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川端康成総合スレ2@文学板
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0101吾輩は名無しである
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2011/02/20(日) 14:04:26.17
三島が描く風景と、川端が描く風景とは根本的に違うんだ。
三島が観ている風景は、観念のなかにしかない。
それが三島のいう日本的な美なんだ。抽象的なんだよ。
だから風景に心が宿ってない。意識が棲みついているだけなんだ。
風景と心が共鳴し合っていないんだよ。言っていることがわかるかな?
その意識も西欧的なんだよ。西欧人が憧れる、観念的なイメージとしての日本の美なんだ。
あるがままに身体で感じ取った日本という風土性が描写に色濃く反映されていないんだ。
極論するとだね、三島の作品からはそんな印象が強く沸いてくるんだよ。
川端と同じことをしていても、人として持っている感性としての本質が違う。
勝ち目はない。頭がいい三島自身が、誰よりもそのことを痛感していたと思うよ。
猪瀬直樹は好きじゃないけど、三島の風景描写を銭湯の壁に描かれた
ペンキ絵のようだ、というようなことを書いていたが本質を言い当てていると思う。
結論をいうとだ、三島に川端の代筆は無理なのだよ。
すべてとは言わない。「眠れる美女」なんかなら可能性はあるかもしれない。
モノローグ的に心理の揺れだけを描くのならできる。生きてはいるが物体
としての若く瑞々しい女体を介した、己の心との遣り取りだからね。
でも川端の真骨頂は、心の揺れを日本の風景の描写のなかに重ね合わせて
内面の奥深くある本人にも気づかない深層心理を多層的に浮かび上がらせる
ところにあるんだよ。風景のなかに心が宿っているとはそういう意味だ。
自然は対象であって対象ではない。己を含み、また己のなかに自然を抱え込んでいる。
川端の描く日本の風景が美しく心に響いてくるのは、そうした理由だ。
三島の描く風景は心にではなく意識に響いてくる。一つ一つが重たく抽象的な言葉を
ものを好むのもそのためだ。装飾をほどこした美文調につながってくるのも自然なことだ。
なぜなら意識のなかにしかない観念的な風景を描いているからだ。対象としての自然は
その装飾の一部でしかないんだよ。
まあ、この辺りでやめておく。基地外だと言われてしまいそうなので(笑)。
言われても気にはしないんだが、笑わせすぎて腹の筋肉を痛めたたりして
損害賠償の請求なんてことがあると困るから……。
0102吾輩は名無しである
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2011/02/20(日) 14:31:05.11
>>101
>まあ、この辺りでやめておく。基地外だと言われてしまいそうなので(笑)。

やめるの遅すぎ。もう三行目くらいでお前はキチガイ認定されてるよw
三島の風景が抽象的であるのと同じく川端の「日本」も十分に抽象的。
現実にはどこにもない「雪国」に逃避してるだろ。
0104吾輩は名無しである
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2011/02/20(日) 15:48:37.82
三島の感性が記号的であるというのは文体改造などからも
言える。

仮面の告白だから。
0105吾輩は名無しである
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2011/02/20(日) 15:51:32.66
川端は自然主義の系譜だもんな。
0108吾輩は名無しである
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2011/02/21(月) 00:22:14.17
純文学にも大衆的なのと芸術至上主義的なものはあるだろう。
大衆的であることは芸術的には感じられないのは、芸術は
一般に美術的だからだ。

などと場当たりに分析してみるヒンツ
0109吾輩は名無しである
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2011/02/21(月) 00:50:13.43
>>101
確かに三島の背後には西欧的ブルジョア芸術が見えるね。

正に「鹿鳴館」的なるもの。或いは大正浪漫の名残か知らん。
0110吾輩は名無しである
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2011/02/21(月) 17:34:19.53
公威君は祖母に宝塚文化で育てられたのな。そういう方面の
英才教育を受けてる。
0111吾輩は名無しである
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2011/02/21(月) 19:23:44.10
>>101
大体、三島由紀夫は川端の真似なんて一つもしてない、影響もされてないしから、
三島文学と川端文学の風景描写を比べて語ること自体がナンセンス。ろくに読んでない証拠。
0112吾輩は名無しである
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2011/02/21(月) 19:30:56.09
>>101
それから、三島の描く風景や海は、あんたが言ってような「日本の美」じゃないし、
別にそういうものを主題にしてないよ。あんたや、外人が勝手に勘違いしてるだけ。
0113吾輩は名無しである
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2011/02/21(月) 19:41:02.38
>>101
三島が描く風景は具体的だよ。念入りに細かく描写してるし。そして、さらにそこに自身の観念も重ねて心を通わせてるんだよ。
三島の海の描写読んでないでしょ、あんたは。
0114吾輩は名無しである
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2011/02/21(月) 20:51:59.45
三島文学も石原チンポ小説と一緒でパフォーマンスがキツくて
客観的な評価が難しいよ。
0118吾輩は名無しである
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2011/03/04(金) 17:19:47.29
『天人五衰』冒頭に海の描写がある。一見写実的な描写だが、
じつは単なる美文にすぎない。観念の表象だ。
0119吾輩は名無しである
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2011/03/08(火) 10:19:42.21
若い頃の文学界の一座で撮った写真面白いよ。

真ん中に和服で真っ直ぐカメラを見据えている主役格の
川端は義経みたいな現代離れした風貌をしてる。

平家物語から転がり出て来たような感じ。
0120吾輩は名無しである
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2011/03/08(火) 10:48:20.39
>>118
もともと、観念、阿頼耶識のつもりで書いてるのに、何をとんちんかんなことを言ってんだか。
0124吾輩は名無しである
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2011/03/09(水) 05:14:15.08
部屋の真ん中で、
全裸で尻をおもいっきり振って白目剥いて奇声を上げ全身痙攣してオナラしたら、
うんちが全部出た。
全部だ!

畳に散らばったうんち、どうする?
0126吾輩は名無しである
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2011/03/11(金) 07:09:15.11
この人の作品はいっこうに意味がわからない。わからないけどなんとなく手を出してしまう。
まあ単純に自分の読解力っつーか読書不足なんだろうけど…。
ここの皆が川端作品を理解できるようになったきっかけってある?
0129吾輩は名無しである
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2011/03/12(土) 11:25:26.60
>>126
ドストエフスキーみたいな思想小説じゃないし、
読みたいならそれで良いんじゃねえの?
0131吾輩は名無しである
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2011/03/12(土) 21:56:11.51
恋愛小説か?
0133吾輩は名無しである
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2011/03/13(日) 16:42:07.69
今日ぼくは齋藤智裕先生の「KAGEROW」を50冊
被災地に寄付してきた。
0134吾輩は名無しである
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2011/03/14(月) 21:48:17.78
美術的文学というのはあるか知らん。
0135吾輩は名無しである
垢版 |
2011/03/14(月) 22:27:04.63
梶井基次郎や野呂邦暢がそうなのかなあ。
0136吾輩は名無しである
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2011/03/14(月) 22:37:58.84
「心の美」は感性かな?
0137吾輩は名無しである
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2011/03/14(月) 22:46:10.17
「美」をカント的に捉えるのなら感性とは言えない。
0138吾輩は名無しである
垢版 |
2011/03/22(火) 17:37:51.27
お伽噺のなかで犬が歌ひ茶碗が物語り草木や花が物を言ふやうに、芸術とは物言はぬものをして物言はしめる
腹話術に他ならぬ。この意味でまた、芸術とは比喩であるのである。物言はんとして物言ひうるものは物言はして
おけばよい。そこへ芸術は手を出すに及ばぬ。それはそもそも芸術の領分ではなく、神が掌(つかさど)る所与の
世界の相(すがた)であるから。――しかし処女は物言はぬ。一凡人の平坦な生涯は物言はぬ。そこに宿つた
平凡な幸福は物言はぬ。ありふれた幸福な夫婦生活は物言はぬ。ありふれた恋人同志は物言はぬ。要するに
類型それ自体は決して物言はない。すぐれた芸術は類型それ自体をゑがかずして、しかもその背後にはもつとも
あり来りの凡々たる類型が物言はしめられてゐることを注意すべきだ。幸福は類型的なるものの代表である。
それゆゑにこそわれわれは過去の芸術のなかに、喜劇と比べて量に於ても質に於てもはるかにすぐれた悲劇を
持つてゐる。してみればロマンティスムの象徴せんとするものは生れ生き恋し結婚し子をまうけ凡々たるノルマルな
生活それ自体に他ならないかもしれない。

三島由紀夫「川端康成論の一方法――『作品』について」より
0139吾輩は名無しである
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2011/03/22(火) 17:38:16.85
――物言はぬものをして物言はしめる意慾は、自ら物言はぬものとなつては果されぬ。物言はぬもの、それが作品の
素材である。川端康成の生活にはこの素材の部分が全く欠如してゐる。書かれる自我はない。彼の書く手の周囲、
彼の書く存在の周囲に、物言はぬもの、即ち処女や恋人同志や夫婦や、踊子たちがむらがつた。彼らはやさしい
媚びるやうな目でこの詩人的作家をみつめてゐる。彼らは処女が「自ら歌へぬ」存在であることを誰よりも切なく
知悉してゐるこの不幸な作家をみつめてゐる。その限りで、彼らはお伽噺のなかの犬や茶碗に等しい。処女たちは、
踊子たちは禽獣であつた。ここに川端康成の孤独がはじまる。自己の中に存する物言はぬもの(即ち書かれるもの)と、
外界の物言はぬものたちとの、共感や友愛やはたまた馴れ合ひや共謀やは、彼の場合はじめからありえぬことだつた。

