マルセル・プルースト20 [無断転載禁止]©2ch.net
クラウス・フロリアン・フォークトのローエングリーンを、新国で初めて聴いたときは、そのあまりの美声にぶっ飛んだw >>146
>「長いあいだに、私は早くから寝るようになった。」
これは語訳。これだと徐々に早く寝るようになったというニュアンスになるので、
ちくま文庫では
「長い時にわたって、私は早くから寝たものだ。」
に修正している。 For a long time I used to go to bed early .
これで誤読の恐れ無し 翻訳家も文学者の端くれなら、上の訳文はないだろw
私は長きに渡って早く就寝することを習慣としていた。
の訳文以外有り得ない。 >>146
>「長いあいだに、私は早くから寝るようになった。」
これは日本語として恥ずかしいレベル ついでに言うと現在はもう早く寝るということはしていないんですね
その辺り日本語翻訳は少し曖昧だけど英訳はシンプルでもはっきりさせている 東大の名誉教授が一番最初の文章でそんな誤訳をするだろうか?
誤訳になりかねないようなフランス語の文法的な意味とかがありそうな気がするけど。
その訳文についての注釈みたいなのを読んだ気もするのだが忘れた。 >>43
19行目は
「マルセル・プルーストは入っていない。」と訂正すべき。
いやしくも金を取って翻訳してるのならば。 こういう超長編が最後まで読まれるためには、文章のスピード感が絶対に?必要だと思うんだが、ゴンクール賞の審査員も飛ばし読みしてたりしてたりということも有り得る。 159みたいに東大名誉教授の肩書きを盲信?する人もこのスレには多分多い。
権威主義の人が特に多いだろうから。
少し翻訳本を読んでれば、著名学者の誤訳話など幾らも聞いてるだろうに。 井上訳はなんであんなにひらがなばかりなんだよ
よみにくいったらありゃしない >>160
長いこと私は早めに寝むことにしていた
Longtemps, je me suis couche de bonne heure
これが「長い間に」とするためにはdepuis longtempsじゃないといけない
こう語っている語り手と早く寝る習慣を持っていた対象は同一人物なのか?
ジュネットは一人称ではなくて語り手の審級が異なる、としている
わざわざ不自然なフランス語になっていて、複合過去と「時間を表す副詞」を共存させている書き方になっている
英語に訳しても分かりやすくはならない、というか英語に訳すほうが難しい
カミュの異邦人の書き出しと同じで、フランス語は語り手の場所は特定せずに書くことが出来るが時間は特定せずに書くことは出来ない
それに挑戦した文章で、実際に次の文からは複合過去ではない(カミュは複合過去を続ける) フローベール『ボヴァリー夫人』の書き出しも妙だよね?
僕らは自習室にいた。(中村光夫訳)
この「僕」は二度と小説に出てこない。 >>165
翻訳の本義は二国語間の折り合いを付けるってことだろ。
今さら、「フランス語は特別ざんすから」か? >>165
それそれそういうのを
わざわざこの不自然な日本語にした理由として読んだことがある。 しかしけっこう、それこそ長い間、唯一の個人訳として読まれてきたものの、
しかも最初の文章を専門家が誤訳したとよく決めつけれたものだった。 当の作品が実際に読まれてないから、世間から誤訳がスルーされてしまう。
165は何の判断も下していないが。
冒頭でつまずくのも良い?が、先はあまりにも長いんだが?
170にはアンカーがないので相手にする程のこともないだろう。 >>172
恥ずかしいのは明晰であろうとしないお前の態度だろう。 でもコンブレーだけは読む人多いんじゃない
それから先は知らん >>172
名無しで卑怯なレスなら大概は女だろうが、お前は阿呆のにっぱか? >>172
お前には権威主義、蒙昧、騙し討ち、卑怯、虚栄心、狡猾などの言葉が相応しい。 例のバイオリン・ソナタはフランクのものではなかったっけ?
ずっと昔、芥川也寸志がラジオで、フランクのを自分の一番好きなバイオリン・ソナタだと言っていた。
フォルカー・シュレンドルフ監督の映画「スワンの恋」で使われていた曲は何だっけ?
