南雲忠一中将を再評価するスレ(天)
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南雲長官はもっと評価されるべき(36代目)
前スレ
[35代]南雲忠一中将を再評価するスレ(江)
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/army/1530542607/
(>>261〜飛龍はどこに居るかの章、>>569〜即時発進考察再びの章)
過去スレとテンプレはまとめwikiを参照されたし
admiralnagumo@ウィキ
http://www10.atwiki.jp/admiralnagumo
戦史検証が中心になるので、雑談は支隊スレへどうぞ
【飛越し着艦】本日の南雲部隊司令部 1AF【離着艦】
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/army/1384660511/ >>554の続き
5月30日に船団を見失ってから、丸二日も見つからない今、
という状況では、低速の船団部隊が、重巡部隊よりも先行
することは考えにくい・
おそらく船団部隊は、何かの故障等により、
予定航路より遅れている。
すなわち、重巡部隊から見れば、後方(西方)に居るはずだ
と考えて、そちらに水偵を飛ばして捜索させたのは、
不自然な考え方ではありません。 >>555の続き
それに加えて、栗田少将は船団との関係位置を
調整するため、
6月2日0325時から0630時の約3時間
”反転”している。 [第七戦隊の反転](6月2日)
第七戦隊(栗田少将)
┏━━━━━━━━━━━▲→
┏━━━━━━╋━━→━━┓
━┛ 0630時┗━━←━━┛0325時 >>557の続き
これまた、>>555と同じ理由で、
>重巡部隊から見れば、後方(西方)に居るはずだ
一定時間、現海域にとどまって、遅れている船団を待とう
という意図ですね。
栗田少将は、この2日以外にも、3日と4日にも、
同様の反転を行ったが、既述のとおり、船団は
はるか北を航行しているのだから、見つかるはずもありません。 >>558の続き
公刊戦史によれば、3日間にわたる反転は、
6月2日0325時〜0630時(約3時間)
6月3日0300時〜0530時(約2時間半)
6月4日0300時〜0600時(約3時間)
合計8時間半。
巡航速力14ノットで航行したとすれば、119浬 >>559の続き
つまり、単純計算ですが、第七戦隊がミッドウェー島
砲撃命令を受けたとき、予定よりも、約120浬も
離れた位置に居たということになります。
>命令を受けたときの位置が、近藤長官の予想より
>かなり遅れていたので、(>>504) >>560の続き
120浬と言えば、全速35ノットでも約3時間半
日の出の1時間前に、ミッドウェー沖に到達するのと、
4時間半前に着くのとでは、
作戦遂行における余裕度が、まるで変わってきますよね。 >>561の続き
公刊戦史では、この間の栗田少将の
行動について、次のように指摘している。
「栗田司令官は、船団部隊の所在を確認する処置を
とらなかった。
同隊は、水偵計12機を有し、海上の模様も不良の日
ばかりではなく、広範囲の捜索を行えば、容易に
船団部隊を発見できたことは確実である」
(『戦史叢書(43)ミッドウェー海戦』)p271 >>562の続き
水偵の場合、収容時はいったん海面に降りてから
揚収しないといけないので、その運用には、
空母艦上機以上に、天候や海面状況の影響を受けます。
実際、船団部隊の方も、
5月31日、6月1日、3日は、
「海面の状況が悪かったため、飛行警戒を行っていない」
と記録されている。 >>563の続き
第七戦隊の方でも、事情は変わりませんが、
1日には、水偵による捜索を行っています。>>553
記録だけを追っていれば、
「2日も天候は回復したのだから、水偵を出すべきだった」
と言えるでしょうが・・・ >>564の続き
空母と同じく、索敵などで飛行機を遠方に出す場合、
機位を失って、帰って来られなくなる機体が出てくる
リスクを伴うので、判断が難しいところです。
作戦開始前は、何より企図の秘匿が第一で、
電波を出して、誘導するわけにはいけませんからね。 >>565の続き
それ故に、本職は、公刊戦史の指摘に
全面的に賛同して、
「そーだ、そーだ、全部栗田が悪い!」
とは、言いたくないんですよね。 >>566の続き
とはいえ、軍人の本分は、任務遂行
上陸船団の直接護衛は、第二水雷戦隊に
任せるとしても、
護衛対象の現在地を把握していなければ、
”支援隊”の任務を果たすことはかなわない。 >>567の続き
そして、6月4日を迎えます。
この日、船団部隊は、ミッドウェー島を基地とする
敵哨戒圏内(700浬)に突入し、
実際に、PBYに発見され、B-17の空襲を受けることになる。 >>568の続き
このとき、栗田少将の第七戦隊は、
何をしていたのかというと、
「しかも栗田司令官は、4日朝、船団部隊が
敵哨戒機に発見されたとの報告により、船団の位置が判り、
自隊が大きく遅れていることを知ってからも、
船団支援に差し支えないと判断し、
その位置を回復しようとする処置をとらなかった」p271
これはさすがに、まずいんじゃ・・・ >>569の続き
どうも栗田長官には、この手の話が多くて、
この後の、三隈と最上を放置して遁走疑惑や
有名なレイテでの謎の反転など、
様々な解釈があるのは確かですが、
そういう印象をぬぐい切れない何かを持っていますよね。 >>570の続き
実はこのミッドウェーでも、出撃前に
こんな話がありました。
上陸船団の集結地はサイパンだったため、
護衛隊の第二水雷戦隊や、
支援隊の第七戦隊は、
第一段作戦の所定の任務を終え、
内地で補給整備の後、サイパンに向かうことになっていた。 >>571の続き
栗田司令官は、5月22日に呉を出港、
サイパンに向かう予定だったが、
「サイパン方面の敵潜情報により、
行き先を変更して、グアムに向かい、同港内に入泊した」(p181) >>572の続き
我が海軍では、所在部隊の中で最先任指揮官が
統制することになっていました。
サイパン集結部隊は、
上陸部隊が、第二聯合特別陸戦隊(大田實少将・海兵41期)
陸軍一木支隊
護衛隊が、 第二水雷戦隊(田中頼三少将・海兵41期)
支援隊が、 第七戦隊(栗田健男少将・海兵38期) >>573の続き
この中で、先任は栗田少将になるので、
彼が指揮すべきところ、勝手にグアムに行ってしまったため、
田中少将が代わりを務めることになった。
この件についても、攻略部隊(第二艦隊)参謀長の
白石少将は、不満を述べています。 明日は飲み会のため、お休み。
この時期の花見は、まだ肌寒いですよね。
このスレ立てを思い立ったとき、
天邪鬼の本職は、世間一般の”評判が悪い提督”を
主人公に選ぼうと考え、候補にあがったのが南雲と栗田。
牟田口という線もあったが、陸軍のことはよく分からん・・・ >>575の続き
二人を比較したとき、南雲長官の作戦指導については
筋を通して擁護できると思っていたのですが、
栗田長官の方は、自信が持てなかった。
それで、南雲スレとなったわけです。
ほんとは、南雲という名前が好きだからなんですけどね。
ナグモタスクフォース!
やり甲斐のある仕事だと思うので、
我こそはと思われる方は、「栗田長官を再評価するスレ」
に挑戦してみては
それではノシ >>570
栗田ンに関しては、これより前のバタビア沖海戦での吸った揉んだもありますねw >>562
>公刊戦史では、この間の栗田少将の行動について、次のように指摘している。
>「栗田司令官は、船団部隊の所在を確認する処置をとらなかった。
全ての人に意地悪く!
ある事象について批判を行うならば、
その責任ある当事者“全員”を平等に批判しなければ、不平等です。
『戦史叢書 ミッドウェー海戦』では栗田司令官の行動に対して批判気味ですが、
「田中船団部隊と栗田支援部隊の分離後、早期に合流を図れなかった事」
については、明らかに不平等な考察・論評である、と私は判断します。 >>578
>「田中船団部隊と栗田支援部隊の分離後、早期に合流を図れなかった事」
結論から述べますと、この事例の発生原因は
「協力部隊間の意思疏通“継続”の不適切」
であり、その各協力部隊指揮官中最大の“直接責任”があるのは、
田中二水戦司令官
と私は判断します。
(もしくは藤田類太郎少将、兵38期、第十一航空戦隊司令官) >>579の続き
>>540のとおり、船団部隊の針路決定(当初計画の針路変更をしない)を行ったのは田中司令官です。
しかしこの時、>>542のとおり田中船団部隊の視界内に栗田支援隊は確認出来なかった。
つまり、栗田司令官は田中船団部隊の行動変更について、知りようがありません。
よってこの瞬間から田中司令官は栗田司令官に対して、
船団の行動変更及び現在位置について
「“能動的に”可及的速やかに報告(通報)」
しなければならない“責務”が生じたのです。
(軍令や作戦遂行がどうこう以前に、常識の範囲内でのなすべきことかと思います。) >>580の続き
ではどのように「伝達」すべきなのか?
>>543他のとおり、“この時点”での無線封止解除はデメリットが多く現実的ではありません。
よって、田中船団部隊と“藤田航空隊”は、天候と海面状況を勘案しながら、
水偵を用いて栗田支援隊を捜索するのが現実的と考えます。 >>575
一昨年あたりに古峰氏がそれを題材に講演や記事書いているけど、それくらいあまり取り上げられない題材だからなあ
他じゃ取り上げてても精々、補給ガーのジンギスカン、聖将ムダグチーンで終わりだろうしな >>581の続き
>>562のとおり同戦史叢書は
>「栗田司令官は、船団部隊の所在を確認する処置を とらなかった。
>同隊は、水偵計12機を有し、〜
と指摘していますが、これは、
田中船団部隊とその協力を担う藤田航空隊にも全く同じことが言えます。
参考(同書P173、含む補用機)
神通 三座水偵1機
千歳 三座水偵7機、二座水偵16機
神川丸 三座水偵4機、二座水偵8機 >>583の続き
同書は>>562のとおり
>海上の模様も不良の日 ばかりではなく、広範囲の捜索を行えば、
>容易に船団部隊を発見できたことは確実である」
と述べていますが、本来「より容易に」に発見できる可能性が高いのは、
田中司令官が藤田司令官へ協力を求めて、栗田支援隊を捜索する場合です。
単純に考えても、
1.田中司令官(及び藤田司令官)は、栗田支援隊が
当初計画どおりの航路付近を行動中と推測可能。
2.両部隊の水偵合計数は36機であり、
支援隊の水偵合計数12機の三倍である
(注、水上機母艦の補用機数の内訳は不明)。
ですから。 >>577 まぁ、船団を守るために戦闘を避けるというのは
ひとつの選択肢ではありますが・・・
>>578 ご無沙汰しております。げそげそ
仰るとおりで、栗ターンが相手だと、どうしても色眼鏡で
見てしまうんですよねぇ >不平等な考察 >>585の続き
>田中二水戦司令官
そうですよね。南雲機動部隊においても、濃霧で飛龍を見失い、
無電を打って探すかでもめたことがありますが、
そういう時って、南雲司令部の判断ばかりが批評されますが、
逆に、旗艦を見失ってしまった飛龍の方は、あわてたりしなかったんだろうか
と思ったりします。
田中少将としては、船団護衛が主任務なので、
それの妨げとなるようなことは、わざわざやる必要は無い
と思っていたのかもしれません。
あるいは、敵潜情報があった海域を抜けたら、本来の航路に
戻るつもりだったとか。 >>582 まさにそれで、
本職もスレ立て以来、基本方針としているのは、
「純軍事的な視点から考察する」ところです。
どうしても政治的な話や、戦略論がからんでくると、
結局答えは出ないし、”春だしな”という輩がたくさん湧いてきますから。 >>574の続き
当スレの立場から申し上げますと、
安易な結果論や、神の視点から、批判することは好まず、
当時の前線指揮官が、知り得たことから、公平な態度で
考察していくべきではありますが、
いかんせん、南雲長官のときと違って、
栗田長官が、なぜこんな行動をとったのか、については
考察の材料が、あまり無い。 >588の続き
ほんとはあるのかもしれないが、
本職にとっては、南雲長官ほど好きな提督でもないので、
興味も無いというのが、正直なところか。
軍板の姿勢としては、ふさわしくないのかもですが、
それは後進に任せるとしましょう。
つ「栗田長官を再評価するスレ」 >>589の続き
>>560のとおり、現実問題として、栗田第七戦隊は
作戦計画よりも、120浬遅れて、ミッドウェー島へ向かうこととなり、
また、第二艦隊司令部もそれを把握していなかったため、
ミッドウェー島砲撃を命じたときにも、気付かなかったわけです。 けど日本軍人からの擁護の声は栗田のほうがけっこう多いよな。 >>591
捷号作戦のことなら命の恩人だからな。
突入していれば幾許かの戦果と引き換えに全滅は間違いなしだったから。 >>591 そうなんです。
奥宮参謀なんかも、小澤長官は酷評していますが、
栗田長官は同情的ですよね。
>>592 なるほど 祝!新元号令和
早速、単語登録しましたよ。
昨日は昼休みに入って、ヤフーを見たら、
トップが全部新元号の話題でびっくり
家に帰ってニュースを見て、号外争奪戦にびっくり
今朝は、全国紙を全て購入
官房長官も歴史上の人になりましたなぁ
当面の目標は、令和生まれの女の子と××・・・
おっと、まだ気が早いか >>590の続き
>>494の通り、第七戦隊がミッドウェー島砲撃命令を受けた
1115時は、未だ飛龍は健在ですので、妥当性を論じることが
出来ますが、
その後、14時過ぎには、頼みの飛龍が被弾して、
空母航空兵力を完全に喪失してしまった。 >>595の続き
ところが、GFの作戦継続の意思は変わらず、
水上艦艇のみの夜戦決行を企図。
作戦継続に消極的な姿勢を見せていた南雲長官から
機動部隊の指揮権を取り上げるほどだったが、 >>596の続き
結局、2355時になって、ようやく作戦中止を命令。
それに先立つ2120時に、GF機密第三〇四番電として、
「AF砲撃ヲ止メ、明朝0600、主力部隊ノ位置ニ向ヘ」
と砲撃中止命令を出した。
この間、第七戦隊は35ノットで、島へ向かって、
全速航行を続けていたのです。 >>593
レイテの反転の件はいくらでも擁護できる。
ただサマールで正規空母と誤認してたのに追撃しなかったのは栗田のミスだよな。
重巡戦隊はあと一歩のところまで接近してたけど大和は魚雷回避のため北に舵を切って
戦場から離れてしまい状況が分からず集合命令を出してしまったためにチャンスを逃した。
なのにヤキイカの位置に敵空母発見の電文を便りにこれを撃滅しようとしたって下手な言い訳するからおかしくなる。
なんで離れた位置のそれより目の前の敵空母を攻撃しないのか?ってなるわな。 >>592
>突入していれば幾許かの戦果と引き換えに全滅は間違いなしだったから。
捷号作戦の検証はまだ手をつけていないので、あくまで現時点の私見です。
通説ではサマール沖海戦後の反転時点での栗田艦隊には、
小沢機動部隊が米機動部隊からの空襲を受けている旨の電文は、到達していない、
と言われています。
つまり反転後の栗田艦隊は、
他の健在な米空母群から前日同様の激しい空襲の反復は必至で、
かつ新型戦艦他有力な米水上部隊との交戦も予想されます。
その意味では、能代や野分等の予想外に低い損害で撤退できたのは、
「たまたま運が良かっただけ」
とも言えるかと思います。 >>599
実際には小沢部隊の電報は大和に届いていたという説もあります。
受信した大和の通信員は当然ながら大和の所属する第一戦隊の司令官である宇垣少
将に届けた。
宇垣少将は電報の宛先が第二艦隊司令部(だったと思います)になってるのでこれまた
当然ながら栗田中将にも既に見ていると考え栗田中将には知らせなかったらしいです。 >>599の続き
またシブヤン海空襲で反転し進軍が遅れた栗田艦隊は、
麾下の西村部隊に対して単独レイテ突入を事実上命じる(敢えて止めない)ような電文を出しています。
「西村部隊はレイテ“東方”で本体と合流せよ」と。
この時点で作戦の要の一つだった“同時突入”は崩れさります。
小柳2F参謀長は同電文について、「一種の作文だった」と述べています。
意図や解釈は色々あるかもしれませんが、
厳しくみれば、部下の西村部隊の壊滅を放置したとも取れます。
個人的には、栗田長官は西村司令官にも反転命令を出して、
あくまで両部隊の同時突入を目指すべきだった、と考えます。 >>601の続き
これは栗田長官及び同司令部だけの責任ではありませんが、参考まで。
サマール沖海戦について栗田長官は、
「米正規空母群1個を撃破」
と戦果報告しています。
その他基地航空隊の戦果報告等も併せて、
豊田GFと大本営はレイテ決戦を続行します。
結果レイテ島では莫大な陸軍兵力を失い、
レイテ沖海戦を生き延びた二水戦等の海軍艦艇も
多号輸送作戦等で壊滅的な損害を受け、
捷号作戦は大敗します。 >>598- まぁ、レイテの話は日をあらためて・・・ >>597の続き
近藤長官は、栗田司令官より、第七戦隊の艦位に関する
報告を受けており、予定より遅れていることも把握していた。
そのため、同戦隊に対し砲撃命令を下令したものの、
1200時にGF司令部に対して、次のような状況報告を行っている。 >>604の続き
「聯合艦隊電令作156号ニ関シ、
当部隊第358番電ノ通リ、発令セラレタル処、
ミッドウェー到着ノ最モ早キ支援隊ノ1030ノ位置ハ、
ミッドウェーの255度・410浬ニシテ、
黎明直前同地ニ到着シ得ル状況ナリ、念ノ為」 >>605の続き
(註)
「聯合艦隊電令作156号」とは、1010時に、
GFが攻略部隊に出した、以下の命令。
「今夜AF陸上航空基地ヲ砲撃破壊スベシ」
「第358番電」とは、上記の156号を受けて
攻略部隊から第七戦隊に対し、ミッドウェー島砲撃命令
を打電した電文と思われます。 >606の続き
>>605の最後の一行は、意訳すると・・・
「第七戦隊が、ミッドウェー沖に到着するのは
夜明け前だから、そこから砲撃を始めてたら、
すぐに、ミッドウェー基地の敵飛行機が飛び始めて、
離脱が間に合わなくなりますよ」 >>607の続き
公刊戦史の解説にもあるとおり、
砲撃中止をうながしたものでした。
しかし、これに対して、GFは何ら回答をしていない。
近藤長官以下、第二艦隊司令部の誰もが、
砲撃任務の困難さを理解していましたが、
「GFの命令だから従わざるを得なかった」(p467) >>608の続き
第七戦隊としても事情は同じで、
個人の考えとして、疑問を抱いていたとしても、
軍人にとって、命令は、
「上官の命を承ること、實は直に朕か命を承る義なり」
と心得なければなりません。
旗艦であった熊野の鈴木正金首席参謀などは、
「聯合艦隊は空母を喪失して、血迷ったな」
と漏らしていたとか。 なおさらアホ南雲が「攻撃機の半数を雷装して待機しろ」という命令を
ないがしろにしたことが際立つよなw >>610 攻撃隊の編制にまで口を出すGF司令部が異常
ってわけですな。 >>609の続き
とにもかくにも、問題解決の唯一の策は、
一刻も早く、ミッドウェー沖に到達して、砲撃を実施し、
さっさと避退することですね。
第七戦隊司令部が、どの程度戦況を把握していたかは
分かりませんが、第一機動部隊のミッドウェー島空襲により、
敵基地航空兵力は、ある程度損耗しているはず。 >>612の続き
また、敵空母部隊が出てくるとやっかいですが、
一般に空母艦載機の行動半径は狭く、
飛龍が健在である以上、島の西側まで進出してくる
ことは、あまり考えられません。
状況によりけりですが、
案外うまく離脱できるかもしれないですね。 >>613の続き
というわけで、最大戦速35ノットで急進撃を開始した
第七戦隊。
もともと、護衛として第八駆逐隊の2隻(朝潮・荒潮)が
随伴していましたが、付いていくことが出来なくなって、
途中で落伍していきました。 >>614の続き
朝潮型駆逐艦もまた、最大戦速は35ノットですが、
全速航行をすれば、あっという間に燃料が尽きてしまうので、
仕方ないでしょう。
こうして、最上型重巡4隻のみで、
一路ミッドウェー島を目指すことになった。 >>615の続き
栗田少将は、後のガダルカナル島をめぐる戦闘において、
戦艦金剛・榛名の2隻を率いて、ヘンダーソン飛行場砲撃を
成功させています。
そのときは、ガ島沖を一往復して、計900発余りを
叩きこんだのですが、 >>616の続き
今回のミッドウェー島砲撃計画について、
公刊戦史の記載によると、
「各艦500発、射撃距離1万メートル(10km)、一往復」
だったようです。 >>617の続き
500発というと多いように聞こえますが、
最上型重巡は、20.3センチ砲を10門搭載しているので、
1門につき50発、すなわち50斉射
射撃間隔は約30秒なので、ざっと30分で終了する計算です。 >>618の続き
旗艦熊野の艦長だった田中菊松大佐の回想によると、
同大佐は鉄砲屋の専門家だったので、栗田司令官に対し、
「距離8千メートルまで接近して、射撃効果を上げるように
進言したところ、
栗田司令官は、
「ぐずぐずしていると夜明けとなり、敵飛行機の反撃を受けるから
砲撃は一航過で行い、全速で避退する」
と却下されたとか。
妥当な判断ではないかと。 >>619の続き
史実では実現しなかったものの、
実際に、ミッドウェー島砲撃を実施したとして、
どれほどの効果が期待できるのでしょうか。
離脱云々は抜きにして、
純粋に砲撃の効果のみに、話を限定します。 >>620の続き
一番の懸念は、精度の良い射撃諸元を
得られるのか、というところで、
艦砲射撃は、間接照準となるので、
なんらかの”目印”を観測することにより、
目標までの距離を知る必要がある。 >>621の続き
金剛・榛名のガ島砲撃時は、現地の友軍が
エスペラント岬に灯火をかかげて、それを
観測して、射撃諸元を算出したと言われます。
そして、試射→弾着観測→修正→本射が
通常の流れとなるのですが、 >>622の続き
これまたガ島砲撃時には、戦艦大和の
砲台長だった中馬静男少佐を事前に派遣し、
オースチン山で観測機器を設置して
待機させていました。
ミッドウェー島の場合、このような支援は
望めませんから、水偵による弾着観測くらいしか
出来ないと思いますが、果たして・・・ >>619
一万メートルと八千メートルなんて時間ロスの観点では誤差レベルやん。
時間を問題にするなら発射弾数を減らす方が健全に思える。 >>624 まぁ、沿岸砲の射程とかもありますしねぇ >>623の続き
史実の経過に戻りますと、
日没後の1800時、第二艦隊より以下の電文
「ミッドウェーノ砲撃ハ、航空基地施設ヲ
徹底的ニ破壊シ、飛行場ノ使用ヲ不可能
ナラシムルヲ目的トシ、実施セシメラルル内意ナリ」 >>626の続き
内意とは、内々の意向、
すなわちGF司令部の意向を代弁した内容ということです。
先に(>>605)、暗に砲撃中止を促した第二艦隊からの
進言は、全く聞き入れられなかったことを意味する。 >>627の続き
さらに、伊168潜にもミッドウェー島砲撃命令が出ており、
混乱を避けるため、23時までが伊号潜、23時以降が第七戦隊と、
時間配分まで決められてしまった。
仮に、早めに到着しても、砲撃を始めることができず、
それだけ離脱も遅れることになります。 >>628の続き
この電文が1800時と言いますから、
飛龍の被弾(14時過ぎ)から、相当時間が経過しており、
第一機動部隊の壊滅が明らかになった後でも、
GF司令部は、なおミッドウェー島攻略を断念する気は、
毛頭なかったということになります。 >>629の続き
それは、「(ミッドウェー基地の)飛行場ノ使用ヲ不可能」
にすること、という命令にも表れていますね。
作戦目的(テンプレ>>1)にも明らかなように、
本来なら、「ミッドウェー基地の敵航空兵力無力化」は、
空母部隊の任務であって、
支援隊(第七戦隊)、しかも航空支援を受けられない
単独の重巡4隻に負わせるには、
荷が重すぎると言えます。 >>630の続き
「徹底的に破壊」するためには、
正確な弾着観測が欠かせないし、
飛行機による戦果確認も必要になる。
とても栗田少将の心配している、
>砲撃は一航過で行い、全速で避退する(>>619)
では、間に合わないですよね。 >>631の続き
史実とは異なり、攻略作戦が中止とならずに、
ミッドウェー島砲撃を実施していたら、
第七戦隊はどうなっていたのか・・・
別の視点から考えてみると、
もし砲撃命令が他の部隊に届いていたとしたら、 >>632の続き
攻略船団が避退した後、手空きとなった第七戦隊は
本隊と合同して、夜戦参加になるはず。
ここでも使い勝手の良い最上型重巡は、
その最前線に投入されることになるでしょう。
そうなったら、米空母攻撃隊に補足されて
もっとひどい結果になっていたかもしれない。 >>633の続き
興味ある話題ではありますが、
今は先に話を進めます。
日没後、敵情は入らず、
夜戦成立の見込みが薄くなった段階で、
山本長官は夜戦断念を決断し、
2120時には、ミッドウェー島砲撃中止命令を下した。 >>634の続き
現地時間では、6月5日の0120時
日の出まで、あと4時間といったところです。
栗ターンの運命やいかに >>635の続き
この命令を受領した第七戦隊は、
2145時に反転、針路300度(北西)に転じ、
速力は、それまでの全速35ノットから28ノットまで落した。
反転した位置は、ミッドウェー島の方位255度(西南西)
距離50浬で、
あと1時間半もあれば、ミッドウェー島沖に到達するところ
まで来ていた。 >>636の続き
反転時に、一部の参謀の中には、
「ここまで来ながら!」と憤慨する者もあったが、
おおむね、やれやれといった空気だったようです。
仮に砲撃を実施していたとしたら、
23時から30分間砲撃し、全速離脱したとしても、
日の出(0152時)時点で、島から90浬がせいぜい。
簡単に見つけられてしまいそうだ。 >>637の続き
史実は言うと、反転後1時間45分経過した後に
衝突を起こしていますが、速力を落していた関係で、
島からの距離は約100浬で、夜明けを迎えています。
あまり変わりませんね。 >>638
そんなに近い位置で衝突して行動不能になったのか? >>639 そうですね。飛行機にとって100浬は
30分で行ける距離ですからね。 >>638の続き
さて、問題の衝突事故ですが、
離脱を開始した後、第七戦隊は、
熊野、鈴谷、三隈、最上の順で単縦陣
各艦の間隔は800メートル。 >>641の続き
時刻は2318時、現地時間では0318時で、
夜明けまであと2時間半ほど、
当日の月齢は21で、月が出るのは真夜中の零時過ぎ。
雲がかかっていなければ、月明かりが海面を
照らしており、視界は良かったのかもしれません。 >>642の続き
先頭の旗艦熊野の見張が、
「右45度、距離5千メートル」に、
敵浮上潜水艦1隻を発見。
潜望鏡ではなく、船体そのものを発見し、
日本側の記録によれば、
敵潜水艦は乗員がまだ艦上に出ている状態で、
あわてて潜航に移るところだったとか。 >>643の続き
この潜水艦こそ、米潜タンバー(SS−198)。
まさか、多聞丸と加来艦長のように、
艦上に出て、月見酒を楽しんでいたわけでは
ないと思いますが、 >>644の続き
ノーチラスのところで紹介したとおり、>>213
ミッドウェー近海には、12隻の潜水艦が散開配置
されており、
>タンバー(マーフィー少佐)は、方位240度〜260度、
>島からの距離60〜150浬の南西哨区を担当し、
反転した第七戦隊の重巡4隻が、
ちょうど、その哨戒海域に入って来たということになる。 >>645の続き
ただし、公刊戦史の付図によると、三隈と最上の衝突位置は、
ミッドウェー島の280度(西北西)、約100浬で、
どちらかといえば、隣の哨区担当の
トラウト(フェンノ少佐)の海域となりますが、
日本空母炎上などの報告が入って、
米潜水艦の多くも、北上して、現場掃討に向かっていた
のかもしれません。 >>646の続き
米側の記録によると、
「ミッドウェー島哨戒隊のアメリカ潜水艦3隻は、
他の僚艦が日本航空母艦を追跡して、北進した際に
ミッドウェー環礁の西方配備点に残されていたが、
これは幸運なことであった」
(『モリソン戦史』第三巻)p334
タンバーを含む3隻は、本来の哨区に残されていた
ようですが・・・ >>647の続き
当時、月明かりのため、視界は良好だったと思われ、
現地時間6月5日の0215時
(日本時間5日2315時)に、
”敵らしき艦船多数”を、距離5千メートルで発見、
これを司令部に報告している。 >>648の続き
日本側の記録(2318時)>>642
と比較すると、わずかに米潜水艦の方が
発見が早かったようです。
その後、日本側の第七戦隊は急速回頭を行い、
衝突事故へと発展するのですが、 >>649の続き
タンバーの方は、
「目標の追尾を開始したが、0300時(日本時間6日零時)
には視界から消えたため、断念した」
とありますから、
タンバー自身は、衝突の瞬間を目撃しておらず、
時間をおいて、夜が明けてから、敵重巡の損傷を
確認することになります。 >>650の続き
後出しジャンケンになりますが、
第七戦隊は回避運動の必要はなかったのです。
(なんてな)
せめて、駆逐艦が随伴していればなぁ
とも思ったりしますが、
敵の潜水艦を発見したならば、緊急回頭というのは
当然の決断と言えるでしょう。 >>651の続き
さて、原則として操艦を預かるのは、
艦長もしくは航海長の所管となりますが、
(間違っても、艦隊司令長官の仕事ではない!)
それでは、艦長が24時間艦橋から離れられない
ことになってしまうので、
通常は、士官が交代で担当することになります。 >>652の続き
見張が敵潜水艦を発見したのは、夜中の2時半ですから、
栗田司令官や、熊野艦長の田中菊松大佐は
仮眠をとっていたのではないかと思われます。
そして、当直将校として艦橋に居たのは、
砲術参謀の岡本功少佐でした。 >>653の続き
海兵57期。
赤城の戦闘機隊長だった板谷茂少佐や、
一航艦航空参謀乙だった吉岡忠一少佐と同期で、
詳しい経歴は分かりませんが、
第七戦隊に着任したのが、一ヶ月前なので、
操艦などは慣れていなかった可能性もあります。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています