純文学と大衆文学(通俗小説)の違いって何? [転載禁止]©2ch.net
芥川賞・・・純文学
直木賞・・・大衆文学
らしいけど、
純文学と大衆文学(通俗小説)の明確な境界線ってあるの?
>>278
純文学ほどチンコマンコがダメだということ? >>279
芸術と同じ。裸体の美しさそのエロティシズムは純文学に値するも、扇情的なチンコマンコは純文学を騙る不逞の輩のエセ文学いや糞学。 「山手線内回り」
柳美里
女は便器に腰をおろすと、タイトスカートを臍の上までまくりあげ、パンツをふとももまでずりおろした。緊張が内に籠っているようなおまんこを右手におさめ、右手の上に左手を重ね、最初はそっと、徐々にこねるように、
そしてなか指をクリトリスに押しつけて左右に強く――、快感がせり出し、おまんこがじんわりと熱くなってくる。おまんこっていってみな、いわないとちんちんしゃぶらせてやんないよ、とかいうヤツがけっこういたけど、ザーッツ・オーライ!
何度だっていってやる。おまんこ、おまんこ、おまんこ、おまんこ、おまんこ、おまんこ、おまんこ、おまんこ、おまんこおまんこおまんこおまんこおまんこおまんこおまんこおまんこ、
歯を立てて根もとから食い千切ってやる! ごっくん、ちんちんはのどちんこをするっと抜けて、勃起したままのたうつように食道の奥へとすべり落ちて……おまんこ! フラッシュを焚いたようにぱっと飛び散った光が急速に萎えて真っ暗……
かぶと虫の終齢幼虫の死骸みたいに黒ずんでぶよぶよになったちんちんがフラッシュバックして……吸ってぇ、すぅ、吐いてぇ、はぁ、吸ってぇ、すぅ、吐いてぇ、はぁ、痺れた脳に酸素が戻ってくる。
背中を丸めて股間を覗いてみると、おまんこはぐちょぐちょ。もっとからだが柔らかかったら、擦り剥いて赤チンを塗った膝をふうふうやるみたいに、濡れたおまんこをふうふう乾かしてあげられるのに……
女はゆらりと立ちあがった。センサーが作動して水が流れた。ねばついている指をグーにして〈開〉の青ボタンをパぁンチ! >>284
朝鮮文化というのがなぜバカにしたことになるんだ? >>286
当然、日本の純文学をリスペクトしている。 >>1
芥川賞→作家として活動しているが世間に埋もれて日の目を見ていない無冠におくる賞
直木賞→作家として世間に認知されている売れっ子だがベストセラーまでには届かない中堅におくる賞 >>281
これはどういう意図で引用したの?純文学の表現例として? そもそも文学って何よ? なんだか知らないがソレが純も不純もあるものか。
阿保な区別だな(冷笑) ふと思ったんだけど笑いの温度を書き分けることじゃないかな。 文学なるものが仮にあったとて、オレにとって、それは面白いか面白くないか
のどちらかさ。「純」だと! 「大衆」だと! バカじゃないか。 どちらが上とか下とか言うのはアレだけど読者が受け取る感動の質にも差はあるでしょ
大衆文芸は既知の情感を刺激し感動を与えてくれる
純文学は未知の何ものかを示して読者を揺さぶる
その未知なるものが人々に認知されて浸透すると次代のスタンダードになって
大衆文芸でもその手法が広まり読みやすく完成度の高い作品が書かれる >>295
何だか、よく理解できない理屈だな。
貴殿の理屈は、そもそも初めから『純文学』と『大衆文学』の存在を
前提にしている理屈で、オレは、其れを所詮認めないのだよ。
しかし、一歩ゆずって、『大衆文学』なるモノが初めからあった
として、その『文学』が、貴殿の言う『未知の何ものかを示して読者を
揺さぶる 』ことがあるのは現実に有りえるコトではないか?
(ここで、いわゆる「大衆」についても、これも厳密な定義が必要だが)
もし、そうだとすれば、その「大衆」にとって、そのとき読んだ「文学」
は貴殿の定義によれば『純文学』となるのではないか。
従って貴殿の理屈は破綻しているように見えるぞ。 /:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::ヽ
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https://www.youtube.com/watch?v=dFj6B-dIKY8 横だが、
小説のみで考えるからアホぬかすんだよ。
日本の純文学とはそもそも和歌だ。百人一首くらい知っているだろ。
歌の世界には人間の情操つまり高いレベルの複雑な感情が表現されている。それが純文学。
そういったものを小説で表現したのが純文学の小説。
で、支那人朝鮮人を芥川賞作家にするもんだから日本の純文学が廃れてきた。
下品なエロは大衆小説、大衆文学という位置づけでいいのにな。 和歌が宮廷人のお遊びだったように、純文学は精神的に高貴な人間の世界。
純文学が上で大衆文学が下というのは感覚的に理解できる。
しかし、貧乏人でも精神が尊いならそいつには純文学はふさわしい。ま、いわゆる清貧というやつ。 >>299
これも分からん理屈だな。要するに定義だけの問題だな。
貴殿の言う『人間の情操つまり高いレベルの複雑な感情が表現されている』
ものは何も百人一首に限るまい。「大衆」の文章にも、その「人間の情操」
とやらが無いとは言えまい。してみれば、その文章は「純文学」となる
ではないか。貴殿の理屈も破綻している。
要するにオレの言いたいことはこうだ。
ここにAとBなる2つ「文学」があったとして、お偉いさんたちが、勝手に、Aは
「純文学」だ、Bは「大衆文学」だと、のたまっているだけのことさ。
お偉いさんとは何を指すか言わなくも分かるだろう。蛇足すれば
つまり「権威者」さ。
少なくともオレには、AとBの区別は、面白いか、面白くないか、
そのいずれかさ。「純」も「不純」も、へったくれもない。お偉いさんが
どう評価しようが、オレの知ったことじゃぁない。
貴殿が、それは違うと言うなら、つまりは見解の相違だな。
ついでに言えばノーベル賞とやらもオレは大嫌い。こんなもん、ただの
お祭りさ。いわんや芥川賞。つまらん世俗のお遊びよ。 >>300
『純文学は精神的に高貴な人間の世界』。『清貧』
さようでございますか。こちとらにとっては莫迦莫迦しい戯言でござんすよ。
まぁ、これも見解の相違だな。 以上の此の話題は下らないからやめるぜ。 >>301
いや、限っているよ。
ようは何がメインかで決まるんだよ。
ここ重要だから、反芻してしっかり理解しろよ。
たとえば、人間の社会では、どんなものにも人間が出てくる。
だからといってみんな同じジャンルかといえば違うだろ?
人間が出てくる。それは百人一首に限るまい。
だからAVも百人一首も同じだ。
というのが、おまえの理屈。おまえの理屈が破綻しているんだよ。まずそのことに気づけ。
それに気づけないようなオツムレベルならそもそも話にならん。
気づけたら、気づけた、とレスを入れとけ。話はそれから。 >>302
見解の相違ではない。住む世界が違うんだよ。
まあだからこそ、純文学と大衆文学はぜんぜん違うってことの証明になる。
同じ景色を見ていても、感じ方が違う。
平たくいえば、花より団子。それが大衆文学。 モダニズムは必死に道徳と文学を切り離したけれどね
夏目漱石まで戻ると美とは関心を放り投げてなお残る没関心の美学
「現実生活にあいはかるとはいずくんぞ」論争が純文学論争の最初くらいか
そこから作品がそれだけで屹立する「何も語っていない小説」というフローベール的純芸術が成立する
容易にコンセプチュアルアートに堕落する芸術ではなく、そのコンセプトを作り出すところのみに芸術を見出す
これがフォルム批評であり、「方法」の芸術論
政治的に参加する180度展開した文学はこれらの延長にもあり、現実への「態度」こそを重視する
この批判もまた「倫理的態度」を重視した小説になるし、ポストコロニアリズムもこの「他者への倫理的自己省察」を要求する
独創から離れ、模倣から離れ、セリーヌの罵倒を模倣するのでなく彼の精神性を取り出す
言語への倫理的対峙は言葉遊びに堕落する危険を残しながら言語の分解、言語の創造的過負荷を連ね続ける翻訳困難な言語作品を提出する
そういう作家ばっかり好きだな、結局 >>297
そうだね。大衆文学として発表されたものが純文学として評価されることもあるし
逆もある。例えば花村満月はエンタメ出身だけど芥川賞、車谷は純文出身で直木賞
そもそも純文と大衆文学が分けられるようになったのは明治23年の
浮城物語論争の頃からで大正期には明確に制度化された
でも便宜的だし一人の作家が両方書いてる場合も多い。北杜夫とか井上靖とか
あと内容によらず出版社の方針でずれた扱われ方をする場合もある あと295で時間差のことを問題にしたけど、谷崎も芥川も今ならエンタメ的な
面白さが感じられるけど、当時は「新しい」世界だったんだと思う 違う違う。
当時は書き言葉ができたばっかり。
「〜である」という書き方さえ斬新だったというくらいだ。
ようするに、いまの日本語の文章をつくったのが、夏目漱石や芥川龍之介ら作家たちだ。
内容がどうこういう問題以前の話。
そういう時代のをもってきて、中身に言及し語ってもあまり参考にならない。
芥川賞か直木賞かどっちかわからないというのも、レベルが低くてどっちつかずってやつだ。
極めようとすればその区別ははっきりしてくる。
たとえば、アイドルを見てみろ。歌って踊ってドラマにも出てお笑いタレントみたいなこともする。
しかし、本物のミュージシャン、ダンスのプロフェッショナル、本格派俳優女優と競べてどうだ? 違うだろ。
本物は格が違うんだよ。その格をみて権威だ何だというのはお門違い。
日本の文学はまだまだ熟していない。マンガのせいであまり発展してこなかったし、
出版の既得権、新人賞という閉鎖的なシステムのせいで、才能ある作家が見出されなかった。育たなかった。
が、これからは違うだろうよ。 「である」は四迷、「です」は美妙ね。漱石より20年ほど前
言文一致は表記の問題であると共に思考法の問題でもあったから
内容にも関わっていたんだよ。漢文調だと儒学的価値観に引っ張られて
文学が自立できないと考えた逍遥は馬琴やロマンスなど波乱万丈の物語を
「古い」とし、人情を写す=内面を描くノベルを「文学」だとした
浮城物語論争では、魯庵は面白さを目指すのは文学ではない、人間を描け
と主張下。今日に至る「人間が描けていない」ってやつね >>309
その思考レベルがまだ低いってことだ。
1:00くらいから見てみろ。漱石を持ち上げているから。
https://www.youtube.com/watch?v=CcrtyPfLvCw >>311
ここに書いたのは文学史上の経緯で客観的な真実といっているわけじゃないよ
詳しく知りたければ長山靖生「奇異譚とユートピア」とか読むといいよ
逍遥は「小説神髄」で文学の変遷を進化で説明しようとした
漱石は「文学論」で別のタ−ムを示した(そのキイワ−ドは知ってるよね?)。 >>311
ここに書いたのは文学史上の経緯で客観的な真実といっているわけじゃないよ
詳しく知りたければ長山靖生「奇異譚とユートピア」とか読むといいよ
逍遥は「小説神髄」で文学の変遷を進化で説明しようとした
漱石は「文学論」で別のタ−ムを示した(そのキイワ−ドは知ってるよね?)。 純文学って広義の意味と狭義があると思う
広義は芸術的な小説
狭義は日本の日本自然主義の流れをくむ小説
例えば村上春樹は前者だけど後者ではない 芸術的=コンセプトがあるって事ちゃうかな
例えば百田尚樹は読者を泣かせるというのを目的にしてる=読者の生理的反応、情緒を目的にしてるから芸術ではない(悪口ではない 違う違う。
簡単にいえば、芸術とは信仰の対象となるものだ。
和歌や俳句の芸術性は、和歌や俳句という表現方法自体に思い入れをもつ人間がいるから、存在する。
下世話な言い方をすると、信者がいるから存在する。そこで信者同士、芸術性を語り合うことができる。
私小説という形が純文学として成り立つのも、私小説書く人間がいて、それが自身の魂の救済となるからだ。
書き手の魂の救済として書かれたものを、読者は自分の生き方と重ね合わせたりしながら読んで、自分の魂を救済する。
純文学を好む人間は、面白可笑しくしたストーリーには興味はない。
むろん波瀾万丈な生涯であってもいいが、じつはそれを目的として読むのではない。
自身の投影だ。肉体を離れた、意識の投影といってもいい。だから、こだわりが強くなる。芸術性を問いたくもなる。
こうでなければならない、こうすべきだ、といっぱしの主張をする人間が出てくる。研究をし、系統やなんやかんや分析して、学問として成立させる。
そこで「文学論」なるものが書かれ、今度はそれを読んで、文学論の信者になる者まで出てくる。
すべて信仰のなせるワザ。
大衆文学つまりエンタメ小説は、自分の人生を投影させた信仰の域にまでは達しない。まさに面白可笑しく読んで、ハイ終わり、だ。
たとえば、アニメを見て人生が変わったり、アニメのキャラを信仰の対象とする人間もいる。
そういう人間が増えてくれば、アニメの芸術性が認められ、いずれ世界的な芸術として認められる日が来るかもしれない。ようは信者の数だな。
そして何の信者にもなれない者には、芸術は一生理解できない。が、そいつには芸術は権威の象徴にしかすぎないのだから理解する必要もない。 漱石の門下生の森田草平は、夏目漱石の中で、
純文学を「本格的」な小説って言っていた。
彼的には大衆小説は本格的ではないってことなんだろう。 >>292
完全に同意。文学って何? それが理解できなくて漱石は苦悩したらしいぜ。
誰か、む文学って何? 定義してみろよ。それを誰かが定義したところで
恐らく別の誰かが反論するに決まっているのは目にみえている。
つまり定義不能なんだな、というより定義なんか出来っこない。
このスレの書き込みを、ざっと見ていると、むなしくなるな。
要するに暇人の戯言だな。「純」だの「大衆」だの、どうでもいい。
だからオレは文学部だの哲学科だのを軽蔑している。
ここの住人は工学部系の人間から見たら、アホに見える。バカバカしくてね。
注:此のスレ立てさん、失礼しました。 >>321
無粋な書き込みですな。
まぁ、学校の先生達用たち用のスレですから、せいぜい遊ばせてやって
下さいな。 純文学はあなたの心のなかにある、か
あると思ってる人がいるなら、きっとあるんだろう >>323
そうなんだよ。結局、各人の心のなかでのみのテーゼなんです。
この世の事象は全て各人の「心の中でのみ存在する」。
現代物理学も其のような見解もあるそうで。
尤も、こういうとミもフタもなくなるが・・・
(お遊びの邪魔してゴメンネ) このスレを全部流し読みしたら、同じような内容の繰り返し。
もう、そろそろ、The Endだね。 純文学=たいてい忍耐力が試される
大衆小説=忍耐力は必要とされない 自然科学が対象にしている自然界に存在している事物の解明とは違って
文学や哲学の対象は人間の創作物や精神活動(生物学的医学的なものにも関わるけど)
だから純粋客観的に定義付は出来ない。そもそも人間が作ってきたものなんだから
どのようにして生まれ、どのように発展してきたのか、先人がどういう意味で用いてきたのかを
歴史的に押さえないと独りよがりな解釈になってしまって議論の基礎が成立しないんだよ
法文みたいに国家権力が定義を規定するものでもないしね 純文学はその文章自体に価値を持たせる小説
文自体に価値があるから大衆に受けなくてもいい
大衆小説は多くの人を楽しませる為の小説
楽しんでもらわないと意味がない
逆に言えばパクリだろうがリアリティがなかろうが読んだ人が楽しめればいい また始まったよ。まぁ、いいけどな。
ただ、327の言明は、自然科学にも、そのまま、あてはまるんだよ。(笑) >>328
文章自体ではないよ。「文章表現」に価値があり、その文章表現されたものこそが、人々の脳に新しい概念を植え付ける。
たとえば、日本語には「愛する」という文章表現はなかった。翻訳語だが、日本人に新しい概念を植え付け、現代日本人の精神構造をつくっている。
それはたんに「LOVE」を翻訳したからというものではない。
言葉や文章という素材を使って、どれだけ創意工夫し、表現するか。純文学はまさに文章による芸術であり芸術作品だ。
わかりやすくいうと、彫刻に芸術的な価値があるのであって、素材の木や石に価値があるのではない。
そして純文学こそ日本語による芸術作品。
それはつまり日本語でしか表現できないものがあることを意味している。 具体的に言うと、ある登竜門的な賞を受賞する
か否かはひとつのポイントとなりますよね。
そしてその賞の選考委員たちは名の通った作家
たちである訳です。そのような賞はひとつの
権威であるとは言えるでしょうね。また、賞
を取らない場合でも有名出版社の雑誌の編集
者の眼にとまる、という事もある訳ですね。
このような具体的な場面でパスするか、スルー
されるか、が文学の定義に関係して来ると
思うんですけど。 >>331
芥川賞とったら文学と言いたいの?ずいぶん時代遅れのレスに感じるけど いえ、でも作家として世に出るためには、具体
的な関門のようなものがあり、そこを通ればま
た次回作を書くようにと出版社から頼まれると
いう事がある訳で、実際、出版された本が売れ
れば、と言うか大ヒットするかしないかという
ような具体的な幾つかの分岐点がある訳です。
そうして具体的に選別された作者が、純文学な
り、大衆小説なりの作家として認められて行く
というプロセスをもっと検証してみたほうが、
よいのでは? というひとつの提案をしている
訳です。 つまりみなさんのご意見がかなり、観念論的に
感じられ、もう少し即物的な視点もあり得るのではないか、と思ったものですから。
すみません。今日はこれ以後、発言はしません。 >>330
表現と感覚の問題ですか
言いたいことはわかるけど、それを特権的に扱うからなんか変なことになるような
変わった表現で変わった感覚を書くのが純文学だ、というのは良くも悪くも狭すぎる えーと、最近、森鴎外の『阿部一族』『護持院原の敵打』『安井夫人』
『雁』等等を読んだんですが、とても面白かった。特に『雁』は鴎外特有
の晦渋さがなく、すらすらと読めて特に面白かったです。
で、鴎外のこれらの作品は純文学でしょうか。大衆小説でしょうか?
私としては、どうでもよいと思ってるんですが、まぁ鴎外、漱石と言えば
純文学のイメージがあると思われますがねぇ。
ちなみに、私の最も好きな鴎外の作品は『百物語』と『空車』。
スレ違いでしたら、お許しください。尤も、ご回答は、ある程度、予想は
してるんですけど。 336ですが、先走って書くと、『「面白い」だけの感想しか書けないのか、
おまえは、その程度か』っという趣旨のレスが飛んできそうなので追記しておきます。
まぁ、「その程度」の人間と私が評されても、私は一向にかまいませんが、
「高尚な感想」なら、いくらでも私は書ける自信はありますがね、
ただ、それを此処に書く趣味もスペースも無い、ということを言っておきます。
やっばり、スレチかな。 ジュンク堂に電話かけて在庫あるかどうか聞いたがないってさ。こりゃ書店の在庫は見込み薄だな。
そうだ、ピースはもってるんだから、ピースに貸してもらうという手があるじゃないか!今頃こんなことを思いつくとは。 純文学。といってもいい。というのは、当時は、そういった文章表現が当たり前ではなかった。
いま我々がこうして何気なく書いている日本語の文章は、鴎外や漱石が創りあげてきた。
擬古文体や美文調などの段階を経て、現代の平易な日本語の文章に辿りついたにすぎない。
つまり、昔は文章を書くこと自体、特別なこと。芸術活動をするようなものだった。
いまは、書けて当たり前という時代なので、昔の作家たちの労苦、つまり文章表現による芸術活動というものがわからないだけ。 >>340
司馬遼太郎の「ひとびとの跫音」によると、『我々がこうして何気なく書いて
いる日本語の文章』は正岡子規なんだそうで。まぁ、鴎外、漱石も、そうなんでしょうな。
だからと言って、それが「純文学だ大衆ぶんがくだ」と「議論」のは、失礼ながら、
あまりににも幼稚ですな。
ちなみに「ひとびとの跫音」では、『いま我々がこうして何気なく書いている日本語の文章』
については鴎外の「お」の「お」の字も出てきません。それは司馬遼太郎が
正岡子規が大好きだったからでしょう。
たぶん、司馬遼太郎が本スレのテーゼを聞いたら嗤うでょう。
悪い意味での素人の問題意識だとね。実は、私自身も、そう思う。
所詮、文学なるものも含めて芸術にとって、「純」も「不純」も、「大衆云々」
も虚しい言葉遊び。芸術とは何の縁のない言葉。
そう思いませんか? 芸術の評価は歴史によってコロコロ変わるじゃぁないですか。
このスレのテーゼは虚しいんですよ。スレ立てさんには申し訳ないですけど。
でも、2chらしいテーゼであることは私は勿論認めますよ。お遊びなんですから。
楽しみましょう。 341の文章で、だいぶ脱字等がありますが、補って読んでください。
流し書きしましたので。 なぜ新聞の投稿に、俳句や和歌があるのか考えてみるといい。
純も不純も現実として存在する。日本人の言葉にたいする繊細な感覚は世界一。
それを否定したがるのは、日本にそういった文化があること自体が気に入らない連中。 >>300
精神的に高貴な人間が「支那人と朝鮮人が純文学をダメにした」とか言うわけねーじゃん(笑) 純文学と大衆文学を学術的に分類するのは最終的に不可能だと思う。どちらも文学だとして、具体例を挙げるなら、「火花」が芥川賞を獲った際に「流」が直木賞を獲ったでしょ。僕はどちらもよんだけど、「流」の方が断然優れていると思った。 >>344
高貴なお方の怒りは尋常じゃない。逆鱗に触れぬよう自分を律しろ。 >>345
自分の考えと一緒じゃない、という話にすぎない。 確信は持てないけど、漱石は「大衆文学」として受容されていたんじゃないの? テレビもラジオもない、娯楽らしいものがない時代。
漱石の小説が朝日新聞に連載されることによって、朝日新聞の部数が飛躍的に伸びた時代。
それをイメージしてから語れ。 大江健三郎は「現代文学研究者になにを望むか」という講演でハンス・ローベルト・ヤウスの「挑発としての文学史」を引用して、通俗小説を「期待の地平にそっていてそれをこえないものである」と定義しているらしい。 70年代の話だよ。柄谷行人いわく、「私は"ピンチランナー調書"を読んで、この定義がそっくりあてはまると思った」と(笑) 少々ぶっちゃけると、文芸誌と文学賞とその周辺の人物がこれは純文学だと言えば純文学になるんじゃないのかな
村上隆が、アメリカ現代美術はよくわからない扱いされるけどあれはアメリカの美術界の特定の人間が求めているものに沿った
作品を発表する一種のゲームで、自由な表現でもなんでもない
だが、世界最大の大国アメリカには美術界の最高の才能が集まるから、素晴らしい作品が出現するんだ
といったことを語っていたけど、
純文学もちょっと似てるのか
純文学のルールみたいなものがあって、そのルールを決めてる人がいる、感じはするな
ただ、純文学の大原則として、歴史的文脈は踏まえないとダメ、というのがあって
たとえば漱石や鴎外を純文学ではない、と否定するのはNG、と >>355
>少々ぶっちゃけると、文芸誌と文学賞とその周辺の人物がこれは純文学だと言えば純文学になるんじゃないのかな
これについては「そんな事はない」って言えないんだよね。その通りなんだよ。「文芸雑誌に載ってるわけわかんない小説の事を純文学って言うんでしょ」って言われたら、「まあ、そうだね」と言うしかない(笑) >>343
貴殿の書き込みについての疑問を下記するぜ。
疑問1.『純も不純も現実として存在する』
だからさ、何を基準として「純」不純」と選者は判断してるの?
結局、選者の手前勝手な主観なんでしょ。何か判定マニュアルでもあるの?
それがオカシイとオイラは言ってるのよ。
疑問2.『日本人の言葉にたいする繊細な感覚は世界一。』
オイラに言わせれば、これも貴殿の独断と偏見だな。
そう決めつける客観的な事実(or証明)はあるの?
疑問3. 『それを否定したがるのは、日本にそういった文化があること自体が気に入らない連中。』
これも貴殿の勝手な独断と偏見だな。勝手に決めつけている。
どういう道順で、そう結論づけるのかサッパリ分からないよ、オイラにはね。
以上より、343の貴殿の言明は、少なくともオイラには何の説得力をもたない。 >>357
>だからさ、何を基準として「純」不純」と選者は判断してるの?
美醜の概念。
たとえば音痴は、歌に上手い下手はない、そんな判断は主観だ、オイラはスマップの歌は上手いと思っている! その証拠にだから売れているんだろ! 中居クンの歌が下手だというのはオカシイよ!と主張する。
音の美しさの概念がないため、売上でしか判断できない。売上は明確な客観的な基準だからそれを拠り所にする悪癖がついている。
言葉の純、不純の基準を学びたかったら、短歌教室や俳句教室に通うといいだろう。
>そう決めつける客観的な事実(or証明)はあるの?
当然ある。翻訳機。日本語の表現は多岐にわたるため翻訳が複雑になる。
たとえば「私は天才です。」という言い方は「オイラ、天才。」「俺は天才だぜ。」「僕は天才だもん。」「おれ、天才っす。」「あたしゃ、天才だよ。」「わしは天才じゃ。」
といくらでもつくれる。これは人称主語から書き手の性格がわかるという日本語の特性であり、ここに日本人の言葉にたいする繊細な感覚が発揮される。どれを使うか?
もちろん主語自体を省くこともできる。つまり主語だけが特徴ではなく、助詞の変化、その言葉の組み合わせが多種多様にあること。
なので、一つの英文でも、日本語訳にするとき、いくらで表情をつけることができる。この表情をどうつけるかが訳者の腕の見せ所である。
そして英文を翻訳機にかけると、汚いつまり不純な日本語の文章が出来上がる。
>『それを否定したがるのは、日本にそういった文化があること自体が気に入らない連中。』
日本語を扱うにはセンスが必要。だから英語、英語と喚く奴がいる。英語なら頭からっぽ考えなくてもいい。たとえば「I」という主語を使っていればいいだけだから。
日本の文化自体を知らないで否定しているとしたらよっぽど始末に負えない輩だ。死ね。 >>358
1.貴殿の言う『美醜の概念』『音の美しさの概念がないため云々』について。
要するに美醜も相対的なものだぜ。絶対的基準など有り得ない、というのが
オイラの考えさ。貴殿は、よほど短歌・俳句が好きらしいな。しかし、所詮、そんなものも、 相対的基準しか有り得ない。
『教室へ行け』とは嗤わせる。貴殿の職業は教師か。 まぁ、そんなところだろう。いかにも教師らしい発言だからな。
2.貴殿の回答『翻訳機云々』には正直、あきれたぜ。そんな程度の根拠か!
器械の進歩というものも、まるで分かっていないな。べき乗の進歩たぜ。
べき乗も何のことか分からないだろう。文系は、たから駄目だな。
さて、例えばショークスヒアなりゲーテなり、誰でもよいが、日本人より彼らが繊細さに
劣ると言えるのか。バカバカしくて話にならないぜ。
貴殿の回答『英語なら頭からっぽ考えなくてもいい。たとえば「I」という主語を使っていればいいだけだから。』
なんという単純というより幼稚な回答だな。これにもオイラは、あきれてしまった。
3.貴殿は、日本文化、日本文化と喚いているが、どの国にも文化があって、それを理解する には貴殿の言う『センスが必要』のは今更ここで書くまでもない。何も日本文化だけではない。
こんなアタリマエのことも分からんのか!!
ともかく貴殿の言明の程度の低さには、あきれるぜ。 顔を洗って出直してこい。
4.ついでに言うが『死ね』というもの言いは止めろ。小学生の小僧でもあるまいし。 この一言で貴殿の程度が分かるぜ。 >>356
現状だと基本的には文芸誌デビューだと純文学作家だね
最初にデビューした媒体で決まる
神林長平が文芸誌に書いてたら純文学作家と言われてたりして >>359
>要するに美醜も相対的なものだぜ。絶対的基準など有り得ない、というのが
>オイラの考えさ。
当たり前だ。だから人間は絶対的なものを求めようとするんだろ。真実とは何かを探すんだろ。それが文化の基本だ。
>貴殿は、よほど短歌・俳句が好きらしいな。しかし、所詮、そんなものも、 相対的基準しか有り得ない。
短歌・俳句がわかりやすいから出しているんだろ。バカか。
>『教室へ行け』とは嗤わせる。貴殿の職業は教師か。 まぁ、そんなところだろう。いかにも教師らしい発言だからな。
バカか。そこは、教室ではどんなことをしているのだろう、と想起させ、相手に考えさせる文章表現テクニックの基本だろ。字面通りしか読めないおまえはバカか。
この「バカか」というのもの同じだ。おまえがバカかどうかを聞いているのではない。
>さて、例えばショークスヒアなりゲーテなり、誰でもよいが、日本人より彼らが繊細さに劣ると言えるのか。
バカか。日本語に見られる日本人の繊細さだ。日本語がどれだけ繊細かを教え諭しているんだろ。だから短歌や俳句を出したり、翻訳におけるその差異を明示して説明しているんだろ。バカかおまえは。
おまえも「貴殿」と書いているが、それはなぜだ? おまえが、気の小さい、臆病な人間だからだろ? 日本人の繊細さとは裏を返せばそういうことでもある。
「あなた」と書くか「君」と書くか「おまえ」と書くか。それとも書かずにそれとなくわかる表現をするか。おちゃらけて「おぬし」と書くか「ユー」と書くか。
これが日本人の繊細な感覚であり、センスだ。そこから日本語が他の言語に競べ、曖昧で非論理的なものとして発達してきた。
それゆえに、純文学というものが日本には存在する。日本語だからこそ育まれた世界であり、日本人のセンスが生み出した文学だ。理解したら死ね。 >>361
あ〜言えば、こう言う。ばかばかしい。貴殿など相手にしてられん。
勝手にほざいておれ。貴殿は小学生だな。 別スレだが、大学に文学部が無くなる傾向があるようだ。
確か、昔、女子大生亡国論がはやったが(その女子大というのは大半は
文学部だろうが)、このスレでやっている議論・・・なんて高尚なものでは
ないが・・・しているようじゃぁ文学部なんて無用だ。 文学部が不要なわけじゃなくて、日本の大学そのものが危機的な状況なんだよ。少子化で子供の数が減って、全入時代。
大学の数を減らしたいが、いっぱしの矜恃をそなえた教授たちの雇用問題もあり、反対されて思うようにできない。
だから、学部を減らしていこう、ということになって、文学部に白羽の矢が立った。それだけのことで、文学の重要度をはかるものではない。しかしバカにはそれがわからない。
こういったことがすぐわかる、つまり、人の心理というか、その社会の行動の裏に隠された人間の思惑、心情などを見抜くには、まさに文学作品を読むことによって培うしかない。
理系の人間はできない。
といっても、理系文系は関係ない。純文学作品に触れているかどうかによる。数学のできる人間は意外と他人の行動が読める。原因を探るセンスがある。
教授らの職を守るためにも、大学までの教育費を無料にし、一度卒業した大人であっても、本当の知識と教養を身につけるために、入り直せる、勉強し直せるようにしたほうがいいだろう。
そのためにも老人扱いをするのは80歳をすぎてから。60や65で定年退職してブラブラしてたら病気になるか、せいぜいクレーマーになるだけだろう。こんな社会システムは無駄以外のなにものでもない。
老害、お荷物となったそいつらにももう一度学校で学んでもらい、資産運用なり、社会に役立つような仕事をしたり、リーダーになったり、起業したりして、もっと人生を十分にまっとうしてもらいたい。
そのためにもまずは純文学と大衆文学の違いくらい理解しような? ↑正論だろうが、面白くない「文章」だな。ここの住人はマジメ過ぎるよ。
もっと短く書けよ。それと此のスレ、もうスレ落ちろ。 正論じゃなくて暴論として書くけど、正論が嫌いってのは単なるクソサブカルなんだよな。今、何が正論かなんて本当はわからないでしょう、とか声高に主張してるのが最果タヒという作家なんだけど、ほんと下らない意見だと思う。そんな事わざわざ言葉にする必要ないよ。 浅田彰や中原昌也がそれを言うならわかるけどさ。最果タヒみたいな人がニヒリズムを隠そうとしないのは、僕にはものすごく幼稚に見える。 >>365は違うかも知れないけど、最果さんには「あなた本当は文化になんて興味ないでしょ」とか言いたいな。 ↑そりゃぁそうだろうよ。吾輩は名無しであるって書いてるんじゃぁないか。ハハハハ それでも、村上春樹のノーベル賞受賞が厳しい理由は、作品そのものにもあると小谷野はいう。
たとえば井上靖、遠藤周作、芹沢光治良などペンクラブ会長を務めながらノーベル賞受賞に至っていない作家もいる。
これについて、彼らの作品が通俗小説とみなされていたからではないか、と小谷野は推察している。
100年以上の歴史をもつノーベル賞なのでその受賞傾向を一概に語ることはできないが、
ひとつだけハッキリしていると小谷野がいうのが「通俗小説には与えられない」ということなのだ。
そして「春樹の作品は、ノーベル賞委員会が嫌う通俗小説なのではないかという気が私にはしている」。
とくに日本でミリオンセラーとなり海外でもヒットした『1Q84』の内容は、通俗恋愛冒険小説である、と。
純文学と通俗小説(エンタメ作品)との境界に意味があるのかというのは日本の文壇でよく議論されることだが、
海外でも純文学と通俗小説の区別はあると小谷野は断言する。
世界的に人気のあったフランソワーズ・サガンやグレアム・グリーンが受賞できなかったこと。
アメリカの作家で、フィリップ・ロスやドン・デリーロは候補になっても、ジョン・アーヴィングがノーベル賞候補として名が挙がらないこと。
それも純文学ではなく通俗小説あるいは中間小説とみなされているから。
そういう意味で、日本でも「春樹を飛ばして」多和田葉子や津島佑子、堀江敏幸のほうが可能性があるのではないかとも予測している。
http://news.livedoor.com/article/detail/9344101/