【蒙古襲来】元寇【文永・弘安の役】8 [無断転載禁止]©2ch.net
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海を越えたモンゴル帝国の快進撃、古代に続き行われた韓半島によるポンニチへの文化伝授の渡来・・・まさに歴史のロマン。 元寇のおかげでユーラシア大陸のレベルの低さが明確になった。
ユーラシア大陸史上最大帝国のモンゴルが鎌倉武士にフルボッコにされたんだからな。
日本の方がユーラシア大陸より高度な文明を持っていたと断言できるわ。 ジャップは引きこもり雑魚民族
大韓による征伐を神頼み、すなわち台風頼みで退けたにすぎない
当時のジャップは国をあげて神頼みの儀式をしている
また台風を神風と名付けて第二次世界大戦までありがたがっている
それらが運頼み雑魚ジャップの証拠 モンゴル中国高麗、東アジアの連中が束になっても日本には橋頭保すら築くことができなかった。
元寇のお陰で日本の軍事力が大陸より遥かに優れてると分かったから、その後は倭寇が大陸沿岸を席捲。
勇躍する日本とは対照的に、中国や高麗は沿岸部に住むことすらできずに引きこもり。 まあ歴史ロマンだよ
悲劇でもあり壮大な戦いでもあり
朝鮮人が作った元寇船が実は性能良くて戦う気マンマンなのはワロタ ジャップは雑魚
台風頼みの土人
そうでなきゃ神風なんて名付けない
はっきりわかんだねwwww ジャップが引きこもりなのは明白
現代でもそう
世界に出ていく大韓人は多いがジャップは少ない
引きこもり雑魚ニートがクソジャップの特徴 出ていって各地でトラブルメーカーにw
日系は名士や起業で大成功に
韓国は棄民や棄国の類w https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%AF%87#.E9.A8.8E.E9.A6.AC.E5.85.B5
>元軍の構成は軍船の総数が240艘で、1艘につき兵300人、水夫70人、軍馬5匹であったとしている
モンゴル人は船の指揮官のみで240名も居ないと言う可能性も有るだろうが
馬に乗らずに下馬戦闘したモンゴル人等は果たして居たのかだが 南宋軍も適切な指揮官が率いれば
岳飛等の様に金軍程度には抵抗出来たのかも知れぬが
日本に来た宋の軍はこうした戦闘力は無いと言う事なのかだが 南宋には金を退けた岳飛軍の生き残り等も居るだろうが
100年以上前の12世紀中盤に彼等の軍が解散させられているなら
戦術的影響は無いと言う事なのかだが https://www.youtube.com/watch?v=XCJTmJQmGRM
長崎県立対馬高校 寮歌
3番の歌詞
秋山峡に紅葉して
小茂田浜辺の荒磯に
文永の役とむらえば
恨みは長し七百年
若人の血は躍るかな
対馬の人は元寇を忘れていない。
この寮歌は旧制高校の寮歌とは一味違うユニークな節回し、正統派の歌詞で、なかなかだよね。
全国に知られて欲しい。自分は対馬にゃ縁もゆかりも無いけれど。 >>165
マジか最高な歌詞だな
・百合若(百合若大臣。幸若舞。元寇を舞台にした復讐物語
これもいい話 >>1関連スレまとめ
【用日やめろ】元寇の沈没船について下村文科相「モンゴル、中国、韓国で一緒に共同研究したい」 4か国共同研究を提案
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1389852495/
下村文部科学相は15日、日本記者クラブでの記者会見で、13世紀の元寇(げんこう)で沈んだ元軍の沈没船について、
「モンゴル、中国、韓国で一緒に共同研究したい」と述べ、4か国での共同研究を提案した。
【ネット】 韓国大統領の「1000年経とうと日本は加害者」演説に、「日韓基本条約は?」「元寇から千年経ってないぞ」の声★2
http://daily.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1362473032/ >>1>>169関連スレまとめ
元寇陶磁器のお宝付きとか
【中国朝鮮等による大虐殺】伊万里湾で琉球大のグループが行っている鎌倉時代の「元寇の船」調査、2隻目の船を確認
http://daily.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1435829607/
長崎県の伊万里湾で続けられている鎌倉時代の「元寇の船」の調査で、2隻目となる船が確認されました。
1隻目よりも保存状態が良いということです。
長崎県松浦市の鷹島沖では先月、琉球大学の池田栄史教授のグループが「元寇の船」の調査を行いました。
調査は10年前から続けられていて、去年、木造の船の一部が見つかった場所で、今回、海底の泥を掘り進めました。
その結果、姿を現した船首部分。船の特徴や出土した陶磁器などから元寇の船であることが確認されました。
元寇の船の発見は今回で2隻目です。
「1隻目は魚でいうと“開き”の状態。今度は船体の下部構造がしっかりと残っている」
今後は、見つかった船の保存方法などについて検討が進められます。 >>1>>169-171関連スレまとめ
味気になるわ
【朝鮮中国等による侵略】 韓国なのに「蒙古醤油(モンゴ・カンジャン)」? 実は元寇に縁あり
http://yomogi.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1454162146/
最近、韓国で“モンゴル醤油(しょうゆ)”が話題だ。マスコミにしきりに登場する。実際は「モンゴ・カンジャン(蒙古醤油)」といって醤油をはじめとする有名な食品メーカーの名前だが、
そこのワンマン経営者によるお抱え運転手に対する日常的な暴行などの横暴ぶりが明るみに出て、社会的糾弾を浴びているからだ。
事件はともかく、この会社がなぜ「蒙古(モンゴル)」なのかが面白い。会社は南部の馬山にあり戦後(解放後)、日本の醸造会社を引き受け「蒙古醤油」としてスタートした。
日本統治時代を合わせて100年以上になる老舗だが、近くに高麗時代の史跡の「蒙古井戸」があることからそういう会社名になった。
この井戸というのは実は13世紀に元(モンゴル)が高麗を手先に日本に侵攻した「元寇(げんこう)」と関係がある。元・高麗連合軍は馬山から日本に向け発進したが、
騎馬軍団のモンゴル軍は駐屯地で馬に水を飲ませる井戸を掘った。その時の井戸の名残が「蒙古井戸」になったというわけだ。
馬山は日本の瀬戸内海を思わせる山あり海ありの風光明媚(めいび)なところである。水がいいので日本時代から醤油や清酒の産地だったが、
戦後に名付けられた「蒙古醤油」のネーミングは、日本人にとっては歴史的にいささかほろ苦い。 >>1>>169>>171関連スレまとめ
これどうなった
【朝鮮中国等による侵略・長崎】松浦市有志、「元寇を考える会」を発足-モンゴル・ホジルト市と姉妹都市関係強化推進へ
http://awabi.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1366599502/
松浦市鷹島町の住民有志が21日、
水中遺跡として初めて国史跡に指定された同町沖の
「鷹島神崎(こうざき)遺跡」の維持・保存や観光への活用を図る「元寇(げんこう)を考える会」(宮本正則会長)を発足させた。
同町沖の海底では2011年10月、構造をほぼとどめたまま海底に埋まっていた元寇船の一部が発見され、12年3月、周辺海域が国史跡に指定された。
鷹島神崎遺跡の管理については、市が設置した有識者委員会が保存管理計画を協議しているが、
長年調査に関わってきた地元の思いを伝えようと旧鷹島町長だった宮本氏らが結成を呼び掛けた。
市鷹島支所で開かれた会合には12人が出席。
活動方針として、鷹島神崎遺跡の関連予算増額に向けた国や県、市への働き掛けや
旧町時代から交流のあるモンゴル・ホジルト市との姉妹都市関係の再構築を進めることなどを決めた。
会合後、宮本会長は「元寇の文化や歴史を生かすため、行政の取り組みを待つだけでなく地元から仕掛けていきたい」 >>1>>169-172関連スレまとめ
【元寇神社って知ってる?・中国朝鮮地域人】 日本人の赤ん坊を股裂き、子供を拉致、女性は手に穴開け数珠つなぎ… 蒙古・朝鮮人中国軍の残虐行為
http://fox.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1402716108/
元寇・文永の役(中) 赤ん坊を股裂き、子供を奴隷として拉致、女性は手に穴開け数珠つなぎ…博多を血と炎で染めた蒙古・朝鮮軍の残虐・非人道行為
手に穴を開けられる女性の姿が描かれている「蒙古襲来絵図」
九州・博多から侵略する2万人にのぼる元・高麗連合軍は、兵の数の優位と鉄炮(てっぽう)なる新兵器、集団戦法などを駆使し、
日本の武士団を撃破しては町を焼き払い、逃げる民間人を殺すなどやりたい放題。
また、捕らえた女性をひもで数珠つなぎにし、日本の攻撃から船を守る盾(たて)にしたほか、
拉致した子供を奴隷として高麗国王に献上するなど、残酷で非人道的な行為も数限りなかった。 >>1>>169-173関連スレまとめ
【元寇・朝鮮中国等による侵略】 モンゴル・朝鮮の日本侵略軍の軍船、粗製乱造ではなくダブルハル構造だった
http://fox.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1349855901/
13世紀の元寇(げんこう)の舞台となった長崎県松浦市の海底遺跡「鷹島神崎(こうざき)遺跡」(国史跡)で、
昨年見つかった元軍の沈没船の再調査をしていた琉球大と同市教委は10日、沈没船の底板が二重構造になっていたと発表した。
韓国・新安沖や中国・泉州沖で引き揚げられた同時代の中国船には見られない特殊な構造になっているという。
一方、陶器やレンガが散乱した場所の土砂を取り除いたところ、二重になった底板が見つかった。
これまで、元軍壊滅の原因については、大量の船を急造したため簡易な構造になり、衝撃に弱かったとの見方もあったが、
調査を主導した琉球大の池田栄史(よしふみ)教授(考古学)は「これまでに見たことがない構造。
丁寧な組み方をしており、粗製乱造ではなかったのでは」と見解を示した。 >>1>>169-174関連スレまとめ
【歴史】蒙古がせめてきたぞっ!長崎鷹島沖「元寇船遺跡」が国史跡に。水中では全国初
http://fox.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1329493593/
文化審議会(西原鈴子会長)は17日、元寇(げんこう)(弘安の役、1281年)で元の船団が暴風雨により沈んだ地点とされ、
船体の一部など海底から大量の遺物が発見された長崎県松浦市鷹島に面する海域を「鷹島神崎(こうざき)遺跡」と命名し、
文化財保護法に基づく国史跡に指定するよう平野博文文部科学相に答申した。近く答申通りに告示される。
松浦市は文化庁から管理団体に指定され、鷹島神崎遺跡の活用に向けた保存管理計画を策定する見通しで、観光など地域活性化の期待も高まりそうだ。
鷹島南側の伊万里湾では、松浦市や県が旧鷹島町時代の1980年度から海底の発掘調査を継続。これまでに、元寇船の遺物とされる
木製の大碇(いかり)や鉄製かぶと、矢の束、陶磁器に火薬と鉄片を詰め着火して投げつける武器「てつはう」など、約4700点が出土。
昨年10月には琉球大調査チームが、長さ15メートルに達する船底部分の木材の竜骨(キール)など、構造が分かる状態の元軍船とみられる船体を確認した。
今回、鷹島神崎遺跡として指定されるのは特に出土品が密集している海域で、鷹島南東部の神崎港を中心に、海岸線から沖合約200メートル、
幅約1500メートルの約38万4千平方メートル。水深は最大約25メートルで、船体の発見地点も含まれる。
法的に保護された水中遺跡は、海外ではイタリアのバイア海底遺跡などが有名だが、調査が困難なことにより、国内ではこれまで国史跡に指定された例はなかった。 >>1>>169-175関連スレまとめ
だんつけ餅食いたいよな(´・ω・`)
【元寇(応永の外寇等・中国朝鮮地域等による日本への侵略)】 対馬で元寇の犠牲者を悼む神事 対馬藩武士80騎(全滅)vs元軍3万人 地元には武士を支援する為「だんつけ餅」を作って陣中に届けた逸話 韓国人中国人サヨクさん、謝罪や賠償は?小茂田浜神社
http://hayabusa3.5ch.net/test/read.cgi/news/1352709837/
対馬市厳原町の小茂田浜は、鎌倉時代の1274年・文永11年に、総勢3万人ともいわれる元の軍勢が攻めてきた海岸と伝わっています。
この「文永の役」では、対馬藩の初代藩主・宗資国が80騎ほどの武士で迎え撃ち、全員が討ち死にしたと伝えられ、地元の小茂田浜神社に犠牲者がまつられています。
11日に行われた秋の古式大祭では、神事が行われて当時の犠牲者を追悼しました。
地元には武士たちを支援するため、つきたてのもちにゆで小豆をまぶした「だんつけ餅」を作って、陣中に届けたという逸話が残っており、
地域の人たちは遠い昔の犠牲者たちを思って静かに手を合わせていました。
神事のあと、氏子たちは古いかぶととよろいを身にまとい、海岸に出て弓を射るしぐさを行う「鳴弦の儀」を行い、沖に向かって勝ちどきを上げ >>1>>176関連スレまとめ
この番組見てぇ(´・ω・`)
【元寇=中国朝鮮地域人による日本への侵略】 モンゴルの公共テレビ局、元寇ゆかりの松浦市で番組撮影 「元寇はモンゴルではあまり知られていません」 日本でも空気だよね、反日マスゴミ教師に都合わるいから殆どダンマリw
http://fox.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1429789689/
モンゴル公共テレビで放映されるドキュメンタリー番組のロケが21日、元寇(げんこう)とゆかりが深い松浦市鷹島で始まった。
22日は元寇の遺物が展示された鷹島歴史民俗資料館や元寇沈没船が見つかった海底遺跡「鷹島神崎遺跡」などを撮影。
福岡県糸島市や京都、東京などでの撮影と合わせ7月9〜11日にモンゴル公共テレビで放送されるという。
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EHAUB 元軍が早期撤退した理由は史料から解明されてる。
戦闘で日本軍にフルボッコにされたからだよ。 はて、フルボッコにされたのは日本軍なのだが。
「入其国、敗之」元史
「倭兵大敗、伏屍如麻」金方慶伝
「征日本,与倭兵十万遇,戦敗之」劉復亨伝
「敗之」は「これをやぶる」と読む。念のため。 >>184
その中にフルボッコにされた百道原の戦闘は無いじゃん。
元史はただ「四境」だけと対馬壱岐に限定してるし、高麗史も今津の話だ。
劉復亨の伝も自身が射られて重傷を負った博多の戦闘については書いてない。
元史、高麗史とも博多の戦闘に一切触れてないこと自体、日本軍にフルボッコにされた証拠だろ。 >>185
>元史はただ「四境」だけと対馬壱岐に限定してるし
「期以七月征日本、冬十月,入其国,敗之。而官軍不整,又矢尽,惟虜掠四境而帰」
「其国」の先行詞は「日本」だ。
日本を敗った、と大きく出た以上、いちいち戦場名を書く必要はない。
>高麗史も今津の話だ
金方慶伝は三郎浦(=早良郡)だな。今津は早良郡に入らない。
>劉復亨の伝も自身が射られて重傷を負った博多の戦闘については書いてない。
大将が負傷したら負けなのか?
それならネルソンが戦死したトラファルガル海戦は英国海軍の負けということになるな。 >>186
元史は「日本を敗った」のは「ただ国境だけ」と明確に書いてる。
日本を破ったのは博多ではないと断定してるわけだ。
金方慶伝の三郎浦(=早良郡)は上陸地点じゃん。
史料で金方慶が征したとしてるのは今津。
上陸地点から10キロ近く西へ追い込まれてるんだから明らかに惨敗。
で、元軍は1日の戦闘で日本から撤退に追い込まれ、1万3500余人も犠牲者出してるんだから
日本軍にフルボッコにされたとしか表現しようがない。 >>187
>元史は「日本を敗った」のは「ただ国境だけ」と明確に書いてる。
「四境」の第二義は「四囲(=周囲)」と同じと漢和辞典にある。
元軍は日本(国)に侵入して日本(軍)を敗ったが、(この戦闘で)矢が尽きたので(後は)
その辺りを略奪しただけで帰った。つまり、勝ったけど更なる戦果拡大はしなかった、
と言っているわけ。
四境が「国境」だから壱岐対馬のことだ、というなら博多では矢無しで戦ったことになるな。
>史料で金方慶が征したとしてるのは今津。
金方慶が今津を征したという「史料」をどうぞ。 >>184
幕府に服属を強要できず、万単位の兵士が生還せず、主だった将官が戦死したり捕虜
にされたり、あげく帰国した司令官が処刑されたあげくのツイートですね分かります
なお西洋列強に負けたときも皇帝に上奏する時は「わが軍大勝利」だった模様
日本の強弱は置いといて、あれだけの凄まじい人的被害を民衆に押し付けておいて
なおも征服欲がちっとも衰えず、第三次侵攻に意欲満々なフビライの狂気にはgkbr
元寇のクライマックスは、弘安の役における元軍の溺死者数と処刑された捕虜数
10万人が溺死して2万人以上が捕虜になった後はほぼ斬首、生還者3万数千人
おそらく渡海作戦における人的被害では、世界史上でも最悪ではないだろうか?
雑兵レベルでさえ助命せず片っ端から無差別処刑したのは、異民族戦争の特性だろう >>189
要点は、第一次東征では彼らが「戦勝意識」を持ち、それを記録に残した
ということ。
このことは、第二次東征では全くないから際立っている。
台風が来る前でも、「累戦して利あらず」だからね。 >>190の続き
第二次東征で、金方慶が忠烈王に、次のように帰還報告している。
「諸軍、大宰府に至りて累戦し、交綏して退く。蛮船五十艘従い来たり、再び
その城に向かう」
大宰府とは例によって博多のことで、ここでは志賀島を指している。
交綏とは戦いの決着がつかず、物別れになることである。「退く」とは全軍が壱岐に
移動したことだろう(志賀島を占領し続けたというある学者の説は、金方慶がみずから
否定している)。蛮船とは江南軍の船のことである。
志賀島戦は日本軍も損害が大きかったから、「勝った」と誇張することもできただろうに、
正直に交綏と言っている。
だから第一次東征の「倭兵大敗、伏屍如麻」は信用できる。 まあ、志賀島から壱岐に後退したら勝利の主張は無理だな。 >>193
その通り。第二次東征では勝利を主張していないことが重要だ。
このことが、彼らが勝利を主張しているとき(「入其国敗之」「倭兵大敗伏屍如麻」)は
本当に戦勝意識を持ったのだ、という証拠になる。 >>188
>「四境」の第二義は「四囲(=周囲)」と同じと漢和辞典にある。
つまり対馬壱岐じゃん。
元史日本伝には、日本軍からフルボッコにされた博多戦の記述はない。
>金方慶が今津を征したという「史料」をどうぞ。
『益斎乱藁』 九上、忠憲王世家
「元帥忽篤浮海討日本破其一岐対馬伊蠻等島以糧尽還」
第一次東征の「倭兵大敗、伏屍如麻」は今津のできごとだったと判明したわけだ。 >>195
>元史日本伝には、日本軍からフルボッコにされた博多戦の記述はない。
博多とは言ってないが日本と言っている。(そもそも元史は博多という地名を用いて
いないんじゃないか? 大宰府は用いても)
日本国に入って日本軍をフルボッコにした。
その戦いで矢を射尽くしたから「四境」を略奪して帰った。
この「四境」が壱岐対馬だと言うのならそれでもいいよ。
>元帥忽篤浮海討日本破其一岐対馬伊蠻等島以糧尽還
この文章は金方慶や高麗軍のことは何も言っていない。
金方慶が都元帥になったのは忠烈王六年のことだ。文永の役ではまだ都督使だ。
察するに「元帥忽篤」とは都元帥忽敦のことだな。
この文章は元史洪茶丘伝のへたな書き換えだ。伊蛮を島と間違えているのも
同じだし。 >>195
>つまり対馬壱岐じゃん。
>元史日本伝には、日本軍からフルボッコにされた博多戦の記述はない。
なるほど、君は「其国(日本)=四境=壱岐、対馬」と言っているのだな。
それなら、たった100人か200人の守備隊を相手に軍の一部が戦った壱岐・対馬戦で
矢を射尽くした、ということになるな。 >>196
>この「四境」が壱岐対馬だと言うのならそれでもいいよ。
元史日本伝には博多戦の記述がないということで決着だな。
>この文章は元史洪茶丘伝のへたな書き換えだ。伊蛮を島と間違えているのも
同じだし。
益斎乱藁の著者の李斉賢は高麗王朝の高官で、元史編纂よりも古い史料なんだが。
もうちょっと長く引用するわ。
『益斎乱藁』 九上、忠憲王世家
「帝以金方慶討珍島耽羅其方略威信可嘱大事召至闕庭命修戦艦與元帥忽篤浮海討日本
破其一岐対馬伊蛮等島以糧尽還」
文永の役で高麗軍が博多湾上陸後に今津で戦ったことは史料上確定。
>>192のいう通り高麗史金方慶は信用できる史料だ。
その記述によると博多戦の実態はこうなる。
早良上陸後、モンゴル軍と高麗軍は道を分ちて進み、主力のモンゴル軍は博多方面へ、
高麗軍は今津方面へ侵攻。
今津で高麗軍は住民を大虐殺。
一方、モンゴル軍は百道原で日本軍に惨敗し、主将の忽敦は「蒙人、戦いに習うと雖も、
何を以てか此れに加えん」と諸軍を率いて今津へ逃げ込む。
副将の劉復亨も少弐景資に射られて重傷を負い今津へ担ぎ込まれる。
モンゴル軍を赤坂・百道原・早良から駆逐した日本軍はさらに今津を攻め立てたが、
日没のため兵を引く。
残されたモンゴル高麗軍は今津で軍議を行い、忽敦が「小敵の堅は、大敵の擒なり」と
日本から撤退を決定。 :::::::::::::::::::::``ヽ
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`、::::::::ノ ゙゙゙/__)
、 '、:::::ヽ \_)
ヽ、 `ヾ'''゙ ,´
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ヽ、 ノ
`` ?---? 'い
https://twitter.com/ibuki_air
09058644384 >>198
>元史日本伝には博多戦の記述がないということで決着だな。
もういちど聞くが、元軍はどこで矢を射尽くしたのか?
>益斎乱藁の著者の李斉賢は高麗王朝の高官で、元史編纂よりも古い史料なんだが
当たり前だ。元史は元代に書かれた原史料を明代に編纂したものだ。
李斉賢は1287年生まれだから元寇より一世代後の人、元寇の原史料はすでにできていた。
李は元に何回も行ったからそれを目にする機会もあった。
益斎乱藁を洪茶丘伝と較べて見よう。
益斎乱藁:與元帥忽篤、浮海討日本、破其一岐対馬伊蛮等島、以糧尽還。
洪茶丘伝:與都元帥忽敦等、領舟帥二万、渡海征日本、拔対馬一岐宜蛮等島。
都元帥忽敦→元帥忽篤 渡海→浮海 征日本→討日本 抜→破 宜蛮→伊蛮
と、わざわざ似た意味、音の漢字に置き換えているだけで、構文はいっしょ、
そのくせ「伊蛮等島」という同じ間違いを冒している。
現代なら盗用と言われるレベルだ。君はこんなものを唯一の根拠にしているのだ。 >>201
>もういちど聞くが、元軍はどこで矢を射尽くしたのか?
今津だな。
>李斉賢は1287年生まれだから元寇より一世代後の人、元寇の原史料はすでにできていた。
>李は元に何回も行ったからそれを目にする機会もあった。
自分が書いてることの意味を理解してる?
元に何回も行って 途中で投稿しちゃった。
>>202の続き。
>李斉賢は1287年生まれだから元寇より一世代後の人、元寇の原史料はすでにできていた。
>李は元に何回も行ったからそれを目にする機会もあった。
自分が書いてることの意味を理解してる?
元に何回も行って元寇の原史料をもとに書いたのなら、それは信用できる史料ってことでしょ。
>そのくせ「伊蛮等島」という同じ間違いを冒している。
大陸と陸続きの朝鮮半島から見れば日本は全部島だから、高麗朝鮮の史料が日本の地名を
「島」と表現することは珍しくないぞ。
例えば、対馬壱岐博多もしくは松浦で「三島倭寇」と呼ぶだろ。 例えば、朝鮮半島だって大陸から見れば半島だし、琵琶湖の烏丸半島だって、日本の扱いではれきとした半島なんだよな。 >>203
>元に何回も行って元寇の原史料をもとに書いたのなら、それは信用できる史料ってことでしょ。
信用できる原史料をもとに改竄したから、改竄文も信用できるというのは、物凄い論理だな。
私が示したのは改竄の手口だから、似たような部分を抽出しているのは当たり前。
全体を見れば、主人公が入れ替わっているではないか。洪茶丘が金方慶に。
金方慶のことを書くのに、洪茶丘の史料を借りてきたわけだ。
君はこのような「首すげ替え文」を唯一の根拠にしているのだ。
>(矢を射尽くしたのは)今津だな。
冬十月,入其国,敗之。而官軍不整,又矢尽,惟虜掠四境而帰。
君の解釈によれば、上記の漢文の「其国に入りて之を敗」ったのは壱岐、対馬。
「矢尽」きたのは今津。
「虜掠」した「四境」は再び壱岐、対馬。
これを恣意的解釈と呼ばずしてなんと呼ぶ。
文章が対象とする明代中国の読者は、どうやってこの読み方が分かったのか? >>205
どちらの史料が改竄したかという話なら、当然「益斎乱藁」を「洪茶丘伝」が改竄したと
考えるべきだろうな。
「益斎乱藁」の方が「洪茶丘伝」より成立時期が早いんだから。
そもそも洪茶丘も金方慶も一緒に戦っているわけで、最終的には20日の日暮れまでに
遠征軍全軍が今津に追い込まれていたんだから、共通する内容になるのは当然。
あと、「四境」については史料を読み直してるうちに考えが変わった。
史料がちゃんと対馬・壱岐・今津の地名を挙げてるんだから、「四境」についても
そのまま史料通り「ただ対馬・壱岐・今津のみ」と考えるべきなんだ。 ここで燃料を1つ投下すると、博多筥崎の武士たちは本当に水城へ撤退したのか問題がある。
博多筥崎の日本軍が水城へ撤退したというのは八幡大菩薩愚童訓系統の史料だけが根拠の上、
もともとの記述も武士たちが「水木之城」へ向かおうと囁き合ってるのを筥崎宮関係者が
聞き耳立てて横から溢れ聞いたという超曖昧情報。
「水城」という言葉の中に城という字が含まれてるから「水城の城」なんて言い方しないしね。
もしかして武士たちが向かった「水木之城」とは水城じゃなく、今津の水崎城なのではないか?
それを筥崎宮関係者が勝手に水城と勘違いしただけなのではないか? 今津説の決定的な問題点は、今津で大きな戦闘をやったという日本側の記録が皆無なことだ。
早良郡/鳥飼潟には戦闘記録が多くあり、箱崎にもちらほらとあるが、今津だけはない。 私も最近、必ずしも水城まで退却しなくてもよいのではないか、と考えるようになった。
武士たちは勝手に退却したのであり、水城を守れと命令を受けたわけではない。
それならば、元軍の届かない安全圏に逃れて、一夜の宿があればそれでいいわけだ。
二、三日分の口糧なら干飯を携帯しているわけだし。
大友ハ 子共打ツレ 落行テ 方々ニコソ 頼康(よりやす)ミケレ
この歌の「方々こそよりやすみけれ」も、
「方々にこそ寄り休みけれ」すなわち「所々に立ち寄って休息した」ではなくて、
「方々にこそ拠り寝みけれ」すなわち「あちこちの民家を占めて寝た」でもいいわけだ。
で、その辺に泊まったから翌朝早く元軍の撤退に気が付いた、と。 >>209
皆無じゃないよ。
八幡大菩薩愚童訓筑紫本
「此外大名高家我モゝゝ卜責ケレ共、物トモセス、蒙古ヒタ破リニ責入テ、
今津早良百路原赤坂ニ及ヒ乱入ケリ」
今津に侵攻した部隊があったことは日本側の史料にも記載されてる。 >今津早良百路原赤坂ニ及ヒ乱入ケリ
「乱れ入る」は無法に入って来ることであって、別に日本軍の抵抗が無くてもよい。
>今津に侵攻した部隊があったことは日本側の史料にも記載されてる。
あるのならまずその「史料」を載せてからね。 >>211
今気が付いた。
>今津に侵攻した部隊があったことは日本側の史料にも記載されてる。
というのは、筑紫本そのものことを言ってるのね。
それなら、金綱集だって言っている。
「同十九日、蒙古人筑前国博多・箱ア・今津・佐原賊来」
金綱集は19日に今津に「上陸」した部隊があった、と言っているわけだが、これと
筑紫本の「今津乱入」は区別できない。「乱入」だから戦闘だと言うのはいかにも弱い。
むしろ筑紫本は地名を並べた順序で元軍の進撃方向を示していると見た方がよい。
どちらも、今津で大きな戦闘があったことの証拠にはならない。
必要なのは、早良郡や箱崎と同じように、今津で戦った武士の「名前入り」の記録だ。
それがあるのか?と言っているのだが。 >>212
今津に侵攻した部隊があったことは、八幡大菩薩愚童訓筑紫本に「今津早良百路原赤坂ニ
及ヒ乱入ケリ」と書いてあることで史料的に裏付けられてる。
日本軍の抵抗とか関係ない。
モンゴル軍の侵攻した今津早良百路原赤坂の内、早良百路原赤坂には武士の戦闘記録があり、
唯一戦闘記録の無い今津をモンゴル軍は「征した」としてる。
要するにモンゴル軍は武士との戦闘に全部負けたということ。
早良百路原赤坂で武士にフルボッコにされたモンゴル軍が最後に逃げ込んだのが今津なんだから、
今津で大規模な戦闘なんかあったらそれこそモンゴル軍は全滅してるだろ。 >>216
>早良百路原赤坂には武士の戦闘記録があり、 唯一戦闘記録の無い今津を
>今津で大規模な戦闘なんかあったらそれこそモンゴル軍は全滅してるだろ
なんだ、今度は今津では戦闘がなかったことにしたのか。
君は以前はこう言っているぞ。
>モンゴル軍を赤坂・百道原・早良から駆逐した日本軍はさらに今津を攻め立てたが、 >>198
日本軍が今津を「攻め立てた」と言うのだから、以前は今津で戦闘があったと主張していたのだ。
まあいい。今津で戦闘がなかったと認めたのは殊勝なことだ。
しかし、そうなると元・高麗側の記録が今津を「破った」とか「抜いた」とか言っているのは、
19日深夜に先遣隊が上陸したことを指すことになるな。
深夜に無血上陸して住民を殺戮したことをこのように表した、と。 >>217
そうはならないよ。
八幡大菩薩愚童訓筑紫本によればモンゴル軍が今津に侵攻したのは20日上陸後。
そもそも今津攻略は九州におけるモンゴル軍の唯一の戦果だ。
元の史料にも高麗の史料にも今津を破ったとしか書いてないからね。
モンゴル軍は最終的に今津に追い込まれて撤退した。 >>218
>八幡大菩薩愚童訓筑紫本によればモンゴル軍が今津に侵攻したのは20日上陸後。
そんなことは書いてない。まず、今津は下記のように出て来る。
「同十一年九月之比、異賊四百五十艘之大船、二三万人乗テ寄来ル。
対馬壹岐二之嶋ヲ打落テ、筑前国今津二着ニケル、 」
今津には「九月」に「着いた」と言っているだけ。九月は変だがそれはひとまず置くとしても、
普通、船が「着く」とは錨を下ろして停泊することだ。その後、上陸したのか、それとも
さらに移動したのかは、なにも言っていない。途中を飛ばして;
「十一月二十日、蒙古舟ヨリ下リ、馬ニ打乗リ、旗ヲ揚テソ責(せめ)懸ル。」
ここで初めて上陸している。
上陸の日が十一月二十日というのも変だが、上陸した場所はまったく書いてない。
以上から「十月二十日に今津に上陸した」とは言えないし、ましてや最終的に今津から撤退した
などとは全く言えない。
それにしても「筑紫本」もいい加減な本だな。 >>219
八幡大菩薩愚童訓筑紫本
「此外大名高家我モゝゝ卜責ケレ共、物トモセス、蒙古ヒタ破リニ責入テ、
今津早良百路原赤坂ニ及ヒ乱入ケリ」
八幡大菩薩愚童訓筑紫本でモンゴル軍が今津に侵攻したのは20日。
第一、高麗史金方慶伝に「舟を三郎浦に捨て、道を分ちて進み」と書いてあるんだから
元側史料でも上陸地点は今津なんかじゃなく早良だ。
早良に上陸したモンゴル軍が唯一の戦果と記録してるのが今津攻略。 お寺の古文書も探せよw馬鹿w
大体太宰府が有るのに変だろw >>220
>>221の言う通りだ。
せっかく早良に上陸しているのに、博多、大宰府に背を向けて今津を攻める
必然性は全くない。
補給のための港を確保するためと言うだろうが、高麗から補給や増援を送る
あてが全くないのに、全軍で港なんか確保してどうする。 >八幡大菩薩愚童訓筑紫本でモンゴル軍が今津に侵攻したのは20日。
そのように主張するのなら、その根拠となる原文をまず示せ。
私がやっているようにね。 言い伝えだと水城どころか
筑後まで来たと言うぞw
古文書の一次史料を丹念に捜せ!w >>222
必要性云々なんて全く問題じゃない。
早良から上陸したモンゴル軍が今津を破っただけで撤退したのは史料によって明白だからね。
早良から博多、大宰府を目指していながら最終的に全軍が今津に追い詰められていたってことは、
要するにモンゴル軍は日本軍に惨敗して今津まで敗走したってこと。
>>223
「此外大名高家我モゝゝ卜責ケレ共、物トモセス、蒙古ヒタ破リニ責入テ、
今津早良百路原赤坂ニ及ヒ乱入ケリ」
そもそも、こんなことに拘っても意味ないぞ。
今津攻略は九州におけるモンゴル軍の唯一の戦果なんだから。
仮に>>217 のように先遣隊が今津に上陸しようが、モンゴル軍が今津以外で全部負けたという
事実は動かない。 >>225
数百隻の船団だから、ある程度の幅がないと上陸が難しいだろう。
10m間隔でも100隻で1km必要になる。
小型船はともかく、大型船にそんな間隔は無理があるから、数kmは必要になるんじゃないかな。
あるいは、主力の元軍は早良付近に上陸し、高麗軍は今津付近に上陸したかもしれない。
金方慶伝にあるように高麗軍は今津で勝利したうえで、元軍主力に合流した。
軍議の席で、勝ってる金方慶は継戦を主張するけど、苦戦した元軍の忽敦は撤退を決断した。
というシナリオはどうだろう。 >>226
高麗史金方慶伝に「舟を早良に捨てて道を分けて進んだ」と書いてあるんだから高麗軍の
上陸地点は早良だよ。
その前提から違ってるじゃん。
その上で、益斎乱藁は金方慶が「元帥の忽敦と今津を破った」とし、元史でも洪茶丘が
「元帥の忽敦と今津を抜いた」としてるんだから、忽敦、金方慶、洪茶丘の3人によって
軍議が行われた場所は今津だろ。
つまり忽敦は主力のモンゴル軍を率いて博多や大宰府を目指したものの日本軍に敗れて
今津まで敗走したってこと。
忽敦は「モンゴル兵が戦い慣れてると言ってもこれが限界だ」と言いながら金方慶と
合流してるんだしね。
だから軍議でも強硬に撤退を主張した。
日本軍に大敗して今津に追い込まれたモンゴル軍の状況は忽敦のセリフ通り
「兵法に、「小敵の堅は、大敵の擒なり」と。疲乏の兵を策して、日ごと滋すの衆に敵するは、
完計に非ざるなり。軍を回すに若かず」そのものなわけで、史料的整合性も完璧。 >>227
今津は撤退のための単なる通過点というわけだな。戦いも無かったということだし。
しかしそれだと金綱集と整合しないな。
金綱集「同十九日、蒙古人筑前国博多・箱ア・今津・佐原賊来、
同廿日辰尅(中略)九国御家人等馳集令合戦」
金綱集によれば蒙古は「十九日」に「今津」に「賊来」している。「賊」の動詞は「損なう」
ことだから「賊来」は「乱入」と同じような意味だ。つまり暴力的に押し入った。
これのほうがよほど「破」とか「抜」にふさわしい。
繰り返すが、今津上陸は十九日だ。
金綱集を信じるのはやめたのか? >>228
もし今津侵攻が19日ならモンゴル軍は19日に日本軍に敗れて日本から撤退したってことだね。
何しろ今津攻略がモンゴル軍にとって九州における唯一の戦果で、最終的に今津に追い詰められて
撤退したことは史料的に確定してるんだから。 >>227
高麗史金方慶伝で船を捨てたのは三郎浦だと思ってたが、三郎浦=早良ってことなの?
何かではっきりしてるのだろうか。
また、今津の制圧を金方慶の当初の任務とするなら、何で今津から離れたところに上陸するのだろうか。
金方慶が率いる高麗軍は今津に近いところに上陸して制圧するものではないか。
どうせ、上陸にはある程度の幅(数km程度)が必要なんだから。
>>227の情報をもとに修正すると、
西から、金方慶、忽敦、その他の順に上陸して、金方慶を先鋒にして忽敦とともに今津を攻撃する。
今津が制圧できたら、反転して忽敦、金方慶の順で東に向かう。
というシナリオかな。 >>230
三郎浦が早良の音に漢字を当てはめたものってのは長年の定説だよ。
特に否定する根拠もないだろ。
早良に上陸して今津を攻略し、また引き返して忽敦に合流するには戦闘しながら1日で
20キロ近い機動をしなくちゃいけない。
高麗軍にそんな機動力があるとは思えない。
それに今津攻略は元側史料、高麗側史料が挙げている九州における唯一の戦果だ。
今津から東に向かっても結局日本軍に負けて引き返したとしか考えられないね。 >>230
>今津の制圧を金方慶の当初の任務とするなら、何で今津から離れたところに上陸するのだろうか。
一か所と考えるからそうなる。高麗軍の三っつの翼軍と、洪茶丘の高麗人部隊とが、金綱集が
示すような数か所にそれぞれ上陸した、と考えればよい。このことが「分道而進」だと思う。
任務は、邪魔になる住民や地侍を抹殺するとともに、翌日の蒙漢軍の上陸を側面援護することだ。
このような働きを今津で行ったならば、十分に「破伊蛮」「抜伊蛮」に値すると思うよ。
これらの部隊は、翌廿日には鳥飼潟戦線に加わった。これが「諸軍與戦」だ。
このような考え方を、以下の二つのページにくわしく書いた。
https://ameblo.jp/reydeoro/entry-12321323496.html
廿日の朝、元軍はなぜ少数だったのか
https://ameblo.jp/reydeoro/entry-12323289521.html
高麗史・金方慶伝をどう読むか >>231
なるほど、三郎浦=早良なのね。
ただ、上陸にはある程度の幅が必要だと思うんだが、そのへんはどうだろうか。
上陸したのが東西数kmの範囲となれば、西の端に上陸すれば往復20kmじゃなくて10kmやそれ以下になるんじゃないかな。
具体的地名で言えば、百道、姪浜、生の松原、今宿あたりを想定している。
>>232
ホームページ見たけど、ツッコミどころが多すぎて困るよ。
先遣隊が本隊の上陸を援護せずに突出する?
何のための先遣隊だよ。
満潮時しか上陸できない?
当時の船はそんなに吃水が深いわけじゃない。
満潮時は干潮時よりも海岸線は陸寄りになるから小型船が濃く距離はそう変わらない。 >>229
>もし今津侵攻が19日ならモンゴル軍は19日に日本軍に敗れて日本から撤退したってことだね。
なるほど、金綱集も信じてるってことね。
で、その同じ金綱集が、朝8時ごろから夕方6時ごろまでに及んだ戦いが20日だったと言っている。
「同廿日辰の刻(中略)九国の御家人等馳せ集まりて合戦せしむる之間、両方死輩其の数を知らず、
酉の刻に及びて九国の軍兵引き退く」
19日に撤退したら20日の戦いはできない。さてどうする? >>226
>小型船はともかく、大型船にそんな間隔は無理があるから、数kmは必要になるんじゃないかな。
>>233
>上陸にはある程度の幅が必要だと思うんだが、そのへんはどうだろうか。
>上陸したのが東西数kmの範囲となれば、
大船が横一線に並ぶ必要はない。実際に着岸するのはバートルだから、大型船は
何列にもなって団子になっていたって構わない。
またたとえ大船が横長に並んだとしても、バートルが狭い幅の海岸に集中すれば
それでいいわけだ。
そのバートルも、必ずしも全軍が一斉に着岸するとは限らない。
現在でも、上陸用舟艇群がいくつかの梯団に分かれて波状に押し寄せるのが普通だ。
以上から、一万五千、約百隻の蒙漢軍に対して百道浜の幅があれば十分だろう。 >>234
>19日に撤退したら20日の戦いはできない。さてどうする?
なら史料的根拠皆無の今津前哨戦など無かったってことだ。
モンゴル軍は20日に早良から上陸し戦い、日本軍に敗れ、今津に追い込まれて撤退した。 >>236
>なら史料的根拠皆無の今津前哨戦など無かったってことだ。
これは驚いた。
「19日今津上陸、20日合戦」と書いている金綱集は「史料的根拠」ではないのか? >>235
>以上から、一万五千、約百隻の蒙漢軍に対して百道浜の幅があれば十分だろう。
また嘘を書いてる。
蒙漢軍の兵数は2万5000人。
艦艇の数は大船300艘含む総数900艘で諸史料が一致してる。
>>237
>これは驚いた。
>「19日今津上陸、20日合戦」と書いている金綱集は「史料的根拠」ではないのか?
これも嘘。
金綱集には「19日今津上陸」などという記述はない。
そもそも高麗軍の上陸は高麗史によって早良だったことが確定してる。 >>238
>また嘘を書いてる。蒙漢軍の兵数は2万5000人。
元史の、例の「其の国に入りて之を敗る」の前に「士卒一万五千を載せ」とある。
>艦艇の数は大船300艘含む総数900艘で諸史料が一致してる。
忠烈王六年記事に大船126隻と明記。この隻数は金方慶伝の梢工引海水主6700人と合致する。
(一隻あたり船員50~60人は他の史料からわかる)
また一万五千(高麗軍と併せて約二万)に対する126隻は弘安の役の四万に対する300隻と
較べて妥当。
>これも嘘。金綱集には「19日今津上陸」などという記述はない。
金綱集には「同十九日、蒙古人筑前国博多・箱ア・今津・佐原賊来」と書いてあることは
君も知っているはずだ。
「上陸」でなく「賊来」だと言うかもしれないが、「上陸」しなければ「賊来」はできない。
>そもそも高麗軍の上陸は高麗史によって早良だったことが確定してる。
だから、高麗軍は19日に早良に上陸して20日に今津から撤退すればそれでいいではないか。
今津上陸は洪茶丘伝に「抜伊蛮」と書いてあるのだから、洪茶丘の高麗人部隊にまかせて
置けばいいのだし。
別に今津からの撤退に賛成しているわけではないが、君の今津説にせめて他の史料との
整合性を持たせて上げようと思って、言っているのだよ。 >>239
>元史の、例の「其の国に入りて之を敗る」の前に「士卒一万五千を載せ」とある。
そんなもの史料的根拠にならないぞ。
元史・日本伝は元代の経世大典序録・征伐・日本を基に編纂された史料だが、その原文は
「十年、命鳳州經略使忻都高麗軍民總管洪茶丘、以千料舟、拔都魯輕疾舟、汲水小舟、各三百、共九百艘、載士卒二萬五千伐之」
つまり根本史料で2万5000人だったものが明代に元史が編纂された際1万5000人に改変されたわけで、
史料的には蒙漢軍の兵数2万5000人が正しい。
で、艦艇の数は経世大典序録が「千料舟、拔都魯輕疾舟、汲水小舟、各三百、共九百艘」、
元史・列傳第三十九・劉復亨が「戰船九百」、高麗史が「戰艦九百餘艘」で一致。
これだけ諸史料が一致するのは、それが実数ってこと。
忠烈王六年の記事は、高麗の負担した梢工引海水手の定員が大船126艘分だったと言うだけ。
つまり残りの大船174艘分の梢工引海水手は高麗以外が負担したってわけだ。
高麗は元宗15年4月に郭汝弼を元へ派遣し、梢工引海水手について「豈に止に小邦の人のみを
用ちて足るべきか」と訴えてるから、それが認められて負担が軽減されたんだろ。
残りの梢工引海水手を負担は、具体的には女真軍な。
高麗史・金方慶伝
「蒙漢軍は二萬五千、我が軍は八千、梢工引海水手六千七百と、戰艦九百餘艘を以て合浦に留め、
以て女真軍を待つ」
この時点で蒙漢軍は定員の2万5000人が揃ってるわけだから、女真軍は戦闘要員じゃない。
足りてないのは定員1万5000人の梢工引海水手なわけで、女真軍に求められてる役割はそれだ。 >>239
>金綱集には「同十九日、蒙古人筑前国博多・箱ア・今津・佐原賊来」と書いてあることは
君も知っているはずだ。
それ、明らかにモンゴル軍の艦隊が19日に博多湾内へ侵入したって記事じゃん。
そんなもの根拠に、19日今津上陸があったと言うなら、博多や筥崎にも19日にモンゴル軍が
上陸してたことになるだろ。
博多や筥崎には20日に日本軍が布陣してたと蒙古襲来絵詞で確認できるわけで、モンゴル軍が
上陸してたわけない。 >>240
>足りてないのは定員1万5000人の梢工引海水手なわけで、女真軍に求められてる役割はそれだ。
なるほど。で、その女真軍は「女真、期に後る」で、出発に間に合わなかった。
だから船の隻数を、6,700人の梢工引海水手で動かせる126隻に減らして、出発したわけね。
とても分かりやすい。 >>242
いや、高麗史・世家・元宗15年10月3日条
「蒙漢軍二萬五千と、我が軍八千と、梢工引海水手六千七百と、戰艦九百餘艘を以て、日本を征す」
だからそのまま出発してる。
金方慶率いる高麗軍8000人を梢工水手と兼任させれば合計1万4700人で操船に必要な
頭数は取り合えず揃うからね。
もちろん非常手段で弊害も大きいから、金方慶は遠征後に得儒から敗因の一つとして
「又た、東征の時、水戦を習わざる者をして梢工水手と為し、戦いを不利に致さしむ」
と非難されることになった。 >>243
女真軍がだめなら今度は高麗軍か。お手軽なもんだな。
韋得儒が言っているのは高麗兵を水夫に使ったというのでなく、無理に集めた水夫の中に
海に不慣れな素人がいた、と言っているのだろう。
また、韋得儒の、水夫に関する非難は金方慶をおとしめる讒言の一部だ。
忠烈王が疑って、讒言状に署名した十四人の者を調べたところ、「韋得儒に言われて署名
しましたが、本心ではありません」と言ったので王は方慶の無実と信じた、という曰くつきだ。
君は当時の高麗王さえ信じなかったことを根拠にするのかな? >>240
ついでに言えば:
>高麗は元宗15年4月に郭汝弼を元へ派遣し、梢工引海水手について「豈に止に小邦の人のみを
>用ちて足るべきか」と訴えてるから、それが認められて負担が軽減されたんだろ。
>残りの梢工引海水手を負担は、具体的には女真軍な。
引用は肝心のところをはしよってはいけない。元宗は梢工・引海・水手を徴発すべき地域を
「済州、東寧府、北界」と指定して上申している。これらはみな、もと高麗の領域であって
今は元の直轄領となっている地域だ。つまりこれらの地域にいる高麗人を出してくれと言って
いるのであって、女真人を出してくれなどと大それたことは言っていない。
私は、「女真軍」というのは女真人の軍隊が自前の船で、沿海州地域のどこかの港から、
朝鮮半島の東岸づたいにやってくるのだと思う。女真は刀伊の乱や渤海使の伝統があるから
ある程度の造船・航海の技術がある。「女真軍」はそれを基にした自己完結型の水軍というわけ。
そうであってこそ、高麗に新たな造船の負担を強いることなく兵力を増強できるという意味がある。 >>241
>それ、明らかにモンゴル軍の艦隊が19日に博多湾内へ侵入したって記事じゃん。
博多湾への侵入なら、亥の刻(午後十時ごろ)と時間まで指定するのはおかしい。
また「博多湾内」を示すのに、なぜ広く隔たった四つの地名で表すのか。
また「賊」はなにかを損なう、害をなすことだから停泊だけでは「賊」にならない。
>19日今津上陸があったと言うなら、博多や筥崎にも19日にモンゴル軍が上陸してたことになるだろ。
今津、早良という正しい地名も含んでいるのだから、問題のある地名を含んでいるからと言って
19日夜複数地点の上陸、破壊活動という全体像を否定することはできない。
また箱崎は箱崎半島北部に上陸した可能性がある。博多については上陸後進出した赤坂も博多地区である。
>博多や筥崎には20日に日本軍が布陣してたと蒙古襲来絵詞で確認できるわけで
蒙古襲来絵詞を持ち出すのなら、竹崎、菊池らが朝方戦った時、すでに祖原山、赤坂にいた元軍は
前夜上陸していたのでなければ無理がある。 >>243
>もちろん非常手段で弊害も大きいから、金方慶は遠征後に得儒から敗因の一つとして
>「又た、東征の時、水戦を習わざる者をして梢工水手と為し、戦いを不利に致さしむ」
>と非難されることになった。
これにはもう一つの要素がある。
第一次東征軍の船隊は、帰国の際に大風雨に遭った。この際、高麗軍の左軍の司令官である
金侁が海に落ちたが、同船した韋 途中で投稿してしまった。以下続き。
得儒は彼を救わなかった。帰国後、金方慶応は韋得儒が金侁を救わなかったことを責めて、韋を
免職してしまい、韋はこれを深く恨んだ。
上記した讒言状の一節は、「金方慶がまともな水夫をつけなかったために(操船ミスで船が傾くか
ぶつかるかして)金侁が海に落ちて死ぬという、軍に対する不利益をもたらしたのだ」という、
責任転嫁であろう。 >>247, 248
訂正:
金方慶応 → 金方慶
侁 → [イ先] 元側の史料の戦果で本土の戦果に今津の地名しかないのは元軍にとって致命的だよ。
高麗史では、壱岐や倭兵大敗のような小戦は詳細に
記載しながら、最終戦の大規模な戦闘を「諸軍與戰、及暮乃解」の僅かな文章で流している。
更に忽敦ですら、孫子の兵法を引用して日本軍を大敵、自軍を小敵に例える始末。
とても戦況を優位に進めた軍勢とは思えない。 >>250
>元側の史料の戦果で本土の戦果に今津の地名しかないのは元軍にとって致命的だよ。
それは洪茶丘伝のことを言っているのだろう。
「與都元帥忽敦等、領舟帥二万、渡海征日本、拔対馬一岐宜蛮等島。」
洪茶丘伝は個人史だから、手柄話は洪茶丘じしん、あるいは彼が指揮する高麗人部隊の
ものだ。決して全軍に関するものではない。
つまりこの文章は今津を抜いた(上陸して虐殺など行った)のが洪茶丘の高麗人部隊
であったことを示している。
そう言うと「領舟師二万」だから全軍だ、と言うだろうが、これは東征軍における
洪茶丘の立場、地位を表したものだ。
つまり彼は副都元帥だから、形式的には都元帥の忽敦を補佐して全軍を領している。
そのことを言っているだけ。
あくまで個人史であることを忘れてはいけない。 副将として全軍を領しているといっているのだから
個人史として切り捨てるのは都合が良すぎる。
立場的に全軍の指揮を担っている洪茶丘の本土に
おける戦果が今津のみであるなら、元軍全軍の戦果
とみなされても仕方がない。
肝心の都元帥すら、洪茶丘らとの軍議の際、たった一日の戦いで今後の戦いに自信を喪失している。
次に高麗軍の戦果の記述をみても壱岐や倭兵大敗の
ような取るに足らない小戦に紙面を割く始末。
本土の戦果が元軍にとってほとんど無かったと
みられても仕方がない元側の史料の状況だ。 >>252
>立場的に全軍の指揮を担っている洪茶丘の
その通り。「領舟師二万」は彼の形式的な「立場」、「地位」に過ぎない。
都元帥の忽敦が健全でいる限り、実際に舟師二万を領しているのは忽敦だ。
その場合の洪茶丘の責務は:
1)高麗人部隊を直率すること
2)軍議のメンバーとして意見を述べること
3)都元帥の忽敦も左副都元帥の劉復亨も死亡または重傷したときに全軍の指揮をとること
である。
3)の状況にはなっていないから実際は1),2)しかない。つまり実際には彼は舟師二万を領して
はいないのである。指揮しているのは高麗人部隊の数千だけ。
>洪茶丘の本土に おける戦果が今津のみであるなら、元軍全軍の戦果 とみなされても
>仕方がない。
個人史の記述を全軍に拡大するのは都合が良すぎる。
>高麗軍の戦果の記述をみても壱岐や倭兵大敗の ような取るに足らない小戦に紙面を
これも同じ。倭兵大敗は三郎浦という本土の戦場における高麗軍中軍の戦果である。
金方慶伝もまた個人史であることを忘れてはいけない。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています