ヘルマン・ヘッセ part3
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>>131
それはヘッセの作品?
まだデミアンと車輪の下しか読んでないからなんか読もうかな〜
お薦めあるかな
ガラス玉とかどうなの >>132
ヘッセのだよ
ヘッセは発表された順番に読んでいくのが良いかも
>>133
わかった。
デミアン、車輪の下以外に読む価値があるとするとなにかね >>134
知と愛かなぁ
たしかヘッセの中で最も小説らしい作品、という評価だったと思うし、万人向けの作品
内容は文句なし
ただ僕の好みなので、あなたに合うかは分からない
steppen wolfは異質という意味で外せないと思う 「ヘルマンヘッセ全集」のガラス玉は良くないの?
角川文庫のは古い漢字が使われてて手を出しづらい 角川の遊戯は本当に読みにくい。
演戯の方も序章が難解だと感じたけど、遊戯の旧漢字を読んだら高橋訳がいかに読み易かった思い知った。 そっか、やっぱ角川買うの止めよう。ただでさえ漢字苦手だし・・ たしか高橋健二の訳って一部ではぼろくそに叩かれてた気がするが、
個人的には硬質な言葉づかいという感じがして、自分は好き 俺は好きだよ。
原文でデミアンや車輪の下読むの流石にキツいだろ
まあ俺はこの人の訳好き こいつの『車輪の下』を読んで、あやうく自殺しかけた
家族・友人が支えてくれたおかげで、ウツ入院で済んだけどな
小説が凶器となることを身をもって知ったぜ やばいのはオレか?
やばいのは、深遠に引きずり込んだ挙句に絶望に叩き落すヘッセの文才だ
高校の課題図書にするのは、狂気の沙汰だ
「デミアン」で躁状態になった。強力なパワーがあるな。
「デミアン」読んだあとはなんかドーパミンが出まくったな。
小説が凶器になる作家はたまーにいる 朝の通学通勤なんかで読んで揺さぶられちゃった日にはもうね >>146
俺は高校の時『人間失格』読んであやうく学校退学か休学するところだったぞ
作者は違うが デミアンはいいかげん、デーミアンに統一すべきだろ
6号戦車をティーゲルと表記し続けるようなもんで今どきハズすぎるわ
結局、健二訳の新潮文庫版が生き残った結果、醜態をさらし続けるハメになってしまった
生きの良い新訳キボンヌ
どうでもいいけど、マジすか学園2でジュリナが愛読してるのも新潮文庫版デミアンだw マジだよ
マジに生きなきゃ申し訳ねーだろーが
byハイデルベルヒのトニオ・クレーゲル はー、俺も小説書いてみたいけど、なんにも思いつかない・・ ちょっと書き始めたよ
完成するか分かんないけど・・
クヌルプが最後に納得して死すのは
自分自身で満足できるなりの、行動を起こしたからなんだよな
同じ死ぬにしても是非そうありたいものだよ。
クヌルプはアマゾンのレビューも素晴らしいね クヌルプは久しぶりに最後の方を流したけど
行動を起こす起こさんではなく
「何もかもあるべきとおりです」の一言に尽きるように思うが
いや、もう眠いからまた後日読みなおすことにしよう デーミアン読んだ感想
クナウアーに萌えてしまいました
従順に調教してチンポくわえさせたいなあ
本当にあの名作での第一の感想がそんなのだったら、ちょっと同情を禁じ得ない人物だな。http://toki.2ch.net/test/read.cgi/cat/1305013929/459
わからんでもないがw
それと、このスレの人間はその手の下ネタは毛嫌いするみたいだから アマゾンのレビューだとデミアンは満点だ
デミアンと車輪の下はどっちが評価高いんだろうか。。。
一般的(普通の人)には車輪の下の方が知られてるみたいだけどどうなんだろう。
全部読んだわけじゃないけど、「物語として見て」
きちんとまとまってるのは車輪だよね 「詩人になりたい、でなければ何にもなりたくない」
というところに覚悟を感じる
あと「車輪の下」は正攻法的な小説という感じがした
>>168
お前にキョーヨーがねーからだよ、ヘア・アッフェ
ユング心理学やグノーシス主義を知ってればサルにも理解できる
もっともそんなサルはいねーかw 知的に高くしかも小説をよく読む人でも、デミアンはさっぱり分からなかったと言っていた人を2人知っている。
そういう小説なんだろうな。
俺とかは高校のときに読んで胸がギュィィィィィィンとなるほど(笑)引き込まれてしまったが。
面白い物語ではあるけれど、キチガイじみてるという感想も頷けるよ。 AからZまで理解できる小説なんて読みたくもないが。
それとキチガイ、とまでは行かないにしても
ある程度倒錯した内容でないとつまらんだろう?
論理的にうんちくを得たいなら哲学書がいいよ 地獄は克服出来るってヘッセの散文集らしき本ってどう?
あと「わがままこそ最高の美徳」ってのもある
共にヘッセの各作品からの引用で説かれいるが
全部の作品を読んだことない自分にとっても
凄く面白かった
ヘッセいいね!
30過ぎてヘッセにハマってる
>>178
おれは好きだよ
ヘッセが晩年にむけて、
「おれはもうくだらないものは書かないし、くだらないことはせんのだ」
っていう覚悟みたいなのが伝わってくる
自分の弱さを認めた上で、本当に価値のあることについてやわらかく思索してる感じだ 「青春を模倣する老年ほど醜いものはない」というヘッセの言葉が好きだ
歳はとっても心は永遠の青春とかほざいている無責任な日本の政官財のジジ・ババどもに聞かせてやりたい。
若作りして恥じさらすより、未熟な青年を導く老賢者を目指すべきだろう。 >>183
いま俺が読んでいるキルケゴールタンがそんなことを書いていたよ。
>若い者にも負けず劣らず子供染みた幻想を持っている男や女や老人たちが実に多いのである。しかし人は、幻想には本質的に希望の幻想と追憶の幻想という二つの形態があることを見落としている。青年は希望の幻想を持ち、老人は追憶の幻想を持っている。
さすが詩人ヘッセ。絶望に捕らわれないように、希望を本能的に嫌っていたのかもしれない。 >>168
>>170
>>171
[逸話]
>ヘッセの作品は難解であるともされており、「ミッキーマウスは誰もが解るし、ヘルマン・ヘッセは少数しか解らない。
アルベルト・アインシュタインを解るのはほんの一握りしかいないし、そしてノートン1世を理解する者は一人もいない」というジョークが存在する[1]。
分からない奴は分からなくていい。その人たちは普通の人だから。その人たちはある種幸せな人間なのかも。読む人を選ぶ本だ。 デーミアンや荒野の狼みたいな小説に共鳴してしまう精神性はあまり有り難い事ばかりじゃないかもな
自分に理解できない本をキチガイじみたとか云う前に、自らの不明を恥じろ
デーミアンで言及されている神、アブラクサスを辿れば
アカデミックな知識と表裏の関係で、欧州の知識人に脈々と受け継がれている
西洋神秘哲学の流れに気づく事ができるし
ヘッセがデーミアンを書く前にユングと頻繁に書簡を交わしている事を知れば
ヘッセがユングを通じて分析心理学の原型論やグノーシス主義等の神秘学の造詣を深め
その後の作風に変化を来した理由がわかる
頭は生きている内に使えよ、サル野郎
自分の理解の範疇を超えた作品を貶す前に、謙虚に自分の不明に気づく事
そこから、
サルからヒトへの道程がはじまる
デーミアンをキチガイじみた小説と貶して終わりでは
サルは生涯サルのままで終わると知れ >>サルからヒトへの道程がはじまる
生物学的に間違っているな こいつらには余計なお世話だぞ
こいつら全員サル以下の在日なんだからな 荒野じゃなくて
狼を題材にした短編が好きだったな
たしか最後に狼が村人達に殺されてしまう話 そりで遊んでいて大怪我するのは「春の嵐」か「デミアン」か? >>193
まじバカだな、お前
英語でもEvolved monkeysって云うだろ
ただの比喩的表現じゃないか >デーミアンや荒野の狼みたいな小説に共鳴してしまう精神性はあまり有り難い事ばかりじゃないかもな
具体的にどう「共鳴してしまう精神性」でどう「有り難くない」んですか?
詳しくお願いします ねぇジンクレール、君の言う共鳴してしまう精神性ってどういう事なの?
どんな時にそれを有り難くない事だなんて思うんだい?
君だってオナニーしまくってるブタのくせに何を偉そうにほざいてるのさ! >>193
ネット廃人につける薬はないw
クズは相手にするな、沸いてくるから >>192DU Schwul(藁
Ich schäme mich für deine Dummheit. 君らの周りには生きることに謙虚で誠実で思索的な人間っている? 自ら生贄になった雨乞い師親子の話しってどの本に載っていたっけ? 自ら生贄になった雨乞い師親子の話ってどういう意味? >>213
そんな内容の短編を読んだ記憶があるのですが、何に収蔵されていたか思い出せません。 >>214
それ知らないけど、すごいヘッセの主題に合う感じで面白そうだな。まだ自分のなかでヘッセの主題の定義付けは済んでもいないが 孤独を理解させ受け入れて自分のものにするのにヘッセは本当に力になってくれた
人に優しくする事は出来ないけど、人を優しく見つめられるようになった 彼の全生涯は、自分自身への愛なくしては隣人愛も不可能だということを示す実例、
また自己憎悪は、どぎつい利己主義とまったくおなじものであり、
結局はまったくおなじ恐ろしい孤立と絶望を産み出すものだということを示す実例となりました。
こういう状態からなかなか抜け出せない ヘッセに悩み相談の手紙書いて返事もらった人がうらやましい
日本でもまだ大事にヘッセの手紙保管してる人居るかな ヘッセ、T・マン等、青春時代にドイツ文学に親しんだ作家北杜夫の父、
歌人の斎藤茂吉がドイツ留学時代に詠んだ一首をたまたまネットで見つけた
一隊が Hakenkreiz(ハーケンクロイツ)の赤旗を
立てつつゆきぬ この川上に
いち早くナチスに抗議して亡命したヘッセ。
文学は政治に関わるべきではないと主張してナチの席巻を傍観し、
最終的に亡命を余儀なくされたT・マン。
戦前はナチ文学の紹介者、戦中は大政翼賛界文化部長、
戦後はヘッセの翻訳者兼日本ペンクラブ会長として常に勝ち組人生を歩んだ高橋健二。
高橋健二によってヘッセの世界にいざなわれた俺たち。
たまたま見つけた茂吉の歌から色んな感慨が湧いた 高橋健二のヘッセの翻訳すきだったのだが
大政翼賛会文化部長の件を知って以来
彼はヘッセの何を理解していたのだろうと疑ってしまう
翻訳が自分にとってよかったのなら
翻訳者の政治的信条なんて関係ないじゃないの
とも思うのだが・・・ 作家にとって人格と作品の出来不出来は別物。翻訳もおなじと思いたい。
日本の作家・芸術家・知識人って
戦時中協力→戦後くるっと転向
みたいな人が多い気がする
作品の強度も違ってくるだろうね 大政翼賛界文化部長だったり大日本言論報国会会長(徳富蘇峰)だったり
したところで、現代の目からみてそのこと自体を批判の対象にするのは簡単だが、
ことはそう単純ではない。平和主義者であっても、一旦戦争に突入してしまえば、
戦勝を期して言論活動をするのは許されるし、むしろしかるべきことでさえある。
もちろん私は逆に、戦中に軍部を批判して公職を追われたような学者も偉とする。
私が信頼できないと思うのは、戦後180度主張を変えて時流に乗った人々である。
(たとえば現首相の師匠筋に当たる人などがその一人。)
戦後公職追放などになっても節を曲げなかった人、文芸家でいえばたとえば
徳富蘇峰や保田与重郎のほうを私は信頼する。
吉田秀和も嘱託職員で文部省で戦争協力にあたることをしていたと言われるが、
せめて沈黙してくれていれば良い。批判するつもりはない。
難しいからこそ首尾一貫・言行一致が尊ばれるのだろう
ま、考えがころっとかわるのも人間らしいともいえますね ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています