【魔の山】トーマス・マン【ヴェニスに死す】
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無かったので、建てました。
皆さん、トーマス・マンの作品について、語り合いましょう! 「ベニスに死す」は、誤って「ペニスに死す」と云い間違いやすので、
これからは「ヴェネチアに死す」と、云うことにした。 >>489
ほっといてくれ、ワシはそうしたいんじゃ。 >>489 同意。調べるならば学術書で十分。魔の山で学ぶ必要はない。勿論、魔の山から学ぶのも結構だけど
小説とはそういうもんじゃないと思う。
何か中世のお坊さんの説教を有難く思っているのに似ている。
>>490 同意。時間だと思う。その長い物語の中に自分の考えていることを登場人物に語らせて
疑問が氷解するのを期待したんだと思う。
疑問が解けなければそれはそのままにして物語を進行させた。マン自身の考えを作品の中に
散りばめただけで、意図的かどうかは分らないけど時間が中心となった。
あのわけの分らない議論も小説の時間を長く感じさせる。 魔の山解説本なんてのもあっていいと思うが全くないね。
以前、インドのバガヴァッド・ギータというのを読んだのだが
その前にギータ読解本案内書みたいなのも読んだ。ちくま文庫から出ていた。
いきなり岩波文庫を読んでも意味が分らないだろうから、こういう副読本はありがたいのだけど
魔の山にはないね。 >>495
同意。446,448にあがっているよ。 >>497
ベートーベンの後期のピアノソナタとシェーンベルク、
アルバンベルクの作品はよく聞いておくよとよい。
それから、中世の魔術についても本を読んでおくとよい。
わっかていたら、お節介ごめん。 トニオ・クレエゲルもトニオが女のイヴァノーヴァさんと話すシーンが長くて魔の山みたいで苦痛だった。
高橋翻訳だけどそれが30ページぐらい続くのだが、じっくり読んでも意味が分らない。
岩波の方がよさ下。高橋は固いね。
それにマンは何を考えているのかね。二人の人物が会話するときにこんな会話あるわけないし
一方が一方的に自論を展開して相手が相槌打つだけの会話とか。。 >>492
小5の頃、友人から、「ちんこのこと、正しくはぺニスって言うんだぜ」と教えを受けて、
「えっ、それじゃあ、イタリアのぺニスは?」と心のなかで考えた俺。
あの頃はベニスではなくぺニスだと思ってた。 国立国語研究所によると、濁音を半濁音にいい間違えるのは、その逆より、
おこりやすい。バナナ→パナナ、バス→パス ベニス→ペニス。
理由はわからない。 ドイツ語なんだから
ベネディヒ(VENEDIG)に死す で。 >>461
晩年のミラーは、必ずしもマンを贔屓にしていない。
米谷ふみ子の「ミラー、メイラー会談傍聴記」に、「ベネディヒ客死」について、
「文章が長ごうて手の中でへなへなと感じだしたんを覚えてますわ。」とか、
「彼はとても優秀な大工やと思います。飾り戸棚作りや(キャビネット・メーカー)
と思います。」と、なぜか関西弁で論じている。
「大工」「飾り戸棚作り」というのは、完全なほめ言葉ではないだろう。 それは小説とはどういうものかということについての
見解の相違だと思うけどね。たとえば座れない椅子作って芸術、っていうタイプの
ものは小説は違うわけで ちょっと打ち間違えた。つまり、
言った当人はその時点では完全な褒め言葉として言ったわけではないかもしれないが、
同時にこれはもとからの深い理解に基づく分析であって、マンの読者からすれば、わりと
完全な褒め言葉として捉えうる言葉だと思う まあだから贔屓云々ではなく単に「私の道は彼と違う」ってことだと 外観(形式)はよいけれど、中身を伴わない、という意味だろう。
ミラーのような形式破壊者からすれば、マンの文学がそう見えたということだ。
「人々はヘミングウェイのよい点を認めますやろが、僕は、ただ細工の
仕方を知っている、小心で几帳面な作家や、とだけしか思わん。あんなの
を技術屋というんや。ところで、性格は違いますが、トーマス・マンもそうやと
思う。」(米谷ふみ子の「ミラー、メイラー会談傍聴記」) マンの周囲、自殺者多すぎ
批評本の、息子の死に関しての部分ほんの少し立ち読みしたけど
お前にとって身近ってなんなんだよ?って思った 小心で几帳面な作家、とは確かにマンのこと。
そもそもマンが自分のことをそう分析している。
刻苦勉励を旨とする人間だと。作家としての持ち味の違い。
「技術屋で、中身がない」ということとは違う。 岩波(関・望月訳)
・仮名遣いや言い回しが古く、原作に近い味わいがある。
・原作の「構文」を極力変えずに訳してある。(一つの文が長い)
・訳注が多い。ヨーロッパのインテリの共通認識や、セテムブリーニのセリフについての解説が詳しい。
・誤訳が多い。
新潮(高橋)
・岩波に比べるとまだしも翻訳が新しいので、現代人には読みやすい日本語になっている。
・原作の長い文を読みやすく分割している。そのため、原作とはかなり異なった単純な構文になっている箇所が多い。(原作に比べると一文が短く、句点が多い。)
・訳注が少なく、本文中で解説できるものはそうしている。
・後から出版されただけあって、岩波よりも誤訳は少ない。
読みやすさを重視するなら新潮、原作の文体や言い回しに近いほうを選ぶなら岩波 新しいとは言え、高橋訳から50年経とうとしている。
ほかの訳(円子修平、川崎芳隆、佐藤晃一)はどうなの? 日本語の翻訳が、「原作の文体や言い回しに近い」とはどうゆことか、想像不可能。 ワイフの本、家の中のマンとか(家族に朗読する習慣とか)
登場人物のモデルについてのこととか、亡命生活のこととか
結構な数の著名人との交流(文学者に限らずアインシュタイン、チャップリンとかも)とか
いろいろ書かれててそこそこ面白かった。けどその割には子が亡くなったことについてとか
そういうのは書かれてないんだな、ちょっと違和感もあった 岩波の方がいいぞ。新潮がいいと言うけど結局、ナフタセテンブリーニの会話など意味不明だから。
だったら岩波を推すね。 魔の山は名著補正甚だしいな。ヨーロッパの人間には読めても日本人には無理。
ヨーロッパ史やヨーロッパ思想を専攻科目してる人間に楽しんで読めるくらいだよ。 無理じゃない読者はどんな知識を持ち合わせてんだ?
楽しめることがそんなにエレ〜のか? 少なくとも読めない人が読める人を貶すよりかは読めて楽しめる方がいいと思います 普通「自分は楽しめなかった」で完結するところを、
「楽しめるって言ってる奴は見栄はってるだけ」とかいった方向にいく
思考回路がな 思うのだけど理解できて楽しめた読者は、魔の山副読本として
事前に誰の本を読んでおくといいか、どんな学術書を読んでおくといいか。リストアップするといいと思う。
そんなだから、いつまで経っても526みたいな読者が増える。 魔の山は青春の必読書だ
もうすぐ夏休み
中高生のみんな、この夏は魔の山でクールにいこうぜ! といってもこんな夜中に中高生諸君が起きてるとは思われないので
年寄りの僕ひとりで読み進めていくこととしよう
優れた小説はどれもそうだけど、素晴らしい書き出しだ
・・・夏の盛り、ある素直な性質の若者が生まれ育ったハンブルクからダヴォス高原へと旅をしている
ダヴォス高原には三週間ほど滞在する予定である
長旅の割には短い滞在である・・・ >>532 と言って誰もリストアップできないのが笑える。しょうがね〜から先ず俺からリストアップ。
ゲーテのファウストを筆頭に関連書物
あとこういうの→も役に立つと思う。中世哲学への招待―「ヨーロッパ的思考」のはじまりを知るために (平凡社新書) 誰だったか「オレはいま、知的好奇心に燃えている。『魔の山』だって読めそうだ」と書いていた。
この人にとっては『魔の山』を読めるということが知的レベルの指標のようである。 魔の山を必読書なんて特に思わないし、マンなら他の方が面白い ドイツ題名は知らんが英語題名はtheMagicMountainなんだよな。
邦題が魔の山なんだがコレは見事としかいいようがないくらいに吸引される。
で、内容と題名が合うかと言えばソンナことはなく外れてると思う。
だから題名で日本では名著補正がかかっているのだろう。
現に魔の山がいかに素晴らしいか!?名著であるかを語るコメントないもんな。 モーツアルトの『魔笛』も、英語では"The Magic Flute"ですね。 ドイツ語でも「魔法の山」Der Zauberberg
魔法使いとか呪文とかの「魔法」だから、内容と書名はぴったり合致。
魔法のお山での人々のくらしを
(俯瞰的に、あるいはドタバタ気味に)描いた人間喜劇ですからね。
魔法のかかったお山の外(下界)は、政治も経済も混沌として、
ついには人類史上初めての世界大戦がひきおこされる。
実はお山の上でも、下界の混沌のミニチュァ版の世界が
繰り広げられるのですが、そこは魔法の粉がふりまかれていて、
時間も間延びしていて、何やらおとぎ話的な悠長さが支配している。
確かに、当時の難解な思潮や政治がエキセントリックに議論されるけれども
それは主題ではないから。人間喜劇を書こうとして、しかもシニカルなマンの
面目躍如の傑作ではないですか。 たぶん>>542みたいなのは、「名作」=難しくてふざけてないもの
と思ってるんだろうな。
魔だと難しそうでかっこいいけど魔法は子供っぽい!
だから本当は駄作なの! と言い張る小学生、みたいな…… で?!如何に魔の山が名著であるかを誰も説明していない件について誰も語れない。 なんでここでそれが分からん奴にあえて説明しないといけないんじゃ
甘えんなボケ ベニスに死すとすげ替えられた首は見たけど、マン作品の映像化されたもので
日本語訳があるものってどれくらいあるん?あとは魔の山くらい?
ブッデンブローク、マリオと魔術師も海外ではあるらしいけど情報不足でよくわからん そもそも名著補正のかかった作家なだけで面白くないから翻訳数も少ない。 名著補正もかからない作家の方が圧倒的多数なんだからかかっただけでも大したもんなんだよ というか、いくら補正かけても名著に見えないものは見えない ブッデンブローク(08年版)は以前、新宿で上映されてたのか・・
そのときは字幕あったのかな 名著?の証になるかどうかはおいといて、
たとえば松岡正剛の「千夜千冊」
http://1000ya.isis.ne.jp/0316.html 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:8a1d671deac21a48eb6b1e34309afde7) 未だ名著であることを語れるコメントのなさwww
松岡正剛が取り上げると名著になるのか?読んだ記憶あるな。
みんな分かってねんじゃね。 >>556
まずあなたが自分の考える「名著」とは何かを
言ってごらん。聞いてあげるから。 『魔の山』は読み応えがあるね。
分量から言えば『ブッデンブローグ』や『ヨゼフとその兄弟』には及ばないかもしれないが、読了後の充実感はマンの小説の中でピカ一。 >>561
しっかり勉強して読むと、深さがわかるよ。 >>561 で、どんな感じなの? まだ読んだことないんだ、僕。 おしえてよ。
事前に読むべき本とかさ。 Bildungsromanとは、教養小説と言われているが、正確には、「人格形成小説」である
若者が、一人前の大人になっていく過程を描いたものだ
『魔の山』は、サナトリウムを大学に変えてみればよくわかる
大学の授業において、啓蒙主義とロマン主義の間で揺れ動き
パーティのどさくさで一夜かぎりの初体験
新興宗教の勧誘のわながあり
親友の死をきっかけに、その誘いに乗ってしまう
就活で実業界の人物に接触して現実に目覚める
恋の相手は去ってしまい
最後は平凡な大人になって就職して行く >>566
>最後は平凡な大人になって就職して行く
ハンス・カストルプは7年をお山で過ごすが、
第一次世界大戦が勃発すると、
弾かれたように下界に降りていき、
最後は…。 いとこが死んでから、ハンス・カストルプの運気は下がりっぱなし。
最後は亡命ユダヤ人と同じテーブルに座り、挙句の果てに徴兵されて死ぬ。 それでおもろいか?www 日本のそれそのままを比喩的に書いたに過ぎず
566の言説のままならば非常につまらない名著だなぁ 571は煽りなんだろうけど、正直、面白くないから読んでるってのはある
以前同じことレスしたけど 翻訳家の力量によるのかもな。分からんけど。
あれ、原文に忠実じゃなくてもうちょっと日本語日本人よりの文章に翻訳してはいけないもんかね?
子供とターミネーター3見てたのだが、普段字幕が子供一緒だから吹き替えだったんだけど
爆笑しっぱなしだった。多分、字幕じゃ爆笑しなかったと思うんだな。
それを日本人の文章と同じような感じで翻訳できないもんかね?
原文忠実だとどうしても硬くなるんじゃないかと想像する。 外国文学はみんなそうだけど、やっぱり原語で読まないとダメだよ。
俺はマンのドイツ語の感触が好きだから、ヨーゼフを原文で完読できた。
こんなの日本語訳で読んでも面白くもなんともない。 好きだと言いつつ「こんなの」よばわり……
原語至上主義は日本語の感覚の悪さのせいという疑念が 原語で読めるのは限られてしまうから、やはり翻訳をもうちょっと柔軟にして欲しい。
原語読めるならそのニュアンスとか雰囲気も分かるわけでしょ。
それを原語に忠実に訳すとつまらないものになるんじゃないかなぁ。
魔の山は本当につまらなかった。原語読める人に原語と翻訳の雰囲気の違いを教えて欲しい。
やはり違うんじゃないの? 「柔軟な翻訳」の日本語は気色悪いことが多いのでやめてほしい どの訳者を言ってるのかわからんが実吉捷郎はなんとなく好きだぞ 「魔の山」読み終わったあ!深いというより豊かだ、この小説は。退屈だけど良かった。 >深いというより豊かだ、この小説は。退屈だけど良かった。
シュティフターの『晩夏』を読み終えたときに、
同じ感想をもった。 >>583
絶版だけど、集英社の圓子修平訳が味わい深い。 トーマス・マンの妻はナスターシャ・キンスキーに似ている。 ナスターシャ・キンスキー
好きだった。きりっとした美人だったな。 そろそろ『ファウストゥス博士』を新潮社の圓子修平訳で読もうかな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています