【蒙古襲来】元寇【文永・弘安の役】8 [無断転載禁止]©2ch.net
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>>734
>これだけが根拠なんだから
いや、服部説の主な根拠は勘仲記だ。
>24日が誤記で20日とすれば、他の史料とも整合性がとれる
それについては「内外の史料に現れる大宰府とは何か」のページで書いた。
日付の誤記だけでなく、「大宰府=博多」を認めなければ、そのことは
言えない。 鎌倉武士って西洋のピストル騎兵に似てると思う。
武器の有効射程も威力も同じくらいだし、防具の厚さや面積も同じくらい。 新しいページ「五檀法日記は何を語るか」を追加した。
https://ameblo.jp/reydeoro/entry-12495487618.html
ウィキペディアなどに引用されているサワリだけでなく、その日の全文を読むことが
大事だと、よく分かった。
「五檀法日記」と「勘仲記」は互いに裏付け合っている。 秀吉は済州島に興味はなかったのかな?
恩賞としてすぐに大名を配置できそうな場所だろあれ 馬の放牧地にしか使えないような絶海の孤島は、どの大名もいらんだろ。
日明貿易が盛んならば避難港くらいにはなったろうけど。 香港デモのワンシーン。
引き尺の重要さがよく分かる動画。
ひ弱な学生でも、引き尺をうまく利用すれば、
重いレンガを遠くに見える警察署まで投擲できる。
この子は理系の学生だろうか。
https://mobile.twitter.com/RebeccaRambar/status/1157697657609117702
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) あの時、日蓮の首をはねていたら神風は吹かなかったろう >>741
馬の放牧地って武家にとっては超重要だけどね。
まあ、鎌倉時代までだけど。
関東あたりは馬の放牧地に適した土地があり、それが板東武者のルーツなんだとか。
秀吉の時代になると、鉄砲持った歩兵が主力の時代になるから、馬の放牧地なんて意味無いけど。 >>742の動画に映ってる男すごいと思うんだよね。
1.2キロの石を80m飛ばす投石機を動かすのに41人の人手が要るらしい。
それを考えれば、この動画の男は1人だし、恐ろしく効率が良い。
やっぱり飛び道具は引き尺なんだよ。 https://image.tnm.jp/image/1024/C0064504.jpg
これは後三年合戦絵巻の一部だが、
下の中央やや左の置盾に和弓から放たれた矢が深々と刺さってる。
この時代は伏竹弓の時代で、後の元寇の時代になると三枚打弓が使われるようになり、
和弓の性能が向上している。
元寇時のモンゴル軍は手盾を持って戦ってるが、
おそらく和弓から放たれた矢は、モンゴル軍の鎧や兜を盾ごとぶち抜いただろう。
それにしても後三年合戦絵巻や前九年合戦絵巻は和弓の貫通力を感じさせて面白い。 >>428
鎌倉幕府(上層に貴族出身が意外と多い)は、かつて対立した西国の監視もする立場
幕府は、元朝相手に強気
→ だが、実際に元軍を撃退したのは、西国武士(幕府軍が議論で遅れる間、現地だけで圧勝)
→ 幕府としては、西国武士(幕府軍抜きの武士団)の手柄にしたくない
→ 幕府は、「神風思想」(寺社・貴族の創作)に協力し、前は対立してた西国武士に恩賞渋る
→ 武士の不満
→ 世は乱れ、幕府崩壊へ
文永では奇襲の受け止め役となり大被害受けた、松浦党への恩賞もお粗末なもの
要は、幕府軍が活躍できなかったので
もと対立勢力である西国武士の功績を讃えるより、貴族・寺社勢力の機嫌とり「神風思想」に乗った幕府 モンゴル帝国は、遊牧民として交易やるから情報戦にも優れてた
【モンゴル帝国】
「恐怖の大魔王」チンギス・ハンの戦わない戦略 プロパガンダを徹底して使い倒した
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1578092905/l50 >>746
>この時代は伏竹弓の時代で、
後三年絵巻の成立年代は南北朝時代だが絵師は題材となった時代当時の弓に関する考証知識なんて持ってないでしょ
雰囲気で描いてるだけだからそこから後三年合戦当時の武器の威力を読み取ろうなんて無意味すぎるよ ようつべでマニアと思しき弓矢の解説動画見たけど
和弓だけエビデンスがナショジオの例の番組のみという今ひとつ要領を得ない内容だった
和弓って科学的に分析された事が一度もないんだろうか ぶっちゃけ形状と素材の反発力ぐらいしか考慮する要素ないだろうし 文永の役で博多の街がモンゴル軍に占領されたなどという記録はない。
蒙古襲来絵詞など信頼できる全ての史料で、モンゴル軍は赤坂で日本軍に撃退されている。
当日夜に筥崎宮が火災を起こしたから、史料を無視して博多の街がモンゴル軍によって
占領されたことになってるだけである。
しかし、その筥崎宮に伝わる八幡大菩薩愚童訓に拠れば火災の原因は内部出火である。
八幡大菩薩愚童訓は、確かに博多筥崎にいた武士が夜に水城に引き上げたと記している。
その一方で、少弐景資は手勢を率いて撃って出ており、名のある武士もそれに続いたと
書いているので、博多筥崎に残っていたのは日本軍の主力ではない。
また、モンゴル軍が攻め込んだのは今津早良百路原赤坂だとしているので八幡大菩薩愚童訓
においてもモンゴル軍はやはり博多筥崎まで到達できていない。
博多筥崎にいた武士が夜に水城に引き上げたのは、戦闘と全く無関係の出来事なのである。
戦闘と全く無関係の出来事が何故八幡大菩薩愚童訓にとって重要だったかといえば、
八幡大菩薩愚童訓はそもそも八幡の霊験を示すための書物であり、弘安の役の台風と
文永の役の筥崎宮の火災がそれに該当する。
10月20日の夜、博多筥崎に武士は1人も残っていなかったのだから、筥崎宮の火災は
武士の放火ではなく八幡の霊験によって起こされた内部出火であるというのが
八幡大菩薩愚童訓の主張なのだ。
もしもモンゴル軍が博多筥崎に到達していたら当然こんな理屈は成立しない。
要するに八幡大菩薩愚童訓もモンゴル軍が赤坂までしか到達できずに敗れたことを
大前提として書かれているのである。 現地に伝わる八幡大菩薩愚童訓と、それを下敷きに全国に普及した八幡愚童訓では、
10月20日の戦闘の経過が全く違う。
「八幡愚童訓」
菊池が赤坂で蒙古を駆け散らす。
↓
少弐景資が蒙古の副将を射倒す。
↓
博多筥崎にいた武士が夜に水城に引き上げる。
「八幡大菩薩愚童訓」
菊池が赤坂で蒙古を駆け散らす。
↓
少弐景資が百道原に押し寄せて戦い、大名高家の武士もそれに続く。
↓
蒙古が今津早良百路原赤坂に攻め込む。
↓
博多筥崎にいた武士が夜に水城に引き上げる。
↓
少弐景資が蒙古の副将を射倒す。
八幡大菩薩愚童訓だと、博多筥崎の武士が水城に引き上げたのは戦闘と直接関係のない出来事で、
戦闘そのものは少弐景資が蒙古の副将を射倒し、日本軍勝利で終わってる。
八幡大菩薩愚童訓は現地の史料であり、読者の対象の現地の住民も文永の役の戦闘が
日本軍勝利で終わったことを体験として共有していた。
しかし、それが全国に普及し予備知識ゼロの者が読んだ時、正確に理解されなかった。
だから八幡愚童訓で日本軍が負けたかのように改変されてしまったんだ。 八幡大菩薩愚童訓の他にも日本軍が明確に勝利している八幡愚童訓の異本がある。
『朝師御書見聞 安国論私抄』の中で日朝が引用している八幡愚童訓だ。
そこには、博多筥崎にいた武士が夜に水城に引き上げたという部分がない。
菊池が赤坂で蒙古を駆け散らした後、少弐景資が蒙古の副将を射倒して戦闘終了。
それが本筋なんだよ。 今じゃ普通に鎌倉武士団に力負けしたってのが通説だな 一日で船に逃げ戻ってその足で撤退してるからねぇ
どれだけ無理な解釈しても九州の御家人に実力で排除されたんですよ https://jp.reuters.com/article/israel-saudi-idJPKBN2670OQ
CGで完全再現したらわかった! 元寇で押し寄せた蒙古軍船の弱点
船酔い続出で戦意喪失だった!?
播田 安弘
1941年徳島県生まれ。父は造船所経営、母の実家は江戸時代から続く船大工「播磨屋」の棟梁。
艦艇の設計を夢見て三井造船(当時)に入社、大型船から特殊船までの基本計画を担当、半潜水型水中展望船、
流氷砕氷船「ガリンコ号2」、東京商船大学(当時)のハイテク観測交通艇、ディズニーシーの噴水台船などを開発、主任設計。
東海大学海洋工学部で非常勤講師を8年間務め、この間、2008年、日本初の水陸両用バス「LEGEND零ONE号」の船舶部分を設計。
定年後は船の3Dイラストレーションを製作する「SHIP 3D Design 播磨屋」を主宰。
2019年公開の映画『アルキメデスの大戦』では製図監修を担当、戦艦の図面をすべて手描きで作成。 >>763
すいません
リンク貼り間違えました・・・それはイスラエルとサウジアラビアの外交問題の記事です・・
これが蒙古軍船の記事のリンクです
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/75515
CGで完全再現したらわかった! 元寇で押し寄せた蒙古軍船の弱点
船酔い続出で戦意喪失だった!? モンゴル人は少数で相対的に弱兵だった高麗人や女真族が多数を占めていた。
元寇はモンゴル帝国内の序列を上げたい高麗や遼東の勢力が中心。 >>11
アイヌ絡みは、「アイヌ(加害者)の方から大陸や樺太を侵略した」て話だしな
まず
北海道にウィルタ・擦文・ニヴフ・モヨロら先住民族がいたが
13世紀ごろ新たにアイヌ文化が成立(北方オホーツク系と交雑)し、先住民を駆逐+勢力拡大
その拡大の過程で、アイヌ(加害者)が樺太・大陸のニヴフ(被害者)を渡海侵略
…アイヌに害された地元民が元朝に訴え
→地元民の訴えを聞き、元軍がアイヌ(侵略者)に対し何度も防衛出動→負けたアイヌは元朝に服属
…以降、アイヌは歴代中国王朝に朝貢 (★アイヌの山丹交易:古代中国への朝貢交易)
http://wpedia.mobile.goo.ne.jp/wiki/%83%82%83%93%83S%83%8B%82%CC%8A%92%91%BE%90N%8DU/5/
> 日本では鷲羽は、アイヌ交易の代表品として捉えられており[25]、
> アイヌは鷹羽・鷲羽流通の掌握を狙っていたと思われる[26]。
アイヌの侵略に対し、元軍が船・ソリ(犬・トナカイなど)で何度も懲罰・排除して、アイヌは服従
https://www.city.asahikawa.hokkaido.jp/hakubutukan/education/d061522_d/fil/tatakai.pdf
★> アイヌはサハリンに侵入するだけでなく、
★> 大陸に渡って村々を襲い、略奪をおこなって. 元軍の手を焼かせていました >>765
高麗人や女真族は操船要員だから前線には投入されなかった。
高麗人が損害受けるとモンゴル人だけじゃ船を動かせないからね。
元寇で戦闘に中心はモンゴル帝国最精鋭のモンゴル漢人部隊。 >>767
元寇関連は新説も定説も読んだが
それは流石に聞いたことない。
最近多いのは元寇でモンゴル人自体ほぼいなかったって説。
日本遠征を担当した朝鮮と遼東はモンゴル人がほぼいない地域。
船員7000人はほぼ高麗人で、なおかつ元軍もほぼ高麗系と女真系、
漢人と契丹人が少数、純粋なモンゴル人はほぼ無し。 いやいや、そんな史料は無いよ。
負けた言い訳の思いつきにしかすぎん。
元史という史料で元寇で逃げ帰った兵士が
捕らえられたモンゴル人と漢人と高麗人は処刑
されたが、旧南宋人は助命されたと証言しているよ。
つまり捕らえられた捕虜の中にはモンゴル人が
いたってこと。 モンゴル人といわれたものは遼東のモンゴル化した女真族や高麗人だろう。
どうやってモンゴル人と鑑定していたのかは知らんが。 いやいや、女真族や高麗人をモンゴル人と評した例は
ないよ。
ともに軍を構成している仲間の軍勢をそれも支配層の
モンゴル人を見分けられないはずがないだろう。
そもそも、高麗の忠烈王がクビライにモンゴル兵の
増員を要請していて了解を得られているんだから
モンゴル人いないなんて理屈は成り立たない。 元寇の元を擁護する言い訳ってほとんど捏造だよね
・モンゴル人は一部だけだった、モンゴル本軍が来たらヤバかった
→モンゴル人はそもそも少数民族
他の国を攻めるときもいろんな民族の武器や戦法を吸収して進撃する
・高麗人がほとんどの烏合の衆だった
→実際はモンゴル人、女真人、漢人といった何れも戦闘民族の割合の方が多かった
・海辺での戦闘だからなんとかなった
上陸されていたらヤバかった
→赤坂での戦いを完全に無視している
・モンゴル人は馬を連れてこなかった
→連れてきている
上陸もされて武士団の騎兵隊と正面からぶつかっている
・フビライは本気じゃなかった
→二回の敗北にもかかわらずもう一度攻めることを計画していたが家臣に止められた 弘安の役における民族別動員数
高麗人 1万人
南宋人 10万人
モンゴル人 40万人 元寇でモンゴル人自体ほぼいなかったとか、南宋兵のリストラ目的だったとか
嘘ばっかり吹聴してた研究者はクビでいいよ。
40万人動員のモンゴル兵が弘安の役における圧倒的多数じゃん。
モンゴル兵を40万人も捨てたら帝国消滅しちまう。
元史卷一百二十九 列傳第十六 阿剌罕
「十八年、召拜光祿大夫、中書左丞相、行中書省事、統蒙古軍四十萬征日本、行次慶元、卒于軍中」 元軍は日本遠征の失敗で水軍の九割を消失している。
そもそも中世以前で海を越えて十万を超える兵力を送り込むのはどれほどの国力が必要か
これほどの大規模な渡洋作戦など、第三次ポエニ戦争のローマ軍のカルタゴ遠征
あるいは日本の朝鮮の役など
世界史の中でも数少ない
これほどの大遠征が、元が本気で日本を侵略したわけではなかった
それで片付けられるわけがないわ >>769
以前あった資料で古くから交流のあった南宋の遺民たちは助命したが
蒙古人や高麗人は皆殺しにしたことを、当時の日本人の差別意識と断じている資料があったな
しかし交流があったのなら、高麗人とも当時の日本は交流があったが
高麗人は皆殺しだからな
やはり蒙古人と高麗人は許せないという理由があったように思えるが 福岡県糸島市高来寺は元寇で処刑した高麗兵の供養のために建てた寺に由来する 元寇はどう考えても高麗人主体の二軍だったとおもう。
指揮官クラスで無名のモンゴル人が少数参加してる程度。
これは日本侵攻の主体が高麗と遼東の行政府だったことからも明らか。
このエリアで多い順に朝鮮人>>女真族>>漢人>>>契丹人>>>>>モンゴル人
仮にモンゴル人が数千人とか死んでたら帝国は物凄い騒ぎになってるわ。
モンゴル人の大半はモンゴル高原からでてこない
支配者層として元朝の経営に参加してるモンゴル人は数万人程度。 >>778
元寇ではモンゴル人を40万人も動員してたのが史料に残ってるっての。
中央アジアの部隊を対日戦に投入したこともちゃんと史料に書いてある。
高麗人なんて操船要因でしかない。
だから元寇で日本でボロ負けして以降、主力を失った元朝は対外戦争で全く勝てなくなるだろ。
元朝の忠実な属国だったベトナムは弘安の役で元軍が壊滅したのを知って翌年に反乱。
それが現実。 >>779
モンゴル人 ×
蒙古軍 〇
蒙古軍 少数の蒙古人が多数の異民族を従える軍団 日本討伐を担当したのは「征討行省」が置かれた東の地域の、
特に遼陽行省を含め、モンゴルの家来になったもとの女真族と契丹人、
金の漢人、そして高麗人らだった。モンゴルの中央にいた
「羊を飼って遊牧する草原の人」であるモンゴル人には、ほとんど
関係のないところで行われた遠征だった。
その担当部署が自分たちの領分で、仕事として日本征伐を行って
功績をあげれば、自分たちの取り分が多くなり、役所も大きくなって
地位も上がるというのが理由だった。
モンゴル帝国をよく知った著者が再検証してみると、「蒙古来襲」
というが、モンゴル人はほとんどいなかったという実態が見えてくる。 >>780
>>781
もしかして漢字読めない人?
「蒙古軍」ってのはモンゴル人で構成された軍な。
阿剌罕の配下に女真族や契丹人、金の漢人、高麗人は含まれていなかった。
何故なら阿剌罕が統べていた軍は「蒙古軍四十萬」だと史料に書いてあるから。
ほれ、ちゃんと読んでみろよ。
元史卷一百二十九 列傳第十六 阿剌罕
「十八年、召拜光祿大夫、中書左丞相、行中書省事、統蒙古軍四十萬征日本、行次慶元、卒于軍中」
史料にここまで明確に書いてあるんだから「羊を飼って遊牧する草原の人」であるモンゴル人が
元寇における最大多数だ。
どんなに悔しくても元史に書いてあるんだから認めるしかないだろ。
元史卷一百二十九 列傳第十六 阿剌罕
「十八年、召拜光祿大夫、中書左丞相、行中書省事、統蒙古軍四十萬征日本、行次慶元、卒于軍中」
そもそもさぁ、女真族や契丹人、金の漢人、高麗人が日本に遠征するのに、わざわざ
慶元を経由するわけないじゃん。
少しは考えてから書き込めよ。 >>782
話が繋がらなさ過ぎて理解するのに時間がかかった。
つまり、それ、40万って寧波の江南軍の事なんだが、あなたの認識では
寧波の大軍団はほとんど「羊を飼って遊牧する草原の人」だったって説を言いたいの?
後半は意味が分からない。
こっちは東路軍の話をしてるわけで、女真や高麗人が寧波(慶元)経由したとかむしろどういうこと?
ちょっと申し訳ないけど元寇のこと知らない人が適当なこと書いてるように見える。
ウィキペディアでいいから一回流し読みしてくれ。頼むわ。 江南軍は降伏した南宋軍を指揮系統ごとまるっと転用しててそれこそほとんど蒙古人はいないと思うんだけどどうなのかしら 蒙古人が農作業具積載した船団に詰め込まれてたとか、想像するだにジゴクめいたアトモスフィアじゃのぅ…… >>783
蒙古軍四十萬は江南軍の事じゃないよ。
江南軍は兵数10万人だけど、蒙古軍は兵数40万人。
江南軍の指揮官は范文虎だけど、蒙古軍の指揮官はアラカン。
江南軍は旧南宋兵の軍だけど、蒙古軍は当然ながらモンゴル人の軍。
全てが違う。
史料からは東路軍や江南軍とは別にモンゴル軍40万がいたと考える他ない。
兵数からも指揮官からも元寇の主力は明らかに蒙古軍40万人だろ。
で、東路軍の兵数は僅か4万人。
弘安の役で動員されたモンゴル兵の10分の1に過ぎない。
元寇において女真や高麗人の参加はごくわずかで、圧倒的多数はモンゴル兵だったということ。 >>787
お前は天才だな。
お前と同じ考えに至れる学者がこの世に存在しないことが悔やまれる。 >>788
学者の言ってることってインチキじゃん。
「元史」には弘安の役でモンゴル軍40万人動員したって書いてあるんだぜ。
ところが学者連中には、「元寇はモンゴル帝国にとって重要な作戦じゃなかった」って
結論が先にあって、史料に書いてあるモンゴル兵は無視し、補助戦闘員の江南軍や
東路軍だけを見て、「モンゴル兵は少数だった」とか言ってるわけじゃん。
そりゃ主力のモンゴル軍無視してるんだから当然だろって。
でも、それは単なるプロパガンダであって、史料に基づく学問じゃないよね。 大友ハ 子共打ツレ 落行テ 方々ニコソ 頼康(よりやす)ミケレ 学者つっても棄民説みたいに極端にモンゴルに肩入れしてるのは杉山御大ぐらいじゃないか 鎌倉幕府の異国征伐計画について、遠征の準備で疲弊してる高麗に対する日本の侵略主義
だとか批判してる学者が何人もいるんだが >>789
動員されたモンゴル軍は公称40万だけど、
実際は東路4〜5万、江南10万で計15万が説として主流。
まあこれは教科書的な答えで
君はそれとは別に「モンゴル人」が40万人動員されてたっていいたいんでしょ。
(元国の版図内で徴兵に耐えられる年齢のモンゴル男性が数万人程度なのはこの際置いておく)
その40万人は元寇の時、何をやってたの?
あとモンゴル人が少数って言ってる言論増えてるけど保守派とか右派ばっかりだぞ。
逆に左の人はモンゴル人の存在感が薄くなると高麗の残虐性が存在感を増しちゃうから話題にすらしない。 とにかく来襲したモンゴル人は指揮官クラスで少数というのが定説でしょ。
馬を運ぶのが困難で騎馬戦闘はできないし。弓の射程が短いし。
片手で両手の日本刀には太刀打ちできないし。士気旺盛の武士はヘコタレナイし
40万人来ても上陸困難で各個撃破されるし。欧州のとんまな騎士とは違うんですw 常立寺の元使塚にモンゴル大使館やモンゴル相撲マンなどが参拝するけど、
まず先に侵略・虐殺した対馬・壱岐に慰霊と謝罪をすべきだよ
こちらはたかが5名の使者、かたや対馬と壱岐は数百人の民間人だからね >>794 >>795
そのモンゴル人は指揮官クラスで少数という定説は、元史に蒙古軍40万と書いてある以上
完全に間違いだったわけだ。
アラカン指揮下の蒙古軍は慶元に布陣したんだから東路軍と無関係なのは明白。
それに江南軍は海軍であり、上陸して野戦を行うことは想定していなかった。
元史卷十一 本紀第十一 十八年春正月戊戌朔条
「文虎又請馬二千給禿失忽思軍及回回砲匠。帝曰戰船安用此。皆不從」
一方、蒙古軍40万の方は当然ながら騎馬部隊だったと元史からわかる。
元史卷十一 本紀第十一 十八年春六月庚寅条
「以阿剌罕有疾,詔阿塔海統率軍馬征日本」
つまり、江南軍の任務は制海権を確保とモンゴル騎馬部隊の輸送で、このモンゴル騎馬部隊40万
こそが日本制圧の主力部隊だということ。
で、モンゴル騎馬部隊40万をどこから動員したかというと、アラカンが南宋征服で率いていた
モンゴル軍を中核に、対カイドゥのため河西地方にいたモンゴル軍を引き抜いたんだよ。
元史卷十一 本紀第十一 十八年春四月甲午条
「賜征日本河西軍等鈔」
河西地方のモンゴル軍だとチンギス・カン第2子オゴデイや第3子チャガタイの子孫だな。 元寇の史実が大陸に広まることで、元寇以来たったの一度も
外国から侵略戦争を仕掛けられなかったのは凄いと思うね。 チョンがちょっかい出してすぐ引き上げた事なら室町時代にあったけどな このスレ観てると大河ドラマの時宗観たくなってきたよ
こんど引っ越ししたらnhkオンデマンド契約して時宗観ようかな 元寇で悔いがあるとしたら対馬や壱岐を凌辱して皆殺しにしやがった東路軍の多くを生きたまま返しちまったことだな。特に弱者に対して極端に残虐な高麗人。
江南軍に関しては実は世界的に見ても立派な強兵だった南宋軍人ばかりだったのに運が悪い、間が悪い、船も悪い、挙句に果てに蒙古や高麗に見捨てられてかなり凄惨な掃討戦されててお気の毒と思った。 蒙漢軍は全員処刑されたよ
助命されたのは南宋人のみ 東路軍は船が無事だった分、掃討戦前に撤退してたのも多くて生還率が6〜7割くらい。 高麗軍は台風の後、単独で博多湾に突入して大損害を受けた。
室町時代に日本を訪れた朝鮮の使者は、筥崎の海に面した松林を案内され、
「ここが弘安の役で高麗軍の戦亡の地だ」と言われたんだと。
今津の近くに穴を掘って殺しまくった高麗兵の死体を埋めて、その供養のため
高麗寺を建てた。
その跡は現在でも福岡県糸島市高来寺の地名に残っている。 完全に後付けだけど弘安の時の掃討戦で元軍十万をそのまま捕虜として管理し
奴隷にするなり身代金をせしめていたら鎌倉幕府も、もう少し存続してたかも
まあそんな文化とノウハウも無いし
何よりいつ第3波が来襲するかもしれんのに
そんな数の敵性分子を抱えてる余裕はなかったろうけど >>806
その場合去勢するんでしょ。謝罪と賠償が・・・w 高麗兵 9960名
高麗人水夫 17029名
うち生還者 19397名
数字的にはかなり取り逃がした感はある。
原因は高麗船が頑丈なつくりで素材も強度が高い松で作られてたから(そのかわり経済性は低め)
台風でもほとんど被害が出なかったからだけどね。
元寇時代の遺物もほとんどが江南軍由来のものだったと文化庁が検証してた。 >>791
軍事史学バックナンバーの佐藤鉄太郎氏の論考は読んだけど
戦闘経過や戦争準備について後はどんなのが良質な論文なのか分からない。
政治史でも最近まで得宗政権の外交能力評価は低かったし
(執権北条氏関係はどうして三度の飯より陰謀が好き的な妄想爆発な先生が多かったのか…)
最近きちんとした論文書いてる先生も
(もっと言えば南北朝内乱みたいな国内戦争ではちゃんと軍事史的研究が反映されてるのに)
元寇とくに文永の役前後は自信がないのか戦闘経緯すっ飛ばしてるんだよね…。 えええ蒙古軍40万加えるなら54万くらいで攻めてきたの?
それをまともに上陸さえさせず勝ったとか九州武士異常たろ! >>805
江南軍が大損害受けたの知りながらそんなことするのかね?
台風前じゃまいか。 ほとんどチョンだった
ボロ紙の鎧を着て突撃していたけど、上陸戦や雨天陸戦で水を吸い込ったりしてボロボロになった 最近の高校歴史教科書では元寇の前に三別抄が執権に手紙を送って警告して連携を促したのに、外交感覚のない北条が無視したのは愚かだ
とか記述があるそうですが
その辺、歴史ifとか妙な価値判断を持ち込む教科書執筆者がいるんでしょうか?
三別抄もたいがい微妙な集団に見えますが モンゴル騎馬隊を打ち破る日本って世界一の強さだったんだな。
納得だわ。 世界最強は日本の武士
昔から日本人様は強かったんだな。 >>814
敵になるかどうか分からんモンゴルに、こちらから喧嘩売る(三別抄援助)のは妥当かどうか。
ということは考えてないようなので、ダメな記述じゃないかな。 最近の研究では、神風は後代の脚色みたいなものであり
実際には武士団が元軍を圧倒していたように言われているが
まあ、相手は長い船旅で疲れているし
鎌倉武士団の方が地の利もあるし、有利だったのだろうが
そもそも元軍より日本軍の方が数でも勝っていたしな 重い矢を正確に打ち出す和弓。矢を回転させて精度を上げてる。
モンゴルの矢はただの木の棒。日本は中空の矯正した竹
両手使いの日本刀。負けるはずねえよw >>819
最近の研究www
お前の悔しい脳内の研究だろ? 長旅で疲れて負けました
とか遠征や侵略で負けました
とか攻める側がどの口で言うんか?
北畠顕家の爪の垢でも煎じて飲めや 情報がないですが高麗兵は対馬で
あんなことやこんなことしたんでしょうか?
女性にです >>819
地の利で有利な民朝鮮軍が船旅で疲れてるはずの日本の武士から
ホームでボコボコにやられたのはなぜ? 唐津の鑑山の上からでも晴れたら半島が見える位近くて
間に壱岐対馬まであるのに船旅の疲れ??あの距離で??
民間じゃさんざん交易やってんのに大陸の兵隊だけは疲れるんかねえ。
なら早く上陸すればよかっただけなのになぜできなかったんだろww >>827
長く天下太平で文治をやってた国に、長年親兄弟で騙しあい殺し合いをやってた修羅の国から蛮族が攻めてきたから >>830
それこそ倭寇やら女真に度々侵入されてる上に
三浦の乱みたいな前例もあるから言い訳にはならんな >>830
暗黒大陸の弱小ポケモン民族は悲惨な歴史よのう 尚州の戦いで迎撃した朝鮮軍は
北胡を撃退したエリート部隊だったと聞くけどな 九州勢だけで史上最強最大の元の大船団やっつけたんだから
日本人最強じゃん。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています