【生誕103年】太宰治イベント第2巻【没後64年】
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前スレ 【生誕100年】太宰治イベント情報【没後60年】 >>331
魯迅・・・吶喊、彷徨、朝花夕拾、故事新編、野草、阿Q正伝、藤野先生 (天声人語)消えていく方言
歌人にして劇作家、今年が没後30年の寺山修司は方言への思いが深かったようだ。若いころの一首に〈ふるさとの訛りなくせし友といてモカ珈琲はかくまでにがし〉がある。
故郷の青森と東京が今よりずっと「遠かった」時代である。歌には、ふるさとの言葉への愛憎が微妙に行き交う。
そして標準語がそぎ落としたものへの哀惜が、歌からにじんでくる。共通語では言い換えのきかない方言と訛りは、陰影に富んで、懐が深い
そうした言葉のいくつかが、東日本大震災の被災地で消えかかっているそうだ。
東北大の小林隆教授が調べたら、とりわけ危うい言葉が143語あった。懸念される語は数倍にのぼるという。
かねての過疎化に、震災が追い打ちをかけているらしい。石巻市の「ド(雄牛)」や陸前高田市の「ジップグレ(梅雨)」などが該当する。
近代化の中で東北弁は縮こまりがちだった。震災の後、豊かな地域性の証しとして見直されつつある。残す手だてはないものかと思う
20年ほど前、「街道をゆく」で青森を訪ねた司馬遼太郎が「津軽や南部のことばをきいていると、そのまま詩だとおもうことがある」と書いていた。
旅の者の感傷ではあるまい。東北に限らず、ふるさとの言葉は、よく使い込まれた道具のように心を語る
戦後の列島は均質な金太郎飴となった。そして今、グローバル化が席巻する時代である。
土地土地にこんもり茂っていた「方言の森」が枯れてしまえば、日本語は何とも平べったくなる。 (再読 こんな時、こんな本)不倫はブンガクだ! ブックファースト新宿店・守田一雄さんに聞く
かつて「不倫は文化だ」と言ったの、言わないので物議を醸した男性タレントがいた。その伝を借りて言うなら、「不倫はブンガクである」と言えるかもしれない。
多くの小説がこのやっかいなテーマを取り上げている。「元祖不倫文学といえばこれ」と守田さんが取りあげたのが(1)『緋文字(ひもんじ)』である。
舞台は絶対的なピューリタン信仰が支配した17世紀の米国。夫が事故死したと思った人妻ヘスターは、心を寄せていた牧師と関係を結んで子どもを出産、
不義・密通の罪で断罪される。緋色の文字で胸に「A」を縫い付けた服を着せられて、さらし者になった。「A」は姦淫を表す「Adultery」の頭文字である。
この小説、ただの不倫話であったなら、今日まで読み継がれることはなかっただろう。ヘスターはけなげにも不倫相手を明かさず、牧師は聖職者であり続ける。
作者はピューリタン社会の汚点と言われた事件、「セーラムの魔女狩り」を小説の題材とした。信仰とは何か。その罪深さともろさを問うている。
次に紹介する(2)『マディソン郡の橋』は、メリル・ストリープ主演で映画化されて話題になった。ある日、田舎町に住む農夫の妻・フランチェスカは、
橋の撮影に訪れたカメラマン、ロバートと出会う。地域でも家庭でも孤独だった人妻と、組織や集団の中で生きることができない男の間に強力な磁力が働く。
人は時間の長さで生きているのではない。運命的に出会った2人の恋は、人妻が家族を捨てられず、たった4日間で終わる。その後、2人は再会することはなかったが、
死ぬまで互いを思い続けた。何を背負い、何を捨てていくのか――そんな自問自答の連続が人生でもある。それにしても、と守田さんはいう。
「価値観や宗教観の違いでしょうか? 海外の不倫文学は日本のように、泥沼にならない結末が多いように思う (3)『荒地の恋』は、その泥沼不倫の最たる物語である。詩人・田村隆一の妻と、田村の親友であり同じく詩人だった北村太郎が不倫関係に陥った実話が基になっている。
「倫(みち)ならない恋」に勝者はいない。2人の仲を感じとった田村は妻、友人、それぞれの関係を維持しながら、一方でじりじり2人の関係を引き裂いていく。
果てに田村は酒毒に侵され、田村、北村の妻はともに壊れる。新聞社の優秀な校閲記者だった北村は家庭も職場も捨てた。悲しみの産物である言葉は
むごたらしい状況にあってこそ、しかし、鋭く輝く。田村、北村は現代詩に足跡を残した。「2人の詩人は三つどもえの関係を続けることで、自らの言葉を紡ぐ行為に
昇華させていったのではないか」と守田さんは見る。(4)『火宅の人』は檀一雄の私小説。愛人との生活の一部始終を書いてセンセーションを巻き起こした。
檀には前妻が病死するまでを書いた『リツ子 その愛・その死』もある。波乱の人生を「モガリ笛 幾夜もがらせ 花ニ逢(あ)はん」と辞世の句に詠んだ。(大嶋辰男)
◇国武万里「ポケベルが鳴らなくて」(聴くなら)1993年に放送された同名テレビドラマの主題歌。主人公のサラリーマン(緒形拳)が、
娘の親友でもある29歳年下の女性(裕木奈江)と不倫関係になり……というお話だった。視聴率的には大ヒットしたとはいえない作品だが、
「♪ポケベルが 鳴らなくて 恋が待ちぼうけしてる」という主題歌のサビの部分と、演じた役のイメージから、気の毒にも裕木に対する激しいバッシングが
起きたことが記憶に残る。自分からは連絡が取れず、待つしかない「愛人」の立場を、当時流行していたポケベルを小道具に、切なく表現しているところがにくい。
作詞は秋元康だ。「人気テレビドラマ主題歌集」(2012年/ポニーキャニオン、2800円)には、ほかにも「ダイヤル回して手をとめた」でおなじみ
「恋におちて」(「金曜日の妻たちへ3」主題歌)なども収録。道ならぬ恋も、スマホやツイッターの登場で様変わりしてるのだろう。(浩)
(1)ホーソーン著、1850年(新潮文庫、483円)(2)ロバート・ジェームズ・ウォラー著、1992年(文春文庫、550円)
(3)ねじめ正一著、2007年(文春文庫、610円)<記者のお薦め>(4)檀一雄著、1975年(文春文庫、704円) 田中英光著『桜・愛と青春と生活』(文庫情報)
父親と郷里の人々への思いをつづる「桜」など初期作品5編。
川村湊解説、島田昭男による作家案内も。
(講談社文芸文庫・980円) >>329
ご紹介ありがとう御座います。
探して読んでみます。 >>329
ご紹介ありがとう御座います。
探して読んでみます。 >>301
行ってみたらどお
それなりの収穫があるかも
白百合忌 犬をえらばば 安岡章太郎著
犬をえらぶのは人であり、我々は犬の主人のつもりでいる。それは本当か。「第三の新人」を代表する作家、安岡章太郎さんはいう。
〈犬を連れて散歩するとき、自分では犬を引っぱっているつもりでも、本当はたいてい犬が人間をひっぱっている〉と。
本書は、親友の作家、近藤啓太郎のすすめで紀州犬「コンタ」を飼い始めてからの日々を描く随想であり、犬と人間とのかかわりをエスプリを交えてつづる交友録でもある。
登場するのは坂口安吾、吉行淳之介、志賀直哉……。生きた文壇史も味わえる。著者と同様、慶応予科に入るまでに3浪した遠藤周作の飼い犬が
〈ボロボロの綿のはみ出た布団みたいな犬だ〉と聞き、〈さもありなん〉と同病相憐れむに似た思いを抱く場面などエピソードも面白い。
犬も文学も〈現世では得られぬ何物かがある〉と著者は思う。だから芥川賞など現世の栄誉を受けると矛盾を感じ、不安と苦痛を感じるという。卓抜な文学論にもなっている。
(講談社文芸文庫、1300円) (花と人の物語)富士河口湖町・天下茶屋 「富士には月見草がよく似合う」 /山梨県
富士北麓に来る人たちと一緒に歩き、自然と歴史をやさしい言葉で案内する。日本自然保護協会・自然観察指導員の加藤信子さん(67)。
富士山にあこがれ千葉県から鳴沢村に引っ越した1997年、加藤さんは自動車免許を取ると、初夏の山道を御坂峠へ走った。標高約1300メートルに木造家屋がある。
太宰治がかつて滞在した「天下茶屋」(富士河口湖町)だ。朝方の茶屋の近くで、一般に月見草と呼ばれる黄色いオオマツヨイグサを見た。
背景に富士山。太宰の小説「富嶽百景」の一節「富士には月見草がよく似合う」の風景だ。加藤さんは若いころ、「富士山に小さな月見草がなぜ似合うのか」が
理解できなかった。しかし、河口湖の向こうに富士山がそびえ、前景に迫る花は「凜として咲いている」と納得した。「富士山を眺める視点を少し変えるだけで、
景色はがらりと変わる。ここの自然にはたくさんのワクワクがまだ眠っている」。北麓の新たな魅力と出合う日々が続く。*天下茶屋の2階は太宰治記念館。
毎年6月中旬、太宰をしのぶ山梨桜桃忌があり、甲府市在住の橘田茂樹さん(63)ら研究者や愛好家が集う。近くには「月見草」の一節を刻んだ文学碑もある。
太宰は37年に離婚。心中未遂の過去をひきずり、酒や薬物におぼれた。38年9月、東京の下宿を引き払って天下茶屋に来訪。太宰を心配する井伏鱒二の計らいで
約2カ月滞在し、執筆にいそしんだ。「富嶽百景」は冒頭で、主人公が茶屋から見た富士山を「まるで、風呂屋のペンキ絵だ」と拒絶する。
しかし、茶屋の人々と徐々に心を通わせ、景観にもなじんでいく。 後半には、路傍の「黄金色の月見草」を「富士の山と、立派に相対峙し、みじんもゆるがず、……けなげにすっくと立っていた」と描く。
橘田さんは「太宰は月見草に、これから頑張ろうという前向きな意思を示した。茶屋は過去を断ち切り、再出発する場所になった」と語る。太宰は茶屋滞在中に見合いをし、
39年1月からは甲府市で再婚生活を始めた。著作は39年に「富嶽百景」「女生徒」、40年に「走れメロス」と傑作が相次いだ。*実は、ツキミソウの花は白い。
植物学者の湯浅浩史氏は太宰が黄色いオオマツヨイグサとツキミソウを「間違えた」と指摘した。いずれも夜間に花が開く外来種だ。白いツキミソウは日本で自生が難しく、
富士吉田市の小林美智子さん(75)は種を市民に配り観賞会を毎夏開く。最近の北麓にはオオマツヨイグサよりも小ぶりで黄色いアレチマツヨイグサが目立つ。
富士河口湖町の町花は「月見草」。太宰が見たオオマツヨイグサのことだ。北麓でもうすぐ見ごろになる。漢字で書く月見草の黄色いイメージは、太宰によって定着している。(村野英一)
最新開花情報 <恩賜林庭園のキンギョソウ> ピンクや白の花が見ごろ 富士吉田市上吉田 庭園(0555・22・3355)
<県富士川クラフトパーク> 黄色の金糸梅やサツキが見ごろ 身延町下山 クラフトパーク(0556・62・5545)
<県八ケ岳自然ふれあいセンター> ツツジとサラサドウダンが見ごろ 北杜市大泉町西井出 センター(0551・48・2900)
<ハイジの村のバラ> 早咲きの品種は満開 北杜市明野町浅尾 ハイジの村(0551・25・4700)
三鷹で太宰百夜百冊の百夜目の講座があったらしいんですけど
どんなお話しだったか行った方教えて戴けませんか >>300>>301>>341 白百合忌
以前行ってガッカリした。
打ち上げで男子がヘビスモでウンザリ。 「三島由紀夫、左手に映画」(山内由紀人/河出書房新社) [1960年の谷崎](7)三島 最も損な役回り(連載) 読売新聞 2013.06.13
谷崎潤一郎が候補に入り、川端康成が賞を射止めた日本のノーベル文学賞の歴史において、最も損な役回りを演じたのは、三島由紀夫だ。
1958年に谷崎、61年に川端の推薦文を書いている。後には受賞の可能性をうわさされながら、結局、先輩の引き立て役となった。
東大法学部を卒業後、入省した大蔵省をやめて専業作家となった三島は、出世作の『仮面の告白』を49年に刊行した2年後、世界旅行を経験している。
『潮騒』に続き、『近代能楽集』が英訳された57年には、米国に滞在した。国際的な知名度の高さが、推薦文を書く理由となったのだろう。
いずれも英文で、谷崎については日本の伝統と現代の西洋文学を融合した作家と指摘し、「彼の主題は限られて見えるかもしれないが、
その芯には常に理想主義的な批評意識がある」と紹介した。川端は、「人間の本源的な孤独と、愛の閃きのうちに一瞬垣間見られる不滅の美とのコントラスト」が
彼の作品の主題だと評している。丁寧な文書の書き方には、日本文学を世界に広める使命感のようなものがにじむ。谷崎は65年に死去し、
68年、川端が日本初のノーベル文学賞に決まる。そして三島の受賞の可能性は消えた。もし違う結果ならば、70年、割腹自殺を遂げた彼の最期は変わったのだろうか。
栄光に輝いたわずか4年後、72年にガス自殺した川端の人生も——。時として賞は、作家を生死の極限まで追い詰めることがある。それでも、代え難い魅力を放ち続ける。
「単純な名誉欲だけではないと思う」。三島の専門家の井上隆史・白百合女子大教授は語る。「賞を受け、作品が世界的に理解された感触を得ることによって、
書き手の根源的な孤独が解消されるからではないか」戦後のノーベル文学賞の業は深い。ただ、日本文学を海外に広めた功績は計り知れないほど大きい。
伝統を重ねながら、今年の秋もまた、賞のシーズンを迎える。(文化部 待田晋哉) 第3回太宰歌留多大会(五所川原)
19日。午後1時40分から、太宰治記念館「斜陽館」。
「津軽」など、太宰治の小説作品から印象的なフレーズを抜き出したオリジナルのかるたを使い、遊びながら作品に親しむ。
参加無料。定員16人(先着)。希望者は電話で申し込む。問い合わせや申し込みは、同館(0173・53・2020)へ。 桜桃忌なのに静かだな
来年は初めて参加してみよう
生きてたら ↑
今に始まったこっちゃないよ
昔っからだよ
先代とはえらい違い
名士風吹かしてるw たかがボウズ風情がw 太宰は自分をユダに見立ててイエス=共産党を輝かせようとしたって本当ですか? ある業界紙からの転載です。
川端は三島の自殺後、そのつらい胸のうちを吐露し「三島君の死の行動について、今私はただ無言でいたい。」(『三島由紀夫』)と言っている。
三島は、芥川龍之介の睡眠薬自殺について「私は自殺する人間がきらいである。(中略)自殺する文学者というものを、どうも尊敬できない。」(『芥川龍之介について』)と言っている。
その三島も異常な割腹自殺、三島の師川端康成もガス自殺と、文学者は死に急ぐ。
創作活動における苦しみか、日常生活の悩みか、それとももっと別次元の問題か、自殺する人の心の中は誰ものぞくことはできない。
司馬遼太郎は、三島の死を政治的死ではなく、三島独自の思想であり、日本人の精神の歴史的系列とは別個のものだ、としている。
「三島氏の死は、氏はおそらく不満かもしれないが、文学論のカテゴリーにのみとどめられるべきもので、
その点、有島武郎、芥川龍之介、太宰治とおなじ系列の、本質はおなじながらただ異常性がもっとも高い」(『司馬遼太郎が考えたこと』)と言う。 第八回安吾賞 「出でよ、現代の安吾」
賞金100万円 募集締切 13/7/31 ●あのとき、文学があった--「文学者追跡」完全版●
小山鉄郎、論創社、¥3,800-
あっという間に読み終えた。
実に面白かった。 あっという間に読み終えた。
実に面白かった。
そうだ、そしてあとは自費出版のローンが残っているだけだ。
がんがれ、小山。 もし太宰が2ちゃんやってたら、ダメポとか言ってそう 太宰が旧制弘前高校時代、芥川の自死に激しいショックを受けたのは有名な話
【文学+−×÷】芥川龍之介編
13/8/9(金)〜11/24(日):6公演
主催:NPO法人らふと ぢゃあ あたしも
『芥川龍之介ナイト / 京都を彷徨うチリアクター -京都アクタガワ観測ラボ-』
9/14(土)18時、15(日)13時・18時、16(月・祝)
4団体公演 @京都・アトリエ劇研 県近代文学館・寺山修司展で文学講座「太宰への愛情感じる」清水会長(寺山修司国際学会)が講演 2013年8月2日東奥日報
青森市の県近代文学館で開催中の特別展「寺山修司没後30年」の関連イベントとして第1回文学講座が7月28日、同市の県総合社会教育センターで開かれた。
講師の国際寺山修司学会会長・清水義和さんは「寺山修司と太宰治〜二人のしゅうじ〜」と題し講演。「寺山作品を丁寧に見返していくと太宰への深い愛情を
くみ取ることができる」と、寺山にとって同郷の先輩作家である太宰治(本名・津島修治)がどんな存在だったのかを解き明かした。 清水さんは、寺山が書いた
エッセー「歩けメロス」を例に挙げ「一見、太宰をこき下ろしているような誤解を与えるが、頭を柔軟にして寺山の作品を見返してみると、太宰を非常に深く
愛していると察することができる」と指摘。 また、歌集「田園に死す」の一節「もしかしたら、私は憎むほど故郷を愛していたのかもしれない」を取り上げ、
「『私は憎むほど太宰を愛していたのかもしれない』に読み替えたい。太宰がいなければ寺山の存在もなく、二人は非常に精巧に絡み合っている。
研究者の一人としてこれからも新しい寺山像を明らかにしていきたい」と述べた。 講演で清水さんはスクリーンを使い、寺山のこれまでの作品や映像論について解説。
「斬新なアイデアには驚かされるばかり。寺山さんは30年早く時代を先取りしていた」と話した。 同講座ではこのほか、テラヤマワールド代表の九條今日子さんや、
三沢市寺山修司記念館館長で詩人の佐々木英明さんによる対談も行われた。 特別展は9月8日まで。第2回文学講座は18日午後1時15分から、県立図書館4階で。
前「暖鳥」主宰の新谷ひろしさんと、青森大学社会学部教授の久慈きみ代さんが講演する。 申し込み・問い合わせは同文学館(電話017・739・2575)へ。(笹森美香) 『駈込み訴え』は半端な作品だと思う。下手な落語のジュゲムみたいな。
江戸落語の長屋のおっさんのイエス観みたいな中途半端にハイカラwな
ものをどこで発表しろとw 清水って人 たいしたことないな。
てか研究者としてお粗末過ぎ。
「頭を柔軟にして寺山の作品を見返してみると、
太宰を非常に深く愛していると察することができる」
って言ってるけど具体的な説明がない。
これじゃあ説得力ゼロ。
「『私は憎むほど太宰を愛していたのかもしれない』に読み替えたい」も
勝手に読み替えれば、って感じ。
論証無さ過ぎ、この人。 中期以降は芥川の後継でありつつ、喜劇的な面が追加されたって感じ 寺山修司の性向には常に、ひとつの物についての光と影の両面を見る
という面があったからな。
競馬なら、上手い騎手や強い馬に注目するだけでなく、下手な騎手の
欠点だけでなく長所も驚く程ちゃんと見てるし、弱い馬の良いところも
探し出してたり、それは寺山の性格が優しかったからというのだけでは
説明がつかないぐらい、異常な凄さがあった。
もし、競馬ジャーナリストとして専業になれば、巨泉を軽く抜いて、
競馬についてのエッセイや小説でベストセラーを連発したろう。
明らかにその方が経済的には豊かになっていたろうね。
当時の天才騎手・福永洋一について書いたエッセイでも、福永の栄光の
裏にある、少年時代の極貧生活にこれでもかというぐらい、注目してい
る。
太宰の人物そのものや彼の作品についても、それらの光と影の両方を
等分に見なければ気が済まないということはあったろうな。
名人・武邦彦についても、彼を「手品師」と表現して、武の勝利の
いかがわしさを口にせずにいられない人が寺山修二だったと思う。 へえ そうなんだあ
自分も寺山のエッセイを読んで競馬を始めたけど夢ばかり追って負け続けた
トルコの桃ちゃんとスシ屋の政が記憶に残っている 《安吾文壇デビュー前夜》12月1日まで、新潟市中央区西大畑町の安吾風の館。
坂口安吾が友人に宛てた手紙や自筆原稿の展示、安吾の文壇デビュー前後の日本の文壇動向を紹介。
同館(025・222・3062)。 [北東北ミステリー紀行]十二本ヤス 天突く異形の神木=青森 ヨミウリ
五所川原市 携帯電話の電波の届かない薄暗いヒバ林のなかでひときわ威容を誇る。高さ約34メートルで幹回り約7・5メートル。
さらに地上3メートル付近から10本以上の太い枝が分岐して天に伸びる。まさに魚を突くヤスのようだ。元製材業の荒関勝康さん(72)は
「その姿は恐れ多いと感じるほど。山で働く私たちは長年、神木として敬ってきた」と話す。 地元の伝説によると、400年ほど昔、
弥七郎という臆病者がいた。山仕事の仲間が弥七郎ばかりをからかうので、山にすむ魔物も彼の名を覚えてしまい、
毎夜、「弥七郎、弥七郎」と呼び掛けてきた。ある日、一大決心をした弥七郎は切り株に腰を下ろしていた魔物にマサカリで一撃。
翌朝確かめてみたところ、年老いた白毛のサルだった。村人は、魔物のたたりを恐れて、1本のヒバの苗を植えて供養した。
ヒバは成長するにつれて現在のような形になった。新しい枝が伸びても古い枝が枯れ、12本以上になることはないとされ、
「十二本ヤス」と呼ばれるようになった。 津軽地方で12月12日は山の神をまつる日。枝数が12本ということもあり、
山仕事をする人々にとって特別な樹木だ。樹木医の見立てによると、伝説と異なり、樹齢は800年以上という。
近くにはやはり大きなヒバの枯れた幹がある。なぜ「十二本ヤス」だけが特異な樹形を保ったまま生き残ってきたのか。
山林関係者でなくても神秘さを感じるスポットだ。(弘前支局 広田茂樹)
◎行き方 所在地は五所川原市金木町喜良市相野山。同市金木町の太宰治記念館から津軽鉄道を越えて東に2キロほどで岩見町の大山祇神社前に。
そこに「十二本ヤスまで5・2キロ」の看板がある。かつて森林鉄道だった砂利道を車で走ると、十二本ヤスに通じる小さな鳥居に着く。 太宰のいた山梨- 蘇生の地をたどる 心を揺さぶった富士 生きる気力を取り戻す /山梨
富士には月見草がよく似合う――。75年前、富士山を見ながらそんなことを考えた作家がいた。太宰治(1909〜48)。
名作「富嶽百景」の舞台である御坂峠、新婚時代を過ごした甲府など県内とのゆかりは深い。
退廃の色を帯びた太宰の人生にあって、山梨は「蘇生の地」とも指摘される。太宰の足跡をたどった。
御坂峠の旧道トンネルを抜けると、太宰が滞在した「天下茶屋」(富士河口湖町)が見えた。
目前に富士を望むこの場所で6月16日、「山梨桜桃忌」が開かれた。東京・玉川上水で自殺した太宰の命日に合わせ、有志が毎年開催。今年で36回目になる。
富士山の世界文化遺産登録の年と重なったが、参加者たちはいつも通り、日本酒や桜桃を供えた。
今回、初めて参加した東京・新宿の文壇バー「風紋」の女主人、林聖子さん(85)は母が太宰の友人で、作家の生前を直接知る一人。
「話もお上手で。いつも私はげらげら笑っていました。私の中ではとても楽しい、明るいおじさんでした」と懐かしむ。
しかし、旧河口村の天下茶屋を訪れた1938(昭和13)年当時、太宰の生活は退廃と孤独の一途をたどっていた。
自殺未遂、薬物中毒、内縁の妻との心中未遂と離別――。師で作家の井伏鱒二の勧めで同年9月から約2カ月、滞在した。
太宰は東京を離れたこの地で、中期の代表作となる「富嶽百景」などの構想を練り、執筆に打ち込んだ。 「富嶽百景」で太宰は、富士山をいろいろに眺める。御坂峠から見た富士を「風呂屋のペンキ画だ。芝居の書割だ」と軽蔑したかと思えば、
雪化粧の富士を「山頂が、まつしろに、光りかがやいてゐた。御坂の富士も、ばかにできないぞ」と思ったり。
そして「月見草」のくだりの前には、こう記す。「三七七八米(メートル)の富士の山と立派に相対峙し、みぢんもゆるがず、
なんと言ふのか、金剛力草とでもいいたいくらゐ、けなげにすつくと立つてゐたあの月見草」(同)――。
富士が太宰の心を揺さぶり、人間らしい感情を取り戻していくようにも見える。
翌39年1月、太宰は井伏の取り持ちで石原美知子と結婚。妻の実家のそば、甲府市御崎町(現朝日5)に居を構える。同年9月に東京・三鷹に移るまで8カ月過ごした。
近代文学者の東郷克美・早稲田大名誉教授は甲州を太宰の「蘇生の地」と呼ぶ。富士はその重要な鍵だ。太宰にとって富士は何だったのか。
東郷氏は「立ちはだかる世間の壁」とみる。父は貴族院議員の素封家。学生時代には非合法の左翼活動に関わった。「世間や権威に反抗した太宰。
一見弱々しいが、富士山を前に微動だにしない月見草に世間との向き合い方を見たのではないか」
一方、故郷にそびえる「津軽富士」岩木山を重ねていたとみるのは、太宰研究者の橘田茂樹さん(63)=甲府市。
「実家から既に勘当されていた太宰は、東京の下宿を引き払い、御坂峠に来た。覚悟を決めた前向きな意志があった」と指摘。富士は太宰再生の象徴と捉える。
戦後、人気作家になった太宰は精神的に不安定になる。井伏らは再び太宰を天下茶屋で休養させる計画をひそかに立てたが、実現せぬまま太宰は亡くなった。
御坂峠には死の5年後、文学碑が建てられた。「富士には月見草がよく似合ふ」。
太宰の直筆をもとに記した碑は、今も緑の中にひっそりと、しかし凜として富士山に向かい合っている。 太宰のいた山梨- 蘇生の地をたどる/下 今も人々ひきつけ続け 家庭築き作風明るく /山梨
「津島(太宰の本名)さんが手ぬぐいをぶら下げ、喜久乃湯温泉に歩いていく様が思い出されます」甲府市の輿水浜子さん(84)は懐かしげに目を細めた。
太宰治(1909〜48)は1939年1月から8カ月、甲府市御崎町(現朝日5)で妻美知子と新婚生活を送った。輿水さんは家主の娘だ。
太宰は38年秋に御坂峠の天下茶屋に滞在。甲府で中期の代表作「富嶽百景」を書き上げ、39年2月に発表した。太宰は甲府の家の窓辺に腰掛け、富士を眺めていた。
太宰は家賃を勝手口に黙って置いていくので、帳簿を届けるのが少女時代の輿水さんの仕事だった。「お駄賃にビスケットをくれるのは美知子さん。津島さんは猫背で着物に懐手」。
輿水さんの父親は「小説家なんてものはぶっきらぼう。ゆきあっても、ものこきゃしん(物も言わない)」といぶかっていたが、輿水さんは違った様子も覚えている。
「裏から家をのぞくと、1本のバナナを美知子さんと仲むつまじく食べていました。私は玄関先のたたきに大きく『ふうふのいえ』といたずら書きしたんです」
近代文学者の東郷克美・早稲田大名誉教授によると、この時期の太宰は「富嶽百景」「愛と美について」など、再生を主題とした明るい作品を多く著した。ゆえに東郷氏は甲州を「蘇生の地」と呼ぶ。
太宰は39年9月、東京・三鷹に移り住んだが、その後も、妻の実家である甲府市水門町(現朝日1)の石原家を訪れた。ただ、時代は急速に戦時色を帯びていた。
41年に太平洋戦争が勃発。戦局は悪化し、東京も空襲を受けるようになる。45年4月、一家は甲府の石原家に疎開。
しかし、同年7月6日の甲府空襲で焼失した。その後、津軽に疎開して終戦を迎え、46年11月に三鷹に戻った。 玉川上水で入水自殺した太宰の命日を前に、御坂峠・天下茶屋で6月16日にあった「山梨桜桃忌」。戦後の太宰を知る女性が参列していた。
東京・新宿の文壇バー「風紋」の女主人、林聖子さん(85)。林さんの母が戦前から太宰の友人で、46年12月に東京に戻った太宰に再会した。
林さんとの巡り合いは、短編「メリイクリスマス」として書かれている。「聖子ちゃん、ここが『関所』だよ」。
林さんは勤め先の出版社からの帰り道、ウナギの屋台で飲んでいた太宰に呼び止められるのが常だった。
「当時はウナギなんて家では出なかった。喜んで『関所』でお酒とウナギをごちそうになりました」。林さんの中で太宰は愉快な「おじさん」だった。
しかし、太宰にまとわりつく死の影を周囲は感じていた。「あの人は自殺するんじゃないか」。林さんの母はふと漏らした。それが間接的に太宰の耳に入ったが、太宰は林さんと二人になった時にこう言ったという。
「僕はあの子を残して死ねないんだ」。障害のある長男のことだった。林さんは「だから私は無責任なことはしないだろうと信じていた」と遠くを見た。
その後、玉川上水でムシロの掛けられた太宰の遺体と対面することになる。
桜桃忌は小説「桜桃」に由来する。太宰晩年のこの短編は、有名な言葉で始まる。「子供より親が大事、と思いたい」。
明と暗、善と悪、生と死――太宰とは何者なのか。彼は今も多くの人々をひきつけ続けている。 (街 プレーバック)太宰治『皮膚と心』@銀座 花模様に託した、美を追求する心
朝日新聞 2013年08月23日 夕刊 夕刊be金曜4面
《あの銀座の有名な化粧品店の、蔓(つる)バラ模様の商標》。それをデザインした「図案工」の妻を語り手にして、太宰治は得意の「女性独白体」を用い、美醜に揺れる女心を描いた。
銀座の有名な化粧品店とあれば、資生堂をおいてほかにない。「蔓バラ」はそのシンボル「花椿(つばき)」か。7丁目の直営店「ザ・ギンザ」を訪ねると、
年配の婦人が「ここが資生堂よ」「やっぱりきれいねえ」と、カラフルなショーウインドーに歓声を上げていた。 《すべてに自信がなく、痩せて小さく、お顔も貧相》。太宰が造形した図案工は散々な様子だが、
実際の花椿マークを手がけた山名文夫(あやお)(1897〜1980)は、戦前から戦後にかけて資生堂の広告デザインを担った中心人物だ。
まな弟子のデザイナー、水野卓史さん(79)は「あたたかい性格で、無口だが人の面倒をよく見る、才あって徳ありの人」と振り返る。
山名が追求した資生堂らしさは脈々と受け継がれている。例えば唐草模様と女性を組み合わせた構図。
「植物の生命力、風を受け流すしなやかさは資生堂の描く女性像に通じます」と澁谷克彦宣伝制作部長(56)。優美な曲線は今も資生堂デザインの根幹だ。 それにしてもなぜ、太宰は図案工を「貧相」な人物にしたのだろう。中央大名誉教授の渡部芳紀さん(72)によれば「図案工には太宰自身が投影されている。
自分をモデルとする登場人物はさえないだめ男に書くのが太宰の特徴なんです」。おしゃれを大切にした太宰は、女性の化粧にも「周囲への心遣い」と理解があったそうだ。
「わたし、開花宣言。」。ショーウインドーにはコピーが踊る。明治時代からのロングセラー化粧水「オイデルミン」の小瓶を、黒いミニワンピースの若い女性が熱心に見つめていた。
(文・辻村碧、写真・田頭真理子) (つづき)スポット 直営店「ザ・ギンザ」と銀座花椿通りを挟んで向かい合う資生堂パーラーは太宰治の『正義と微笑』にも登場する。
1902(明治35)年に日本初のソーダ水や当時珍しかったアイスクリームを販売、28(昭和3)年には西洋料理のレストランも開業した。
1階では花椿をかたどったクッキーの販売も。中央区銀座8の8の3(電話0120・471004)。[前]11時〜[後]9時(1階ショップ)。 はじめて「人間失格」を読んだあとは
しばらく挙動不審になったYO(^O^) 無頼派オダサクの夫婦善哉の自筆草稿が船橋市に住む養女の自宅から見つかったってさ 太宰ほどつまらない小説家はいないな
内容もつまらん まじでつまらん ↑
所詮、文学なんてものは好き好きだかんなw
太宰はつまらんて言う人が居てもいいし、
太宰、大好きって言う人が居てもいい。 >>402
その通りです
ただし、後ほど放屁のところを突っ込まれた井伏氏はしてないと言い張りました 結局井伏さんと太宰の確執はなんだったんだろうね。やっぱり太宰の被害妄想からくる思い込みのせいかな 中生ドライブ
ビール工業
お前らハローやれ
仕事がんばれ 安部公房ってとんでもないヤローだ!
『安部公房とわたし』著者・山口果林(講談社・1575円)
20年前に68歳で死去した安部公房。三島や大江とともに戦後の日本文学を代表する存在。
安部と20年以上にわたって不倫関係にあった女優山口果林。果林が桐朋学園大演劇科在学中に担当教師だった安部が手を付けた。教師が教え子に手を付けた。
親と子ほど齢の差がある23歳年上で妻子のある安部との関係。主演したNHKドラマ「繭子ひとり」のロケ前に妊娠が判明。
「私の存在は安部さんの年譜などから消され、透明人間になっている。何とか、自分が生きてきた証しを残したかったのです」
文学賞の選考では司馬遼太郎と馬が合った。群れをつくらず単独行動を好んだ。
安部は鬼畜、太宰も鬼畜! 582 :名無し物書き@推敲中?:2012/10/06(土) NY:AN:NY.AN
ネットのコピペが選ばれちゃう審査基準って・・・
583 :名無し物書き@推敲中?:2013/04/17(水) NY:AN:NY.AN
888 :阿部敦良 :2013/02/25(月)NY:AN:NY.AN
それにしても、無名草子さんたちとは、さぞやすごい作家先生の匿名書き込みなんでしょうね。
作家なんて才能が全てだから、津井ついみたいに、いくら努力したって駄目なものは駄目ですよ。
私なんか、早々に見切りをつけて趣味の世界で細々ですから。
小説現代ショートショート・コンテスト優秀賞受賞 阿部敦良
584 :v(・x・)vピース ◆JSPf4VvHXo :2013/05/08(水) NY:AN:NY.AN
そのコピペなついなあ
585 :名無し物書き@推敲中?:2013/08/21(水) NY:AN:NY.AN
半分懸賞みたいなこの賞で、新人賞とったかのように威張ってる人がいたから、
おもしろがって揶揄して最後の行つけたしてワナビ煽りコピペにした ってかんじでそ 新聞にオモロイ記事が出てた コピペ
女無頼派の登場 「苦節二十五年です」「賞金は全部飲みます、ごっつぁんです」。長篇「月下上海」で賞金五百万円の松本清張賞を射止めた山口恵以子は、こう挨拶した。
テレビでそのシーンを見たが、豪快な女性作家の登場だ、アハハハとユカイであった。小説界の話題というと芥川賞、直木賞だけが成功していること、村上春樹の新作が何百万部とか出たことばかり。
その次には先日も本欄で叩いていたが、藤野可織の「人称視点違反小説」、黒田夏子の「表記違反小説」によるモヤモヤした不快感。その中で山口の作家キャラクターの突き抜けた面白さは胸がすく。
飲んべえの山口はかつての無頼派、太宰治、坂口安吾、織田作之助の女性版でもあるが、これは苦節二十五年で山口が身につけた演技の面白さで、
本当は食堂のおばさんの生活力が沸騰点に達したということなのだろう。
そういう意味で、マスコミに出られる機会は徹底的に利用しようという生活力に共感するわけだ。山口は下積み時代、シナリオのプロット作りもしていたから長篇のプロットには苦労しないだろう。
面白い作家キャラも世間に印象づけた。弁も立つこともわかった。うまい食事が作れる女性の能力をこれからどう発揮していくか、楽しみである 「『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』をどう読むか」(河出書房新社)
原本を読んでから読むか、読む前に読むか?
それが問題だ!
が、やっぱ、「読んでから」だろうな、、、 窓から放り投げるという衝動に最後まで読めないという選択肢もあるぞ 中HIGHドライブ
びーる★ウマイ
オマ エラ〇
仕事 わー 太宰さん
精神的にキツイ職場で6年間頑張ってきましたけれど
もう限界です!
辞めたいと思う私は甘いのでしょうか? 2013.09.24 [本よみうり堂 関西館]オダサク100年(上)「無頼派」の切なる思い
大阪で回顧展 遺品の数々“里帰り” 大阪を舞台とする数々の佳作を残し、33歳で世を去った作家・織田作之助(1913〜47)。
生誕100年の今年、初の大規模回顧展「織田作之助と大大阪」が25日から、大阪市中央区の大阪歴史博物館で開かれる。
とりわけ興味深いのは、東京から初めて“里帰り”する遺品の数々。太宰治、坂口安吾と並び「無頼派」と称された作家の、
生きて文学にかけたかった切なる思いが浮かび上がる。 <柳吉は「こ、こ、ここの善哉はなんで、二、二、二杯ずつ持って来よるか知ってるか、知らんやろ。
こら昔何とか大夫ちゅう浄瑠璃のお師匠はんが開いた店でな、一杯山盛りにするより、ちょっとずつ二杯にする方が仰山はいってるように見えるやろ、
そこをうまいこと考えよったのや」蝶子は「一人より女夫(めおと)の方が良えいうことでっしゃろ」>人気芸者だった蝶子とボンボン育ちの柳吉が苦労を重ね、
本物の夫婦になるまでを描いた「夫婦善哉」(40年)。森繁久弥、淡島千景主演の映画(55年)で知られ、今年はNHKでもドラマ化された代表作だ。 「オダサク」の愛称で知られる織田作之助は、大阪市南区生玉前町(現・天王寺区)の長屋で生まれ育った。
10代で両親を亡くし、嫁いだ姉の援助で府立高津中から旧制三高に進むが、放蕩の末に中退。
大阪、東京を転々とし、同人誌に脚本や小説を発表し始めた。 学生時代に出会った宮田一枝と25歳で結婚。
翌年、小説3作目の「俗臭」が芥川賞候補、続く「夫婦善哉」が改造社の文芸推薦作品となり、新進作家となった。
終戦前年、最愛の一枝を病で亡くし、自身も持病の結核が悪化。再びトランク一つで京都や東京を転々とし、都会の片隅に生きる人々の哀歓を描き続けた。 >>415
6年間なんってすごいね。俺はもう3ヶ月でだめかなと思っている。 そう言ってくれるのは君だけだ。
ありがとう。
でもね、パッパパッパ転職してる人がいるけど
どんな職場でも同じようなキツさがあるのかな、
オレは甘いのかな、って思って思うんだよね。 オダサクは故郷の大阪で愛されているんだね。
それに引き換え太宰は、、、 太宰ってあの甘えに虫唾が走ることがあるのに
自分が辛いときには太宰の気持ちが
すんごく分かるんだよね
ホント不思議な小説家だよ 10代終わり位に太宰が好きで、全作品は勿論、目についた太宰について書かれた本はすべて読むほどだったのに、今となっては何の興味もないという謎 あ〜あ 虚しい
この虚しさはいったいなんなのでしょう
しばらくいたしましたら私もお側に参ります。 422
それは太宰云々じゃなくてただのおまえの気分的共感() いまでも桜桃忌にいく人おおいのかな?いまでは太宰治の小説に共感をおぼえる
高校生なんて少なくなってしまってるんではないの? まだまだたくさん来てるよ
お年寄りから10代の少年少女まで
ことしは300人以上北みたい 救われざるバカもいよいよ300人ちょっとまでの数になったか ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています