元側の史料の戦果で本土の戦果に今津の地名しかないのは元軍にとって致命的だよ。

高麗史では、壱岐や倭兵大敗のような小戦は詳細に
記載しながら、最終戦の大規模な戦闘を「諸軍與戰、及暮乃解」の僅かな文章で流している。

更に忽敦ですら、孫子の兵法を引用して日本軍を大敵、自軍を小敵に例える始末。

とても戦況を優位に進めた軍勢とは思えない。