【蒙古襲来】元寇【文永・弘安の役】8 [無断転載禁止]©2ch.net
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>>641
見つけたGallwey卿だろ
俺が以前見た数値もこの人のソースだわ 出処の原典は多分The History of Archery Seriesだろう 鴨長明「方丈記」は北条記のシャレ。
一遍上人の「時宗」は、北条時宗を暗示している。
元寇でモンゴルが襲来したため、北条時宗が忍術をはじめとする秘術を開いて、秘密結社を組織したのではないか。
1251年:北条時宗誕生。
1274年:モンゴル軍来襲。一遍上人遊行開始。
まちがいなく、一遍上人の時宗は北条時宗の秘密結社。一遍は、この年に九州に布教にいっている。
一遍の時宗は、日本軍人だ。
1275年:鴨長明が賀茂家の継承者争いに負ける。
鴨長明が「方丈記(北条記)」をいつ書いたかは謎。
日本の貴族でもかなり深いゆかりのある賀茂氏が北条氏を支持していることを示しているのだろう。
そして刹那主義の「方丈記」は、日本の行く末を川の流れの泡に例えて書いているのだ、おそらく。
1281年:モンゴル軍再来襲。
1284年:北条時宗死す。 同じ自治体内に時宗のお寺が有るお
今度行こうっと
近所の自治体には日蓮宗のお寺が有る
そこは行った
南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経
時宗いうたら箱根駅伝に
八王子のケミカル和尚w
真宗や浄土宗から分派とも >>598
なんでストロークが11センチしかない、クロスボウだけが強力って話になるの?
弓の中でもクロスボウだけが殺傷力があって危険な兵器とか言ってる人が必ず現れるんだよね。
てこを使って常人では引けない、重い重い重〜〜〜〜〜〜い!!弓を引いても、
ストロークが短ければエネルギーは増えない。
もう一度言うで?
てこを使って常人では引けない、重い重い重〜〜〜〜〜〜い!!弓を引いても、
ストロークが短ければエネルギーは増えない。 てこを使ってもエネルギー量は増えない。
学校で物理の時間にやっただろ? そういう嘲りは要らない。
批判するにしても普通に書こう。荒れる原因になるから。 最近水中調査があついとか聞くけど、元寇で何か発見あったりしないかな
まだ海の中に沈んでるんだよね? >>649
唐津の鷹島で舟が見付かってるだろ??w
実は兵站の失敗だと思うのw
日本もそうだがw >>651
陸ならともかく、あんな大海を隔ててるのに
戦争が長期になったら補給どうする予定だったんだろう
まあどうしても落とさないといけない国じゃないし
補給できなくなったら帰るつもりだったのかもしれないけど 補給は現地調達が基本、軍隊が自弁で賄うのなんてWW2の米軍から現代軍くらいだろう
だから緒戦で快進撃して、出来るだけ敵地を確保しないと後が続かない
海上だと飲料水が圧倒的に足らなくなるので、2ヶ月も海を漂ってたのはキツかったろう。 船を使う段階で兵力は船腹で制限される。
朝鮮半島から出せる兵力はそう変わらないだろうから、弘安の役以上の兵力を中国大陸から出す必要がある。
ほとんど無理ゲーと言っていいんじゃないの? だなw幾ら近いとはいえ大半は
所詮小舟サイズw
逆に秀吉は効率が良かったのね
もう一息だった!!w
ダナン会談が楽しみだ! >>657
クビライ何考えて攻めてきたんだろう
日本を見た使者が一応忠告してるのに 朝鮮出兵は渡航計画を策定した石田三成が非常に優秀だった 三成以前に、朝鮮がアレで容易に橋頭堡を確保できた事の方が大きいだろ 槍は馬に乗って速度をつけようが体重を乗せようが、それを支える瞬間的な腕の力でしかないのに対し、
弓は積分値でエネルギーを蓄積して放出できる。
つまり弓は槍や刀剣とは比較にならないほど殺傷力のある武器で、最強の矛である。
日本の武士、特に鎌倉時代以前の武士が弓をメインウェポンにしたのは、
リーチの点で有利だったからではなく、より大威力の武器を求めた結果だろう。 また和弓に対応して作られた大鎧はべらぼうに重くなり、
頭と胴体を重点的に守るわりきった設計となった。
(この辺は、プレートアーマーが鉄砲の発達に対抗する為、
厚みを増す一方で手足の防御を諦め徐々に面積を減らしていった経緯に似ている)
また和弓の進歩により盾は無力化され使われなくなり、より厚みを増した置盾のみが残る。 >>664
ちょっと変。
貫通力において、弓が槍を上回ることはないかと。
槍の貫通力はその積分の時間が無限大にできるので。 >>664
積分って何だよ、矢が放たれた瞬間以上のエネルギーは持ちようがないぞ クロスボウとか弓を満足に扱えないポンコツ農耕民族の道具だろ?
鉄砲の時代になるまで狩猟民族の優位は揺るがないね。 クロスボウがそんなに優れてるなら
クレシーも志賀島も弓装備の島国はチンチンに負けてただろう
朝鮮出兵における鉄砲を前にした朝鮮軍のように手も足も出ない事態に陥ってたね >>671
当然だ。
鉄砲以前は弓と馬が最強の兵器だから。
モンゴルは弓と馬で世界を制した。 ハンガリーまでだったかなあ
蒙古斑(赤ちゃんのお尻が青い時期が有る)出るの
チェコスロバキアはチェコがゲルマン?系??で
スロバキアはスラブ系だったかな?
謎が多い白いユダヤ教徒!w
(ユダヤ教徒はアラブ人だしw キリストもw)
そもそも聖書が原典の3大宗教w
(当然人間が考えたw) ハンガリー人の元であるマジャール族がモンゴロイドだからだよね。
混血してコーカソイド化したけど。 >>419
大鎧の実物見てきたんだが、
小札をよく見ると2枚の板を貼り合わせて(紐で繋いでると言ったほうがいいかも)1枚の小札になってる。
2枚の内、外側は厚さ1〜1.5ミリほど、内側は3ミリほどの厚み。
漆が塗ってあるからよく分からないけど、外側が鉄で内側が革で作られているのだろうか。
そうだとすれば小札は半分ずつ露出するように綴られているから、
鉄板の厚みが2〜3ミリ、革の厚みが6ミリという事になる。
草摺と大袖の部分は革主体と考える、
その上で鉄の比重が7.85(1 立方センチメートルあたり約 7.85g)、
革の比重が0.7と、、、考えれば合計30キロ弱になる。
どうよ? >>小札をよく見ると2枚の板を貼り合わせて1枚の小札になってる
これ分かるかなー?
ネットの画像とか見ても出てこないし。実物見ないと分からないんだよな。
実物の写真を撮れれば良かったんだけど・・・
1枚となった小札がそれぞれ綴られてる感じなんだよ。 >>677
身体にフィットするように作られている当世具足と比べると全体的に箱型の大鎧は
まだまだ古代からの流れを感じさせるね つまりモンゴル人や朝鮮人の弓は日本の武士様の鎧にはさしたる効果がなかったって事だな。 それは日本の弓も大差ないんじゃないか
騎射でも顔とか防備の薄いところを狙うのが基本だし 昔読んだ本に日本の弓は蒙古の鎧を貫通するが、蒙古の弓は日本の鎧を貫通しなかったと書いてあった。
あれ何だったかな。 と言って、毒矢被害が史書に記述されてる以上、撃たれて平気なワケじゃないのは明確だけどね >>682
その根拠となる史料でもわかればいいんだけど >>683
そりゃ顔とか首とか手足とか防備の薄いところを狙われればね。 狙うことは狙うんだろうが、狙って当たるとは限らないんで貫通力も大事かと。
なんで読んだか忘れたが、
戦闘用の和弓の矢は弓道の矢をイメージしたら間違える。
鑿(のみ)が飛んでくると思ったほうがいい。
っていうのがあった。 昔読んだ本だけどあれなんだったかなとかなんで読んだか忘れたがとか
うろ覚えが多いな… 和弓でフライパンを貫通する実験では、固定されたフライパンは容易く貫通できるが、
紐で宙に吊るしたフライパンは貫通させるのが難しいという実験結果がでている。
という事は同じ厚みなら板金鎧よりラメラーアーマーの方がタフなんだろうか。
当世具足の板札も小札に近い効果があるだろうね。
南蛮胴、これは駄目だな。 これが元側から長しといえども遠く能ずと言われた武士の矢か
確かに射程は短そう 紐で宙に吊るしたフライパンは貫通させるのが難しいという事は、
矢が着弾する瞬間にフライパンが後退し、単位時間あたりのエネルギー量が下がったという事なんだろうか。
だとすれば弓が槍より貫通力に勝るのは単位時間あたりのエネルギー量の違いからくるのだろう。 むしろ極力鏃の重量を抑えてアーマーピアッシングを高めた形状じゃないか
俺らが考える通常の征矢とは形状が異なる、ボヴォドキンアローそっくり。
>>693 長根のような巨大な鏃を使ってたなかったとしたら
短距離しか飛ばなかったって事はない >>697
元側の認識だからね
元の弓に比べてってことかもしれない >>676の見立てが正しければ、
外側の鉄板で鏃の先端を破砕し、内側の革板で勢いを殺すという事だろうか。
ちなみに鉄板だけを見ても、合わせ鍛造で外側は硬く内側は粘り強い、日本刀と同じ構造になっている。 こんな調子で武士たちは次第に押されはじめ、モンゴル軍が赤坂の松原に陣を張ったころには、
誰も敵に向かう者がいないありさまとなっていた。
そんななかで目立ったのは、肥後の菊地武房130騎、詫磨別当太郎100騎である。
かれらは激烈な戦闘をまじえ、家子カ党のほとんどをうしない、しかもなお敵の「首ども数多」を取った。
また、「屈強の馬乗り、弓の上手」小弐景資が、追撃してくる敵の軍将を疾駆する馬上から、
振り返りざまに射殺したのも人の目を引いた。
景資がみせた射方はパルティアンショットとよばれ、世界の他地域でもおこなわれ、
特に古代メソポタニアでさかんであった。
(近藤好和、1997)
日本の武士がパルティアンショットで敵将を射落としたとの記述が興味深いね。 >>698
歴史群像では推測としながらも逆の見解を述べてるよ >>679
これどうなんだろ。
箱形で鞍輪に重量を載せる大鎧は日本の甲冑の中では異端だと思う。世界中見ても異端だし。
この頃の鎧が一番装甲が分厚い。
日本刀は鎌倉時代に名刀が多いように、鎧もまた鎌倉時代が最も優れていたのではないかと思う。
当世具足も機能的でカッコいいと思うけどね。
何より実物が大量に残っているから、ガラス越しではなく直に見ることができるのがいい。 ラメラーアーマーの一種には違いない。芸術性の高さまで求めた辺り、イスラム圏の鎧に近似している。 イスラム騎兵のカイトシールドとか、西洋に影響受けてるとこはあるけどね。 とっても間違ったこと書くな
秘密に時々アクセスするのですか?
私は時々考えます侵略することを >>701
都合の悪い史料は無視する推測がアテになるのかな? モンゴルの弓は小さいけどストロークをしっかりとるからな。
耳のあたりまで引き絞るから。
ストローク11センチのクロスボウなんかとは物が違うんだよ。 射方は日本とモンゴル一緒なんだけどね
>>710
無視してる訳じゃないだろうけど
正確に測った訳でもなく所詮は印象だからね
歴史群像のは現実的な理屈を積み上げてる真面目な記事だったよ。 >>712
>無視してる訳じゃないだろうけど
え?まさかその面白おかしいライトオタ向け歴史雑誌の記事中に
元寇と同時代の元の人間が記した「汎海小録」が引用されてなかったの? >>713
だから何度もいうけど
実測で測ったんですかね?それ
面白おかしいと言えるくらいちゃんと読んだの?
中世の人間が印象で語った一節で全て決めつけるあなたも一方的だよ 当時の日本の射法は直射が多かったからその印象もあるかもね 運用の違いが大きいと思う。
日本の射手は個々が標的を狙って射るのに対して、大陸の軍は弾幕を張るからな。
家ごとに功を争う武士と、組織化された軍の違いだね。 関門海峡幅500メートル水深10メートル長さ10キロ
大小河川に舟艇水軍を潜ませる帆掛け船では負ける 水深10メートル図
100年前の博多湾水深
和弓と引き尺を同じにしたクロスボウ作ったら最強なんじゃないかな。
なんで作らなかったのかな。 弘安の役沈船27メートルキール
かつて騎士たちは弩を”あまりに無慈悲な武器”であるとして
教皇に訴え禁止令を出させたことがあった
弩は鍛錬を積まずども引き金を引きさえすれば誰にでも矢を射ることができる武器!
すなわちそれは…
たとえ平民であっても騎士の命を奪うことができるということ…!
特権的な騎士が平民などに敗れることがあってはならぬ…
特権的な騎士が平民などに敗れることがあってはならぬ…
禁止令を出させたのは弩が騎士の優位を脅かすものであると真に恐れていたことの証左でもある!
この光景を見るがいい騎士たちよ
騎馬が最強との思い込みはすでに幻想に過ぎぬ!
https://twitter.com/gryphonjapan/status/677116497089531904
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) ラテラノ公会議で本当に弩がピンポイントで禁止になったのかどうか調べてみたら? 異教徒には積極的に使ってるよね。
っていうか、教会から禁止されても無視してるよ。トーナメントも禁止されても無視してたし。 4年ぶりくらいに元寇スレ見たけど
スレ名物のパフォ君はまだ生きてたどころか自説を展開するブログまで開設してたのか。
俺が始めてパフォ君を見かけてからもう12年くらい経つしスゴイ執念だな。
その内論文書くなり自費出版で本出すなりしそう。 新しいページ「勘仲記をどう読むか」を追加した。
https://ameblo.jp/reydeoro/entry-12450451866.html
「一週間後撤退説」を正面から批判してはいないが、廿日撤退とも読める
ことを説明している。 上記ページで:
博多合戦の一週間後に撤退したと言う例の学者の説を「一週間説」、
通説の通り博多合戦の当夜に撤退したという説(私の説)を「当夜説」と呼ぶならば、
その違いは下記の通り。
1)「一週間説」は十月十八日付の「賊徒来着対馬」の記事を無視するが、「当夜説」は
無視しない。(十月五日の対馬来着と見なす)
2)「一週間説」は十月廿二日付の「去十三日於対馬・・合戦」の「十三日」を飛脚の博多
出発日と見るが、「当夜説」は文章の通り合戦の日と見なし、原文の「対馬」は「壱岐」の
誤りと見る。(他に壱岐合戦の報告はない)
3)「一週間説」は十一月六日付の「俄逆風吹来、吹帰本国、少々船又馳上陸上」を
十月廿七日ごろに元軍が博多湾で遭難して撤退したことの報告と見なすが、
「当夜説」は壱岐の状況(安国論私抄では130艘漂着)の偵察結果の報告と見る。
(一週間遅れは偵察に要した期間)
「当夜説」を簡単に言えば「廿日夜に博多撤退、廿一日夜に壱岐付近で遭難」である。 服部説などこのスレを覗いている者なら誰も信じていないだろう。
当夜説もなにもどの史料も20日夜撤退で統一されている。
モンゴル軍が大敗したことを記した鎌倉年代記裏書の
「二十四日、大宰少弐入道覚恵代藤馬允、大宰府に於いて合戦し、異賊敗北」
これだけが根拠なんだから。24日が誤記で20日とすれば、他の史料とも整合性がとれる。 >>734
>これだけが根拠なんだから
いや、服部説の主な根拠は勘仲記だ。
>24日が誤記で20日とすれば、他の史料とも整合性がとれる
それについては「内外の史料に現れる大宰府とは何か」のページで書いた。
日付の誤記だけでなく、「大宰府=博多」を認めなければ、そのことは
言えない。 鎌倉武士って西洋のピストル騎兵に似てると思う。
武器の有効射程も威力も同じくらいだし、防具の厚さや面積も同じくらい。 新しいページ「五檀法日記は何を語るか」を追加した。
https://ameblo.jp/reydeoro/entry-12495487618.html
ウィキペディアなどに引用されているサワリだけでなく、その日の全文を読むことが
大事だと、よく分かった。
「五檀法日記」と「勘仲記」は互いに裏付け合っている。 秀吉は済州島に興味はなかったのかな?
恩賞としてすぐに大名を配置できそうな場所だろあれ 馬の放牧地にしか使えないような絶海の孤島は、どの大名もいらんだろ。
日明貿易が盛んならば避難港くらいにはなったろうけど。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています