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【蒙古襲来】元寇【文永・弘安の役】8 [無断転載禁止]©2ch.net
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0001名無し三等兵
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2016/09/14(水) 22:22:24.04ID:5Pt2CVH5
モンゴル帝国による元寇を軍事的に考察しましょう。

前スレ
【蒙古襲来】元寇【文永・弘安の役】7
http://peace.2ch.net/test/read.cgi/army/1413082769/

【蒙古襲来】元寇【文永・弘安の役】6
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【蒙古襲来】元寇【文永・弘安の役】5
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【蒙古襲来】元寇【文永・弘安の役】4
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/army/1353671134/

【蒙古襲来】元寇【文永・弘安の役】3
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/army/1346923005/
0197名無し三等兵
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2018/03/31(土) 09:39:10.67ID:3YpX7dGE
>>195
>つまり対馬壱岐じゃん。
>元史日本伝には、日本軍からフルボッコにされた博多戦の記述はない。

なるほど、君は「其国(日本)=四境=壱岐、対馬」と言っているのだな。
それなら、たった100人か200人の守備隊を相手に軍の一部が戦った壱岐・対馬戦で
矢を射尽くした、ということになるな。
0198名無し三等兵
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2018/04/01(日) 10:26:07.31ID:DEJJaJrV
>>196
>この「四境」が壱岐対馬だと言うのならそれでもいいよ。

元史日本伝には博多戦の記述がないということで決着だな。

>この文章は元史洪茶丘伝のへたな書き換えだ。伊蛮を島と間違えているのも
同じだし。

益斎乱藁の著者の李斉賢は高麗王朝の高官で、元史編纂よりも古い史料なんだが。
もうちょっと長く引用するわ。

『益斎乱藁』 九上、忠憲王世家
「帝以金方慶討珍島耽羅其方略威信可嘱大事召至闕庭命修戦艦與元帥忽篤浮海討日本
破其一岐対馬伊蛮等島以糧尽還」

文永の役で高麗軍が博多湾上陸後に今津で戦ったことは史料上確定。
>>192のいう通り高麗史金方慶は信用できる史料だ。
その記述によると博多戦の実態はこうなる。

早良上陸後、モンゴル軍と高麗軍は道を分ちて進み、主力のモンゴル軍は博多方面へ、
高麗軍は今津方面へ侵攻。
今津で高麗軍は住民を大虐殺。
一方、モンゴル軍は百道原で日本軍に惨敗し、主将の忽敦は「蒙人、戦いに習うと雖も、
何を以てか此れに加えん」と諸軍を率いて今津へ逃げ込む。
副将の劉復亨も少弐景資に射られて重傷を負い今津へ担ぎ込まれる。
モンゴル軍を赤坂・百道原・早良から駆逐した日本軍はさらに今津を攻め立てたが、
日没のため兵を引く。
残されたモンゴル高麗軍は今津で軍議を行い、忽敦が「小敵の堅は、大敵の擒なり」と
日本から撤退を決定。
0200名無し三等兵
垢版 |
2018/04/01(日) 15:47:15.87ID:EAdZ0YfX
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0201名無し三等兵
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2018/04/02(月) 17:19:22.43ID:Q5nvECvi
>>198
>元史日本伝には博多戦の記述がないということで決着だな。

もういちど聞くが、元軍はどこで矢を射尽くしたのか?

>益斎乱藁の著者の李斉賢は高麗王朝の高官で、元史編纂よりも古い史料なんだが

当たり前だ。元史は元代に書かれた原史料を明代に編纂したものだ。
李斉賢は1287年生まれだから元寇より一世代後の人、元寇の原史料はすでにできていた。
李は元に何回も行ったからそれを目にする機会もあった。
益斎乱藁を洪茶丘伝と較べて見よう。

益斎乱藁:與元帥忽篤、浮海討日本、破其一岐対馬伊蛮等島、以糧尽還。

洪茶丘伝:與都元帥忽敦等、領舟帥二万、渡海征日本、拔対馬一岐宜蛮等島。

都元帥忽敦→元帥忽篤 渡海→浮海 征日本→討日本 抜→破 宜蛮→伊蛮
と、わざわざ似た意味、音の漢字に置き換えているだけで、構文はいっしょ、
そのくせ「伊蛮等島」という同じ間違いを冒している。

現代なら盗用と言われるレベルだ。君はこんなものを唯一の根拠にしているのだ。
0202名無し三等兵
垢版 |
2018/04/05(木) 01:44:19.45ID:C90k+Ah4
>>201
>もういちど聞くが、元軍はどこで矢を射尽くしたのか?

今津だな。

>李斉賢は1287年生まれだから元寇より一世代後の人、元寇の原史料はすでにできていた。
>李は元に何回も行ったからそれを目にする機会もあった。

自分が書いてることの意味を理解してる?
元に何回も行って
0203名無し三等兵
垢版 |
2018/04/05(木) 01:52:26.37ID:C90k+Ah4
途中で投稿しちゃった。
>>202の続き。

>李斉賢は1287年生まれだから元寇より一世代後の人、元寇の原史料はすでにできていた。
>李は元に何回も行ったからそれを目にする機会もあった。

自分が書いてることの意味を理解してる?
元に何回も行って元寇の原史料をもとに書いたのなら、それは信用できる史料ってことでしょ。

>そのくせ「伊蛮等島」という同じ間違いを冒している。

大陸と陸続きの朝鮮半島から見れば日本は全部島だから、高麗朝鮮の史料が日本の地名を
「島」と表現することは珍しくないぞ。
例えば、対馬壱岐博多もしくは松浦で「三島倭寇」と呼ぶだろ。
0204名無し三等兵
垢版 |
2018/04/05(木) 10:08:02.00ID:wgtnRBPu
例えば、朝鮮半島だって大陸から見れば半島だし、琵琶湖の烏丸半島だって、日本の扱いではれきとした半島なんだよな。
0205名無し三等兵
垢版 |
2018/04/07(土) 10:46:42.56ID:iLDvMm7j
>>203
>元に何回も行って元寇の原史料をもとに書いたのなら、それは信用できる史料ってことでしょ。

信用できる原史料をもとに改竄したから、改竄文も信用できるというのは、物凄い論理だな。
私が示したのは改竄の手口だから、似たような部分を抽出しているのは当たり前。
全体を見れば、主人公が入れ替わっているではないか。洪茶丘が金方慶に。

金方慶のことを書くのに、洪茶丘の史料を借りてきたわけだ。
君はこのような「首すげ替え文」を唯一の根拠にしているのだ。

>(矢を射尽くしたのは)今津だな。

冬十月,入其国,敗之。而官軍不整,又矢尽,惟虜掠四境而帰。

君の解釈によれば、上記の漢文の「其国に入りて之を敗」ったのは壱岐、対馬。
「矢尽」きたのは今津。
「虜掠」した「四境」は再び壱岐、対馬。

これを恣意的解釈と呼ばずしてなんと呼ぶ。
文章が対象とする明代中国の読者は、どうやってこの読み方が分かったのか?
0206名無し三等兵
垢版 |
2018/04/07(土) 12:22:03.43ID:9QGhq4vH
>>205
どちらの史料が改竄したかという話なら、当然「益斎乱藁」を「洪茶丘伝」が改竄したと
考えるべきだろうな。
「益斎乱藁」の方が「洪茶丘伝」より成立時期が早いんだから。
そもそも洪茶丘も金方慶も一緒に戦っているわけで、最終的には20日の日暮れまでに
遠征軍全軍が今津に追い込まれていたんだから、共通する内容になるのは当然。

あと、「四境」については史料を読み直してるうちに考えが変わった。
史料がちゃんと対馬・壱岐・今津の地名を挙げてるんだから、「四境」についても
そのまま史料通り「ただ対馬・壱岐・今津のみ」と考えるべきなんだ。
0207名無し三等兵
垢版 |
2018/04/07(土) 18:32:56.62ID:wSsnCTlF
ここで燃料を1つ投下すると、博多筥崎の武士たちは本当に水城へ撤退したのか問題がある。
博多筥崎の日本軍が水城へ撤退したというのは八幡大菩薩愚童訓系統の史料だけが根拠の上、
もともとの記述も武士たちが「水木之城」へ向かおうと囁き合ってるのを筥崎宮関係者が
聞き耳立てて横から溢れ聞いたという超曖昧情報。
「水城」という言葉の中に城という字が含まれてるから「水城の城」なんて言い方しないしね。
もしかして武士たちが向かった「水木之城」とは水城じゃなく、今津の水崎城なのではないか?
それを筥崎宮関係者が勝手に水城と勘違いしただけなのではないか?
0209名無し三等兵
垢版 |
2018/04/08(日) 09:32:27.11ID:uIF6gO5m
今津説の決定的な問題点は、今津で大きな戦闘をやったという日本側の記録が皆無なことだ。
早良郡/鳥飼潟には戦闘記録が多くあり、箱崎にもちらほらとあるが、今津だけはない。
0210名無し三等兵
垢版 |
2018/04/08(日) 09:55:28.54ID:uIF6gO5m
私も最近、必ずしも水城まで退却しなくてもよいのではないか、と考えるようになった。
武士たちは勝手に退却したのであり、水城を守れと命令を受けたわけではない。
それならば、元軍の届かない安全圏に逃れて、一夜の宿があればそれでいいわけだ。
二、三日分の口糧なら干飯を携帯しているわけだし。

大友ハ 子共打ツレ 落行テ 方々ニコソ 頼康(よりやす)ミケレ

この歌の「方々こそよりやすみけれ」も、
「方々にこそ寄り休みけれ」すなわち「所々に立ち寄って休息した」ではなくて、
「方々にこそ拠り寝みけれ」すなわち「あちこちの民家を占めて寝た」でもいいわけだ。

で、その辺に泊まったから翌朝早く元軍の撤退に気が付いた、と。
0211名無し三等兵
垢版 |
2018/04/08(日) 10:21:16.61ID:fuDBGFJn
>>209
皆無じゃないよ。

八幡大菩薩愚童訓筑紫本
「此外大名高家我モゝゝ卜責ケレ共、物トモセス、蒙古ヒタ破リニ責入テ、
今津早良百路原赤坂ニ及ヒ乱入ケリ」

今津に侵攻した部隊があったことは日本側の史料にも記載されてる。
0212名無し三等兵
垢版 |
2018/04/08(日) 10:27:01.20ID:uIF6gO5m
>今津早良百路原赤坂ニ及ヒ乱入ケリ

「乱れ入る」は無法に入って来ることであって、別に日本軍の抵抗が無くてもよい。

>今津に侵攻した部隊があったことは日本側の史料にも記載されてる。

あるのならまずその「史料」を載せてからね。
0214名無し三等兵
垢版 |
2018/04/08(日) 12:36:42.11ID:EaLTZY+4



0215名無し三等兵
垢版 |
2018/04/08(日) 15:10:03.95ID:uIF6gO5m
>>211
今気が付いた。
>今津に侵攻した部隊があったことは日本側の史料にも記載されてる。
というのは、筑紫本そのものことを言ってるのね。
それなら、金綱集だって言っている。
「同十九日、蒙古人筑前国博多・箱ア・今津・佐原賊来」

金綱集は19日に今津に「上陸」した部隊があった、と言っているわけだが、これと
筑紫本の「今津乱入」は区別できない。「乱入」だから戦闘だと言うのはいかにも弱い。
むしろ筑紫本は地名を並べた順序で元軍の進撃方向を示していると見た方がよい。
どちらも、今津で大きな戦闘があったことの証拠にはならない。

必要なのは、早良郡や箱崎と同じように、今津で戦った武士の「名前入り」の記録だ。
それがあるのか?と言っているのだが。
0216名無し三等兵
垢版 |
2018/04/12(木) 23:28:01.37ID:M+xbec6d
>>212
今津に侵攻した部隊があったことは、八幡大菩薩愚童訓筑紫本に「今津早良百路原赤坂ニ
及ヒ乱入ケリ」と書いてあることで史料的に裏付けられてる。
日本軍の抵抗とか関係ない。
モンゴル軍の侵攻した今津早良百路原赤坂の内、早良百路原赤坂には武士の戦闘記録があり、
唯一戦闘記録の無い今津をモンゴル軍は「征した」としてる。
要するにモンゴル軍は武士との戦闘に全部負けたということ。
早良百路原赤坂で武士にフルボッコにされたモンゴル軍が最後に逃げ込んだのが今津なんだから、
今津で大規模な戦闘なんかあったらそれこそモンゴル軍は全滅してるだろ。
0217名無し三等兵
垢版 |
2018/04/13(金) 22:50:31.57ID:5wn0GhSn
>>216
>早良百路原赤坂には武士の戦闘記録があり、 唯一戦闘記録の無い今津を
>今津で大規模な戦闘なんかあったらそれこそモンゴル軍は全滅してるだろ

なんだ、今度は今津では戦闘がなかったことにしたのか。
君は以前はこう言っているぞ。

>モンゴル軍を赤坂・百道原・早良から駆逐した日本軍はさらに今津を攻め立てたが、 >>198

日本軍が今津を「攻め立てた」と言うのだから、以前は今津で戦闘があったと主張していたのだ。
まあいい。今津で戦闘がなかったと認めたのは殊勝なことだ。

しかし、そうなると元・高麗側の記録が今津を「破った」とか「抜いた」とか言っているのは、
19日深夜に先遣隊が上陸したことを指すことになるな。
深夜に無血上陸して住民を殺戮したことをこのように表した、と。
0218名無し三等兵
垢版 |
2018/04/13(金) 23:00:40.48ID:zDA2w3gd
>>217
そうはならないよ。
八幡大菩薩愚童訓筑紫本によればモンゴル軍が今津に侵攻したのは20日上陸後。
そもそも今津攻略は九州におけるモンゴル軍の唯一の戦果だ。
元の史料にも高麗の史料にも今津を破ったとしか書いてないからね。
モンゴル軍は最終的に今津に追い込まれて撤退した。
0219名無し三等兵
垢版 |
2018/04/14(土) 16:55:06.62ID:JR8hE/Pg
>>218
>八幡大菩薩愚童訓筑紫本によればモンゴル軍が今津に侵攻したのは20日上陸後。

そんなことは書いてない。まず、今津は下記のように出て来る。

「同十一年九月之比、異賊四百五十艘之大船、二三万人乗テ寄来ル。
対馬壹岐二之嶋ヲ打落テ、筑前国今津二着ニケル、 」

今津には「九月」に「着いた」と言っているだけ。九月は変だがそれはひとまず置くとしても、
普通、船が「着く」とは錨を下ろして停泊することだ。その後、上陸したのか、それとも
さらに移動したのかは、なにも言っていない。途中を飛ばして;

「十一月二十日、蒙古舟ヨリ下リ、馬ニ打乗リ、旗ヲ揚テソ責(せめ)懸ル。」

ここで初めて上陸している。
上陸の日が十一月二十日というのも変だが、上陸した場所はまったく書いてない。
以上から「十月二十日に今津に上陸した」とは言えないし、ましてや最終的に今津から撤退した
などとは全く言えない。

それにしても「筑紫本」もいい加減な本だな。
0220名無し三等兵
垢版 |
2018/04/14(土) 17:06:54.18ID:LixwWZZ+
>>219
八幡大菩薩愚童訓筑紫本
「此外大名高家我モゝゝ卜責ケレ共、物トモセス、蒙古ヒタ破リニ責入テ、
今津早良百路原赤坂ニ及ヒ乱入ケリ」

八幡大菩薩愚童訓筑紫本でモンゴル軍が今津に侵攻したのは20日。
第一、高麗史金方慶伝に「舟を三郎浦に捨て、道を分ちて進み」と書いてあるんだから
元側史料でも上陸地点は今津なんかじゃなく早良だ。
早良に上陸したモンゴル軍が唯一の戦果と記録してるのが今津攻略。
0221名無し三等兵
垢版 |
2018/04/14(土) 18:48:32.92ID:Daq7mIj6
お寺の古文書も探せよw馬鹿w
大体太宰府が有るのに変だろw
0222名無し三等兵
垢版 |
2018/04/14(土) 20:57:30.13ID:JR8hE/Pg
>>220
>>221の言う通りだ。
せっかく早良に上陸しているのに、博多、大宰府に背を向けて今津を攻める
必然性は全くない。
補給のための港を確保するためと言うだろうが、高麗から補給や増援を送る
あてが全くないのに、全軍で港なんか確保してどうする。
0223名無し三等兵
垢版 |
2018/04/14(土) 21:02:31.49ID:JR8hE/Pg
>八幡大菩薩愚童訓筑紫本でモンゴル軍が今津に侵攻したのは20日。

そのように主張するのなら、その根拠となる原文をまず示せ。
私がやっているようにね。
0224名無し三等兵
垢版 |
2018/04/14(土) 21:23:23.53ID:Daq7mIj6
言い伝えだと水城どころか
筑後まで来たと言うぞw

古文書の一次史料を丹念に捜せ!w
0225名無し三等兵
垢版 |
2018/04/14(土) 23:08:02.59ID:nlXmcRCQ
>>222
必要性云々なんて全く問題じゃない。
早良から上陸したモンゴル軍が今津を破っただけで撤退したのは史料によって明白だからね。
早良から博多、大宰府を目指していながら最終的に全軍が今津に追い詰められていたってことは、
要するにモンゴル軍は日本軍に惨敗して今津まで敗走したってこと。

>>223
「此外大名高家我モゝゝ卜責ケレ共、物トモセス、蒙古ヒタ破リニ責入テ、
今津早良百路原赤坂ニ及ヒ乱入ケリ」

そもそも、こんなことに拘っても意味ないぞ。
今津攻略は九州におけるモンゴル軍の唯一の戦果なんだから。
仮に>>217 のように先遣隊が今津に上陸しようが、モンゴル軍が今津以外で全部負けたという
事実は動かない。
0226名無し三等兵
垢版 |
2018/04/15(日) 00:53:01.39ID:3rMgPu4y
>>225
数百隻の船団だから、ある程度の幅がないと上陸が難しいだろう。
10m間隔でも100隻で1km必要になる。
小型船はともかく、大型船にそんな間隔は無理があるから、数kmは必要になるんじゃないかな。


あるいは、主力の元軍は早良付近に上陸し、高麗軍は今津付近に上陸したかもしれない。
金方慶伝にあるように高麗軍は今津で勝利したうえで、元軍主力に合流した。
軍議の席で、勝ってる金方慶は継戦を主張するけど、苦戦した元軍の忽敦は撤退を決断した。
というシナリオはどうだろう。
0227名無し三等兵
垢版 |
2018/04/15(日) 08:43:31.20ID:+NUvu8eA
>>226
高麗史金方慶伝に「舟を早良に捨てて道を分けて進んだ」と書いてあるんだから高麗軍の
上陸地点は早良だよ。
その前提から違ってるじゃん。
その上で、益斎乱藁は金方慶が「元帥の忽敦と今津を破った」とし、元史でも洪茶丘が
「元帥の忽敦と今津を抜いた」としてるんだから、忽敦、金方慶、洪茶丘の3人によって
軍議が行われた場所は今津だろ。
つまり忽敦は主力のモンゴル軍を率いて博多や大宰府を目指したものの日本軍に敗れて
今津まで敗走したってこと。
忽敦は「モンゴル兵が戦い慣れてると言ってもこれが限界だ」と言いながら金方慶と
合流してるんだしね。
だから軍議でも強硬に撤退を主張した。
日本軍に大敗して今津に追い込まれたモンゴル軍の状況は忽敦のセリフ通り
「兵法に、「小敵の堅は、大敵の擒なり」と。疲乏の兵を策して、日ごと滋すの衆に敵するは、
完計に非ざるなり。軍を回すに若かず」そのものなわけで、史料的整合性も完璧。
0228名無し三等兵
垢版 |
2018/04/15(日) 17:43:50.70ID:d7ei0Z5R
>>227
今津は撤退のための単なる通過点というわけだな。戦いも無かったということだし。
しかしそれだと金綱集と整合しないな。

金綱集「同十九日、蒙古人筑前国博多・箱ア・今津・佐原賊来、
同廿日辰尅(中略)九国御家人等馳集令合戦」

金綱集によれば蒙古は「十九日」に「今津」に「賊来」している。「賊」の動詞は「損なう」
ことだから「賊来」は「乱入」と同じような意味だ。つまり暴力的に押し入った。
これのほうがよほど「破」とか「抜」にふさわしい。

繰り返すが、今津上陸は十九日だ。
金綱集を信じるのはやめたのか?
0229名無し三等兵
垢版 |
2018/04/15(日) 18:38:29.76ID:BiMlmBvi
>>228
もし今津侵攻が19日ならモンゴル軍は19日に日本軍に敗れて日本から撤退したってことだね。
何しろ今津攻略がモンゴル軍にとって九州における唯一の戦果で、最終的に今津に追い詰められて
撤退したことは史料的に確定してるんだから。
0230226
垢版 |
2018/04/15(日) 18:44:38.84ID:3rMgPu4y
>>227
高麗史金方慶伝で船を捨てたのは三郎浦だと思ってたが、三郎浦=早良ってことなの?
何かではっきりしてるのだろうか。

また、今津の制圧を金方慶の当初の任務とするなら、何で今津から離れたところに上陸するのだろうか。
金方慶が率いる高麗軍は今津に近いところに上陸して制圧するものではないか。
どうせ、上陸にはある程度の幅(数km程度)が必要なんだから。

>>227の情報をもとに修正すると、
西から、金方慶、忽敦、その他の順に上陸して、金方慶を先鋒にして忽敦とともに今津を攻撃する。
今津が制圧できたら、反転して忽敦、金方慶の順で東に向かう。
というシナリオかな。
0231名無し三等兵
垢版 |
2018/04/15(日) 19:04:04.85ID:BiMlmBvi
>>230
三郎浦が早良の音に漢字を当てはめたものってのは長年の定説だよ。
特に否定する根拠もないだろ。
早良に上陸して今津を攻略し、また引き返して忽敦に合流するには戦闘しながら1日で
20キロ近い機動をしなくちゃいけない。
高麗軍にそんな機動力があるとは思えない。
それに今津攻略は元側史料、高麗側史料が挙げている九州における唯一の戦果だ。
今津から東に向かっても結局日本軍に負けて引き返したとしか考えられないね。
0232名無し三等兵
垢版 |
2018/04/15(日) 22:50:29.86ID:d7ei0Z5R
>>230
>今津の制圧を金方慶の当初の任務とするなら、何で今津から離れたところに上陸するのだろうか。

一か所と考えるからそうなる。高麗軍の三っつの翼軍と、洪茶丘の高麗人部隊とが、金綱集が
示すような数か所にそれぞれ上陸した、と考えればよい。このことが「分道而進」だと思う。
任務は、邪魔になる住民や地侍を抹殺するとともに、翌日の蒙漢軍の上陸を側面援護することだ。
このような働きを今津で行ったならば、十分に「破伊蛮」「抜伊蛮」に値すると思うよ。

これらの部隊は、翌廿日には鳥飼潟戦線に加わった。これが「諸軍與戦」だ。
このような考え方を、以下の二つのページにくわしく書いた。

https://ameblo.jp/reydeoro/entry-12321323496.html
廿日の朝、元軍はなぜ少数だったのか

https://ameblo.jp/reydeoro/entry-12323289521.html
高麗史・金方慶伝をどう読むか
0233266
垢版 |
2018/04/16(月) 01:44:03.40ID:27WzV7Gd
>>231
なるほど、三郎浦=早良なのね。

ただ、上陸にはある程度の幅が必要だと思うんだが、そのへんはどうだろうか。
上陸したのが東西数kmの範囲となれば、西の端に上陸すれば往復20kmじゃなくて10kmやそれ以下になるんじゃないかな。
具体的地名で言えば、百道、姪浜、生の松原、今宿あたりを想定している。

>>232
ホームページ見たけど、ツッコミどころが多すぎて困るよ。
先遣隊が本隊の上陸を援護せずに突出する?
何のための先遣隊だよ。
満潮時しか上陸できない?
当時の船はそんなに吃水が深いわけじゃない。
満潮時は干潮時よりも海岸線は陸寄りになるから小型船が濃く距離はそう変わらない。
0234名無し三等兵
垢版 |
2018/04/16(月) 10:19:52.02ID:HZtmKhgG
>>229
>もし今津侵攻が19日ならモンゴル軍は19日に日本軍に敗れて日本から撤退したってことだね。

なるほど、金綱集も信じてるってことね。
で、その同じ金綱集が、朝8時ごろから夕方6時ごろまでに及んだ戦いが20日だったと言っている。

「同廿日辰の刻(中略)九国の御家人等馳せ集まりて合戦せしむる之間、両方死輩其の数を知らず、
酉の刻に及びて九国の軍兵引き退く」

19日に撤退したら20日の戦いはできない。さてどうする?
0235名無し三等兵
垢版 |
2018/04/16(月) 10:39:34.30ID:HZtmKhgG
>>226
>小型船はともかく、大型船にそんな間隔は無理があるから、数kmは必要になるんじゃないかな。

>>233
>上陸にはある程度の幅が必要だと思うんだが、そのへんはどうだろうか。
>上陸したのが東西数kmの範囲となれば、

大船が横一線に並ぶ必要はない。実際に着岸するのはバートルだから、大型船は
何列にもなって団子になっていたって構わない。
またたとえ大船が横長に並んだとしても、バートルが狭い幅の海岸に集中すれば
それでいいわけだ。
そのバートルも、必ずしも全軍が一斉に着岸するとは限らない。
現在でも、上陸用舟艇群がいくつかの梯団に分かれて波状に押し寄せるのが普通だ。
以上から、一万五千、約百隻の蒙漢軍に対して百道浜の幅があれば十分だろう。
0236名無し三等兵
垢版 |
2018/04/16(月) 12:46:34.61ID:L1PHqhVP
>>234
>19日に撤退したら20日の戦いはできない。さてどうする?

なら史料的根拠皆無の今津前哨戦など無かったってことだ。
モンゴル軍は20日に早良から上陸し戦い、日本軍に敗れ、今津に追い込まれて撤退した。
0237名無し三等兵
垢版 |
2018/04/16(月) 16:21:02.83ID:HZtmKhgG
>>236
>なら史料的根拠皆無の今津前哨戦など無かったってことだ。

これは驚いた。
「19日今津上陸、20日合戦」と書いている金綱集は「史料的根拠」ではないのか?
0238名無し三等兵
垢版 |
2018/04/18(水) 23:54:57.54ID:ecBb+/Vb
>>235
>以上から、一万五千、約百隻の蒙漢軍に対して百道浜の幅があれば十分だろう。

また嘘を書いてる。
蒙漢軍の兵数は2万5000人。
艦艇の数は大船300艘含む総数900艘で諸史料が一致してる。

>>237
>これは驚いた。
>「19日今津上陸、20日合戦」と書いている金綱集は「史料的根拠」ではないのか?

これも嘘。
金綱集には「19日今津上陸」などという記述はない。
そもそも高麗軍の上陸は高麗史によって早良だったことが確定してる。
0239名無し三等兵
垢版 |
2018/04/19(木) 14:50:27.23ID:uEn9q0Y1
>>238
>また嘘を書いてる。蒙漢軍の兵数は2万5000人。

元史の、例の「其の国に入りて之を敗る」の前に「士卒一万五千を載せ」とある。

>艦艇の数は大船300艘含む総数900艘で諸史料が一致してる。

忠烈王六年記事に大船126隻と明記。この隻数は金方慶伝の梢工引海水主6700人と合致する。
(一隻あたり船員50~60人は他の史料からわかる)
また一万五千(高麗軍と併せて約二万)に対する126隻は弘安の役の四万に対する300隻と
較べて妥当。

>これも嘘。金綱集には「19日今津上陸」などという記述はない。

金綱集には「同十九日、蒙古人筑前国博多・箱ア・今津・佐原賊来」と書いてあることは
君も知っているはずだ。
「上陸」でなく「賊来」だと言うかもしれないが、「上陸」しなければ「賊来」はできない。

>そもそも高麗軍の上陸は高麗史によって早良だったことが確定してる。

だから、高麗軍は19日に早良に上陸して20日に今津から撤退すればそれでいいではないか。
今津上陸は洪茶丘伝に「抜伊蛮」と書いてあるのだから、洪茶丘の高麗人部隊にまかせて
置けばいいのだし。

別に今津からの撤退に賛成しているわけではないが、君の今津説にせめて他の史料との
整合性を持たせて上げようと思って、言っているのだよ。
0240名無し三等兵
垢版 |
2018/04/19(木) 23:10:20.92ID:7I4FtJKr
>>239
>元史の、例の「其の国に入りて之を敗る」の前に「士卒一万五千を載せ」とある。

そんなもの史料的根拠にならないぞ。
元史・日本伝は元代の経世大典序録・征伐・日本を基に編纂された史料だが、その原文は

「十年、命鳳州經略使忻都高麗軍民總管洪茶丘、以千料舟、拔都魯輕疾舟、汲水小舟、各三百、共九百艘、載士卒二萬五千伐之」

つまり根本史料で2万5000人だったものが明代に元史が編纂された際1万5000人に改変されたわけで、
史料的には蒙漢軍の兵数2万5000人が正しい。

で、艦艇の数は経世大典序録が「千料舟、拔都魯輕疾舟、汲水小舟、各三百、共九百艘」、
元史・列傳第三十九・劉復亨が「戰船九百」、高麗史が「戰艦九百餘艘」で一致。
これだけ諸史料が一致するのは、それが実数ってこと。
忠烈王六年の記事は、高麗の負担した梢工引海水手の定員が大船126艘分だったと言うだけ。
つまり残りの大船174艘分の梢工引海水手は高麗以外が負担したってわけだ。
高麗は元宗15年4月に郭汝弼を元へ派遣し、梢工引海水手について「豈に止に小邦の人のみを
用ちて足るべきか」と訴えてるから、それが認められて負担が軽減されたんだろ。
残りの梢工引海水手を負担は、具体的には女真軍な。

高麗史・金方慶伝
「蒙漢軍は二萬五千、我が軍は八千、梢工引海水手六千七百と、戰艦九百餘艘を以て合浦に留め、
以て女真軍を待つ」

この時点で蒙漢軍は定員の2万5000人が揃ってるわけだから、女真軍は戦闘要員じゃない。
足りてないのは定員1万5000人の梢工引海水手なわけで、女真軍に求められてる役割はそれだ。
0241名無し三等兵
垢版 |
2018/04/19(木) 23:20:42.38ID:7I4FtJKr
>>239
>金綱集には「同十九日、蒙古人筑前国博多・箱ア・今津・佐原賊来」と書いてあることは
君も知っているはずだ。

それ、明らかにモンゴル軍の艦隊が19日に博多湾内へ侵入したって記事じゃん。
そんなもの根拠に、19日今津上陸があったと言うなら、博多や筥崎にも19日にモンゴル軍が
上陸してたことになるだろ。
博多や筥崎には20日に日本軍が布陣してたと蒙古襲来絵詞で確認できるわけで、モンゴル軍が
上陸してたわけない。
0242名無し三等兵
垢版 |
2018/04/20(金) 21:46:27.22ID:n1PAP/fY
>>240
>足りてないのは定員1万5000人の梢工引海水手なわけで、女真軍に求められてる役割はそれだ。

なるほど。で、その女真軍は「女真、期に後る」で、出発に間に合わなかった。
だから船の隻数を、6,700人の梢工引海水手で動かせる126隻に減らして、出発したわけね。
とても分かりやすい。
0243名無し三等兵
垢版 |
2018/04/21(土) 13:07:38.71ID:3xHWa4zY
>>242
いや、高麗史・世家・元宗15年10月3日条
「蒙漢軍二萬五千と、我が軍八千と、梢工引海水手六千七百と、戰艦九百餘艘を以て、日本を征す」
だからそのまま出発してる。
金方慶率いる高麗軍8000人を梢工水手と兼任させれば合計1万4700人で操船に必要な
頭数は取り合えず揃うからね。
もちろん非常手段で弊害も大きいから、金方慶は遠征後に得儒から敗因の一つとして
「又た、東征の時、水戦を習わざる者をして梢工水手と為し、戦いを不利に致さしむ」
と非難されることになった。
0244名無し三等兵
垢版 |
2018/04/21(土) 22:07:09.92ID:MIBwW7T1
>>243
女真軍がだめなら今度は高麗軍か。お手軽なもんだな。
韋得儒が言っているのは高麗兵を水夫に使ったというのでなく、無理に集めた水夫の中に
海に不慣れな素人がいた、と言っているのだろう。

また、韋得儒の、水夫に関する非難は金方慶をおとしめる讒言の一部だ。
忠烈王が疑って、讒言状に署名した十四人の者を調べたところ、「韋得儒に言われて署名
しましたが、本心ではありません」と言ったので王は方慶の無実と信じた、という曰くつきだ。

君は当時の高麗王さえ信じなかったことを根拠にするのかな?
0245名無し三等兵
垢版 |
2018/04/22(日) 16:33:13.33ID:axOY3g2C
>>240
ついでに言えば:
>高麗は元宗15年4月に郭汝弼を元へ派遣し、梢工引海水手について「豈に止に小邦の人のみを
>用ちて足るべきか」と訴えてるから、それが認められて負担が軽減されたんだろ。
>残りの梢工引海水手を負担は、具体的には女真軍な。

引用は肝心のところをはしよってはいけない。元宗は梢工・引海・水手を徴発すべき地域を
「済州、東寧府、北界」と指定して上申している。これらはみな、もと高麗の領域であって
今は元の直轄領となっている地域だ。つまりこれらの地域にいる高麗人を出してくれと言って
いるのであって、女真人を出してくれなどと大それたことは言っていない。

私は、「女真軍」というのは女真人の軍隊が自前の船で、沿海州地域のどこかの港から、
朝鮮半島の東岸づたいにやってくるのだと思う。女真は刀伊の乱や渤海使の伝統があるから
ある程度の造船・航海の技術がある。「女真軍」はそれを基にした自己完結型の水軍というわけ。
そうであってこそ、高麗に新たな造船の負担を強いることなく兵力を増強できるという意味がある。
0246名無し三等兵
垢版 |
2018/04/22(日) 16:55:26.67ID:axOY3g2C
>>241
>それ、明らかにモンゴル軍の艦隊が19日に博多湾内へ侵入したって記事じゃん。

博多湾への侵入なら、亥の刻(午後十時ごろ)と時間まで指定するのはおかしい。
また「博多湾内」を示すのに、なぜ広く隔たった四つの地名で表すのか。
また「賊」はなにかを損なう、害をなすことだから停泊だけでは「賊」にならない。

>19日今津上陸があったと言うなら、博多や筥崎にも19日にモンゴル軍が上陸してたことになるだろ。

今津、早良という正しい地名も含んでいるのだから、問題のある地名を含んでいるからと言って
19日夜複数地点の上陸、破壊活動という全体像を否定することはできない。
また箱崎は箱崎半島北部に上陸した可能性がある。博多については上陸後進出した赤坂も博多地区である。

>博多や筥崎には20日に日本軍が布陣してたと蒙古襲来絵詞で確認できるわけで

蒙古襲来絵詞を持ち出すのなら、竹崎、菊池らが朝方戦った時、すでに祖原山、赤坂にいた元軍は
前夜上陸していたのでなければ無理がある。
0247名無し三等兵
垢版 |
2018/04/23(月) 13:54:27.66ID:YfPcHmfY
>>243
>もちろん非常手段で弊害も大きいから、金方慶は遠征後に得儒から敗因の一つとして
>「又た、東征の時、水戦を習わざる者をして梢工水手と為し、戦いを不利に致さしむ」
>と非難されることになった。

これにはもう一つの要素がある。
第一次東征軍の船隊は、帰国の際に大風雨に遭った。この際、高麗軍の左軍の司令官である
金&#20353;が海に落ちたが、同船した韋
0248名無し三等兵
垢版 |
2018/04/23(月) 14:11:36.79ID:YfPcHmfY
途中で投稿してしまった。以下続き。

得儒は彼を救わなかった。帰国後、金方慶応は韋得儒が金&#20353;を救わなかったことを責めて、韋を
免職してしまい、韋はこれを深く恨んだ。
上記した讒言状の一節は、「金方慶がまともな水夫をつけなかったために(操船ミスで船が傾くか
ぶつかるかして)金&#20353;が海に落ちて死ぬという、軍に対する不利益をもたらしたのだ」という、
責任転嫁であろう。
0249名無し三等兵
垢版 |
2018/04/23(月) 14:21:21.75ID:YfPcHmfY
>>247, 248
訂正:
金方慶応 → 金方慶
&#20353 → [イ先]
0250名無し三等兵
垢版 |
2018/05/05(土) 14:00:09.42ID:MX3ThxnV
元側の史料の戦果で本土の戦果に今津の地名しかないのは元軍にとって致命的だよ。

高麗史では、壱岐や倭兵大敗のような小戦は詳細に
記載しながら、最終戦の大規模な戦闘を「諸軍與戰、及暮乃解」の僅かな文章で流している。

更に忽敦ですら、孫子の兵法を引用して日本軍を大敵、自軍を小敵に例える始末。

とても戦況を優位に進めた軍勢とは思えない。
0251名無し三等兵
垢版 |
2018/05/05(土) 22:10:59.98ID:tg2FL5DQ
>>250
>元側の史料の戦果で本土の戦果に今津の地名しかないのは元軍にとって致命的だよ。

それは洪茶丘伝のことを言っているのだろう。
「與都元帥忽敦等、領舟帥二万、渡海征日本、拔対馬一岐宜蛮等島。」

洪茶丘伝は個人史だから、手柄話は洪茶丘じしん、あるいは彼が指揮する高麗人部隊の
ものだ。決して全軍に関するものではない。
つまりこの文章は今津を抜いた(上陸して虐殺など行った)のが洪茶丘の高麗人部隊
であったことを示している。

そう言うと「領舟師二万」だから全軍だ、と言うだろうが、これは東征軍における
洪茶丘の立場、地位を表したものだ。
つまり彼は副都元帥だから、形式的には都元帥の忽敦を補佐して全軍を領している。
そのことを言っているだけ。
あくまで個人史であることを忘れてはいけない。
0252名無し三等兵
垢版 |
2018/05/06(日) 08:31:55.85ID:rzIPlPS6
副将として全軍を領しているといっているのだから
個人史として切り捨てるのは都合が良すぎる。

立場的に全軍の指揮を担っている洪茶丘の本土に
おける戦果が今津のみであるなら、元軍全軍の戦果
とみなされても仕方がない。

肝心の都元帥すら、洪茶丘らとの軍議の際、たった一日の戦いで今後の戦いに自信を喪失している。
次に高麗軍の戦果の記述をみても壱岐や倭兵大敗の
ような取るに足らない小戦に紙面を割く始末。

本土の戦果が元軍にとってほとんど無かったと
みられても仕方がない元側の史料の状況だ。
0253名無し三等兵
垢版 |
2018/05/06(日) 11:11:57.59ID:hkKcrh0j
>>252
>立場的に全軍の指揮を担っている洪茶丘の

その通り。「領舟師二万」は彼の形式的な「立場」、「地位」に過ぎない。
都元帥の忽敦が健全でいる限り、実際に舟師二万を領しているのは忽敦だ。
その場合の洪茶丘の責務は:
1)高麗人部隊を直率すること
2)軍議のメンバーとして意見を述べること
3)都元帥の忽敦も左副都元帥の劉復亨も死亡または重傷したときに全軍の指揮をとること
である。
3)の状況にはなっていないから実際は1),2)しかない。つまり実際には彼は舟師二万を領して
はいないのである。指揮しているのは高麗人部隊の数千だけ。

>洪茶丘の本土に おける戦果が今津のみであるなら、元軍全軍の戦果 とみなされても
>仕方がない。

個人史の記述を全軍に拡大するのは都合が良すぎる。

>高麗軍の戦果の記述をみても壱岐や倭兵大敗の ような取るに足らない小戦に紙面を

これも同じ。倭兵大敗は三郎浦という本土の戦場における高麗軍中軍の戦果である。
金方慶伝もまた個人史であることを忘れてはいけない。
0254名無し三等兵
垢版 |
2018/05/06(日) 23:17:01.10ID:rzIPlPS6
>>254
全軍2万を領す「立場」と「地位」なら
一部隊の話ではないじゃないか。
忽敦は都元帥いわば総司令官、洪茶丘は右都元帥で
福司令官、忽敦とともに全軍を指揮する立場。
そのことを元史の洪茶丘伝は述べているに
過ぎない。
都合の悪い史料は個人史で片付けようと
してもそうはいかない。

それに高麗史の金方慶伝は壱岐での
蒙漢軍の洪茶丘や弘安の役でも
蒙漢軍の動向に触れており、個人史
のみでは決してない。

また、仮に今津を占領したのが洪茶丘軍のみだったとした場合、その夜に忽敦・金方慶と同じ場所で同席しているということも致命的。

今津以東を忽敦らが占領していた場合、後方に後退し
今津で洪茶丘らと合流するのも不自然。

また、仮に今津にいた洪茶丘を忽敦が
今津以東に呼び出したとしたら
洪茶丘の進軍をあらわし、最終的に
進撃できた地名までを元史に記すはず。
結果は今津までだった。

元軍の進軍限界地点は今津までだった。
そう考えれば不自然なところは全くなくなる。
0255名無し三等兵
垢版 |
2018/05/07(月) 21:56:05.33ID:rGLESemz
>>254
「領舟師二万」の意味は置いといて、高麗人部隊を率いる洪茶丘が、忽敦らの本隊と分かれて
別行動(例えば今津上陸)が可能であったことを君が認めるなら、特に言うことはないよ。

>今津を占領したのが洪茶丘軍のみだったとした場合、その夜に忽敦・金方慶と同じ場所で同席
>しているということも致命的。

致命的でもなんでもない。19日夜に今津に上陸した洪茶丘軍が、翌20日朝から夕方までの間の
十余時間のうちに鳥飼潟周辺まで移動して、戦闘に参加したと考えればよい。金方慶から見れば、
それもまた「諸軍與戦」の一つだ。
あるいはまた、今津に上陸した部隊が洪茶丘軍の全部ではなく、その一部であったと考えてもよい。
今津制圧など、1000人もいれば十分だからね。
その場合、今津上陸軍の指揮官は洪茶丘の部下だということになるが、部下の功績は上官の功績だから、
洪茶丘伝に載ってもなんの問題もない。

>それに高麗史の金方慶伝は壱岐での蒙漢軍の洪茶丘や弘安の役でも蒙漢軍の動向に触れており、
>個人史のみでは決してない。

当たり前だ。私が言っているのは、個人史の中に全軍の戦闘記録を「必ず、かつ全て」書くことは
あり得ない、ということだ。
0256名無し三等兵
垢版 |
2018/05/09(水) 11:13:06.86ID:q8jEcGKy
追加
今津から鳥飼潟まで移動するのは、陸上移動したとすると、地形的になかなか大変だ。
十余時間という時間のうちでは十分可能だけどね。

ところで最近気が付いた。元軍は「舟師」というように水陸両用部隊なのだ。
バートルを使って百道浜まで海上移動したと考えればなんでもない。
0257名無し三等兵
垢版 |
2018/05/24(木) 22:47:53.16ID:4OLes7ab
>>244
知兵馬事の韋得儒は上官である左軍使の金&#20353;が航海中に溺死した事で軍規違反に問われ、
金方慶を恨んだ。
つまり操船作業も高麗軍の軍務だったということだ。
高麗兵を水夫に使わなければ、そもそも韋得儒が金方慶を恨むこともなかった。

>>245
済州、東寧府、北界の能く水に習れた人は実際に文永の役に投入されてるだろ。
忠烈王六年記事によれば高麗は求められた梢工引海水手の定数である大船126艘分、
つまり、50人×126艘で6300人に満たない人数しか動員できなかった。
ところが女真軍を待つ段階で梢工引海水手は定数より多い6700人。
あきらかに高麗が動員してない梢工引海水手も含まれてるわけで、それが済州、東寧府、
北界で動員された分だな。
で、残り174艘の担当だった女真軍が到着しなかったことで高麗軍8000人も操船に従事し
大船300艘含む900艘の艦隊で遠征した。
これで諸史料に一切の矛盾なし。
完璧だろ。
0258名無し三等兵
垢版 |
2018/05/25(金) 00:12:54.91ID:VJuCq/9N
>>246
>博多湾への侵入なら、亥の刻(午後十時ごろ)と時間まで指定するのはおかしい。
>また「博多湾内」を示すのに、なぜ広く隔たった四つの地名で表すのか。

金綱集はモンゴル軍が博多湾から出て行った時間を「同廿一日卯尅」と書いてるんだから、
侵入の時間も書くだろ。
博多・箱ア・今津・佐原と博多湾内の代表的な地名を挙げてるのも明らかに「博多湾内」を
示してる。
そもそも時刻が書いてあるということは、その時に日本軍がその場所にいたということ。
つまり、上陸時刻と戦闘開始時刻は一緒だ。
金綱集によれば上陸時刻は「同廿日辰尅」。
0259名無し三等兵
垢版 |
2018/05/25(金) 00:23:16.15ID:VJuCq/9N
>>254
いや、その夜に忽敦・金方慶と同じ場所で同席しているということは致命的だよ。
金方慶も洪茶丘も忽敦と共に今津を破ったと書いてるからね。
そして元史や益斎乱藁が九州において今津の地名しか書いてない以上、金方慶や洪茶丘は
鳥飼潟周辺まで移動していない。
「諸軍與戦」が行われた場所は今津しかない。
0260名無し三等兵
垢版 |
2018/05/27(日) 00:00:14.01ID:fACUA6/0
>>259
金方慶や洪茶丘が鳥飼潟に参加していないなら、元軍の相当部分が参戦していないことになる。
つまり、全兵力の半分とか2/3とかの兵力で戦ったということになる。

その場合、戦闘継続すれば翌日には5割増しとか倍の兵力で戦える。
それでも、少敵の堅と言って元軍は即日撤退している。
これは、その程度では勝てないぐらいボロ負けするぐらいしか理由はない。
実際には、解というぐらいでそこまでの完敗ではなさそうだ。

つまり、初日に日本軍主力と戦った元軍を少なく見積もった場合には、
翌日に戦闘を継続できない理由がないと納得できない。
0261名無し三等兵
垢版 |
2018/05/29(火) 17:30:43.85ID:OZJ1+xSB
>>260
君は壱岐軍議くん改め今津軍議くんの説を誤解している。
今津軍議説の骨子はこうだ。

●戦闘は20日の一日だけだった。19日の上陸は無かった。
●20日に洪茶丘軍、金方慶軍を含む全軍が百道原に上陸した。
●同日の日本軍との戦闘で上記全軍が今津に退却した。
●同日夕刻、今津で軍議を行い、翌日午前6時に博多湾から退去した。
 (午前6時までに、ではない。きっかり午前6時に退去)
●今津における日本軍との戦闘の有無については両説を唱えており、
 いまのところどちらかは判然としない。

今津軍議くん、これでいいかな?
0262名無し三等兵
垢版 |
2018/05/30(水) 13:42:32.08ID:s7GaAnIj
>>97
ちょうど文藝春秋に服部氏の記事 > 服部氏の蒙古襲来借りてきた

 元寇の真実「神風」は吹かなかった 服部英雄
http://bunshun.jp/articles/-/7210
0263名無し三等兵
垢版 |
2018/05/30(水) 14:11:45.34ID:DxxsD8Mi
今津軍議くんと議論していちばん困るのは、言うことが一定しないで、コロコロ
変わることだ。

>>227
>高麗史金方慶伝に「舟を早良に捨てて道を分けて進んだ」と書いてあるんだから高麗軍の
上陸地点は早良だよ。

>>259
>そして元史や益斎乱藁が九州において今津の地名しか書いてない以上、金方慶や洪茶丘は
鳥飼潟周辺まで移動していない。

この二つですでに金方慶の上陸地点が食い違っている。
0264名無し三等兵
垢版 |
2018/05/30(水) 16:53:52.80ID:IM/8vA9B
>>260
金方慶や洪茶丘が率いていた2万人はあくまで「舟師」、つまり水軍だからね。
その内1万5000人は操船に必要で、日本軍主力にぶつけて大きな損害を受けた場合、
帰りの航海に支障をきたす。
元軍にとっての主戦力は忽敦と劉復亨に率いられた部隊で、それが日本軍に大敗すれば
挽回不可能を判断するのは当然。
忽敦・金方慶・洪茶丘の戦闘が解で終わったのは、そこが主戦場の鳥飼潟周辺から離れた
今津だったからだろ。
殿軍を務めた劉復亨が重症を負ってるのを見ても、戦闘が元軍の完敗だったのは確実。
0265名無し三等兵
垢版 |
2018/05/30(水) 17:24:22.53ID:IM/8vA9B
>>263
読み直したら>>259はアンカーミスだった。
>>254ではなく>>255が正しい。

自分の主張は一貫してるよ。
金方慶・洪茶丘が上陸したのは早良で、破ったのは今津。
自分で>>261にまとめてるじゃん。

日蓮とかいくつかの史料から19日に上陸前の元艦隊に松浦党が海戦仕掛けた可能性も
あると考えてるけど、現時点ではまだ立証するには十分じゃない。
0266名無し三等兵
垢版 |
2018/05/30(水) 22:08:28.31ID:DxxsD8Mi
>>264
>金方慶や洪茶丘が率いていた2万人はあくまで「舟師」、つまり水軍だからね。

「舟師」とか「水軍」とか言うのは「舟に乗った軍隊」、つまり渡海遠征軍のことだ。
その証拠に、洪茶丘伝の第二次東征記事は次のようになっている。

(至元)十八年,與右丞欣都將舟師四萬,由高麗金州合浦以進,時右丞範文虎等將兵十萬,
由慶元、定海等處渡海,期至日本一岐、平&#25142;等島合兵登岸。兵未交,秋八月,風壞舟而還。

「右丞欣都と與(とも)に舟師四萬を将す」だから東路軍ぜんたいが舟師であることが分かる。
したがって第一次東征の蒙漢軍もまた「舟師」だ。
0267名無し三等兵
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2018/05/31(木) 09:06:32.51ID:Iy6NkeO6
アンゴルモア元寇合戦記

ゴーストオブ対馬

スレ民なら注目してるよな?(´・ω・`)
0268名無し三等兵
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2018/05/31(木) 09:06:54.42ID:Iy6NkeO6
北からの蒙古襲来も有名になってくれ
0269名無し三等兵
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2018/05/31(木) 09:38:44.86ID:Gh5ua7p9
266の続き:
もうひとつ。洪茶丘伝のなかの、第一次と第二次東征の軍勢を較べて見よう。

第一次:與都元帥忽敦等領舟師二萬
第二次:與右丞欣都將舟師四萬

二つの文章の構文は全く同じ。したがって、第二次東征の四万が定説通りに東路軍の
全兵力であるのならば、第一次東征の二万もまた全兵力である。

また、第一次東征の四万は高麗軍一万を含むことは知られている。そうであれば、
第一次東征の二万もまた高麗軍五千三百を含む数字である。
0270名無し三等兵
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2018/06/01(金) 04:22:53.36ID:Ku46LxGp
>>266
「舟師」が渡海遠征軍という意味なら範文虎率いる江南軍も「舟師」のはずだろ。
洪茶丘伝の第二次東征記事では渡海遠征軍でも東路軍の「舟師」と江南軍の「兵」が
使い分けられていて、逆に「舟師」が渡海遠征軍のことじゃない証拠になってる。
0271名無し三等兵
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2018/06/01(金) 05:31:12.97ID:WdoFyIXV
江南軍は南宋の降兵だから正規軍とは扱いが違って当然だろ。
0272名無し三等兵
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2018/06/01(金) 10:37:42.46ID:GcRD+r5b
元寇で好きなフレーズ

凡自天照皇大神耀天統
0273名無し三等兵
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2018/06/01(金) 10:53:07.66ID:hG3wT4lm
>>270
>洪茶丘伝の第二次東征記事では渡海遠征軍でも東路軍の「舟師」と江南軍の「兵」が
 使い分けられていて

なるほど、東路軍四万のぜんたいを「舟師」と呼んでいることは認めるわけだな。
それならば第一次東征の舟師二万も、それが東征軍の全兵力だということになるではないか。
同じ伝のなかの同じ構文で、東路軍四万に対応しているのだから。
0274名無し三等兵
垢版 |
2018/06/01(金) 11:04:49.40ID:m2vFk6G7






0276名無し三等兵
垢版 |
2018/06/01(金) 11:22:30.74ID:odBgZXNX
筥崎宮もいいが
県庁横の東公園も行ってみ
上皇像と日蓮像は圧巻!特に日蓮像!!デカい
0277名無し三等兵
垢版 |
2018/06/01(金) 11:26:01.92ID:GcRD+r5b
ハリウッドクラスの元寇映画を見てえ!!
0278名無し三等兵
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2018/06/01(金) 11:59:44.78ID:ytClXKak
日中韓蒙の合作でな!w
米仏も当然出資!
0279名無し三等兵
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2018/06/04(月) 21:45:02.97ID:N8MMAXXo
壱岐軍議くん改め今津軍議くんが「舟師」にこだわるわけがわかった。

ブログから引用:
「恐らく高麗軍は征東右副都元帥・洪茶丘の指揮下「舟師」に編成されて今津方面へ侵攻し、
残りの主力部隊が征東左副都元帥・劉復亨に率いられて百路原赤坂方面へ侵攻したのでしょう。」

金方慶軍と洪茶丘軍は「舟師」という特別な部隊であり、その他に劉復亨ひきいる「主力部隊」が
いたというのだ。
これだと第一次東征軍の兵力は、舟師二万プラス主力部隊で合計数万人だったということになる。

しかしこの説は洪茶丘伝の第二次東征記事に見える「舟師四万」という文字で崩れる。
第二次東征の東路軍は第一次と同じような構成で、その兵力は約四万だったことは定説だ。
「舟師四万」の文字は、「舟師」が特別の部隊ではなく、単に「舟に乗った軍隊」の意味
であることを示している。

ブログの書き直しが必要だな。
0280名無し三等兵
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2018/06/06(水) 00:03:12.31ID:s9mzIin4
>>273>>279
文永の役の「舟師二万」が遠征軍の総数じゃないことは史料により確定してる。

元史 卷一百五十二 列傳第三十九 劉復亨
「十年,遷征東左副都元帥,統軍四萬、戰船九百,征日本」

高麗史 巻二十八 世家二十八 忠烈王一
「與元都元帥忽敦右副元帥洪茶丘左副元帥劉復亨、以蒙漢軍二萬五千、我軍八千、梢工引海水手六千七百、戰艦九百餘艘、征日本」

高麗史の蒙漢軍、高麗軍、梢工引海水手の合計は3万9700人で約4万人。
元側史料、高麗史料とも文永の役の遠征軍の総数が4万人だったことで一致してる。
だからこれが実数。
その4万人の内の2万人が「舟師」だ。
0281名無し三等兵
垢版 |
2018/06/06(水) 13:50:51.03ID:ASNiQjEp
>>280
では聞くが、第二次東征・東路軍の「舟師四万」は何を意味するのか?
この場合も舟師四万の他に「主力部隊」がいたのか?
0282名無し三等兵
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2018/06/07(木) 21:51:17.23ID:NWUtOhn9
「主力第二次東征・東路軍の「舟師四万」は何を意味するのか?」
壱岐軍議くん改め今津軍議君はこの質問に答えない。

それならこちらから教えてあげよう。
高麗史世家・忠烈王六年八月記事によると、この月、忠烈王は洪茶丘らとともにフビライに拝謁した。
このとき洪茶丘がフビライに奏上した言葉を、高麗史は次のように記録している。
「茶丘・忻都は蒙・麗・漢四万の軍を率いて合浦を発し、范文虎は蛮軍十万を率いて江南を発し、倶に
日本の一岐島に会し、両軍集まり畢(おわ)りて直ちに日本に抵(あた)らば、之を破ること必せり」

わかるかな? 第二次東征の蒙古軍、漢軍、高麗軍の合計が四万なのだ。
一方、元史・洪茶丘伝は次のように述べる。
「十八年,(茶丘)與右丞欣都將舟師四萬,由高麗金州合浦以進,時右丞範文虎等將兵十萬,由慶元、
定海等處渡海,期至日本一岐、平&#25142;等島合兵登岸。兵未交,秋八月,風壞舟而還。」
この文章の内容・すじがきは上記、忠烈王世家の文章とぴったり同じだ。
そうであれば「舟師四万」=「蒙・麗・漢四万」=東路軍の全兵力、ということになる。

舟師はなにも、壱岐軍議くん改め今津軍議くんが考えるような、特別編成の軍隊ではない。
普通の軍隊が、たまたま船に乗って出かけるのが「舟師」なのだ。

そうであれば元史・洪茶丘伝の「舟師二万」の舟師もまた「舟に乗った軍隊」であり、
二万は第一次東征軍の全兵力、ということになる。
同じ洪茶丘伝で二、三行離れた二つの「舟師」が、異なる意味であるはずがないからね。
0283名無し三等兵
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2018/06/08(金) 13:46:44.60ID:K4s+lGWE
>>282
訂正;
誤「主力第二次東征・東路軍の・・」
正「第二次東征・東路軍の・・」
0284名無し三等兵
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2018/06/13(水) 02:09:39.49ID:5lbekqLe
>>281
>では聞くが、第二次東征・東路軍の「舟師四万」は何を意味するのか?
>この場合も舟師四万の他に「主力部隊」がいたのか?

「主力部隊」は範文虎率いる江南軍10万人だろ。

元史・洪茶丘伝
「十八年,(茶丘)與右丞欣都將舟師四萬,由高麗金州合浦以進,時右丞範文虎等將兵十萬,由慶元」

東路軍4万は「舟師」、江南軍10万は「兵」で明確に役割が区別されてるじゃん。
文永の役では遠征軍4万が洪茶丘の水軍2万と忽敦劉復亨の主力軍2万で編成されてたのに対し、
弘安の役では東路軍4万全体を水軍に特化させ、主力軍はそれとは別に大幅な兵力増強の上で
慶元から10万人を出発させることになったということ。
0286名無し三等兵
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2018/06/13(水) 06:53:35.94ID:5lbekqLe
>>282
忠烈王六年八月記事にある洪茶丘が奏上した言葉は結局実現しなかった。
忠烈王七年三月記事によれば、高麗へ派遣されたのは蒙古漢人からなる軍3万人ではなく
「帰附せる1万5千」だからね。
一方、高麗は忠烈王六年十一月に「梢工水手1万5千、正軍1万」の動員を報告。
梢工水手の人数は遠征時には1万7千29人に増えてるから「帰附せる1万5千」の内、
2000人は梢工水手だったということ。
つまり高麗軍(軍1万、水夫1万5千)と帰附軍(軍1万3千、水夫2千)の合計4万が「舟師」。
東路軍は陸戦の戦闘力を犠牲にして水軍として海戦能力を大幅に増強させた編成だ。
「舟師四万」≠「蒙・麗・漢四万」なのね。
0288名無し三等兵
垢版 |
2018/06/13(水) 14:19:39.41ID:k0R2H5t8
中世の軍隊を近代的な分業で考えるからおかしくなる
0289名無し三等兵
垢版 |
2018/06/13(水) 22:25:36.55ID:a18otus/
>>284
>東路軍4万は「舟師」、江南軍10万は「兵」で明確に役割が区別されてるじゃん。

舟師はあくまで特殊部隊だと言いたいらしいが、残念ながら漢字の本場、中国人の
語感はそれとは違うようだ。
明史・日本伝は次のように述べている。

乃命忻都、範文虎等帥舟師十萬征之,至五龍山遭暴風,軍盡沒。
乃(すなは)ち忻都、範文虎等に命じて舟師十万を師して之を征せしむ。五龍山に
至りて暴風に遭い、軍盡く没す。

総兵力十四万を十万と間違えているが、忻都の東路軍も、範文虎の江南軍も、いずれも
「舟師」と見なしていることは明らかだな。
0290名無し三等兵
垢版 |
2018/06/13(水) 22:32:53.48ID:a18otus/
>>289
これに対する、壱岐軍議くん改め今津軍議くんの反論はもうわかった。

東路軍四万と、江南軍のうち範文虎軍六万、合わせて十万が「舟師」、江南軍の残り四万
が「本隊」だ!

違うか?
0291名無し三等兵
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2018/06/14(木) 07:15:56.29ID:wntdI5bk
>>289
史料は後から編纂されるほど改編されて間違った内容になる。
その典型だな。

>>290
いや、東路軍四万が「舟師」、江南軍10万が「軍」だから全て「本体」だ。
元史にそう書いてある。

元史・洪茶丘伝
「十八年,(茶丘)與右丞欣都將舟師四萬,由高麗金州合浦以進,時右丞範文虎等將兵十萬,由慶元」
0292名無し三等兵
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2018/06/14(木) 07:59:28.80ID:wntdI5bk
東路軍の編成について根本的な間違いは抜都魯輕疾舟300艘を揚陸艇としてること。
だから汲水小舟300艘の意味がわからない。
外洋航海用の大船は陸地で真水を調達する必要があるが、接岸できる地形が限られるため
上陸して水を汲むための小舟が必要。
つまり汲水小舟とはもともと上陸用の船なわけで、上陸作戦も当然汲水小舟で行う。

では抜都魯輕疾舟は何かというと、「勇者」という意味なんだから水上戦闘艦だ。
高麗の水上戦闘艦については、日本の史料「内蔵石女等申文」に詳しい記述がある。
刀伊の入寇で女真に拉致され、高麗水軍に救出された女の報告ね。
それによると二重構造で櫓や櫂を使って操船し、投石器を備えていたという。

実はその高麗の水上戦闘艦の特徴に合致する船が蒙古襲来絵詞に描かれてるという指摘が
以前よりあった。
クビライは元寇に高麗水軍を投入したということだ。
当然そのための人員が要る。
抜都魯輕疾舟300艘で水上戦闘を主目的とした部隊が「舟師」なんだよ。
0293名無し三等兵
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2018/06/15(金) 10:43:27.25ID:hA/4jOCP
>>291
>史料は後から編纂されるほど改編されて間違った内容になる。 その典型だな。

なるほど。明史が江南軍を舟師と呼んだのは「間違い」というわけだな?
それでは同時代の舟師を示そう。
元は弘安の役の十年後の至元二十八年に琉球に対して国書を送った。その国書の
末尾に次の文章がある。
「若不效順、自恃險阻、舟師奄及、恐貽後悔、爾其慎擇之」
「若し順を効(いた)さず、自ら険阻を恃むならば、舟師奄(おお)いて及び、後悔を
貽(のこ)すことを恐る。爾其れ慎みて之を撰べ」

属国の務めを果たさず、海を隔てているから安心と思っているならば、舟師が海を覆って
やって来て後悔するぞ、身の程をわきまえてどちらかを選べ、というのだ。
どこかで聞いたような文句だが、このなかの「舟師」は何を意味するのか?

>つまり汲水小舟とはもともと上陸用の船なわけで、上陸作戦も当然汲水小舟で行う。
>抜都魯輕疾舟300艘で水上戦闘を主目的とした部隊が「舟師」なんだよ。

確認するが、舟師は抜都魯輕疾舟で渡海して、汲水小舟で上陸するのか?
0294名無し三等兵
垢版 |
2018/06/15(金) 15:35:31.66ID:S9UgSYqZ
>>293
琉球じゃなく瑠求ね。
沖縄じゃなく台湾。
目と鼻の先だから沿岸水軍がそのまま小舟で侵攻できる。
弘安の役の江南軍とは全く別物。

>確認するが、舟師は抜都魯輕疾舟で渡海して、汲水小舟で上陸するのか?

抜都魯輕疾舟は帆走能力がないから、そのまま日本まで渡海することができない。
千料舟に繋いで曳航したと考えられてる。
0295名無し三等兵
垢版 |
2018/06/15(金) 21:18:38.21ID:hA/4jOCP
>>294
>琉球じゃなく瑠求ね。 沖縄じゃなく台湾。

瑠求が沖縄か台湾かは両説ある。

>目と鼻の先だから沿岸水軍がそのまま小舟で侵攻できる。

また小舟か。フビライにすれば「小舟で押し寄せるぞ」では恫喝にならないではないか。
また国書を受け取った瑠求王は、古典しか知らず、もちろん今津軍議君のブログも読んだこと
ないのに、なんで「舟師=小舟」と解釈できたのか?

その古典を見れば、舟師はむかしから普通に使われている言葉だ。
例えば三国志に名高い赤壁の戦いを、後漢書は次のように述べている。
「曹操以舟師伐孫權,權將周瑜敗之於烏林、赤壁.」
「曹操、舟師を以て孫権を伐つも、(孫)権の将・周瑜、烏林、赤壁に於いて之を敗る」

数十万と言われる曹操の軍は小舟に乗って赤壁に押し寄せたのか?
また君によれば舟師は補助部隊であって本隊は別にいるらしいから、曹操軍よりもっと大きな
本隊が別にいたのか?
0296名無し三等兵
垢版 |
2018/06/16(土) 10:19:43.72ID:FrFkSPnN
>>294
古典の舟師はまだまだあるぞ。兵典から:
「武コ中,李靖隨河濶、孝恭討輔公&#31055;。賊一軍舟師三萬頓於當塗,柵斷江口,傍江築城,
又遣陸軍二萬據當塗南路,亦造柵自固,並蓄力養鋭,」

武徳年代に、李靖は河濶、孝恭に随って輔公&#31055;を討った。賊の一軍の舟師三万は當塗に
頓(とど)まり、柵で江口を絶ち、江岸に築城した。また他に陸軍二万を派遣して當塗南路
に據り、これ亦柵を造って自らを固め、同様に力を蓄え、鋭を養った.

「舟師」と「陸軍」が対語として用いられている。いずれも目的地に着いたら築城して立て
籠もった。舟師と言い、陸軍と言えども最終的にやることは同じで、違いは舟で行くか、歩いて
行くかと言う移動手段の差に過ぎない。

「舟師」とは舟に乗った軍隊の事であり、普通の軍隊がたまたま舟で移動するものだ、と私が言う
所以である。以前に「渡海遠征軍」と書いたが、大河なども含むから「水上遠征軍」と言った方が
よい。もちろん江南軍も舟師だ。この語を用いず「兵」と書いたのは一文の中で重複を避けた
からだ。だから分かるようにわざわざ「渡海」の語を添えている。

付け加えれば上記の例で、舟師三万と陸軍二万だから、数から言えば舟師のほうが主力だ。
舟師が補助部隊とは限らないことがわかるだろう。
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