【本スレ】マルセル・プルースト【コテハン禁止】
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こちらがプルーストの本スレになります。
コテハンなどによるペダンチックな長いレスはご遠慮ください。
研究者の勝手気ままな暴走もやめてください。
質問、意見などに回答する引用はもちろん構いません。
なるべく多くの読者が親しみやすいスレになるように
みなさんも心がけてください。 プルースト、ワイルド、ジッド、ヴェルレーヌ、コクトー、三島由紀夫らに限らず、
アレクサンドロス大王
ユーリウス・カエサル
マールクス・アントーニウス、等々。
歴史上の名だたる英雄は、誰も彼も男色好きだったよ。
そして、
レオナルド・ダ・ヴィンチ
ミケランジェロ
シェイクスピア、etc.の天才たちも揃って男性が好きだった!
作品社より刊行されている名作『図説・ホモセクシャルの世界史』を参照。
http://www.sakuhinsha.com/history/20793.html
必読書ですよ! 芸術分野の天才は殆どの場合バイセクシャルでしょう。
ホモとは異なるよ! プルちゃんの「失われた …」読んでみたいけど長すぎてな。
フリーターのお前らなら時間が充分あるので読めるだろ。 挫折する方が多いのなw
おれは筑摩書房の『世界古典文学全集・千夜一夜物語』を
何回も挫折している。 >>375
はあ?
フリーターなんかじゃねえよ!
無職に決まってんだろ。
働かなきゃ暮らしていけないなんて、どんな貧困階級だよw 若い無職の時に初読し、定年退職後に再読する。
これが正しい「失われた時」の読書法。
作品内に流れる数十年と読者の数十年がリンクし、感動する。 本屋で立ち読みしてきたけど悪くない感じだった
岩波文庫だけど 『千夜一夜物語』だったら、
大場正史・訳のリチャード・ハートン版を読むのが
一等正しいだろうゼッ!!!!!!!!!!!!!!!!!
分かったナッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! 阿呆が混じって居るゼッ!!!
藝術・文学などの分野でも、
天才と呼べるのは、例外なくゲイなのサッ!!!!!!!!!
分かったナッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! なんで高遠って旧かな使ひなんだろうな。
読みにくくていらねえよ、お前のツゐったあ。 ソドムとゴモラ2
ヴェルデュラン夫人のサロンをようやく抜けだした。
まだ200ページも残ってる。もうあまり興味なくなった。 >>390
『1Q84』の主人公が身を隠してた時、『失われた時を求めて』を読んでましたが、
「別の世界のお話し」だと言ってました。
私は、「おとぎ話」だと思います。主人公は幸せな日々を送ったのですね。
たとえ、祖母が死のうと、アルベルチーヌが落馬しようと。 主人公はほぼプルーストの人生が反映されている。
プルーストはブルジョワの親の莫大な遺産をもらい、
働かない悠々自適な一生を送ったからね。 3巻から2年10ヶ月経過して、明日が4巻発売日の古典新訳文庫。
訳者あとがきには何が書かれているのだろうか?確か2巻で、次回からはもう少し早く
訳了していく所存である、と言ってなかったか?
手に負えないものに手を出すからこんなことになるんだよ。
新潮社で全一巻を出した早稲田の人に替えて欲しい。
まあ、光文社はあとがきを立ち読みするだけで買わないけど。 失われた時を求めて (まんがで読破) 文庫
文庫: 382ページ
出版社: イースト・プレス (2009/5/30)
ISBN-13: 978-4781600857 アルベルチーヌはどうでもいいけど、早く『見出された時』が読みたい。
あと3年以内に完成だな。 >>398
アルベルチーヌにはあまり意味を見いだせない。軟禁して
眠っているときにしか本質がわからないのでは、いないのと同じ。 あなたは40代ロサンゼルス府警新聞作りですか?ドーハの悲劇「中国衝撃イヤフォン」「中国悪夢イヤフォン」ですか?
それともいくつですか?huluさん?
それともいくつですか?huluさん?
それともいくつですか?huluさん? @007
長いときにわたって、私は早くから寝たものだ。ときには、ろうそくを消すと、すぐに目が
ふさがって、「これからぼくは眠るんだ」と自分にいうひまもないことがあった。それでも
三十分ほどすると、もう眠らなくてはならない時間だという考に目がさめるのであった、私
はまだ手にもったつもりでいる本を置こうとし、あかりを吹きそうとした、ちらと眠った
あいだも、さっき読んだことが頭のなかをめぐりつづけていた、しかしそのめぐりかたはす
こし特殊な方向にまがってしまって、私自身が、本に出てきた教会とか、四重奏曲とか、フ
ランソワ一世とカール五世の抗争とかになってしまったように思われるのであった。そうし
た気持は、目がさめて、なお数秒のあいだ残っていて、べつに私の理性と衝突するわけでは
なく、何かうろこのように目にかぶさって、すでにろうそく台の火が消えていることに気づ
かせないのであった。やがてそうした気持も、つかみどころがないものになりはじめた、あ
たかも輪廻のあとに、前生での思考がわからなくなるように。 A007
ノルポワ氏をはじめて晩餐に招くという話がもちあがったとき、私の母が、あいにくコタ
ール先生は旅行中だし、またスワンには母のほうでおつきあいをやめてすっかり疎遠になっ
しまった、このお二人ならきっと元大使のノルポワ公爵のおもしろいお話し相手になってい
ただけるのに、と残念そうにいったので、父は、コタールのようにりっぱな相客、有名な学
者ならば、晩餐の席を気まずくしそうもないが、スワンときては、やたらに見えを張ろうと
して、自分のつまらない交際まで一々大声で言いふらすのだから、あれはこけおどしの俗物
で、ノルポワ侯爵のようなかたは、その口ぐせを借りるならば、おそらく「鼻持のならな
い」男だとお思いになるだろう、と答えた。ところで父のこの答にはいくらか説明がいるだ
ろう、――いかにも気が利かない平凡なコタールと、社交に関しては極端なまでに気をつか
って謙虚とつつしみをおし通していたスワンとを、思いおこす人もあるであろうから。
B007
私のホテル生活は、知りあいとの交際がないのでさびしかっただけではなく、フランソワ
ーズがやたらにそれをつくってしまったので、都合のわるいことになった。知りあいをつく
ったのなら、かえって多くの便宜がえられたのではないか、と思われるかもしれない。まっ
たく逆なのであった。プロレタリアがフランソワーズの知りあいになるのはなかなか容易で
はなく、大いに辞を低くして、ていねいに彼女にとりいらなくては、条件を満足させないの
だが、いったんそれがうまく行くと、プロレタリアは彼女に信用される唯一の人間になった。
彼女の古い法典によれば、彼女自身は、主人の友人たちからなんの拘束も受けないし、手が
はなせない仕事があるときは、私の祖母に会いにきた婦人を追いかえしてもかまわない、と
いうきまりになっていた。しかし、フランソワーズ自身の知りあい、すなわち、彼女の気む
ずかしい交際圏にはいることをゆるされたまれな庶民階級の人間にたいしては、実に微に
入り細にうがった、絶対的な儀式が規定されていて、それに則って彼女は行動するのであっ
た。 C007
小鳥たちの朝のさえずりもフランソワーズにはそっけないものに思われるのであった。
「女中たち」が発する言葉の一つ一つに、はっと身を起こし、彼女らの行きかう足音が一々
気にかかって、何か起きたのかといぶかるのであった、というのも、私たちは引越してきた
からであった。なるほど、私たちの元の住まいの「七階」ででも、召使たちがいそがしく立
ちまわらなかったわけではない、しかしフランソワーズはそうした連中とはなじみが深くて、
その行ったりきたりを自分に友好的なものと解していたのであった。いまは、あたりがしん
としていても、なんとなく注意をひきつけられて息苦しかった。そしてこれまで、私たちの
住まいの面していた大通がさわがしかっただけに、こんどの地区はそれだけ静かであったの
で、とある通行者の歌も(それがまだかすかなのにオーケストラのモチーフのように遠くか
らでもはっきりきこえて)、流謫のフランソワーズの目に涙を催させるのであった。だから、
「あんなに方々で私たちのみんなが評判をとった」アパルトマンを立ちのかなくてはならな
くなったことに胸を痛めたフランソワーズは、コンブレーの儀礼にしたがって、泣きながら、
そして、この家にもまさる家はどこにもありはしないのに、とこぼしながら、彼女の荷物を
詰めたのであって、そんな彼女を私は冷笑したのであったが、古いものを容易にすてさるく
せに新しいものにはなかなかなじめない私は、新しい家への引越で、まだ私たちになじんで
いない門番から、彼女が精神的栄養をたっぷりとるに必要な尊敬のしるしを受けていなかっ
たために、衰弱に近い状態に陥ってしまったのを見たとき、逆にぐっとこの老女中の気持に
近づいたのだった。 D007
祖母と私とは散歩する人たちの群をかきわけてふたたびガブリエル大通を横断した。私は
祖母をベンチにかけさせ、辻馬車を呼びに行った。どんなつまらない人を判断するにも私は
つねに祖母の心のなかにはいりこんでいたのに、いまはそんな彼女からしめだされ、私にと
って彼女はすでに外界の一部になってしまったのだ、そして彼女の健康状態について私の考
えていることを、私の不安を、まるで単なる通行人にたいしてそうするように彼女につつみ
かくさなくてはならないのであった。 E007
さてその当日(ゲルマント大公夫人の夜会が催されることになっていた日)、私がゲルマ
ント公爵夫妻を訪問しようとして――その訪問のことは以上に語ったところだが――ずいぶ
んまえから二人の帰宅をうかがっていたこと、そしてその待ちぶせのあいだに、とくにシャ
ルリュス氏に関して一つの発見をしたこと、しかもその発見はそれ自体が非常に重要なもの
だったので、必要な個所とスペースとがあたえられるまで、それの報告をしばらくあとまわ
しにしてきたことは、すでにことわっておいたので、ご承知のことと思う。まえにいったよ
うに、そのとき私は、館のてっぺんにじつに居心地よくしつらえた絶好の展望台を離れ
たのであったが、そこからは、ブレキニーの館まで爪先あがりにのぼってゆく起伏の多い坂
道がよく見わたせるのであって、その坂道には、フレクール公爵所有の車庫の屋根がばら色
の尖塔の形に突きでていて、イタリア風の舞台背景の晴れやかさをかもしているのだ。
F007
私たち、アルベルチーヌと私とは、ローカル線の軽便鉄道車のバルベック駅のまえにいた。
お天気がわるかったので、ホテルの乗合馬車で送ってもらったのであった。私たちから遠く
ないところにニッサン・ベルナール氏がいたが、片方の目のまわりを黒く腫らしていた。彼
は近郊でかなり繁盛している農園「オー・スリジエ」のギャルソンと出来ていて、『アタリ
ー』の合唱隊の少年をしばらくまえから袖にしていた。ごつごつした顔立に満面が赤いその
ギャルソンは、顔の代わりに絶対にトマトをくっつけているとしか見えなかった。正確にお
なじもう一つのトマトが彼の双生児の弟の頭になっていた。公平無私にながめると、双生児
のこの完全な類似にはかなり美しいものがあり、自然が、一時工業化したかのように、同一
の製品を売りだした、といった感じを抱かせられるほどだ。あいにく、ニッサン・ベルナー
ル氏の見方はそれと異なり、この類似は外的なものでしかなかった。トマト第二号は、もっ
ぱらご婦人がたの歓喜を煽ることを熱狂的に好み、トマト第一号はある種の殿がたの趣味に
快く応じることをいとわなかった。 G007
朝になると、顔をまだ壁に向けたままで、窓の厚いカーテンの上部にさしこむそとの光線
の明暗を見とどけない先から、もう私はその日の天候がどんなであるかを知っていた。表通
の最初の物音がそれを教えてくれたからで、湿気が多ければ、物音は、鈍くて、ゆがんでつ
たわってくるし、晴れわたってつめたく澄んだ朝は、さえぎるものがない、よくひびく地帯
を、物音は矢のようにうなりながらつたわってくるので、一番電車のすべりだしの音から、
早くも私は、それが雨にかじかんでいるのか、それとも青空に向かってとびたってゆくのか
を、ききわけてしまうのだった。もしかすると、それらの物音は、それ自身が、何かもっと
すばやい、もっと浸透性に富んだ発散物に先立たれていたのかもしれなかった。そうした発
散物は、私の睡眠にしみこんできて、そこに雪を予知する陰欝な気分をひろげるのだ。ある
居はまた、その発散物は、私の睡眠のなかに間歇的に顔を出す一種の小人につぎからつぎへ
と太陽への賛歌をうたわせるので、それらの讃歌が、まだ眠りながらほほえみはじめた私に、
とざされたまぶたをすこしずつまぶしさにそなえさせ、ついにびっくりするような歌時計の、
しらべのなかに私を目ざめさせることになったのだ。 H007
「アルベルチーヌさまはお発ちになりました!」なんと苦しみは心理学よりも深く心理に浸
入することか! 一瞬まえまで、私は自己流の分析をつづけながら、こう思ったのであった、
このまま顔をあわせずにわかれることこそ私の欲するところであったと。そして、アルベル
チーヌが私にあたえる快楽の乏しさと、彼女に阻まれて実現できない快楽の豊富さとを比較
して、自分のやりかたを巧妙であったと思い、もう彼女には会いたくない、もう彼女を愛し
てはいない、と結論していたのであった(それらの私の快楽は、彼女がまるで私の精神の気
圧のように確実に私の内心に存在していると思われたからこそ、私の魂の前面を大きく占め
ることができたのだった、しかしそんな快楽も、アルベルチーヌが発ってしまった、ときい
ただけで、その第一報に対抗するだけの力さえもちえないのであった、というのも、快楽は
あえなく消えうせてしまったからである)。しかも、その言葉「アルベルチーヌさまはお発
ちになりました」は、たちまちはげしい苦しみを私の心にひきおこし、これ以上はとてもそ
れに堪えられないという感じがした。いますぐにこの苦しみを消しとめなくてはならない。 I007
それにしても、私がコンブレーのすぐそばで過ごしながら、いままでのなかでおそらくコ
ンブレーのことを一番考えなかったこんな逗留に、そういつまでも足ぶみをしている必要は
ないと思われるかもしれない、ところがまさにこの逗留こそ、私が最初につくりあげていた
ゲルマントのほうについてのいくつかの観念に、すくなくとも一応は、一つの修正をもたら
し、さらにメゼグリーズのほうについてもっていたべつの観念にも、一つの修正をもたら
したのであった。私は、昔私たちがコンブレーで、午後、メゼグリーズのほうへ行くときに
した散歩を、こんどは反対の方向から、毎晩やりなおすことになったのだ。ここタンソンヴ
ィルで晩餐をとるのは、かつてのコンブレーでなら、みんながとっくに眠っているような、
おそい時間だった。季節が暑いときであり、それに午後はジルベルトが館のなかの礼拝堂で
絵をかくので、晩餐の二時間ほどまえになって、やっと散歩に出てゆくのだった。昔のたの
しみは、散歩の帰途、真赤な空が、カルヴぁリオの森をふちどっていたり、ヴィヴォーヌの
流にひたっていたりするのを見ることだったが、それにとってかわったのは、こんどは、暗
くなってから出かけるたのしみであり、その時刻にはもう村では、帰ってくる羊たちの、青
味がかった、不規則な、動く三角形にしか出会わないのだった。 @719
ああ! アカシヤの大通――ミルト
ゥスの道――で、私はそれらの女性の何人かをふたたび見た、それらの女性は、年老いて、
かつて彼女らであったもののおそるべき亡霊にすぎなくなって、ウェルギリウスの詩を思わ
せる木立のなかに、何であるかわからないものを、必死になってさがしながら、さまよい歩
いているのであった。そうした女たちの姿が消えてからも、まだ長いあいだ、私は人気のな
いあちこちの道を空しくたずね歩かなくてはならなかった。太陽はすでに沈んでいた。自然
はふたたびボワを統治しにかかっていて、そのボワからは、それが女の楽園であったという
観念がとびさってしまった。つくりものの風車の上で、本物の空は灰色であった、風はグラ
ン・ラックにさざなみをよせていた、まるで自然の湖のように。巨鳥がすばやくボワをとび
まわっていた、自然の森のように、そして鋭いさけびをあげながら、一羽また一羽と、
大きな樹の上にとまるのであった、その槲は、ドルイド教の祭司の冠をいただき、ドド
ーナのゼウス神の威厳をもって、うとまれた森の、人間味のない空虚を告げているかと思わ
れ、またその槲は、記憶の場面が、感覚によって知覚される場面ではなく、記憶そのものに
よってもたらせる場面であったら、そこにはつねに魅力が欠けるであろうから、そんな記
憶の場面を現実のなかにさがすことは矛盾である、ということをいっそうはっきりと私に教
えてくれるのであった。私がかつて知った現実はもはや存在してはいなかった。スワン夫人
の装いがおなじではなく、彼女のやってくるのがおなじ時刻ではない、ということだけで、
ボワの大通はまるでちがったものになるのであった。われわれが知った場所は単に空間の世
界に属するだけではないのだ。われわれは便宜上それらの場所を空間の世界に配置するまで
なのだ。それらの場所は、その当時のわれわれの生活を形成していた印象の連続のなかの、
わずかにうすい一片にすぎないのであった、ある一つの映像の回想とは、ある一つの瞬間へ
の哀惜でしかない、そして、家々も、道路も、大通も、逃げさってゆくのだ、ああ! 年月
とおなじように。 A442
彼の食欲のほうはきわめて旺盛であり、それがよく見られるのは昼食のときで
あって、彼はこの食堂で、他の客とおなじテーブルについて、一個人として食事をするので
あった。ただ彼のテーブルのただ一つ特殊な点は、彼がたべているあいだ、そのかたわらに、
もう一人の支配人、すなわちこのホテルに常駐の例の支配人が立っていて、たえず何か話を
していることだった。つまり、総支配人の部下になるわけだから、この支配人は、お追従を
いうことにつとめ、またひどく相手に恐怖を抱いていたということなのだ。私の恐怖はとい
えば、昼食のあいだは、それほど大きくはなかった、なぜなら、総支配人は昼食のときは客
のなかにまぎれこんでいて、ちょうど兵隊たちのいるレストランにすわった将軍が、兵隊た
ちに気をつけるようなふうを見せまいとしてつつしみ深くしているのと変わりがなかったか
らであった。にもかかわらず、フロントの主任が、配下の「シャスールたち」にとりまかれ
ながら、「総支配人はあすの朝ディナールに発ちます。そこからビヤリッツに行き、そのあ
とはカンヌです」と私に告げて、それでようやく私はほっと息をつくのであった。 B445
「私たちはじっとよく見たのよ」と、夕方アルベルチーヌは私にいうの
であった、「あなたがおりてくるかと思って。でもあなたの鎧戸はしまってたわ、コンサー
トがはじまる時間になっても。」そうなのだ、十時には、私の窓の下で突如としてコンサー
トがはじまるのだ。満潮のときは、たえずなめらかにすべっては流れる波の音が、楽器の音
の合間合間に、そのひびきをとりもどしてきこえ、その波は、クリスタルの渦のなかに、ヴ
ァイオリンの急速調を巻きこみ、海底の音楽の間歇的な反響の上に、その泡沫を吹きあげて
いるように思われた。服を着るのに、身のまわりの物をまだ誰ももってきてくれないので、
私は待ち遠しくてならなかった。十二時が鳴って、やっとフランソワーズがやってくるので
あった。そして、ひきつづき何か月かのあいだは、嵐に打たれ霧に被われていると想像した
ためにあんなに行きたいとねがったこのバルベックに、晴天が、じつにかがやかしく、じつ
にしっかりと根をすえてくずれなかったので、フランソワーズが窓をあけにくるときは、い
つもおなじ太陽の小片が、窓の外側の壁の角から折れこんでいるのを私は見出すことができ、
それの期待はけっしてはずれることがなかった、しかもその太陽の小片は、これまたいつも
変わらぬおなじ色なので、その色は夏のしるしとして感動を呼びおこすこともなくなり、生
気のない、とってつけたエナメルの色のように、陰気に見えるようになった。そしてフラン
ソワーズがあかりとりの窓のところから、ピンをはずし、あてた布をはがし、カーテンをあ
けているあいだに、むきだしになってくる夏の日のあかるさも、死んでしまった、遠い昔の
もののように思われ、それはさながら金の衣のなかに香詰にされている豪奢な、何千年もま
えのミイラであって、それをはだかにするまえに、私たちの老女中が、その下着を、注意に
注意をかさねて、一枚一枚ぬがせてゆくとしか思われないのであった。 「吐気が起きたのかと心配しましたよ、お祖母さま、もういいの?」と私は言った。
返事をしなかったら、きっと私を不安にする、とおそらく彼女は考えたのであろう。
「私は《侯爵夫人》と看守さんとの会話をみんなきいたわ」といった。「そっくりだったよ、ゲルマントとヴェルデュランの小さな核とに。
よくもまあ! ああいうことを伊達にすました言葉に置きかえられたものだね。」そういって彼女は、さらにそのうえに、こんどは熱意
をこめて、彼女の侯爵夫人であるセヴィニェ夫人の言葉をつけくわえた、「《あれをきいてい
て、私は、あの人たちが私のために何かわかれのたのしさを用意してくれているように思いましたよ。》」
祖母が私に聞かせたのはそんな話だった、そしてその話のなかに、彼女はその引用句の好み、その古典文学の記憶、
といった彼女の感受性のこまやかさのすべてをこめていたのだった、それはいつものときよりもすこし多くふくまれてさえいた、
そのことはまた、彼女がまだそうしたすべてをしっかりおぼえていることを示したがっているかのようだった。しかし
それらの文句を私はきいたというよりは推察したのであった、それほどに彼女は、それらの文句を発音しながら、
口のなかでぶつぶつつぶやくようなききとれない声になり、吐気をおそれるためとだけでは説明がつかないほどに歯をくいしばったのだった。
「さあ」と私は、彼女の病気をあまり重大に考えすぎるようなふりを見せないために、かな
り軽い調子でいった。「すこし胸がむかつくようだから、よかったら帰りましょう、ぼくは
気が進みませんよ、胃のつかえているお祖母さまをシャン=ゼリゼの散歩に引っぱりだすなんて。」
「私は言いだしかねていたの、あなたのお友達のことがあるので』と彼女は答えた。「すま
ないねえ! でもそういってくれるのだから、そうするほうが利口だね。」
私はその言葉の発音の仕方に彼女が自分で気づくことをおそれた。
「そらそら」と私はとっさにいった。「つらいから話さないでいらっしゃい、胸がむかつくときは。むりですよ、お待ちなさい、せめて家に帰るまで。」
彼女は悲しそうに私にほほえみ、私の手をにぎりしめた。さっきすぐに私の推察したもの
がなんであるかをもう私にかくす必要はないこと、自分がいま小さな発作を起こしたこと、それを彼女はさとったのであった。 D507
「そうでしょうか」と公爵は答えた、「でも靴はドレスと同色のほうがエレガントですよ。
それに、心配しないでください。あちらに着いたら、あれはとたんに気がついたでしょう、
そして靴をとりに帰らなくてはならなかったのは私でしょうから。私は九時に晩餐をとるこ
とになったでしょう。さようなら、きみたち」と公爵は、そっと私たちをおしやりながらい
った、「オリヤーヌがおりてこないうちにおひきとりください。あれがお二人にお会いした
がらないわけではありません。いや逆にお会いしたがりすぎるわけですよ。まだここにいら
っしゃるのがわかれば、また話しはじめるでしょう、もうさんざんしゃべり疲れているんで
す、晩餐会に着いたら死んでしまいますよ。それに、率直にうちあけて申せば、私のほうは、
おなかがすいて死にそうなんです。けさ汽車をおりて帰ってきて、ひどいおひるをたべさせ
られてね。いやあ、あのいまいましいソース・ベアルネーズにはまいりましたよ、しかしそ
れでも、正餐のテーブルにつけば、すっかり、それこそすっかり、いい気分になるでしょう。
八時五分まえ! やれやれ! 女というものは! こんなことをしていたら二人とも胃をわ
るくしてしまう。家内は思ったほど丈夫じゃないんですよ。」
公爵は死にかかっている男のまえで自分の妻や自分の不調を話してもすこしもばつがわる
くないのであった、なぜなら、自分たちの不調のほうがもっと自分に関係しているので、い
っそう重要だと思われるからであった。だから、私たちをていよく追いはらってしまったあ
と、馬車のドアから傍白式に、といっても大音声で、すでに中庭のほうにあゆみさったスワ
ンに、こう叫んだのは、公爵のそだちのよさと元気のよさによるものでしかなかった、
「それにあなたはね、まいっちまってはいけませんよ、医者たちの暴言に、べらぼうな!
やつらはでくの坊だ。あなたはポン=ヌフのようにびくともしないんだ。われわれみんなの
最期を見とどけてくれるんですよ!」 おい何日かぶりにまぐにゃが自分の意思でツイッターしたぞ
https://mobile.twitter.com/warenizonzu
しかしいってることはしつこいやつに絡まれたきっと左翼だ
左翼がぼくを攻撃してくるw
おめえはなんでも左翼のせい
統合失調症かよ
俺は左翼じゃねえw
単なるトロールだよ
周知の通りでかいつらしてるやつが嫌いなんだよ
Pなんて反安倍政権だけど
でかいつらしてるから
俺はPをラップでdisたりするよ
まぐにゃお前が嫌いなのはネトウヨだからって理由じゃなくて
でかいつらしてるやつがたまたまネトウヨが多いんだよ アナトール・フランスの小説においては、オダマキは、プルーストの根幹的主
題に関わるような文脈で使用されている。この花が登場するのは、プルーストの
愛読書であった『シルヴェストル・ボナールの罪』(1880年)であるが、この小説
は「コンブレー」の草稿においては、ベルゴットの文体がもつ魅力を示す例にさ
れている。博識な主人公ボナールは、路傍で見かけたオダマキの花と虫との出会
いに目を奪われ、日記に書きとめる。オダマキは華やかでありながら、沈んだ風
情の気高く清らかな花として描写されている。そこにマルハナバチが蜜を求めて
やって来る。蜂は花に潜り込んでもすぐには蜜に到達できず、やがて花冠を食い
破り蜜を吸う。マルハナバチの智恵にボナールが驚き感心する場面である。
ここでオダマキは、宗教的あるいは文学的な比喩を離れて、科学的な観察の対
象になっている。このマルハナバチと花の関係は、プルーストが『ソドムとゴモ
ラ』で華々しく展開するマルハナバチと蘭の出会い、すなわち同性愛者どうしの
出会いの場面の遠い源泉だとは考えられないだろうか。プルーストは、たんに審
美家として花を愛したわけではない。子供時代から書物に描かれた花々に強い関
心を寄せ、ダーウィンやメーテルランクやメチニコフの博物学的、生物学的作品
を読んでいた。そのプルーストがフランスの記したこのオダマキの一節を記憶し
ていないわけはなかろう。
一方、アンリ・ド・レニエは詩集『いにしえのロマネスク風詩編』のなかでオ
ダマキに言及しているが、ここでとりあげたいのは、プルーストがレニエの文体
をオダマキに喩えていることである。プルーストはレニエの詩的散文のパスティ
ーシュを創作しているが、のちに「レニエの文章は長く延び、明確になり、身を
くねらせ、オダマキのように沈んだ風情の細密なものとなる。」と記述している
(CSB, p.306)。花茎が長く伸びて、いくつもの花弁が曲線を描くように開花するオ
ダマキのイメージは、レニエの文章の精髄とみなされている。プルーストがこの
花を高く評価していたことが指摘できるであろう。
http://www.let.osaka-u.ac.jp/france/gallia/texte/42/42sakamura.pdf 長いこと、私は早く寢ることにしてゐた。
鑞燭が消えるとすぐに、瞼が素早く閉ぢて、「もう眠りに落ちるのだな」と思ふ暇さへ無いことがあつた。
それが、三十分もすると、そろ\/寢付かなければ、といふ思ひ込みで目が覺めた。
まだ書物を手にしたまゝだと思つてゐた私は、それを置いて燈りを吹消さうとしてゐた。
眠つてゐる間にも、直前に讀んだことを反芻し續けてゐたが、その反芻はやゝ特殊な形をとつてゐた。
教會、四重奏、フランソワ一世とシャルヽ五世の諍ひ、作中に書いてあつたさうした物事に、私自身がなつたやうに思はれた。
かやうな思ひ込みも、目が覺めて數秒の間は生き延びた。
それは理性を搖さぶることこそなかつたが、目の上に鱗のやうにのしかかつたので、燭臺にもはや燈りが點つてゐないことを認識することができなかつた。
思ひ込みは次第に、前世における思考のやうに知覺できなくなつた。
本の主題は私から切り離され、それをまた追ひかけるかどうかは私の自由となつた。
視力は直ちに恢復し、目に暗闇が飛込んで來るので驚く。
それは私の目にとつて安らぎに滿ちてゐたが、心にとつては恐らく尚更にさうであり、因果を離れた、理解不能なもの、眞に曖昧な何かのやうに思はれた。
もう何時になるのだらう。
汽車の汽笛が聞える。
それは森の中に聞える鳥の聲のやうに遙か遠く、その隔たりを示してをり、旅行者が慌てゝ最寄驛まで行着かねばならないこの田舍の寂れ具合を表してゐた。
新たな場所、不慣な行動、最前までのお喋り、夜の靜けさの中でもまだ耳を離れぬ、外國のランプの下でのお別れ、歸宅してからの寛ぎ、かうした物事への亢奮のために、旅行者はこれから辿る小道を記憶に刻むであらう。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています