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【本スレ】マルセル・プルースト【コテハン禁止】

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0001吾輩は名無しである
垢版 |
2012/11/13(火) 21:59:31.55
こちらがプルーストの本スレになります。

コテハンなどによるペダンチックな長いレスはご遠慮ください。
研究者の勝手気ままな暴走もやめてください。
質問、意見などに回答する引用はもちろん構いません。

なるべく多くの読者が親しみやすいスレになるように
みなさんも心がけてください。
0416吾輩は名無しである
垢版 |
2016/10/16(日) 04:56:13.97ID:LAfXzAzi
12月に高遠5巻出すってよ
0417静御膳
垢版 |
2017/01/04(水) 10:10:35.57ID:i8kno6We
おい何日かぶりにまぐにゃが自分の意思でツイッターしたぞ
https://mobile.twitter.com/warenizonzu

しかしいってることはしつこいやつに絡まれたきっと左翼だ
左翼がぼくを攻撃してくるw
おめえはなんでも左翼のせい
統合失調症かよ

俺は左翼じゃねえw
単なるトロールだよ
周知の通りでかいつらしてるやつが嫌いなんだよ
Pなんて反安倍政権だけど
でかいつらしてるから
俺はPをラップでdisたりするよ
まぐにゃお前が嫌いなのはネトウヨだからって理由じゃなくて
でかいつらしてるやつがたまたまネトウヨが多いんだよ
0421吾輩は名無しである
垢版 |
2017/05/01(月) 11:02:52.39ID:S+5W5x4a
アナトール・フランスの小説においては、オダマキは、プルーストの根幹的主
題に関わるような文脈で使用されている。この花が登場するのは、プルーストの
愛読書であった『シルヴェストル・ボナールの罪』(1880年)であるが、この小説
は「コンブレー」の草稿においては、ベルゴットの文体がもつ魅力を示す例にさ
れている。博識な主人公ボナールは、路傍で見かけたオダマキの花と虫との出会
いに目を奪われ、日記に書きとめる。オダマキは華やかでありながら、沈んだ風
情の気高く清らかな花として描写されている。そこにマルハナバチが蜜を求めて
やって来る。蜂は花に潜り込んでもすぐには蜜に到達できず、やがて花冠を食い
破り蜜を吸う。マルハナバチの智恵にボナールが驚き感心する場面である。
ここでオダマキは、宗教的あるいは文学的な比喩を離れて、科学的な観察の対
象になっている。このマルハナバチと花の関係は、プルーストが『ソドムとゴモ
ラ』で華々しく展開するマルハナバチと蘭の出会い、すなわち同性愛者どうしの
出会いの場面の遠い源泉だとは考えられないだろうか。プルーストは、たんに審
美家として花を愛したわけではない。子供時代から書物に描かれた花々に強い関
心を寄せ、ダーウィンやメーテルランクやメチニコフの博物学的、生物学的作品
を読んでいた。そのプルーストがフランスの記したこのオダマキの一節を記憶し
ていないわけはなかろう。
一方、アンリ・ド・レニエは詩集『いにしえのロマネスク風詩編』のなかでオ
ダマキに言及しているが、ここでとりあげたいのは、プルーストがレニエの文体
をオダマキに喩えていることである。プルーストはレニエの詩的散文のパスティ
ーシュを創作しているが、のちに「レニエの文章は長く延び、明確になり、身を
くねらせ、オダマキのように沈んだ風情の細密なものとなる。」と記述している
(CSB, p.306)。花茎が長く伸びて、いくつもの花弁が曲線を描くように開花するオ
ダマキのイメージは、レニエの文章の精髄とみなされている。プルーストがこの
花を高く評価していたことが指摘できるであろう。
http://www.let.osaka-u.ac.jp/france/gallia/texte/42/42sakamura.pdf
0422冒頭
垢版 |
2017/05/31(水) 11:22:37.83ID:PlU/+fHV
長いこと、私は早く寢ることにしてゐた。
鑞燭が消えるとすぐに、瞼が素早く閉ぢて、「もう眠りに落ちるのだな」と思ふ暇さへ無いことがあつた。
それが、三十分もすると、そろ\/寢付かなければ、といふ思ひ込みで目が覺めた。
まだ書物を手にしたまゝだと思つてゐた私は、それを置いて燈りを吹消さうとしてゐた。
眠つてゐる間にも、直前に讀んだことを反芻し續けてゐたが、その反芻はやゝ特殊な形をとつてゐた。
教會、四重奏、フランソワ一世とシャルヽ五世の諍ひ、作中に書いてあつたさうした物事に、私自身がなつたやうに思はれた。
かやうな思ひ込みも、目が覺めて數秒の間は生き延びた。
それは理性を搖さぶることこそなかつたが、目の上に鱗のやうにのしかかつたので、燭臺にもはや燈りが點つてゐないことを認識することができなかつた。
思ひ込みは次第に、前世における思考のやうに知覺できなくなつた。
本の主題は私から切り離され、それをまた追ひかけるかどうかは私の自由となつた。
視力は直ちに恢復し、目に暗闇が飛込んで來るので驚く。
それは私の目にとつて安らぎに滿ちてゐたが、心にとつては恐らく尚更にさうであり、因果を離れた、理解不能なもの、眞に曖昧な何かのやうに思はれた。
もう何時になるのだらう。
汽車の汽笛が聞える。
それは森の中に聞える鳥の聲のやうに遙か遠く、その隔たりを示してをり、旅行者が慌てゝ最寄驛まで行着かねばならないこの田舍の寂れ具合を表してゐた。
新たな場所、不慣な行動、最前までのお喋り、夜の靜けさの中でもまだ耳を離れぬ、外國のランプの下でのお別れ、歸宅してからの寛ぎ、かうした物事への亢奮のために、旅行者はこれから辿る小道を記憶に刻むであらう。
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