【蒙古襲来】元寇【文永・弘安の役】8 [無断転載禁止]©2ch.net
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https://anago.5ch.net/test/read.cgi/welfare/1443184621/ >>382
元スレのままコピペしただけですが。
ここの>>284と一切関係なしですよ。 >>384
元スレはどこですか?
面白そうなので教えて下さい。 >>386
有難う。
面白かったけど、残念ながら過去のスレッドでした。 鎌倉武士と、プレートアーマー着込んで槍持った西洋騎士が戦ったら
たぶん弓のアウトレンジ攻撃で一方的な展開になるだろうな。 プレートアーマーって戦場で使用された期間めっちゃ短いよね
15,6世紀の200年余り
ロリカセグメンタタやキュラッサみたいな一部板金は古代から近世まで作られてるけど プレートアーマーと大鎧は同じ鋼鉄製。
んでプレートアーマーは鉄板の厚さが1ミリで全体防御。
大鎧は1〜1.5ミリの鉄板が二枚重ね、バイタルエリアだけを堅く守る集中防御。 大鎧の鉄板は積層構造で表面が硬くて内側になると徐々に柔らかい鉄になってる。
戦艦や戦車の装甲みたいでちょっと面白い。 >プレートアーマーと大鎧は同じ鋼鉄製。
大鎧は鉄小札の割合が多いものでも半分程度で基本は板目革の小札だと何かで見た気がしたが
たとえば全部が鉄小札の現存大鎧って具体的にどれだろう >>393
胴回りと頭は鉄で、草摺(太もものあたりに4つあるやつ)と大袖は革だったような。
この前、大鎧を見に神社に行ってきたが、
草摺の上から1列目と2列目の小札の列は、
革の小札と鉄の小札が交互になっいて、
3列目以下は全て革の小札になってるとの説明があった。
正直実物を見てもどこまで鉄でどこまで革なのかはっきり判らない。 刀と鎧は高性能かつ軽量を狙った繊細な作りである一方、
馬具は作りが雑だと思う。
鐙とか両足合わせて2キロぐらいある。もうちょい軽くできるだろ。 軽量化すると簡単に鐙切り取られて落馬するからじゃね >刀と鎧は高性能かつ軽量を狙った繊細な作りである一方、
大鎧は兜と胴だけのセットで25キロ程度だけど軽いかな >>396
鐙切り取られるってどんな風にだよ。
とはいえ、調べたらモンゴルの鐙も2キロだった。
重いのには何か理由があるのだろう。 wniの鈴木里奈の脇くっさ
(6 lゝ、●.ノ ヽ、●_ノ |!/
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\ 、'、v三ツ /
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https://twitter.com/ibuki_air
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) >鐙とか両足合わせて2キロぐらいある。もうちょい軽くできるだろ。
当時の日本人はアルミとかカーボンとか扱える技術がなかったのかも
外国の優れた技術を見習うべき >>398
おおまかにいうと
朝鮮半島から動員したら何とかなるやろ。→どうにもなりませんでした。
朝鮮半島に加えて南朝から動員したら何とかなるやろ。→どうにもなりませんでした。
元全体で動員す・・・・るのはやめておこう。
というところ。 >>403
南朝ってなに?
朝鮮プラス中国人みたいな感じ?
対馬の人はかわいそうだよな >>402
鉄のまんまでも断面形状を工夫すれば軽くできる。
昔の人だってそんな事は分かってただろうけどね。 >>398
むしろ弘安の役の後に、
何故日本は中国、朝鮮に向かって進撃しなかったのかと思うよ。
スペインみたいに朝鮮や中国沿岸を荒らしまわって、
金銀財宝奴隷などなど根こそぎ奪い取って御家人に分け与えれば
鎌倉幕府は潰れなかったんじゃないか。 船がなかった
朝鮮側の情報が少なすぎて橋頭保作れる見込みがなかった
(実際は可能だったとは思うがそれを知るすべが鎌倉幕府側にない) 自分たちが福岡や鷹島でやったほうな水際撃滅を元軍がやらないという保証がなく >>407
まさか今時そんな恩賞問題で鎌倉幕府がつぶれたとか信じてる人がいるのに驚いた 後醍醐天皇や足利・新田は元寇での働きがあったにも関わらず恩賞を得ることができず
それを不満に思っていたので元寇の直後に反乱を起こし幕府を倒した
これは歴史の常識 >>398
絶対的にはフビライが死んだからだろ。
弘安の役の13年後に死んだ。 >>397
べらぼうに重いね。プレートアーマーよりまだ重いね。
軽量化の工夫は随所に見られるけどね。
和弓の貫通力を想定するとどうしても重くなるんだろう。 大鎧を着て馬に乗って弓射はともかく、大鎧を来て小舟から大船に乗り移って
切り込むのはすごい。
そのときの足ごしらえは、と言えばなんと裸足。
ーー蒙古襲来絵詞より。 >>417
15世紀のプレートと重さ変わらんぞ。むしろ、プレートの方が重い。
マクシミリアン式になってからは、軽くなったが。 >>416
15世紀の板金鎧って胴と兜だけのセットで25キロあるの? 伊達政宗の有名な黒漆五枚胴具足は小具足含むフルセットで22キロみたいだな
それに比べると春日大社蔵赤糸威大鎧の兜と胴だけで26.2キロなんてのは
随分重かったんだなとわかる
大鎧と同時代のヨーロッパなんかは鎖帷子だったというから随分違うだろうし >>416
知ってるよ。
15世紀のプレートアーマーは軟鉄製、
16世紀になると鋼鉄製になり防御力はそのまま重量が半分になる。
大鎧は鋼鉄製だから、
比較するなら16世紀以降のプレートアーマーがいいと思った。
ちなみに大鎧に使われた鋼鉄は表面付近の炭素濃度がより高くなる合わせ鍛造(表面硬化装甲)だが、
西洋だと19世紀後半のクルップ鋼まで、そういった技術は無かったのだろうか。 >>421
15世紀の板金鎧が軟鉄というソースを教えてもらいたい カミカゼの話は嘘らしいけど
誰がいつなんのためにそんな嘘をついたの? 文永の役の高速撤退や弘安の役で延々上陸を阻止していたら台風シーズンが来たということに関しては事実だが
そういった現象が神仏の働きのためということになれば寺社は利益を得られるよね
関幸彦『神風の武士像』(吉川弘文館)
・真夜中に箱崎宮から八幡大菩薩の使である白装束の者三千人が突如立ち現れ、おびただしい
矢を蒙古軍に放ったという。その光景は「身ノ毛モ竪テ怖シク」なるほどで、「波ノ中ヨリ猛火」が
あって、これがために蒙古軍は肝を潰し敗走したという(『八幡愚童訓』)。まさしく「神軍ノ威勢」だった。
同様の報告は各地から届けられた。紀伊国高野山金剛峯寺の鎮守丹生明神の場合もそうだった。
弘安合戦に際し、日本国の神々も蒙古に発向することになった。天野明神(丹生明神)は第一陣として
四月二十八日丑刻(午前二時)と決し、それにむけて不動火界呪を修して神の威光を増すべし、
そうすれば、六・七月中には本朝安全なるべし、との霊托の旨が報ぜられた(『紀伊興山寺文書』
正応六年三月二十八日「太政官牒」)。
・この異国との戦争で神慮なり神威なりが、いやがうえにも高められた。日本国中の神仏を総動員しての
異国撃退の祈願、それはあたかも武士達の警護番役に対応するかのようであった。春日・住吉・日吉・
祇園の各社が、各月を分担し異国降伏の祈祷をした。
神や仏も動員され、加持祈祷という世界で戦った。当然ながら、諸国でのこうした神々の
軍忠状に対し、武士と同様に恩賞の要求も激しかった。
・肥前国武雄社の場合もそうであった。(中略)文永合戦のときには神殿から発せられた鏑矢が賊船を射ぬき、
これがために敵は撤退したこと、弘安合戦では紫の幟が異国の船の方向に飛び去り、大風を起こしたこと、
などが述べられていた。こうした神の軍忠にもかかわらず行賞に漏れたことは、堪え難しとするものであった。
・異国合戦での神々の参陣は神の戦争を演出することで、神威を高めることにつながった。
すでにふれた弘安七年(一二八四)の神領興行令を含め、以後の三度にわたる神領の復興運動は、神の戦争と
その軍忠に対しての当然の恩賞だった。 神風でモンゴルの船が沈没したらしいけど
日本の船は沈没していないの? 「汎海小録」や「高麗史」によると小型堅牢な高麗船の被害も少なく東路軍の生還率も高かった
台風では江南軍の大型の南宋船が一番被害を受けたようだ >>424
>カミカゼの話は嘘らしいけど誰がいつなんのためにそんな嘘をついたの?
文永の役で神風によって元軍が撤退したと言っているのは現代も含めて後世の
人だ。同時代史料でそんなことを言っているのは無い。
>>425を見ても、文永の役では神風以外の何かの奇跡によって元軍が撤退した
ことになっている。
ただし全く大風が無かったかと言えば、高麗史も言っているように、元軍は博多を
撤退した後に大風に遭遇した。
ではこのことに言及した日本側の史料は無いのかと言えば、ちらほらとある。
特に日蓮宗関係の史料によって、その場所は恐らく壱岐であったことがわかる。
またそのなかに「神風に蒙古・・・底のもくずとなるぞうれしき」という和歌が
あるから、当時から神風という言葉はあった。
当時の人たちは、元軍が去った後に、壱岐などの調査によって元軍の遭難を知り、
これを神の恩寵と考えて神風と呼んだのだろう。
そしてその言葉は弘安の役でさらに定着した。
一言で言えば、「カミカゼの話は嘘ではない」 あの辺で6月から11月くらいまで
台風がくることはわかるだろ
元軍の戦略のミスなんだから元っていう国はただのアホってことだよな
台風に備えて船の増強もしてないんだからアホアホ
日本の船は沈没してないんだから元軍の船を作った連中がアホ無能
台風が来て上陸してないんだから元軍はアホアホアホ
ってことでしょ?
日本は元軍の上陸を阻んだから強いよね 神風は吹いたが船泊で避難も大量に難破w
その名残りが唐津の鷹島などで蒙古船が原型をとどめる
そもそも内政が可笑しくなって
もう元寇どころでは無くなったw
朝鮮はよく残りましたなあw
また消えそうだがw 秀吉は中継基地や領土的に済州島には興味がなかったの?
倭寇の基地として日本武士や日本農民や漁民が入植しやすそうだけど 鎌倉武士は集団戦法で戦ってたと言うけど、
そりゃあ一騎打ちではないにせよ、せいぜい数人の「家」単位で各個バラバラに動いてただけだよね。
よくモンゴルに勝てたね。 >>433
家単位と言っても親類縁者で集まるから百人程度にはなる。
蒙古襲来絵詞でも白石勢、菊池勢を「百騎ばかり」と言っている。
竹崎勢が5騎だったのは例外的。 >>433
「蒙古襲来絵詞」によると赤坂の戦闘に参加する武士たちに少弐景資から出た命令が
「一同に駆けて追い物射にせよ」という集団騎射なので言うほど各個バラバラではなく
まとまった数の武士に同じ戦法取ってもらうことが想定されてそうだな 一説には水城どころか
筑紫野や小郡まで侵攻したと言われる蒙古! >>435
>赤坂の戦闘に参加する武士たちに少弐景資から出た命令が「一同に駆けて追い物射にせよ」
>という集団騎射なので
「赤坂の戦闘に参加する武士たち」に出た命令ではなくて、実際は
「赤坂には行くな。ここ(息の浜)で待っていればそのうちに敵はやって来るから、
その時は一同に駆けて追物射にしよう」という待機命令だ。
そのように触れ回っている口の下から、先駆けに出るという竹崎の申し出を
一も二もなく許可するし、(恐らくは)その後詰として白石勢を出しているのだから、
いい加減なものだ。 騎兵は歩兵10人分の働きをするみたいだから
100人の騎兵中隊で突っ込みゃ雑兵1000人程度は蹴散らせたんじゃないか 指揮系統とか軍規とか在ったか怪しいよね。
部下が上官の制止を振り切ってスタンドプレーに走るし。
そもそも竹崎と少弐景資は部下と上官の関係だったのか?
同業者とか有志の者同士といった感じか? >>440
竹崎以外にもここでスタンドプレーに走った連中はいるの? >>440
竹崎季長の「蒙古襲来絵詞」にはわざわざ「日のたいしやう(大将)たさい(太宰)のせうに三らうさゑもんかけすけ」の文字があるが
鎌倉時代は有志の者同士や単なる同業者と見る人間をこのように書いたんだな
勉強になるわ >>441
全員だな。
日本の勝利の為に貢献、、、
ではなく自らの領地や恩賞の為に戦ってただけ。 そこまで言うなら朝鮮や南朝から連れてきた百姓どもにモンゴルの為になんて使命感があったとは到底思えないんだが
当時の武士団が近代的な国民軍の意識を持ってたかと言えば無かったろそりゃ
ただハッキリと俘虜の朝鮮人と南朝人を区別して処断するくらいの民族意識はあったようだけどね >>445 使命感
よく朝鮮系の連中が糞みたいな本を書いて
「日本のためではなくてXXのために戦ったニダ!」
と主張している糞本は多い。今まで何冊も読んだ┐(´д`)┌ヤレヤレ >>434
俺が読んだ本だと、家とは郎党含めて数人程度の零細集団が多数だったと書いてあったけど、
実際の所、元寇に参戦した家とはどの程度の規模が一般的だったんだろうか。
パーセンテージで分かる資料とかあるといいんだが。 >>440
>そもそも竹崎と少弐景資は部下と上官の関係だったのか?
>同業者とか有志の者同士といった感じか?
竹崎が景資を大将と認識していたことが史料から確認できるのに
なんでそんなイメージを勝手に持ってるの?自分が決めた結論ありきで
史料もろくに見ない人なの? >>440ではないが、横から。
少なくとも竹崎が景資を軽く見ていることは確かだね。
景資の家来が「(御前です)馬を降りて下さい」と言っているのを無視して
景資に馬上からものを言い、話が終わってから「馬上から失礼しました」と
言っている。それに対して景資は「どうぞそのまま」と言うだけ。
ちなみに竹崎と景資は同年の29歳だ。 日本は家ごとに戦っているわけだけど、騎兵もいれば歩兵も居る。
それぞれの家の騎兵と歩兵を一度バラバラにして、
重騎兵の部隊、軽騎兵の部隊、歩兵の部隊を作ろうとはしなかったのだろうか。 日本とモンゴル、
軍隊の編制や運用に大きな差があったとするならば、
日本側の勝因とは何だったのか? 勝因というか、神風は抜きとして、当時の日本勢になにか際立ったものがあるとは思えない。
@海に向かっての防衛戦で大きな後背地を持つ防衛側が基本的に有利で、当時の貧弱な航海輸送能力で
長距離の海を渡って増援・補給しないといけない攻め方は不利。
A鎌倉幕府という中央集権的国家があって、比較的短期間に多くの動員兵力をで侵略軍に対応させられた。
の2点で、島国という点を除けば、上の条件を満たせば他の国でもモンゴル撃退は可能と思う。
実際、島国インドネシアや陸でも移動が困難な密林の東南アジアや砂漠のエジプトはモンゴルを退けてるし。 武士は農民が武装したものだが
もう埴輪に兵士が居るんだよなw 志賀島に想定外の陣地でゲリラ戦に
屎尿を使った攻撃で連合軍の戦意喪失w
挙句神風を避ける為 船泊もほぼ転覆だとさ
が最新の学説w 元軍は鏃に附子毒塗ってたそうなので対抗して鏃に屎尿付けて戦ったんなら分かるが
屎尿そのままブッカケるのは即効性がないんじゃないかな・・・ 武士は軍団制度が無くなってから、自発的に生れたものだからなぁ…。
軍団制度がそのままあったら、もっと組織的に動けたかもね…。
防人いたし。 武士の起源は職能論もあるよね。
朝廷が武芸を家芸とする家に軍事を委託すると。
縄文蝦夷が武士の起源とする説もこちらになるね。
俺はこっちの方が真実味があると思うね。
だって馬に乗って弓を射るなんて狩猟民族の行動だもん。
農耕民族がやるわけないでしょ。 >>459
おまけに文永の役で廿日の夜に海上ゲリラ戦をやったというのは原典から一字落として
引用した文章にもとづいているらしい。
https://ameblo.jp/reydeoro/entry-12394249230.html
終わりの方。
刀、弓、槍、馬。どれも何年も練習しないと身に付かないもの。
「民間人の徴兵よりも、世襲制にして子供の頃から専門的に鍛えた方が役に立つ」。
こう思ったのが西暦730年代の判断です。゜゜゜゜゜-y(^。^)。o0○プハー
============
★★我が国徴兵の歴史★★
0701年 大宝律令 1年〜3年の選抜兵役義務。分裂してた支那に隋唐による統一政権ができたため
0734年 健児の制 兵役義務を緩和 ※以後戦闘専門家集団(武士)が主流
1889年 兵役法 2〜3年の兵役義務。清,露,英仏による脅威に対抗するため
1945年 帝国軍解体により失効
1950年 志願制による警察予備隊。以後今日まで続く 個々の戦闘力なら、大鎧を着込み騎射戦術をとる武士が圧倒的に強いだろう。
が、しかし個々の戦闘力は低くてもシステムとして強ければそれでいいというのが軍ではないのか? >>464
文書じゃなくて絵巻なw
これまで意味不明な行動がゲリラ戦の様相と
解読され巻物の流れからも辻褄が合う
(まあ諸説有りw)
武士は略奪の守りで武装が専業化
更にその雇い主を支配し始めたのが鎌倉の時代に
都並びに邪馬台国の候補が
近畿以東に無い件w哀れっすw
自説は鹿児島宮崎あたりに強力な一族が発生(渡来系かもw)
それが徐々に北上して北部九州に拠点
時代も移りコメや鉄が来る頃
その実質弥生系を征服だが今でも台風大雨洪水の常襲だし
辟易して近畿に移動しつつ平定
以降全国の豪族を屈服させて東北も鎮圧
その名残りが俘囚などと地名に留める!
日本最大の戦は福岡南部の磐井の乱とか
東北もそれなりにだろうね >弓馬はともかく槍は訓練要らないけど?
原田左之助(新撰組。宝蔵院流槍術免許皆伝) 「・・・・・・」 >>467
それはそうなんだけど、人数が増えれば必要な物資も比例して必要な訳で、
兵站が貧弱な昔の軍隊にとっては維持するのも大変になるんだろう。 鎌倉武士、モンゴル騎兵、マムルーク、カタクラフト…
最強の騎兵はどれだ。 蒙古軍の強さは、何と言っても軽騎兵にのみで固められた
部隊の統一性と速力にあっただろうが
しかし渡洋作戦ではそれが充分に生かせなかった
それだけに対日戦争相手では充分に力を発揮できなかったのは間違いない 平原と海岸じゃあ
途方に暮れただろうw
属国の兵士の士気も低かっただろうしw
秀吉が占領してたら面白かったかもw >何と言っても軽騎兵にのみで固められた
普通に重騎兵いるから… 元軍は、多民族構成も弱点だから…。互いに仲良くないし。 フビライの時代ともなればモンゴル軍と言っても実態はシナ軍・・・ >>481
日本の武士は弓持ってるし射程も長いから、
ドイツポーランドみたいに射程圏外から一方的にやられはしないと思うけど。
問題は組織力だな。
本当にピンチになったら当時の日本は画一的な軍を編成して、トップダウンで動かす事ができただろうか。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています