【警告】里見が編入すると思ってる奴へ
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おめでとうございました☆
中継を見ていて危ないのかな?と思っていて、それを勝ちに持って行かれたのを見て元気をもらいました。
Posted by at 2014年08月03日 23:44 中国将棋名人戦も防衛されたんですね。
おめでとうございます!
3日連続の対局、ホントにお疲れ様でした。
Posted by 高田 at 2014年08月04日 00:21 前のコメントを読んだら、応援する会はカンパ(応援基金?)もアリなんですね?
振込方法なんかはメールで教えてくれるのでしょうか?
僕も受験料はしょうがないと思いますが、瀬川さんのときと比べるとなんだかなあという気がしています。
ここで聞くことじゃないかも知れないけど朝日杯の賞金は、アマももらえるのかどうかも気になります。
Posted by おうよりひしゃ at 2014年08月04日 09:33 おうよりひしゃさま
はい、会へのお問い合わせはメールでどうぞ。
申し訳ありませんが、朝日杯の賞金についてはわかりません。どうなんでしょうね?
Posted by 応援団長 at 2014年08月04日 12:09 朝日オープン→中国名人戦と連戦お疲れ様です。
いや、ただただ強いの一言です。
Posted by 歩パパ at 2014年08月05日 00:48 お待たせしました。
今回から今泉さんインタビューによる「人生ファイル」を断続的に連載します。
ご本人によるエッセイも来週以降、随時お書きいただきますのでご期待ください。
まずは「揺籃篇」のスタートです。 ●顔晴る
本篇の前に軽くウォーミング・アップ。――「がんばる」を「顔晴る」と書かれますね?
「頑張る、ってなんか重いです。顔晴るって書くのは、笑顔で楽しんだほうがいい結果が出やすいからなんですよ。
ま、人の受け売りなんですけどね(笑)。もちろん人には『頑張れ』って言いますけど、自分ではちょっとなあと思います」 ●出生地
「みんな広島いうけど、生まれたのは愛知県豊橋市です。6歳までが豊橋。
次は岡山市に小3の終わりまで。そこから広島の福山に引っ越したんです。親の仕事の都合ですね」 ●家族
「両親と3歳上の姉、5歳離れた妹の5人家族でした」 ●名前の由来
「文字通り健康に生きてほしいという願いをこめたみたいですね」 ●やんちゃ坊主
「2歳のころに一人で三輪車に乗って、スーパーに行ったことがあったみたいですよ。まだおむつしていたやろし、
ワンワン泣いてたんでスーパーの人がびっくりしたとか。とにかくやんちゃやったみたいでねえ」 ●小学校
「岡山では吉備小学校、福山では西深津小学校に通いました。印象に残っているのは小2のときの先生。
やさしくてね、進んで生徒といっしょに遊んでくれるいい先生でした」 ●苦手な科目
「あまり苦手というのはなかったけど、あえていうなら理科とか算数かな。とにかく本を読むのが好きやったんですよ」 ●ベートーベン
「特によく読んだのは伝記シリーズ。ヘンな話、偉人たちの享年とかよう覚えてました(笑)。
バッハ、シューベルト、ベートーベンなど、音楽家は変わった人生を送ってますね。
いまの自分もそうとう変わってるけど、なんか暗示してるんかな(笑)」 ●習い事
「習字と水泳をやってました。指の骨にひびが入ってるのに気づかず泳いでたことがあって、
あとで病院で調べてもらって驚いたことがあります。集中力があったのか、単に鈍感だったのか(笑)」 ●遊び
「夏休みにはプールに行ったり、ふつうでした。野球のまねごととかね。あとは一輪車とか竹馬。
大人数で遊ぶのが好きやなくて、いつも2〜3人で遊んでました。とにかくおとなしい子どもやったんです。
運動会なんかも燃えなかったしね。あれ、暗いな(笑)」 将棋
女流王位、渡部愛が初タイトル獲得 里見破り
毎日新聞2018年6月13日 19時23分(最終更新 6月13日 21時54分)
ttps://mainichi.jp/articles/20180614/k00/00m/040/059000c
第29期女流王位戦五番勝負(新聞三社連合主催)の第4局は13日、徳島市で行われ、
挑戦者の渡部愛女流二段(24)が里見香奈女流王位(26)に139手で勝ち、
3勝1敗で初の女流タイトルとなる女流王位を獲得した。
規定により女流三段へ昇段。
渡部は北海道出身で、2013年に女流3級。
女子将棋YAMADAチャレンジ杯優勝2回、今回が女流タイトル初挑戦だった。
16年にはNHKの将棋番組で講座の聞き手を務めた。
日本女子プロ将棋協会(LPSA)所属で、
同協会にとっては09年に女流王位を失冠した石橋幸緒さん(14年に引退)以来となる。
里見にとっては年齢規定による奨励会退会から初の女流タイトル戦だったが、失冠した。
女流王座・女流名人・女流王将・倉敷藤花の女流4冠となった。 ●ゲーム
「ボードゲームとか、三国志、信長の野望などシミュレーションゲームにはハマりました。そのころから戦略を考えるのが好きだったんでしょう」 ●手ほどき
「将棋は小2のときに父親から教わりました。内にこもりがちだったので、それを直そうと思ったらしいです。
でもこれがひどくてね(笑)、父親はアマ5〜6級だったと思うんやけど、ぜんぜん負けよらんのですよ。
ふつう子どもにはわざと負けてあげるのに、おかしいでしょ?」 ●97連敗
「あるときなんか、母が買い物に出かける直前に、ぼくが『父さん、将棋しよう』と言ったんです。
そしたら『よし、3分で負かしてやる』言うて、ほんとうに負かされた。
悔しくて大泣きしながら買い物についていった記憶があります」
「結局、父親には97連敗しました。なんでそんな細かい数字を覚えているかというと、
将棋盤の裏に結果をつけてたんですね、ペケペケペケって(笑)。
初めて勝ったときは、たしかアタマ金が打てたんですよ。たまたまうまくいったのか、父親がさすがにわざと負けてくれたのか……。
ようわかりませんが、それからはたまに勝てるようになりました」 ●ニセ矢倉
「あとで思えば、父親が教えてくれたことはめちゃくちゃでした。矢倉なんて、8八に角がいたままで、7九に玉がいる形。
それが将棋でいちばん堅い囲いだって教わったんだから(笑)」 ●福山支部
「岡山ではずっと父親と指してただけなので、強くなるはずがない(笑)。
引っ越してから福山支部の支部長、豊原一晃先生が開いていた教室に入門しました。そこで初めて基本を教わったんです。
週に1回、生徒はぼくをふくめて4人。先生にまず六枚落ちで教わり、それから子ども同士で指す。ほかの子たちはぼくより少し強かったかな」 ●中飛車と出会う
「将棋の本も教室で初めて読みました。それが河口俊彦先生の中飛車の本。タイトルも覚えてますよ。『つよくなるぼくらの将棋入門』です。
おかげで最初に覚えた戦法も中飛車でした。そこもふしぎなもんやねぇ、いまは自分が中飛車の本を出してるんやから(笑)。
▲7八金と上がった形+美濃囲いがとにかく美しいと思っていました。最初に居飛車やってたら、人生変わっていたと思います(笑)」 ●将棋大観
「当時の勉強は、将棋の本を読むことと、『将棋マガジン』の詰将棋を一生懸命解くこと。
力がついたのは木村義雄先生の『将棋大観』のおかげだと思っています」 ●入品
「豊原先生の教室に通いはじめてから、1年くらいで初段になったかな。アマ四〜五段に角落ちで勝てるようになりました。
豊原先生はスパルタではなかったけど、『天井の木目を見上げたときに将棋盤が見えるようになりなさい』と教わりました」 ●森安流
「そのころの得意戦法は振り飛車全般。当時は居飛車側は穴熊より急戦のほうが多かった。
こちらの美濃囲いのほうがだいたい堅いし、やられてイヤな戦法はなかったですね」
「自分で買った初めての本は『森安流四間飛車』。森安先生の自戦記で、金銀バラバラでも力強く指す将棋にあこがれました。
まあ、いま思えばむずかしすぎて、意味がわからんかったと思うけど(笑)」 >>287
女にタイトルを取られて編入信者、編入厨房、ゲロを吐いて死亡。 ●初恋
「小学校2〜3年生のときかな、クラスにお人形さんみたいにかわいい子がいて好きになりました。
でもね、岡山から福山に転校するときのお別れ会でもらった寄せ書きに『今泉君と遊ぶのは飽きた』って書かれまして(笑)。子どもって残酷ですわ」 ●告白されて
「4年生のとき、今度は女の子から『好き』って言ってもらえたのに、無表情でスルーしてしまった。
どうしたらいいのかわからなかったんでしょうね。付き合うたらええのに(笑)」 ●将棋大会
「初めて大会に出たのも福山に引っ越してからで、小4のとき。子ども大会でなんとか勝ち越したことだけは覚えています」 ●桐谷先生
「それからはいろんな大会にちょくちょく出るようになりましたね。
今回師匠になっていただいた桐谷広人先生にも、赤旗の大会の指導対局で教わった記憶があります。
二枚落ちで、ぼくが二歩突き切り。上手の常套手段である△6六歩の筋で負かされました」 ●ゲンかつぎ
「当時はどうやったかなあ? 今やったら、負けたときのスーツは着ないとかですけどね。
あ、扇子はアマ連がつくった升田幸三先生のものを使ってました」 ●小学生名人戦
「小学校5年生の終わりに小学生名人戦に参加しました。そのころは地区予選がなくて、みんな東京に行って自由参加という形式。
ぼくは予選は抜けたけど、本戦1回戦で竹内俊弘さんに負けました。知っている子は誰もいなかったですね」
(注:1985年3月29日、東京将棋会館で開催。優勝は野月浩貴七段、3位行方尚史八段。
ベスト32の表には他に、久保利明九段、木村一基八段、矢倉規広六段、金沢孝史五段が名を連ねている。ちなみに竹内俊弘さんは3年生ながら3位に入賞) ●ぶつかり稽古
「大会で初めて優勝することができたのは、小6のとき参加した広島子ども将棋名人戦です。
それで豊原先生が力を認めてくださり、アマ強豪の方々にご紹介いただきました。
一人目は村上幸三さん。ご自身で将棋クラブを開いてらっしゃった方です。
次に平川さん。お二人には学校が終わったあと、毎日のようにぶつかり稽古状態で教えていただきました」
「お二人ともほんとうにしぶとい受け将棋でね。こっちは子どもだから一生懸命攻めるんですけど、めったに勝てません。
たまに倉敷の岡和俊さん(現・棋道師範)にも教えていただきましたね。
みなさんには奨励会に入るまでお世話になり、ぼくの将棋の骨格を作っていただいたと感謝しています」 ●中学入学
「中学は福山市立鳳中学校。浦和レッズの森脇良太選手もそこの出身です。
とにかく中学時代は将棋漬けの日々。他の記憶がないほどのめり込んでいました」 ●プロ志向
「中1のとき中学生選抜選手権広島代表になりました。ま、全国では予選落ちしちゃったんですけどね(笑)。
それでも『広島の小中学生ではオレがいちばん強いな』と思えるようになり、自分も棋士になりたいと初めて意識しました。
それまではせいぜい谷川浩司新名人のニュースが印象に残ったことや、『将棋にはプロっているんだなあ』という程度で、
プロ棋士なんて別世界の話やと思っていたんです」
(注:1986年度中学生選抜選手権の優勝者は宮城県代表の庄司弘光さん。ベスト8に三浦弘行九段、行方尚史八段が入っている) ●関西研修会
「プロを意識しはじめたころ、雑誌で研修会の存在を知りました。親に頼んでみたらOKが出て。
広島やと自分が一番強いし、関西の強い子にもまれたいと思っていたからうれしかったね」
「研修会にはC2で入会。普通はEとかDからスタートするので、珍しかったと思います。
当時の研修会幹事は森信雄先生と本間博先生。月2回、新幹線で福山から通っていました」 ●久保少年
「当時の研修会で強かったのは、久保利明先生、矢倉規広先生、藤内忍君、上地隆蔵君、立石径君、石塚徹君など。
久保先生はやはり別格やったなあ。ぼくは7割ぐらい勝ってたから、悔しい負けとかはあまりなかったんですけど、
久保先生が別格やったことだけは今も強烈に覚えています。目標でしたね」 ●奨励会編入
「研修会は中2の夏にA2に上がって卒業。9月に奨励会へ編入しました。そう、たまたま奨励会受験組と入会がカブったんです。
だから、よく奨励会試験を受けたと勘違いされますけどね。奨励会に入りたいといったときも、親は反対しませんでした。
ぼくの自主性を尊重してくれたんですね。いま思うと、親は大変やったと思います。大会にも連れて行ってくれて。ほんとうに感謝しています」 ●師匠
「師匠は豊原先生に小林健二先生をご紹介いただきました。豊原先生は、ぼくの将棋の根幹をつくっていただいた恩人です。感謝の言葉もありません」
「小林先生にはいろんなことを教えていただきました。それが、頭からすっぽり抜け落ちてしまってるんですわ。
ぼくが未熟だったんですね。ちゃんと聞いていたら、ぼくの人生ももう少しマシやったかなと思います。
いま思えばほんとうに不肖の弟子で、申し訳ない気持ちでいっぱいです」 ●高校
「高校には行く一手だったですね。プロになる以外のことは考えてなかったから、必要ないと思ってたんです。
ここでも親はぼくの自主性を尊重してくれました。いまの自分なら『高校ぐらい行け』とアドバイスしますけど(笑)。
まあ、そのときは先のことなんてわからんし、しょうがないですけどね」 ●再び告白されて
「あとで思えばっていうこと、人生にはけっこうありますよね。
たとえば中1のとき、また女の子から告白してもらったのに、付き合わなかった。
頭の中が将棋のプロになりたいということでいっぱいになってて、ほかのことに興味がなかったんですよ。
いま思えばもったいないわぁ、付き合うたらええやん(笑)。ま、これもしょうがないですね」 これから、今泉の日常を軽い感じで書いていきます。
肩の力を抜いた内容が多くなると思いますが、
楽しんでいただければうれしいです。 私の職業は介護です。
過去も働いてきた業種は接客業ばかり。
人と接することは好きなようです。
介護という業務は初めてでしたが、
私には合っていたのでしょう。
認知症という病気をもつ方がほとんどですが、
みなさん優しい方ばかり。
時に叱咤、時に激励をしていただくなかで、
私自身、大きく気持ちが変化しました。
やはり、目上の方々はすごいです。
日々笑顔で、感謝して仕事に取り組めています。
こういう日々を送れたことで、
将棋にもいい影響がでたのだと思っております。 しかし、残念なこともあります。
私が新聞に写っている姿と、職場の私が、
同一人物には見えないとよくからかわれます(笑)。
その結果、今泉は双子で、最近お兄さん大活躍だね、
と真顔で言われてしまうことに(涙)。
まあ、違う顔をもっているってことでええか、
と一人納得しています。 この職業に就いて、
将棋にもいい影響があったことは間違いないので、
今後もしっかりやっていきたいと思っております。
今泉健司
※事務局より 朝日杯3回戦の対局が9月3日に決まりました。
ご声援をよろしくお願いいたします。 ●一人暮らし
「中学を卒業してから、大阪で一人暮らしをはじめました。
師匠の小林先生の自宅近くのアパートで、朝は師匠の家でごはんをいただき、福島の将棋会館に向かうという毎日です。
将棋以外はすべて自由。15歳の子どもにとっては夢のような環境ですよね」
「とにかく解放感にあふれててね。いま思えば未熟以外の何ものでもないんですけど、最高の環境にありながら活かしきれませんでした。
勉強もしたけど、奨励会員たち同士でよく遊んだなあ。羽目をはずしすぎですね」 ●奨励会デビュー
「初回の例会はとにかく緊張したことだけ覚えています。立石(径)君にひねりつぶされました」 ●プロフィール
「将棋世界」1987年12月号より。
「今泉健司6級 昭和48年7月3日生まれ。小林健二八段門下。中学2年。すきな学科、社会。きらいな学科、英語。
棋風は、攻め将棋、三間・四間飛車、横歩取り。趣味、なし。尊敬する棋士、小林八段。将来の希望、プロになること」 ●香落ち
「奨励会6級から上がるのに1年弱かかった。勝ったり負けたりで勝率はわるくなかったけど、香落ちに苦労したんですね。
本格的に香落ち下手をやったのは奨励会に入ってからなんです。研修会ではほとんど上手をもっていたので」 ●ヒラメ戦法
「香落ちはほとんどハンディとはいえない。上手にとっておいしい手合いだと思います。とがめるのは容易ではありません。
当時の私は相振り飛車を指さなかったので、いつも居飛車急戦で戦っていました」
「これがまあ、苦労するんですわ。とくにヒラメ戦法ね。相手は美濃囲いで堅いのに、こちらの玉はめちゃくちゃ薄い。
実戦的に上手のほうが戦いやすいんです。いま思えば、三段リーグに到達するまでは香落ちとの戦いでした」 ●秒読み
「いまはデジタルの対局時計があたりまえですが、当時はまだなくてね。
切れ負け時計を使ってて、時間が切れると手のあいた人が秒を読むことになっていたんです」
「人間が秒を読むんだから、ミスもあれば冗談みたいな話もありましてねえ。
『30秒〜』というところを、『3連勝〜』(笑)と読んだ人がいました。よっぽど自分の星勘定が気になっていたのでしょう(笑)」 ●10連敗
「5級から3級までは順調で、苦労しませんでした。はじめて挫折という経験をしたのが3級のとき。
2勝8敗でBがついてしまい、そのままさらに負けつづけた(注:Bのまま4連敗)。
たしか10連敗して、このまま降級してしまうんかなあと思った記憶があります」 ●プロの壁
「アマチュアとプロの壁は3級と2級の間にあると思うんです。3級までやったら勢いで行ける。
でも2級から有段者はちがうんですよね。何がといって、まとっている空気からしてちがいます。
初段になればプロの先生に勝つこともあるけど、3級は勝てません。
2級の壁を乗りこえると、カラい指し回し、負けにくい指し回しができるようになるんです」 ●矜持
「だから2級に上がれたのはうれしかったですね。アマチュアにはもう負けないと思った。まあ、錯覚だったのはあとでよくわかるんですが(笑)」 今回は自分の勉強方法について。
将棋の勉強方法って何が有力なんだろう?
と試行錯誤の日々ですが、
その中の一つ、詰将棋について書いてみます。 もともと、詰将棋を解いたり、つくったりするのは昔から好きでした。
創作では、『詰将棋パラダイス』という専門誌で
半期賞を受賞していることが、自慢の一つです。
最近は創作をしていませんが、夢は看寿賞作をつくること。
落ち着いたらまた、創作も再開したいと思っています。 解くほうは、毎日のトレーニングとして、浦野真彦先生のハンドブック。
3手、5手、7手を1日1000問解いています。
毎日反復することがいちばん大事と思っています。
それと、最近は長編詰将棋とにらめっこするようになりました。
解けなくてもいいので、将棋盤を睨みつづける。
アナログな勉強ですが、
そういったことが大事だなと改めて思っています。 ぼくのそんな日々を見ていた母が、最近詰将棋を始めました。
クイズ感覚で、適当に駒を動かすことを楽しんでいますが、
たまに正解に当たるととても嬉しそうにしています。
将棋を通じて、親子のコミュニケーションがあるのは幸せですね。
今後も楽しい毎日を送りたいと思っています。
今泉健司 1000問って、すごいですね。
長年の夢が叶うところが見られたらいいなぁと応援してます。
Posted by miya at 2014年08月27日 12:50 凄いです!
ところで私はいつも同じ問題なら答えを覚えてしまいますがそれでも勉強になるのでしょうか?
それとも覚えてしまうほどその本を解いてこそ意味があるのでしょうか?
Posted by nikosuke at 2016年07月26日 14:35 6局位しか勝てなかったんだから枕対局すれば良かったんだよ
いや三段に来るまで何度もしてたかも知れないけど ●やまがそば
「奨励会時代の食事といえば、連盟ちかくのやまがそば。先生や先輩方によくごちそうになりました。
アパート住まいでも自炊はまったくしなかった。洗濯はコインランドリー、部屋にはテレビなし。殺風景な青春やね(笑)」 ●スポ根マンガ
「本棚はいただいた将棋の本とマンガで埋まってました。いまでもそうですけど、スポ根とか単純なものが好きです。
『はじめの一歩』なんてよく読みましたね」「小説なら片岡義男さん。特に『スローなブギにしてくれ』は面白かったなあ。
あとは原田宗典さんのエッセイとか。いちばんハマったのは歴史物。『三国志』や『水滸伝』などにのめりこみました」 ●五千円札事件
「ああ、『将棋世界』の記事はよく覚えてますよ。いま思っても、何やっとんねん、と。当時の5000円はかなり大金ですよ」
注:『将棋世界』1990年7月号「ケンケンの奨励会散歩」より抜粋
〈今泉健司1級。(奨励会の)中でも、その根性と思い入れの強さでぬけ出てきたのが、今泉君である。
その将棋は振り飛車で序盤を悪くしては、終盤自陣に駒を入れてその厚みで粘るというもので、
最近の好調はこのパターンに磨きがかかった為であろうか。(中略)
広島から出てきたころから見れば、随分成長した彼だが、上阪して間もない頃、彼ならではの事件を起こしている。(中略)
……ある日、連盟をT君と出た彼は、金がないと嘆くT君になけなしの五千円札を自慢げにみせびらかした。
あきれたT君は先に歩き出したが、後から追っていた今泉君の真っ青な顔色に気づいた。
「五千円がない!」……不幸にもこの日は風が強く、彼の五千円札は彼も気づかぬうちに姿を消したのだった。
(中略)有名な「今泉五千円札蒸発事件」である。以後、彼は五千円札を手にすると、千円札に両替している〉 ●四間飛車
「戦法としては森安秀光先生のマネでノーマル四間飛車が多かったです。
藤井システムが登場する前は、▲6六銀や▲5六銀で居飛車穴熊に対抗していました」
「6級のときの『将棋世界』のプロフィールにあった横歩取りというのは、△4五角戦法のことです。
でもね、それしか知らなかった(笑)。横歩を取らずに▲2六飛車と引かれたらもう終わり。さすがに奨励会では使わなかったんじゃないかな」 ●対抗形
「当時の将棋では、矢倉先生と▲7六歩△3四歩▲6六歩△4四歩の出だしを指したことがあります。
お互いに振り飛車党なんやけど、相振り飛車じゃなくて対抗形をやりたい。
じゃあどっちが先に振るねん、という意地の張り合いだったんですね(笑)。
終わってみれば振ったほうが負けという記憶がありますが(笑)」 編入してもらいたい
最低編入試験は受けてもらいたい ●村山聖
「当時の勉強は主に詰将棋と実戦でした。棋譜並べはあまりやらなかったですね。
実戦は連盟にいって10秒将棋や30秒将棋を指しまくり。村山聖先生にはよく教わりました。
勝率は1割未満だったと思います。『10秒将棋は10秒考えるから強くなるんだ』と言われたのが印象に残っています」 ●記録係
「将棋の勉強といえば、記録をとるのも重要です。当時の関西でA級だったのは桐山清澄先生と谷川浩司先生。
両先生の記録となると競争率も高くて、最後はじゃんけんで奪い合いです(笑)。
中学生のときでも深夜まで順位戦の記録をとっていましたね」 ●ボウリング
「ぼくらのころの奨励会ハイキングは雨が多くて、あるときはボウリングに行った記憶があります。
そのときに叩き出したのがベストスコアの257。でも優勝できませんでした。
ボウリングはかなりやっていましたねぇ。今でもアベレージ150はあるかな」
「東西合同の奨励会旅行も楽しかったです。今思うとハチャメチャなことも多かったですが(笑)、いい思い出ですね」 ●麻雀
「なんだか遊んだ記憶ばかりになっちゃうけど、ゲーセンではテトリスが得意やったね。
仲間の家でファミスタ(ファミコンの野球ゲーム)とかもよくやったなあ」
「麻雀は明らかにやりすぎましたね。順位戦で記録取るでしょ。
そしたら0時は過ぎて終電はもうなくて、先生方や先輩方が待っているから朝まで麻雀。
次の日はそのまま塾生やるんですけど、夕方になったら朝までやったメンバーが復活するでしょ。そしたらまた麻雀という具合……」 将棋:藤井七段、里見女流4冠破る 棋聖戦予選 - 毎日新聞2018年8月24日 12時24分(最終更新 8月24日 17時54分)
ttps://mainichi.jp/articles/20180824/k00/00e/040/304000c
将棋の藤井聡太七段(16)が24日、大阪市福島区の関西将棋会館であった第90期棋聖戦1次予選で里見香奈女流王座(26)を82手で破った。
里見は女流全6タイトルのうち四つを持つ女流棋士の第一人者。
一方、史上最年少でプロ入りした藤井にとって、女流棋士との公式戦は初めてとなり、注目の一番に24社約50人の報道陣が詰めかけた。
対局室には藤井、里見の順に入り、藤井が上座を占めた。
藤井は上着を着ず、長袖シャツを腕まくりしている。里見は薄いグレーのスーツ姿。
振り駒で里見が先手番となり、里見の中飛車、藤井の居飛車で戦いが進行。
藤井は先に1時間の持ち時間を使い切り、秒読みになったが、激しい攻め合いを制した。
棋聖戦は全棋士と、一般のプロ棋士とは別制度の女流棋士2人が参加し、トーナメントで挑戦者を決める。
鋭い攻め将棋で、出身地を冠した「出雲のイナズマ」の異名を持つ里見は現在、女流王座に加え、女流名人、女流王将、倉敷藤花(とうか)の4冠。
また、今年3月まで、一般のプロ棋士を目指す奨励会三段リーグに在籍したが、規定の成績に届かず、年齢制限で退会した。
里見は予選1回戦で村田智弘六段(37)を破ってこの日の2回戦に進んだ。
対男性プロ棋士との公式戦は7勝19敗(未放映のテレビ対局を除く)となった。 ●帰郷
「1級か初段だったかな、17歳ぐらいのときに師匠の小林先生から、『広島に帰ってやり直しなさい』と言われて、実家に戻りました。
一人暮らしさせといたらあかん、と思われるくらい羽を伸ばしすぎていたんでしょう」 ●アルバイト
「広島に帰って、飲食業のバイトをはじめました。思えばそのころから人と接するのが好きだったんですね。
一生懸命やっていましたけど、上の人からしたら使いにくかったと思います。理屈が先に立つタイプで、身体が動いてなかったですから」
「広島に帰ったものの、記録や塾生で福島の会館にいることも多かったです。
ただ、連盟では将棋の勉強よりも遊び相手を探していました。
上地隆蔵君がいつか『将棋世界』に書いていたけど、当時はそういう空気だった。
研究会もあまりなかったですよ。でもさすがに二晩連続で麻雀ということはなくなりました」 ●「シェリー」
「音楽では尾崎豊や長渕剛が好きでしたね。長渕剛では『勇次』とか。
奨励会の対局前には尾崎豊の『シェリー』を聴くことが多かった。
♪いつになれば俺は這い上がれるだろう……。なんか、俺は孤独だぜ、みたいな曲を好んだような(笑)。
いつもの遊び仲間が明日は敵。闘争心をかきたてたかったのかな」 ●藤内忍
「奨励会時代、いちばん指したのは藤内忍さん。昇級昇段のペースも似ていました。
自分ではあまり意識していなかったけど、まわりからはライバル同士と見られていたみたいで。
藤内さんには『イマイズミだけには負けたくない』、まわりからは『今日の気迫はどちらが上や』なんて言われていたようです。
もしいま藤内さんと将棋を指したとしても、そういう空気に戻るような気がしますね」 ●ライバルたち
「その藤内さんとは13勝19敗。矢倉規広先生11勝8敗、立石径君11勝8敗。ここまではライバルといえる戦績ですが、
久保利明先生にはいつもボコボコにされて1勝6敗。
山本真也先生には三段リーグに参加してから分がよくなったけど、それまではダブルスコアみたいな感じで負けていました。
山本先生はいつも一歩ぼくの先にいたというイメージがあります」 第59期王位戦 Part29
http://mevius.5ch.net/test/read.cgi/bgame/1535611630/
759 名無し名人 (ワッチョイ eb87-fTNn) 2018/09/07(金) 19:31:59.86 ID:nqcGeTjO0
9月7日(金曜日)
第60期王位戦 予選 関西将棋会館 携帯中継
里見香奈 ●−○ 矢倉規広
予選6組:[{阪口-(藤原-大橋)}-{安用寺-(福崎-西川慶)}]−
[{(稲葉-豊川_9/7)-(矢倉-牧野)}-{(井上-杉本昌)-(近藤誠-<佐藤紳-遠山>)}] >>350
将棋の玉の囲いみたいな名前の棋士に負けて編入信者、
崩れ落ちて来た囲いの下敷きになって死亡。 ●昇段阻止
「当時の奨励会では相手の昇級・昇段の一番を志願することができました。ライバルの時は燃えましたね。上地君の昇級の一番は勝ったなぁ」
「矢倉先生の二段昇段の一番は途中までぼろ負けでしたが、大逆転勝ちしたんですよ。
もうあきらめていて、3四桂という何の狙いもない手を指したら矢倉先生が受けてきたおかげで、狙いができちゃった。
8筋に香車が3枚並んだめずらしい形が記憶にあります。矢倉先生とは、いまでも『3四桂、あれなんやねん』という話になる(笑)」 ●反則
「奨励会時代にやってしまったのは二手指しが1回、二歩が2回。みなさんご存じのとおり、二歩ってめっちゃいい手が多いんですね。
1回は山本先生との対局でした。4七に歩がいるのに、▲4三歩と打ったんです。
われながらほれぼれするくらいいい手で(笑)。山本先生も5分くらい固まってましたけど、ぽつりと『あ、二歩』(笑)」 ●昇級履歴A
90年4月 1級(9勝3敗)
91年7月 初段(16勝6敗)
92年5月 二段(12勝3敗)
93年10月 三段(12勝4敗)
※明日は朝日杯3回戦、今泉さんの最初の師匠である小林健二九段との対局です。
編入試験も3週間後に迫りました。一層のご声援をよろしくお願いいたします。 事務局 今泉さん、また勝った!
元師匠との公式戦というふたりにしかわからない複雑で微妙な戦い。
相入玉の真剣勝負に引きつけられた。
次も必勝!
Posted by 祈!今泉四段 at 2014年09月03日 12:56 今泉です。
9月3日の朝日杯をご観戦いただいたみなさま、
本当にありがとうございました。
結果は小林健二先生に勝ち、長沼洋先生に負け。
二次予選進出はなりませんでしたが、
朝日杯で指すことができたこの2ヵ月は、
大いに勉強になり、充実した日々でした。
対局していただいた先生方、チャンスをくださった関係者のみなさま、
応援していただいたみなさまに心より御礼申し上げます。 小林先生は私が最初に奨励会を受験したときの師匠です。
奨励会時代もたくさん将棋を教えていただきました。
それ以来となる今回の対局はとても楽しみでもありましたし、
いつもどおりの自分の力を出したいと思って臨みました。 当日は7時起床。
いつものようにパンを食べ、
福山から直接、関西将棋会館へ。
新幹線の中ではエレファントカシマシ「今宵の月のように」など聞きながら、
穏やかにすごしました。
9時半、会館着。
対局室に早めに入って待っていると、小林先生が入室されました。
うれしいことに、和服を着ていただいてのご登場です。
小林先生に本気で教えていただく機会など、めったにあるものではありません。
対局開始を待つ間も、先生の気合いをひしひしと感じました。 将棋は序盤から作戦負け。
38手目△5四飛ですでにまずくなっていました。
次の△2四角〜△3三桂からの5筋突破が受からない。
しかもここまでの消費時間は私が約30分、先生はわずか5分――。
時間でも大差がついてしまっています。
相中飛車は経験のある形なのですが、センスの差が歴然としていました。
とはいえ、作戦負けになるのはいつものことで慣れています。
腹をくくっていくしかないと開き直りました。 本譜、角を切ったのは勝負手です。
後手玉も薄いのでたいへんかなと思っていました。
入玉も見た目ほど簡単ではないですし、
実戦的には後手にも嫌味のある将棋です。
相入玉を意識したのは、こちらが▲6三香成〜▲3二成桂と
4二角を取りにいったあたりです。
実は私、奨励会やアマ大会で相入玉は経験したことがない。
ただ一度、竜王戦に出させていただいたとき、
門倉啓太先生と258手まで指したことがあるだけなんです。
もちろん持将棋のルールは知っていましたが、
勝ちを宣言できる入玉宣言法については対局後に知りました(笑)。 最後は小林先生が1点取れるかどうかの攻防。
228手目△2五銀で▲1四歩をねらってこられましたが、
235手目の▲5四龍で守りきることができました。
終局直後に「いやー、よくがんばったね」と笑顔でおっしゃっていただき、
私も「本当にありがとうございました」という気持ちでいっぱいになりました。
感想戦で具体的な手を検討するようなことはなかったです。
相入玉模様でどれが好手、悪手というものでもなく、
理屈よりも気持ちで指した将棋でしたから。
先生からいただいた今後にむけてのアドバイスも肝に銘じています。
「いまの気持ちを忘れずに。でももう少し序盤の勉強をした方がいいね」
終わって緊張感がほぐれていく間に、駒を片づけていただきました。 第12回朝日杯将棋オープン戦 Part3
http://mevius.5ch.net/test/read.cgi/bgame/1535513770/
514 名無し名人 (オッペケ Sr4b-a38m) 2018/09/28(金) 15:28:09.15 ID:MKEqyOBlr
9月28日(金曜日)
朝日杯将棋オープン戦 一次予選 関西将棋会館
中田 功 ○−● 里見香奈
豊川孝弘 ○−● 中田 功
豊川:二次予選に進出
【第12回朝日杯将棋オープン戦 一次予選 持時間各40分】
ttps://www.shogi.or.jp/match/asahi_cup/12/itizi/index.html
1組:[(宮田-瀬川)-(藤井猛-鈴木)]−[森下-(石田-井出)]
2組:村山−及川
3組:(大平-近藤誠)−(千葉-戸辺)
4組:◎高崎
5組:[(飯島-黒沢_10/4)−(郷田-伊藤沙女流_10/4)]_10/4
6組:横山−渡辺大
7組:◎千田
8組:木村−(阿部健-佐藤慎)
9組:佐藤和−(佐々木慎-佐々木大)
10組:[阿部隆-北浜]−[増田康-(松本-西尾_10/1)]
11組:西田−(川上-梶浦)
12組:◎豊川
13組:(斎藤慎-村田顕)−(都成-今泉)
14組:[畠山鎮−(長沼-平藤_10/4)]_10/4
15組:(南-澤田)−(谷川-古森)
16組:小林裕−(西川和-竹内) 結果は素直にうれしかったです。
総手数249手、1点を争う将棋になったのも印象に残りました。
次にあるかどうかわからない貴重な師弟戦を指せたのは、
神さまがくださったご縁かなとしみじみ思っています。(つづく)
今泉健司 小林健二先生との感想戦が終わったのが12時30分。
お昼は奨励会時代から通いなれた「やまがそば」に行きました。
食べたのはランチのつけそばセットです。
終局直後ですし、次の対局もあるので軽いものですませました。 いよいよ朝日杯4回戦。
14時から長沼洋先生との対局です。
長沼先生は私が奨励会に入ったときはすでに四段になっておられました。
だいぶ年齢は離れていますが、気さくな方で、私にも気軽に声をかけてくださいます。
将棋は早見え早指し。筋で指されるタイプです。 この将棋、ビッグ4に組めたあたりは珍しく作戦勝ちで、
時間も自分のほうが残していました。
うまくいっていると思っていたのですが、
106手目△5五金には▲7五角でしたね。
本譜は角を取られても指せると思ったのですが、
あとの△5四角をうっかりしていました。
このあたりから長沼先生に力を出された感じです。
それでもこちらが指しやすいかという局面でしたが、
115手目▲4五桂では▲3五歩の一手でした。
118手目△7五角と引かれては、もう勝てない将棋になっています。
相穴熊は一度差がつくと逆転しにくいんですよ。
▲3五歩は狙っていたのに、なぜか抜けてしまった。
形勢を過大評価していた部分はあったと思います。
いいと思っていたら焦る、悪いと思ったら居直る。
人間ってふしぎなものです。 本局は、今回の朝日杯のなかでいちばん理想的な展開でした。
それなのに結果が出せなかった。
それは単純に自分の弱さが原因で、強ければ勝ちきれたはずです。
投了したときはやっぱりつらかった。
たとえ相手がプロであっても、そう感じなくなったら終わりだと思います。 7月から9月にかけて、朝日杯で4局、プロの先生に教えていただきました。
対戦相手には試験第2局で対局する星野良生四段、
そして最初の師匠・小林健二先生がいらっしゃったので、
まるでプレ・テストを受けているような感じでした。
結果は3勝1敗。
自分の力を出しきれれば、互角に戦えるのかなという自信を持つことができました。 これからの課題は何といっても序盤。
毎回のように作戦負けになるのでは話になりません。
プロ編入試験までまだ時間があるので、いろいろ対策を練って本番に臨みます。
あとは精神面ですね。
長沼先生との将棋でよくなって喜びすぎるなど、まだまだ甘いと痛感しました。
技術的な部分と精神面をどうコントロールしていくか。
そもそも将棋ってそんなに勝てるゲームじゃないんですよね。
早く勝負を決めたい。
指してしまった悪手をくやむ。
気持ちの迷いがあるとろくなことになりません。
いつでも真摯に、粘り強く。
久保利明先生や元阪神タイガースの下柳剛投手のように、
「前後裁断」が大事なんかな、と思っています。
今泉健司 里見「古森?長谷部?強いよね
でもウチは負けないよ」 女流No.1が功やん流に完敗してるようでは
夢も希望もないな‥(笑) 里見が対抗形で居飛車を持ったときに
ロートルが力発揮しやすい古い形で戦ってたのが引っかかった
振ってるときと比べて序盤の指し回しに研究の深みを感じない
三段リーグ時代も同様ならプロ入りできなかったのは必然
菅井レベルでも3手目▲25歩で駒組み縛られて後手番で苦戦するんだから
三段リーガーから見れば里見レベルなら
力を発揮しづらい形が結構あって
誘導も難しくなかったのだろう
強くなりたい気持ちがまだ残っているなら
菅井みたいにオールラウンダーと言わずとも
対抗形の居飛車くらいはもっと棋理に従った研究をするべきだ
今のままではロートル・女流相手でも不要な取りこぼしがたくさん発生する
若手棋士相手でも避けられる作戦負けが多発する これが元ネタかあ
1が晒されてるの見たわw
A才能無かったからプロになれなくてひがんでる
B生まれつき社会不適合者の無職
C汚物みたいな性格だから孤独な人生
どれだ? ●三段昇段
「二段時代は勝率がよかったので、いつ上がってもおかしくないと思っていました。
12勝4敗だったんですか? 最後、誰と対局したかも覚えていません。
ただ、上がるタイミングが悪くて、三段リーグ参加まで半年待たされたのは痛かったですね」 ●成人式
「三段に上がったのは20歳になってすぐ。
三段リーグ待ちの間に成人式を迎えましたが、式には行ってないです。いま思えば、行っとけばよかった。
なんで行かなかったんやろうな。そういうのばっかりですわ。いまは禁煙していますが、昔はタバコを吸っていましたね。
酒は体質的に飲めません。ビールをコップ一杯でひっくり返ります(笑)」 ●第15回三段リーグ(5勝13敗)1994年4月〜9月
「負けすぎましたね。途中は1−7まで追い込まれてショックでした。二段まではよく勝ってましたから、余計にね。
三段リーグは別世界だと思い知らされました。子どもと大人くらいちがう。
鍛えが入っているんですよ。相手がよくなるとそのまま押し切られる、悪くなっても容易に崩れない。
粘って勝つ自分のスタイルでは勝負にならないのかなと悩みました」
「負けが込むと精神的に落ちこみますよ。そこで奮起して勉強していれば、四段になれたのかなと思うんです。
『阿修羅のスイッチ』が入ればね。プロになれたのは、そういう人なんじゃないかと思います」
「終わってみれば5勝13敗。不戦勝が一つあって降段点を免れましたけど、仲間からは『負けすぎじゃ』と非難の嵐。こたえましたね」 ●ライバル昇段
「印象に残っているのは初戦の長田博道さん、鈴木大介先生、堀口一史座先生との将棋です。
長田さんとの将棋は少しよくなったと思ったらダメになって。
同じ日の鈴木大介先生にはスーパー早指しで吹っとばされ、三段リーグの厳しさを思い知らされました。
せめてもの収穫は強豪の堀口一史座先生に勝てたこと。
自分のスタイルで指せたので、ああ、三段リーグでも通用するんかなと、自信を持てたというか、ちょっと安心できたというか」
「この期は矢倉先生が昇段しました。長年のライバルだけに悔しかったけど、直接対決で負けているので納得したと思います。
三段リーグで追いついたのはうれしかったし、勝ちたいと思ったけど、気持ちの違いではね返されました」 ●関西vs関東
「三段になって大きな変化は、関東奨励会との対局があること。
関西の奨励会員は意識していたけど、東京の人はあまり意識していなかった。普段は交流なかったからね」
「そのころの三段リーグは、初回と最終回は必ず東京遠征なんですが、私は勝率悪かったと思います。連勝した記憶がない。
なんとなくアウェー感はありました。そりゃあ関西将棋会館のほうが落ち着きますよ。まあそんなことを思うのは、自分が甘いだけなんですけど」 1995/03/02 東京「将棋会館」
先手:勝又清和三段 後手:今泉健司三段
▲7六歩△3四歩▲2六歩△4四歩▲4八銀△4二飛
▲6八王△6二王▲2五歩△3三角▲7八王△7二銀
▲5六歩△7一王▲5八金△3二銀▲9六歩△9四歩
▲6八銀△8二王▲3六歩△5二金▲5七銀△5四歩
▲6八金△1二香▲3八飛△4三銀▲4六歩△6四歩
▲4五歩△6三金▲3五歩△同 歩▲同 飛△5五歩
▲同 角△5四金▲8八角△4五金▲3八飛△5二飛
▲4七銀△3四歩打▲2八飛△5五歩打▲同 歩△同 金
▲2四歩△同 角▲2二歩打△5六歩打▲4八銀△3三桂
▲5三歩打△同 飛▲2四飛△同 歩▲4二角打△5四飛
▲3三角成△5二銀▲4六桂打△同 金▲同 銀△2六飛打
▲5五銀△5三飛▲4四馬△2九飛成▲6四銀△4三飛
▲5三歩打△4四飛▲同 角△4三銀▲3三角成△4六桂打
▲3九歩打△5八桂成▲同 金△4六桂打▲5九金△5七歩成
▲4三馬△2八竜▲5二歩成△4八と▲6一と△5九と
▲3八金打△2五竜▲5五歩打△8五金打▲6二と△6九角打
▲7七王まで97手で先手の勝ち
注:この棋譜は勝又清和六段のご許可をいただいて掲載しました。今泉さんの検討によると、最終盤で勝ちがあったかもしれないとのこと。
その手がわかった方はコメント欄にご投稿ください。お待ちしています。 藤井聡太七段を、将棋連盟から追放したい人ってどういう考えですか?
誰か箇条書きにして分かりやすく教えて頂けませんか?
個人的には、待ったをしたのは批判されて当然だと思う
しかし、将棋連盟を救う救世主だったのは間違いない
近年、数々のコンテンツが増える中で将棋を布教させる事は大変だと思う
無論、将棋は日本の誇るべき伝統文化で残るのは間違いない。規模が大きくなった(八大タイトル等)の功績は羽生さんのような英雄がいたというのも大きいと思う(無論、それだけではないが…)
将棋界を、盛り上げるにはデビューから29連勝したりスピード昇段するような若くて才能がある人が必要に思う
正直、藤井聡太七段を嫌いな人がいるのはいいとしても追放したい人って将棋嫌いなのかとすら思ってしまいます >>387
人生負けっぱなしの不幸なヤツはいつもイライラしてチヤホヤされてる人に八つ当たりするんだよ。
成人式の晴れ着に切りつけたりする事件あるだろ。あんな感じ。
キチガイにまともに取り合ったら人生の貴重な時間のムダだよ。ほっとけ。 里見に何か弱みでも握られてるのかねえ
逆ならいろいろ想像つくんだけど 第67期王座戦 Part2
http://mevius.5ch.net/test/read.cgi/bgame/1542281812/
724 名無し名人 (ワッチョイ 1a2b-65IO) 2018/11/30(金) 20:41:14.93 ID:ZdVPee1H0
この終盤力じゃ三段リーグで勝てないのも納得
726 名無し名人 (ワッチョイ 3e23-o5Pc) sage 2018/11/30(金) 20:42:15.08 ID:ERZivmUE0
下手にプロにならなくてよかったな
恥かくだけだわこれじゃ
802 名無し名人 (ワッチョイ 3b87-o5Pc) 2018/11/30(金) 21:22:08.64 ID:M8ZWLDWb0
11月30日(金曜日)
王座戦 一次予選 関西将棋会館
増田裕司 ○−● 里見香奈
一次予選ホ組決勝:平藤−増田裕 ●第17回三段リーグ(9勝9敗)1995年4月〜9月
「この期はチャンスがないまま終わってしまいました。心の弱さが出たというか、危機感がまったくない。
自分には将棋しかないんやから、将棋をしっかりやらないといけなかったのに……」 ●第18回三段リーグ(12勝6敗)1995年10月〜1996年3月
「4期目にして初めて、11−5で昇段の可能性をもって最終日を迎えました。
ラス前の日に藤内忍君に負けたのは痛かったけど、つぎの小池裕樹戦を大逆転で拾って、ついているなと思いましたね。
最終日の相手は木村一基先生、中座真先生。もちろん強敵ですが、ここを連勝すれば昇段できると意気込んで臨みました」
この期は三段リーグ史上でもまれにみるデッドヒートとなった。
16回戦までの成績は、順位が上から、堀口一史座(現七段)12−4、木村一基(現八段)10−6、中座真(現七段)11−5、
今泉健司11−5、野月浩貴(現七段)12−4、藤内忍12−4。堀口一史座は連勝し、トップで昇段している(敬称略)。 ●消費時間5分
「しかしねぇ、一局目で木村先生に吹っとばされるんです。こちらの四間飛車に急戦で、先生が使ったのはたった5分。
まさに研究通りといわんばかりの時間の使い方で、この負かされ方は手ひどいダメージになりました。
堀口先生、中座先生が勝って、昇段の可能性がなくなりましたし」
注:一局目終了時点で、堀口13−4、木村11−6、中座12−5、今泉11−6、野月12−5、藤内12−5となっていた。 ●対中座戦
「最終局は中座先生と。いつも通り全力を出そうと思っていました。米長哲学とかじゃないんですよ。
相手の星は知らなかったですし、一局の将棋、勝負としてつねに勝ちたいということです」
「結果は勝ち。でも負けた中座先生は、上位陣が総崩れ(木村、野月、藤内負け)で昇段するんですよね。
たぶんですが、廊下で他の結果を待っている中座先生に『おめでとうございます』と言ったのは、私だと思います。
それを聞いた中座先生が膝から崩れ落ちて、カメラがそれを撮りにいったのを覚えていますね(「週刊将棋」に掲載された有名な写真)。
しかし、いま思うとそれも勝負に甘いから、そんなことができたんちゃうかなと思わなくもない。
極端なことをいえば、他人のことはどうでもいいと思ってやるのが勝負ですから」 ●藤井システム
「このころ、銀冠の四間飛車に加えて、藤井システムを武器に加えました。
井上−藤井戦(平成7年12月22日、B級2組。47手で当時の藤井六段が井上六段の居飛車穴熊を粉砕した一局)のインパクトはすごかったですね。
いまと違ってデータベースはないですが、棋譜を並べ、自分で指して身につけました」 >>390
もう12月なのにフリクラ棋士に負けて編入信者、
サンタクロースのトナカイに蹴られて死亡。 ●第19回三段リーグ(9勝9敗)1996年4月〜9月
「初めて順位1位で指したのですが、特に記憶がないですね。表を見ると前半が真っ黒でひどいなあ」 ●第20回三段リーグ(10勝8敗)1996年10月〜1997年3月
「6−2から4連敗。私は午前中に負けると、つぎも負けることが多かったです。それも心の弱さなんですよねぇ」
「後輩の小林裕士先生が昇段したのは悔しかったかな。対戦成績はこちらが勝ちこしていると思うけど」 ●新制度
奨励会時代の今泉さんについては、観戦記者の上地隆蔵さんが「将棋世界」に連載した「元奨の真実」に詳しい。
達意の文章でつづられた名リポートなので、バックナンバーをお持ちの方はぜひ読み返してください。
以下、サワリの部分を何ヵ所か、上地さんの許可をいただいて引用します。
〈この新規定(注:次点2回でフリークラス編入可能)は、第20回三段リーグから適用された。つまり、過去に取った次点は含まれない。
今泉の次点回数も「1」ではなく「0」にリセットされた。しかし、彼はあまり新規定を重大に受け止めていなかったという。
「普通に昇段できる自信がありましたから。こういう制度ができるんだ、ぐらいの感覚でした」
本人の言葉はただの強気ではない。実際、今泉はライバルたちから「強い三段」と思われていた。「強い三段」とは、三段リーグでの仲間内の評価。
つまり口では言わなくても、誰が四段になれそうな三段で、誰がカモにされそうな三段かは、仲間内で格付けされているのだ。
第23回三段リーグ最終日に対戦した大平武洋は、今泉のことを「間違いなく上位にいた三段」と言った。
同じく中尾敏之も「自分よりも強いと思っていた」と振り返っている〉
〈今泉も、同じように2度次点をとった(注:第22回三段リーグ、伊奈祐介現六段が2回連続次点で昇段)。
実績は伊奈とまったく変わりない。しかし、プロにはなれなかった。この不運を、彼はこう語っている。
「それは仕方がないと思っています。制度やから。
先輩三段から『ゴネたら、通ったかもしれない』と言われたこともありました。そうかなあ、とも思ったけど……でもねえ。
というよりも、2回チャンスがあったら、どっちかモノにしておかなくてはいけないんです」〉(「将棋世界」2006年10月号「元奨の真実」) ●第21回三段リーグ(11勝7敗) 1997年4月〜9月
「16回戦で伊奈祐介先生に負けて、結果的に次点の頭ハネを食らいました。しかしね、そのときはショックだと思ってなかったんですよ。
次点ほしいと思ってなかったから。いま思うと、考えろよって話ですわ。
あとで伊奈先生は次点2回で上がったんだし、一局一局、どんなときでも粘り強くやらなかったツケがここにあります」 ●第22回三段リーグ(6勝12敗)1997年10月〜1998年3月
「24歳になってますね。このときぐらいから、年齢制限を意識しはじめました。プロになれないまま、退会になるかもしれない、と」 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています