【蒙古襲来】元寇【文永・弘安の役】8 [無断転載禁止]©2ch.net
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モンゴル軍の馬 VS 日本軍の馬
タブン・トルゴイ遺跡、ツァガーン・チュルト遺跡から出土したモンゴル帝国時代の馬(9例)の推定体高
最小120.2cm 最大134.0cm 平均127.7cm
材木座遺跡から出土した鎌倉時代の馬(38例)の推定体高
最小109cm 最大140cm 平均129.5cm 当時海水温が高くスーパー台風が発生したので木造船などひとたまりもなかった 元寇に関しては嘘が多いね、これは日本側の鎌倉幕府の記録が嘘八百な誇張表現であり、それに目を付けた戦後日教組が「大陸と孤立している事が悪いことかのように誇張してモンゴルに対する悪口とも取れる必要以上に野蛮な表現」
そして有名な名乗り上げだけど、これは「当時キエフルーシ(モンゴル系キプチャク・ハン国)との現ウクライナ国元祖ルーシ系王座が壊滅し、その後モンゴル帝国臣従偽ルーシ族(ウクライナ人は緑ルーシ)こと黒ルーシモスクワ属国大公国」が
「ルー氏系国家代表を自称」する汚い歴史が始まる。その後ロシア帝国時代も「ウクライナ・キエフこそが本物のルーシ族の古都であり、僭称しているモスクワ首都やペテルブルグのロシア帝国は偽物がそれっぽい格好つけてやがるw
非スラブ語圏から一般認識は中世まで「ウクライナ・キエフ復興とモンゴロイドぼこるべし」だった)
つまり、欧州ですらポーランド・リトアニア二十王国と子分だったプルーセン公国ら諸侯連合軍及び神聖ローマ帝国(ウィーン及びブダペスト首都)を持ってしてようやく止める事ができた
(しかもたまたまチンギスハンの病死によって風のように破壊のがれきの山のみ残して去って行ったモンゴル帝国軍)んだから、問題にすべきは
この時に「撤退を船内で意見するモンゴル系武将に対して、物凄い剣幕で日本を攻めるべきと主張した加害者高麗国の武将」。被害者日本国の立場は1000年変わらない!元寇が1100年代後半やろ?だから最低でも22世紀まで日本が被害者確定な?いいんだよな?
韓国大統領が「1000年恨む」と宣言したからな。俺は朝鮮人と同じになる〜だの同じレベルに降りて〜だのというよくある日本の風潮は国際的に通用しないと知っているから無視する。
「目には目を歯には歯を(現在も続く大国際原則である)」、高木正雄さんこと朴正煕さんの言いつけ守れクネクネババァ。
2180年代までは「高麗国から発展した英語名コリアKOREA【高麗】」の南北朝鮮住民は「加害者の立場確定!」、
「渋谷スクランブル交差点中心で」三跪の儀式をまず、北チョン借り上げ糞デブ野郎にやらせろや!!絶対に許さないのは日本人のほうだ。「世界平和の敵である北チョンカス野郎」! 鎌倉幕府の記録が嘘八百な誇張表現なんてことは無い。
そもそも鎌倉幕府の記録はそれほど残ってないし、あるのは淡々と事実を記した
事務的な記録がほとんど。
嘘八百な誇張表現なのは朝廷や宗教関係の記録ね。
特に朝廷は承久の乱以降、鎌倉幕府の武力によって押さえられてたから。
建武の新政正当化のために鎌倉幕府の武力を否定した歴史に書き換える必要があった。 また、5月のポツダム予備会談において、ソ連のスターリンは、極東ソ連軍が8月中に攻勢作戦を発動すること、満州国領域における中国の主権(中華民国とは明言せずに地域名出る中国地方と発言した悪い独裁者)を尊重すること、
朝鮮半島を米ソ英中が信託統治すること(これに対して「日本統治のままで維持される方が良い!!という朝鮮市民による委任統治反対デモが起きている)、などであった、
さらに、この時のスターリンは8月以前の対日参戦の旨と大連港の国際利用(現実は東側中華人民共和国に対して戦後法的根拠を無視してスターリンが譲渡した為現在も中華民国領と主張する政治家が台湾にいる)を表明した。さらに対日処理については、
無条件降伏(結果的には有条件降伏に成功し国体護持に成功して停戦した為にドイツ国と同様の完全直接軍政下に陥る最悪の字体のみは避ける事が出来たのが史実)と徹底的な軍備撤廃(ホワイト次官の内通に気付いたアメリカによる再軍備で冷戦に粘り勝つ西側諸国化)、
ソ連軍による日本占領(実現しなかったが、ポツダム停戦条約で日本の北海道続投として残るはずの北方4島領土を彼らの言うクリル列島内であるとし不法占拠した)を主張し、
アメリカに戦略物資の支援を要求
チャーチルは中国での「国共内戦での英軍被害に報復として反共軍介入」を主張したが、この時に「アルバニア決議」という最低の欺瞞的詐欺決議(はとやまルピ夫・おざわとつづく悪い田中角栄の系譜はわかりやすい売国奴)によって
中華民国が中華人民共和国に対して1970年代に代表権を「盗まれた被害者」となる事は避けられた公算が高い。おそらくチャーチルは一貫して日本反共国家化に貢献。
(途中でアトリー内閣に替わった事で内通していた英国労働党から核技術や貴重なジェットエンジン技術が流出する事を予期していたソビエト共産党は最終的に世界赤化を中国共産党と共に始めた。団塊の世代を自虐史観に洗脳した日教組に資金援助し、日本社会党に繋がる) 書き込みないね
元寇って魅力あるテーマだと思うけどな
ヨーロッパの騎士からイスラム、中国、朝鮮、東南アジア、日本の武士、おまけにアイヌまで
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NPO法人 エスティーエーで検索!! 元寇を書いたブログとか見ると、未だに元軍は台風で勝手に自滅してくれたって書いてるアホがいて辟易する。
なんで勉強も調べもせずドヤ顔で書けるんだろうか 元寇船研究機関、松浦市長「来春設置へ検討」
ttp://www.yomiuri.co.jp/kyushu/culture/history/20161107-OYS1T50018.html >>11
過去ログ見ればわかるけど、軍板や日本史板では既にここ10年くらいで語り尽くされてる感すらあるんだよ元寇は これと朝鮮の役や山田長政みてると
日本人戦闘民族説、ってことになるわけだけどなあ >>15
ここ10年くらいの議論が一気に無意味化するレベルの史料見つけた。
年内にブログにUPするわ。 >>16
将軍や参謀は白人様最高で、肉体労働専門の兵隊民族だけどな 時代を下るにしたがって悪化しているがな。
>>16
数百年前のことだし・・・ ツイッターで今年見た中でなかなか個人的にうけた呟き。
「最近の台風は根性が無い、どれだけ規模が大きくとも会社ひとつ休みにできない」 >>18
当時は将軍から一兵卒に至るまで最強クラスだしな
山田長政が国王側近の領主様までいってるわけだし >>22
そのブログより:
>「會夜大風雨」の「會」とは、前後の事情がうまく合致した意であり、「たまたま」と読み
>「おりしも」「ちょうどそのとき」と訳す言葉ですから、本来ならモンゴル艦隊の遭難は
>軍議によって撤退を決めたその夜でなければならないはずでした。
間違い。
「遂引兵還、會夜大風雨」と続く。大風雨に遭う前にすでに「還」すなわち出航している。
だから「撤退を決めたその夜」ではなく「出航したその夜」だ。
正確に言えば大風雨に遭ったのは廿一日の日没以降。 ついでに言えば同じブログの:
>『八幡大菩薩愚童訓』筑紫本の「然ニ夜明ケレハ二十一日之朝、海ノ面ヲ見ルニ、
>蒙古ノ舟共皆馳テ帰ケリ」という記述は、「夜が明けた二十一日の朝に海面を見たら、
>蒙古の船が皆撤退した後だった」ではなく、「夜が明けた二十一日の朝に海面を見たら、
>蒙古の船が皆撤退して行った」と解釈するべきだったのです。
これも間違い。「馳せて帰けり」の「馳せて」を「走って」と解釈して、「目の前を
走って(つまり航行して)帰って行った」と解釈したのだろうが、「馳す」は「走る」
意味よりも、主として複合動詞として「急いで・・する」の意味を表わすのに用いられる。
因みにこれを「行く」「帰る」などと複合させると、完了のニュアンスを帯びる。
馳せ帰った〜急いで帰った〜さっさと帰った〜さっさと帰ってしまった、という繋がりだ。
だから八幡大菩薩愚童訓の解釈は「夜が明けた二十一日の朝に海面を見たら、蒙古の船が
皆撤退した後だった」で正解なのだ。 このような完了を表わす「馳せて」は方言に残っている。
九州方言に「はってーた」というのがあって、「行ってしまった」の意味に用い
られるのを知っているだろう。方言辞典にも載っている。
この言葉の語源は「這って行った」「果て行った」などと俗解されるが、どちらも
しっくりしない。
この言葉の語源は「馳せて行った」が最も妥当なのだ。「馳せて」の本来の用い方で、
急いで行った〜さっさと行った〜さっさと行ってしまった、の繋がりで完了を表わして
いる、と考えるわけだ。
音的には、はせていった〜はせてーた〜はすてーた〜はってーた、と転訛したと
考えれば無理が無い。 >>17ではないが
http://goshosystem.info/colum_h19_ft.html
に解説がある。
『金綱集』雑録(山梨身延文庫蔵)
坂井法曄「日蓮の対外認識を伝える新出資料」
(『金沢文庫研究』311号)より転載
と断った、文永の役関連の一部原文の写真も載っている。
文永の役関連部分の全文は>>22のURLにある。 >>24
間違い。
モンゴル軍は21日早朝に博多湾から出てるんだから「遂引兵還」は20日夜だよ。
20日夜に撤退を開始しないと翌朝卯尅までに博多湾から出ることなんて無理だからね。
>>25
『金綱集』にモンゴル軍の撤退時刻が書いてあるんだから日本軍は撤退を目撃してる。
「夜が明けた二十一日の朝に海面を見たら、蒙古の船が 皆撤退した後だった」
わけじゃないのだ。
ところでさ、>>24と>>25で平気で矛盾したこと書いてるのはどういうわけなん?
俺は20日夜に上陸部隊の撤収を行い、 21日卯尅までに志賀島に座礁した1艘を除いて
博多湾から脱出したと考えてる。
ところがあんたは、>>25を読む限り20日夜にモンゴル軍は博多湾から出航を終えたと
考えてるわけだよな。
これって>>24に自分が書いたこと全否定じゃん。 >>6
「元寇」という言葉は教科書から消える予定の使えない言葉
対して「倭寇」という言葉はこれからも未来永劫にわたって使い続けるので
賠償しなければならないのは日本のほうだ >>30
>「元寇」という言葉は教科書から消える予定の使えない言葉
ほーん、次はこういう手でくるのか
聖徳太子非実在説で存在抹消が難しくなったから厩戸「王」に名称変更させたり
教科書はてめえらのおもちゃじゃねーぞクソが 文部科学省批判、ひいては政府を誹謗する非国民の登場ですか >>32
それらを批判すると非国民というあなたはどういった立場の方なんですか? >>29
>俺は20日夜に上陸部隊の撤収を行い、 21日卯尅までに志賀島に座礁した1艘を除いて
>博多湾から脱出したと考えてる。
全くその通りだ。
博多湾は志賀島の座礁船1艘を除いてもぬけの空だった。
百余艘の漂着船は博多湾にはいなかったのだ。
議論する必要はなかったな。 >>34
は?
21日卯尅時点で百余艘が漂着してるんだから遭難はそれ以前、博多湾内しかありないじゃん。 >>35
>俺は20日夜に上陸部隊の撤収を行い、 21日卯尅までに志賀島に座礁した1艘を除いて
>博多湾から脱出したと考えてる
と、百余艘博多湾内漂着とは、どのように両立するのか?
座礁船も一種の漂着船ではないか。 >>36
志賀島の1艘は漂着船じゃない。
日本軍の見てる前で座礁し拿捕された船だ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています