけることとなる。 >>874
17年12月14日から約80日間か…いや、戦争の結果が変わるとは思わんが、米軍にとっては貴重な準備期間だったろうな 1918. 3. 9
英仏軍ムルマンスクに上陸
革命後混乱するロシア情勢を見て、英仏は親協商勢力による東部戦線の再建を
企図していた。
その第一歩として、北極海に面するムルマンスク港にこの日英仏の艦隊が入港し、
陸戦隊を上陸させて町を占領した。
また、ムルマンスク周辺では親独のフィンランド民兵が侵入を行っており、英軍は
これに対抗することも考えねばならなかった。 1918. 3. 12
オスマン軍エルズルムを奪回
ロシア軍が撤収して無防備となったカフカス・アナトリア戦線でオスマン軍は前進を
開始した。
この日オスマン軍はアナトリア中部の主要都市エルズルムを奪回し、さらに東へ
進撃を続けた。 1918. 3. 12
ボリシェヴィキ政権、首都をモスクワに移す
ブレスト・リトフスク講和会議の中止の間に、ドイツ軍はロシアの首都ペトログラードから
150キロのナルヴァにまで侵攻してきていた。また、講和の結果フィンランドは独立する
こととなり、ペトログラードは極めて国境に近い首都となってしまった。また、バルト海
からの攻撃にもペトログラードは弱い位置に置かれることになった。
この状況を見て、ボリシェヴィキ政権の首班レーニンは、首都を内陸部のモスクワに
移すことを決意した。ピョートル大帝の遷都から205年、ロシアの首都は再びモスクワに
還ったのである。 1918. 3. 13
ドイツ軍オデッサに到達
独立ウクライナ政府との和平に基づきウクライナ領内に進駐したドイツ軍は、
ボリシェヴィキ勢力が占拠していた黒海岸のオデッサを攻撃し、ここを占領した。 >>873
ウクライナは歴史上ロシアには属しない欧州寄りの国なんだよな。ロシアと欧州の歴史対立が再燃してる。 1918. 3. 14
トレビゾンド講和会議始まる
10月革命に伴い、ロシア南部国境を形成していたカフカス諸民族はロシアから離脱し、
さしあたりの組織としてザカフカス(トランスコーカサス)評議会を形成した。
この政体とオスマン帝国との間にはいまだ戦争状態が存在し、軍事境界線には緊張が
漂っていた。
この日、ザカフカス評議会とオスマン帝国の代表は黒海岸のトレビゾンドに集まって
戦争の終結に向けて講和会議を開始した。
しかし民族の境界と旧国境と軍事境界線はいずれも食い違っており、交渉は当初から
難航が見込まれていた。 1918. 3. 21
イギリス軍のヨルダン川攻勢始まる
イェルサレムを手中にしたイギリス軍の次の目標は、ヨルダン川を越えてヘジャズ鉄道を
アンマンにおいて切断することであった。
この作戦は、へジャズ鉄道沿線で作戦するアラブ反乱軍に対する大きな支援ともなる。
3月21日、英本土第60師団を主力とし、ANZACの乗馬・ラクダ歩兵部隊等によって
支援されたイギリス軍部隊は、ユデア丘陵を下ってヨルダン河谷へ侵入した。
死海の北10kmほどのヨルダン川において、イギリス軍は何ヶ所かで渡河を試みた。
そのうちマハデット・ヒジュラの渡河点での架橋が成功し、イギリス軍部隊は激戦の末に
ヨルダン川東岸に橋頭堡を確保した。
23日には最初の渡河点の北において、街道とヨルダン川が交差する点でもうひとつの
架橋が行われ、イギリス軍主力がヨルダン川を渡った。
イギリス軍はさらに東へ、アンマンに向けて進撃を開始した。 1918. 3. 21
ドイツ軍、西部戦線で春季大攻勢を発起
東部戦線での講和によって大幅な兵力の余裕を生じたドイツ軍は、アメリカ軍の
到着前に英仏軍を撃破して有利な講和を結ぶという見通しの下、西部戦線で大攻勢を
開始した。
主攻軸はカンブレーからアミアン方面に置かれ、英仏軍を分断してイギリス軍を
降伏に追い込むという目標が立てられたが、攻撃地点の選定は戦略的というより
戦術的に弱そうな地点を選ぶという方針だった。
攻撃地点に選ばれたのはカンブレー=サン・カンタン戦線であった。ここは前年の
ヒンデンブルク線への撤退によりイギリス軍が新たに前進した部分で、塹壕線の
構築が進んでいないとみられたのである。
また、ヴェルダン死守の経験を持つフランス軍より、イギリス軍は防御の経験に
乏しく、防御力が弱いのではないかと期待された。 攻撃戦力は4個軍72個師団、対するイギリス軍は26個師団であった。
攻撃戦術は以下の通り。まず毒ガス弾による短時間の猛砲撃で敵戦線後方の司令部、
交通結節点をたたいて敵戦力を麻痺させる。次いで砲兵陣地を砲撃して阻止火力を
封じ込め、最後にごく短時間の砲撃を前線に加えて突破口を開く。
突破口からは歩兵戦力の中から選りすぐった優秀な兵からなる突撃歩兵
(シュトーストルッペン)を侵入させる。突撃歩兵は敵陣の強いところは迂回して弱点を
突き、とにかく前進することを目的とする。
突撃歩兵がやり過ごした敵拠点は、突撃歩兵の前進によって孤立化したところを
後続の部隊が包囲して制圧する。
この方針のもと、ドイツ軍は3月21日早朝に攻勢を開始した。作戦名は「ミヒャエル」。
午前4時35分に砲撃が始まり、午前9時40分には突撃歩兵の攻撃が始まった。
濃い煙幕と霧に助けられて、突撃歩兵は前進し、包囲し、連絡線を切断した。
午前中いっぱい、イギリス軍の上級司令部は状況を全く把握できず、各所で背後に
回られたイギリス軍部隊は降伏して、前線は総崩れとなった。
ドイツ軍は巨大な成功を手にしつつあった。 1918. 3. 21
「パリ砲」による砲撃始まる
この日の朝、パリ市民は突然の爆発音に驚かされた。空襲か? しかし空に
ドイツ軍機やツェッペリンの影はない。爆発は15分間隔で21回起こった。
爆発点付近に散乱した破片を分析したところ、驚くことにこれは大砲から発射された
砲弾であることが分かった。
いったいどこから? ドイツ軍の攻勢が始まったニュースは届いていたが、まだ敵は
パリから100キロも離れているはずなのだ。
これはドイツ軍の秘密兵器「パリ砲」による砲撃であった。これは口径21cm、
砲身長実に37m、口径比176口径の超長身砲で、戦線背後からパリを攻撃するために
開発された超兵器だった。
砲台はソワソン北15kmほどのクシーの森に築かれていた。パリから120kmの
距離である。
フランス側では、この砲はヴェルダン攻撃に使用された重攻城砲と混同され、
「グロス・ベルタ」と呼ばれた。
この日から、一日10発前後が発射され、パリ市民を恐怖に陥れることになる。 1918. 3. 26
ドゥラン会議
ドイツ軍の大攻勢によって、戦線は英仏軍の接点付近で引き裂かれつつあった。
この危機を救うには、英仏軍の共同指揮がぜひとも必要である。
この目標に向けて話し合うため、この日アラスとアミアンの中間にあるドゥランにおいて
英国大陸派遣軍の幕僚会議が開かれるのに合わせて、フランスの代表団もそこに
集まることになった。
会議に集まったのはフランスのポワンカレ大統領、クレマンソー首相、フォッシュ将軍、
ヴェガン将軍、イギリスのミルナー陸軍大臣、ヘイグ派遣軍司令官他であった。
ここにおいて西部戦線すべてを統括する総司令官職の設置が決定した。その地位に
ふさわしい指揮官として皆が考えたのはフォッシュ将軍であったが、この日は人選に
まで結論は出なかった。 1918. 3. 26
チェコ軍団の移送始まる
オーストリア・ハンガリー軍からロシア軍の捕虜となったチェコ人・スロヴァキア人は、
ロシア軍に寝返って「チェコ軍団」を編成し、ドイツと戦っていた。
東部戦線の講和によってロシアとドイツとの戦争は終わってしまったが、チェコ軍団は
連合国にチェコスロヴァキアの独立を承認させるために、西部戦線に移動して
戦い続けることを望んだ。
ついてはロシア国内をウラジオストクまで横断する必要があったが、不穏な国内を
武装した集団が横断していくことに難色を示したソヴィエト・ロシア政府はなかなか
その許可を出さなかった。
しかし粘り強い交渉の末、重火器は置いていくという条件で、この日ソヴィエト
・ロシア政府とチェコスロヴァキア国民評議会の間で、軍団移送についての合意が
成った。
チェコ軍団は東を目指して移動を始めたが、シベリア鉄道の輸送力は限られており、
移送はなかなか進まなかった。 1918. 3. 27
第一次アンマン攻撃
ヨルダン川を渡ったイギリス軍は、オスマン軍の抵抗を排除しながらアンマンへ進撃を
続け、この日アンマンの防御陣地に攻撃を行った。
しかしオスマン兵とドイツ兵が守る塹壕陣地は堅固で、イギリス軍に容易に鉄道への
接近を許さなかった。
また、北方ダマスクス方面から鉄道を通して増援が送り込まれ、さらにイギリス軍の
後方連絡線を狙った反撃も行われた。
連絡線に脅威を受けたイギリス軍は容易に先鋒の攻撃部隊に増援が行えず、4日間の
戦闘ののちにやむなく撤退を開始した。 1918. 3. 28
第一次タンペレの戦闘
フィンランド内戦は、湖沼地帯をはさんで白軍と赤軍が南北に対峙する形勢となっていた。
白軍司令官マンネルヘイム将軍は、ヘルシンキのほぼ真北150kmにあるタンペレの
陣地を突破すべく、1万6000の兵で南下を開始した。赤軍は1万4000の兵で守りを固めた。
両者はタンペレで激突し、赤軍の防御陣地の前に白軍の攻撃は頓挫し、白軍は
退却して再編成を図ることとなった。 1918. 3. 28
ゴフ将軍更迭
ドイツ軍の「ミヒャエル」攻勢を受け止めて崩壊したイギリス第5軍司令官ヒューバート・
ゴフ将軍はこの日解任され、ローリンソン将軍に指揮権を譲った。
4月3日には軍の名称も「第4軍」と改称されることになる。 1918. 3. 28
パリ砲、サン・ジェルヴェ教会に命中
この日、遠くソワソンからパリを砲撃中のドイツ軍の秘密兵器「パリ砲」の砲弾は
サン・ジェルヴェ・エ・サン・プロテ教会に命中し、聖金曜日の礼拝に集まった人々の
間で爆発して、死者91人と負傷者68人が出た。
これが「パリ砲」の砲弾1発による最大の被害であった。 1918. 3. 28
ドイツ軍アラス方面で攻勢
アミアンを目指すドイツ軍の攻勢は続いていた。
しかし、先頭を切って進む突撃部隊は消耗し、砲兵をはじめとする補助部隊や
補給物資は突破先頭になかなか届かなかった。
この地域は1916年以来両軍が戦闘に明け暮れ、道路などが荒らされつくして
いたのである。その上ドイツ軍のヒンデンブルク線への撤収の際には井戸に
毒まで投じられており、馬匹の移動には困難が生じていた。
ドイツ軍の前進はやや左にそらされ、モンディディエを占領したところで
息切れした。
そこでドイツ軍は、戦線右翼から北のアラスへ向けての攻勢を開始した。
「マルス」作戦である。
これはアミアン方面から敵の予備を奪うとともに、交通の結節点であるアラスを
占領することによって敵の戦略的移動を妨げる目的があった。
一方の連合軍は、前年暮れから編成されていた連合軍最高司令部
(フォッシュ元帥)がようやく稼働し始めていた。
フォッシュは南からフランス軍部隊で逆襲を行ってドイツ軍を引きつけるとともに、
重要拠点に兵力を集中した。
ドイツ軍の攻勢作戦はひとつの転機を迎えようとしていた。 ドイツ、兵舎の名前を第1次大戦将軍からアフガン戦死者に改名
ttp://www.afpbb.com/articles/-/3169168?cx_position=16 絶望のカイザー攻勢だな
当時のドイツ国民はどれだけ理解していたか知らないけど、ドイツ帝国を実質仕切っていたのはルーデンドルフ
作戦通りの戦果を上げて、ドイツに不利でない条件で講和できれば御の字なんだが、纏まる話も纏められない予感 :::::::::::::::::::::``ヽ
:::::>>::::::::::::::::::::\
::::::::::::::::::::::::::::::::::::ヽ
::::::::::::::::::::::::::l:::ヽ:::::::ヽ
:::::::::::::::::::::::::|ソノ`ヽ::::::ヽ
:::::l/,,;;;;;;;,.ヽ::::l
:::::::::::::::::::::::ノ''゙゙___ ゙゙ |ノ
:::::::::::::::::::ノ <● > \
:::::::::::::/ ヽ
:::::::::::ヽ , `ヽ
::::::::::::::`、 (._ ,,, ノ
ヘ::::::::::::::| ,,,,ヽ._
`、::::::::ノ ゙゙゙/__)
、 '、:::::ヽ \_)
ヽ、 `ヾ'''゙ ,´
\ |
ヽ、 ノ
`` ?---? 'い
https://twitter.com/ibuki_air
09058644384 1918. 4. 1
イギリス空軍発足
前年の「空軍法」成立に伴い、この日イギリス陸軍飛行隊とイギリス海軍航空隊は
合併し、本土防空隊とともに「イギリス空軍」Royal Air Force を結成した。
これは世界初の独立軍種としての空軍の誕生であった。 そう言えば第二世界大戦を陸海軍で戦ったのは、主要国では日米だけか。
欧州は航空機の有用性を実戦で体験したけど、日米の場合、仮想敵の問題もかね?
当時、日本の戦場は中国大陸、相手の航空戦力はほぼ皆無。
米国も新大陸では無双だし、欧州に米軍を常駐させるなんて論の外だった。
太平洋をするはさんで日米が対峙すると、両海軍とも海軍が自由に使える航空戦力を要求した。すると海軍への対抗上、陸連も陸軍航空隊を維持する、かな? 大規模な海軍航空隊を保有する必要性があったからでしょうねえ。 1918. 4. 2
イギリス軍ヨルダン川東岸から撤収
アンマン攻撃に失敗したイギリス軍は、東岸に進出させた戦力を保持できず、
総撤退を行うこととなった。
2日にはゴラニエとマハデット・ハジュラに橋頭堡を残して、主力は西岸に撤収した。
この失敗に終わった作戦の唯一の慰めは、オスマン軍がアンマンに兵力を集中した
結果、後方でアラブ反乱軍が大いに優勢になったことであった。 1918. 4. 3
第二次タンペレの戦闘
フィンランド内戦は続いていた。
タンペレ前面で撃退された白軍は、態勢を整え直して再び赤軍の陣地に攻撃を
行った。
砲兵火力を集中した白軍の前に赤軍は押し切られ、4日間の激しい戦闘の末、
タンペレは陥落した。
赤軍はロシア革命政府軍の援助を求めて、南東のヴィボルグ方面に撤退した。 1918. 4. 3
ドイツ軍フィンランドに介入
内戦に突入したフィンランドの勢力のうち、社会主義者と戦う白軍の指導者はドイツに
救援を要請した。
ドイツ軍はバルト海を越えて上陸部隊を送り、主力はフィンランド湾入り口のハンコに、
分遣隊はヘルシンキの東のロヴィサに上陸した。
赤軍は北の白軍と南のドイツ軍にはさまれる形となった。 1918. 4. 3
フォッシュ将軍、西部戦線総司令官に補任
この日、最高戦争会議がアメリカ代表ブリス将軍を加えて、パリとアミアンの中間の
ボヴェーで開かれた。
席上、フランス軍のフェルディナン・フォッシュ将軍は正式に「連合軍総司令官」の
職に任命された。この地位を「ジェネラリッシム」(大元帥)と呼ぶこともある。 自国領土に敵国が空襲してくる環境では、それを迎撃する航空戦力で戦闘が完結する。
すると航空航空戦力が独立することに合理性と必要性が出てくる。
そういうのがなかった国は、その逆。 >>902
ソ連が空軍を独立させたのは、2次大戦の終結後
あそこの場合、一人の戦線(方面軍)司令官が、陸海空の全てを一元指揮するシステムなので、いささか特殊だが
日本の場合、海軍が自前の航空戦力の保持に拘ったこともあるが、帝国憲法に「陸海軍」の文言があるので、
憲法改正しないと空軍を独立させられないって事情も 日米の場合は空軍の母体になる陸軍が辺境の田舎陸軍って前提結構平気で忘れられてるよな
平時の規模が二十万人いかないような規模じゃ、組織の一部を分離独立させようって動機が成立しないんだが
日本の場合は支那事変以降は、戦時下で急拡大する組織のやりくりでてんやわんやで、空軍独立にかまける余裕がもう無いし 1918. 4. 5
日英の陸戦隊、ウラジオストクに上陸
ロシア革命に伴い、辺境の諸地方にまで動揺が広がっていた。
日本海に面するロシアの主要港、ウラジオストクでは、居留日本人商店が暴徒に
襲われ、店主が殺害されるという事件が起きる。
日本はこれに対し在泊の軍艦から陸戦隊約500名を上陸させて、治安維持にあたった。
同日、外交的対抗上、イギリスも陸戦隊を上陸させた。 1918. 4. 5
トレビゾンド講和会議決裂
オスマン帝国とザカフカス評議会との講和会議は難航していた。
オスマン帝国代表のエンヴェル・パシャはカスピ海岸への通行路と過去の戦争での
喪失領土の回復、アルメニア人民兵組織の解散などを要求し、ザカフカス諸民族は
それぞれの領域の保全を求めた。
代表団首席のグルジア人チュヘンケリはオスマン軍の要求を呑む腹でいたが、
オスマン帝国と国境を接し、帝国内では同胞が虐殺されたアルメニアの代表は妥協を
一切受け入れなかった。
この日、ついに交渉は決裂し、オスマン軍は諸民族の民兵を排除しながら東へ
前進を開始した。 1918. 4. 6
「ミヒャエル」作戦停止
突出部から北へアラスに向かう攻勢は、イギリス軍の防御によって阻まれた。
ドイツ軍は再び西のアミアンへ向かって兵力を集中し、突破を図ったが、連合軍の
予備はすでに間隙を埋めつつあり、攻撃は奇襲性を失って正面攻撃となった。
戦闘は次第に従来の陣地戦の様相を示しつつあり、さらなる大突破は望めない
状況となった。
ドイツ軍総司令部は6日、「ミヒャエル」作戦の中止を下令した。
英仏軍はアミアンとアラスを守り切ったのである。 1918. 4. 8
ドイツ軍ハリコフを占領
ウクライナに進駐したドイツ軍は、ボリシェヴィキ勢力を駆逐しながらウクライナ
領内を東進し、この日東部ウクライナの主要都市ハリコフを占領して、ボリシェヴィキ
勢力をウクライナからほぼ一掃した。 1918. 4. 9
モルダヴィア(ベッサラビア)議会、ルーマニアとの合邦を決議
2月に独立を宣言したモルダヴィアでは、民族的に近いルーマニアとの合邦をめざす
勢力が優勢となり、この日議会においてルーマニア王国との合邦が決議された。
これは中央同盟国によって承認され、戦後紆余曲折の末、国際連盟の承認を経て
確定することとなる。 1918. 4. 9
ドイツ軍「ゲオルゲッテ」攻勢を発動
アミアンを奪取してイギリス軍をまるごと包囲しようというドイツ軍の意図はくじかれた。
ドイツ軍は、アミアン奪取後に右翼海岸方面から攻勢をかけてイギリス軍を大包囲する
「ゲオルク」作戦を立案していたが、状況の変化により、右翼軍単独で海峡の港湾都市を
目指す攻勢「ゲオルゲッテ(小ゲオルク)」を発動することとなった。
兵力は2個軍21個師団、対する連合軍は25個師団であった。
攻勢は交代中だったポルトガル軍の部隊を直撃し、装備の劣るポルトガル師団は
壊滅した。ドイツ軍はダンケルクとアラス・アミアン方面を結ぶ鉄道の結節点
アズブルックに向けて突進した。
イギリス軍は包囲の危機にあった。 1918. 4. 10
「被抑圧民族会議」開催
この日、ローマにおいて、中欧からバルカンにかけての諸民族の代表が会合し、
今次戦争の終結後には民族自決の原則に従って「完全に独立した民族国家」を
樹立すべきである、という宣言を行った。
これはウィルソンの14ヶ条に呼応したもので、やがてオーストリア・ハンガリー帝国の
瓦解につながる第一歩であったと言える。 1918. 4. 11
クレマンソー、オーストリアの単独和平交渉を暴露
フランスのクレマンソー首相はこの日、前年に行われたオーストリア皇帝カール1世の
秘密和平工作についてその内容を公表してしまった。
カールの書簡には和平の条件としてドイツ領エルザス・ロートリンゲンのフランスへの
割譲が含まれており、このニュースを聞いたドイツ皇帝と軍部は激怒した。
カールは当初書簡の存在を否定し、フランスの謀略であると言い張ったが、次第に
隠し切れなくなり、虚偽と真実を小出しにして弁明を図った。
この醜態によってカールの権威は失墜し、国内諸民族への統制はさらに難しい
ものとなっていった。 1918. 4. 13
ドイツ軍ヘルシンキを占領
内戦に乗じてフィンランドに上陸したドイツ軍は、南西部のハンコから東に進撃を続け、
この日ヘルシンキを占領した。ドイツ軍は翌日正式に入城式をとり行い、ヘルシンキは
ドイツ軍の支配下となった。 1918. 4. 13
コルニーロフ将軍戦死
ドン川地方からクバン地方へ撤退した反革命軍は、エカテリノダール(のちの
クラスノダール)に拠点を置く北カフカス・ソヴィエト政府軍と激突した。
反革命軍は苦戦し、4月13日にはコルニーロフ将軍の司令部に砲弾が命中して、
将軍は戦死した。
彼の後任にはデニキン将軍が就任した。
コルニーロフの死の知らせを聞いたレーニンは、「これで内戦も終わるだろう」と
極めて楽観的な見通しを口にしたという。もちろんこの見込みは大幅に狂うことになる。 1918. 4. 14
オスマン軍バトゥーミを占領
ザカフカス評議会との交渉決裂を受けたオスマン軍は前進を開始し、この日グルジア
黒海岸のバトゥーミを占領した。この地にオスマン軍が入るのは1878年の露土戦争
以来のことであった。 1918. 4. 15
パッシェンデール突出部放棄
一時はイギリス軍を危機に陥れた「ゲオルゲッテ」攻勢であったが、フランス軍予備
戦力からの増援が到着しつつあり、ドイツ軍の前進は急速に減速した。
また、イギリス軍も、前年秋のイープル攻勢で奪取したパッシェンデール突出部から
撤収して兵力の余裕を得、ドイツ軍の進撃に対抗した。
これらの兵力をもって、連合軍は防御線を整えた。戦闘は陣地戦の様相を示しつつ
あった。 1918. 4. 21
リヒトホーフェン戦死
「レッド・バロン」の異名を持つドイツの戦闘機トップエース、マンフレート・フォン・
リヒトホーフェン大尉はこの日、ヤーシュタ11を自ら率いてフォッカー三葉戦闘機で
アミアン前面のソンム方面に出撃した。
リヒトホーフェン隊はイギリス空軍第209スコードロンの迎撃を受け、各機入り乱れた
空戦となった。
その中で、ウィルフリッド・メイ少尉のソッピース・キャメル戦闘機を低空で追撃していた
リヒトホーフェンは、不意に一発の機銃弾を胸に受けて致命傷を負った。
リヒトホーフェン機は畑の中に不時着したが、地上にいたオーストラリア軍部隊が
機内を確認した時には、すでにこの撃墜王は絶命していた。生涯撃墜機数80機、
死亡時の年齢は25歳であった。
イギリス軍は、その時リヒトホーフェン機を追っていたロイ・ブラウン大尉の撃墜で
あると発表したが、後年の研究によると、地上部隊の機関銃火によって撃墜された
可能性が高い。
リヒトホーフェンの骸は丁重に葬られた。死の2日後にはイギリス軍戦闘機が
ドイツ軍飛行場に飛来し、弔文を投下して去った。
「ドイツ軍飛行隊へ。男爵マンフレート・フォン・リヒトホーフェン騎兵大尉は4月21日の
空戦で戦死された。彼は軍規に従い名誉をもって葬られた」
最も高名な「空の騎士」の死は、ドイツじゅうに悲しみをもって受け止められた。 レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。