川端康成総合スレ2@文学板
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>>53
はあ?
蘭陵王って、自衛隊訓練後の休息のひとこまを書いた短編小説ですよ。
「眠れる美女」についてはいくつかの評論で褒めてるのは確かですけど、
代筆だと明かせない歯がゆさと、作品への自信がそうさせたのかもね。 三島由起夫が『眠れる美女』を書いたなら、乙女が乙女のままで話は終わらないだろう。
上の14番で、「犯されたときはすでに処女ではない」などと言っているのだから。
犯されないからこそ処女なのに、なぜ犯された後までを「処女」の定義に入れて言う必要があるのか。
本人にそういうものを書きたい願望があるからだ。 で、この作家ってどこからどこまでが本人の作品なわけ?
どんなに優れた作品でも、作家を詐称しての発表はフェアじゃないというか・・・
萎えるわな 『眠れる美女』
芸術か、エロかって所、実に、女の体がせんさいに描かれてある。俺が今、ここで寝たら、若いからか、
禁を破るだろう。
森田必勝「高校時代から浪人時代にかけて読んだ小説の読書ノート」より >42
いったい現実ということを諦める事がいかに難しいものか。
川端さんを読むとそう思う。
三島さんと方法が違うが、
なじめない「現実」を前に、しようもなく綴っていた感のある
作品群を前にすると、
川端さんが超能力者というよりも
「現実」というものへの寂しさ、むなしさが
川端さんの「超能力者なるものへの共感」を生んだ気がする。
最後は、「くすり遊び」にはまってしまっていたようだし。
実は昭和43年のノーベル文学賞は三島由紀夫とほぼ目されていたが、審査員の一部から三島の政治的活動を
問題視する声があがり、三島の受賞に強く反対し川端康成へ移行していった。
ある審査員が三島を、全共闘の仲間と短絡し、急進左翼に肩入れしているとみなし、代わりに川端を強く推したのである。
また、川端は事前に自分が受賞することを知り、三島へ「今回は私がいただかせてもらいます」と電話した。
三島の死後、川端は、「あれは三島君がもらうべきだった賞だ」と知人に漏らしている。
そして自責の念にかられてか、川端は徐々に重度の睡眠薬中毒になってゆく。
実は受賞対象の作品の一つの「山の音」は三島が代筆したものだったと、三島の妻・瑤子夫人は友人に秘密を
暴露していたという。
また一説には「眠れる美女」も三島の代筆と言われており、三島死後の、父親・梓と川端康成との確執も
この代筆問題に関連したものと思われる。 三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊総監室に立てこもったニュースを聞き、川端康成はすぐに現場へ駆けつけた。
そして、川端は、総監室で壮絶な最期を遂げた血まみれの三島の死体と首を見てしまう。(これは警察官らの証言だが、
川端本人は遺体は見ていないと否定している)
ひと足遅れてきた石原慎太郎は、現場検証した警察関係者から、「川端先生が中へ入って見ていった」と聞かされる。
慎太郎は川端が三島を見送ったならばと、入室を辞退していった。実際のところは単なる怖じ気だろう。
川端はその後、眠れないと周囲に漏らしたり、「ほら、三島君があそこにいる」と、三島の霊を見ているかのような
言動をするようになってゆく。 三島の死後、川端康成は会議や講演などはこなしていたが、健康がすぐれず、新しい文学作品は書かなくなっていった。
そして、三島の自刃から約一年半後の昭和47年4月16日、川端はふらっと鎌倉の自宅を出てタクシーを拾い、
仕事場の逗子マリーナ・マンション417号室へ向かう。
水割りを少し飲んだ後、川端はガス管をくわえガス自殺を遂げていた。遺書はなかった。机には太宰治の本が
あったともいわれている。
遺書がなかったせいか、この自殺には諸説あり、なかには他殺説まであり謎のままである。 >>71
太宰でなく坂口安吾だって記事もあるぞ。
ガス管もってて事故はないだろうし、デマも
多い。 「日本文学」という呼び方の似合う
最後の世代の人かな。 >>73
誰も「事故」だと断定してないよ。よく読んでください。 川端の受賞は穏当な結果だったと思うが、
イデオロギー問題が絡むから、話が面倒に
なる。 あったならあったで、なかなか興味深い話ではある。
作家本人としちゃ余り名誉な話ではないだろうが。 原稿の字が川端の筆跡じゃない、綺麗な字(三島の字に似てた)という話もあるようですよ。
代筆問題は、三島由紀夫の代筆の他にも、北条誠、沢野久雄もやってたという噂があります。 ▼川端康成は無類の美術品・骨董コレクターだった
川端康成は無類の美術品・骨董コレクターだった。相当の目利きで、かなりの優品を集めていた。
水戸駅からほど近い、千波湖の畔にある茨城県近代美術館の『川端康成コレクション展』(平成22年4〜6月)には、国宝の池大雅「十便図」、与謝蕪村「十宜図」、そして幻の蕪村文台も出品されていた。
サイデンステッカーが美術収集家としての川端について次のように語っている。
・・・川端はすばらしい美術収集家で、それは彼自身の賜物でした。とくにどの分野の、いつの時代のもの、と限定することなく、自分でいいと思ったものだけを集めた。
繊細な眼、批評家の眼を持っていた。彼のコレクションは、批評家のコレクションです・・・(「諸君!」昭和52年8月号)
『中央公論』の編集者として、晩年の川端と十年余りつき合った伊吹和子は、最初の出会いを次のように綴っている。
・・・広い縁側から座敷に入ると、右側が床の間になっており、軸がかかっていた。床の間の横の違棚の下に、一メートル余りの高さの仏像のようなものが置かれていて、
黒光りのする肌のところどころに、朱の漆らしい色が、障子を通して入って来る薄い光線に浮いて見えた。
私は背後の像が気になって、知らず知らず何回かそっと振り向いて見ていたらしい。像は、目尻の上った涼しい眼をちょっと伏せた幼な顔の中に凛とした気品が漂い、
上半身は裸形で、ふっくらとした両の手が、何かを包むように柔らかく合されている。そして下半身の袴の襞に、他より多く残ったらしい朱が、落ち着いた美しさを湛えていた。
先生はAさんに相槌を打ちながら、私を見ておられたようである。突然、こちらへ顔を向けると、「聖徳太子なんですけど……小さい頃の」と言われた。
私は、ただ「はあ」と言ったまま、あとの言葉は飲み込んでしまったが、初めて聞く声には、関西の訛りがはっきりと残っていた・・・(『川端康成 瞳の伝説』)
伊吹は、鎌倉長谷の川端邸を先輩Aと初めて訪問し、客間に置かれた聖徳太子の稚児像に強い印象を受けたのだ。私は稚児像の存在を知って、いつかこの像に見えたいと願った。
水戸の美術展で実見すると、期待に違わない、見る者の心をスーッと引き込む磁力のようなオーラを静かに発している像だった。これは必ずしも聖徳太子でなくてもいい。
両手のひらを胸の前であわせ、何事かをじっと一心に静かに、しかし勁く念じている木造の稚児像から、柔らかく、しかし厳かなものが伝わってきた。鎌倉時代のもので文化財にも指定されていないが優品である。
▼川端の異常な金銭感覚
この稚児像は、川端が東大病院に入院していた時、見舞いに訪れた古美術商から入手したのだが、堤堯は川端と骨董について次のようなエピソードを明かしている。
・・・当方の友人にUという男がいた。大学を辞めて古美術商の丁稚となった。文壇・画壇の古手が出入りする。ある日、こんな会話を耳にした。
「川端さんがちょっと預かると言うて壺持っていきよった。それっきり何の音沙汰もあれへん。そろそろ買うのか買わんのか、はっきりしてもらわんと困る」
「いや、あれはニセモノや。かまへん、ほっときい」・・・(「WiLL」2006年12月号)
金田浩一呂は、川端の骨董商との付き合い方や金銭感覚について、かなり特異なものだったと言っている。
・・・骨董品店などで気に入ったものを見つけると、すぐ買ってしまう。亡くなったとき骨董商が集まってきて、未払いの品物を持っていったという話まである。
川端が金に放胆だったという話は多い。川端から「銀座のバーに行ってますか」と聞かれ、「最近は高いので、なかなか行けません」と答えると
「高ければ払わなきゃいいでしょう」と言われた、と聞いたのは吉行淳之介。中村真一郎も同じような回想録を残している・・・(産経新聞平成22年5月3日「文士の流儀」)
金田は「すぐ買ってしまう」と言っているが、川端は入った店にある、あるいは持ち込まれた骨董や美術品が気に入ると、カネを払うとも言わずに、
平然と占有する性癖があった。養子の香男里の話では、骨董屋・古美術商たちは川端康成を通った、還った品だと言って高値をつけていたそうだから、結局持ちつ持たれつだったのだろう。
臼井吉見の実録小説『事故のてんまつ』に、川端は安曇野の植木屋から鎌倉まで運ばせたイチイ他の植木、その運搬費、人夫賃の費用数百万円を払おうとしなかったが、
天下の川端にお代を払ってほしいと、田舎の植木屋はなかなか言い出せなかったとある。
或る週刊誌がノーベル賞を受賞した直後の川端に原稿を依頼したが、なかなか応じてもらえず、ハワイに滞在中の川端に編集者が会いに行き、懇請を重ねて執筆の約束を取りつけ百万円の原稿料を前渡しした。
しかしようやく届いた原稿は枚数にして4枚にもならない短いものだった。担当者のハワイへの往復の飛行機代・滞在費も含め、一字当たり1300円余の原稿料になったという。
今から40年余り前のエピソードだ。川端はそういうことを斟酌しない人だった。
(つづく)
一人の人間だと思うからいけない。
日本文学が足をはやして歩いてる
だけ。 ただのキチガイだっただけだろ。
私小説作家は、殆どがキチガイだよ。 >>88
芸術家はすべてキチガイだよ。
でなきゃ、たいした芸術家じゃねえ。 ヒロポンとかやってたのが多かったからだろ。
だから人間だと思うからキチガイに見えるんだって。 ▼川端夫人の怨み
平成22年水戸駅の傍にある茨城県近代美術館で開催された『川端康成コレクション展』の一画に書簡コーナーがあった。
そこに三島由紀夫からの手紙が一通だけ出品されていた。便箋はレターヘッドに「Yukio Mishima」と刻印された自家製で、昭和41年8月15日の日付があった。
三島はその直後8月下旬から9月初めにかけて『奔馬』の取材に奈良の大神神社、広島(ここは恩師清水文雄との邂逅)、そして熊本の神風連縁の地所に赴いた。
「拝復 お手紙ありがとうございました。あれから下田へ行っておりまして、昨日帰京、又二十日から取材のため、関西と九州へまいります」という書き出しで、
「野坂昭如の「エロ事師たち」が武田麟太郎風の無頼の文学で面白く思いました」「一寸面白いのは宇能鴻一郎あたりかもしれません。あの人には谷崎潤一郎初期の悪童性があるように思います」という作品評や文壇話をしているごく普通のものだ。
あれだけの交流が川端と三島の間にあったのに陳列されていた三島からの手紙がこの一通だけとはさみしい。
川端夫人秀子(本名ヒデ)が夫との思い出をつづった『川端康成とともに』で触れた三島由紀夫のエピソードは一つだけ、しかも数行に過ぎない。
「三島」の名は他に二箇所のみ。この展覧会をプロデュースした川端の養子香男里も養母のそういう!)所作!)を踏襲したのだろうか。
平成22年10月香男里が館長をつとめる鎌倉文学館主催の講演会が鎌倉駅前のホールであった。
鎌倉文学館の建物は昭和11年前田侯爵別邸として建てられ、戦後はデンマーク公使が借り、三島が『春の雪』の松枝侯爵邸のモデルとして取材した時は佐藤栄作首相が借りて使っていた。
▼かみ合わなかった対談
鎌倉文学館開館25周年を記念して開催された「川端康成と三島由紀夫 伝統へ、世界へ」展とコラボした講演会は二回行われ、
その初回に香男里と松本徹三島由紀夫文学館館長が講演と対談をしたのだが、この時の対談がまったくかみ合わないものだった。
香男里の講演内容が奇妙なもので、三島が生前くやしがったことが二つあるという話しをしていた。
そのひとつはノーベル賞が川端にいってしまったことで、もうひとつは「やんごとなき女性」にふられたことだと言うのだ。
後者については、長岡輝子が三島の母倭文重から聞いた話として、息子が正田美智子と見合いをしてふられた。それを長岡から聞いた話として或るジャーナリストが最近書いている。
しかし長岡が故人となった後書いているので長岡に確かめようがない。正田家から断られたとしても三島がどう受け止めたかは更に確かめようがない。
その話の次に香男里がしゃべったのは、三島には他に付き合っていた女性がいた、それは鹿島一族の娘で、二人が一緒に川端邸に来て、軽井沢の川端の所有地を鹿島に売ってほしいと頼んてきたというエピソードだ。
三島文学とどんな関係があるのだろうと聴いていたらただそれだけだった。三島の女性にまつわる二題噺で意味はなさそうだが、軽井沢の土地についての一件は秀子夫人が『川端康成とともに』に書いている。
その一件が同書が三島に言及したたったひとつの箇所で、秀子がそれを書き、香男里が講演会の壇上で蒸し返したのにはそれなりの背景があったのだ。
その軽井沢の土地は昭和15年頃、川端が秀子に「大変今まで世話をかけたからみな君にあげるよ」と言って渡してくれた、改造社から出した選集の印税で買ったものだという。
登記上は康成名義だったろうが、秀子は自分の土地だと思っていたのだ。それを川端は三島の依頼を受けて売ってしまい、その売却金は全部使って、秀子に一文も残らなかったと恨み節を述べている。
秀子は夫を恨まず三島に怒りを向けた。香男里はそれを養母から聞かされて三島によい感情を持てなかったのだろう。げに女の怨みは怖ろしい。
(つづく)
山の音読んだよ。
なんかよくわかんないけどとてもよかったー
げんじものがたりだね かってになっとく 三島が描く風景と、川端が描く風景とは根本的に違うんだ。
三島が観ている風景は、観念のなかにしかない。
それが三島のいう日本的な美なんだ。抽象的なんだよ。
だから風景に心が宿ってない。意識が棲みついているだけなんだ。
風景と心が共鳴し合っていないんだよ。言っていることがわかるかな?
その意識も西欧的なんだよ。西欧人が憧れる、観念的なイメージとしての日本の美なんだ。
あるがままに身体で感じ取った日本という風土性が描写に色濃く反映されていないんだ。
極論するとだね、三島の作品からはそんな印象が強く沸いてくるんだよ。
川端と同じことをしていても、人として持っている感性としての本質が違う。
勝ち目はない。頭がいい三島自身が、誰よりもそのことを痛感していたと思うよ。
猪瀬直樹は好きじゃないけど、三島の風景描写を銭湯の壁に描かれた
ペンキ絵のようだ、というようなことを書いていたが本質を言い当てていると思う。
結論をいうとだ、三島に川端の代筆は無理なのだよ。
すべてとは言わない。「眠れる美女」なんかなら可能性はあるかもしれない。
モノローグ的に心理の揺れだけを描くのならできる。生きてはいるが物体
としての若く瑞々しい女体を介した、己の心との遣り取りだからね。
でも川端の真骨頂は、心の揺れを日本の風景の描写のなかに重ね合わせて
内面の奥深くある本人にも気づかない深層心理を多層的に浮かび上がらせる
ところにあるんだよ。風景のなかに心が宿っているとはそういう意味だ。
自然は対象であって対象ではない。己を含み、また己のなかに自然を抱え込んでいる。
川端の描く日本の風景が美しく心に響いてくるのは、そうした理由だ。
三島の描く風景は心にではなく意識に響いてくる。一つ一つが重たく抽象的な言葉を
ものを好むのもそのためだ。装飾をほどこした美文調につながってくるのも自然なことだ。
なぜなら意識のなかにしかない観念的な風景を描いているからだ。対象としての自然は
その装飾の一部でしかないんだよ。
まあ、この辺りでやめておく。基地外だと言われてしまいそうなので(笑)。
言われても気にはしないんだが、笑わせすぎて腹の筋肉を痛めたたりして
損害賠償の請求なんてことがあると困るから……。 >>101
>まあ、この辺りでやめておく。基地外だと言われてしまいそうなので(笑)。
やめるの遅すぎ。もう三行目くらいでお前はキチガイ認定されてるよw
三島の風景が抽象的であるのと同じく川端の「日本」も十分に抽象的。
現実にはどこにもない「雪国」に逃避してるだろ。 三島の感性が記号的であるというのは文体改造などからも
言える。
仮面の告白だから。 純文学にも大衆的なのと芸術至上主義的なものはあるだろう。
大衆的であることは芸術的には感じられないのは、芸術は
一般に美術的だからだ。
などと場当たりに分析してみるヒンツ >>101
確かに三島の背後には西欧的ブルジョア芸術が見えるね。
正に「鹿鳴館」的なるもの。或いは大正浪漫の名残か知らん。 公威君は祖母に宝塚文化で育てられたのな。そういう方面の
英才教育を受けてる。 >>101
大体、三島由紀夫は川端の真似なんて一つもしてない、影響もされてないしから、
三島文学と川端文学の風景描写を比べて語ること自体がナンセンス。ろくに読んでない証拠。
>>101
それから、三島の描く風景や海は、あんたが言ってような「日本の美」じゃないし、
別にそういうものを主題にしてないよ。あんたや、外人が勝手に勘違いしてるだけ。 >>101
三島が描く風景は具体的だよ。念入りに細かく描写してるし。そして、さらにそこに自身の観念も重ねて心を通わせてるんだよ。
三島の海の描写読んでないでしょ、あんたは。 三島文学も石原チンポ小説と一緒でパフォーマンスがキツくて
客観的な評価が難しいよ。 >>114
どっちの小説も読んでない単なる右翼嫌いなバカサヨ乙 『天人五衰』冒頭に海の描写がある。一見写実的な描写だが、
じつは単なる美文にすぎない。観念の表象だ。 若い頃の文学界の一座で撮った写真面白いよ。
真ん中に和服で真っ直ぐカメラを見据えている主役格の
川端は義経みたいな現代離れした風貌をしてる。
平家物語から転がり出て来たような感じ。 >>118
もともと、観念、阿頼耶識のつもりで書いてるのに、何をとんちんかんなことを言ってんだか。
部屋の真ん中で、
全裸で尻をおもいっきり振って白目剥いて奇声を上げ全身痙攣してオナラしたら、
うんちが全部出た。
全部だ!
畳に散らばったうんち、どうする? 人生の孤独にふと、涙をこぼすんだろ?
同情は不可能だな。 この人の作品はいっこうに意味がわからない。わからないけどなんとなく手を出してしまう。
まあ単純に自分の読解力っつーか読書不足なんだろうけど…。
ここの皆が川端作品を理解できるようになったきっかけってある? >>126
ドストエフスキーみたいな思想小説じゃないし、
読みたいならそれで良いんじゃねえの? 今日ぼくは齋藤智裕先生の「KAGEROW」を50冊
被災地に寄付してきた。 お伽噺のなかで犬が歌ひ茶碗が物語り草木や花が物を言ふやうに、芸術とは物言はぬものをして物言はしめる
腹話術に他ならぬ。この意味でまた、芸術とは比喩であるのである。物言はんとして物言ひうるものは物言はして
おけばよい。そこへ芸術は手を出すに及ばぬ。それはそもそも芸術の領分ではなく、神が掌(つかさど)る所与の
世界の相(すがた)であるから。――しかし処女は物言はぬ。一凡人の平坦な生涯は物言はぬ。そこに宿つた
平凡な幸福は物言はぬ。ありふれた幸福な夫婦生活は物言はぬ。ありふれた恋人同志は物言はぬ。要するに
類型それ自体は決して物言はない。すぐれた芸術は類型それ自体をゑがかずして、しかもその背後にはもつとも
あり来りの凡々たる類型が物言はしめられてゐることを注意すべきだ。幸福は類型的なるものの代表である。
それゆゑにこそわれわれは過去の芸術のなかに、喜劇と比べて量に於ても質に於てもはるかにすぐれた悲劇を
持つてゐる。してみればロマンティスムの象徴せんとするものは生れ生き恋し結婚し子をまうけ凡々たるノルマルな
生活それ自体に他ならないかもしれない。
三島由紀夫「川端康成論の一方法――『作品』について」より ――物言はぬものをして物言はしめる意慾は、自ら物言はぬものとなつては果されぬ。物言はぬもの、それが作品の
素材である。川端康成の生活にはこの素材の部分が全く欠如してゐる。書かれる自我はない。彼の書く手の周囲、
彼の書く存在の周囲に、物言はぬもの、即ち処女や恋人同志や夫婦や、踊子たちがむらがつた。彼らはやさしい
媚びるやうな目でこの詩人的作家をみつめてゐる。彼らは処女が「自ら歌へぬ」存在であることを誰よりも切なく
知悉してゐるこの不幸な作家をみつめてゐる。その限りで、彼らはお伽噺のなかの犬や茶碗に等しい。処女たちは、
踊子たちは禽獣であつた。ここに川端康成の孤独がはじまる。自己の中に存する物言はぬもの(即ち書かれるもの)と、
外界の物言はぬものたちとの、共感や友愛やはたまた馴れ合ひや共謀やは、彼の場合はじめからありえぬことだつた。
三島由紀夫「川端康成論の一方法――『作品』について」より (中略)
作品を読むことによつてその内容が読者の内的経験に加はるやうに、一人の女の肉体を知ることはまた一瞬の裡に
その女の生涯を夢みその女の運命を生きることでもある。作品が存在した故に作品の内容が内的体験となつて再び
生の実在に導き入れられるのではなく、生をして夢みさしめ数刻を第二の生のうちに生かしめたが為に芸術作品は
存在しはじめるのかもしれない。してみれば女が先づ在つて運命が存在しはじめるのではなく、われわれが生を
運命として感じ歌ひ描き夢みること、その行為の象徴として女が存在しはじめたのかもしれないのだ。その時
われわれが自らの自我の周囲におびただしい物言はぬ存在を――つまりはわれわれ自身の孤独の投影を――
感じることは、やがて芸術の始源を通して芸術を見、一つの決定された作品としての運命を蝕知することだ。
少くともその瞬間、われわれは川端康成と共に、自己の存在が一つの作品に他ならないことを感じるであらう。
彼の文学を知る道も、この他にはないのである。
三島由紀夫「川端康成論の一方法――『作品』について」より > > 川端さんは震災のとき、すぐに東京市内を歩き回り、つぶさに惨状を見ている。「私程地震の後を見て回った者は
> 少ないだろう」と書いているくらいだ。…今東光氏をさそって芥川龍之介の家に見舞いにもいっている。
> 芥川氏とともに、吉原遊廓の池に、遊女の死体を見に行った。芥川氏はゆかたがけでヘルメットをかぶり、
> 熱心に見て歩いた。そのさかんな好奇心には、さすがの川端さんも驚かされたらしい…
> http://www.tokyo-kurenaidan.com/kawabata-tokyo2.htm 処女も小鳥も犬も、自らは語り出さない、絶対に受身の存在の純粋さを帯びて現はれる。精神的交流によつて
エロティシズムが減退するのは、多少とも会話が交されるとき、そこには主体が出現するからである。到達不可能な
ものをたえず求めてゐるエロティシズムの論理が、対象の内面へ入つてゆくよりも、対象の肉体の肌のところで
きつぱり止まらうと意志するのは面白いことだ。真のエロティシズムにとつては、内面よりも外面のはうが、
はるかに到達不可能なものであり、謎に充ちたものである。処女膜とは、かくてエロティシズムにとつては、
もつとも神秘的な「外面」の象徴であつて、それは決して女性の内面には属さない。
川端文学においては、かくて、もつともエロティックなものは処女であり、しかも眠つてゐて、言葉を発せず、
そこに一糸まとはず横たはつてゐながら、水平線のやうに永久に到達不可能な存在である。「眠れる美女」たちは、
かういふ欲求の論理的帰結なのだ。
三島由紀夫「解説(『日本の文学38川端康成集』)」より 氏ほど秘密を持たない精神に触れたことがないと私が言つても、おそらく誇張にはなるまいと思ふ。秘密とは何か?
一体、人間に重大な秘密なんてものがありうるのか? われわれに向つてすぐさまかう問ひかけてくるのが、
氏の精神なのである。これは破壊的な質問であるが、氏は決して論理を以て追究することはない。問ひかけただけで
相手が凍つてしまふことが確実であるとき、どうして論理が要るだらう。
氏自身はダリの画中の人物のやうに、風とほしのよい透明きはまる存在であるのに、私は氏に接してゐると、
氏が自分の外部世界のお気に入りの事物へ秘密を賦与してゆく精妙な手つきが見えるのであつた。そこで氏が
世間の目に半ば謎のやうにみえてゐる理由も判然とする。氏自身の精神には毫も秘密がないのに、氏は自ら与へた
秘密の事物に充ちた森に囲まれてゐるからだ。その森には禽獣が住んでゐる。美しい少女たちが眠つてゐる。
眠つてゐる存在が秘密であるとは、秘密は人間の外面にしかないといふ思想に拠つてゐる。その存在を揺り
起してはならない。
三島由紀夫「川端康成読本序説」より 揺り起せば、とたんに秘密は破れ、口をきく少女や口をきく禽獣は、たちまち凡庸な事物に堕するのだ。なぜなら
そこから、心が覗けてしまふからだ。そして心には美も秘密もない。川端文学が、多くの日本の近代小説家が
陥つた心理主義の羂(わな)に、つひに落ちずにすんできたのには、こんな事情がある。――これは存在に対する
軽蔑だらうか? 軽蔑から生れた愛だらうか? それとも存在に対する礼儀正しさと賢明な節度だらうか?
そこに保たれる情熱だらうか?……この二つの見方で、川端文学に対する見方はおそらく劃然と分れる。
前者の見方を固執すれば、氏の文学は反人間主義の文学で、厭世哲学の美的な画解きのやうに思はれてくる。
また後者の見方を敷衍すれば、「川端先生の小説つて素敵だわ」と言ふ若いセンチメンタルな女性読者の、
「清潔好き」の嗜好までも含めることになる。氏の文学の読者層の広汎なことは、かういふさまざまな誤解を
ゆるすところにあるのであらう。それはそれでいいので、いささかの誤解も生まないやうな芸術は、はじめから
二流品である。
三島由紀夫「川端康成読本序説」より 私の考へでは、氏の文学の本質は、相反するかのやうにみえるこの二つの見方、二つの態度の、作品の中でだけ
可能になるやうな一致と綜合であらうと思ふ。もしわれわれが畏敬すべきものだけを美とみとめるなら、美の世界は
どんなに貧弱になるだらう。のみならず、畏敬そのものに世間の既成の価値判断がまざつてゐるならば、美の世界は
どんなに不純なものになるだらう。それならむしろ、やさしい軽蔑で接したはうが、美は素直にその裸の姿を
あらはすだらう。しかし軽蔑が破壊に結びつき、美の存在の形へづかづかと土足で踏み込むやうなことをしたら、
この語らない美は瞬時にして崩壊するだらう。われわれは美の縁(へり)のところで賢明に立ちどまること以外に、
美を保ち、それから受ける快楽を保つ方法を知らないのである。こんなことは人間の自明の宿命であるが、現実の
世界では、盲目の人間たちがたえずこの宿命を無視し、宿命からしつぺ返しを喰はされてゐる。川端氏は作品の
中でだけ、この宿命そのものを平静に描いてみせるのである。
三島由紀夫「川端康成読本序説」より 川端さん、新年おめでたうございます。
毎年一月二日には、御年賀に上つて、賑やかな賀宴の末席に連なるのが例ですが、はじめて伺つてから、今年で
もう十年になります。(中略)
それは寒い日で、大塔宮裏のお宅までは、まだバスも通じてゐなかつたころと思ひます。廿一歳の私は、いろいろ
生意気なことを口走つたとおぼえてゐますが、内心はびくびくして、無言に堪へることができなかつたのでした。
失礼なことを申しますが、川端さんが黙つたまま、私をじろじろ見られるので、身のすくむ思ひでありました。
(中略)
いつのお正月でしたか、あまり御酒を嗜(たしな)まれぬ川端さんが、子供のお客たちにまじつて、テレヴィジョン
ばかり見てゐられたのを思ひ出します。テレヴィジョンの画面には、踊り子たちが、寒中、裸の脚をそろへて
上げて、右に左に顔を向けては踊つてゐました。
三島由紀夫「正月の平常心――川端康成氏へ」より 川端さんが名文家であることは正に世評のとほりだが、川端さんがつひに文体を持たぬ小説家であるといふのは、
私の意見である。なぜなら小説家における文体とは、世界解釈の意志であり、鍵なのである。混沌と不安に対処して、
世界を整理し、区劃し、せまい造型の枠内へ持ち込んで来るためには、作家の道具とては文体しかない。
フロオベルの文体、スタンダールの文体、プルウストの文体、森鴎外の文体、小林秀雄の文体、……いくらでも
挙げられるが、文体とはさういふものである。
ところで、川端さんの傑作のやうに、完璧であつて、しかも世界解釈の意志を完全に放棄した芸術作品とは、
どういふものなのであるか? それは実に混沌をおそれない。不安をおそれない。しかしそのおそれげのなさは、
虚無の前に張られた一条の絹糸のおそれげのなさなのである。ギリシアの彫刻家が、不安と混沌をおそれて
大理石に託した造型意志とまさに対蹠的なもの、あの端正な大理石彫刻が全身で抗してゐる恐怖とまさに反対の
ものである。
三島由紀夫「永遠の旅人――川端康成氏の人と作品」より (中略)
川端さんのかういふおそれげのなさ、自分を無力にすることによつて恐怖と不安を排除するといふ無手勝流の
生き方は、いつはじまつたのか?
思ふに、これはおそらく、孤児にひとしい生ひ立ちと、孤独な少年期と青年期の培つたものであらう。氏のやうに
極端に鋭敏な感受性を持つた少年が、その感受性のためにつまづかず傷つかずに成長するとは、ほとんど
信じられない奇蹟である。しかし文名の上りだした青年期には、氏が感受性の溌剌たる動きに自ら酔ひ、自ら
それを享楽した時代もあつたことはたしかである。氏がきらひだと言つてをられる「化粧と口笛」のやうな作品では、
氏の鮮鋭な感受性はほとんど舞踊を踊り、稀な例であるが、感性がそのまま小説中の行為のごとき作用をしてゐる。
氏の感受性はそこで一つの力になつたのだが、この力は、そのまま大きな無力感でもあるやうな力だつた。何故なら
強大な知力は世界を再構成するが、感受性は強大になればなるほど、世界の混沌を自分の裡に受容しなければ
ならなくなるからだ。これが氏の受難の形式だつた。
三島由紀夫「永遠の旅人――川端康成氏の人と作品」より しかしそのときもし、感受性が救ひを求めて、知力にすがらうとしたらどうだらう。知力は感受性に論理と
知的法則とを与へ、感受性が論理的に追ひつめられる極限まで連れて行き、つまり作者を地獄へ連れて行くのである。
やはり川端さんがきらひだと言はれてゐる小説「禽獣」で、作者がのぞいた地獄は正にこれである。「禽獣」は氏が、
もつとも知的なものに接近した極限の作品であり、それはあたかも同じやうな契機によつて書かれた横光利一の
「機械」と近似してをり、川端さんが爾後、決然と知的なものに身を背けて身を全うしたのと反対に、横光氏は、
地獄へ、知的迷妄へと沈んでゆくのである。
このとき、川端さんのうちに、人生における確信が生れたものと思はれる。(中略)情念が情念それ自体の、
感性が感性それ自体の、官能が官能それ自体の法則を保持し、それに止まるかぎり、破滅は決して訪れないといふ
確信である。虚無の前に張られた一条の絹糸は、地獄の嵐に吹きさらされても、決して切れないといふ確信である。
これがもし大理石彫刻なら倒壊するだらうが。
三島由紀夫「永遠の旅人――川端康成氏の人と作品」より ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています