【魔の山】トーマス・マン【ヴェニスに死す】
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
無かったので、建てました。
皆さん、トーマス・マンの作品について、語り合いましょう! >>448 有難う。
こっちの方が、とっつきやすそう。 とっつきやすさとか解説のための解説を求めるような奴が
そもそもトーマス・マン読んでおもしろいか? トーマス・マンのような深遠な作家であればあるほど、そのバックグランドを
知ろうとするのは極めてまっとうな態度である。また、その分野に無知であれば、
アドバイスを仰ぐというのも賢明なことである。また、はじめから難しいものでなく、
まずとっつきやすいものからというのはこれまた道理である。
こういう風に情報が得られるのがインターネットの長所である。
450のように文句を付けるばかりが能ではない。 深遠かどうかも分からないよ。魔の山を理解する為に丁寧に何回も読んでそれを理解する価値があるのか?
ナフタやセテムブリーニの議論するテーマを別の本で理解した場合、魔の山の面白さは倍増するかも知れないけど
だったら最初から関連する学術書を読んだ方がその方面の知識が深まるわけで
やはり小説はストーリーがなくてはいけないのだけど、マンは自慰の為に自分の意見を
作品に盛り込みストーリーにしたがストーリーは大したことない。そして魔の山を教養小説とすることで
誰かがそれも日本の誰かが有難がることで価値を得ているのであって普遍的ではない。
議論の中身が一般にもっと親しみ易い内容ならば兎も角そうじゃないテーマが多い。
これが欠陥なんだよ。だから、深遠ということはないし、これを深遠と有難がるのが馬鹿と言っているようなもんだね。 面白いのと「深遠といってありがたがる」のをごっちゃにしてる奴って
面白いってのがどういうことか分からないんだろうな
文学はありがたがるもんじゃなくて面白いもんなんだよ ちなみに「魔の山」は面白いのであって、
面白さが分からないなら分かる時期がくるまで放っておけばいいだけのこと
その時期はずっと来ないかもしれないけど、世の中のすべての面白さを味わえる人間は
いないわけで、分からないならあきらめよう 本を読むというのは、自分を読むことで(プルースト)、そこに何を見るかは
読者の問題であり、本は、読むもの次第で、深遠にも軽薄にもなる。
面白いという素朴・無邪気な感想は無論大切であるが、一歩でも二歩でも
深遠なところを目指したいものである。ここに挙がっている参考書はぜひ読んでみたい。 バカは素直にドストエフスキーでも読んでありがたがっててくれ そういやヘンリー・ミラーがマンを好きな作家の一人にあげてるのを知って意外だなと思った
なんとなくナボコフみたいに嫌ってそうなイメージだったから >>464
それはお前がダウンタウンをみて笑ってるような品性下劣で低能な猿だから うそーん 笑いに溢れすぎてるでしょ
シュテール夫人など、何回読み返しても噴き出す ユーモアかくあるべしみたいなのって、ユーモアの精神から一番離れてるね ここまで誰も「かくあるべし」までは言ってないと思うが 「かくあるべし」みたいなのみたいなのファジーさをご一考願いたいねぇ すべての作者の本がという気はないが、マンの作品は
読み手の立場によってはゲラゲラ笑えるものなんだろうなとは思うよ 新参者から見た組織は、自分の過去の経験から奇異に感じるんだけど、自分がそこに入ると同化してしまう、って様が恐ろしい
ものに感じてしまった。
要はなれ、ってことなんだけど(笑 >>474
たぶんサナトリウムにハンスが慣れてくことについて書いてるんだろう。
変な文だけど >>473 そうじゃなきゃ転職など出来ないよ。そうやって人間は成長し生きていくもんだし
まさか七年かけて慣れるわけにもいかない。 なんでいきなり転職の話になるのか分からないが、とりあえず
サナトリウム並みに変な生活に感じられる会社には転職するなよとw 読むという行為は興味があればスラスラ流れるが
興味や感心を抱かせない内容であったり難解だと
読むという行為は苦痛を伴うのか流し読み斜め読みなど内容把握が疎かになり
つい、分らないところはそれでいいんだと思い勝ちだが魔の山に限っては
その飛ばしていいと思われる箇所は飛ばしてはいけない箇所である。
なぜならば、魔の山の内容はほとんどがこの難解な部分で占められ
それを理解する為に読むような作品だからだ。話の筋ストーリーなどはせいぜい100ページぐらいに収まり
魔の山において飛ばし読みを容認する者はこの点を分っていないから本末転倒なことになる。
ナフタvsセテムブリーニの論戦などは物語に関係ないと言うが
魔の山はストーリーこそ蛇足であり、この過激な論戦論争語りこそが本筋なのだ。
だから、読了後に検索により各ブログの抜粋などをじっくり読むと感心する。 もし、セテムブリーニの登場とハンス・ハンゲンとの関わりと議論を
読者に理解させる為に簡潔に必要不可欠な部分だけ人物紹介と合わせて記述したら
魔の山の魅力はどうなるか?
同じようにナフタとセテムブリーニの論争も、彼Aと彼Bは激しく〇×〇について議論した。
とだけ簡潔に記述したらどうなるか?
そしてハンス・ハンゲの細胞に関する物思いなどをも簡潔に記述し
上記すべてを簡潔にした魔の山はストーリーだけで90年近くたつ現代まで古典として残っていたのか?
残っていたとおまえら思いますか?世界文学として認識され残っていたと思いますか?おまえら。
あれこそがこの作品の本筋でありストーリーそれもショーシャとの関わりなどは裏筋でしかない。 残ってるのは魔の山だったとしても俺は他作品の方が好きかな マンのような大教養人で思想家の作品を読むためには、それなりの準備がいる。
そういう準備もせずに読んで、難しい、何を言っているのか分からない、
とこぼすのは、当たり前である。事前に、解説などで参考書を調べ、勉強しよう。 私は逆だ
『魔の山』を読んで、興味のある部分についていろいろ調べた。 >>484
教養面ばかりに注目する見方は偏ってるよ、アドバイスとしても >追記
というか言ってることが固い
マンは逆で、固いこと言ってるようで固くない 読んで→勉強して→読んで→勉強して→…、このフィードバックが大切だな。 終盤で、ショーシャ夫人の夫ペーペルコルンが登場して、
ハンスはガツンと殴られたような衝撃を受ける。
学問や理論だけの人間の薄っぺらさに気づいて、
実人生で充実した人物の魅力に心を奪われる。
しかし、これとても物語の本筋なんかじゃない。
この小説世界のどこかに俯瞰する視点があって、
つまり主役は人や理論ではなく、「時間」であるかのような。 「ベニスに死す」は、誤って「ペニスに死す」と云い間違いやすので、
これからは「ヴェネチアに死す」と、云うことにした。 >>489
ほっといてくれ、ワシはそうしたいんじゃ。 >>489 同意。調べるならば学術書で十分。魔の山で学ぶ必要はない。勿論、魔の山から学ぶのも結構だけど
小説とはそういうもんじゃないと思う。
何か中世のお坊さんの説教を有難く思っているのに似ている。
>>490 同意。時間だと思う。その長い物語の中に自分の考えていることを登場人物に語らせて
疑問が氷解するのを期待したんだと思う。
疑問が解けなければそれはそのままにして物語を進行させた。マン自身の考えを作品の中に
散りばめただけで、意図的かどうかは分らないけど時間が中心となった。
あのわけの分らない議論も小説の時間を長く感じさせる。 魔の山解説本なんてのもあっていいと思うが全くないね。
以前、インドのバガヴァッド・ギータというのを読んだのだが
その前にギータ読解本案内書みたいなのも読んだ。ちくま文庫から出ていた。
いきなり岩波文庫を読んでも意味が分らないだろうから、こういう副読本はありがたいのだけど
魔の山にはないね。 >>495
同意。446,448にあがっているよ。 >>497
ベートーベンの後期のピアノソナタとシェーンベルク、
アルバンベルクの作品はよく聞いておくよとよい。
それから、中世の魔術についても本を読んでおくとよい。
わっかていたら、お節介ごめん。 トニオ・クレエゲルもトニオが女のイヴァノーヴァさんと話すシーンが長くて魔の山みたいで苦痛だった。
高橋翻訳だけどそれが30ページぐらい続くのだが、じっくり読んでも意味が分らない。
岩波の方がよさ下。高橋は固いね。
それにマンは何を考えているのかね。二人の人物が会話するときにこんな会話あるわけないし
一方が一方的に自論を展開して相手が相槌打つだけの会話とか。。 >>492
小5の頃、友人から、「ちんこのこと、正しくはぺニスって言うんだぜ」と教えを受けて、
「えっ、それじゃあ、イタリアのぺニスは?」と心のなかで考えた俺。
あの頃はベニスではなくぺニスだと思ってた。 国立国語研究所によると、濁音を半濁音にいい間違えるのは、その逆より、
おこりやすい。バナナ→パナナ、バス→パス ベニス→ペニス。
理由はわからない。 ドイツ語なんだから
ベネディヒ(VENEDIG)に死す で。 >>461
晩年のミラーは、必ずしもマンを贔屓にしていない。
米谷ふみ子の「ミラー、メイラー会談傍聴記」に、「ベネディヒ客死」について、
「文章が長ごうて手の中でへなへなと感じだしたんを覚えてますわ。」とか、
「彼はとても優秀な大工やと思います。飾り戸棚作りや(キャビネット・メーカー)
と思います。」と、なぜか関西弁で論じている。
「大工」「飾り戸棚作り」というのは、完全なほめ言葉ではないだろう。 それは小説とはどういうものかということについての
見解の相違だと思うけどね。たとえば座れない椅子作って芸術、っていうタイプの
ものは小説は違うわけで ちょっと打ち間違えた。つまり、
言った当人はその時点では完全な褒め言葉として言ったわけではないかもしれないが、
同時にこれはもとからの深い理解に基づく分析であって、マンの読者からすれば、わりと
完全な褒め言葉として捉えうる言葉だと思う まあだから贔屓云々ではなく単に「私の道は彼と違う」ってことだと 外観(形式)はよいけれど、中身を伴わない、という意味だろう。
ミラーのような形式破壊者からすれば、マンの文学がそう見えたということだ。
「人々はヘミングウェイのよい点を認めますやろが、僕は、ただ細工の
仕方を知っている、小心で几帳面な作家や、とだけしか思わん。あんなの
を技術屋というんや。ところで、性格は違いますが、トーマス・マンもそうやと
思う。」(米谷ふみ子の「ミラー、メイラー会談傍聴記」) マンの周囲、自殺者多すぎ
批評本の、息子の死に関しての部分ほんの少し立ち読みしたけど
お前にとって身近ってなんなんだよ?って思った 小心で几帳面な作家、とは確かにマンのこと。
そもそもマンが自分のことをそう分析している。
刻苦勉励を旨とする人間だと。作家としての持ち味の違い。
「技術屋で、中身がない」ということとは違う。 岩波(関・望月訳)
・仮名遣いや言い回しが古く、原作に近い味わいがある。
・原作の「構文」を極力変えずに訳してある。(一つの文が長い)
・訳注が多い。ヨーロッパのインテリの共通認識や、セテムブリーニのセリフについての解説が詳しい。
・誤訳が多い。
新潮(高橋)
・岩波に比べるとまだしも翻訳が新しいので、現代人には読みやすい日本語になっている。
・原作の長い文を読みやすく分割している。そのため、原作とはかなり異なった単純な構文になっている箇所が多い。(原作に比べると一文が短く、句点が多い。)
・訳注が少なく、本文中で解説できるものはそうしている。
・後から出版されただけあって、岩波よりも誤訳は少ない。
読みやすさを重視するなら新潮、原作の文体や言い回しに近いほうを選ぶなら岩波 新しいとは言え、高橋訳から50年経とうとしている。
ほかの訳(円子修平、川崎芳隆、佐藤晃一)はどうなの? 日本語の翻訳が、「原作の文体や言い回しに近い」とはどうゆことか、想像不可能。 ワイフの本、家の中のマンとか(家族に朗読する習慣とか)
登場人物のモデルについてのこととか、亡命生活のこととか
結構な数の著名人との交流(文学者に限らずアインシュタイン、チャップリンとかも)とか
いろいろ書かれててそこそこ面白かった。けどその割には子が亡くなったことについてとか
そういうのは書かれてないんだな、ちょっと違和感もあった 岩波の方がいいぞ。新潮がいいと言うけど結局、ナフタセテンブリーニの会話など意味不明だから。
だったら岩波を推すね。 魔の山は名著補正甚だしいな。ヨーロッパの人間には読めても日本人には無理。
ヨーロッパ史やヨーロッパ思想を専攻科目してる人間に楽しんで読めるくらいだよ。 無理じゃない読者はどんな知識を持ち合わせてんだ?
楽しめることがそんなにエレ〜のか? 少なくとも読めない人が読める人を貶すよりかは読めて楽しめる方がいいと思います 普通「自分は楽しめなかった」で完結するところを、
「楽しめるって言ってる奴は見栄はってるだけ」とかいった方向にいく
思考回路がな 思うのだけど理解できて楽しめた読者は、魔の山副読本として
事前に誰の本を読んでおくといいか、どんな学術書を読んでおくといいか。リストアップするといいと思う。
そんなだから、いつまで経っても526みたいな読者が増える。 魔の山は青春の必読書だ
もうすぐ夏休み
中高生のみんな、この夏は魔の山でクールにいこうぜ! といってもこんな夜中に中高生諸君が起きてるとは思われないので
年寄りの僕ひとりで読み進めていくこととしよう
優れた小説はどれもそうだけど、素晴らしい書き出しだ
・・・夏の盛り、ある素直な性質の若者が生まれ育ったハンブルクからダヴォス高原へと旅をしている
ダヴォス高原には三週間ほど滞在する予定である
長旅の割には短い滞在である・・・ >>532 と言って誰もリストアップできないのが笑える。しょうがね〜から先ず俺からリストアップ。
ゲーテのファウストを筆頭に関連書物
あとこういうの→も役に立つと思う。中世哲学への招待―「ヨーロッパ的思考」のはじまりを知るために (平凡社新書) 誰だったか「オレはいま、知的好奇心に燃えている。『魔の山』だって読めそうだ」と書いていた。
この人にとっては『魔の山』を読めるということが知的レベルの指標のようである。 魔の山を必読書なんて特に思わないし、マンなら他の方が面白い ドイツ題名は知らんが英語題名はtheMagicMountainなんだよな。
邦題が魔の山なんだがコレは見事としかいいようがないくらいに吸引される。
で、内容と題名が合うかと言えばソンナことはなく外れてると思う。
だから題名で日本では名著補正がかかっているのだろう。
現に魔の山がいかに素晴らしいか!?名著であるかを語るコメントないもんな。 モーツアルトの『魔笛』も、英語では"The Magic Flute"ですね。 ドイツ語でも「魔法の山」Der Zauberberg
魔法使いとか呪文とかの「魔法」だから、内容と書名はぴったり合致。
魔法のお山での人々のくらしを
(俯瞰的に、あるいはドタバタ気味に)描いた人間喜劇ですからね。
魔法のかかったお山の外(下界)は、政治も経済も混沌として、
ついには人類史上初めての世界大戦がひきおこされる。
実はお山の上でも、下界の混沌のミニチュァ版の世界が
繰り広げられるのですが、そこは魔法の粉がふりまかれていて、
時間も間延びしていて、何やらおとぎ話的な悠長さが支配している。
確かに、当時の難解な思潮や政治がエキセントリックに議論されるけれども
それは主題ではないから。人間喜劇を書こうとして、しかもシニカルなマンの
面目躍如の傑作ではないですか。 たぶん>>542みたいなのは、「名作」=難しくてふざけてないもの
と思ってるんだろうな。
魔だと難しそうでかっこいいけど魔法は子供っぽい!
だから本当は駄作なの! と言い張る小学生、みたいな…… で?!如何に魔の山が名著であるかを誰も説明していない件について誰も語れない。 なんでここでそれが分からん奴にあえて説明しないといけないんじゃ
甘えんなボケ ベニスに死すとすげ替えられた首は見たけど、マン作品の映像化されたもので
日本語訳があるものってどれくらいあるん?あとは魔の山くらい?
ブッデンブローク、マリオと魔術師も海外ではあるらしいけど情報不足でよくわからん ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています