【蒙古襲来】元寇【文永・弘安の役】8 [無断転載禁止]©2ch.net
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弘安の役における民族別動員数
高麗人 1万人
南宋人 10万人
モンゴル人 40万人 元寇でモンゴル人自体ほぼいなかったとか、南宋兵のリストラ目的だったとか
嘘ばっかり吹聴してた研究者はクビでいいよ。
40万人動員のモンゴル兵が弘安の役における圧倒的多数じゃん。
モンゴル兵を40万人も捨てたら帝国消滅しちまう。
元史卷一百二十九 列傳第十六 阿剌罕
「十八年、召拜光祿大夫、中書左丞相、行中書省事、統蒙古軍四十萬征日本、行次慶元、卒于軍中」 元軍は日本遠征の失敗で水軍の九割を消失している。
そもそも中世以前で海を越えて十万を超える兵力を送り込むのはどれほどの国力が必要か
これほどの大規模な渡洋作戦など、第三次ポエニ戦争のローマ軍のカルタゴ遠征
あるいは日本の朝鮮の役など
世界史の中でも数少ない
これほどの大遠征が、元が本気で日本を侵略したわけではなかった
それで片付けられるわけがないわ >>769
以前あった資料で古くから交流のあった南宋の遺民たちは助命したが
蒙古人や高麗人は皆殺しにしたことを、当時の日本人の差別意識と断じている資料があったな
しかし交流があったのなら、高麗人とも当時の日本は交流があったが
高麗人は皆殺しだからな
やはり蒙古人と高麗人は許せないという理由があったように思えるが 福岡県糸島市高来寺は元寇で処刑した高麗兵の供養のために建てた寺に由来する 元寇はどう考えても高麗人主体の二軍だったとおもう。
指揮官クラスで無名のモンゴル人が少数参加してる程度。
これは日本侵攻の主体が高麗と遼東の行政府だったことからも明らか。
このエリアで多い順に朝鮮人>>女真族>>漢人>>>契丹人>>>>>モンゴル人
仮にモンゴル人が数千人とか死んでたら帝国は物凄い騒ぎになってるわ。
モンゴル人の大半はモンゴル高原からでてこない
支配者層として元朝の経営に参加してるモンゴル人は数万人程度。 >>778
元寇ではモンゴル人を40万人も動員してたのが史料に残ってるっての。
中央アジアの部隊を対日戦に投入したこともちゃんと史料に書いてある。
高麗人なんて操船要因でしかない。
だから元寇で日本でボロ負けして以降、主力を失った元朝は対外戦争で全く勝てなくなるだろ。
元朝の忠実な属国だったベトナムは弘安の役で元軍が壊滅したのを知って翌年に反乱。
それが現実。 >>779
モンゴル人 ×
蒙古軍 〇
蒙古軍 少数の蒙古人が多数の異民族を従える軍団 日本討伐を担当したのは「征討行省」が置かれた東の地域の、
特に遼陽行省を含め、モンゴルの家来になったもとの女真族と契丹人、
金の漢人、そして高麗人らだった。モンゴルの中央にいた
「羊を飼って遊牧する草原の人」であるモンゴル人には、ほとんど
関係のないところで行われた遠征だった。
その担当部署が自分たちの領分で、仕事として日本征伐を行って
功績をあげれば、自分たちの取り分が多くなり、役所も大きくなって
地位も上がるというのが理由だった。
モンゴル帝国をよく知った著者が再検証してみると、「蒙古来襲」
というが、モンゴル人はほとんどいなかったという実態が見えてくる。 >>780
>>781
もしかして漢字読めない人?
「蒙古軍」ってのはモンゴル人で構成された軍な。
阿剌罕の配下に女真族や契丹人、金の漢人、高麗人は含まれていなかった。
何故なら阿剌罕が統べていた軍は「蒙古軍四十萬」だと史料に書いてあるから。
ほれ、ちゃんと読んでみろよ。
元史卷一百二十九 列傳第十六 阿剌罕
「十八年、召拜光祿大夫、中書左丞相、行中書省事、統蒙古軍四十萬征日本、行次慶元、卒于軍中」
史料にここまで明確に書いてあるんだから「羊を飼って遊牧する草原の人」であるモンゴル人が
元寇における最大多数だ。
どんなに悔しくても元史に書いてあるんだから認めるしかないだろ。
元史卷一百二十九 列傳第十六 阿剌罕
「十八年、召拜光祿大夫、中書左丞相、行中書省事、統蒙古軍四十萬征日本、行次慶元、卒于軍中」
そもそもさぁ、女真族や契丹人、金の漢人、高麗人が日本に遠征するのに、わざわざ
慶元を経由するわけないじゃん。
少しは考えてから書き込めよ。 >>782
話が繋がらなさ過ぎて理解するのに時間がかかった。
つまり、それ、40万って寧波の江南軍の事なんだが、あなたの認識では
寧波の大軍団はほとんど「羊を飼って遊牧する草原の人」だったって説を言いたいの?
後半は意味が分からない。
こっちは東路軍の話をしてるわけで、女真や高麗人が寧波(慶元)経由したとかむしろどういうこと?
ちょっと申し訳ないけど元寇のこと知らない人が適当なこと書いてるように見える。
ウィキペディアでいいから一回流し読みしてくれ。頼むわ。 江南軍は降伏した南宋軍を指揮系統ごとまるっと転用しててそれこそほとんど蒙古人はいないと思うんだけどどうなのかしら 蒙古人が農作業具積載した船団に詰め込まれてたとか、想像するだにジゴクめいたアトモスフィアじゃのぅ…… >>783
蒙古軍四十萬は江南軍の事じゃないよ。
江南軍は兵数10万人だけど、蒙古軍は兵数40万人。
江南軍の指揮官は范文虎だけど、蒙古軍の指揮官はアラカン。
江南軍は旧南宋兵の軍だけど、蒙古軍は当然ながらモンゴル人の軍。
全てが違う。
史料からは東路軍や江南軍とは別にモンゴル軍40万がいたと考える他ない。
兵数からも指揮官からも元寇の主力は明らかに蒙古軍40万人だろ。
で、東路軍の兵数は僅か4万人。
弘安の役で動員されたモンゴル兵の10分の1に過ぎない。
元寇において女真や高麗人の参加はごくわずかで、圧倒的多数はモンゴル兵だったということ。 >>787
お前は天才だな。
お前と同じ考えに至れる学者がこの世に存在しないことが悔やまれる。 >>788
学者の言ってることってインチキじゃん。
「元史」には弘安の役でモンゴル軍40万人動員したって書いてあるんだぜ。
ところが学者連中には、「元寇はモンゴル帝国にとって重要な作戦じゃなかった」って
結論が先にあって、史料に書いてあるモンゴル兵は無視し、補助戦闘員の江南軍や
東路軍だけを見て、「モンゴル兵は少数だった」とか言ってるわけじゃん。
そりゃ主力のモンゴル軍無視してるんだから当然だろって。
でも、それは単なるプロパガンダであって、史料に基づく学問じゃないよね。 大友ハ 子共打ツレ 落行テ 方々ニコソ 頼康(よりやす)ミケレ 学者つっても棄民説みたいに極端にモンゴルに肩入れしてるのは杉山御大ぐらいじゃないか 鎌倉幕府の異国征伐計画について、遠征の準備で疲弊してる高麗に対する日本の侵略主義
だとか批判してる学者が何人もいるんだが >>789
動員されたモンゴル軍は公称40万だけど、
実際は東路4〜5万、江南10万で計15万が説として主流。
まあこれは教科書的な答えで
君はそれとは別に「モンゴル人」が40万人動員されてたっていいたいんでしょ。
(元国の版図内で徴兵に耐えられる年齢のモンゴル男性が数万人程度なのはこの際置いておく)
その40万人は元寇の時、何をやってたの?
あとモンゴル人が少数って言ってる言論増えてるけど保守派とか右派ばっかりだぞ。
逆に左の人はモンゴル人の存在感が薄くなると高麗の残虐性が存在感を増しちゃうから話題にすらしない。 とにかく来襲したモンゴル人は指揮官クラスで少数というのが定説でしょ。
馬を運ぶのが困難で騎馬戦闘はできないし。弓の射程が短いし。
片手で両手の日本刀には太刀打ちできないし。士気旺盛の武士はヘコタレナイし
40万人来ても上陸困難で各個撃破されるし。欧州のとんまな騎士とは違うんですw 常立寺の元使塚にモンゴル大使館やモンゴル相撲マンなどが参拝するけど、
まず先に侵略・虐殺した対馬・壱岐に慰霊と謝罪をすべきだよ
こちらはたかが5名の使者、かたや対馬と壱岐は数百人の民間人だからね >>794 >>795
そのモンゴル人は指揮官クラスで少数という定説は、元史に蒙古軍40万と書いてある以上
完全に間違いだったわけだ。
アラカン指揮下の蒙古軍は慶元に布陣したんだから東路軍と無関係なのは明白。
それに江南軍は海軍であり、上陸して野戦を行うことは想定していなかった。
元史卷十一 本紀第十一 十八年春正月戊戌朔条
「文虎又請馬二千給禿失忽思軍及回回砲匠。帝曰戰船安用此。皆不從」
一方、蒙古軍40万の方は当然ながら騎馬部隊だったと元史からわかる。
元史卷十一 本紀第十一 十八年春六月庚寅条
「以阿剌罕有疾,詔阿塔海統率軍馬征日本」
つまり、江南軍の任務は制海権を確保とモンゴル騎馬部隊の輸送で、このモンゴル騎馬部隊40万
こそが日本制圧の主力部隊だということ。
で、モンゴル騎馬部隊40万をどこから動員したかというと、アラカンが南宋征服で率いていた
モンゴル軍を中核に、対カイドゥのため河西地方にいたモンゴル軍を引き抜いたんだよ。
元史卷十一 本紀第十一 十八年春四月甲午条
「賜征日本河西軍等鈔」
河西地方のモンゴル軍だとチンギス・カン第2子オゴデイや第3子チャガタイの子孫だな。 元寇の史実が大陸に広まることで、元寇以来たったの一度も
外国から侵略戦争を仕掛けられなかったのは凄いと思うね。 チョンがちょっかい出してすぐ引き上げた事なら室町時代にあったけどな このスレ観てると大河ドラマの時宗観たくなってきたよ
こんど引っ越ししたらnhkオンデマンド契約して時宗観ようかな 元寇で悔いがあるとしたら対馬や壱岐を凌辱して皆殺しにしやがった東路軍の多くを生きたまま返しちまったことだな。特に弱者に対して極端に残虐な高麗人。
江南軍に関しては実は世界的に見ても立派な強兵だった南宋軍人ばかりだったのに運が悪い、間が悪い、船も悪い、挙句に果てに蒙古や高麗に見捨てられてかなり凄惨な掃討戦されててお気の毒と思った。 蒙漢軍は全員処刑されたよ
助命されたのは南宋人のみ 東路軍は船が無事だった分、掃討戦前に撤退してたのも多くて生還率が6〜7割くらい。 高麗軍は台風の後、単独で博多湾に突入して大損害を受けた。
室町時代に日本を訪れた朝鮮の使者は、筥崎の海に面した松林を案内され、
「ここが弘安の役で高麗軍の戦亡の地だ」と言われたんだと。
今津の近くに穴を掘って殺しまくった高麗兵の死体を埋めて、その供養のため
高麗寺を建てた。
その跡は現在でも福岡県糸島市高来寺の地名に残っている。 完全に後付けだけど弘安の時の掃討戦で元軍十万をそのまま捕虜として管理し
奴隷にするなり身代金をせしめていたら鎌倉幕府も、もう少し存続してたかも
まあそんな文化とノウハウも無いし
何よりいつ第3波が来襲するかもしれんのに
そんな数の敵性分子を抱えてる余裕はなかったろうけど >>806
その場合去勢するんでしょ。謝罪と賠償が・・・w 高麗兵 9960名
高麗人水夫 17029名
うち生還者 19397名
数字的にはかなり取り逃がした感はある。
原因は高麗船が頑丈なつくりで素材も強度が高い松で作られてたから(そのかわり経済性は低め)
台風でもほとんど被害が出なかったからだけどね。
元寇時代の遺物もほとんどが江南軍由来のものだったと文化庁が検証してた。 >>791
軍事史学バックナンバーの佐藤鉄太郎氏の論考は読んだけど
戦闘経過や戦争準備について後はどんなのが良質な論文なのか分からない。
政治史でも最近まで得宗政権の外交能力評価は低かったし
(執権北条氏関係はどうして三度の飯より陰謀が好き的な妄想爆発な先生が多かったのか…)
最近きちんとした論文書いてる先生も
(もっと言えば南北朝内乱みたいな国内戦争ではちゃんと軍事史的研究が反映されてるのに)
元寇とくに文永の役前後は自信がないのか戦闘経緯すっ飛ばしてるんだよね…。 えええ蒙古軍40万加えるなら54万くらいで攻めてきたの?
それをまともに上陸さえさせず勝ったとか九州武士異常たろ! >>805
江南軍が大損害受けたの知りながらそんなことするのかね?
台風前じゃまいか。 ほとんどチョンだった
ボロ紙の鎧を着て突撃していたけど、上陸戦や雨天陸戦で水を吸い込ったりしてボロボロになった 最近の高校歴史教科書では元寇の前に三別抄が執権に手紙を送って警告して連携を促したのに、外交感覚のない北条が無視したのは愚かだ
とか記述があるそうですが
その辺、歴史ifとか妙な価値判断を持ち込む教科書執筆者がいるんでしょうか?
三別抄もたいがい微妙な集団に見えますが モンゴル騎馬隊を打ち破る日本って世界一の強さだったんだな。
納得だわ。 世界最強は日本の武士
昔から日本人様は強かったんだな。 >>814
敵になるかどうか分からんモンゴルに、こちらから喧嘩売る(三別抄援助)のは妥当かどうか。
ということは考えてないようなので、ダメな記述じゃないかな。 最近の研究では、神風は後代の脚色みたいなものであり
実際には武士団が元軍を圧倒していたように言われているが
まあ、相手は長い船旅で疲れているし
鎌倉武士団の方が地の利もあるし、有利だったのだろうが
そもそも元軍より日本軍の方が数でも勝っていたしな 重い矢を正確に打ち出す和弓。矢を回転させて精度を上げてる。
モンゴルの矢はただの木の棒。日本は中空の矯正した竹
両手使いの日本刀。負けるはずねえよw >>819
最近の研究www
お前の悔しい脳内の研究だろ? 長旅で疲れて負けました
とか遠征や侵略で負けました
とか攻める側がどの口で言うんか?
北畠顕家の爪の垢でも煎じて飲めや 情報がないですが高麗兵は対馬で
あんなことやこんなことしたんでしょうか?
女性にです >>819
地の利で有利な民朝鮮軍が船旅で疲れてるはずの日本の武士から
ホームでボコボコにやられたのはなぜ? 唐津の鑑山の上からでも晴れたら半島が見える位近くて
間に壱岐対馬まであるのに船旅の疲れ??あの距離で??
民間じゃさんざん交易やってんのに大陸の兵隊だけは疲れるんかねえ。
なら早く上陸すればよかっただけなのになぜできなかったんだろww >>827
長く天下太平で文治をやってた国に、長年親兄弟で騙しあい殺し合いをやってた修羅の国から蛮族が攻めてきたから >>830
それこそ倭寇やら女真に度々侵入されてる上に
三浦の乱みたいな前例もあるから言い訳にはならんな >>830
暗黒大陸の弱小ポケモン民族は悲惨な歴史よのう 尚州の戦いで迎撃した朝鮮軍は
北胡を撃退したエリート部隊だったと聞くけどな 九州勢だけで史上最強最大の元の大船団やっつけたんだから
日本人最強じゃん。 >>812 >>813
最近のチョンはどうもごまかしがきかなくなって
自分でチョンチョン言いながらでたらめ言って日本人様の最強さをなんとかごまかそうとするのな。 高麗兵殺さず去勢して奴隷として恩賞にすればよかった。
モンゴル指揮官の妻は公衆トイレw 劉復亨みたいな大将軍まで負傷とか、、
どんだけモンゴル武士と比べて弱かったんだよww >>814
手紙を送って警告して連携を促したって
これ単に日本に助けてくれって言ってるだけちゃうんか。
日本からしたら特に大した戦力にもならんし
援軍送ってわざわざ元と開戦する必要ないわな。 >>838
後の明朝の日本乞帥と同じ結論にしかならん
大量の人口の捨て場所と養蚕技能職工の刈り取り先になる可能性程度しか日本側にメリット無い以上、受ける可能性はほぼ皆無 >>797
>それに江南軍は海軍であり、上陸して野戦を行うことは想定していなかった。
>「文虎又請馬二千給禿失忽思軍及回回砲匠。帝曰戰船安用此。皆不從」
回回砲はテコの原理で石弾を飛ばす攻城兵器で、飛ばす動力は人力だ。
これを持って行った目的は、船から撃って海岸の防塁を破壊することだろう。
で、クビライは回回砲の動力は人力だと知っているから、馬二千頭の要求に対しては
「戦船安(いずくんぞ)此れ(馬)を用いん」ととぼけた。だから皆は不服だった。
では、文虎は馬二千頭を何に使うつもりだったのか。
恐らく、防塁を破壊して上陸を果たした後、回回砲を陸上げして、内陸まで運んで
行って、今度は水城の破壊に使うつもりだったのだろう。
馬二千頭は、回回砲を水城の近くまで牽いて行くために必要だったのだ。
江南軍は海軍だったなんてとんでもない。 高麗兵って我らこそ第一の臣下だと偉そうにしてたくせに
日本が南宋兵だけは助けてやるって流したら簡単に裏切って
南宋兵のカッコして続々登降してきたんだってな。 卑劣なジャップはいつになったら日本征伐における朝鮮捕虜虐殺を謝罪するんだ?
1000年前から戦犯気質のジャップ猿 モンゴルも満州族も陸地からすぐ目の前の小さな島を攻め落とすのにも大苦戦してる
とにかく騎馬民族というのは船を使う戦がからっきし駄目なもの
満州族なんてたった400mを何年かけても何度攻めても渡ることが出来ずに
李朝に対して必死に江華島からソウルに戻ってくるよう要求し続けた 外征師団型の機械化歩兵師団を一個師団程度敵国に着上陸侵攻させる為には、
どれくらいの揚陸艦や機動揚陸プラットフォームが必要になるのか?
現在の中国やアメリカは、一般的な主権国家を上回る量の揚陸艦を保有しているが、
一度にどれぐらいの揚陸部隊を敵前着上陸させる事が可能なんだろう? >>814
そもそも、その歴史if自体成立していない。
三別抄は1271年4月までモンゴル相手に降伏条件を巡って交渉中だった。
三別抄が日本に手紙を送ったと考えられるのは、そのモンゴルとの交渉決裂後。
ところが翌5月にはモンゴルの攻撃で三別抄の拠点の珍島は陥落し、擁立した高麗の王族も
処刑されてしまう。
つまり日本側には三別抄から手紙を受け取ってから救援のための軍を動員して送るなんて
時間的に不可能なんだよ。
その後、三別抄の残党が済州島に拠ってテロ活動を続けるけど、あくまで残党であって
朝廷や幕府の外交の対象になるような相手じゃないし。
愚かなのは北条じゃなくて、当時の状況無視したデタラメを教科書に書いてる連中。 昔は情報が外部に伝わらないから農耕民は騎馬軍団には野戦ではまともに歯が立たないし
騎馬民族は船を使う戦は全くできなかったというそれだけの話
二回目の元寇の意味不明な集団自殺のような動きは水軍の知識がないモンゴルの将校が
余程アホな命令を出したんだろうな、末端の兵士は巻き添えで悲惨 日本は江戸時代までは国中が沼に葦原に、ろくに整備されてない河川にで
騎馬軍団や歩兵の大軍が展開して集団戦するには非常に不向きだった
その手の地形だと
小ユニットで柔軟に動き回る武士団(鉄の結束を持つ一族郎党)の方が有利
騎馬民族や中国の歩兵部隊が、集団戦で鎌倉武士団を一方的にボコるのは事実上無理 騎馬民族のモンゴルは山間地や水上での戦いのノウハウを持っていなかったため
降った漢人を登用することで南宋の征服を時間をかけて進めていった
第二次日本遠征は降伏した南宋兵の処分とこの南宋攻略に活躍した漢人兵の活用という2つの意味があった
南宋兵主体の江南軍が総大将急死のグダグダでほぼ戦わないまま終わったのが元の最大の誤算 238 ニューノーマルの名無しさん 2021/06/22(火) 00:01:47.91 ID:6xvQban/0
対馬を蹂躙し一騎打ちや鉄砲で思い知らしてやったし
キチガイ島の土人をこれ以上かまってられんって戦略的撤退したんだろうな
262 ニューノーマルの名無しさん 2021/06/22(火) 00:15:19.41 ID:6xvQban/0
>> 250
チンコサックして吹き矢を吹いてくる土人にナパーム弾を撃ち込むくらいの威力だろう
275 ニューノーマルの名無しさん 2021/06/22(火) 00:20:54.06 ID:6xvQban/0
元寇の戦いを考えるといつも三国志の藤甲兵が思い浮かぶ
もし元軍が本気で殲滅しに来たら藤甲兵の末路と同じく
調子に乗って攻めかかった日本軍はてつはうの火薬で焼き払われていただろう
283 ニューノーマルの名無しさん 2021/06/22(火) 00:26:17.75 ID:6xvQban/0
そもそも敵船に夜襲って正面戦ではまともに勝てないからやる作戦だろうが
だから日本側の盛った資料なんか信用出来ない
たぶん日本は殺戮されまくり、頃合いを見て元軍がこれくらいで勘弁してやる的に
軍を引いたのが現実なんだと思うわ
294 ニューノーマルの名無しさん 2021/06/22(火) 00:36:51.06 ID:6xvQban/0
>> 268
こういう人って戦略的撤退で元軍が戦線が延びるよう引き込もうとしてるのもわからないんだろう
だから猪突猛進で進め進め特攻じゃーしか考えなくなる
いい例が日露戦争でアホみたく突撃を繰り返した旅順の乃木
奉天で敗退したと見せかけて補給戦が繋がる更に奥地へ
日本軍を引きずりこもうと画策したクロパトキンと天地ほど違うだろ 303 ニューノーマルの名無しさん 2021/06/22(火) 00:41:28.26 ID:6xvQban/0
>> 286
無知すぎる
半島の亀甲船の技術が後年
日本海軍の戦艦大和の注水区画に採用されたんだが
313 ニューノーマルの名無しさん 2021/06/22(火) 00:45:17.90 ID:6xvQban/0
李舜臣にボコボコにされた日本の軍船笑
326 ニューノーマルの名無しさん 2021/06/22(火) 00:51:52.59 ID:6xvQban/0
>> 318
ちゃうわ
徴用工で半島から艦船の技術者を強制的に連れて来たはいいが
肝心の日本の工員クオリティが低いから溶接とかクソだし手抜きだらけだったんだよ
いわゆる今にも繋がる日本のモノづくり〜ってやつだ笑
330 ニューノーマルの名無しさん 2021/06/22(火) 00:54:06.25 ID:6xvQban/0
>> 322
東郷兵八郎がもっとも尊敬して
日本海海戦が始まる直前にお助け下さいと祈った相手だぞ
345 ニューノーマルの名無しさん 2021/06/22(火) 00:59:53.17 ID:6xvQban/0
>> 332
いや日本こそ軍船と呼べる軍船なんてなかった
倭寇みたいな海賊風情のレベルの船しかない海軍弱小国だから
小賢しい夜襲で馬の生首を投げ込む程度しかできなかったわけだし
まともに昼間に海戦したらそんな小船はハリネズミに射矢られてた 356 ニューノーマルの名無しさん 2021/06/22(火) 01:06:59.09 ID:6xvQban/0
ちなみに織田信長の水軍の中核を担った九鬼水軍の
船体を燃えない金属で覆う鉄甲船は亀甲船のパクリな
嘘だと思うなら調べとけ
366 ニューノーマルの名無しさん 2021/06/22(火) 01:13:05.29 ID:6xvQban/0
半島の艦船技術と航海技術は日本が及ぶ所ではないよ
日本人がまだカヌーかイカダくらいのレベルの時から
日本海を渡り半島から列島にやって来てイチから10まで文化を伝えたこと思い出せ
逆に日本はそこから1000年経っても日本海を渡って半島や大陸に行くのは
賭けだくらいの糞レベルだった
371 ニューノーマルの名無しさん 2021/06/22(火) 01:16:51.97 ID:6xvQban/0
>> 349
こんな悪意のこもったひどい書き込みあまり見たことない
よほど糞な人間なんだってよくわかった
375 ニューノーマルの名無しさん 2021/06/22(火) 01:19:55.71 ID:6xvQban/0
>> 372
将軍レベルの負けは旧日本軍が人類史上で一番多く負けてるんだが
その件について? 鎌倉武士「鎧着たまま泳ぐのって普通のことだと思うんですけどこれってすごいことなんですか?」 大鎧は兜の鉢以外は大部分が革製なんで、別に泳げても可笑しな話じゃない wikipediaだとモンゴル人40万人動員したみたいだね。 モンゴルの総人口って60万人くらいしかいなかったんだけど 40万人くらいならカイドゥに対抗して中央アジアに展開してたモンゴル兵を投入すれば余裕だろ 中国も日本も双方互いに自国を過大評価、相手を過小評価しているが
中国は特にその傾向が強いな
ウィキでも単に台風で船がどうたらで日本が運良く勝っただけみたいなことしか書いていなくて、ページ内の記述も少ないし
当時残した中国や朝鮮の資料は日本でも見れるんだから当然向こうにもあるはずだし、
それに、日本の資料も手に入るだろうから、単に台風ではなく、上陸しても戦闘の末に海に押し戻されて台風で沈んだくらいはわかるはずだろうに みんな博多の武士が水城に引き上げたのは戦闘で負けたからだと勘違いしてるんだよね。
少弐景資の手勢とその他大名高家は出撃したと書いてあるから、博多に残っていたのは
日本軍の主力じゃない。
蒙古が押し寄せたのは今津早良百路原赤坂と書いてあるから、モンゴル軍は博多まで
到達していない。
水城の城門で廃れて礎しか残っていないと書かれているから、防御施設としては機能
していない。
戦闘に負けて博多から撤退した場合、山城の岩戸城とかに逃げ込むことはあっても、
水城という選択肢はないんだよ。
戦闘から蚊帳の外に取り残された武士たちが、兵粮潤屋のある水城に向かったのは
食事のためだろ。
戦闘自体は、少弐景資が敵の副将を討ち取って、日本軍勝利で終わってる。 268日本@名無史さん2021/10/23(土) 23:54:54.36
>>267
蒙古軍の数は40万人だって
『元史』巻一百二十九 列傳第十六 阿剌罕
「十八年,召拜光祿大夫、中書左丞相、行中書省事,統蒙古軍四十萬征日本」
302日本@名無史さん2021/11/13(土) 14:11:00.20
>>268
その四十万、多分Wikipediaもそれ参考にして元軍の数を計算したんだろうけど、
他の部分では十四万となってるのみると、そこだけ十四を四十と誤字ったんじゃないかなあ
304日本@名無史さん2021/11/13(土) 16:45:46.07
>>302
弘安の役に参加したモンゴル兵の人数が40万人であったことは、全く別系統の史料でも
裏付けられてる。
鄭思肖『心史』中興集 元韃攻日本敗北歌
「辛巳六月半、元賊由四明下海、大船七千隻、至七月半、抵倭口白骨山、築土城駐兵対塁。
晦日大風雨作、雹大如拳、船為大浪掀播沈壊、韃軍半没於海。船僅廻四百余隻、二十万人、
在白骨山上、無船渡帰、為倭人尽刎。」
「韃軍」とは、旧南宋軍とかじゃなくあきらかにモンゴル軍だ。
その「韃軍」は半数が海に沈み、20万人が帰還できずに殺されたとある。
つまり「韃軍」=モンゴル軍の総数は40万人。 >>304
歌で来たから歌で答えよう。
永井建子・作詞作曲の「元寇」には;
「四百余州を挙る十万余騎の敵・・』とある。
弘安の役の元軍は十万余人だったのだ。
歌だからあてにならん、と言うなよ。 そもそもwikiの記述なんて素人の偏った思想持ちが滅茶苦茶に書きなぐっただけで
デタラメ放題で全く一次資料に基づいていないんだからそれをソースに議論すること自体が無駄
自分の専門分野のwikiの記事見てみたら分るだろ、物理とか数学ですら支離滅裂なことばかり書いてあるぞ?
まして歴史分野なんてデマの塊でしかないよ >>864
弘安の役から何百年も後に日本で作られた「元寇」に史料的価値なんてあるわけないだろ。
鄭思肖の『心史』は同時代の中国人が書いた超一級史料。 許有壬撰『至正集』巻第四十五 碑志二 勅賜推誠宣力定遠佐運功臣太師開府儀同三司上桂國曹南忠宣王神道碑銘并序
「十八年、入覲賜王帯弓矢、進光禄大夫中書省左丞相、行中書省事、統帥四十餘万征日本、次明州而薨、」 文永は1日小競り合いして即逃げ
弘安は1ヶ月半上陸出来ず海に漂った挙げ句台風にあって鷹島に退避
その後范文虎は逃亡
残存兵10万人は尽く討ち取られた
壱岐島に居残ってた蒙漢軍も掃討 両陣営とも一次資料は極端に乏しくて殆どは後世の創作だからね
日本に歴史を正確に記録する文化がないのは勿論、
元もモンゴル王朝だから通常の中国王朝と違い文字の記録をあんま残してない 神風の元ネタになった八幡大菩薩愚童訓とかも書かれたの後になってからだし
しかも又聞きという有り様なのに
なぜか持て囃してる人がいる それを言ったらカルト坊主の「俺の言うことを聞けえー」ってのをソースに元寇を語る連中が 八幡大菩薩愚童訓は貴重な現地史料じゃん。
京や鎌倉に伝わる史料より価値が高いのは当然。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています