エドガー・アラン・ポー PART1
今年はポーの映画が2作も公開されたことだし立ててみました っていうかなんでこの人のスレがない? 19世紀の作家だけど今読んでもなかなか刺激的 後世に与えた影響も多大だしね >>329 ええ、ですから現代の日本人が読んでもピンと来ない話です。 自分はポーの探偵ものだけはあまり面白くないと思ってる マリー・ロジェは失敗作だけども「モルグ街」で完成した原型をさらに洗練させるんじゃなくて 新たな領域に挑戦したポーを讃えようではありませんか 誰かに書簡で「マリー・ロジェについてはこれ以上語ってはいけないことだと思います」て言ってたんじゃないかな 流石にポーにも被害者の実在する事件についてあれやこれや言うことについて良心の呵責があったものらしいね 作品から放たれる雰囲気からすると ボードレールよりポーの方が圧倒的に近代的現代的なんだけど ポーの方がボードレールやマラルメに決定的影響を与えたってのが面白い アメリカで評価されない表現者をフランスが先んじて評価する。 この図式はヒッチコック(英国人だが、傑作映画は渡米してから)も同じだね。 俺はボードレールの方が近代的だと思うけどなあ 「群集の人」のような作品はポーでは稀だけどボードレールでは中心テーマだからね ボードレールよりポーの方が近代的な「狂気」に対する嗅覚が鋭敏な感じがする ボードレールにはロマン派の残り香があって意外と穏当 「メエルシュトレエムに呑まれて」はボードレール訳で読まされた 移民の群れによって形成された大都会がポー文学の母胎だね。 「群衆の人」がそう。 江戸川乱歩「屋根裏の散歩者」は、その DNA を受け継いでる。 ボードレールを読むときも、「都会」は重要なキーワード ゴードンピムといえば、メルヴィルの白鯨への影響が取り沙汰されることもあるけど、実際はどうなんだろうか? ほぼ同時代だから、メルヴィルがゴードンピム読んでて影響受けててもなんら不思議ではないが。 ゴードンピムは破格の傑作 ポー唯一の長編でややジャンルは異なるもののディックの最も傑出した「パーマー・エルドリッチの三つの聖痕」に勝るとも劣らない出来 しかし一般的なポー読者にはゴードンピムはほとんど読まれてさえいないのが現状 >>344 ピムうんぬんより メルヴィルは自身の体験からしか小説を作品を書けず デビューから6作連続で船員ものを書いてる ピムの影響もなくはないと思うけど、少ないと思う ポーはピムやロドマンで原住民を悪魔的に書いてるけど 実際に彼らを目にしたメルヴィルは人食い人種のタイピーですら、とても美しく書いている 話の作りも ポーの無駄をそぎ落とした緊密な構成に比べて メルヴィルは長ければ長いほどいいという前提からか、当たり前のように水増しをして対極の作風だと思う ピムは後半の白い靄がすべてを覆い尽くすような今どこにいるのかわからなくなる幻想性いや幻視感も凄いが 最初からかなり続く、読んでるだけで息が苦しくなってくる閉塞感、密室感がまたたまらない >>346 ピムは、ポー唯一の長編だし、投げっぱなしに近い結末からみても、ポー作品の中では異質な感じがするけどな。 少なくとも、大鴉とか赤死病の仮面みたいに、結末を最初に決めてそこから逆算して書いたような話ではなくて、 (あるていどの目算はあったにせよ)わりと行きあたりばったりに書き初めてたら収拾がつかなくなったんじゃないかね。 ポー自身の創作理論すら無視して、物語が途中から暴走し始めたというか。 国枝史郎の神州纐纈城とかと同じ匂いを感じる。 それに比べると、白鯨は語りは過剰だけど、全体の構成としては破綻していない。 >>345 モダーンなSF好きをも唸らせる 時代遅れには映らんのかな >>330 ほら話系の一連の作品も現代人にはピンと来ないものがあるね キワモノと言って差し支えないんじゃないの 「フォン・ケンペレン」みたく最晩年まで執拗に書いてるのは読書受けが良かったのもあるだろうけど、まあ好きだったんだろうね。人を担ぐのが 谷川渥の『肉体の迷宮』を読んでいて知ったのだが ポーの「アルンハイムの地所」と「ランダーの別荘」は谷崎潤一郎の『金色の死』という問題作(のとある部分の描写)にかなり影響を与えたようだ その長い描写の引用部分を読んでこれはと納得した ちなみに乱歩は谷崎を意識し続けたらしい節があること、両者の作品がしばしば奇妙な類似を示す事実があることも指摘されている そして三島は谷崎を日本のユイスマンスと批判的な意味を込めて呼んでいたらしいね 芥川龍之介の谷崎評てのを見たことある 曰く「谷崎氏はポーやボードレールに私淑しているようだが谷崎氏には彼らのような地獄の底の救いの無さのようなものがない われわれはそこから厳粛な感激を浴びせられる。谷崎氏の作品にはこの苦悩の代わりにあまりに享楽的な余裕があった…」 みたいな感じで谷崎氏はむしろ氏の嫌いなテオフィル・ゴーチェを思い出させる、と言ってた 辛辣杉 丸谷才一訳のものは読んだけど そんなに面白いですか ポーの前では芥川も谷崎も一介の文学ファンに過ぎない。 Jポップの歌手が大物外タレのコンサートで大感激し、サインをもらって 欣喜雀躍するのと全く同じだw 芥川がA・ビアス「悪魔の事典」を意識して書いた「侏儒の言葉」によれば、 ドストエフスキーの文学は悪魔をも憂鬱にする 悪魔よりも遥かに不気味で異様で救いのない人間像を数多作り出したからな ドストエフスキーがポーの短編をロシアで紹介した時の文章がなんか微妙だったな。 曰く、これは奇妙な才能だ、幻想小説家としてはホフマンの方が上だが、とか。 なまじ近いだけに、距離感を強く意識するのかも。 ドストエフスキーは英語でポーを読んだのかな? それとも仏語訳か? スレ違いだが、ボードレールとドストエフスキーとフロベールって、同い年なんだね。 Wikiにはこうあるね。 フョードル・ドストエフスキーは1861年に自分の雑誌『時代』でD・ミハイロフスキーという人物の翻訳による「告げ口心臓」「黒猫」「鐘楼の悪魔」を掲載しそれに序文をつけており、同年中に『アーサー・ゴードン・ピムの冒険』も掲載している。 スレチな話題でスマソ まえに最寄りの図書館で『腐爛の華』を借りようとしたら置いてなかった オレが持っている『腐爛の華』(国書刊行会)は訳者のサイン入り。 もっとも、古本で買ったから、オレ宛のサインではないが。 「さかしま」はいつか読もうかなと思ってるんだけど… 澁沢龍彦の訳したやつがあったな ボードレール、ランボー、オスカー・ワイルドくらいまで続くポー的な人工楽園を築いた呪われ族のひとりという印象 ポー的な人工楽園って、アルンハイムの領地とかランダーの別荘みたいな作品の系譜のことか? そこで挙げられてる作家たちとの同質性をあまり感じないんだが。 ランボーは別格としても、世紀末ダンディズムというか、ボードレール流の反俗プロスタント的身振りは、ポーと無縁のような気がする。 「外界から完全に離脱し、放恣な夢想(あるいは阿片夢)の世界に耽溺するポーの自閉症的な室内生活者たちが、 ボードレールからユイスマンス、ワイルドにいたる世紀末文学における、人工の粋を尽くした豪奢きわまる夢の部屋の住人たちの先住者であることはすでに知られている…」 訳者富士川義之氏の解説。たぶんこれが頭にあった。 確かにそれぞれ違うけれども、みんな現実に立脚して現実を表現しようとするリアリズム文学とは真逆の立場にある幻視者たちだと思うよ 「世紀末耽美主義」でくくれるのかもしれないけどポーはずっと前の人だから先駆者だと だからポー的な人工楽園ていうのは庭園ではなくて ロデリック・アッシャーやデ・ゼッサントの住んでるような世界という意味で言いました 逆だろ わずかな出費でいろんな世界を脳内だけで体験できるんだから文学、小説は貧乏人向きなんだよ ちなみに自分は若い頃に 将来ルンペンになることがあったらランボーの『地獄の季節』を肌身離さず携えて生きて死んで行こう なんて思ってたりしたもんだ そんなに面白いですか 全集は持ってるけど拾い読みしてるくらいです ちなみに自分は若い頃に 将来ルンペンになることがあったらロートレアモンの『マルドロールの歌』を肌身離さず携えて生きて死んで行こう なんて思ってたりしたもんだ >>381 そう言われるとアレだけど名作の輝きは他の人の作品では到達できないところにあるのでは それを何回も読むんでいまさら読み返しはせず頭の中で物語を再現しては感興にひたるという感じかな そうですか 全集もありますので ポー週間 ポー月間を作ることにしましょう >>375 みたいなポー観って、やっぱり一般的なのかね。 俺からすると、ポーは骨の髄からの語り手(=騙り手)であり壮大なホラ吹き作家なんだよな。いやいい意味で。 富士川義之の端正な訳文は好きだけど、鐘楼の悪魔、不条理の天使、ミイラとの論争とかのクレイジーな笑話の書き手のポーは収まりが悪い。 あのユリイカですら、手の込んだネタのように見てしまう俺の読み方がやっぱり極端なんだろうな。 >>382 10代終わりから20代半ば頃までの俺のバイブルが『地獄の季節』、『マルドロールの歌』そして『内的体験』だった 「地獄の季節」はそういうロマン的な放浪を諦める話なんだよな 「俺は果たすべき義務のために土に帰る、百姓だ!」 しかし詩を棄てアフリカやアラビアに向かったランボーがロマン的詩情から解放されたかどうかは怪しいと思う >>385 際立って成功した作品がそんな感じだからね 振幅の大きな作家でそれだけに「のように見ればこの人物を説明できる」みたいな解説が多い それが解説の仕事かも知らんが 「雑誌編集者ポー」も「南部的ほら話の語り手ポー」も「万物照応の理論家ポー」もみんなだいたいあってるんだろうね 俺も若いころはデュカス君のマルドロールを 傍らに永山則夫の親父みたいに 死にたいと思ってたことがあったなw ポーって凄いよね ありとあらゆるジャンルの作家に影響をあたえるなんて >>375 ちょっと待った自閉症の使い方がおかしいぞ。 見たり見えたりする一切有は夢の夢にすぎませぬか(ポー、日夏耿之介訳) 大江健三郎『万延元年のフットボール』の章見出しになってるんだけど出典わかりますか? All that we see or seem Is but a dream within a dream A Dream within a Dream という詩みたいですね >>396 ありがとうございます。 ポーの最晩年に書かれたA Dream Within A Dreamで間違いないようです。 引用された一節は平安末期の歌人、式子内親王の 「見しことも見ぬ行く末もかりそめの枕に浮ぶまぼろしの中」 と通じるところがありますよね。 ポーが生まれたのは1809年だから生誕200年なんてとっくに過ぎてるやん 創元推理文庫の帯見て思ったんだろうけど 生誕200年をとっくに過ぎたから 200年くらい前に生きてたことになるんですが 大丈夫ですか? 十返舎一九は1831年に亡くなっている。ポーは1849年 一九はよく文筆だけで生活することのできた最初の職業作家だと言われる ポーの頃のアメリカでも作家一本でやっていくのは難しかったようだね 雇われ編集者じゃなく自分の雑誌を経営するという夢は最後は固定観念みたくなっちゃってて痛ましい 南総里見八犬伝の曲亭馬琴が1848年没(ポーは1849年没)だから、こっちの方が近い。 >>404 >>400 =>>402 だと思ってるだろ ちがうんだよ >>400 書いた俺も驚いたよ いや>>398 に言ったんだけどな 最初からアンカー付けとけば良かったか 文脈で通じると思ったんだが まあ402は俺なんだけどね 新着3レスしか読まない俺が 全面的に悪かった すまん >>381 はたいして興味もなさそうなのになぜ全集を持っているのか どこかのブログで八木敏雄氏の評論が長文で引用されてて興味深かった よく知られたヘンリー・ジェイムズの「大人になってもポーが好きな人は幼稚」的なことについても考察されていた ポーないしポーの作品が「未成熟」な部分があることは一面の真実ではあるんだろうね ポーの作品に「未成熟」な部分があるかどうかは知らんが ポーが好きな人は子供のように柔軟な心を持っているとは思う それを幼稚と言うかどうかなんて知ったこっちゃない 「ポオに欠けているものは頭脳力ではなく、人間全体としての成熟をまってはじめてもたらされるところの知性の成熟であり、彼のさまざまな情緒の成長と調整なのである…」(T.S.エリオット) てのも八木氏の評論文に引用されてる 「ポオからヴァレリーへ」という題の評論のようです 引用の引用の引用で文脈もよくわかりませんが 「ポーに捧げる20の物語」てのを見かけました 生誕200年の企画ものらしい ポーを敬愛するアメリカの作家たちが何らかの形でポーに関係する作品を書き上げて持ち寄りました 「錚々たるメンバー」のようですがみんな知らない人でしたねー。エドガー賞受賞者なんか多いんでしょうか いまいち…読む気が出ない 八木敏雄訳の岩波文庫版は素晴らしい 訳文もだけど限られた紙数で定番の名作を控えて前半にバカ文学を三編採った 解説でもファースの意味を力説 岩波にはもうひとつあってそちらとのバランスで採ったんだろうな 「悪魔に首を賭けるな」は笑いと不気味なものの混淆で奇怪な味わい この種のものでは「タール博士とフェザー教授」が最良の作品だと思う >>417 それは誰もが子供の頃ポオが好きだったことの裏返しじゃないか 英米の人たちは、なぜフランス人の、それもその時代最高の文学的知性が この二流作家を激賞したのか、ってことに困惑してる感じだよね 流石に今は変わってきてるのかもだけど ジャンル的差別心じゃないかね どんなジャンルの小説を書こうが「その時代最高の文学的知性」とやらがなかなか掴み表現し難いものを易々と表現してしまう作家というものは時にいるものだ これは文学のみならず音楽でも美術でも同じことだろうよ read.cgi ver 07.5.0 2024/04/24 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる