【蒙古襲来】元寇【文永・弘安の役】8 [無断転載禁止]©2ch.net
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>>319
>「十八年,與右丞欣都將舟師四萬,由高麗金州合浦以進,」
>洪茶丘が率いていたのは「舟師四萬」
総司令官を無視しては困るな。
総司令官である右丞・欣都は何を将(ひき)いたのか? >>320
武士の起源は農民というのは人間の起源は微生物というてんのと変わらない おまいらにずっと質問したかったんだが
北条時宗ってやっぱり右派は無条件礼賛、左派は極悪人扱いなの?
そこのところ是非聞きたい 時宗といえば八王子のケミカル和尚w
それと箱根駅伝の本山横
つかトンデモ系だが面白いサイトを見付けた!
やっぱ日本人は選ばれたミンジョクなんだよなあw
自分の浅くて広い知識を更に掘り下げてくれている!! >>326
いやさ、正直な所 時宗公 ってそこまで目くじら立てるような存在なのかな? と思うわけよ
彼の態度はまさしく立派だったと自称愛国者である俺も思うけど、その内実ってかなり酷いでしょ
とても「正一位」を追贈されるような人間だったのかな? と思うわけよ
『太平記』を読むと、大塔宮様 や 大楠公 が挙兵した時、彼等を滅ぼすためにかなりの軍勢が集まった
それは何故か? と言えば、高時 が脅威に感じたからだ
ところが元寇についてはどう? 時宗公 は明らかに事態を過小評価していたとしか思えない応対ですよね?
文永の時なんかはほぼほったらかし、偉大な 少弐資能公 や 竹崎季長公 がほぼ独力で国家を守護してる
日本国内でも日頃「大元」と大をつけて置きながら、後醍醐天皇様 の乱の時の本気度の欠片も感じられない
そして弘安の時には慌てて鎭西大将軍という身内を送ったけど、それでもやたらとハッパをかけるだけの
ブラック体質だった事は概略を読んでいるだけでも理解できる
つまり初期対応の失敗、国家の為に戦っている者への労わりの無さ、それがちらほら見られる
どう考えても、右派が礼賛し、左派が憎むようなスゴイ人物とは言えないでしょ >>328です
それと>>299さん? IDが一定になっているわけでないから、直近で>>299さん にしておきますね
別に
>>301さん こと、「壱岐軍議君改め今津軍議君と論議をしている人」に味方をする気はないんだけど
横レスは失礼と思いますが一つよろしいですかね?
私はある意味>>289の『明史』日本伝を取り上げた事に対するあなたの意見には賛成します
やはり一級資料とはいえ『明史』は乾隆四年完成のものですから
ですがその他のあなたの議論について疑問に思ったので是非お聞きしたいのですが、あなたは>>316の反論については
「解釈も何もないだろ。」と具体的に反論をせず、「俺は洪茶丘伝の記述を指摘しているだけ」と仰ってますが、これに
ついての具体的な考えという物はないのでしょうか?
それと「舟」と「師」の意味というのをどの様にお考えなのでしょうか? まさか「師」というのは小さいという意味だ
なんて事は言わないですよね? (続く) (続き)
それから>>301さんにもほぼ同じ内容の見解をお聞きしたい。あなたの結論としては「舟師に意味なんて無い。海軍というだけだ」
って事ですよね? であるなら、わざわざ「舟師」と「兵卒」と分けてる事についてどの様にお考えになっておられるの
でしょうか? 確かに『正史』と言っても完璧ではありません。とくに『元史』は正史上最も劣悪で最低な部類に入る
と言われていますが、それでもたまたま気分で分けたという事なんでしょうか?
それとこの質問は>>299、>>301お二人にしたいのですが、『宋史』太祖本紀の一文「冬十月壬辰,曹彬等將舟師、歩騎發江陵,水陸並進。
丁酉,命呉越王錢俶為昇州東南行營招撫制置使。」を読んでどの様な印象をお持ちになるでしょうか? それと
江南軍の
范文虎は賈似道の娘婿で姦臣伝の中の一部にしか出ていない人材、李庭は明らかに監軍的な立場だと思われること、旧南宋軍人
が江南軍の主力という事実と東路軍に明確な違いがあるが、その事実が記述に及ぼす影響についてどの様にお考えでしょうか?
>>318
その事実は当たらずと言えど遠からず、中々鋭い指摘であると私は思います。正史ではないですが、例えば『籌海図編』では
「倭人至福建、乃福人買舟、至海外貼造重底・・・・・舟師皆犯重罪之人也」という記述があります。ですからそんなに的外れ
な意見ではありませんね。 >>330
>あなたの結論としては「舟師に意味なんて無い。海軍というだけだ」って事ですよね?
私がそんなことを言いましたか?
私は「舟師」とは「舟に乗った軍隊」の意味であり、元寇に関して言えば「渡海遠征軍」のことである、
ち言っています。
河も含めて「水上遠征軍」と言えば、史書に出て来る全ての「舟師」に当てはまります。
>であるなら、わざわざ「舟師」と「兵卒」と分けてる事についてどの様にお考えになっておられるの
でしょうか?
洪茶丘伝のことなら「兵卒」ではなく「兵」ですね。江南軍については舟師でなく兵と書いたのは、
漢文の常道として、一つの文章の中での「舟師」の重複を避けただけです。
その証拠に、張禧伝は江南軍のことを「舟師」と呼んでいます。
(張禧)與右丞範文虎、左丞李庭同率舟師、泛海東征、至日本・・
張禧が江南軍総司令官の範文虎と與(とも)に率いる「舟師」とは、即ち江南軍のことに
他なりません。 >>325
極悪人扱いってなんで?
>>328のように元寇への対応について批判は結構見るけど、
普通そういうのは極悪人とは言わないし
まさか元寇を撃退したのが極悪人ってこと?
攻めてきたのあっちなのに? >>321 >>304 >>306
歴史版でソースも出さずに新説とな >>325
モンゴルを平和的とか言ってて時宗を悪人扱いしているレスは
たまに見るけど根拠は分からない
まず国書送ってきたからかなあ? >>335
よくわからんけど、被差別者擁護すると悪人扱いされんの? >>331
>であるなら、わざわざ「舟師」と「兵卒」と分けてる事についてどの様にお考えに
追加。
頼山陽の「日本外史」に次の文章があるそうです。
「元主、我が再び使者を誅するを聞き、則ち憤恚して、大に舟師を発し、漢・胡・韓の兵凡そ十余万人を
合して、范文虎を以てこれに将とし、入寇せしむ」
頼山陽の漢学センスからすれば、東路軍と江南軍を併せた弘安の役の元軍は、ひっくるめて「舟師」と
見なされることがわかります。
この場合の「舟師」の、最も適当な訳語は「渡海遠征軍」でしょう。 >>330
>例えば『籌海図編』では
>「倭人至福建、乃福人買舟、至海外貼造重底・・・・・舟師皆犯重罪之人也」という記述があります。
百度百科かなにか(https://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%88%9F%E5%B8%88)に次のような
記述があります。
「中国自宋代称掌握海上船只航行的管理、技術人員為舟師。」
中国の宋代より、海上の船隻の航行を掌握する管理・技術人員を舟師と称する。
この場合の舟師は明らかに「船員」の意味です。
「倭人が来たら福建人が倭船を買って、二重底に改造し・・舟師はみな重罪犯人である」
という『籌海図編』の文章の舟師も船員の意味でしょう。
「師」の意味は軍隊、教師、技術者と分れており、「軍隊」の意味から「水上遠征軍」の意味の
舟師が、「技術者」の意味から「船員」の意味の舟師が生じます。 >>322
欣都が将(ひき)いたのは洪茶丘と同じ「舟師四萬」だよ。 >>340
なるほど、
>欣都が将(ひき)いたのは洪茶丘と同じ「舟師四萬」
なのだね。
それならば張禧伝:
「(張)禧請行,即日拜行中書省平章政事,與右丞範文虎、左丞李庭同率舟師, 泛海東征。」
「張禧、行くことを請い、即日に行中書省平章政事を拝し、右丞範文虎、左丞李庭同と與に舟師を率い、
海に泛(うか)びて東征す。」
の場合も、範文虎、李庭同が率いたのは張禧と同じ「舟師」でOKね。
なおこの場合、江南軍総司令官の範文虎が率いたのだから「舟師十万」ということでOKね。 >>329 >>330 >>339
「舟師」は熟語で意味は辞書をひけば簡単に見つかる。
1、舟で戦う軍隊。水軍。
2、船頭。
この時点で「舟師」が「水上遠征軍」の意味なんてのは完全な間違いなんだよ。
『宋史』太祖本紀の一文にある「舟師」も典型的な水軍だろ。
「舟師」は敵の水軍と舟で戦って制水権を獲得するために乗船してるんであって、
普通の軍隊がたまたま舟で移動するものなんかじゃないの。
だから「舟師」には舟で戦うため水戦の技術が必要。
弘安の役で「舟師」を率いた張禧も至元四年に「令習水戦」って水戦の訓練してる。
渡海遠征になると「水上遠征軍」と「舟師」の違いは、より明確になる。
何より船が違う。
「水上遠征軍」のための船は積載量が必要なため大型の帆船となる。
ところが、水戦において風頼みでは話にならないから「舟師」は櫓こぎの船が主力。
「舟師」の船が小舟というのは大型の外洋船との比較であって、漕ぎ手も含めれば
乗員は100人前後になるけどね。
「舟師」を「水上遠征軍」などと主張するのは、何もわかってないということ。 >>342
誰も舟談義などやっていない。漢文の解釈の話をしているのだ。
もう一度聞く。
君の言う、
>欣都が将(ひき)いたのは洪茶丘と同じ「舟師四萬」>>340
が、洪茶丘伝;「(洪茶丘)與右丞欣都將舟師四萬,由高麗金州合浦以進」の解釈であるのならば、
張禧伝: 「(張)禧請行,即日拜行中書省平章政事,與右丞範文虎、左丞李庭同率舟師, 泛海東征。」
「張禧、行くことを請い、即日に行中書省平章政事を拝し、右丞範文虎、左丞李庭同と與に舟師を率い、
海に泛(うか)びて東征す。」
の場合も、範文虎、李庭同が率いたのは張禧と同じ「舟師」である、ということにならないのか?
またこの場合、江南軍総司令官の範文虎が舟師を率いたのだから「舟師十万」ということにならないのか?
漢文の同じ構文だから同じ解釈でなければおかしい、という話だ。念のため。 >>344
同じ構文じゃないだろ。
李庭同って誰だよ?
弘安の役に左丞として参加したのは李庭だ。
漢文の構文では「A與B同」は「AとBは同じ」。
つまり、行中書省平章政事を拝したことが右丞範文虎、左丞李庭と同じだと言ってる。
「張禧、行くことを請い、即日に行中書省平章政事を拝して右丞範文虎、左丞李庭と同じくし、舟師を率い、
海に泛びて東征す。」
舟師を率いていたのは張禧だけだよ。 >>325
そこまで極端な評価だっけ?
評価する所としない所をわけてることの方が多いような
昔は知らないけど >>345
「同」は私も人名と間違えたが、君の漢文解釈も怪しい。「同じくする」なら「〜を同じくする」
と、必ず次に目的語が来る。
「同率」の文例が百度百科の「範文虎」にある。
https://baike.baidu.com/item/%E8%8C%83%E6%96%87%E8%99%8E/63104
「(範文虎)次年6月,与左丞李庭同率江南軍10万、戦船3500艘従慶元(今寧波)入海征日。」
(範文虎)次年6月、左丞李庭と(与)江南軍10萬、戦船3500艘をともに(同)率い、
慶元(今の寧波)より(従)入海して征日す。
「同」は動詞の前について、「ともに〜する」を表す副詞的な働きがあるのだ。
考えて見れば「同行」「同乗」「同慶」などは「ともに行く」「ともに乗る」「ともに慶ぶ」
だったのだ。「同率」も「ともに率いる」だ。
従って張禧伝の文章の読み下しは:
「張禧、行くことを請い、即日に行中書省平章政事を拝し、右丞範文虎、左丞李庭と(與)
舟師をともに(同)率い、 海に泛(うか)びて東征す。」
張禧、範文虎、李庭が「ともに率いた」のは舟師であり、取りも直さず江南軍10萬である。 おまんら!
アンゴルモア元寇合戦記のアニメ始まったぞ!
1話のクオリティたけえwww ども、お二方とも質問にくわしく御解答いただきありがとうございます
色々ぐちゃぐちゃなので自分は便宜上コテハンでやります
まず>>331さん(ややこしいので>>331さんにします)、>>339 では特に詳しい解答ありがとうございます。
同じ漢字で様々な意味が含まれているというのが、さらに話をややこしくしていますね。
さて少し疑問があるので再度質問します。>>331さんは>>251で簡単に言えば
「列伝は手柄話」と仰っていますね。ですが私が抱いた印象では、>>331さんは
「張禧伝」の記述を重んじているように思いますが。基本的スタンスとして
>>331さんが「張禧伝」を引用するのはどういった理由からでしょうか?
「洪茶丘は所詮洪福源伝の付録」だからでしょうか? それとも
「両者の記述を示し合わせて矛盾の無いような説明を考えて」そういう結果になったからでしょうか?
後者ならすでにそれは列伝を信用している、という事になると思うのですが? さて>>340さん(同じく便宜上>>340さんにします)
話は少しそれますが、「文永の役」での見込みについては、兵数もバラバラ、軍船の数もバラバラみたいですね。
元・高麗軍が二万か? 万五千か?議論になってるみたいだけど、自分的には『元史』でも「世祖本紀」の方の記述、
万五千を信用します。まあどちらにしろ、「文永の役」最大四万に船九百艘だとしても、一艘当たりに乗り込む人数は平均44.4人です。
当然文永の時には「蒙漢高」連合です。
で、面白いことに「弘安の役」でも議論されている「東路軍」は差異はあれどほぼ同じ兵数船数なんですよね。
そして新しい、いわば捨駒である「江南軍」は大体兵十万の船三千五百艘、一艘当たり平均28.57人の計算です。
これからすると、>>299の説明とは真逆にむしろ江南軍の方が小船の集合体となりますね。
ただ単に「舟師は水軍専門職だ」だけならそれなりの説得力もありますが、それに加えて「舟師」は
「バートル船団」「小舟の集団」とまで言うと果たしてどうなの? という事になるとは思いませんか?
それとここは是非確認しておきたいところがあります。漢文の意味です。
>>行中書省平章政事を拝したことが右丞範文虎、左丞李庭と同じだと言ってる。
確認したいのですが、右丞左丞なのに行中書省平章政事を拝命したという事を言っているという認識でよろしいでしょうか?
元寇というと右派左派イデオロギー本が結構多いのであれですが、圧倒的に数が少ない大陸側から見た元寇の論文でも
範文虎や李庭が行中書省平章政事に任命されたというふうに仰ってる方はおられないのですが? すみません>>350の漢文云々の質問ですが、これは>>345に対する質問です。
さて、文永の役の記述について『元史』巻八「世祖本紀」ではこのように書かれています
「庚寅,敕鳳州經略使忻都、高麗軍民總管洪茶丘等將屯田軍及女直軍,並水軍,合萬五千人,
戰船大小合九百艘,征日本。」
「弘安の役」の時の巻十一「世祖本紀」は、それらしい記述というか水軍や舟師に関する記述がありません。
ただほぼ同じと思われる「文永の役」でキチント屯田兵・女直・水軍の三軍編成の記述があるというのは
興味深いと思います。
まあ、元寇の議論以前に、元寇の総大将の ヒンドゥ と クドゥン が同一人物かどうか?
それ自体あやふやな状況ですから、他もあやふやになるのも仕方ないのかなと思います。 >>349
>331さんは>>251で簡単に言えば 「列伝は手柄話」と仰っていますね。
私が言ったのは、「列伝が述べる功績は列伝の主人公個人の功績である」ということです。
だから洪茶丘伝が述べる、今津に関する功績は(全軍ではなく)洪茶丘個人の功績なのです。
>331さんが「張禧伝」を引用するのはどういった理由からでしょうか?
張禧伝を重視するのは、舟師論争にとって最も重要な資料だからです。
張禧伝中の「舟師」は明らかに江南軍そのもの、あるいは江南軍ぜんたいを指しています。
であれば、「舟師」は「水上戦闘専門部隊」ではなく、単に「渡海遠征軍」の意味であることに
なります。
>後者ならすでにそれは列伝を信用している、という事になると思うのですが?
私は列伝を、本紀その他と同じ程度に信用していますよ。もちろん疑うのも同じ程度です。 張禧伝の解釈は「同率」がキモのようだ。百度百科の「範文虎」で、「ともに率いる」であることを
一応説明したが、他の例も当たって見よう。
明代に書かれたという「晋史通俗演義」に次の文章がある。
「温急檄北中郎将庾希、及竟陵太守ケ遐、同率水師、援救洛陽。」
「温(人名)は、北中郎将・庾希、及び竟陵太守・ケ遐に急ぎ檄して、ともに(同)水師を率い、洛陽を
援救せしむ。」
温という人が、敵が洛陽に迫っていることを聞いて、「及び」でつながれた二人の将軍に急ぎ檄を送った、
その檄の内容が、水師を「ともに(同)率いて」洛陽を救援せよ、というものだった。
ここでも二人の将軍が協力して一つの軍を指揮することを「同率」で表している。 もう一つ例を挙げよう。
清代、または民国時代に書かれたと思われる「洪秀全演義」に次の文章がある。
「楊戴福信以為真、約以二更時分、與彭玉麟同率水師、直搗西濠。」
「楊戴福は真と(以為)信じて、二更時分に、彭玉麟と(與)ともに(同)水師を率いて、直に
西濠を搗くことを約す」
太平天国軍の策士が清国軍の司令官・楊戴福に偽の内通をしたところ、楊はそれを本当と信じて、
もう一人の将軍・彭玉麟とともに水師を率いて、深夜十時ごろに西濠を直接に攻撃することを
約束した、というのである。
主語「與」人名「同率」軍隊、という構文は張禧伝と全く同じである。
このように、百度百科と併せて三つの文章で、「同率」は複数の将軍が一つの軍隊を協力して指揮する
ときのお約束のような表現であることが示された。
改めて張禧伝を見れば、
「(張)禧請行,即日拜行中書省平章政事,與右丞範文虎、左丞李庭同率舟師,泛海東征。」
張禧が、範文虎、李庭という二人の将軍と(與)ともに(同)舟師を率いて、海に浮かんで東征した。
主語である張禧が舟師を率いることは当然だが、江南軍総司令官の範文虎もまた、同じ一つの舟師を
「ともに率いて」いるのである。
この場合の舟師とは取りも直さず江南軍であり、舟師の意味は「渡海遠征軍」であることがわかる。 このスレまだあったのか
パフォーマンスコンクールとか言ってた人ってまだいる? >>355
>パフォーマンスコンクールとか言ってた人ってまだいる?
近いところでは>>352 >>353 >>354がそうだよ。
amebloにreydeoroという名前でブログも書いている。
「蒙古襲来絵詞と文永の役」で検索してね。 >>22
こんな史料あったんだね。
金方慶伝の「倭兵を破ったのに撤退」という経過がいまいち呑み込めなかったけど
>>262
服部英雄本が朝日天声人語でも取り上げられてたけど、少し違う気がする。 壱岐軍議くん改め今津軍議くんは反論してこなくなったが、
舟師=渡海遠征軍にもとづいて今津撤退説を再構築して欲しい。
がんばれ! 人名や時期とかあくまでだろう止まりの話半分に思っといた方がいいな ブログ「蒙古襲来絵詞と文永の役」に、新ページ「神軍の正体は何か」を追加した。 歴史秘話ヒストリア 蒙古襲来の真実
鎌倉武士最強の秘密
NHK総合 22:25-23:10 9/19(水) 今夜!! 絵巻の新解釈
そっちの方が自然だった
神風は吹いたが撤退中だろう
それが松浦の沈没船など
それと流鏑馬みたいに馬上から射る戦術が後に有効に
それに糞尿を使った戦術も戦意喪失に!w
博多湾には入らず志賀島でも膠着長期化を打開する
動きなど新解釈していた
多分再放送が本放送の前日に有ると思う
上陸して陣地まであったとは
それでも支那朝鮮みたく占領は無く跳ね返した
鎌倉時代の西国の武士群!! 一応貼っておきます
歴史秘話ヒストリア 再放送予定
『蒙古襲来の真実 鎌倉武士 最強の秘密』
10月6日土曜日 NHK総合1 午前10時05分〜 午前10時50分 >>363
糞尿云々ってどういう史料に出てくるんだろ 絵画史料を見て一部の学者がそう解釈してるだけってのはナシでお願いします てつはうの場面の全体図見てこうなっていたのかと驚くって人もまだまだいるだろうな 絵詞の特別展をやるのはいいけど、服部某の
元軍船に糞尿を投げつけたとか志賀島で元軍のすぐ下の海で日本兵が泳いでるとか妄想を垂れ流すのは止めて頂きたい。 >>370
あれ妄想なんだ?
ヒストリアだったかの歴史番組でもいってたっけ >>370
ハットリ某の、廿日夜に日本軍が兵船二艘で夜襲したと言うのも幻想だよ。
一代要記の原文を一字抜いて引用してる。一字で意味がガラッと変わる。 http://m.pandora.tv/?c=view&ch_userid=msb0727&prgid=55773432
この元寇番組の12分50秒のところの
服部が出した文永の役について、
かなり詳しく書いている
中国の史料って何の史料かわかる人いますか? >>374
あれは「張成墓碑銘」の拓本だよ。
服部某の「蒙古襲来」の399ページに写真があるから動画と較べて見ると、
白いキズの形から同じものだと分かる。
「張成墓碑銘」は確かに日付を含んで具体的だが、文永の役ではなく弘安の役の
記録だ。 あ、そうなの?
服部が拓本出してきた時の内容は
思いっきり文永の役が1日で終わっていない
根拠みたいな扱いだったけど。 >>376
だから、そのように見せかけているのだと思う。
自分の本でバレバレなのにね。 動画で服部氏が、「別の史料」によれば二十四日にも合戦があった、と言っているのは
「関東評定伝」のことだろう。
「文永十一年十月五日、蒙古異賊寄来、着対馬島、討少弐入道覚恵代官藤馬充、
同廿四日、寄来大宰府、与官軍合戦、異賊敗北」
しかしこの史料はいかにもおかしい。
対馬での代官・藤馬充の討ち死にを述べた後、最も重要な廿日の博多周辺の戦いが無くて、
いきなり廿四日の「大宰府」の戦いになっている。
そんな記録はあり得ない。この「大宰府」は「博多」の意味だろう。
鎌倉から見れば大宰府も博多もいっしょ。大宰府と書いて博多を意味している史料は
たくさんある。
「大宰府」を「博多」と見るならば日付の「廿四日」だけが誤りと考えればよい。 >大宰府と書いて博多を意味している史料は
>たくさんある。
そのたくさんの具体例を出してくれると説得力が増すかな 318 : 頭突き(東京都):2013/10/22(火) 21:56:45.59 ID:5ZlZq+W50
>>284
当時の胸形地方(宗像市〜福津市〜古賀市のあたり)の捕虜処刑場の鎮守の杜の伝承には
元兵・南宋兵・朝鮮兵の不連携は鎌倉の計略だったってある
朝鮮高麗は元に先に屈服したから南宋より偉いとかつての宗主国南宋を見下し元寇に参加したが
元々南宋と通商のあった鎌倉は南宋兵は生かして捉え、元兵は処刑するとした
この法を元劣勢時に敵兵に流したら元兵として威張っていた朝鮮兵が元を裏切って「自分は南宋兵だ」と保護を求めてきた
しかし南宋を騙って自軍裏切った朝鮮兵を一部の鎌倉兵は許さなかったのでその一部をそこで処刑したとさ
「計略だった」は当時の幕府の後付け設定である可能性が高いけど、その捕虜待遇が戦績に影響したのは明らかだった
この話は本当でしょうか?具体的に宗像のどこの鎮守の杜の伝承ですか?
詳しい人教えて! わざわざ>>284となっているのは
「舟師」論議を蒸し返したいのかな⁇ ダンパー問題ソノ他急速ヴェノム物件・銀行問題業界ゴト潰レル?利凍ル公害重イル?
虐待死刑スタッフ以外ニグループマイナス経常ケタチガイ災熱湯強烈薬害毒死多繋ガル看後死
1000件以上介護保険税金ムダ泥棒マダゴーン今環境殺ッテマス100オツムオムツ借金漬ケ棺桶型国家
森友ノロウイルス焼肉嘔吐虐待スイッチ押死耶手ゲローン戦争ソンポ部死テルン盗難
郡大老害山林焚書死テa麻薬王振戦違反重々ヤットストレス足ダシ若竹口爆発害ヤンキーノ種死ネ世
https://anago.5ch.net/test/read.cgi/welfare/1443184621/ >>382
元スレのままコピペしただけですが。
ここの>>284と一切関係なしですよ。 >>384
元スレはどこですか?
面白そうなので教えて下さい。 >>386
有難う。
面白かったけど、残念ながら過去のスレッドでした。 鎌倉武士と、プレートアーマー着込んで槍持った西洋騎士が戦ったら
たぶん弓のアウトレンジ攻撃で一方的な展開になるだろうな。 プレートアーマーって戦場で使用された期間めっちゃ短いよね
15,6世紀の200年余り
ロリカセグメンタタやキュラッサみたいな一部板金は古代から近世まで作られてるけど プレートアーマーと大鎧は同じ鋼鉄製。
んでプレートアーマーは鉄板の厚さが1ミリで全体防御。
大鎧は1〜1.5ミリの鉄板が二枚重ね、バイタルエリアだけを堅く守る集中防御。 大鎧の鉄板は積層構造で表面が硬くて内側になると徐々に柔らかい鉄になってる。
戦艦や戦車の装甲みたいでちょっと面白い。 >プレートアーマーと大鎧は同じ鋼鉄製。
大鎧は鉄小札の割合が多いものでも半分程度で基本は板目革の小札だと何かで見た気がしたが
たとえば全部が鉄小札の現存大鎧って具体的にどれだろう >>393
胴回りと頭は鉄で、草摺(太もものあたりに4つあるやつ)と大袖は革だったような。
この前、大鎧を見に神社に行ってきたが、
草摺の上から1列目と2列目の小札の列は、
革の小札と鉄の小札が交互になっいて、
3列目以下は全て革の小札になってるとの説明があった。
正直実物を見てもどこまで鉄でどこまで革なのかはっきり判らない。 刀と鎧は高性能かつ軽量を狙った繊細な作りである一方、
馬具は作りが雑だと思う。
鐙とか両足合わせて2キロぐらいある。もうちょい軽くできるだろ。 軽量化すると簡単に鐙切り取られて落馬するからじゃね >刀と鎧は高性能かつ軽量を狙った繊細な作りである一方、
大鎧は兜と胴だけのセットで25キロ程度だけど軽いかな >>396
鐙切り取られるってどんな風にだよ。
とはいえ、調べたらモンゴルの鐙も2キロだった。
重いのには何か理由があるのだろう。 wniの鈴木里奈の脇くっさ
(6 lゝ、●.ノ ヽ、●_ノ |!/
| ,.' i、 |}
', ,`ー'゙、_ l
\ 、'、v三ツ /
|\ ´ ` , イト、
/ハ ` `二 二´ ´ / |:::ヽ
/::::/ ', : . . : / |:::::::ハヽ
https://twitter.com/ibuki_air
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) >鐙とか両足合わせて2キロぐらいある。もうちょい軽くできるだろ。
当時の日本人はアルミとかカーボンとか扱える技術がなかったのかも
外国の優れた技術を見習うべき >>398
おおまかにいうと
朝鮮半島から動員したら何とかなるやろ。→どうにもなりませんでした。
朝鮮半島に加えて南朝から動員したら何とかなるやろ。→どうにもなりませんでした。
元全体で動員す・・・・るのはやめておこう。
というところ。 >>403
南朝ってなに?
朝鮮プラス中国人みたいな感じ?
対馬の人はかわいそうだよな >>402
鉄のまんまでも断面形状を工夫すれば軽くできる。
昔の人だってそんな事は分かってただろうけどね。 >>398
むしろ弘安の役の後に、
何故日本は中国、朝鮮に向かって進撃しなかったのかと思うよ。
スペインみたいに朝鮮や中国沿岸を荒らしまわって、
金銀財宝奴隷などなど根こそぎ奪い取って御家人に分け与えれば
鎌倉幕府は潰れなかったんじゃないか。 船がなかった
朝鮮側の情報が少なすぎて橋頭保作れる見込みがなかった
(実際は可能だったとは思うがそれを知るすべが鎌倉幕府側にない) 自分たちが福岡や鷹島でやったほうな水際撃滅を元軍がやらないという保証がなく >>407
まさか今時そんな恩賞問題で鎌倉幕府がつぶれたとか信じてる人がいるのに驚いた 後醍醐天皇や足利・新田は元寇での働きがあったにも関わらず恩賞を得ることができず
それを不満に思っていたので元寇の直後に反乱を起こし幕府を倒した
これは歴史の常識 >>398
絶対的にはフビライが死んだからだろ。
弘安の役の13年後に死んだ。 >>397
べらぼうに重いね。プレートアーマーよりまだ重いね。
軽量化の工夫は随所に見られるけどね。
和弓の貫通力を想定するとどうしても重くなるんだろう。 大鎧を着て馬に乗って弓射はともかく、大鎧を来て小舟から大船に乗り移って
切り込むのはすごい。
そのときの足ごしらえは、と言えばなんと裸足。
ーー蒙古襲来絵詞より。 >>417
15世紀のプレートと重さ変わらんぞ。むしろ、プレートの方が重い。
マクシミリアン式になってからは、軽くなったが。 >>416
15世紀の板金鎧って胴と兜だけのセットで25キロあるの? 伊達政宗の有名な黒漆五枚胴具足は小具足含むフルセットで22キロみたいだな
それに比べると春日大社蔵赤糸威大鎧の兜と胴だけで26.2キロなんてのは
随分重かったんだなとわかる
大鎧と同時代のヨーロッパなんかは鎖帷子だったというから随分違うだろうし >>416
知ってるよ。
15世紀のプレートアーマーは軟鉄製、
16世紀になると鋼鉄製になり防御力はそのまま重量が半分になる。
大鎧は鋼鉄製だから、
比較するなら16世紀以降のプレートアーマーがいいと思った。
ちなみに大鎧に使われた鋼鉄は表面付近の炭素濃度がより高くなる合わせ鍛造(表面硬化装甲)だが、
西洋だと19世紀後半のクルップ鋼まで、そういった技術は無かったのだろうか。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています