フローベール
ああ、そういうことか失礼
読んだの昔なんで忘れてたわ マルセル・デュシャンがインタビューで
文学について聞かれてボヴァリー夫人だけあとは知らない
みたいなこと言っててなるほどと思った。 フローベールの小説のフランス語て現代から見たらやはり相当古めかしいの?
日本で言うと我々が漱石あたりの文章に感じる古めかしさ?あるいは江戸戯作文くらいの古さ? ヴァレリーもアカデミー・フランセーズ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E8%AA%9E%E5%8F%B2
1634年にリシュリュー枢機卿によってアカデミー・フランセーズが創設され、フランス語の純化と維持を目的とする公的機関が誕生した。
定員40名のアカデミー・フランセーズ会員は les immortels (不死者)として知られているが、これは迷信じみた考えからそうなっているのではなく、アカデミー会員が全身全霊を奉げるべく選ばれていることと、
リシュリューの定めたアカデミーの紋章に À l'immortalité ([フランス語の]不滅[のため]に)と記されていることによる。
アカデミー・フランセーズは現在も健在であり、フランス語の監視と外来語・外来表現の置き換えに寄与している。 現在のアカデミー・フランセーズ会員
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AB%E3%83%87%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%BC%E3%82%BA
ジャン=リュク・マリオン
シモーヌ・ヴェイユ
ミシェル・セール
定員40人制を堅持しているため、いわゆる「41番目の椅子」で待ったまま会員になれなかった著名人も数多い。このような人物として、デカルト、パスカル、モリエール、ルソー、プルーストなどが挙げられる。 http://www.tetsuwari.com/ydiary/show/2719
このマクシム・デュ・カンさん、若い頃はフローベルの親友で、一緒にエジプト旅行へ行き、その旅行を元に当時としては画期的な写真付きの旅行記を出版しています。
帰国後は『パリ評論』という雑誌の編集長になり、そこに自作の小説を発表しますが、『ボヴァリー夫人』を掲載したことが原因で雑誌は廃刊、フローベールとの仲も冷却化します。
その後、サン・シモンの思想に触発された形で産業を賛歌する詩を発表したり、文芸批評や美術評論なども行い、その過程でフランスを駄目にした象徴としてアカデミー・フランセーズを徹底的に非難しますが、
のちにその非難したはずのアカデミー・フランセーズの会員となり、さらに議長までつとめています。 ボヴァリー夫人読んだけど、なんかな〜
名作だと思えんかった。 と、名作だと言われると名作だと読む素直なバカが言っておりますw ただ、蓮實重彦みたいなのを典型に、
「面白い」だけではダメだ、みたいに否定的に構えるやつにとっては、
ボヴァリー夫人の方が研究しがいがあるってこと 紋切型2
2012年12月19日
http://blog.livedoor.jp/julius_caesar2/archives/55547731.html
こないだ立教で蓮實先生の講演(『ボヴァリー夫人』のフィクション論)があったから聴きにいったのだけれど、
その時に上で書いたようなフロベールと小津の「紋切型」に対する仕方みたいなものの共通性について質問したら
「フロベールと小津は一切関係ないのでその質問にはお答えできません」と一蹴されてしまいました。 >>295
ボヴァリー夫人のほうが好きな私は少数派なのかな
なんかロザネットに苛々しすぎてあれが出てきたら話が頭に入ってこなくなる >>397
蓮實重彦という個性を媒介項にして小津とフローベールに共通点を見てしまうことっていうのは徹底してロマン派的思考なんだ
彼本人がまったく別の理由からほめている現象を、彼を理由につなげてしまう、わかりやすい物語解釈に抗うという点で、
彼がそこまでシニカルにぶった切ってくれたことをいつか感謝すると思う
違うものに共通点を見出すという快楽、物語に過ぎないもの、それが他人の物語を剽窃、misuseすることに反論しないことは著者たるもののすべきことではない
そういう伝統が1940年代以降のフランス文学批評には充満している フローベール ポケットマスターピース07 (集英社文庫ヘリテージシリーズ)
堀江敏幸 編 編集協力 菅谷憲興
文章の形式は、精緻になればなるほど全体を曖昧にし、言葉もそれにともなって揮発していく。
……フローベールの言葉は、二十世紀後半以後の文学を念頭において口にされたものかと疑いたくなるほど、私にとってあたらしいものだった。
釣られるように手に取った『ボヴァリー夫人』の導入部は、たしかに、支えがなくてもに浮いているという、
強固さと頼りなさがひとつになった感覚をみごとに体現していた。(堀江敏幸・解説より)
収録内容:十一月/ボヴァリー夫人(抄)/サランボー(抄)/
ブヴァールとペキュシェ(抄)/書簡選
定価:本体1,300円+税
発売日:2016年4月20日
「ボヴァリー夫人」菅野昭正・訳
恋愛小説にあこがれたエンマは、退屈で凡庸な夫との夫婦生活に飽き飽きしていた。どうして結婚なんかしてしまったのかしら?
だがその閉塞感と倦怠感は、悲劇の始まりでもあった……。
人妻の不倫と自殺という通俗小説を芸術の域にまで高めた「ボヴァリー夫人」は大スキャンダルを呼び、ついに裁判にまで……。
フローベールの代表作。
「サランボー」笠間直穂子・訳
古代カルタゴ。戦争を終え疲弊した傭兵軍のリビア人マトーは、そのねぎらいの宴で、ハミルカルの娘であり巫女のサランボーに恋をする。
だが彼の思いをよそに、傭兵たちとカルタゴ国との溝は深まり、とうとう反乱にまで発展することに。
残虐な戦争と不毛な暴力の応酬がふたりを翻弄する。社交界に“サランボー・モード”を引き起こした、オリエンタルな情緒あふれる一作。
「ブヴァールとペキュシェ」菅谷憲興・訳
愛想のいいブヴァールと生真面目なペキュシェ、ばったり出会った筆耕屋のふたりは意気投合し、一緒に田舎で暮らすことにする。
庭園を造ったり、医学に没頭したり、さまざまな試行錯誤をするが……滑稽に奮闘を重ねるふたりを追う描写は、まるで百科事典のよう。
果たして男たちはどこへたどり着くのか。死後に発表された、フローベール未完の遺作。 フローベールは「ボヴァリー夫人」と「ブヴァールとペキュシェ」のみが重要だ
と蓮實重彦は言っていたが、それはちょっと言い過ぎだと思う。 『サランボー』こそ世紀の大傑作というのは知る人ぞ知る事実だ。 《フローベールの愚かさに対する見方のなかでもっともショッキングでもあれば、またもっとも言語道断なことは、
愚かさは、科学、技術、進歩、近代性を前にしても消え去ることはないということであり、
それどころか、進歩とともに、愚かさもまた進歩する! ということです。
……現代の愚かさは無知を意味するのではなく、先入見の無思想を意味するのだと。
フローベールの発見は、世界の未来にとってはマルクスやフロイトの革命的な思想よりも重要です。》
(クンデラ「エルサレム講演」『小説の精神』) まだページは切ってないが、手から手へと渡ってきたために仮綴じが崩れている医科学辞典の全巻が、
樅材製の書棚六段をそれだけでほとんど占領していた。
この部屋には診察の間中、壁越しにブラウン・ソースの匂いが漂ってくるからには、
診察室で患者が咳せきをしたり、相談している話など台所につつ抜けになっているに相違なかった。
台所の先は馬小屋のある中庭に面してかまどの置いてある大きな荒れた部屋となっていた。 1857年
小説『ボヴァリー夫人』フローベール36歳(1821年生) フローベールの伝記的な本ってないですかね?
まとまった分量ならば、何かの小説の解説という形でも構いません。 >>312
アンリ・トロワイヤのフローベール伝が2008年に水声社から出てる
今は絶版みたいだけど都内のデカい書店ならまだ店頭在庫あるかも
最悪Amazonで中古か図書館へ わい、ボヴァリー夫人を読み終える
おおよその粗筋と結末が悲劇的であるということは予め知ったうえで読んでいたが、それでも面白かった
久しぶりに「文学を読む」ことを堪能した フロベー 主婦ってゆうか、女子中高生とかも含めて、そもそも女って奴は退屈してんだよ。不倫したくてうずうずしてんだよ。
トルストイ、ロレンス 全くその通りで。 シャルルが鈍い男というだけの話。
ホント情けない男w
娘も可哀想過ぎる! 「物語形式のあらゆる技術的要素――単純過去形と三人称の使用、年代記的展開順序の無条件の採用、線状の筋立て、
情念の規則的な屈折、それぞれのエピソードの終局への指向、等々――
はすべて、安定した、脈絡のとれた、連続的な、包括的な、すみずみまで解読可能な世界の像をおしつけることを目的としていた。
世界の理解可能性は、疑義さえさしはさまれなかったから、物語るということは、なんら問題を生じなかった。
小説の文章(エクリチュール)は潔白であることができた。
ところが、フローベール以後、すべてがゆらぎはじめる。その後百年たって、いまではその体系全体が思い出にすぎなくなっている。
この思い出、この死んでしまった体系に、なにがなんでも小説をしばりつけておこうというわけなのである。」
『ヌーヴォー・ロマンのために』
フローベール以後、すべてがゆらぎはじめるってどういう意味ですか? 図書館にしかないような本をわざわざ読んでわからないなら
そもそも理解するのが無理なのでは? フローベール以降、何を書くかではなく、いかに書くかということが目指され、
言語の指示対象としての現実から言語そのものへという転換が起こったということ それによって言語の指示対象としての
現実・歴史・物語などに対する認識がゆらぎ始めたということ >ところが、フローベール以後、すべてがゆらぎはじめる。
と書かれているから多くの人々ということ
で、この死んだ体系に小説のみならず多くの人々を
意識するにせよしないにせよ縛りつけておこうというわけなのだ
とロブ=グリエは言いたいのでしょう 日本の文脈で言うと二葉亭以降ゆらぎはじめたってこと?
日本の場合「死んだ体系」は完全に忘れさられたが。 二葉亭や漱石・鴎外はすでに死んでいるその体系に対して
濃淡こそあれ疑いを持っていたんじゃないの?
よくは知らないが
今も昔も古今東西何の疑いもなく、その死んだ体系を死んでいるとは
まったく認識しないまま、受け入れている人がほとんどなのだろうが 323のような言い方の不毛さが現代日本文学の停滞を象徴してるのかもしれないね。
言った本人は格好いいことを言ったとでも思ってるんだろうね。 そうかな?
323はムチャクチャ親切でわかりやすい説明だと思ったが >>330
何を書くかは、いかに書くかに影響を与え、その逆も真だろうし、何を書くかそのものが、いかに書くかに含まれている。
しかも、歴史的事実を見ても、何を書くかは相変わらず無限の可能性を秘めている。
323は渡部直己クラスの3流学者の言うことを?鵜呑みにしてるだけ。 >>333
と、5流以下のゴミの影響を受けた奴が
低次元な紋切り型の意見を述べていますw
いったいその三流ではない学者は誰を想定しているの不明だがw
何を書くかは、いかに書くかに含まれるということは
あんたが言う三流学者自体がそもそも言っているのだがw
そもそも323の言っていることは歴史的事実じゃねえかよw
いわゆるフランス象徴主義やロシアフォルマリズムも含まれるロシアアヴァンギャルドなど
なかったとでも言いたいのかな?
フランス象徴主義と呼ばれる人物たちはその作品が
何かを意味するのを最終的に拒否するのを特徴としていたはずだし
ロシアアヴァンギャルドは言語などによる記号による表象=再現に対する懐疑を
特徴としていたはずだと記憶しているが >>334
フローベールと象徴主義まではずいぶん空いているけど、その間の小説家は誰ですか?
また、象徴主義作家はフローベールの言語の使い方の影響を受けていたのですか?
当時は芸術至上主義としてあまり評価は高くなかったはずですが >>336
フローベールとボードレールは同時代のはずだけど?
言語の指示対象から言語そのものへの志向という点で
フローベールとボードレールは完全に並行しているということは
いろいろ指摘されているんだけど? >>337
その二人はいつ頃フローベールの影響受けたの?
言及してる?
まさかユイスマンスの自然主義時代じゃないよな
ユイスマンスがゾラから離反してフローベールに帰依したとは知らんかった >>334
フローベールと象徴主義まではずいぶん空いているけど、その間の小説家は誰ですか?
また、象徴主義作家はフローベールの言語の使い方の影響を受けていたのですか?
当時は芸術至上主義としてあまり評価は高くなかったはずですが >>338
平行しているならフローベールがでて全てが変わったっておかしくない?
それ以前にロブグリエは韻文から散文に移行した文脈で語ってるの理解出来てる?
なんか勘違いしてないかな >>341
> ところが、フローベール以後、すべてがゆらぎはじめる。その後百年たって、
いまではその体系全体が思い出にすぎなくなっている。
この思い出、この死んでしまった体系に、なにがなんでも小説をしばりつけて
おこうというわけなのである。>>320
フローベールから(体系の)すべてがゆらぎ始めるとロブ=グリエは言っているだけで
何もかもすべて変わったなんてロブ=グリエはそんなこと一切言ってませんが?
ジョイス・カフカ・プルーストが出てくるまでにかなり間があるのに
すべてが変わったなんてロブ=グリエがいうわけがない >>338
ドラマール事件て卑俗な題材をモデルにしてるじゃないの? >>343
だから何を語るかは重要ではなく、
いかに語るかがすべてだとフローベール自ら
言っていることじゃないの >>342
きみ、その死んだ体系理解してないよね
っていうか前後の文脈読んですらいないよね
1857年にフローベールが同時代の小説家に与えた衝撃と、20世紀になってもあたらしいバルザックやゾラにない新しさごっちゃにしてるね
君が主張したがってるのは20世紀の作家批評家が発見した彼のすごさで、同時代にあたえた衝撃とは違うの
断片だけで語ろうとすると恥かくよ フローベール以前の文学は現実を写そうとした「リアリズム」の作家の時代だったってこと?
具体的に誰のことだ? 死んだ体系を理解していないのはあんただろ
フローベールが同時代に与えた衝撃と20世紀になって与えた衝撃の話のことを
ロブ=グリエがしているわけじゃねえだろ
フローベール以降、旧来の物語形式の技術的要素を支える
世界像の体系が揺らぎ始めたという趣旨で言っているのに
いったい何を話をすり替えているんだ >>347
君はリラダンやユイスマンスが死んだ体系と言われたら同意する?
それとも彼らがフローベール受け継いだ生きた体系だと思ってる?
フローベールが1857年に与えた衝撃って何? 1857年にフローベールが与えた衝撃とは
裁判によるスキャンダルで有名になったということでしょ
のちに文壇の主流になったゾラやモーパッサンなどから
自らの正当化もあって、自然主義の父として意味づけされて受容された 日本の文脈に置き換えると二葉亭以前の江戸戯作を死んだ体系、二葉亭以降擬古文が流行る(紅葉、鴎外)けど自然主義で死んだ体系は最終的に止めを刺されるという流れとは全然別物なのか? 当時の日本の自然主義が
フローベールをロブ=グリエがいう意味で受容したわけではないし
日本の自然主義は西欧の自然主義の物語内容から刺激を受けた
観念的遊戯で成り立っていると中村光夫は指摘しているのだから
西欧の文脈とは別物でしかない
日本の自然主義は言文一致の文体をほとんど違和感なく使用し始めたという話でしかない >>349
違います
ちゃんとロブグリエ読みなさい
350も全然違います
文脈をとらえるためには読まないと意味ないよ
はっきり言ってこの一節取り出して読んでない人たちが三流五流言ってるの見て、何やってんだってあきれてる
歴史的事実とか言い出したやつとリラダン、ユイスマンス持ち出したやつはちょっと恥ずかしい >>352
詳しい内容はほとんど忘れているが
ロブ=グリエの「新しい小説のために」は一応読んでいるんだけど? >>351
それだと柄谷の日本近代文学の起源やスガの日本近代文学の誕生が意味なくなるんでないの? >>354
忘れてるなら該当箇所読みなさい
その前後の文脈忘れてたら完全に無意味
君のなかではロブグリエは公序良俗にはんしたことで全てを揺らがしたって書いてあったと思ってるのね
可哀想になるわ >>356
だからそんなこと言ってねえだろ
ロブ=グリエはフローベールが1857年当時に与えた衝撃について
そもそも言及なんかしていないはず
1857年当時はスキャンダルとして受容されたのは事実だ
>>355
別に意味なくなるわけではない
西欧と日本では文脈は別なんだから
個々の作家が言文一致を疑っていたにせよ
西欧におけるフローベールや自然主義の受容のされ方と
日本におけるそれとは違うのは事実なのだから 揺らいだ死んだ体系って古典文学なのか近代リアリズムなのか? 柄谷行人の『起源』は中村光夫の『明治文学史』を標的にしたみたいだから辻褄あってるね。
日本の近代小説は近代小説の体をなしてないという中村と隅々にまで近代がインストールされているという柄谷。 >言語の指示対象としての現実から言語そのものへという転換が起こったということ
これも分かったようでよく分からないよな。 フローベール以前は現実を写せるかのように小説が書かれてたけどフローベールは現実を写すことの不可能性に遭遇したというより放棄したということかな? >>361
フローベール以前は言語による表象再現性は疑われていなかったといいたいわけ? いわゆるボードレール以降のフランス象徴主義の詩は何かを意味するのを拒否する詩なのだから
言語による表象再現性について疑われているのは否定できないんじゃないの? 何かを意味することと表象の不可能性は別じゃないの? 知らね
結果的に言語の表象再現性に対する疑いをもたらしたんじゃないの? >>365>>367
別だというならそのことについて具体的にソース付きで ロブ・グリエの発言に余りこだわるのもどうかという疑問もあるだろ。
世界的には既に彼は流行遅れの人なのだ、ということを知っておくのもそう狡いことじゃない。
そもそも「フローベール以降変わった」とかの大袈裟な物言いに際して
眉につばするぐらいの言語センスを持たなければ。 勝手にロブ=グリエを時代遅れにした上に
流行に左右されるアホw
ロブ=グリエなどが指摘した事態が時代遅れなわけがねえだろw
そもそもフローベール以降変化したのは事実じゃねえかよw
カフカ・ジョイス・プルーストがフローベール以前の作家と
同じ世界像の地平にいるとでも思ってんのか? >>370
流行遅れなのは事実じゃん。
ダサイ君は流行に左右されなくて、何に左右されるのかな? ヌーヴォロマンが時代遅れだからロブ=グリエの言説に耳を傾けなくてもよい、というのもまた極端じゃね
文学史をなぞろうと思ったらロブ=グリエの残した言葉は結構重要な位置にあると個人的に思っている フローベールの切断てロマン主義からリアリズムへってこと? 零度のエクリチュール
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%B6%E5%BA%A6%E3%81%AE%E3%82%A8%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AB
2。フローベール、ゴーチエのように時間をかけて文章を推敲彫琢してゆく職人的エクリチュール、
内容自体よりも書くための労苦自体に価値を認め、文章のリズムによって魔力的に陶酔させる。
3。伝統的エクリチュール、ジード、ヴァレリーがこの職人的エクリチュールを受け継いでいる。
4。モーパッサン、ドーデ、ゾラなどの写実主義的(自然主義的、プチブル的)エクリチュール、
写実を謳うものの写実的に見せようという作為が顕著なのが特徴、意外にも共産主義作家がこのエクリチュールを受け継いだ。
5。常套や伝統を避けて行き詰まると、ランボー、マラルメのように沈黙へと至らざるをえないオルフェウス的エクリチュール、
欲しいものがあればそれを諦めねばならない、とはいえ後ろを振り返ってしまうというジレンマが特徴。
6。カミュに代表される中性的(無垢の)エクリチュール、社会的性格を失い、文体がないという文体といえる。
他と異なり、社会的意図を示唆する作家の手先をまったく見せることのないのが特徴、それゆえに零度のエクリチュールと呼ばれる。 >>373
wくんは「ヌーヴォーロマンのために」読んだんだったら読み直して答えてあげればいいのに
死んだ体系ってどんなものか直前に書いてある
ちなみにロラン・バルトとロブ=グリエはまた微妙に違う文脈でいっている
まあ「新しい小説のために」に対して象徴派詩人出してきたりいきなりカフカに跳んでいたりするから間違いなく読んでいないけど
こういう3流だの5流だの文句だけつける知ったかクンたちと議論しても得るものはないから普通に書籍に当たることを勧める >>376
アラン・ロブ=グリエと同じく、のロラン・バルトもまた時代遅れの構造主義の文脈の人なんだよな。
構造主義が滅んで40年。 >>376
残念ながら一応読んでいるんだけどね
ワザワザ図書館の書庫にあったものを頼んで借りてね
内容の詳細は忘れているがね
>>377
取って代わったようなものなんか出てきていないのに
勝手に時代遅れにするなよ
その後のものはみんな延長線のものでしかないのに >>376
ダダの知ったかの屁理屈野郎でなければ
>>320以上のものに該当しない死んだ体系についてあんたから言えよ
これ以上の趣旨に該当しない記述はあったとは記憶していないがね
まさか、いまはバルザックやジードやラ・ファイエット夫人の時代ではない、
といったネットで検索できる程度の記述じゃねえだろうな
邦訳は「新しい小説のために」なのに「ヌーボーロマンのために」とか言っていること自体
胡散臭さ丸出しなんだよな >>376
まさか、いまはバルザックやジードやラ・ファイエット夫人の時代ではない、
といった>>320についての補足程度でしかないもので
偉そうに言っていたんじゃねえだろうな 大体が320で引用された箇所だけを読むから、センセーショナルに受け止められてしまう。
320で引用された部分のその後の文章のトーンダウンで、内容はかなり中性化され、穏健なものになってる。
320の計画的犯行だ。
実際、ロブのこのエッセイ以降に新しいnarrativeの形式は登場してる。
ロブの穏健さ、用心深さが救いになった。 >>328
柄谷行人なんかだと漱石は西欧近代小説のシステムに疑いを持ってたという解釈ですよね。