当時、たまたま読んだフランスの雑誌にこの映画で使われている曲が違うと批判があった。
オデットがオルネラ・ムーティというのも合っていなかったが。 フランクか、このソナタ弾きたいためにヴァイオリストになったと、誰か著名な演奏家が言ってたけど、それほどのものかな >>178
『ソドムとゴモラU』で、シャルリュスがフォーレのバイオリンソナタを
弾くシーンがある。
>(これは、不安げな、苦ちた悩をたたえた、シューマンふうのものだが、それでも
フランクのソナタよりも前のものだった)集英社文庫 第8巻 p230 鈴木訳
>シャルリュス氏が、フォーレのピアノとヴァイオリンのためのソナタの終楽章
(不安と苦悩にみちたシューマンを想わせる曲だが、それでもフランクのソナタ
よりも以前の作)をこの上なく端正な弾き方で伴奏した。
岩波文庫 第9巻 『ソドムとゴモラU』p238 吉川訳 >>180
>シャルリュスがフォーレのバイオリンソナタを弾くシーンがある。
訂正 シャルリュスはピアノ伴奏でした。 >>182
モレルですね。「ラ・ラスプリエール荘での晩餐会」での出来事。
クラシック作曲家への言及が多い場面。 なんか、モレノって一杯いるなw
ところでプルーストは、スペインへは行ったことは無いんだったな 「スワンの恋」にはしきりにボッチチェルリのことが出てくるが
プルーストはフィレンツェに行ったことがなかったんじゃなかったっけ? >>187
彼の見出したボッティチェリは19世紀に前ラファエル派が再発見したボッティチェリだからね
どちらかというと色彩がない、コピーなんじゃないかな >>188
そうなんですか。
ラファエル前派って以前によく展覧会があって見に行きましたが、色が気持悪い。
ダンテ・ガブリエル・ロセッティの絵に登場する女性はゲジゲジ眉毛でユダヤ人みたい。
(別に悪感情を持っている訳ではなく、単なる好みと言うか、感想です)
ボッチチェリとは随分と違う感じがします。
そう言えば、日本趣味と言われるホイッスラーの絵の女性がロセッティに似ていると思いましたが
ホイッスラーは色彩とかが日本的で好きです。 >>190
オデットの描写はもともとはふっくらとしたピンクの頬の好ましい女性でした
ところが最終稿ではスワンの性欲をそそらない顎や頬骨の飛び出た美人となります
それがスワンに好ましく映るのは、ボッティチェリにそっくりと気づいたときです
スワンは肉感的な美人が好きなのですが、美術の趣味としては世紀末に称揚されたボッティチェリを好むのです
このボッティチェリは筋ばって醜いというのがその当時の認識で、それを覆したのがラファエル前派の思想的支柱たるジョンラスキンであり、プルーストは翻訳までしています
オデットの描写はボッティチェリそのものでなく、ラスキンのスケッチを忠実に描写したものになっています
スワンはラファエロ前派の新しい美人に観念的に憧れる新しい物好きな訳です
ちなみに同時に針子をたぶらかしていますが、こちらはピンクのふっくらとした描写になっています ほんとは嫌いだけど、好きなボッティチェリが描いた絵の中に出てくる女に似てるので、気が変わり好きになった
んな馬鹿なw >>192
「彼が自分では気がつかずに求めていた肉体的特質は、彼の好きな巨匠たちが彫ったり描いたりした女性たちに彼がささげていた賛美の特質とは正反対のものであったからだ。
奥深くて憂愁をたたええた表情は、彼の官能を凍らせ、逆に健康な、ぽってりした、ばら色の肉体が、彼の官能を目ざめさせるのであった。」
健康な、ぽってりした肉体というと、母性を思わせる描写である。ラファエロの絵をモデルに考えると、想像がつく。 ラファエロによる聖母マリアのような、そんな女性をスワンは求め続けてきた。
スワンは美しいと思った女、きれいだと思った女を手に入れてきたが、その美しさの基準はやはり上記のような「健康な、ぽってりした、ばら色の肉体」ということであった。
オデット・ド・クレシーは裏社交界の女と書かれている、教養という点ではスワンとまったくつりあっていない女性であった。
会ってしばらくの間は、スワンにとってオデットは自分の好みではない女として分類されていた。
「われわれの官能が要求するのとは反対のタイプの女の一人だというふうに映ったのであった。彼が気に入るにしては、横顔はとがりすぎ、肌はよわよわしすぎ、頬骨は出すぎ、顔立はやつれすぎていた。
目は美しかったが、いかにも大きくて、それ自身の重さでたわみ、そのために残りの部分は、疲れをおびて、いつも色がわるく、不機嫌そうなようすに見えた。」
この描写は、スワンの好みとは正反対であり、ラファエロの絵とも似ても似つかないものだ。ボッティチェリの描いたシモネッタや聖母像を見ると、まさしくこの原文の描写が当てはまっていることに驚かされる。
オデットとスワンの間に一目ぼれはなかった。
スワンは「彼女のもっている大した美貌が自然と自分が好きになれたような種類の美貌ではないことを残念に思うのであった」という文章からもわかるように、オデットを美しいとは思いながらも、女性としての魅力はあまり感じていなかった。
スワンが天啓を得たかのように、突然にオデットを愛し始めるのは、彼が好きなボッティチェルリによる壁画の「エトロの娘・チッポラ」にオデットが似ていると気づいた瞬間からである。
http://m.happycampus.co.jp/docs/983430443701@hc06/12642/から適当に記載 >>193
岩波文庫の挿絵に出ているチッポラは美しいと思いますが。
「失われた・・・」は KINDLE 版が出ていないんですね。
若い頃はプイヤッド3冊本を勢いで読んだけれど、
今はもう辞書を引く根気はないし、仏語の単語は忘れているし・・・ >>194
岩波の二つのチッポラのうち、左の拡大図がそもそもラスキンの模写です
舞台は1880年代なわけですが、この当時、ラスキン、あるいはイギリス唯美主義者がボッティチエリを「発見した」わけです
こんな美人もありだよ、と
それ以前の300年間「醜い」とされてきたのであって、今の時代の読者が「美しい」と思うかは別問題です
ラスキンやペイターはラファエル以前、要はルネサンス盛期より前の人々を持ち上げるわけです
重要なのはスワンの美的趣味は性的欲望の先を行っていることであって、これはスワンと語り手に共通する性質なのですね
ただしこれは多かれ少なかれ当時のスノッブが持っていた属性でもあって、オデットも「名前」や「イギリス語」に内容よりも優先する物神崇拝が見えます
性的欲望(感覚=アイギストス)だけではsensationの道徳的(≠宗教的・倫理的)側面にいたらず、美的趣味となるためには・・・というのは当時ラスキンを翻訳しながらプルーストが考えていたことなのでしょう
ラスキンの(世俗的)唯美主義批判とも重なるとこなんだと思います
語り手がはじめてラ・ベルムを実際に聞いたときの幻滅と、現実の女優を離れて初めて自由に愛せるようになるというとこ見ても分かるように繰り返される変奏のひとつです 源氏物語に出てくるような平安時代の女は絵巻で見ると、決して今の美人のカテゴリーには入らないみたいなもんだな >>196
あれはわざとああいう風に書いているんじゃなかったっけ?
ソースは探してないが。ちなみに源氏物語では浮舟が好きです。 源氏物語は林望訳で54帖読んだけど原文は難しくて断念
源氏物語は失われた時を求めてに似てるという評論家がいるけど、果たしてどこがだろうと疑問に思っている >>198
>源氏物語は失われた時を求めてに似てるという評論家がいるけど
その評論家自身が『失われた時を求めて』を読了したのかが疑問。
俺は、源氏物語は円地文子訳と瀬戸内寂聴訳で読んだけど、そもそも日本史の
知識がないのでわからないことの方が多い。大塚ひかり訳も読みたいのだが。 日本史もそうだけど、何より彼らの共通認識である、歌の基礎的な知識が無いと源氏をも読むのは辛い >>201
『失われた未来を求めて』の共通認識と言ったら、どんなものになるかな? >>195
解説どうもありがとうございます。何だか良く分からないのですが、よく考えてみます。
ゲルマント侯爵夫人は、ジュヌヴエーブ・ブラバンの末裔ということで
話者が憧れていたのに、実際の侯爵夫人は夫の浮気とかで幸福な人ではなかった・・・
というイメージがずっと前に読んだ時の印象です。
まだ、「スワンの恋」のところまでしか行っていないのですが、
これはラスキンとどういう関係にあるんでしょうか? >>202
貴族は血筋、ブルジョアは芸術全般に渡る教養 大体において作者は美しい人達ばかりを描いてる?
日本の上流をモデルにして小説書いたら、醜女や醜男や下品な顔立ちの者が多数派になってしまう。
今でも欧州の上流女性には美女しかいない。 アルベルチーヌ>ジルベルト>>>オデット
俺的な美人度 >>210
欧州社交界にデビューする若い女性達の集合写真があるよ。
欧米のハイティーンが集まってる。
そういう女性達が集まる会があるんだよ。
名前は忘れた。
俺はロリータには興味ないが。 >>194
英訳版には Kindle ありますが、英語で読んでも仕方ないでしょ。 >>208
源氏は順序だって流れて行くけど、失われたは行きつ戻りつ漂うところが、ちと違うかと だらだらと、10行経っても未だ改行しない息の長い文章に、狂おしく日々は流れる
10カ月ぶりに10巻出たぜ(・_・;)
http://i.imgur.com/loiNQ0R.png 時間はリニアーに刻々と失われていくが、題の中で求めているのは失われた途切れ途切れの記憶の中に隠された何かではないか? 題の昔の英訳がthe remembrance of things past なら、現在の『失われた時を求めて』は
SFチックな感じが過ぎる。
本来の意味は過ぎ去った過去の事やもの共の記憶に重点が置かれてる。 >>216
それは作者本人も気に入ってなかった英語のタイトルなんだけどね
「失われたときを求めて」は過去の記憶を探す小説ではない
perduのlost/wastedの二重含意がなくなっている
rechercheの探求する・研究するという意味もなくなっている
ただし、シェイクスピア風のタイトルで人気はある
それから最初の英訳は傑作としかいいようがない出来であることも事実 >>217
ヨシケンは、英訳>原作って評価してなかった?
鷗外・即興詩人>アンデルセン、みたいなモン プルーストはレンブラントの放蕩息子の帰還は見ていたのだろうか
http://i.imgur.com/AQpIr0x.png >>217
>>傑作としか言い様がないのも事実
この言い方、文体自体が最高の傑作ですなw
たとえ、あなたが仏、あるいは英文学の権威だとしても、匿名掲示板2chで不細工にもったいぶる、このセンス。
一体どれだけ鈍感な人なんだろう。
別にあなたはたいしたことを言ったわけではないんですよ。 >>219
当時、もうエルミタージュにあったのかなぁ?
個人的な好みとしては、世界最高の名画だと思う。
一般にはベラスケス「ラス・メニーナス」が世界最高と言われており、
ベラスケスも個人的には好きだけど。 横レスだけど
>>217って何かおかしいとこあるか?
なんで
>>220は突然、性格の悪さ全開で突っかかってるのか?意味不明だ >>219
吉川一義のプルーストの絵画によれば、プルーストはレンブラントを見にオランダまで行ったと書いてあって、その時はまだエルミタージュに所蔵されてなかったも知れません Youtube に上がっている朗読(女性の声)の CD(MP3 も)が
Amazon にはありません。男性の声のばかり。
あの女性の声の CD が欲しいのだが・・・ >>224
さすがっすね
鋭くて頭良さそうな文ですねえwww 岩波新刊の10巻よく売れているようで、1つめの大型書店で売り切れ、2つめの書店でゲット。
アマゾンでも取り寄せになっている。約1年ぶりの配巻をみな待ちわびていたのだな。 なんとなく買った本が読んでみたら良くて版もそれなりに重ねてたら
ちょっと嬉しいと同時に俺の知らんとこでもうみんな知ってたんか!ってなるよね! 早速購入した「囚われの女」の冒頭の文章を引用しよう。
「朝、顔はいまだ壁のほうへ向けたまま、窓にかかる大きなカーテンの上方に射す
日の光の筋がどんな色合いであるかを見届ける前から、私にはすでに空模様がわかっていた。」
吉川一義訳
「朝になると、顔をまだ壁に向けたままで、窓の厚いカーテンの上部にさしこむそとの光線の
明暗を見とどけない先から、もう私はその日の天候がどんなであるかを知っていた。」
井上究一郎訳 金無しおいらは図書館頼りで、リクエストカードを出しといたからもうすぐだろw
http://i.imgur.com/fLGDT9t.png >>232
わずか1100円なんだがね。それすらないって、きついな。
貧乏な人間が遊んで暮らすブルジョワを描いた小説を読むってどうなんだ? 1,100円を出せないこともないが、おそらく一回だけしか読まないと思う本に金掛けるより、その金でサンマでも買って食ったほうが良かろう
また読みたくなったらまた借りればいいし、図書館を有効に使ったほうがいいと思うね 確かに本を通読するのは1回だけだが、本棚に並べておくと、気になった時すぐ取り出して
該当箇所を読むことができるというメリットがある。精神的な贅沢だね。 俺は1回しか読まない本は買わないタイプ
だから年間でも50冊程度に抑えられてるし本棚も空けてある
というかそうしないとどうしようもないことになるって途中で気付いた 松本清張がある本を書くにあたって手持ちの本を探したが、多過ぎて書庫のどこにあるのか解らなくなって、慌てて神田の古本屋にその本を早く持って来てくれと懇願したそうだ
小倉の清張記念館に移築された書庫を見て、さもありなんと思ったよ >>230
Des le matin, la tete encore tournee contre le mur, et avant d’avoir vu,
au-dessus des grands rideaux de la fenetre, de quelle nuance etait la raie du jour,
je savais deja le temps qu’il faisait.
いくつかありますがスワン家の方へ、で話者が目覚めるとき、同じように光線・カーテン・窓・早朝(matin)という単語が使われています
舞台は冬のパリで、前巻のバルベックで幕を突き破って現れる黄金色の太陽はもはや存在しません
バルベックに初めてやってきたときの、ホテルでの目覚めも、季節が夏でありカーテンを透過する太陽光は話者を起こします。
grands rideauxを鈴木先生は分厚いカーテン、と訳しています
分厚い・紫のカーテンなのか、大きくて、でも上の方に隙間のあるカーテンなのか
1-2 パリ 冬
2-2 バルベック 夏の盛り
4-2 バルベック 夏の盛り〜秋
5-1 パリ 秋〜冬
もうひとつ、フランス語では天気を聞くのにquel temps fait-il?と聞きます。このtempsはもちろん「時間」と同じ言葉。
ここでも、頭を窓に向けずに(音や空気の湿り気などの触覚・聴覚で)どのようなtempsか知ることが出来た(半過去を用いて、反復・継続を表します)
視覚ではなく、触覚・聴覚によって「時間」の移り変わりを知る、これは後の方で自分で「こんな描写が何になる」と介入すること含めてそれなりに面白い >>237
自分もそう。何度も読み直す本でなければ価値がない・・・とか言っていた人いなかった?
個人の価値観の問題だけどね。
プルーストは仏文と翻訳を一部持っている。
Youtube の朗読も聞くけど・・・まだ学力不足。 読む前、買う時点で読み直すかどうかなんてわかるわけないだろ。 10巻読み終わったけど、プルーストの文章は回りくどいね。
訳文は読みやすいのでページは進むけど、読み返す気にはならない。
訳者あとがきは読み返すのだが。 知性と感性の類稀なる融合ともいうべき絶妙な文体を堪能しよう。
ドストエフスキー派の埴谷雄高も20世紀文学ではプルーストを推した。
人間以外の存在のありようを稠密に描写した得難い作家として。 >>218
この話、それなりに面倒くさいんだけれどするかね?
ジョゼフ・コンラッドという人がいて、この人がスコット・モンクリフの訳は原文よりも「好ましい」と言ったりしている
英語圏の受容とフランスの受容が微妙にずれていたこと
フランスでは1920年代になるまで、プルーストのある側面が見ない振りをされていて、イギリスではその側面が高評価を受けていたこと
どちらの国でも高い評価を与えられていて、でも別の理由で評価をされ、また別の理由で毀損されていたこと
吉田健一の時間論は仮想敵として単純化した「プルウスト」を槍玉に挙げていること(単純化、というのはプルウスト研究の達成を経たからいえるのだけど)
プルウストが当初英訳者として別の人間を希望していたこと、モンクリフの翻訳への細かい、しかも時として言いがかりに近い不満と正当な不満(ついでに本人に当てての感謝と評価)
ドストエフスキーがフランスにあっては受け入れるべきでない、と評価されていた時代にプルーストは作品を発表した
いやいやながら、ドストエフスキーでなくプルーストを承認しようというフランスの時代があったって言うのは今では奇妙にすら映るけれど
ドストエフスキーというかロシア文学がフランスに導入される切欠となった年に、プルーストが生まれたことの重要性 なんで、話者はシャリュルス男爵やヴァントゥイユ嬢のソドムやゴモラの
目撃者になれるのに、アルベルチーヌのゴモラには遭遇できないの? 次の「消え去ったアルベルチーヌ」、かつて読んだ井上訳では「逃げ去る女」が好きだ。
彼女に去られた主人公がヴェネチアに感傷旅行するくだりがいい。 >>243
回りくどく書いて、イメージを作り上げていくのがプルーストの手法だと思う。
最近は Youtube でスコットモンクリフ訳の朗読を聞いている。
(英語は仕事がら使っているので割と得意)
PC で眼を痛めそうなので耳で聞くと楽です。
もちろん全部聞き取れるワケではありませんが。 英文を見てみたけど、すっきりしていて読みやすいと思った。
Kindleで買うかな。Kindleの機能で単語を長押しすると
辞書が起動するので、英和辞典を引く手間省ける。