三島由紀夫「川端康成論の一方法――『作品』について」より
0140吾輩は名無しである
垢版 |
2011/03/22(火) 17:38:58.31
(中略)
作品を読むことによつてその内容が読者の内的経験に加はるやうに、一人の女の肉体を知ることはまた一瞬の裡に
その女の生涯を夢みその女の運命を生きることでもある。作品が存在した故に作品の内容が内的体験となつて再び
生の実在に導き入れられるのではなく、生をして夢みさしめ数刻を第二の生のうちに生かしめたが為に芸術作品は
存在しはじめるのかもしれない。してみれば女が先づ在つて運命が存在しはじめるのではなく、われわれが生を
運命として感じ歌ひ描き夢みること、その行為の象徴として女が存在しはじめたのかもしれないのだ。その時
われわれが自らの自我の周囲におびただしい物言はぬ存在を――つまりはわれわれ自身の孤独の投影を――
感じることは、やがて芸術の始源を通して芸術を見、一つの決定された作品としての運命を蝕知することだ。
少くともその瞬間、われわれは川端康成と共に、自己の存在が一つの作品に他ならないことを感じるであらう。
彼の文学を知る道も、この他にはないのである。

三島由紀夫「川端康成論の一方法――『作品』について」より
0141吾輩は名無しである
垢版 |
2011/03/23(水) 02:56:14.36
どうにも理屈っぽい
0142吾輩は名無しである
垢版 |
2011/03/23(水) 03:55:50.05
> > 川端さんは震災のとき、すぐに東京市内を歩き回り、つぶさに惨状を見ている。「私程地震の後を見て回った者は
> 少ないだろう」と書いているくらいだ。…今東光氏をさそって芥川龍之介の家に見舞いにもいっている。
> 芥川氏とともに、吉原遊廓の池に、遊女の死体を見に行った。芥川氏はゆかたがけでヘルメットをかぶり、
> 熱心に見て歩いた。そのさかんな好奇心には、さすがの川端さんも驚かされたらしい…
> http://www.tokyo-kurenaidan.com/kawabata-tokyo2.htm
0143吾輩は名無しである
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2011/03/23(水) 21:15:12.40
処女も小鳥も犬も、自らは語り出さない、絶対に受身の存在の純粋さを帯びて現はれる。精神的交流によつて
エロティシズムが減退するのは、多少とも会話が交されるとき、そこには主体が出現するからである。到達不可能な
ものをたえず求めてゐるエロティシズムの論理が、対象の内面へ入つてゆくよりも、対象の肉体の肌のところで
きつぱり止まらうと意志するのは面白いことだ。真のエロティシズムにとつては、内面よりも外面のはうが、
はるかに到達不可能なものであり、謎に充ちたものである。処女膜とは、かくてエロティシズムにとつては、
もつとも神秘的な「外面」の象徴であつて、それは決して女性の内面には属さない。
川端文学においては、かくて、もつともエロティックなものは処女であり、しかも眠つてゐて、言葉を発せず、
そこに一糸まとはず横たはつてゐながら、水平線のやうに永久に到達不可能な存在である。「眠れる美女」たちは、
かういふ欲求の論理的帰結なのだ。

三島由紀夫「解説(『日本の文学38川端康成集』)」より
0144吾輩は名無しである
垢版 |
2011/04/04(月) 22:05:11.16
氏ほど秘密を持たない精神に触れたことがないと私が言つても、おそらく誇張にはなるまいと思ふ。秘密とは何か? 
一体、人間に重大な秘密なんてものがありうるのか? われわれに向つてすぐさまかう問ひかけてくるのが、
氏の精神なのである。これは破壊的な質問であるが、氏は決して論理を以て追究することはない。問ひかけただけで
相手が凍つてしまふことが確実であるとき、どうして論理が要るだらう。
氏自身はダリの画中の人物のやうに、風とほしのよい透明きはまる存在であるのに、私は氏に接してゐると、
氏が自分の外部世界のお気に入りの事物へ秘密を賦与してゆく精妙な手つきが見えるのであつた。そこで氏が
世間の目に半ば謎のやうにみえてゐる理由も判然とする。氏自身の精神には毫も秘密がないのに、氏は自ら与へた
秘密の事物に充ちた森に囲まれてゐるからだ。その森には禽獣が住んでゐる。美しい少女たちが眠つてゐる。
眠つてゐる存在が秘密であるとは、秘密は人間の外面にしかないといふ思想に拠つてゐる。その存在を揺り
起してはならない。

三島由紀夫「川端康成読本序説」より
0145吾輩は名無しである
垢版 |
2011/04/04(月) 22:05:31.67
揺り起せば、とたんに秘密は破れ、口をきく少女や口をきく禽獣は、たちまち凡庸な事物に堕するのだ。なぜなら
そこから、心が覗けてしまふからだ。そして心には美も秘密もない。川端文学が、多くの日本の近代小説家が
陥つた心理主義の羂(わな)に、つひに落ちずにすんできたのには、こんな事情がある。――これは存在に対する
軽蔑だらうか? 軽蔑から生れた愛だらうか? それとも存在に対する礼儀正しさと賢明な節度だらうか? 
そこに保たれる情熱だらうか?……この二つの見方で、川端文学に対する見方はおそらく劃然と分れる。
前者の見方を固執すれば、氏の文学は反人間主義の文学で、厭世哲学の美的な画解きのやうに思はれてくる。
また後者の見方を敷衍すれば、「川端先生の小説つて素敵だわ」と言ふ若いセンチメンタルな女性読者の、
「清潔好き」の嗜好までも含めることになる。氏の文学の読者層の広汎なことは、かういふさまざまな誤解を
ゆるすところにあるのであらう。それはそれでいいので、いささかの誤解も生まないやうな芸術は、はじめから
二流品である。

三島由紀夫「川端康成読本序説」より
0146吾輩は名無しである
垢版 |
2011/04/04(月) 22:06:17.93
私の考へでは、氏の文学の本質は、相反するかのやうにみえるこの二つの見方、二つの態度の、作品の中でだけ
可能になるやうな一致と綜合であらうと思ふ。もしわれわれが畏敬すべきものだけを美とみとめるなら、美の世界は
どんなに貧弱になるだらう。のみならず、畏敬そのものに世間の既成の価値判断がまざつてゐるならば、美の世界は
どんなに不純なものになるだらう。それならむしろ、やさしい軽蔑で接したはうが、美は素直にその裸の姿を
あらはすだらう。しかし軽蔑が破壊に結びつき、美の存在の形へづかづかと土足で踏み込むやうなことをしたら、
この語らない美は瞬時にして崩壊するだらう。われわれは美の縁(へり)のところで賢明に立ちどまること以外に、
美を保ち、それから受ける快楽を保つ方法を知らないのである。こんなことは人間の自明の宿命であるが、現実の
世界では、盲目の人間たちがたえずこの宿命を無視し、宿命からしつぺ返しを喰はされてゐる。川端氏は作品の
中でだけ、この宿命そのものを平静に描いてみせるのである。

三島由紀夫「川端康成読本序説」より
0148吾輩は名無しである
垢版 |
2011/05/17(火) 11:45:09.03
川端さん、新年おめでたうございます。
毎年一月二日には、御年賀に上つて、賑やかな賀宴の末席に連なるのが例ですが、はじめて伺つてから、今年で
もう十年になります。(中略)
それは寒い日で、大塔宮裏のお宅までは、まだバスも通じてゐなかつたころと思ひます。廿一歳の私は、いろいろ
生意気なことを口走つたとおぼえてゐますが、内心はびくびくして、無言に堪へることができなかつたのでした。
失礼なことを申しますが、川端さんが黙つたまま、私をじろじろ見られるので、身のすくむ思ひでありました。
(中略)
いつのお正月でしたか、あまり御酒を嗜(たしな)まれぬ川端さんが、子供のお客たちにまじつて、テレヴィジョン
ばかり見てゐられたのを思ひ出します。テレヴィジョンの画面には、踊り子たちが、寒中、裸の脚をそろへて
上げて、右に左に顔を向けては踊つてゐました。

三島由紀夫「正月の平常心――川端康成氏へ」より
0151吾輩は名無しである
垢版 |
2011/06/02(木) 12:55:21.74
川端さんが名文家であることは正に世評のとほりだが、川端さんがつひに文体を持たぬ小説家であるといふのは、
私の意見である。なぜなら小説家における文体とは、世界解釈の意志であり、鍵なのである。混沌と不安に対処して、
世界を整理し、区劃し、せまい造型の枠内へ持ち込んで来るためには、作家の道具とては文体しかない。
フロオベルの文体、スタンダールの文体、プルウストの文体、森鴎外の文体、小林秀雄の文体、……いくらでも
挙げられるが、文体とはさういふものである。
ところで、川端さんの傑作のやうに、完璧であつて、しかも世界解釈の意志を完全に放棄した芸術作品とは、
どういふものなのであるか? それは実に混沌をおそれない。不安をおそれない。しかしそのおそれげのなさは、
虚無の前に張られた一条の絹糸のおそれげのなさなのである。ギリシアの彫刻家が、不安と混沌をおそれて
大理石に託した造型意志とまさに対蹠的なもの、あの端正な大理石彫刻が全身で抗してゐる恐怖とまさに反対の
ものである。

三島由紀夫「永遠の旅人――川端康成氏の人と作品」より
0152吾輩は名無しである
垢版 |
2011/06/02(木) 12:56:01.16
(中略)
川端さんのかういふおそれげのなさ、自分を無力にすることによつて恐怖と不安を排除するといふ無手勝流の
生き方は、いつはじまつたのか?
思ふに、これはおそらく、孤児にひとしい生ひ立ちと、孤独な少年期と青年期の培つたものであらう。氏のやうに
極端に鋭敏な感受性を持つた少年が、その感受性のためにつまづかず傷つかずに成長するとは、ほとんど
信じられない奇蹟である。しかし文名の上りだした青年期には、氏が感受性の溌剌たる動きに自ら酔ひ、自ら
それを享楽した時代もあつたことはたしかである。氏がきらひだと言つてをられる「化粧と口笛」のやうな作品では、
氏の鮮鋭な感受性はほとんど舞踊を踊り、稀な例であるが、感性がそのまま小説中の行為のごとき作用をしてゐる。
氏の感受性はそこで一つの力になつたのだが、この力は、そのまま大きな無力感でもあるやうな力だつた。何故なら
強大な知力は世界を再構成するが、感受性は強大になればなるほど、世界の混沌を自分の裡に受容しなければ
ならなくなるからだ。これが氏の受難の形式だつた。

三島由紀夫「永遠の旅人――川端康成氏の人と作品」より
0153吾輩は名無しである
垢版 |
2011/06/02(木) 12:56:27.55
しかしそのときもし、感受性が救ひを求めて、知力にすがらうとしたらどうだらう。知力は感受性に論理と
知的法則とを与へ、感受性が論理的に追ひつめられる極限まで連れて行き、つまり作者を地獄へ連れて行くのである。
やはり川端さんがきらひだと言はれてゐる小説「禽獣」で、作者がのぞいた地獄は正にこれである。「禽獣」は氏が、
もつとも知的なものに接近した極限の作品であり、それはあたかも同じやうな契機によつて書かれた横光利一の
「機械」と近似してをり、川端さんが爾後、決然と知的なものに身を背けて身を全うしたのと反対に、横光氏は、
地獄へ、知的迷妄へと沈んでゆくのである。
このとき、川端さんのうちに、人生における確信が生れたものと思はれる。(中略)情念が情念それ自体の、
感性が感性それ自体の、官能が官能それ自体の法則を保持し、それに止まるかぎり、破滅は決して訪れないといふ
確信である。虚無の前に張られた一条の絹糸は、地獄の嵐に吹きさらされても、決して切れないといふ確信である。
これがもし大理石彫刻なら倒壊するだらうが。

三島由紀夫「永遠の旅人――川端康成氏の人と作品」より
0154吾輩は名無しである
垢版 |
2011/06/02(木) 12:57:17.68
かうして川端さんは、他人を放任する前に、自分を放任することが、人生の極意だと気づかれた。その代り
他人の世界の論理的法則が自分の中へしみ込んで来ないやうに警戒すること。しかしその外側では、他人の
世界の法則に楽々と附合つてゆくこと。……実際、快楽主義といふものは時には陰惨な外見を呈するものだが、
ワットオと共に、氏の芸術を快楽的な芸術だと云つても、それほど遠くはなからう。
(中略)
ここまで言へば、冗く言ふ必要もないことだが、川端さんが文体をもたない小説家であるといふことは氏の
宿命であり、世界解釈の意志の欠如は、おそらくただの欠如ではなくて、氏自身が積極的に放棄したものなのである。
(中略)
さういふ川端さんが、完全に孤独で、完全に懐疑的で、完全に人間を信じてゐないかといふことになると、それは
一個の暗黒伝説にすぎないことは、前にも述べたとほりである。氏の作品には実にたびたび、生命(いのち)に
対する讃仰があらはれ、巨母的小説家であつた岡本かの子に対する氏の傾倒は有名である。

三島由紀夫「永遠の旅人――川端康成氏の人と作品」より
0155吾輩は名無しである
垢版 |
2011/06/02(木) 13:02:35.68
しかし川端さんにとつての生命とは、生命イコール官能なのである。この一見人工的な作家の放つエロティシズムは、
氏の永い人気の一因でもあつたが、これについて中村真一郎氏が、私に面白い感想を語つたことがある。
「この間、川端さんの少女小説を沢山、まとめて一どきに読んだが、すごいね。すごくエロティックなんだ。
川端さんの純文学の小説より、もつと生なエロティシズムなんだ。ああいふものを子供によませていいのかね。…」
(中略)
氏のエロティシズムは、氏自身の官能の発露といふよりは、官能の本体つまり生命に対する、永遠に論理的帰結を
辿らぬ、不断の接触、あるひは接触の試みと云つたはうが近い。それが真の意味のエロティシズムなのは、対象
すなはち生命が、永遠に触れられないといふメカニズムにあり、氏が好んで処女を描くのは、処女にとどまる限り
永遠に不可触であるが、犯されたときはすでに処女ではない、といふ処女独特のメカニズムに対する興味だと
思はれる。

三島由紀夫「永遠の旅人――川端康成氏の人と作品」より
0156吾輩は名無しである
垢版 |
2011/06/02(木) 14:48:40.54
ここで私は、作家と、その描く対象との間の、――書く主体と書かれる物との間の、――永遠の関係について
論じたい誘惑にかられるが、もう紙数が尽きた。
しかし乱暴な要約を試みるなら、氏が生命を官能的なものとして讃仰する仕方には、それと反対の極の知的な
ものに対する身の背け方と、一対をなすものがあるやうに思はれる。生命は讃仰されるが、接触したが最後、
破壊的に働らくのである。そして一本の絹糸、一羽の蝶のやうな芸術作品は、知性と官能との、いづれにも
破壊されることなしに、太陽をうける月のやうに、ただその幸福な光りを浴びつつ、成立してゐるのである。
戦争がをはつたとき、氏は次のやうな意味の言葉を言はれた。「私はこれからもう、日本の悲しみ、日本の
美しさしか歌ふまい」――これは一管の笛のなげきのやうに聴かれて、私の胸を搏つた。

三島由紀夫「永遠の旅人――川端康成氏の人と作品」より
0157吾輩は名無しである
垢版 |
2011/06/08(水) 18:13:29.87
川端康成の文章は、蒲団の中で惰眠を貪るような感覚がなんとなくする。
0158吾輩は名無しである
垢版 |
2011/06/11(土) 19:41:57.15
川端康成はごく日本的な作家だと思はれてゐる。しかし本当の意味で日本的な作家などが現在ゐるわけではない
ことは、本当の意味で西洋的な作家が日本にゐないと同様である。どんなに日本的に見える作家も、明治以来の
西欧思潮の大洗礼から、完全に免れて得てゐないので、ただそのあらはれが、日本的に見えるか見えないか
といふ色合の差にすぎない。
(中略)
作家の芸術的潔癖が、直ちに文明批評につながることは、現代日本の作家の宿命でさへあるやうに思ふはれ、
(永井)荷風はもつとも忠実にこれを実行した人である。なぜなら芸術家肌の作家ほど、作品世界の調和と統一に
敏感であり、又これを裏目から支える風土の問題に敏感である。ところで現実の投影の作品世界を清掃してゆくには、
雑然たる東西混淆の日本の現実、日本の不可思議な雑種文明そのものを批評して行かなければならない。

三島由紀夫「川端康成の東洋と西洋」より
0159吾輩は名無しである
垢版 |
2011/06/11(土) 19:42:48.64
(中略)
今の東京は、よかれあしかれ、明治以来の継木文化そのままの都市的表現であつて、東京のグロテスクは、
そのまま、われわれ知識人と称するものの内面のグロテスクの反映である。これに対立するものとして、荷風の
江戸のイメーヂがあり、久保田(万太郎)氏の古い東京のイメーヂがある。共に作家の批評の果てに結実した
イメーヂであつて、現実とは断絶してゐる。たゞ荷風が「冷笑」その他の、あらはなエッセイの形でこの批評を
行つたのに対し、久保田氏は、作品だけで批評を行つたにすぎぬ。だから一見、久保田氏の作品は、批評的に
見えない。しかし舞台の上のわびしい朝顔の花一輪にも、批評が、すなはち西洋が結実してゐるのである。
悲しいことに、われわれは、西欧を批評するといふその批評の道具をさへ、西欧から教はつたのである。
西洋イコール批評と云つても差支へない。

三島由紀夫「川端康成の東洋と西洋」より
0160吾輩は名無しである
垢版 |
2011/06/11(土) 19:43:18.51
さて、日本の現実の、かかる文化的混乱状態の結果として、日本における芸術家の特異な運命がはじまる。
日本では、芸術家肌の作家ほど、極度に批評的にならねばならないのである。これは本当に困つたことで、
芸術創造の機能と批評の機能とは、本来、相反するものなのである。モオツァルトの音楽がどうして批評であらうか。
日本で何故かくも小説といふジャンルが隆盛を極めてゐるかを考へて、私は、その一つの理由に、小説がもつとも
批評的な芸術であるといふ理由を数へずにはゐられない。(中略)
かくて、日本に生れた芸術家は、不断に日本の文明批評を強ひられ、この東西の混淆のうちから、自分の真の
風土と本能にふさはしいイメーヂをみつけ出し、それを的確に結実させた人のみが成功する。(中略)
さて、私はやうやく、川端康成の問題に戻つて来られたやうである。
川端氏は俊敏な批評家であつて、一見知的大問題を扱つた横光(利一)氏よりも、批評家として上であつた。
氏の最も西欧的な、批評的な作品は「禽獣」であつて、これは横光氏の「機械」と同じ位置をもつといふのが
私の意見である。

三島由紀夫「川端康成の東洋と西洋」より
0161吾輩は名無しである
垢版 |
2011/06/11(土) 19:44:20.32
二十代の新感覚派時代の氏の作品は、当時のモダニズムの社会的風潮のスケッチであり、それを独自な感覚で
裁断したものであつて、最もハイカラな文学だつたと云へよう。ただ氏の場合の特色は、自分の鋭敏な感覚を発見し、
それに依拠して、それ以外のものにたよらぬ潔癖のおかげで、作品世界の調和を成就したことである。(中略)
私がことさら、昭和八年、氏が三十五歳の年の「禽獣」を重要視するのは、それまで感覚だけにたよつて縦横に
裁断して来た日本的現実、いや現実そのものの、どう変へやうもない怖ろしい形を、この作品で、はじめて氏が
直視してゐる、と感じるからである。氏は自分の作品世界を整理し、崩壊から救ふべく準備しはじめるが、
いふまでもなくこれは氏の批評的衝動である。
そのとき氏は、はじめて日本の風土の奥深くのがれて、そこで作品世界の調和を成就しよう、西欧的なものは
作品形成の技術乃至方法だけにとどめよう、と決意したらしく思はれる。そして昭和十年に、あの「雪国」が
書きはじめられる。

三島由紀夫「川端康成の東洋と西洋」より
0162吾輩は名無しである
垢版 |
2011/08/18(木) 00:30:46.06
千羽鶴読んだけど面白いね。
続編が波千鳥でしょ。
最後インポになっちゃうの?
0163吾輩は名無しである
垢版 |
2011/08/26(金) 21:17:30.36
川端康成の雪国と谷崎潤一郎の蓼喰う虫
を比較しながら論じろっていうレポートの
課題出たんだけど

何書いたらいい?ヒントをちょうだい
0168吾輩は名無しである
垢版 |
2011/09/04(日) 16:03:01.92
川端読んだことなかったけど、ブクオフでみずうみが105円だったので読んでみました。

うーん、なんかピンとこない感じがする
ロリコンのストーカーっていう題材は面白いし、あの、いつのまにか回想シーンに入っていったり突然もどってきたりする
あの場面転換の書き方はとっても面白いけど
いまいち小説に入り込めたかと言うと、そうでもない。

こんな俺におすすめな、他の川端作品はありませんか?
0170吾輩は名無しである
垢版 |
2011/09/04(日) 22:18:04.31
みずうみ読んでピンと来なかったら
川端を深追いするな。他の作家に変えよう。
0171吾輩は名無しである
垢版 |
2011/09/05(月) 18:43:08.01
>>170
そうなんですかね。
手法は面白いと思ったんですが、その先に入り込めない。
音楽で言えばドビュッシーみたいなもんですかね?
今はサドとフロイトを読んでますが、もうちょっと毛色の違うものも読みたいので、やっぱり川端ももうちょっと読んでみたい気はします。

次には何がおすすめですかね?
0172吾輩は名無しである
垢版 |
2011/09/06(火) 01:11:50.40
みずうみは川端にしてはちょっとこった技巧的な手法があったけど、
川端は手法の面白さを味わう作家には非ず。
みずうみの技巧面より、
川端の孤独感に共鳴しないなら
他の作家にいくべき。

究極の作品は絶筆となった「たんぽぽ」

短編では「しぐれ」「反橋」「住吉」三部作。

これで別世界だったら、貴殿にとっては無縁の作家。

Bには向かない。
0173吾輩は名無しである
垢版 |
2011/09/07(水) 23:12:29.60
あたい、いま難儀なの
頭が働かなくて眠いの
けど読まなきゃいけない本があるの
でも読みたくない
泣けてくるわ!
0174吾輩は名無しである
垢版 |
2011/09/18(日) 19:19:27.57
訳わからんこと言っとんな、ボケ
0175◆vDcOqdC/aA
垢版 |
2011/09/19(月) 07:44:17.58
筒井康隆の「文学部唯野教授のサブテクスト」を読んでたら、
坂口安吾「風博士」、牧野信一「ゼーロン」などと並べて、
川端康成「牛落し」が日本の短編小説ベスト5として挙げられていました。

検索しても出てこないし(過去スレで架空の作品ではとの指摘はあったが)、
念のため「掌の小説」のタイトルをざっとみたが見当たらなかった。

こんな作品は存在しないということ確定でいいのでしょうか。
0176吾輩は名無しである
垢版 |
2011/09/19(月) 19:34:27.40
確定だw、
0177◆vDcOqdC/aA
垢版 |
2011/09/19(月) 20:11:31.16
>>176
この時代にググってでてこなければ、やはりないですよね。

なぜ「牛落し」なのかは詮索してもしょうがないか。
0178吾輩は名無しである
垢版 |
2011/09/19(月) 23:59:56.19
           YES → 【ヒットした?】 ─ YES → なら聞くなよ。死ね。
         /                \  
【検索した?】                     NO → なら、ねぇよ。死ね。
         \                   
            NO → 死ね。


0179◆vDcOqdC/aA
垢版 |
2011/09/20(火) 03:02:10.86
まあ、幻の名作という可能性はあるからね。検索にもひっかからないようなw
0180在日政権に日本が奪われる・・・(´;ェ;`)ブワッ
垢版 |
2011/09/21(水) 09:44:57.19


209 :本当にあった怖い名無し:2011/09/10(土) 16:17:29.19 ID:MRv/iClV0
悪い奴らは夜に集う。ホステスさんが九ノ一ばりの情報提供!

銀座のホステスまとめ1
http://hissi.org/read.php/news4vip/20110903/d2p1SUFOMy9P.html

銀座のホステスまとめ2
http://hissi.org/read.php/news4vip/20110904/NDJ3OU01VThP.html

銀座のホステスまとめ3
http://hissi.org/read.php/news4vip/20110907/cVppZ2NpRzlP.html

銀座のホステスまとめ4
http://hissi.org/read.php/news4vip/20110910/MWhwdWJ0Y2FP.html
0181スウェーデン・ドイツ・ベルギーみたいな内乱になってしまう・・・
垢版 |
2011/09/21(水) 09:53:16.10


「スイス政府民間防衛」より。新しい戦争。その名も「乗っ取り戦争」

第一段階「工作員を送り込み、政府上層部の掌握。洗脳」
第二段階「宣伝。メディアの掌握。大衆の扇動。無意識の誘導」
第三段階「教育の掌握。国家意識の破壊。」
第四段階「抵抗意志の破壊。平和や人類愛をプロパガンダとして利用」
第五段階「教育や宣伝メディアなどを利用し自分で考える力を奪う。」←今ここニダ
最終段階「国民が無抵抗で腑抜けになった時、大量植民。」
0183花王・サントリー・ロッテ・ソフバン不買
垢版 |
2011/09/28(水) 12:03:36.42
★「冤罪であってもパソコン没収・罰金30万・言論と表現の自由なし」
史上最悪の悪法「人権侵害救済法案」1:50あたりから
http://www.youtube.com/watch?v=Fhq_P11wxIY&feature=related

日本人のお金で生活保護貰う在日
(民主党・創価学会・日教組・電通・パチンコ等)
を追い出さないとヤバイです

令状無しで人権擁護委員会(在日)が来てパソコン没収?ハァ?

民主(在日84%)と公明(創価学会)は
日本から出て行け!
日本文化を横取りしようとする韓国人は出て行けー
0184吾輩は名無しである
垢版 |
2011/10/04(火) 03:32:00.50
70歳超えで、ガス自殺、www
バカじゃんwww
0185吾輩は名無しである
垢版 |
2011/10/04(火) 18:31:21.54
キミはもっと勉強して出直してきたら?
ロリコン癖のことも知らないの? 
晩年に関わりのあった女の子のこととか…
0186吾輩は名無しである
垢版 |
2011/10/05(水) 02:51:18.46
すいません。
教えてちょんまげ!
0188吾輩は名無しである
垢版 |
2011/10/09(日) 20:58:49.54
うん
0189吾輩は名無しである
垢版 |
2011/10/10(月) 10:35:29.30
弟子の伊藤整や中里恒子や澤野久雄の著作に少し手を入れて自分名義で出版したことも知らないの?
0191吾輩は名無しである
垢版 |
2011/10/13(木) 01:19:41.53

945 :名無しさん@12周年:2011/10/12(水) 01:52:09.21 ID:VoTeE6IY0
マスコミが取材に来た時、フジテレビだけ禁止する!って言う人が出てきそう。
マスコミ会社のクセ、3.を出してる時点で終わってる。

そういえば、川端康成が、生前、マスコミが取材に来た時、「朝日新聞は出て行け!」って感じのことを言って激怒していたのを
子どもながらに覚えていた。
子どもの俺でも解ったもんな。
「ああ、三島由紀夫のことを悪く書いた朝日新聞のことが嫌いなんだな。」と。
これから、フジテレビ取材を拒否する連中が出て来ても、おかしくはない

【ウジTV】何が何でも論点をすげ替えて韓国批判にしたい日本のマスゴミ
http://www.youtube.com/watch?v=-xYvC1jlLno&feature=related

爆弾発言!韓国大統領「北朝鮮の復興は日本に金を出させる」と YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=XDBQTtO0gYk&NR=1
0192 忍法帖【Lv=40,xxxPT】
垢版 |
2011/10/16(日) 06:37:27.01
川端康成の文学が官能的に!大人なのにどこか幼さを感じさせる裸体にクギヅケ!『スリーピング・ビューティー』のエミリー・ブラウニング
http://www.cinematoday.jp/page/N0036160
0194吾輩は名無しである
垢版 |
2011/10/17(月) 13:53:03.37
>>189
他人が書いた著作は、生前の作品集にはまったく収録していませんね。

>>190
小谷野クンがアマゾンで指摘してるけど、そろそろ真実をきちんと後世に伝えた方がいい時期に来てるのではないかな?
0195吾輩は名無しである
垢版 |
2011/10/17(月) 13:58:26.95
尾崎紅葉や江戸川乱歩だって弟子の代作あるけど、だからと言って作家としての評価は揺るぎ無いものだもんね。
0197吾輩は名無しである
垢版 |
2011/10/18(火) 01:29:25.76
三島ヲタの嫉妬www
0198吾輩は名無しである
垢版 |
2011/10/18(火) 04:11:31.68
盗作と違って、代作は2者の了解の下に行われる相互的なもの。
「代作の文学史」をもし、栗原が書くとすれば、
「なぜ代作が行われたのか?」まで踏み込まなければならない。
それは必ず、作家論、作品論を伴う。
取り分け、川端や龍胆寺雄、尾崎翠、稲垣足穂らの若い頃は
代作は蔓延していたらしい。盗作の場合よりも代作の場合は
作家同士の関係性も重要になってくる。
小林の翻訳ということになってるのが大岡の代作だったという
話もある。
上手く書けば「盗作の文学史」よりも、はるかに売れること
間違いなしだw
0199吾輩は名無しである
垢版 |
2011/10/18(火) 10:28:28.41
そのうちに小谷野がどこかの新書ででも出しそうな気がしてきたな(笑)
0200吾輩は名無しである
垢版 |
2011/10/18(火) 22:19:00.07
軽井沢に「トルコ風呂」なんてあったんだろか?
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